今鏡 第二「すべらぎの中」 第17章
鳥羽の御賀
鳥羽院政の時代。源雅定の大将任官をめぐって崇徳天皇が渋ったため、院は夜半に内裏へ乗り込んで任官を実現させた。院は三十九歳で出家し、動物にまで施しをする功徳を積む。仁平二年には近衛天皇が院の五十の賀を催したが、まもなく近衛天皇が崩じ、院も五十四歳で世を去った。
- 1此此こののの院院いん世世よををを知知しらせらせらせ給給たまひてひていて、、、久久ひさしくおはしましゝにしくおはしましゝにしくおわしまししに、、、よろづのよろづのよろずの御御おんまつりごとまつりごとまつりごと、、、御心御心みこころののの儘儘ままなるになるになるに、、、ノノノ院院いんのおとゞののおとゞののおとどの、、、大將大將だいしょうになりになりになり給給たまひしたびひしたびいしたび、、、人人人人ひとびと爭爭あらそひてひていて、、、讃岐讃岐さぬきノノノ院院いん、、、位位くらいにおはしましゝかばにおはしましゝかばにおわしまししかば、、、しぶらせしぶらせしぶらせ給給たまひしにこそひしにこそいしにこそ。。。
- 2のみかどのみかどのみかど、、、東宮東宮とうぐう夜夜よ、、、俄俄にわかににに內內うちへへへ御幸御幸みゆきとてとてとて、、、殿上人殿上人てんじょうびとせう〳〵せう〳〵しょうしょう冠冠こうぶりしてしてして、、、夜夜よににに入入いりてりてりて、、、ののの陣陣じんににに御車御車みくるまたてさせたてさせたてさせ給給たまひてひていて、、、「「「權大納言權大納言ごんだいなごん、、、大將大將だいしょうにまかりならんにまかりならんにまかりならん事事こと、、、わさどわさどわざと申申もうしししうけにうけにうけに參參まいりたるりたるりたる」」」。。。
- 3ととと申申もうしいれさせしいれさせしいれさせ給給たまへりしかばへりしかばえりしかば、、、さてこそさてこそさてこそ、、、やがてやがてやがて其其そののの夜夜よなりなりなり給給たまひけれひけれいけれ。。。實能實能さねよしののの大將大將だいしょう、、、下﨟下﨟げろうなれどもなれどもなれども、、、元元もとよりなりゐよりなりゐよりなりい給給たまへればへればえれば、、、かみにかみにかみに加加くわへじとへじとえじと、、、おさへおさへおさえ申申もうししし給給たまふふう。。。
- 4ののの大納言大納言だいなごん、、、われこそわれこそわれこそ上﨟上﨟じょうろうなればならめなればならめなればならめ。。。といひてといひてといいて、、、下﨟下﨟げろうふたりふたりふたりににに越越こえられむえられむえられむ事事ことととと、、、內內うちをををふたりふたりふたりしてしてして、、、かた〴〵かた〴〵かたがた申申もうししし給給たまへばへばえば、、、御御おんをををぢのことぢのことじのこと、、、さりがたくてさりがたくてさりがたくて押押おさへさせたまふなりへさせたまふなりえさせたまうなり。。。
- 5院院いんにににははは、、、さきにさきにさきに下﨟下﨟げろうをををこしてこしてこして、、、なさせなさせなさせ給給たまひしかどもひしかどもいしかども、、、なほいとほしみなほいとほしみなおいとおしみ出出いできてできてできて、、、なさんとおぼしめしかためけるになさんとおぼしめしかためけるになさんとおぼしめしかためけるに、、、うちのおさへさせうちのおさへさせうちのおさえさせ給給たまへばへばえば、、、年年としごろごろごろはははかゝるかゝるかかる事事こともなきにもなきにもなきに、、、いといといと心心こころよからずおぼしめしてよからずおぼしめしてよからずおぼしめして、、、御幸御幸みゆきあるなりけりあるなりけりあるなりけり。。。
