古典ライブラリー

今鏡 第二「すべらぎの中」 第19章

八重の潮路

鳥羽院の寵愛を受けた美福門院の産んだ近衛天皇に、崇徳天皇は位を譲らされる。近衛天皇が崩じ、後白河天皇が即位したのち鳥羽院が没すると、保元の乱が起こり、崇徳院は讃岐に流されて九年後にその地で崩じた。最後に母待賢門院の生涯が語られる。

  1. 1もとのもとのもとのふたところもふたところもふたところも、、、かた〴〵にかた〴〵にかたがたに輕かる輕かるかるからぬさまにおはしますにからぬさまにおはしますにからぬさまにおわしますに、、、女院にようゐん女院にようゐんにょういんののの時とき時ときときめかせめかせめかせ給たま給たまたまひてひていて、、、近衞こんゑ近衞こんゑこんえのみかどのみかどのみかど生う生ううみたてまつらせみたてまつらせみたてまつらせ給たま給たまたまへるへるえる、、、東宮とうぐう東宮とうぐうとうぐうににに立た立たたててて奉たてまつ奉たてまつたてまつりてりてりて、、、位くらゐ位くらゐくらいゆづりたてまつらせたまふゆづりたてまつらせたまふゆずりたてまつらせたまう。。。
  2. 2そのそのその日ひ日ひひ辰たつ辰たつたつののの時とき時ときときよりよりより、、、上達部かんだちめ上達部かんだちめかんだちめ、、、さま〴〵のさま〴〵のさまざまのつかさ〴〵つかさ〴〵つかさづかさ參まゐ參まゐまいりりり集あつま集あつまあつまるにるにるに、、、內うち內うちうちよりよりより院ゐん院ゐんいんにににたび〳〵たび〳〵たびたび御使おほんつかひ御使おほんつかひおおんつかい藏人くらうど藏人くらうどくろうどののの中務なかつかさ中務なかつかさなかつかさ少輔せう少輔せうしょうとかいふとかいふとかいう人ひと人ひとひと、、、かはる〴〵かはる〴〵かわるがわる參まゐ參まゐまいりりり、、、又また又またまた六位ろくゐ六位ろくゐろくいののの藏人くらうど藏人くらうどくろうど、、、御文おほんふみ御文おほんふみおおんふみさゝげつゝさゝげつゝささげつつ參まゐ參まゐまいるるる程ほど程ほどほどににに、、、日ひ日ひひくれがたにぞくれがたにぞくれがたにぞなどなどなど、、、東宮とうぐう東宮とうぐうとうぐうのののへへへ、、、上達部かんだちめ上達部かんだちめかんだちめ引ひ引ひひきつゞきてわたりきつゞきてわたりきつづきてわたり給たま給たまたまひけるひけるいける。。。
  3. 3みかどのみかどのみかどの御養おほんやしな御養おほんやしなおおんやしなひひい子こ子ここ、、、例れい例れいれいなきなきなき事こと事ことこととてとてとて、、、とぞとぞとぞにににはははのせられのせられのせられ侍はべ侍はべはべりけるりけるりける。。。そのそのその御おん御おんおんさだにさだにさだに、、、けふけふきょう延の延ののぶべしなどぶべしなどぶべしなど內うち內うちうちよりよりより申まう申まうもうさせさせさせ給たま給たまたまひけれどひけれどいけれど事こと事ことこと始はじ始はじはじまりてまりてまりて、、、いかでかとてなんそのいかでかとてなんそのいかでかとてなんその日ひ日ひひ侍はべ侍はべはべりけるりけるりける。。。
  4. 4とぞとぞとぞ聞き聞ききこえこえこえ侍はべ侍はべはべりしりしりし。。。今いま今いまいまのののうちにうちにうちにははは、、、職事しきじ職事しきじしきじ殿上人てんじやうびと殿上人てんじやうびとてんじょうびとなどなどなど仰おほ仰おほおおせせせ下くだ下くだくだされされされ、、、あるべきことどもありてあるべきことどもありてあるべきことどもありて、、、新院しんゐん新院しんゐんしんいんははは九日ここのか九日ここのかここのかにぞにぞにぞ三條さんでう三條さんでうさんじょう西にし西にしにしノノノ洞院とうゐん洞院とうゐんとういんへへへわたらせわたらせわたらせ給たま給たまたまふふう。。。太上天皇だいじやうてんわう太上天皇だいじやうてんわうだいじょうてんのうののの御尊號ごそんがう御尊號ごそんがうごそんごうたてまつらせたてまつらせたてまつらせ給たま給たまたまふふう。。。
