今鏡 第二「すべらぎの中」 第18章
春のしらべ
待賢門院の産んだ崇徳天皇の御代。幼いころから和歌を好み、かくし題・紙燭の歌など趣向をこらした歌会を催した。花の宴や、天承二年の臨時客の盛儀も語られる。しかし世の実権は鳥羽院にあり、歌合も思うにまかせなかった。
- 1仁和寺仁和寺にんなじののの女院女院にょういんののの御腹御腹おおんはらのののののの御子御子みこははは、、、位位くらいおりさせおりさせおりさせ給給たまひてひていて、、、新院新院しんいんときこえさせときこえさせときこえさせ給給たまひしひしいし。。。後後のちににに讃岐讃岐さぬきにおはしましゝかばにおはしましゝかばにおわしまししかば、、、讃岐讃岐さぬきのみかどとこそのみかどとこそのみかどとこそ聞聞きこえさせえさせえさせ給給たまふらめなふらめなうらめな。。。
- 2御母御母おおんはは女院女院にょういんははは中宮中宮ちゅうぐうととと申申もうしきしきしき。。。公實公實きんざね大納言大納言だいなごんののの第三第三だいさんののの御御おんむすめむすめむすめ也也なり。。。鳥羽鳥羽とばノノノ院院いんののの位位くらいにおはしましゝにおはしましゝにおわしましし時時とき、、、法皇法皇ほうおうののの御御おんむすめとてむすめとてむすめとて、、、參參まいりりり給給たまへりきへりきえりき。。。
- 3此此このみかどのみかどのみかど元元げん永永えい二年二年にねん己己おの亥亥い五月五月さつき十八日十八日じゅうはちにちににに、、、生生うまれさせれさせれさせ給給たまへりへりえり。。。保保ほう安安やす四年四年よねん正月正月しょうがつ廿八日廿八日にじゅうはちにちににに位位くらいににに卽卽つかせかせかせ給給たまふふう。。。大大だい治治じ四年四年よねん御元服御元服ごげんぷくせさせせさせせさせ給給たまへりへりえり。。。御御おんとしとしとし十一十一じゅういち、、、法性寺法性寺ほっしょうじのおほきおとゞののおほきおとゞののおおきおとどの御御おんむすめむすめむすめ、、、女御女御にょうごににに參參まいりりり給給たまひてひていて、、、中宮中宮ちゅうぐうににに立立たちちち給給たまひしひしいし、、、ととと申申もうすすす御事御事おおんことなりなりなり。。。
- 4時時ときののの攝政攝政せっしょうののの御女御女おおんむすめ、、、きさきのきさきのきさきの宮宮みやにおはしますにおはしますにおわします。。。白河白河しらかわノノノ院院いん、、、鳥羽鳥羽とばノノノ院院いん、、、おやおほぢとておはしますおやおほぢとておはしますおやおおじとておわします。。。御母御母おおんはは女院女院にょういんならぶならぶならぶ人人ひとなくておはしましゝかばなくておはしましゝかばなくておわしまししかば、、、御御おんせうとのせうとのしょうとの、、、ノノノ督督かみ通季通季みちすえ、、、右衞門右衞門うえもんノノノ督督かみ實行實行さねゆき左兵衞左兵衞さひょうえノノノ督督かみ實能實能さねよしなどなどなど申申もうしてしてして、、、帝帝みかどののの御御おんをををぢにてぢにてじにて、、、ゆるされてゆるされてゆるされて、、、常常つねににに參參まいりりり給給たまふふう。。。そのそのその公達公達きんだち近衞近衞こんえのすけにてのすけにてのすけにて、、、あさあさあさ夕夕ゆうさぶらひさぶらひさぶらい給給たまふふう。。。
- 5みかどのみかどのみかどの御心御心みこころばへばへばえ絕絕たえたるえたるえたる事事ことをををつぎつぎつぎ、、、古古ふるきあときあときあとををを興興おこさむとおもほしめせりさむとおもほしめせりさむとおもおしめせり。。。幼幼おさなくおはしましけるよりくおはしましけるよりくおわしましけるより歌歌うたををを好好このませませませ給給たまひてひていて、、、朝夕朝夕あさゆうさぶらふさぶらふさぶらう人々人々ひとびとににに、、、題題だいよませよませよませ、、、ののの歌歌うた、、、うちてうちてうちて響響ひびきのきのきのうちによめうちによめうちによめ。。。
- 6などさへなどさへなどさへ仰仰おおせられてせられてせられて、、、常常つねははは和歌和歌わかののの會會えぞせさせぞせさせぞせさせ給給たまひけるひけるいける。。。さのみさのみさのみうち〳〵にやうち〳〵にやうちうちにやはははとてとてとて、、、花花はなののの宴宴えんせさせせさせせさせ給給たまひけるにひけるにいけるに、、、松松まつににに遙遙はるかなるなるなる齡齡よわいををを契契ちぎるるる。。。