- 6とかくとかくとかく申申もうさせさせさせ給給たまひひい、、、めしてめしてめして仰仰おおせせせされなどするされなどするされなどする程程ほどににに、、、御車御車みくるまにてにてにて「「「ののの夜夜よあけなんとすあけなんとすあけなんとす」」」。。。といふといふという朗詠朗詠ろうえい、、、又又また「「「ののの中中なかにににははは」」」。。。などいふなどいふなどいう文文ふみををを、、、詠詠えいぜさせぜさせぜさせ給給たまひてひていて、、、佛佛ほとけののの御名御名みなたび〳〵たび〳〵たびたび唱唱となへさせへさせえさせ給給たまひけるひけるいける、、、聞聞きくくく人人ひと、、、皆皆みな涙涙なみだぐましくぞぐましくぞぐましくぞ思思おもひあへりけるひあへりけるいあえりける。。。となむきこえとなむきこえとなむきこえ侍侍はべりしりしりし。。。
- 7かくてかくてかくて次次つぎののの年年とし御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまひきひきいき。。。御御おんとしとしとし四十四十よそじにだににだににだに滿滿みたせたせたせ給給たまはははねどもねどもねども、、、年年としごろのごろのごろの御御おんほいもほいもほいも、、、又又また年年としにてにてにて」」」。。。年年としごろごろごろははは御隨身御隨身みずいじんなどもとゞめさせなどもとゞめさせなどもとどめさせ給給たまひてひていて具具ぐせさせたませさせたませさせたまはははねどもねどもねども、、、白河白河しらかわののの大炊大炊おおいののの御門御門みかどどのゝむかひにどのゝむかひにどののむかいに、、、御堂御堂みどうつくらせつくらせつくらせ給給たまひてひていて、、、供養供養くようせさせせさせせさせ給給たまふにふにうに、、、かへしかへしかえし給給たまはははらせらせらせ給給たまひてひていて、、、めづらしくめづらしくめずらしく太上天皇太上天皇だいじょうてんのうののの御御おんふるまひなりふるまひなりふるまいなり。。。
- 8うちつゞきうちつゞきうちつづき八幡八幡やわた賀茂賀茂かもなどなどなど御幸御幸みゆきありてありてありて、、、三月三月さんがつ十日十日とおかぞぞぞ鳥羽殿鳥羽殿とばどのにてにてにて御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまふふう。。。少少すこしのしのしの御御おんなやみもなくてなやみもなくてなやみもなくて、、、かくかくかく思思おもほしたつほしたつおしたつ事事ことををを、、、世世よののの人人ひと涙涙なみだぐましくぞぐましくぞぐましくぞ思思おもひあへるひあへるいあえる。。。
- 9御名御名みなはははとぞとぞとぞ聞聞きこえさせえさせえさせ給給たまひしひしいし。。。五十日五十日いかノノノ御佛事御佛事おおんぶつじとてせさせとてせさせとてせさせ給給たまふふうほどほどほど、、、大路大路おおじにありくにありくにありく犬犬いぬややや、、、木木き積積つみてありくみてありくみてありく車車くるま牛牛うしなどまでなどまでなどまで養養やしなはせはせわせ給給たまひひい、、、御堂御堂みどうののの池池いけどものどものどもの魚魚うおにもにもにも、、、庭庭にわののの雀雀すずめからすなどからすなどからすなど飼飼かいはせはせわせ給給たまふふう。。。
- 10山々山々やまやま寺々寺々てらでらののの僧僧そうにゆあむしにゆあむしにゆあむし、、、御布施御布施おおんふせなどなどなどははは云云いひしらずひしらずいしらず、、、たゞのたゞのただの折折おりももも、、、かやうのかやうのかようの御御おん功德功德くどくははは、、、常常つねののの御御おん營營いとなみなりみなりみなり。。。人人ひとのたてまつるもののたてまつるもののたてまつるもの、、、多多おおくくくははは僧僧そうののの布施布施ふせになんなりけるになんなりけるになんなりける。。。