  5. 5かくてかくてかくて年とし年としとしへさせへさせへさせ給たま給たまたまふふうほどにほどにほどに、、、近衞こんゑ近衞こんゑこんえのみかどのみかどのみかど、、、かくれさせかくれさせかくれさせ給たま給たまたまひぬればひぬればいぬれば、、、今いま今いまいまのののノノノ院ゐん院ゐんいんののの、、、今いま今いまいま宮みや宮みやみやとておはしますとておはしますとておわします、、、位くらゐ位くらゐくらいにつかせにつかせにつかせ給たま給たまたまひにきひにきいにき。。。さるさるさるほどにほどにほどに、、、鳥羽とば鳥羽とばとばノノノ院御ゐんおほん院御ゐんおほんいんおおんこゝちこゝちここち重おも重おもおもらせらせらせ給たま給たまたまひてひていて、、、七月しちぐわつ七月しちぐわつしちがつ二日ふつか二日ふつかふつかうせさせうせさせうせさせ給たま給たまたまひぬればひぬればいぬれば、、、みかどのみかどのみかどの御代みよ御代みよみよにてにてにて定さだ定さださだまりぬるまりぬるまりぬるををを、、、院ゐん院ゐんいんのおはしましゝのおはしましゝのおわしましし折をり折をりおりよりよりより、、、きこゆるきこゆるきこゆる事こと事ことことどもありてどもありてどもありて、、、御垣みかき御垣みかきみかきのののうちうちうち、、、きびしくきびしくきびしく固かた固かたかためられけるにめられけるにめられけるに、、、のみかどののみかどののみかどの御時おほんとき御時おほんときおおんとき、、、兄あに兄あにあにののの院ゐん院ゐんいんととと爭あらそ爭あらそあらそはせはせわせ給たま給たまたまひけるやうなるひけるやうなるいけるようなる事こと事ことこといできていできていできて、、、新院しんゐん新院しんゐんしんいん御おん御おんおんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給たま給たまたまひてひていて、、、御おん御おんおんおとゝのおとゝのおととのののの宮みや宮みやみやにおはしましければにおはしましければにおわしましければ、、、しばししばししばしはははさやうにさやうにさように聞きこ聞きこきこえしえしえし程ほど程ほどほどににに、、、ののの汐路しほぢ汐路しほぢしおじをををわけてわけてわけて、、、遠とほ遠とほとおくおはしましてくおはしましてくおわしまして、、、上達部かんだちめ上達部かんだちめかんだちめ殿上人てんじやうびと殿上人てんじやうびとてんじょうびとののの、、、ひとりひとりひとり參まゐ參まゐまいるもなくるもなくるもなく、、、ノノノ宮みや宮みやみやののの御母おほんはは御母おほんははおおんははののの兵衞ひやうゑ兵衞ひやうゑひょうえノノノ佐すけ佐すけすけときこえときこえときこえ給たま給たまたまひしひしいし、、、さらぬさらぬさらぬ女房にようばう女房にようばうにょうぼう、、、ひとひとひとふたりふたりふたりばかりにてばかりにてばかりにて、、、男をとこ男をとこおとこもなきもなきもなき御おん御おんおんたびずみもたびずみもたびずみも、、、いかにいかにいかに心こころ心こころこころぼそくぼそくぼそく朝夕あさゆふ朝夕あさゆふあさゆうにおぼしめしけむにおぼしめしけむにおぼしめしけむ。。。
