今鏡 第三「すべらぎの下」 第21章
虫の音
近衛天皇は晩年に目を病み、十七歳で崩御した。和歌にすぐれ、法華経二十八品の歌も詠んだ天皇の死を、近臣たちが歌で悼む。後半は母美福門院の生涯で、皇女たちとともに出家し、高野山に遺骨を納めさせた。
- 1此此このみかどのみかどのみかど御御おんみめもみめもみめも、、、御心御心みこころばへもいとなつかしくおはしましけるにばへもいとなつかしくおはしましけるにばえもいとなつかしくおわしましけるに、、、末末すえになりてになりてになりて、、、御目御目おおんめををを御覽御覽ごらんぜざりければぜざりければぜざりければ、、、かた〴〵のかた〴〵のかたがたの御祈御祈おおんいのりもりもりも御藥御藥おおんくすりももも、、、然然しかるべきにやるべきにやるべきにや、、、かひなくてかひなくてかいなくて、、、末末すえざまにざまにざまにははは、、、年年としのののはじめのはじめのはじめの行幸行幸ぎょうこうなどもなどもなども、、、せさせせさせせさせ給給たまはずなりにけりはずなりにけりわずなりにけり。。。
- 2攝政攝政せっしょう殿殿どのたぐひなくたぐひなくたぐいなく思思おもひたてまつらせひたてまつらせいたてまつらせ給給たまふふう。。。みかどもみかどもみかども、、、おろかならずおろかならずおろかならず、、、思思おもひかひかいかはははさせさせさせ給給たまひてひていて、、、殿殿どのののの、、、御弟御弟おおんおとうとにこめられさせにこめられさせにこめられさせ給給たまひてひていて、、、藤氏藤氏とうじのののなどもなどもなども、、、のかせのかせのかせ給給たまひたるひたるいたるををを、、、幼幼おさなききき御心御心みこころになげかせになげかせになげかせ給給たまふふう。。。
- 3殿殿どのもみかどのもみかどのもみかどの例例れいならぬならぬならぬ御事御事おおんことををを、、、なげかせなげかせなげかせ給給たまふふうほどにほどにほどに、、、十七十七じゅうしちにやおはしましけむにやおはしましけむにやおわしましけむ、、、初秋初秋はつあきののの末末すえににに、、、日日ひごろごろごろ例例れいならぬならぬならぬ事事ことおはしましておはしましておわしまして、、、かくれさせかくれさせかくれさせ給給たまひぬればひぬればいぬれば、、、世世よののの中中なかはやはやはやみにみにみに惑惑まどへるへるえる心地心地ここちしあへるなるべししあへるなるべししあえるなるべし。。。
- 4さりとてあるべきにあらねばさりとてあるべきにあらねばさりとてあるべきにあらねば、、、鳥羽鳥羽とばノノノ院院いんにににははは、、、次次つぎのみかどのみかどのみかど定定さだめさせめさせめさせ給給たまふにふにうに、、、誠誠まことにやにやにや侍侍はべりけむりけむりけむ。。。女院女院にょういんののの御事御事おおんことのいたはしさにやのいたはしさにやのいたわしさにや。。。姫君姫君ひめぎみををを帝帝みかどにやあるべきなどさへにやあるべきなどさへにやあるべきなどさえ計計はからはせらはせらわせ給給たまふふう。。。
- 5又又また仁和寺仁和寺にんなじのののをををなどなどなど定定さだめさせめさせめさせ給給たまひけれどひけれどいけれど理理ことわりなくてりなくてりなくて、、、ひとひとひと日日ひははは過過すぎてぎてぎて、、、世世よののの中中なかおぼしめしおぼしめしおぼしめし恨恨うらみたるみたるみたる御有樣御有樣おおんありさまなるべしなるべしなるべし。。。たゞおはしまさんだにをしかるべきたゞおはしまさんだにをしかるべきただおわしまさんだにおしかるべきををを、、、歌歌うたをもをもをも幼幼おさなくおはしますくおはしますくおわします程程ほどににに、、、すぐれてよませすぐれてよませすぐれてよませ給給たまひひい、、、法文法文ほうもんのかたものかたものかたも、、、然然しかるべくてやるべくてやるべくてや、、、おはしましけむおはしましけむおわしましけむ。。。