- 11おはしますあたりおはしますあたりおわしますあたり、、、あまたのあまたのあまたの御所御所ごしょどもにどもにどもにははは、、、いひしらぬいひしらぬいいしらぬ綾綾あやにしきにしきにしき、、、唐唐から綾綾あや、、、唐唐から絹絹きぬ、、、さま〴〵のたからさま〴〵のたからさまざまのたから物物もの、、、所所ところもなきまでぞおきめでられもなきまでぞおきめでられもなきまでぞおきめでられ侍侍はべりけるりけるりけるををを、、、御布施御布施おおんふせにせさせにせさせにせさせ給給たまへばへばえば、、、來來こむむむ世世よののの御御おん功德功德くどくいかばかりかいかばかりかいかばかりか侍侍はべらんらんらん。。。
- 12白河白河しらかわノノノ院院いんはははおはしますおはしますおわします所所ところ、、、きら〳〵ときら〳〵ときらきらと掃掃はきのごひてきのごひてきのごいて、、、たゞうちのたゞうちのたどうちの見見み參參まいとてとてとて、、、紙紙かみにかきたるにかきたるにかきたる文文ふみののの、、、日毎日毎ひごとにまゐらするばかりにまゐらするばかりにまいらするばかりををを、、、御厨子御厨子みずしにとりおかせにとりおかせにとりおかせ給給たまひてひていて、、、さらぬさらぬさらぬ物物ものははは御御おんあたりにあたりにあたりに見見みゆるものなかりけりゆるものなかりけりゆるものなかりけり。。。
- 13ましてたちぬはぬましてたちぬはぬましてたちぬわぬ物物ものなどなどなどははは、、、御前御前おまえににに取取とりいださるゝりいださるゝりいださるる事事ことなくてなくてなくて、、、かたしかたしかたしはははぶきぶきぶき打打うちせさせちせさせちせさせ給給たまひてひていて、、、たゞたゞただ一所一所ひとところおはしましておはしましておわしまして、、、近習近習きんじゅののの上﨟上﨟じょうろう下﨟下﨟げろうなどなどなどををを、、、とり〴〵とり〴〵とりどり召召めしつかひつゝおはしましけるしつかひつゝおはしましけるしつかいつつおわしましける。。。おの〳〵おの〳〵おのおの御有樣御有樣おおんありさまかはらせかはらせかわらせ給給たまひてなんひてなんいてなん聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしりしりし。。。
- 14仁仁にん平平へい二年二年にねん三月三月さんがつ七日七日なぬか、、、近衞近衞こんえのみかどのみかどのみかど、、、鳥羽鳥羽とばノノノ院院いんににに行幸行幸ぎょうこうせさせせさせせさせ給給たまひてひていて、、、法皇法皇ほうおうののの五十五十いそじののの御賀御賀おおんがせさせせさせせさせ給給たまひきひきいき。。。等身等身とうしんののの御佛御佛みほとけ、、、もゝまきもゝまきももまき、、、玉玉たまのかざりのかざりのかざりををを磨磨みがききき、、、黃金黃金こがねののの文字文字もじになむありけるになむありけるになむありける。。。
- 15僧僧そうはははむそぢのむそぢのむそじの數數かず、、、ひきつらなりてひきつらなりてひきつらなりて、、、佛佛ほとけをををほめたてまつりほめたてまつりほめたてまつり、、、舞人舞人まいびとははは近近ちかきまぼりのつかさきまぼりのつかさきまぼりのつかさ雲雲くもののの上人上人うえびと、、、靑色靑色あおいろ、、、柳柳やなぎさくらのさくらのさくらの下襲下襲したがさね、、、平平ひらやなぐひのやなぐひのやなぐいの水晶水晶すいしょうのののはずはずはず、、、日日ひののの光光ひかりにかゞやきあへりりにかゞやきあへりりにかがやきあえり。。。