  6. 6親した親したしたしくめしつかひししくめしつかひししくめしつかいし人ひと人ひとひとどもどもども皆みな皆みなみなうら〳〵にうら〳〵にうらうらに都みやこ都みやこみやこををを別わか別わかわかれてれてれて、、、おのづからとゞまれるもおのづからとゞまれるもおのずからとどまれるも、、、世よ世よよののの怖おそ怖おそおそろしさにろしさにろしさに、、、あからさまにもあからさまにもあからさまにも、、、參まゐ參まゐまいることだにもなかるべしることだにもなかるべしることだにもなかるべし。。。
  7. 7皇嘉門院くわうかもんゐん皇嘉門院くわうかもんゐんこうかもんいんよりもよりもよりも、、、ののの宮みや宮みやみやよりもよりもよりも、、、しのびたるしのびたるしのびたる御おん御おんおんとぶらひなどばかりやありけむとぶらひなどばかりやありけむとぶらいなどばかりやありけむ。。。たとふるたとふるたとうる方かた方かたかたなきなきなき御おん御おんおんすまひなりすまひなりすまいなり。。。あさましきあさましきあさましき鄙ひな鄙ひなひなのあたりにのあたりにのあたりに、、、九年くねん九年くねんくねんばかりおはしましてばかりおはしましてばかりおわしまして、、、憂う憂ううきよのあまりにやきよのあまりにやきよのあまりにや、、、御病おほんやまひ御病おほんやまひおおんやまいももも年とし年としとしにそへてにそへてにそえて重おも重おもおもらせらせらせ給たま給たまたまひければひければいければ、、、都みやこ都みやこみやこへへへかへらせかへらせかえらせ給たま給たまたまふふう事こと事ことこともなくてもなくてもなくて、、、秋あき秋あきあき八月はちぐわつ八月はちぐわつはちがつ廿六日にじふろくにち廿六日にじふろくにちにじゅうろくにちにかのにかのにかの國くに國くにくににてにてにてうせさせうせさせうせさせ給たま給たまたまひけりとなむひけりとなむいけりとなむ。。。
  8. 8のののひじりといひてひじりといひてひじりといいて、、、かのかのかの國くに國くにくにににに流なが流ながながされたるされたるされたる阿闍梨あざり阿闍梨あざりあざりとてとてとて、、、昔むかし昔むかしむかしありけるがありけるがありけるが、、、このこのこの院ゐん院ゐんいんににに生う生ううまれさせまれさせまれさせ給たま給たまたまへるとぞへるとぞえるとぞ、、、人ひと人ひとひとののの夢ゆめ夢ゆめゆめににに見み見みみえたりけるえたりけるえたりける。。。そのそのその墓はか墓はかはかのかたはらにのかたはらにのかたわらに、、、よきよきよき方かた方かたかたにあたりたりければとてぞおはしますなるにあたりたりければとてぞおはしますなるにあたりたりければとてぞおわしますなる。。。
  9. 9八重やへ八重やへやえののの汐路しほぢ汐路しほぢしおじをををかきかきかき分わ分わわけてけてけて、、、はる〴〵とおはしましけむはる〴〵とおはしましけむはるばるとおわしましけむ、、、いといといと悲かな悲かなかなしくしくしく、、、こゝちよきだにこゝちよきだにここちよきだに、、、あはれなるべきあはれなるべきあわれなるべき道みち道みちみちををを、、、人ひと人ひとひともなくていかばかりのもなくていかばかりのもなくていかばかりの御おん御おんおんこゝちせさせこゝちせさせここちせさせ給たま給たまたまひけむひけむいけむ。。。
  10. 10このみかどのこのみかどのこのみかどの御母おほんはは御母おほんははおおんははぎさきぎさきぎさき、、、十九じふく十九じふくじゅうくととと申まう申まうもうしゝしゝしし御年おほんとし御年おほんとしおおんとし此こ此ここののの帝みかど帝みかどみかどをををうみたてまつらせうみたてまつらせうみたてまつらせ給たま給たまたまひてひていて、、、御子みこ御子みこみこ位くらゐ位くらゐくらいにつかせにつかせにつかせ給たま給たまたまひてのちひてのちいてのち、、、廿三にじふさん廿三にじふさんにじゅうさんののの御年おほんとし御年おほんとしおおんとし后きさき后きさききさきののの位くらゐ位くらゐくらいをををさらせさらせさらせ給たま給たまたまひてひていて、、、待賢門院たいけんもんゐん待賢門院たいけんもんゐんたいけんもんいんととと申まう申まうもうすすす。。。