- 6心心こころにしめてにしめてにしめて、、、經經きょうなどなどなどをもをもをも訓訓くんによませによませによませ給給たまひてひていて、、、それにつけてもそれにつけてもそれにつけても、、、ののの御歌御歌おおんうたなどよませなどよませなどよませ給給たまふふう。。。おなじおなじおなじ歌歌うたととと申申もうせどもせどもせども、、、此此こののの比比ごろのののうちあるさまにもあらずうちあるさまにもあらずうちあるさまにもあらず、、、むかしのむかしのむかしの上手上手じょうずなどのやうになどのやうになどのように、、、よませたまひけるよませたまひけるよませたまいける、、、おほくよませおほくよませおおくよませ給給たまひけるひけるいける中中なかににに、、、世世よををを心心こころぼそくやぼそくやぼそくや、、、おぼしめしけむおぼしめしけむおぼしめしけむ。。。
- 7虫虫むしのねののねののねの弱弱よわるのみかるのみかるのみかははは過過すぐるぐるぐる秋秋あきををを惜惜おしむしむしむ我我わががが身身みぞまづぞまづぞまず消消きえぬべきえぬべきえぬべき」」」
- 8などよませなどよませなどよませ給給たまへりけるへりけるえりける、、、いとあはれにいとあはれにいとあわれに悲悲かなしくしくしく、、、又又また萩萩はぎなどいふことなどいふことなどいうことををを、、、かくしかくしかくし題題だいにてにてにて、、、
- 9つらからばきしべのつらからばきしべのつらからばきしべの松松まつののの波波なみををを痛痛いたみねにあらはれてみねにあらはれてみねにあらわれて泣泣なかむとぞかむとぞかむとぞ思思おもふふう」」」
- 10などなどなど多多おおくきゝくきゝくきき侍侍はべりしかどもりしかどもりしかども、、、おぼえおぼえおぼえ侍侍はべらずらずらず。。。位位くらいにおはしますことにおはしますことにおわしますこと、、、十四年十四年じゅうよねんなりきなりきなりき。。。
- 11御御おんわざのわざのわざの夜夜よ、、、むかしむかしむかし藏人藏人くろうどにてにてにて侍侍はべりけるりけるりける、、、おもひおもひおもい出出いでてよめるでてよめるでてよめる。。。
- 12思思おもひきやひきやいきや虫虫むしのねしげきのねしげきのねしげき淺茅生淺茅生あさじうににに君君きみををを見見みすてゝすてゝすてて歸歸かえるべしとるべしとるべしとははは
- 13殿殿どのののの御子御子みこののの、、、僧正僧正そうじょうととと聞聞きこえこえこえ給給たまふふう、、、みかどのみかどのみかどの植植うゑさせゑさせえさせ給給たまへりけるへりけるえりける菊菊きくををを見見み給給たまひてひていて、、、
- 14よはひよはひよわいをばをばをば君君きみにゆづらでにゆづらでにゆずらで白菊白菊しらぎくのののひとりおくれてひとりおくれてひとりおくれて露露つゆけかるらむけかるらむけかるらむ
- 15とよまれとよまれとよまれ侍侍はべりけるこそりけるこそりけるこそ、、、あはれにあはれにあわれに聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしかりしかりしか。。。備備び前前さきののの御御おんとてとてとて侍侍はべりけるがりけるがりけるが、、、みかどみかどみかど、、、おはしまさでおはしまさでおわしまさで後後のち、、、むかしむかしむかし思思おもひいでけるにひいでけるにいいでけるに、、、しのばしきしのばしきしのばしき事事こと、、、多多おおくくく覺覺おぼえければえければえければ、、、星星ほしあひのあひのあいの比比ごろ、、、土佐土佐とさががが、、、かのみかどのかのみかどのかのみかどの御事御事おおんことののの悲悲かなしみにたへでしみにたへでしみにたえで、、、かしらおろしてかしらおろしてかしらおろして、、、こもりゐこもりゐこもりい侍侍はべりけるもとにりけるもとにりけるもとに、、、いひつかはしけるいひつかはしけるいいつかわしける、、、
- 16天天あめののの川川がわほしあひのほしあひのほしあいの空空そらはははかはらねどなれしかはらねどなれしかわらねどなれし雲居雲居くもいののの秋秋あきぞぞぞ戀戀こいしきしきしき