- 7といふといふという題題だいにてにてにて上達部上達部かんだちめ束帶束帶そくたいにてにてにて、、、殿殿どのよりよりよりはじめてはじめてはじめて、、、參參まいりりり給給たまひけりひけりいけり。。。まづまづまず御御おんあそびありてあそびありてあそびありて、、、關白殿關白殿かんぱくどのことことことひきひきひき給給たまふふう、、、花園花園はなぞののおとゞのおとゞのおとど、、、そのそのその時時とき右大臣右大臣うだいじんにてにてにて琵琶琵琶びわひきひきひき給給たまふふう。。。
- 8中中なかノノノ院院いんののの大納言大納言だいなごん笙笙しょうのののふえふえふえ、、、右衞門右衞門うえもんノノノ佐佐すけ俄俄にわかににに殿上殿上てんじょうゆるされてゆるされてゆるされて、、、篳篥篳篥ひちりき仕仕つこうまつりけりうまつりけりうまつりけり。。。拍子拍子ひょうしはははノノノ御門御門みかど大納言大納言だいなごん宗忠宗忠むねただ、、、笛笛ふえははは成通成通なりみち實衡實衡さねいらなどのなどのなどの程程ほどにやおはしけんにやおはしけんにやおわしけん。。。
- 9季成季成すえなりののの中將中將ちゅうじょう、、、和琴和琴わごんなどぞきゝなどぞきゝなどぞきき侍侍はべりしりしりし。。。序序じょはははののの大納言大納言だいなごん師賴師賴もろよりぞかきぞかきぞかき給給たまひけるひけるいける。。。講師講師こうじははは實光實光さねみつ、、、御製御製ぎょせいのののははは誰誰たれにかれにかれにか侍侍はべりけんりけんりけん。。。常常つねののの御歌御歌みゅうたどもどもどもははは、、、朝夕朝夕あさゆうののの事事ことなりしになりしになりしに、、、つねのつねのつねの御製御製ぎょせいなどきこえなどきこえなどきこえ侍侍はべりしにりしにりしに、、、珍珍めずらしくありがたきらしくありがたきらしくありがたき御歌御歌みゅうたどもどもども、、、多多おおくきこえくきこえくきこえ侍侍はべりきりきりき。。。遠遠とおくくく山山やまののの花花はなをををたづぬたづぬたずぬ。。。といふといふという事事ことををを、、、
- 10たづねつるたづねつるたずねつる花花はなのあたりになりにけりのあたりになりにけりのあたりになりにけり匂匂におふにしるしふにしるしうにしるし春春はるののの山風山風やまかぜ
- 11などよませなどよませなどよませ給給たまへりしへりしえりしははは、、、世世よののの末末すえにありがたしとぞにありがたしとぞにありがたしとぞ人人ひとははは申申もうししし侍侍はべりけるりけるりける。。。まだまだまだ幼幼おさなくおはしましゝくおはしましゝくおわしましし時時とき、、、
- 12こゝこゝここをををこそこそこそ雲雲くもののの上上うえとととははは思思おもひつれひつれいつれ高高たかくもくもくも月月つきのすみのぼるかなのすみのぼるかなのすみのぼるかな
- 13などよませなどよませなどよませ給給たまへりしよりへりしよりえりしより、、、かやうのかやうのかようの御歌御歌みゅうたのみぞおほくのみぞおほくのみぞおおく侍侍はべるなるるなるるなる。。。これらおのづからこれらおのづからこれらおのずから傳傳つたへへえ聞聞きこえこえこえ侍侍はべるにこそあれるにこそあれるにこそあれ。。。
- 14天天てん承承うけたまわ二年二年にねん三月三月さんがつにやにやにや侍侍はべりけむりけむりけむ。。。せさせせさせせさせ給給たまひきひきいき。。。臨時臨時りんじののの祭祭まつりののの試樂試樂しがくのさまになむのさまになむのさまになむ侍侍はべりけるりけるりける。。。淸涼殿淸涼殿せいりょうでんのみすおろしてのみすおろしてのみすおろして、、、孫庇孫庇まごびさしににに御倚子御倚子ごいしたてゝたてゝたてて、、、みかどみかどみかど御直衣御直衣おおんのうしにておはしますにておはしますにておわします。。。