- 16つぎのつぎのつぎの日日ひももも、、、なほなほなお留留とまらせらせらせ給給たまひてひていて、、、法皇法皇ほうおうをををがみたてまつりがみたてまつりがみたてまつり給給たまふふう。。。さま〴〵のさま〴〵のさまざまの供供そなへへへどもどもども、、、庭庭にわもせにつらねてもせにつらねてもせにつらねて、、、たてまつらせたまふたてまつらせたまふたてまつらせたまう。。。池池いけののの船船ふね、、、春春はるののの調調しらべとゝのべとゝのべととのへてへてへて、、、みぎみぎみぎはははににに漕漕こぎよせてぎよせてぎよせて、、、おの〳〵おりておの〳〵おりておのおのおりて、、、左右左右さゆうのまひののまひののまいの袖袖そでふりきふりきふりき。。。
- 17、、、左左ひだりのおとゞののおとゞののおとどの御子御子みこ、、、右大將右大將うだいしょうののの孫孫まごののの中將中將ちゅうじょうののの公達公達きんだち舞舞まひひい給給たまふふう。。。はてにはてにはてにははは、、、左大將左大將さだいしょうののの御子御子みことてとてとて、、、胡飮酒胡飮酒こんじゅ、、、童舞童舞わらわまいししし給給たまふふう。。。ふるきあとふるきあとふるきあと、、、家家いえののの事事ことなればなればなれば、、、かづかりかづかりかずかり給給たまふふう御衣御衣みけし、、、父父ちちのおとゞとりてのおとゞとりてのおとどとりて、、、袖袖そでふりふりふり給給たまひてひていて庭庭にわにおりてにおりてにおりて、、、よろこびよろこびよろこび申申もうしのやうにしのやうにしのように、、、更更さらににに拜拜はいししし給給たまふふう。。。
- 18夕日夕日ゆうひのかげにのかげにのかげに紅紅くれないののの色色いろかゞやきあへりかゞやきあへりかがやきあえり。。。其其そののの若君若君わかぎみははは、、、誠誠まことははは御御おんわらわらわらははは名名な、、、くまくまくま君君きみとてとてとて、、、前前まえ中納言中納言ちゅうなごんののの子子こををを大將殿大將殿だいしょうどのののの子子こにしにしにし給給たまへるとぞへるとぞえるとぞ。。。このこのこの若君若君わかぎみののの母母ははははは、、、鳥羽鳥羽とばノノノ院院いんののの御子御子みこたちたちたち、、、生生うみみみ奉奉たてまつられたるられたるられたる人人ひととぞとぞとぞ、、、ききたてまつりしききたてまつりしききたてまつりし。。。
- 19かやうにかやうにかように花花はなやかにやかにやかに侍侍はべりしりしりしほどにほどにほどに、、、なかなかなか二年二年にねんばかりやばかりやばかりや隔隔へだててて侍侍はべりけんりけんりけん。。。近衞近衞こんえのみかどのみかどのみかど、、、かくれさせかくれさせかくれさせ給給たまひしかばひしかばいしかば、、、おぼしめしおぼしめしおぼしめし歎歎なげきてきてきて、、、鳥羽鳥羽とばににに籠籠こもりゐさせりゐさせりいさせ給給たまひてひていて、、、年年としのののはじめにもはじめにもはじめにも、、、門門もん廊廊ろうなどさしてなどさしてなどさして、、、人人ひともまゐらざりきもまゐらざりきもまいらざりき。。。
- 20御御おんとしとしとし五十四五十四ごじゅうしまでぞおはしましけるまでぞおはしましけるまでぞおわしましける。。。御母御母おおんはは贈贈ぞう皇太后宮皇太后宮こうたいこうぐうははは、、、承承うけたまわ德德とく二年二年にねん十一月十一月じゅういちがつににに內內うちににに參參まいりりり給給たまひてひていて、、、康和五年康和五年こうわごねん正月正月しょうがつににに、、、このみかどこのみかどこのみかど生生うみおきたてまつりてみおきたてまつりてみおきたてまつりて、、、かくれさせかくれさせかくれさせ給給たまひにしかばひにしかばいにしかば、、、きさききさききさき贈贈おくりたてまつりたまへりりたてまつりたまへりりたてまつりたまえり。。。
現代語訳