- 17とよめりけるこそとよめりけるこそとよめりけるこそ、、、いとなさけいとなさけいとなさけ多多おおくくく聞聞きききき侍侍はべりしかりしかりしか。。。
- 18此此このみかどののみかどののみかどの御母御母おおんははははは、、、贈贈ぞう左大臣左大臣さだいじん長長なが實實さね中納言中納言ちゅうなごんのむすめのむすめのむすめ也也なり。。。得得え子子こ皇后宮皇后宮こうごうぐうときこえときこえときこえ給給たまふふう。。。ととと申申もうしきしきしき。。。このこのこの御有樣御有樣おおんありさま、、、さきにさきにさきに申申もうししし侍侍はべりぬりぬりぬ。。。
- 19且且かつははは近近ちかききき世世よののの事事ことなればなればなれば、、、誰誰たれもきかせれもきかせれもきかせ給給たまひけむひけむいけむ。。。されどもされどもされども事事ことのつゞきにのつゞきにのつづきに申申もうししし侍侍はべるになむるになむるになむ。。。猶猶なおあさましくおはしましゝあさましくおはしましゝあさましくおわしましし御御おんすぐせぞかしすぐせぞかしすぐせぞかし。。。
- 20御親御親おおんおやもおはせずなりにしかばもおはせずなりにしかばもおわせずなりにしかば、、、いかゞなりいかゞなりいかがなり給給たまはんずらむとはんずらむとわんずらむと見見みえたまひしにえたまひしにえたまいしに、、、しのびてしのびてしのびて參參まいりりり初初はじめめめ給給たまひてひていて、、、御子御子みこたちたちたち生生うみたてまつりみたてまつりみたてまつり給給たまひひい、、、女御女御にょうご、、、きさききさききさき、、、みかどのみかどのみかどの御母御母おおんははにおはしますのみにあらずにおはしますのみにあらずにおわしますのみにあらず、、、行行ゆくくく末末すえまでのまでのまでの御有樣御有樣おおんありさま申申もうすもおろかなりすもおろかなりすもおろかなり。。。
- 21始始はじめかやのめかやのめかやの院院いんやしなひやしなひやしない申申もうさせたまひしさせたまひしさせたまいしははは、、、子子こ內親王內親王ないしんのうととと聞聞きこえたまひしこえたまひしこえたまいし、、、うせさせうせさせうせさせ給給たまひにきひにきいにき。。。其其そのつぎののつぎののつぎの姫宮姫宮ひめみやははは內親王內親王ないしんのう、、、八條八條はちじょうノノノ院院いんととと申申もうすなるべしすなるべしすなるべし。。。
- 22院院いんにやがてにやがてにやがて養養やしなひひい申申もうさせさせさせ給給たまひてひていて、、、あさゆふのあさゆふのあさゆうの御御おんなぐさめなるべしなぐさめなるべしなぐさめなるべし。。。をさなくてをさなくておさなくて物物ものなどなどなどうつくしうおほせられてうつくしうおほせられてうつくしゅうおおせられて、、、「「「わかわかわか宮宮みやははは、、、東宮東宮とうぐうになりたりになりたりになりたり。。。われわれわれははは東宮東宮とうぐうのあねにのあねにのあねに成成なりたりりたりりたり」」」などなどなど、、、仰仰おおせられければせられければせられければ、、、院院いんははは「「「さるさるさる司司つかさやややはははあるべきあるべきあるべき」」」。。。
- 23などなどなど興興きょうじじじ申申もうさせさせさせ給給たまひけるなどぞひけるなどぞいけるなどぞ、、、聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしりしりし。。。このこのこの宮宮みや、、、保保ほう延延の三年三年さんねんひのとのひのとのひのとの巳巳みののの年年としににに生生うまれさせまれさせまれさせ給給たまひてひていて、、、保保ほう元元げん二年二年にねん六月六月ろくがつ御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまふふう。。。