- 15北北きたののの廊廊ろうのののとりのけてとりのけてとりのけて、、、御簾御簾みすかけてかけてかけて、、、きさいのきさいのきさいの宮宮みやののの女房女房にょうぼううちいでのうちいでのうちいでの衣衣ごろもさま〴〵にさま〴〵にさまざまに出出いだされたりだされたりだされたり。。。二間二間ふたまにににははは中宮中宮ちゅうぐうおはしますおはしますおわします。。。左右左右さゆうののの舞人舞人まいびとかさねのよそひしてかさねのよそひしてかさねのよそいして、、、ににに集集あつまれりまれりまれり。。。
- 16樂樂がくののの行事行事ぎょうじ、、、季成季成すえなりののの中將中將ちゅうじょうぞぞぞ承承うけたまはりてせられけるけたまはりてせられけるけたまわりてせられける。。。春春はるのしらべのしらべのしらべ、、、まづまづまずははは吹吹ふきいだしてきいだしてきいだして、、、春春はるののの庭庭にわといふといふという樂樂がくをををなんなんなん奏奏そうしてしてして參參まいりけるりけるりける。。。
- 17みかどみかどみかど出出いでさせでさせでさせ給給たまひてひていて、、、關白殿關白殿かんぱくどの右右みぎのおとゞよりのおとゞよりのおとどよりはじめてはじめてはじめて、、、簀簀すののの子子こにさぶらひにさぶらひにさぶらい給給たまふふう。。。宰相宰相さいしょうははは例例れいののの事事ことなればなればなればにおはしけりにおはしけりにおわしけり。。。然然しかるべきまひるべきまひるべきまい人人ひとどもどもども、、、笛笛ふえののの師師しなどなどなど賞賞じょうかぶりけるかぶりけるかぶりける中中なかににに、、、成通成通なりみちののの宰相中將宰相中將さいしょうのちゅうじょうとておはしけるとておはしけるとておわしける、、、わざとわざとわざと遙遙はるかにかにかに北北きたののの方方かたにめぐりてにめぐりてにめぐりて、、、もとまさといふもとまさといふもとまさという笛笛ふえののの師師しかぶりかぶりかぶり賜賜たまはれるはれるわれる、、、よろこびよろこびよろこび云云いひにおはしたりけるこそひにおはしたりけるこそいにおわしたりけるこそ、、、いとやさしくいとやさしくいとやさしく侍侍はべりけれりけれりけれ。。。
- 18百首歌百首歌ひゃくしゅのうたなどもなどもなども、、、人々人々ひとびとによませさせによませさせによませさせ給給たまひけりひけりいけり。。。又又また撰集撰集せんしゅうなどせさせなどせさせなどせさせ給給たまふとふとうと聞聞きこえこえこえ侍侍はべりきりきりき。。。かばかりかばかりかばかり好好このませませませ給給たまふにふにうに、、、歌合歌合うたあわせ侍侍はべらざりけるこそらざりけるこそらざりけるこそ、、、くちをしくくちをしくくちおしく侍侍はべりしかりしかりしか。。。
- 19古古ふるききき事事ことどもどもども興興おこさんのさんのさんの御志御志おおんこころざしはははおはしましながらおはしましながらおわしましながら、、、世世よををを心心こころにえまかせさせにえまかせさせにえまかせさせ給給たまはははででで、、、院院いんののの御御おんまゝなればまゝなればままなれば、、、易易やすききき事事こともかなはせもかなはせもかなわせ給給たまはずなんおはしましけるはずなんおはしましけるわずなんおわしましける。。。
- 20歌歌うたよませよませよませ給給たまふにつけてふにつけてうにつけて、、、朝夕朝夕あさゆうさぶらはれけるさぶらはれけるさぶらわれける修理修理すりのノノノ權權けんノノノ大夫大夫だいぶ、、、三位三位さんみせさせむとてせさせむとてせさせむとて、、、德大寺德大寺とくだいじのおとゞにつけてのおとゞにつけてのおとどにつけて、、、院院いんににに見見みせせせ參參まいらせよとてらせよとてらせよとて、、、
- 21我我わががが宿宿やどにににひともとたてるひともとたてるひともとたてるあはれといかゞあはれといかゞあわれといかが思思おもはざるべきはざるべきわざるべき
- 22とぞよませとぞよませとぞよませ給給たまひけるとひけるといけると聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしりしりし。。。
現代語訳