  11. 11同おな同おなおなじじじ國母こくも國母こくもこくもととと申まう申まうもうせどせどせど、、、白河しらかは白河しらかはしらかわノノノ院ゐん院ゐんいんののの御おん御おんおんむすめとてむすめとてむすめとて養やしな養やしなやしなひひい申まう申まうもうさせさせさせ給たま給たまたまひければひければいければ、、、ならびなくならびなくならびなく榮さか榮さかさかえさせえさせえさせ給たま給たまたまひきひきいき。。。ましてましてまして院號ゐんがう院號ゐんがういんごうはははじめなどじめなどじめなどははは、、、いかばかりかいかばかりかいかばかりか、、、もてなしもてなしもてなし聞きこ聞きこきこえたまひしえたまひしえたまいし。。。
  12. 12多おほ多おほおおくのくのくの御子みこ御子みこみこうみたてまつらせうみたてまつらせうみたてまつらせ給たま給たまたまひひい、、、今いま今いまいまののの一ひと一ひとひとノノノ院ゐん院ゐんいんののの御母おほんはは御母おほんははおおんははにおはしませばにおはしませばにおわしませば、、、いとやんごとなくおはしますいとやんごとなくおはしますいとやんごとなくおわします。。。仁和寺にんわじ仁和寺にんわじにんなじににに御堂みだう御堂みだうみどうつくらせつくらせつくらせ給たま給たまたまひひい、、、こがねのこがねのこがねの一切經いつさいきやう一切經いつさいきやういっさいきょうなどかゝせなどかゝせなどかかせ給たま給たまたまひてひていて、、、康やす康やすやす治ぢ治ぢじ二年にねん二年にねんにねん御おん御おんおんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給たま給たまたまふふう。。。
  13. 13御名みな御名みなみなはははとつかせとつかせとつかせ給たま給たまたまふとぞふとぞうとぞ。。。久ひさ久ひさひさ安やす安やすやす元年ぐわんねん元年ぐわんねんがんねん八月はちぐわつ八月はちぐわつはちがつ廿二日にじふににち廿二日にじふににちにじゅうににち、、、かくれさせかくれさせかくれさせ給たま給たまたまひにきひにきいにき。。。又また又またまたのとしののとしののとしの正月しやうぐわつ正月しやうぐわつしょうがつににに、、、かのかのかの院ゐん院ゐんいんののの女房にようばう女房にようばうにょうぼうののの中なか中なかなかよりよりより、、、高倉たかくら高倉たかくらたかくらのののうちのおとゞのもとうちのおとゞのもとうちのおとどのもとへへへ、、、
  14. 14みなみなみな人ひと人ひとひとはははけふけふきょうのみゆきといそぎつゝのみゆきといそぎつゝのみゆきといそぎつつ消き消ききえにしえにしえにし跡あと跡あとあとはははとふとふとう人ひと人ひとひともなしもなしもなし
  15. 15顯仲あきなか顯仲あきなかあきなかののの伯はく伯はくはくのむすめのむすめのむすめ、、、ののの君きみ君きみきみののの歌うた歌うたうたとぞきこえとぞきこえとぞきこえ侍はべ侍はべはべりしりしりし。。。このこのこの女院にようゐん女院にようゐんにょういんののの御母おほんはは御母おほんははおおんははははは、、、但馬守隆方たぢまのかみたかかた但馬守隆方たぢまのかみたかかたたじまのかみたかかたののの辨べん辨べんべんののの女をんな女をんなおんななりなりなり。。。從二位じゆにゐ從二位じゆにゐじゅにいとてとてとて、、、ならびなくならびなくならびなく。。。世よ世よよにあひたまへりしにあひたまへりしにあいたまえりし人ひと人ひとひとにおはすめりにおはすめりにおわすめり。。。