- 24御御おんとしとしとし廿一廿一にじゅういちとぞとぞとぞ聞聞きこえさせこえさせこえさせ給給たまひしひしいし。。。應應おう保保ほう元年元年がんねん十二月十二月じゅうにがつににに、、、院號院號いんごうきこえさせきこえさせきこえさせ給給たまふふう。。。二條二條にじょうのみかどののみかどののみかどの御母御母おおんははとてとてとて、、、后后きさきにもたゝせにもたゝせにもたたせ給給たまはははねどもねどもねども、、、女院女院にょういんととと申申もうすなるべしすなるべしすなるべし。。。ののの、、、東宮東宮とうぐうよりよりより院院いんととと申申もうしゝやうなるべししゝやうなるべしししょうなるべし。。。
- 25近衞近衞こんえのみかどのみかどのみかど生生うまれさせまれさせまれさせ給給たまひてのちひてのちいてのち、、、永治元年永治元年えいじがんねん十一月十一月じゅういちがつにやにやにや侍侍はべりけむりけむりけむ。。。かのとのかのとのかのとの酉酉とりののの年年とし、、、又又また宮宮みや、、、六條六條ろくじょう殿殿どのにてにてにて生生うみたてまつりみたてまつりみたてまつり給給たまへりしへりしえりし、、、二條二條にじょうのみかどのみかどのみかど、、、東宮東宮とうぐうときこえさせときこえさせときこえさせ給給たまひしひしいし時時とき、、、保保ほう元元げん元年元年がんねんののの比比ごろ、、、御息所御息所みやすんどころととと聞聞きこえさせこえさせこえさせ給給たまひてひていて、、、みかどみかどみかど位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまひしかばひしかばいしかば、、、平治元年平治元年へいじがんねん十二月十二月じゅうにがつ廿六日廿六日にじゅうろくにち中宮中宮ちゅうぐうときこえさせときこえさせときこえさせ給給たまひしにひしにいしに、、、永永えい曆曆りやく元年元年がんねん八月八月はちがつ十九日十九日じゅうくにち、、、御御おんなやみとてなやみとてなやみとて、、、御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまふふう。。。
- 26御御おんとしとしとし廿廿にじゅうとぞきこえさせとぞきこえさせとぞきこえさせ給給たまひしひしいし。。。いといといと類類たぐひなくひなくひなく侍侍はべりきりきりき。。。應應おう保保ほう二年二年にねん二月二月にがつ十三日十三日じゅうさんにち、、、院號院號いんごうありてありてありて、、、高松高松たかまつノノノ院院いんととと申申もうすすす。。。このこのこの宮々宮々みやみやののの御母御母おおんはは、、、國母國母こくもにておはしましゝにておはしましゝにておわしましし程程ほどににに、、、近衞近衞こんえのみかどのみかどのみかど、、、かくれさせたまひてかくれさせたまひてかくれさせたまいて、、、歎歎なげかせかせかせ給給たまひしにひしにいしに、、、次次つぎののの年鳥羽年鳥羽としとばノノノ院院いんうせさせうせさせうせさせ給給たまひしひしいし時時ときははは、、、北北きたおもてにおもてにおもてに候候そうろうふとふとうと候候そうろうふふう、、、下﨟下﨟げろうどもかきたてゝどもかきたてゝどもかきたてて、、、院院いんのおはしまさゞらんにのおはしまさゞらんにのおわしまさざらんにははは、、、たしかにたしかにたしかに女院女院にょういんににに候候そうらへへえ。。。
- 27とてわたされとてわたされとてわたされ侍侍はべりけりりけりりけり。。。女院女院にょういんははは法皇法皇ほうおうののの御病御病おおんやまいひのむしろにひのむしろにひのむしろに、、、御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまへりきへりきえりき。。。のののひじりとかひじりとかひじりとか聞聞きこえしこえしこえしははは、、、御戒御戒おおんかいののの師師しときこえときこえときこえ侍侍はべりしりしりし。。。
