今鏡 第二「すべらぎの中」 第15章
所々の御寺
堀河天皇の母、中宮賢子の生涯。源顕房の娘で藤原師実の養女として白河天皇の東宮妃となり、中宮に立って皇子女を産んだが、二十八歳で内裏で亡くなった。白河天皇は深く嘆き、円徳院・常行堂など多くの御堂を建てて供養した。
- 1此此このみかどののみかどののみかどの御母御母おおんはは、、、權中納言權中納言ごんちゅうなごんののの御御おんむすめのむすめのむすめの腹腹はらににに、、、六條六條ろくじょうののの右右みぎのおとゞののおとゞののおとどの御御おんむすめにおはしましゝむすめにおはしましゝむすめにおわしましし、、、ののの御子御子みこにしてたてまつりてにしてたてまつりてにしてたてまつりて、、、延延の久久ひさ三年三年さんねん三月三月さんがつ九日九日ここのか、、、御御おんとしとしとし十五十五じゅうごにてにてにて、、、白河白河しらかわノノノ院院いん東宮東宮とうぐうにおはしましゝにおはしましゝにおわしましし、、、御息所御息所みやすんどころにまゐらせにまゐらせにまいらせ給給たまへりへりえり。。。
- 2同同おなじじじ五年五年ごねん七月七月しちがつ廿三日廿三日にじゅうさんにち女御女御にょうごときこえときこえときこえ給給たまひてひていて、、、四位四位しいののの位位くらいたまはりたまはりたまわり給給たまふふう。。。承承うけたまわ保保ほう元年元年がんねん六月六月ろくがつ廿日廿日はつかきさきにきさきにきさきに立立たちちち給給たまふふう。。。御御おんとしとしとし十八十八じゅうはちにおはしましきにおはしましきにおわしましき。。。
- 3十二月十二月じゅうにがつ廿六日廿六日にじゅうろくにちうみたてまつらせうみたてまつらせうみたてまつらせ給給たまふふう。。。三年三年さんねん四月五日四月五日しがついつか郁芳門院郁芳門院いくほうもんいんうまれさせうまれさせうまれさせ給給たまひてひていて、、、そのそのその後後のちののの大大おおぎさきのぎさきのぎさきの宮宮みや、、、生生うみたてまつらせみたてまつらせみたてまつらせ給給たまへりへりえり。。。
- 4御年御年おおんとし廿三廿三にじゅうさんにてにてにて、、、此此このみかどのみかどのみかどははは生生うみたてまつらせみたてまつらせみたてまつらせ給給たまへりへりえり。。。應應おう德德とく元年元年がんねん九月九月くがつ廿二日廿二日にじゅうににち、、、三條三條さんじょうののの內裏內裏うちにてにてにて、、、かくれさせかくれさせかくれさせ給給たまひにきひにきいにき。。。御年御年おおんとし廿廿にじゅう八八やとぞとぞとぞ聞聞きこえこえこえ給給たまひしひしいし。。。
- 5ののの御母御母おおんはは、、、梨壺梨壺なしつぼにてにてにてうせうせうせ給給たまひてのちひてのちいてのち、、、內內うちにてきさきかくれにてきさきかくれにてきさきかくれ給給たまふふう事事こと、、、これぞおはしましけるこれぞおはしましけるこれぞおわしましける。。。廿四日廿四日にじゅうしにちににに備後守備後守びんごのかみ經成經成つねなりのぬしののぬしののぬしの四條四條しじょう高倉高倉たかくらののの家家いえににに、、、わたしたてまつりてわたしたてまつりてわたしたてまつりて、、、神無月神無月かんなずきののの一日一日ついたちぞぞぞ、、、ににに送送おくりたてまつりてりたてまつりてりたてまつりて、、、烟烟けぶりとのぼりりとのぼりりとのぼり給給たまひにしひにしいにし。。。
- 6悲悲かなしさたとふべきしさたとふべきしさたとうべき方方かたなしなしなし。。。まだまだまだ三十三十みそじにだににだににだに足足たらせらせらせ給給たまはぬにはぬにわぬに、、、多多おおくのくのくの宮宮みやたちたちたち生生うみおきたてまつりみおきたてまつりみおきたてまつり給給たまひてひていて、、、上上うえののの御御おんおぼえおぼえおぼえ類類たぐひもおはしまさぬにひもおはしまさぬにひもおわしまさぬに、、、はかなくかくれさせはかなくかくれさせはかなくかくれさせ給給たまひぬればひぬればいぬれば、、、世世よののの中中なかかきくらしたるやうなりかきくらしたるやうなりかきくらしたるようなり。。。
