今鏡 第三「すべらぎの下」 第22章
大内わたり
今の院、後白河院の即位。近衛天皇の崩御を受けて二十九歳で即位し、鳥羽院の死後に起こった保元の乱に勝利する。記録所を置いて政治を整え、大内裏を再建して、后や女御たちが本来の殿舎に住む、昔ながらの宮中の姿がよみがえった。
- 1過過すぎたるぎたるぎたる方方かたののの事事ことははは遠遠とおきもきもきも近近ちかきもきもきも、、、見及見及みおよびびび聞聞きききき及及およぶぶぶ程程ほどののの事事こと申申もうしししはべりぬるはべりぬるはべりぬるををを、、、今今いまののの世世よののの事事ことははは、、、はゞかりはゞかりはばかり多多おおかるかるかる上上うえににに、、、誰誰たれかれかれかはははおぼつかなくおぼつかなくおぼつかなく覺覺おぼされむされむされむ。。。
- 2然然しかはははあれどもあれどもあれども、、、事事ことのつゞきなればのつゞきなればのつづきなれば、、、申申もうししし侍侍はべるになむるになむるになむ。。。ののの院院いんははは、、、鳥羽鳥羽とばノノノ院院いんののの第四第四だいしのみこのみこのみこ、、、御母御母おおんはは待賢門院待賢門院たいけんもんいん、、、大大だい治治じ二年二年にねんひのとのひのとのひのとの未未ひつじののの年年とし、、、生生うみみみ奉奉たてまつりりり給給たまへりしにやおはしますらむへりしにやおはしますらむえりしにやおわしますらむ。。。
- 3多多おおくのくのくの宮宮みやたちのたちのたちの御中御中おおんなかににに、、、天天あめののの下下した、、、傳傳つたへたもたせへたもたせえたもたせ給給たまふふう、、、いとやんごとなきいとやんごとなきいとやんごとなき御榮御榮おおんさかえなりえなりえなり。。。保保ほう延延の三年三年さんねん十二月十二月じゅうにがつ御御おんふみふみふみはじめにはじめにはじめに、、、式部式部しきぶノノノ大輔大輔たいふといひしといひしといいし博士博士はかせ、、、にににははは參參まいるとるとると、、、うけたまはりしにうけたまはりしにうけたまわりしに、、、上達部上達部かんだちめ殿上人殿上人てんじょうびとまゐりてまゐりてまいりて、、、詩詩しなどたてまつられけるなどたてまつられけるなどたてまつられける。。。
- 4近近ちかくくくはははさることもさることもさることも聞聞きこえこえこえ侍侍はべらぬにらぬにらぬに、、、このこのこの御書始御書始おおんふみはじめにしもにしもにしも、、、然侍然侍しかはべりけむりけむりけむ。。。よきよきよき例例れいにこそにこそにこそ、、、せられせられせられ侍侍はべらんずらめらんずらめらんずらめ。。。同同おなじじじ五年五年ごねん十二月十二月じゅうにがつ廿日廿日はつか、、、御元服御元服ごげんぷくせさせせさせせさせ給給たまひしひしいしははは、、、十三十三じゅうさんののの御年御年おおんとしにこそにこそにこそ、、、おはしましけめおはしましけめおわしましけめ。。。
- 5久壽二年久壽二年きゅうじゅにねん七月七月しちがつ廿五日廿五日にじゅうごにち位位くらいににに卽卽つかせたまふかせたまふかせたまう。。。御御おんとしとしとし廿廿にじゅう九九くにおはしましきにおはしましきにおわしましき。。。院院いんののの仰仰おおせごとにてせごとにてせごとにて、、、內大臣內大臣ないだいじんとてとてとて、、、德大寺德大寺とくだいじのおとゞおはせしのおとゞおはせしのおとどおわせし、、、具具ぐししし奉奉たてまつりてりてりて、、、まづまづまず殿殿どのにわたりにわたりにわたり給給たまふふう。。。
- 6夜夜よににに入入いりてりてりて、、、上達部上達部かんだちめ引引ひきつれてまゐりきつれてまゐりきつれてまいり給給たまひてひていて、、、近衞近衞こんえののの內裏內裏うちへへへ、、、渡渡わたらせおはしますらせおはしますらせおわします。。。十月十月じゅうがつ廿六日廿六日にじゅうろくにち御御おん卽卽つ位位くらいありてありてありて、、、東宮東宮とうぐうにたゝせにたゝせにたたせ給給たまふふう。。。大嘗會大嘗會だいじょうえなどなどなど有有ありてりてりて、、、年年としももも替替かえりぬればりぬればりぬれば、、、院院いんののの姫宮姫宮ひめみや東宮東宮とうぐうのののににに參參まいりりり給給たまふふう。。。