- 28よろづおもほしすてたるよろづおもほしすてたるよろずおもおしすてたる御有樣御有樣おおんありさまにやあらむにやあらむにやあらむ。。。鳥羽鳥羽とばなどなどなどをもをもをも、、、よろづよろづよろず女院女院にょういんののの御御おんまゝとのみまゝとのみままとのみ、、、さたしおかせさたしおかせさたしおかせ給給たまへれどへれどえれど、、、後後のちののの世世よののの事事ことををを、、、おもほしおもほしおもおし掟掟おきてさせてさせてさせ給給たまふうへにふうへにううえに、、、心心こころかしこくかしこくかしこく何事何事なにごとにものがれさせにものがれさせにものがれさせ給給たまへりきへりきえりき。。。
- 29姫宮姫宮ひめみやたちたちたち、、、御母御母おおんははおはしましゝおはしましゝおわしましし折折おり、、、皆皆みな御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまひてしこそひてしこそいてしこそ、、、いとあはれにいとあはれにいとあわれに聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしかりしかりしか。。。むかしのむかしのむかしの佛佛ほとけののの、、、王子十六王子十六おうじじゅうろくののの沙彌沙彌しゃみなどのなどのなどの御有樣御有樣おおんありさまなるべしなるべしなるべし。。。
- 30なかにもなかにもなかにも、、、當時當時とうじのきさきののきさきののきさきの宮宮みやにてにてにて佛佛ほとけののの道道みちにいらせにいらせにいらせ給給たまふふう、、、世世よにたぐひなしにたぐひなしにたぐいなし。。。このこのこの世世よをををつらくおぼしめしとりてつらくおぼしめしとりてつらくおぼしめしとりて、、、わがわがわが御身御身おおんみもももひめひめひめ宮宮みやたちたちたちをもをもをもすゝめなしすゝめなしすすめなし奉奉たてまつりてりてりて、、、つとめさせつとめさせつとめさせ給給たまふふうほどにほどにほどに、、、わづらはせおはしますわづらはせおはしますわずらわせおわします御事御事おおんことありてありてありて、、、應應おう保保ほう元年元年がんねん十一月十一月じゅういちがつ廿三日廿三日にじゅうさんにちにかくれさせおはしましにきにかくれさせおはしましにきにかくれさせおわしましにき。。。
- 31紫紫むらさきののの雲雲くもたなびきてたなびきてたなびきて、、、ゐながらゐながらいながら、、、うせさせおはしにけるとぞうせさせおはしにけるとぞうせさせおわしにけるとぞ、、、うけたまはりしうけたまはりしうけたまわりし。。。かねてかねてかねて高野高野こうやののの御山御山みやまににに、、、しのびてしのびてしのびて、、、御堂御堂みどう建建たてさせてさせてさせ給給たまひてひていて、、、それにぞそれにぞそれにぞ御舍利御舍利おおんしゃりをばをばをば送送おくりりり參參まいらせらせらせ給給たまひけるとなむひけるとなむいけるとなむ。。。
- 32かのかのかの御御おんともにともにともにははは、、、さもあるべきさもあるべきさもあるべき人々人々ひとびと、、、おの〳〵おの〳〵おのおの御御おんさはりありてさはりありてさわりありて、、、贈贈ぞう左大臣左大臣さだいじんののの末末すえののの子子こ時通時通ときみちののの備後守備後守びんごのかみとかとかとか聞聞きこえしこえしこえし、、、後後のちにににははは法師法師ほうしになられたりけるにになられたりけるにになられたりけるに、、、年年としごろもごろもごろも契契ちぎりおかせりおかせりおかせ給給たまへりけるとてへりけるとてえりけるとて、、、そのそのその人人ひとばかりぞばかりぞばかりぞ、、、首首くびにかけにかけにかけ參參まいらせてらせてらせて、、、たゞたゞただ一人參一人參ひとりまいられければられければられければ、、、若狹守若狹守わかさのかみにてにてにて、、、申申もうしてしてして、、、むげにむげにむげに年年とし若若わかききき人人ひと、、、をさなくよりなれをさなくよりなれおさなくよりなれ仕仕つこうまつりてうまつりてうまつりて、、、御御おんなごりのなごりのなごりの忍忍しのびがたさにびがたさにびがたさに、、、事事ことにのぞみてにのぞみてにのぞみて、、、慕慕したひまゐりけるにひまゐりけるにいまいりけるに、、、御山御山みやまへへへいらせいらせいらせ給給たまふふう日日ひ、、、雪雪ゆきいたくふりければいたくふりければいたくうりければ、、、よみよみよみ侍侍はべりけるりけるりける。。。