この院が世をお治めになって長くいらっしゃった間、万事の政治は御心のままでしたが、中院の大臣(雅定)が大将になられた時、人々が争って、讃岐院(崇徳)が位にいらしたので、(任官を)渋られたのでした。近衛天皇が東宮で御読書始をなさった夜、急に内裏へ御幸ということで、殿上人が少々冠をつけて、夜になってから北の陣に御車を立てさせなさって、「権大納言(雅定)が大将になることを、わざわざお願いに参ったのだ」と申し入れさせなさったので、それでこそ、すぐにその夜(大将に)おなりになったのです。実能の大将は、(雅定より)下臈ではあるけれども、もとから大将になっていらっしゃったので、上に加えまいと抑えて申し上げなさいます。実行の大納言は、自分こそ上臈なのだから(自分が)なるべきだと言って、下臈二人に越えられることはと、(実能・実行の兄弟)二人して内裏(崇徳)にそれぞれ申し上げなさるので、御叔父のことですから断りにくくて、(崇徳は)抑えていらっしゃったのです。院は、以前に下臈を越えて任じられたことがあったけれども、やはり(雅定を)かわいく思う気持ちが出てきて、任じようとお決めになっていたのに、帝が抑えていらっしゃるので、長年こんなことはなかったのに、たいそうご不快に思われて、御幸があったのでした。あれこれお申し入れになり、(雅定を)召して仰せを下されたりする間に、御車の中で「春の夜明けなんとす」という朗詠や、また「十方仏土の中には」などという経文を吟じられて、仏の御名をたびたびお唱えになったのを、聞く人は皆涙ぐましく思い合ったと聞きました。
こうして翌年出家なさいました。御年は四十にもならなかったけれども、長年のご本意でもあり、また慎みの年でもあって。長年は御随身なども止めて連れていらっしゃらなかったけれども、白河の大炊御門殿の向かいに御堂をお造りになって供養なさる時に、兵仗をまたお返しいただいて、珍しく太上天皇としてのお振る舞いでした。続けて八幡・賀茂などに御幸があって、三月十日に鳥羽殿で出家なさいます。少しの御病気もないのに、こうして思い立たれたことを、世の人は涙ぐましく思い合いました。御法名は空覚と申し上げました。五十日の御仏事をなさった間は、大路を歩く犬や、木を積んで行く車の牛などまで養わせなさり、御堂の池の魚にも、庭の雀や烏などにも餌をお与えになります。山々寺々の僧に湯浴みをさせ、御布施などは言いようもないほどで、ふだんの時もこのような功徳はいつものお勤めです。人が献上するものも、多くは僧の布施になりました。おいでになるあたりの多くの御所には、言いようもない綾錦・唐綾・唐絹、さまざまの宝物が、置き場もないほど置かれていましたのを、御布施になさるので、来世の御功徳はどれほどでございましょう。白河院は、お住まいの所をきれいに掃き拭って、ただ内裏からの見参といって紙屋紙に書いた書状が毎日届けられるのだけを御厨子に取り置かれて、そのほかの物は身の回りに見えるものがありませんでした。まして裁ち縫いしていない物などは、御前に取り出されることもなくて、片咳払いをなさって、ただ一人でいらっしゃって、近習の上臈・下臈などを、それぞれ召し使っていらっしゃいました。それぞれお振る舞いが違っていらっしゃったと聞きました。
仁平二年三月七日、近衛天皇が鳥羽院に行幸なさって、法皇の五十の御賀をなさいました。等身大の御仏、寿命経百巻は、玉の飾りを磨き、黄金の文字でした。僧は六十人の数が連なって仏をほめたたえ申し上げ、舞人は近衛府の役人や殿上人で、青色の闕腋の袍に柳や桜の下襲、平胡籙の水晶の筈が日の光に輝き合っていました。翌日もなお留まられて、法皇を拝み申し上げなさいます。さまざまの献上物を庭いっぱいに並べて奉られます。池の船は春の調べを整えて、水際に漕ぎ寄せて、それぞれ降りて、左右の舞の袖をひるがえしました。青海波は、左大臣(頼長)の御子と、右大将(実能)の孫の中将の公達が舞いなさいます。最後には、左大将(雅定)の御子として、胡飲酒の童舞をなさいます。古い先例があり、家の芸なので、お受けになった御衣を父の大臣が取って、袖をひるがえして庭に降りて、お礼の拝舞のように、改めて拝舞なさいます。