- 7高松高松たかまつノノノ院院いんととと申申もうすすす御事御事おおんことなりなりなり。。。前前さきののの齋院齋院さいいんとてとてとて今今いまののののおはしましゝのおはしましゝのおわしまししををを、、、御母御母おおんははにしたてまつらせにしたてまつらせにしたてまつらせ給給たまふとふとうと承承うけたまはりしけたまはりしけたまわりし。。。母母ははきさききさききさき美福門院美福門院びふくもんいんおはしませばおはしませばおわしませば、、、べちのべちのべちの御母御母おおんははなくてもなくてもなくても、、、おはしましぬべけれどおはしましぬべけれどおわしましぬべけれど、、、今今いますこしすこしすこし、、、ねんごろなるねんごろなるねんごろなる御心御心みこころにやにやにや侍侍はべりけむりけむりけむ。。。
- 8五月五月さつきののの末末すえににに故院故院こいんののの御惱御惱おおんなやみまさらせみまさらせみまさらせ給給たまひてひていて、、、七月七月しちがつにににうせさせうせさせうせさせ給給たまひしひしいし程程ほどににに、、、世世よののの中中なかにににさま〴〵さま〴〵さまざま申申もうすすす事事ことどもどもども出出いできてできてできて、、、物物もの騷騷さわがしくがしくがしく聞聞きこえしえしえしほどにほどにほどに、、、誠誠まこと事事こといできていできていできて、、、みかどのみかどのみかどの御方勝御方勝おおんかたかかせかせかせ給給たまひしかばひしかばいしかば、、、賞賞じょうどもどもども行行おこなはせはせわせ給給たまひきひきいき。。。
- 9其其そのののほどのほどのほどの事事こと、、、申申もうししし盡盡つくすべくもすべくもすべくも侍侍はべらぬらぬらぬ上上うえににに、、、みなみなみな人人ひと知知しらせらせらせ給給たまひたらんひたらんいたらん。。。世世よををを治治おさめさせめさせめさせ給給たまふふう事事こと、、、昔昔むかしににに耻耻はぢずぢずじず、、、とてとてとて後後のち三條三條さんじょうノノノ院院いんののの例例れいにてにてにて、、、かみかみかみははは左大將左大將さだいしょう公敎公敎きんのり、、、辨辨べん三人三人さんにん、、、寄人寄人よりゅうどなどいふものあまたなどいふものあまたなどいうものあまた置置おかれかれかれはべりてはべりてはべりて、、、世世よののの中中なかをををしたゝめさせしたゝめさせしたためさせ給給たまふふう。。。
- 10次次つぎののの年年としももも、、、にてにてにて、、、三月三月さんがつにぞにぞにぞ司召司召つかさめしなどせさせなどせさせなどせさせ給給たまふふう。。。十月十月じゅうがつににに大內大內おおうち造造つくりりり出出いだしてわたらせたまふだしてわたらせたまふだしてわたらせたまう。。。殿舍殿舍でんしゃどもどもども門々門々もんもんなどのなどのなどの額額がくははは、、、關白殿關白殿かんぱくどのかゝせかゝせかかせ給給たまふふう。。。
- 11宮造宮造みやづくりたるりたるりたる國國くにののの司司つかさなどなどなど七十七十しちじゅう二人二人ふたりとかとかとか、、、位位くらい給給たまはははりなどすりなどすりなどす。。。中頃中頃なかごろかばかりのまつりごとなきかばかりのまつりごとなきかばかりのまつりごとなきををを、、、にににひとたびひとたびひとたび澄澄すめるめるめる水水みずなるべしとぞなるべしとぞなるべしとぞ思思おもひあへるひあへるいあえる。。。
- 12上上うえははは、、、淸涼殿藤淸涼殿藤せいりょうでんふじつぼかけておはしますつぼかけておはしますつぼかけておわします。。。女房女房にょうぼう、、、弘徽殿弘徽殿こきでん、、、登華殿登華殿とうかでんなどにつぼねたびなどにつぼねたびなどにつぼねたび、、、皇后宮皇后宮こうごうぐうははは、、、弘徽殿弘徽殿こきでんにおはしますにおはしますにおわします。。。女房女房にょうぼうそれもそれもそれも、、、登華殿登華殿とうかでんのつゞきにのつゞきにのつづきに、、、つぼねしてつぼねしてつぼねして候候そうろうふふう。。。
- 13ははは、、、承香殿承香殿じょうきょうでんにおはしますにおはしますにおわします。。。そのそのその女房女房にょうぼう、、、麗景殿麗景殿れいけいでんにつぼねありにつぼねありにつぼねあり。。。內內うちのおとゞののおとゞののおとどの奉奉たてまつりたまへるりたまへるりたまえる女御女御にょうごははは、、、梅壺梅壺うめつぼにおはすにおはすにおわす。。。そのそのその女房女房にょうぼう、、、襲芳舍襲芳舍しほうしゃにつぼねにつぼねにつぼね給給たまはははりきりきりき。。。