- 33誰誰たれかれかれか又又またけふけふきょうのみゆきのみゆきのみゆきををを送送おくりおかむわれさへかくてりおかむわれさへかくてりおかむわれさえかくて思思おもひひい消消きえなばえなばえなば」」」
現代語訳
この帝は、お顔立ちもお気立てもたいそう慕わしくていらっしゃったのに、晩年になって目がお見えにならなかったので、さまざまの御祈祷も御薬も、そういう運命だったのでしょうか、効き目がなくて、末のころには年の初めの行幸などもなさらなくなりました。摂政殿(忠通)はこの上なくお慕い申し上げていらっしゃいます。帝もひとかたならずお心を通わせていらして、殿が御弟(頼長)に押し込められて、藤氏の長者なども退かされたのを、幼いお心にお嘆きになります。殿も帝の御病気をお嘆きになっていたところ、十七歳でいらっしゃったでしょうか、初秋の末に、数日来ご気分がすぐれなくて、お亡くなりになったので、世の中は闇に迷うような心地がしたことでしょう。そうかといってそのままにしておくわけにはいかないので、鳥羽院は次の帝をお定めになるのに、本当でしたでしょうか、女院(美福門院)のお気の毒さにでしょうか、姫君(暲子)を女帝にしようかなどとまでお考えになります。また仁和寺の若宮(守仁)をなどとお定めになりましたが、道理に合わなくて、一日は過ぎて、世の中を恨めしくお思いになっているご様子だったでしょう。ただ生きていらっしゃるだけでも惜しまれるはずなのに、和歌も幼くていらっしゃるうちからすぐれてお詠みになり、仏典の方面も、そういう運命でいらしたのでしょうか、深く心にかけて、経なども訓読でお読みになって、それにつけても法華経二十八品の歌などをお詠みになります。同じ歌と申しても、このごろのありふれたものではなく、昔の名人などのようにお詠みになった、たくさんお詠みになった中に、世を心細くお思いになったのでしょうか、
虫のねの弱るのみかは過ぐる秋を惜しむ我が身ぞまづ消えぬべき
などとお詠みになったのは、たいそうしみじみと悲しく、また「から萩」などということを隠し題にして、
つらからばきしべの松の波を痛みねにあらはれて泣かむとぞ思ふ
など多く聞きましたが、覚えておりません。位にいらっしゃったのは十四年でした。
御葬送の夜、実重という者が、昔蔵人であった人ですが、思い出して詠んだ歌、
思ひきや虫のねしげき淺茅生に君を見すてゝ歸るべしとは
殿の御子で大僧正と申し上げた方(覚忠)が、帝のお植えになった菊をご覧になって、
よはひをば君にゆづらで白菊のひとりおくれて露けかるらむ
とお詠みになったのは、しみじみと聞こえました。備前の御という女房がいて、帝がお亡くなりになった後、昔を思い出すと慕わしいことが多く思われたので、七夕のころ、内侍土佐が帝の御事の悲しみに堪えずに出家して籠もっていたところに、言い送った歌、
天の川ほしあひの空はかはらねどなれし雲居の秋ぞ戀しき
と詠んだのは、たいそう情け深いことと聞きました。
この帝の御母は、贈左大臣長実中納言の娘です。得子皇后宮と申し上げます。美福門院と申しました。このご様子は先に申しました。また近ごろのことですから、どなたもお聞きになったでしょう。けれども話の続きとして申し上げるのです。やはりあきれるほどのご宿運でいらっしゃいました。御父もお亡くなりになったので、どうなられることかと見えましたのに、ひそかに参り始めなさって、御子たちをお産みになり、女御・后・帝の御母でいらっしゃるだけでなく、将来までのご様子は言い尽くせません。はじめ高陽院が養育なさったのは、叡子内親王と申し上げた方で、お亡くなりになりました。