- 7白河白河しらかわのみかどのみかどのみかどははは、、、位位くらいののの御時御時おおんときなればなればなれば、、、廢朝廢朝はいちょうとてとてとて、、、三日三日みかははは、、、日日ひののの御座御座ござのみすもおろされのみすもおろされのみすもおろされ、、、世世よのまつりごともなくのまつりごともなくのまつりごともなく、、、なげかせなげかせなげかせ給給たまふふう事事こと、、、からからから國國くにののの楊貴妃楊貴妃ようきひなどのなどのなどの類類たぐひになんひになんひになん聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしりしりし。。。
- 8御御おんなげきのなげきのなげきの餘餘あまりにりにりに、、、多多おおくのくのくの御堂御堂みどう御佛御佛みほとけをぞをぞをぞ、、、作作つくりてとぶらひたてまつらせりてとぶらひたてまつらせりてとぶらいたてまつらせ給給たまひしひしいし。。。ひえのひえのひえの山山やまのののふもとにふもとにふもとに、、、ときこゆるときこゆるときこゆる御堂御堂みどうののの御願御願ごがん文文ふみににに、、、匡房匡房まさふさ中納言中納言ちゅうなごんののの、、、「「「七夕七夕たなばたののの深深ふかきちぎりによりてきちぎりによりてきちぎりによりて、、、ののの雲雲くもににに悵望悵望ちょうぼうするするする事事ことなかれなかれなかれ」」」。。。
- 9とこそかきてとこそかきてとこそかきて侍侍はべるなれるなれるなれ。。。にににははは勝樂院勝樂院しょうらくいんとてとてとて御堂御堂みどうつくりてつくりてつくりて、、、又又またののの年年としのきさらぎにのきさらぎにのきさらぎに、、、供養供養くようをををせさせせさせせさせ給給たまひきひきいき。。。八月八月はちがつにににははは法勝寺法勝寺ほっしょうじののの內內うちににに、、、つくらせつくらせつくらせ給給たまひてひていて、、、仁和寺仁和寺にんなじノノノ入道入道にゅうどうノノノ宮宮みやしてしてして供養供養くようせさせせさせせさせ給給たまふふう。。。
- 10同同おなじじじ日日ひ醍醐醍醐だいごにもにもにも圓光院圓光院えんこういんとてとてとて供養供養くようせさせせさせせさせ給給たまへりへりえり。。。九月九月くがつ十五日十五日じゅうごにち、、、白川白川しらかわののの御寺御寺みてらにてにてにて御佛事御佛事おおんぶつじせさせせさせせさせ給給たまふふう。。。廿二日廿二日にじゅうににち正正じょう日日ひににに、、、同同おなじじじ御寺御寺みてらにてにてにて行行おこなはせはせわせ給給たまふふう。。。
- 11事事ことにににふれてふれてふれて悲悲かなしきしきしき事事こと、、、見見みたてまつるたてまつるたてまつる人人ひとまでまでまで、、、胸胸むねあかぬあかぬあかぬ時時ときになんあるべきになんあるべきになんあるべき。。。朝朝あさななな夕夕ゆうなのなのなの御心御心みこころちちち、、、「「「御垣御垣みかきののの柳柳やなぎももも池池いけのののはははちすもちすもちすも、、、昔昔むかしををを戀戀こふるつまとぞなりふるつまとぞなりふるつまとぞなり侍侍はべりけるりけるりける。。。寬寬かん治治じ元年元年がんねんしはすのしはすのしわすの頃頃ころ、、、皇太后宮皇太后宮こうたいこうぐうををを贈贈おくりたてまつらせりたてまつらせりたてまつらせ給給たまふふう。。。いにしへもいにしへもいにしえも今今いまももも、、、かゝるたぐひなんおはしましけるかゝるたぐひなんおはしましけるかかるたぐいなんおわしましける。。。
現代語訳
この帝(堀河)の御母は、権中納言隆俊の御娘を母とする、六条右大臣(顕房)の御娘でいらっしゃいましたが、大殿(師実)が御養女になさって、延久三年三月九日、御年十五で、白河院が東宮でいらしたときの御息所として入内させなさいました。同じ五年七月二十三日に女御と申し上げるようになって、四位の位をお受けになります。承保元年六月二十日に后にお立ちになります。御年十八でいらっしゃいました。十二月二十六日に前坊(敦文親王)をお産みになります。三年四月五日に郁芳門院がお生まれになって、その後、二条の大皇太后宮(令子内親王)をお産みになりました。御年二十三で、この帝(堀河)をお産みになりました。応徳元年九月二十二日、三条の内裏でお亡くなりになりました。御年は二十八と申しました。村上天皇の御母(穏子)が梨壺で亡くなられた後、内裏で后がお亡くなりになることは、これが初めてでございました。二十四日に備後守経成の四条高倉の家にお移し申し上げて、十月一日に鳥部野にお送り申し上げて、煙となってのぼってゆかれました。悲しさはたとえようもありません。まだ三十にもならないのに、多くの宮たちを産み残されて、帝のご寵愛は比べるものもないほどでしたのに、はかなくお亡くなりになったので、世の中は真っ暗になったようでした。