- 14なるへしなるへしなるべし。。。東宮東宮とうぐうははは桐壺桐壺きりつぼにおはしますにおはしますにおわします。。。女房女房にょうぼうはははそのそのその北北きたノノノ舍舍しゃにつぼねしつゝにつぼねしつゝにつぼねしつつ候候そうろうふふう。。。東宮東宮とうぐうののの御息所御息所みやすんどころははは、、、梨壺梨壺なしつぼなればなればなれば、、、女房女房にょうぼうそのそのその北北きたにつぼねたまはりにつぼねたまはりにつぼねたまわり。。。
- 15關白殿關白殿かんぱくどのははは宣耀殿宣耀殿せんようでんををを御御おんとのゐどころとせさせとのゐどころとせさせとのいどころとせさせ給給たまへりへりえり。。。近近ちかききき世世よにににははは、、、にてのみにてのみにてのみ有有ありしかばりしかばりしかば、、、かやうのかやうのかようの御御おんすまひもなきにすまひもなきにすまいもなきに、、、いとなまめかしういとなまめかしういとなまめかしゅう、、、珍珍めずらかなるべしらかなるべしらかなるべし。。。
- 16弓矢弓矢ゆみやなどいふなどいふなどいう物物もの、、、あらあらあらはははににに持持もちたるものやちたるものやちたるものやははは有有ありしりしりし。。。物物ものににに入入いれかくしてぞれかくしてぞれかくしてぞ、、、大路大路おおじをもをもをもありきけるありきけるありきける。。。都都みやこ大路大路おおじをもをもをも、、、鏡鏡かがみののの如如ごとくみがきたてゝくみがきたてゝくみがきたてて、、、つゆきたなげなるつゆきたなげなるつゆきたなげなる所所ところもなかりけりもなかりけりもなかりけり。。。
- 17世世よののの季季すえともなくともなくともなく、、、かくかくかく治治おさまれるまれるまれる世世よののの中中なか、、、いとめでたかるべしいとめでたかるべしいとめでたかるべし。。。
現代語訳
過ぎ去った時代のことは、遠いことも近いことも、見聞きした限りのことを申し上げましたが、今の世のことは、はばかりが多い上に、誰が知らずにいらっしゃいましょう(皆ご存じでしょう)。そうではありますが、話の続きなので申し上げるのです。今の院(後白河)は、鳥羽院の第四皇子で、御母は待賢門院、大治二年丁未の年にお産みになったのでいらっしゃいましょう。多くの宮たちの中で、天下を伝え保たれるのは、まことに尊いお栄えです。保延三年十二月の御読書始に、式部大輔敦光という博士が御侍読として参ると承りましたが、公卿・殿上人が参って、詩などを奉られました。近ごろはそういうことも聞きませんのに、この御読書始にはそうであったのでしょう。よい先例とされることでしょう。同じ五年十二月二十日に御元服なさったのは、十三歳の御年でいらっしゃったでしょう。久寿二年七月二十四日に位におつきになります。御年二十九でいらっしゃいました。院(鳥羽)の仰せで、内大臣として徳大寺の大臣(実能)がいらして、お連れ申し上げて、まず高松殿にお移りになります。夜になって、公卿が連れ立って参られて、近衛殿の内裏へお移りになります。十月二十六日に御即位があって、(守仁親王が)東宮にお立ちになります。大嘗会などがあって、年も改まったので、院(鳥羽)の姫宮が東宮の女御として入内なさいます。高松院と申し上げる方のことです。前の斎院で今の上西門院でいらっしゃる方を、御母(准母)としてお立てになったと承りました。母后として美福門院がいらっしゃるので、別の御母がいなくてもよろしかったのですが、もう少し念入りにというお心でしたでしょうか。