その次の姫宮は暲子内親王で、八条院と申し上げる方でしょう。院(鳥羽)がそのまま養育なさって、朝夕のお慰めであったでしょう。幼くて、ものなどかわいらしくおっしゃって、「若宮は東宮になった。私は東宮の姉になった」などとおっしゃったので、院は「そんな官職があるものか」などとおもしろがられたなどと聞きました。この宮は保延三年丁巳の年にお生まれになって、保元二年六月に出家なさいます。御年二十一と申しました。応保元年十二月に院号を受けられます。二条天皇の御母(准母)として、后にもお立ちにならないけれども、女院と申し上げるのでしょう。小一条院が東宮から院と申したようなものでしょう。
近衛天皇がお生まれになった後、永治元年十一月でしたか、辛酉の年に、また姫宮(姝子)を六条殿でお産みになりましたが、二条天皇が東宮と申し上げていらした時、保元元年ごろ御息所と申し上げて、帝が位におつきになったので、平治元年十二月二十六日に中宮と申し上げたのに、永暦元年八月十九日、ご病気ということで出家なさいます。御年二十と申しました。たいそう比べるもののないことでした。応保二年二月十三日に院号があって、高松院と申し上げます。この宮々の御母(美福門院)が国母でいらっしゃったうちに、近衛天皇がお亡くなりになってお嘆きになっていたところ、翌年鳥羽院がお亡くなりになった時には、北面に仕えていた下臈たちを集めて、「院がいなくなったら、必ず女院にお仕えせよ」と言ってお渡しになりました。女院は法皇の御病床で出家なさいました。三滝の聖とか申した方(観空)が御戒の師であったと聞きました。万事をお捨てになったご様子でありましょうか。鳥羽殿などをも、万事女院の御意のままにと取り決めておかれたけれども、後世のことをお定めになった上に、賢明にも何事からも身をお引きになりました。
姫宮たちは、御母がいらした時に皆出家なさったのは、たいそうしみじみと聞こえました。昔の仏(大通智勝仏)の八人の王子、十六人の沙弥などのご様子でありましょう。中でも、当時の后の宮(高松院)で仏道にお入りになるのは、世に例のないことです。この世をつらいと悟られて、ご自身も姫宮たちをもお勧めになって勤行なさっていたところ、ご病気になって、応保元年十一月二十三日にお亡くなりになりました。紫の雲がたなびいて、座ったままお亡くなりになったと承りました。前もって高野山にひそかに御堂を建てさせて、そこに御遺骨を送り申し上げなさったということです。そのお供には、しかるべき人々はそれぞれ差し障りがあって、贈左大臣(長実)の末子の時通の備後守とか申した人で、後に法師になられた人に、長年約束しておかれたということで、その人だけが首に掛け申し上げて、ただ一人参られたので、若狭守で隆信と申して、ひどく年若い人が、幼い時から慣れお仕えして、お名残の忍びがたさに、その場になってお慕いして参ったところ、高野山にお入りになる日、雪がひどく降ったので、詠んだ歌、
誰れか又けふのみゆきを送りおかむわれさへかくて思ひ消えなば
意訳
近衛天皇は眼病に苦しみ、久寿二年(1155)七月に十七歳で崩御した。忠通と頼長の対立の中で、天皇は忠通を慕い、頼長に氏長者を奪われた忠通に同情したという。天皇の死後、鳥羽院は皇位継承に迷い、美福門院の娘暲子内親王を女帝にする案まで出たが、結局、後白河天皇が即位する。
近衛天皇は若くして和歌にすぐれ、法華経二十八品歌も詠んだ。「虫のねの」の歌は、弱っていく虫の声よりも先に自分が消えてしまうだろうと、死を予感するような歌で、章題の「虫の音」はこの歌による。崩御後、近臣たちの哀傷歌が次々に引かれる。
後半は美福門院の生涯。出自は高くなかったが、近衛天皇の母、八条院・高松院の母として権勢をふるった。暲子内親王の「われは東宮の姉に成りたり」という幼い言葉に鳥羽院が興じた話は、ほほえましい一場面である。女院は娘たちとともに出家し、遺言で遺骨を高野山に納めさせた。雪の日に遺骨を送る藤原隆信の歌が、章を締めくくる。