夕日の光に紅の色が輝き合っていました。その若君は、本当は幼名をくま君といって、前中納言師仲の子を大将殿の子になさったのだとか。この若君の母は、鳥羽院の御子たちをお産みした人だと聞きました。このように華やかでございましたが、二年ばかり隔てたでしょうか、近衛天皇がお亡くなりになったので、お嘆きになって鳥羽に籠もっていらして、年の初めにも門や廊を閉ざして、人も参りませんでした。御年五十四まで生きていらっしゃいました。御母の贈皇太后宮は、承徳二年十一月に入内なさって、康和五年正月にこの帝をお産みになって、お亡くなりになったので、后の位を追贈申し上げなさいました。
意訳
源雅定の右大将任官をめぐる一件は、院政下の天皇と上皇の関係を示す逸話である。崇徳天皇は叔父の実能・実行の意向をくんで雅定の任官を抑えたが、鳥羽院は自ら夜中に内裏に押しかけて任官を実現させた。車中で朗詠や経文を唱える院の姿に人々が涙したという描写には、のちの崇徳と鳥羽の不和の兆しも読み取れる。
鳥羽院は永治元年(1141)、三十九歳で出家した。動物にまで施しをし、宝物を惜しみなく布施にした鳥羽院と、身辺を簡素にして近習を使いこなした白河院とが対比され、「おのおの御有様かはらせ給ひて」と、二人の院の個性の違いが描かれる。
仁平二年(1152)の五十の賀では、雅定の養子(実は源師仲の子)が胡飲酒を舞い、村上源氏の家の芸が三代にわたって受け継がれる。章題の「鳥羽の御賀」はこの賀による。しかし三年後に近衛天皇が崩じ、翌年鳥羽院も没して、保元の乱へと時代は動いていく。
語釈・文法注
- 中ノ院のおとゞ
- 源雅定。保延三年(1137)に右大将となった。
- まなめし
- 真名始め(御読書始)か。東宮が初めて漢籍を学ぶ儀式。
- 北の陣
- 内裏の北門、朔平門。
- 下﨟
- 官位や年功が下の者。上﨟の対。
- 實行の大納言
- 藤原実行(1080〜1162)。実能の兄。のちに太政大臣。
- 春の夜あけなんとす
- 『和漢朗詠集』に採られた詩句。
- 十方佛土の中には
- 『法華経』方便品の「十方仏土中、唯有一乗法」による。
- つゝしみの年
- 厄年。数え年の四十歳前後は重い厄年とされた。
- 兵仗
- 上皇に随う武装した随身。
- 空覺
- 鳥羽院の法名。
- かみや紙
- 紙屋紙。宮中の紙屋院で漉いた紙。
- 壽命經
- 『一切如来金剛寿命陀羅尼経』。長寿を祈る経。
- わきあけ
- 闕腋の袍。脇を縫いふさがない武官の袍。
- 靑海波
- 舞楽の曲名。二人舞で、波を表す袍を着る。
- 前中納言師仲
- 源師仲(1115〜1172)。村上源氏。
- 近衞のみかど
- 近衛天皇(1139〜1155)。鳥羽天皇と美福門院の子。十七歳で崩じた。
文法
- わさど申しうけに
- 「わざと」の誤植か。わざわざ申し受けに。
- 年にて」。
- 底本はここに閉じ括弧を置くが、対応する開き括弧はない。
- ゆあむし
- 「湯浴むす」。湯浴みをさせる。
解説
雅定の右大将任官(保延三年)は、鳥羽院と崇徳天皇の確執を示す出来事として知られる。崇徳天皇は鳥羽院の子とされながら、実は白河院の子であるとの噂があり、鳥羽院に疎まれていたと伝えられる(『古事談』)。
鳥羽院の五十の賀は仁平二年(1152)。近衛天皇はその三年後の久寿二年(1155)に十七歳で崩じ、鳥羽院も保元元年(1156)七月に五十四歳で没した。院の死の直後、崇徳院と後白河天皇の対立は保元の乱となって爆発する。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、82〜86頁(コマ56–58)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日