仁和寺の女院(待賢門院)がお産みになった第一皇子は、位をお下りになって新院と申し上げました。後に讃岐においでになったので、讃岐の帝と申し上げるのでしょうね。御母女院は中宮璋子と申し上げました。公実大納言の第三の御娘です。鳥羽院が位にいらした時、法皇の御娘として入内なさいました。この帝は元永二年己亥五月十八日にお生まれになりました。保安四年正月二十八日に位におつきになります。大治四年に御元服なさいました。御年十一。法性寺の太政大臣(忠通)の御娘が女御として入内なさって、中宮にお立ちになったのが、皇嘉門院と申し上げる方です。時の摂政の御娘が后の宮でいらっしゃいます。白河院・鳥羽院が、祖父・父としていらっしゃいます。御母女院も並ぶ人もなくていらっしゃったので、御兄の侍従中納言実隆、左衛門督通季、右衛門督実行、左兵衛督実能などと申して、帝の御叔父として、直衣での参内を許されて、いつも参上なさいます。その公達も近衛の次将として、朝夕お仕えなさいます。
帝のお心は、絶えたことを継ぎ、古い伝統を復興しようとお思いになっていました。幼くていらした時から和歌をお好みになって、朝夕お仕えする人々に隠し題を詠ませ、紙燭の歌(紙燭が燃え尽きるまでに詠む歌)や、金椀を打ってその響きの消えないうちに詠め、などとまでおっしゃって、いつも和歌の会をなさいました。そう内々ばかりでもと、花の宴をなさった時に、「松に遥かなる齢を契る」という題で、公卿が束帯で、殿(忠通)をはじめとして参上なさいました。まず管弦のお遊びがあって、関白殿が琴をお弾きになり、花園の大臣がその時右大臣で琵琶をお弾きになります。中院の大納言(雅定)は笙の笛、右衛門佐季兼は急に昇殿を許されて篳篥をお勤めしました。拍子は中御門大納言宗忠、笛は成通・実衡などでいらしたでしょうか。季成の中将が和琴などと聞きました。序は堀川大納言師頼がお書きになりました。講師は左大弁実光、御製の講師は誰でしたでしょうか。ふだんの御歌は朝夕のことでしたが、ふだんの御製などが聞こえてまいりますと、珍しくすばらしい御歌が多く聞こえてまいりました。「遠く山の花を尋ぬ」という題を、
たづねつる花のあたりになりにけり匂ふにしるし春の山風
などとお詠みになったのは、末の世にめったにないことだと人は申しました。まだ幼くていらした時に、
こゝをこそ雲の上とは思ひつれ高くも月のすみのぼるかな
などとお詠みになってから、このような御歌ばかりが多いそうです。これらは自然と伝え聞いたものでございます。
天承二年三月でございましたでしょうか、臨時客をなさいました。臨時の祭の試楽のような様子でございました。清涼殿の御簾を下ろして、孫庇に御倚子を立てて、帝は御直衣でいらっしゃいます。北の廊の立蔀を取り除いて御簾を掛け、后の宮の女房の打出の衣がさまざまに出されていました。二間には中宮がいらっしゃいます。左右の舞人は襲の装束をして、月華門に集まりました。楽の行事は重通と季成の中将が承って務められました。まず春の調べを吹き出して、「春の庭」という楽を奏して参上しました。帝がお出ましになって、関白殿・右大臣をはじめとして簀子にお控えになります。宰相は例のことなので長橋にいらっしゃいました。しかるべき舞人や笛の師などが褒賞を受けた中に、成通の宰相中将という方が、わざわざ遠く北の方を回って、もとまさという笛の師が冠(叙位)を賜ったお祝いを言いにいらしたのは、たいそう優雅なことでした。百首歌なども人々に詠ませなさいました。また撰集などもなさると聞きました。これほどお好みになったのに、歌合がなかったのは残念なことでした。古い事を復興しようというお志はおありになりながら、世を思うようになさることができず、院(鳥羽)の御意のままなので、たやすいこともおできにならなかったのです。歌をお詠みになるにつけて、朝夕お仕えしていた修理権大夫行宗を三位にさせようとして、徳大寺の大臣(実能)に託して、院にお見せせよということで、
我が宿にひともとたてる翁草あはれといかゞ思はざるべき
とお詠みになったと聞きました。
意訳
崇徳天皇は五歳で即位し、在位十八年に及んだが、その間、政治の実権は白河院、次いで鳥羽院にあった。母待賢門院の兄弟(閑院流の実隆・通季・実行・実能)が天皇の叔父として重んじられ、その一族が近衛次将として仕えた。