五月の末に故院(鳥羽)のご病気が重くなられて、七月にお亡くなりになったころ、世の中にさまざまに取り沙汰することが起こって、物騒がしく聞こえていたところ、本当に言いようもない戦が起こって、帝のお味方がお勝ちになったので、褒賞を行われました。そのころのことは申し尽くせない上に、皆さんご存じでしょう。世をお治めになることは昔にも恥じず、記録所といって後三条院の先例にならい、長官は左大将公教、弁官三人、寄人などという者を多く置かれて、世の中をお治めになります。翌年も諒闇で、三月に司召などをなさいます。十月に大内裏を造り上げてお移りになります。殿舎や門々などの額は、関白殿(忠通)がお書きになります。宮を造営した国司など七十二人とか、位を賜ったりします。近ごろこれほどの政治はなかったので、千年に一度澄む(黄河の)水であろうと思い合いました。帝は清涼殿から藤壺にかけていらっしゃいます。女房は弘徽殿・登華殿などに局を賜り、皇后宮(統子)は弘徽殿にいらっしゃいます。その女房も登華殿の続きに局をして控えています。中宮(忻子)は承香殿にいらっしゃいます。その女房は麗景殿に局があります。内大臣(公教)が奉られた女御(琮子)は梅壺にいらっしゃいます。その女房は襲芳舎に局を賜りました。雷鳴壺のことでしょう。東宮は桐壺にいらっしゃいます。女房はその北舎に局をして控えています。東宮の御息所は梨壺なので、女房はその北に局を賜りました。関白殿は宣耀殿を御宿直所となさいました。近ごろは里内裏ばかりだったので、このようなお住まいもなかったのに、たいそう優美で珍しいことでありましょう。弓矢などという物を、むき出しに持っている者がいたでしょうか。物に入れて隠して大路をも歩きました。都大路も鏡のように磨き立てて、少しも汚らしい所もありませんでした。末世とも思えず、このように治まった世の中は、たいそうめでたいことでありましょう。
意訳
後白河天皇は、即位の見込みの薄い第四皇子だったが、近衛天皇の急死により二十九歳で即位した。語り手は「今の世の事ははばかり多かる」と断りつつ、話の続きとして語り始める。
保元の乱(1156)については、「誠にいひしらぬいくさの事いできて、みかどの御方勝かせ給ひしかば」と、わずか一文で済ませ、「みな人知らせ給ひたらん」と詳しくは語らない。今鏡の、戦乱を正面から描かない姿勢がよく表れている。
乱後、後白河天皇(実際には信西)は記録所を復活させ、大内裏を再建した。后妃・女御・東宮がそれぞれ本来の殿舎に局を構える様子は、長く里内裏が続いていた中での王朝の復興として、語り手に深い感慨を与えている。章題の「大内わたり」はここによる。
語釈・文法注
- 當時の院
- 後白河院(1127〜1192)。第七十七代天皇。名は雅仁。今鏡の成立時は院政を行っていた。
- 敦光
- 藤原敦光。第13章参照。
- 御侍讀
- 天皇や皇子に学問を講じる役。
- 高松殿
- 京の姉小路西洞院にあった邸宅。後白河天皇の即位の際の里内裏。
- 上西門院
- 統子内親王(1126〜1189)。鳥羽院と待賢門院の皇女で、後白河天皇の同母姉。准母として皇后となった。
- いくさの事
- 保元の乱(1156)。崇徳上皇・藤原頼長方と、後白河天皇・藤原忠通方とが戦い、天皇方が勝った。
- 記錄所
- 記録荘園券契所。荘園の証拠文書を審査する役所。後三条天皇が設置し、後白河天皇が保元元年(1156)に復活させた。
- 諒闇
- 天皇が父母の喪に服する期間。ここでは鳥羽院の喪。
- 千世にひとたび澄める水
- 「黄河千年に一たび清む」という中国の故事による。聖人が現れ、太平の世となるしるし。
- 中宮
- 藤原忻子(1134〜1209)。藤原公能の娘。後白河天皇の中宮。
- 女御
- 藤原琮子(1145〜1231)。藤原公教の娘。
- かんなりのつぼ
- 雷鳴壺。襲芳舎の別名。
- 里內裏
- 大内裏の外に設けた仮の内裏。
文法
- 誰れかはおぼつかなく覺されむ
- 反語。誰がはっきりしないとお思いになろうか(誰もがご存じだろう)。
- 勝かせ給ひしかば
- 「勝たせ」の誤植か。底本どおりに翻刻した。
- なるへし
- 底本は濁点を付けないが「なるべし」。
解説
保元の乱後の政治を実際に主導したのは、後白河天皇の乳母の夫である信西(藤原通憲)であった。今鏡は次の章で信西の功績を大きく取り上げている。
大内裏の再建(保元二年〈1157〉)は、信西の主導による大事業だった。今鏡が後宮の殿舎の割り当てを細かく記すのは、王朝の秩序が目に見える形で回復したことへの、語り手の喜びの表れであろう。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、110〜114頁(コマ70–72)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日