語釈・文法注
- 藤氏の長者
- 藤原氏一門の長。久安六年(1150)、忠実は忠通から氏長者を取り上げて頼長に与えた。
- 姫君を女帝に
- 暲子内親王を女帝に立てる案。実現しなかった。
- 仁和寺の若宮
- 守仁親王。のちの二条天皇。後白河天皇の第一皇子で、仁和寺で養育されていた。
- 二十八品の御歌
- 法華経二十八品の各品の趣旨を詠んだ和歌。
- から萩
- 「から萩」を隠し題とする。「つらからばきしべ」の「から」と「萩」の「は(ぎ)」に隠れているとする説があるが、未詳。
- さねしげ
- 藤原実重。伝未詳。
- 大僧正
- 覚忠(1118〜1177)。忠通の子。天台座主。
- 內侍土佐
- 近衛天皇に仕えた女房。
- 美福門院
- 藤原得子。
- 叡子內親王
- 鳥羽院の皇女。高陽院の養女。
- 暲子內親王
- 八条院(1137〜1211)。鳥羽院と美福門院の皇女。莫大な所領を伝領した。
- 小一條院
- 敦明親王。東宮を辞して院号を受けた例。第2章参照。
- ひめ宮
- 姝子内親王(1141〜1176)。高松院。二条天皇の中宮。
- 三瀧のひじり
- 観空。三滝上人。
- やたりの王子十六の沙彌
- 法華経化城喩品に説かれる、大通智勝仏の十六人の王子が出家して沙弥となった話。「やたり」は八人。
- たかのぶ
- 藤原隆信(1142〜1205)。歌人・画家。似絵の名手。
文法
- ひと日は過ぎて
- 一日はそのまま過ぎて。
- うせさせおはしにける
- 「うせさせおはしましにける」の脱字か。底本どおりに翻刻した。
和歌
虫のねの弱るのみかは過ぐる秋を惜しむ我が身ぞまづ消えぬべき
- 詠者
- 近衛天皇
- 状況
- 世を心細く思っていたころ詠んだ歌。
修辞
- 反語
- 「弱るのみかは」で、虫の声が弱るだけではない、と言い、自分の命がまず消えるだろうと続ける。
つらからばきしべの松の波を痛みねにあらはれて泣かむとぞ思ふ
- 詠者
- 近衛天皇
- 状況
- 「から萩」を隠し題にした歌。
修辞
- 掛詞
- 「ね」に松の「根」と泣く「音」をかける。
思ひきや虫のねしげき淺茅生に君を見すてゝ歸るべしとは
- 詠者
- 藤原実重
- 状況
- 近衛天皇の葬送の夜に詠んだ哀傷歌。
修辞
- 反語
- 「思ひきや」は、思っただろうか、いや思いもしなかった、の意。
よはひをば君にゆづらで白菊のひとりおくれて露けかるらむ
- 詠者
- 覚忠
- 状況
- 近衛天皇の植えた菊を見て詠んだ歌。
修辞
- 擬人法
- 長寿の象徴である菊が、その齢を帝に譲らずに一人残って露(涙)に濡れている、と詠む。
天の川ほしあひの空はかはらねどなれし雲居の秋ぞ戀しき
- 詠者
- 備前の御
- 状況
- 近衛天皇の崩御後の七夕に、出家した内侍土佐に贈った歌。
修辞
- 掛詞
- 「雲居」に空と宮中をかける。
誰れか又けふのみゆきを送りおかむわれさへかくて思ひ消えなば
- 詠者
- 藤原隆信
- 状況
- 美福門院の遺骨を高野山に送る日、雪が降ったので詠んだ歌。
修辞
- 掛詞
- 「みゆき」に「御幸」と「深雪」をかける。
- 縁語
- 「みゆき(深雪)」と「消え」。
解説
近衛天皇の崩御は、保元の乱の直接の引き金となった。皇位は崇徳院の皇子重仁親王ではなく後白河天皇に渡り、崇徳院の不満が高まった。今鏡はこの章で、そうした政治の動きを「世の中おぼしめし恨みたる御有様」と短く記すにとどめている。
美福門院の遺骨を高野山に納めたことは、女人禁制の高野山に女性の遺骨を納めた例として注目される。『今鏡』は、遺骨を首に掛けて山に登った時通と、見送った隆信の姿を印象深く描いている。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、103〜110頁(コマ66–70)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日