崇徳天皇は和歌を深く愛し、隠し題、紙燭の歌、金椀の響きの消えぬうちに詠む歌など、さまざまな趣向の歌会を催した。「たづねつる」の歌は花の香りで山の花のありかを知る優美な歌で、幼時の「こゝをこそ」の歌は、宮中より高く澄みのぼる月に、天皇の志の高さを思わせる。章題の「春のしらべ」は臨時客の楽による。
天承二年(1132)の臨時客は、清涼殿を会場に舞楽を奏した盛儀だった。しかし語り手は、天皇が古例の復興を望みながら、院の意向のままで「易き事もかなはせ給はず」と、歌合さえ思うにまかせなかった無念を記す。行宗を三位にと院に訴える「翁草」の歌は、天皇でありながら人事一つ思うようにならない立場をよく表している。
語釈・文法注
- 一の御子
- 第七十五代崇徳天皇(1119〜1164)。名は顕仁。保元の乱に敗れて讃岐に流され、讃岐院と呼ばれた。
- 璋子
- 藤原璋子。待賢門院。
- 皇嘉門院
- 藤原聖子(1122〜1181)。忠通の娘で、崇徳天皇の中宮。
- 侍從中納言實隆
- 藤原実隆(1079〜1127)。待賢門院の兄。
- 左衞門ノ督通季
- 藤原通季(1090〜1128)。西園寺家の祖。
- 直衣ゆるされて
- 直衣(平服)のままで参内することを許されること。特別の待遇。
- かくし題
- 題の語を歌の中に詠みこみ、表に出さずに隠す技巧。
- 紙燭の歌
- 紙燭(こよりに油をしみこませた灯火)が燃え尽きるまでに詠む歌。
- かなまり
- 金椀。金属製の椀。打ち鳴らしてその響きが消えないうちに詠ませた。
- 季兼
- 藤原季兼。伝未詳。
- 中ノ御門大納言宗忠
- 藤原宗忠(1062〜1141)。日記『中右記』の作者。
- 堀川の大納言師賴
- 源師頼(1068〜1139)。俊房の子。
- 左大辨實光
- 藤原実光(1069〜1147)。
- 臨時客
- ここでは臨時の祭の試楽になぞらえた宴。
- 立蔀
- 目隠しのための衝立状の板塀。
- 月華門
- 紫宸殿の南庭の西の門。
- 重通
- 藤原重通(1099〜1161)。宗通の子。
- 長橋
- 清涼殿と紫宸殿をつなぐ渡り廊下。
- 修理ノ權ノ大夫行宗
- 源行宗(1064〜1143)。歌人。崇徳天皇の歌壇の中心の一人。
- 翁草
- キク科の草。「翁」に老人の行宗をたとえる。
文法
- 讃岐のみかどとこそ聞えさせ給ふらめな
- 「こそ…らめ」の係り結びに終助詞「な」。そう申し上げるのでしょうね。
- 匂ふにしるし
- 「しるし」は形容詞「著し」の終止形。(花の香りが)匂うのではっきりわかる。
- 世を心にえまかせさせ給はで
- 「え…で」は不可能。世を思うままにおできにならずに。
和歌
たづねつる花のあたりになりにけり匂ふにしるし春の山風
- 詠者
- 崇徳天皇
- 状況
- 「遠く山の花を尋ぬ」という題で詠んだ歌。『詞花和歌集』にも入る。
修辞
- 嗅覚による発見
- 花の姿は見えないが、春の山風に乗る香りで、尋ねる花のあたりに来たことを知る。
こゝをこそ雲の上とは思ひつれ高くも月のすみのぼるかな
- 詠者
- 崇徳天皇
- 状況
- 幼いころに月を詠んだ歌。
修辞
- 掛詞
- 「雲の上」に宮中と天上、「すみ」に「澄み」と「住み」をかける。
我が宿にひともとたてる翁草あはれといかゞ思はざるべき
- 詠者
- 崇徳天皇
- 状況
- 老歌人源行宗を三位にさせたいと、徳大寺実能を通じて鳥羽院に見せた歌。
修辞
- 見立て
- 宮中に一本立つ「翁草」に老臣行宗をたとえ、その長年の奉仕をあわれと思ってほしいと訴える。
解説
崇徳天皇は在位中から和歌の会を盛んに催し、譲位後には『久安百首』を詠進させ、藤原顕輔に『詞花和歌集』を撰ばせた。今鏡が「撰集などせさせ給ふ」と言うのはこれをさす。崇徳院歌壇は、のちの新古今時代につながる重要な場であった。
「易き事もかなはせ給はず」という語り手の言葉には、保元の乱に至る崇徳院の不遇への同情がにじんでいる。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、87〜92頁(コマ58–61)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日