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

もとの女院お二方(待賢門院・高陽院)も、それぞれ重々しくいらっしゃるのに、今の女院(美福門院)が時めいていらして、お産みになった近衛天皇を東宮にお立てして、(崇徳天皇は)位をお譲りになります。その日、辰の刻から、公卿やさまざまの役人たちが参り集まるところに、内裏から院へたびたび御使の蔵人で中務少輔とかいう人が、代わる代わる参り、また六位の蔵人が御文を捧げ持って参るうちに、日暮れ方に神璽・宝剣などを、東宮の御所昭陽舎へ、公卿たちが引き続いてお移しなさいました。帝の御養子なのに、先例がないこととして、「皇太弟」と宣命には載せられました。その御沙汰でさえ、今日は延期すべきだなどと内裏から申し上げなさったけれども、事が始まってしまって、どうしてそうできようかということで、その日行われたと聞きました。今の内裏(近衛)では、職事や殿上人などが仰せ下され、しかるべき事どもがあって、新院は九日に三条西洞院へお移りになります。太上天皇の御尊号を奉られます。

こうして年がたつうちに、近衛天皇がお亡くなりになったので、今の一院(後白河)で今宮と申し上げていた方が、位におつきになりました。そうするうちに、鳥羽院の御病気が重くなられて、七月二日にお亡くなりになったので、帝の御代で定まっていたのに、院が生きていらした時から、うわさされる事どもがあって、宮中を厳しく固められていたところ、嵯峨天皇の御時に兄の院(平城上皇)と争われたような事が起きて、新院は出家なさって、御弟の仁和寺の宮(覚性法親王)のもとにいらっしゃったので、しばらくはそのように聞こえていたうちに、八重の潮路を分けて遠くへおいでになって、公卿や殿上人は一人も参る者がなく、一宮(重仁親王)の御母の兵衛佐と申し上げた方と、そのほかの女房一、二人ほどで、男もいない御旅住まいも、どれほど心細く朝夕お思いになったことでしょう。親しく召し使っていた人々も皆、あちこちに都を離れて、たまたま残っている者も世の恐ろしさに、ちょっと参ることさえなかったでしょう。皇嘉門院からも、仁和寺の宮からも、ひそかなお見舞いなどばかりがあったでしょうか。たとえようもないお住まいです。あきれるほどの田舎に九年ばかりいらっしゃって、つらい世のあまりにか、御病気も年とともに重くなられたので、都へお帰りになることもなく、秋八月二十六日にその国でお亡くなりになったということです。白峯の聖といって、その国に流された阿闍梨が昔いたのが、この院に生まれ変わられたのだと、人の夢に見えました。その墓のかたわらが、よい方角にあたっていたということで、そこにいらっしゃるそうです。八重の潮路をかき分けて、はるばるとおいでになったのは、たいそう悲しく、気分のよい時でさえしみじみとするはずの道を、供の人もなくて、どれほどのお気持ちでいらしたことでしょう。

この帝の御母后(待賢門院)は、十九歳と申した御年にこの帝をお産みになって、御子が位におつきになった後、二十三歳の御年に后の位を退かれて、待賢門院と申し上げます。同じ国母と申しても、白河院の御娘として養われていらしたので、並ぶ者もなく栄えなさいました。まして院号の初めなどは、どれほど大切にお扱い申し上げたことでしょう。多くの御子をお産みになり、今の一院(後白河)の御母でいらっしゃるので、たいそう尊くていらっしゃいます。仁和寺に御堂(法金剛院)をお造りになり、金泥の一切経などをお書かせになって、康治二年に出家なさいます。御法名は真如院とお付けになったとか。久安元年八月二十二日にお亡くなりになりました。翌年の正月に、その院の女房の中から、高倉の内大臣(公教)のもとへ、

みな人はけふのみゆきといそぎつゝ消えにし跡はとふ人もなし

顕仲の伯の娘、堀河の君の歌と聞きました。この女院の御母は、但馬守隆方の弁の娘です。従二位光子といって、並ぶ者もなく、世に時めかれた方でいらっしゃるようです。

意訳

永治元年(1141)、鳥羽院は寵愛する美福門院(藤原得子)の産んだ三歳の近衛天皇を即位させ、崇徳天皇を退位させた。近衛天皇は崇徳の養子とされていたのに、宣命に「皇太弟」と記されたため、崇徳は院政を行う資格(天皇の父であること)を失った。この一件が、のちの保元の乱の遠因となる。