白河天皇は在位中でいらしたので、廃朝ということで三日間は昼の御座の御簾も下ろされ、政務もなく、お嘆きになることは、唐の李夫人や楊貴妃などの例のようだと聞きました。お嘆きのあまりに、多くの御堂や御仏を造ってご供養申し上げなさいました。比叡山のふもとに円徳院と申し上げる御堂の御願文に、匡房中納言が「七夕の深き契りによりて、驪山の雲に悵望することなかれ(七夕の深い契りによって、驪山の雲を恨めしげに眺めることのないように)」と書いております。飯室には勝楽院という御堂を造って、翌年の二月に供養をなさいました。八月には法勝寺の内に常行堂を造らせなさって、仁和寺入道宮(性信)によって供養をなさいます。同じ日に醍醐にも円光院という御堂を供養なさいました。九月十五日、白河の御寺(法勝寺)で御仏事をなさいます。二十二日の御正日(一周忌)に、同じ御寺で行わせなさいます。事にふれて悲しいことは、拝見する人まで胸のふさがる時でありましょう。朝夕のお気持ちは、「御垣の柳も池の蓮も、昔を恋しく思うきっかけとなりました」。寛治元年十二月ごろ、皇太后宮を追贈申し上げなさいます。昔も今も、このような例があるのです。
意訳
中宮賢子は、村上源氏の源顕房の娘だが、摂関家の藤原師実の養女として入内した。白河天皇の寵愛を一身に受け、敦文親王・郁芳門院媞子・令子内親王・堀河天皇らを産んだが、応徳元年(1084)に二十八歳で亡くなった。
天皇は在位中のため廃朝して喪に服し、その嘆きは漢の武帝の李夫人、唐の玄宗の楊貴妃になぞらえられた。匡房の願文の「驪山の雲」は、玄宗と楊貴妃が七夕の夜に長生殿で永遠の愛を誓った故事をふまえる。円徳院・勝楽院・常行堂・円光院と、次々に御堂を建てて供養したことが、章題の「所々の御寺」の由来である。
語釈・文法注
- 隆俊
- 源隆俊(1025〜1075)。権中納言。
- 大殿
- 藤原師実(1042〜1101)。頼通の子。関白。京極殿と呼ばれた。
- 前坊
- 敦文親王(1075〜1077)。白河天皇の第一皇子。東宮に立つ前に夭折した。
- 二條の大ぎさきの宮
- 令子内親王(1078〜1144)。白河天皇の皇女。鳥羽天皇の准母として皇后・太皇太后となった。
- 村上の御母
- 藤原穏子(885〜954)。醍醐天皇の中宮で、朱雀・村上天皇の母。天暦八年(954)に内裏の昭陽舎(梨壺)で亡くなった。
- 鳥部野
- 京の東山の葬送の地。
- 李夫人
- 前漢の武帝の寵愛した夫人。早世し、武帝は方士にその魂を招かせたという。
- 圓德院
- 白河天皇が賢子のために比叡山のふもと(坂本)に建てた御堂。
- 驪山の雲
- 驪山は唐の都長安の東の山で、華清宮があった。玄宗と楊貴妃の遊んだ所。
- 飯室
- 比叡山の横川の一地区。
- 常行堂
- 常行三昧(阿弥陀仏の周りを歩きながら念仏する修行)を行う堂。
- 御正日
- 一周忌の当日。
文法
- これぞおはしましける
- 「これぞ(初めて)おはしましける」の意。
- 胸あかぬ
- 胸のつかえが晴れない。
解説
白河天皇の賢子への愛情は深く、その死後は女性を近づけなかったとも伝えられる。賢子の産んだ堀河天皇への譲位、媞子内親王(郁芳門院)への溺愛も、この愛情の延長にあった。今鏡は、その悲しみを御堂の建立という形で具体的に記している。
村上源氏出身の賢子が摂関家の養女として入内し、天皇の母となったことは、村上源氏の興隆と、摂関家と天皇との関係の変化とを象徴する出来事でもあった。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、73〜75頁(コマ51–52)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日