近衛天皇の崩御後、即位したのは崇徳の同母弟の後白河天皇だった。鳥羽院の死後、崇徳院は保元の乱を起こして敗れ、讃岐に流された。語り手は乱の経過を「嵯峨のみかどの御時、兄の院と争はせ給ひけるやうなる事」と、薬子の変になぞらえて控えめに語り、むしろ配流先の讃岐での孤独な暮らしに筆を費やしている。章題の「八重の潮路」は、讃岐へ渡る海路による。

最後に、崇徳・後白河の母待賢門院の生涯が語られる。白河院の養女として栄華をきわめたが、晩年は美福門院に寵を奪われ、出家して法金剛院に住んだ。死後、新年の行幸に人々がにぎわう中、女院の跡を訪れる人もないと嘆く堀河の歌が、その寂しさを伝えている。

語釈・文法注

もとの女院ふたところ
待賢門院璋子と、高陽院泰子(忠実の娘で鳥羽院の皇后)。
いまの女院
美福門院藤原得子(1117〜1160)。藤原長実の娘。鳥羽院の寵愛を受け、近衛天皇を産んだ。
神璽寶劒
三種の神器のうちの八尺瓊勾玉と草薙剣。譲位の際に新帝に渡される。
昭陽舍
内裏の殿舎の一つ。梨壺。東宮の御所とされた。
皇太弟
天皇の弟で皇太子となった者。崇徳の養子なら「皇太子」と書くべきところを「皇太弟」とした。
宣命
天皇の命令を和文体で記した文書。
今の一ノ院
後白河院(1127〜1192)。待賢門院の子で崇徳の同母弟。今鏡成立時の院。
嵯峨のみかどの御時
大同五年(810)の薬子の変。嵯峨天皇と兄の平城上皇とが対立した。
仁和寺の宮
覚性法親王(1129〜1169)。鳥羽院の皇子で崇徳の弟。仁和寺の門跡。
八重の汐路
幾重にも重なる遠い海路。讃岐への配流をいう。
一ノ宮
重仁親王(1140〜1162)。崇徳院の第一皇子。
白峯
讃岐国の白峯山。崇徳院の陵(白峯陵)がある。
仁和寺に御堂
法金剛院。待賢門院が仁和寺の近くに建てた御堂。
眞如院
待賢門院の法名。底本は「真如院」とするが、一般には「真如法」とされる。
堀河の君
待賢門院堀河。源顕仲の娘で、待賢門院に仕えた女房歌人。百人一首の「長からむ心も知らず」の作者。
從二位光子
藤原光子(1060〜1121)。藤原隆方の娘で、公実の妻。待賢門院の母。

文法

いかでかとてなん
反語。どうして(延期など)できようか、ということで。
ならびなく。世にあひたまへりし
底本は「ならびなく」の後に句点を置く。
こゝちよきだに
「だに」は類推。気分のよい時でさえ。

和歌

みな人はけふのみゆきといそぎつゝ消えにし跡はとふ人もなし

詠者
待賢門院堀河
状況
待賢門院が亡くなった翌年の正月、新年の行幸の準備に人々が忙しい中で、女院の御所を訪れる人もないことを嘆いて、高倉内大臣藤原公教に贈った歌。

修辞

掛詞
「みゆき」に「御幸(行幸)」と「深雪」をかけ、「消え」「跡」と縁語になる。
対比
行幸に急ぐ人々のにぎわいと、亡き女院の跡の寂しさを対比する。

解説

今鏡は保元・平治の乱の時代を含みながら、合戦の経過をほとんど語らない。崇徳院の配流についても、乱の原因や戦いには触れず、讃岐での孤独な暮らしと死、白峯への埋葬だけを哀切に語る。崇徳院の怨霊が恐れられ始めるのは、今鏡の成立よりやや後のことである。

待賢門院の後半生は、美福門院の台頭とともに不遇であった。今鏡は、華やかな花見御幸(第16章)と、死後の寂しさを詠む堀河の歌とを対照させ、女院の栄枯を描き出している。

関連

出典

底本
関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、92〜96頁(コマ61–63)。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日