今鏡 第二「すべらぎの中」 第14章
玉章
白河天皇の第二皇子、堀河天皇の御代。笛にすぐれ、和歌を好んだ天皇のもとで、艶書合や堀河百首が催された。源俊頼の連歌の逸話を交えつつ、叔母篤子内親王を中宮とし、女御苡子の死を悼んだ歌を残した天皇は、在位二十一年、二十九歳で崩御した。
- 1のみかどのみかどのみかどははは、、、白河白河しらかわののの法皇法皇ほうおうののの第二第二だいにののの御子御子みこにおはしましきにおはしましきにおわしましき。。。そのそのその御母御母おおんはは、、、贈贈ぞう太皇太后宮太皇太后宮たいこうたいこうぐう中宮中宮ちゅうぐうなりなりなり。。。關白太政大臣師實關白太政大臣師實かんぱくだいじょうだいじんもろざねのおとゞののおとゞののおとどの御御おんむすめむすめむすめ、、、誠誠まことにににははは、、、右大臣右大臣うだいじん源源げん顯顯あらわ房房ぼうのおとゞののおとゞののおとどの御御おんむすめなりむすめなりむすめなり。。。
- 2このみかどこのみかどこのみかど、、、承承うけたまわ曆曆りやく三年三年さんねんつちのとつちのとつちのと未未ひつじ、、、二月二月にがつ十日十日とおか生生うまれさせまれさせまれさせ給給たまへりへりえり。。。應應おう德德とく三年三年さんねん十一月十一月じゅういちがつ廿六日廿六日にじゅうろくにち位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまふふう。。。御御おんとしとしとし八八やつつつ、、、このみかどこのみかどこのみかど御心御心みこころばへあてにやさしくおはしましけりばへあてにやさしくおはしましけりばえあてにやさしくおわしましけり。。。
- 3そのそのその中中なかににに、、、笛笛ふえをををすぐれてすぐれてすぐれて吹吹ふかせかせかせ給給たまひてひていて、、、あさあさあさ夕夕ゆうべににに御御おんあそびあればあそびあればあそびあれば、、、ののの名對面名對面なだいめんなどなどなど申申もうすもすもすも、、、調子調子ちょうしたかうとてたかうとてたこうとて、、、曉曉あかつきになるになるになるをををりもありけりりもありけりりもありけり。。。
- 4そのそのその御時御時おおんとき、、、笛笛ふえふきふきふき給給たまふふう殿上人殿上人てんじょうびとももも、、、笛笛ふえののの師師しなどなどなど皆皆みな「「「かのかのかの御時御時おおんとき給給たまはははりたるりたるりたるふみなりふみなりふみなり」」」。。。などいひてなどいひてなどいいて、、、末末すえののの世世よまでまでまで持持もちあはれちあはれちあわれ侍侍はべるなりるなりるなり。。。といふといふという笙笙しょうのののふえふきふえふきふえうき、、、御御おんおぼえにておぼえにておぼえにて、、、夏夏なつははは所所ところににに氷氷こおりめしてめしてめして賜賜たまふふう。。。
- 5おのづからなきおのづからなきおのずからなき折折おりありけるにありけるにありけるにははは、、、すゞしきすゞしきすずしき御扇御扇おおんおうぎなりとてなりとてなりとて、、、たまはせなどせさせたまはせなどせさせたまわせなどせさせ給給たまひけりひけりいけり。。。のおほきおとゞのおほきおとゞのおおきおとど、、、近衞近衞こんえのすけにおはしけるのすけにおはしけるのすけにおわしけるほどなどほどなどほどなど、、、夜夜よもすがらもすがらもすがら御笛御笛おおんふえふかせふかせふかせ給給たまひてぞあかさせひてぞあかさせいてぞあかさせ給給たまひけるひけるいける。。。
- 6をもをもをもたぐひなくよませたぐひなくよませたぐいなくよませ給給たまひてひていて、、、さつきのさつきのさつきの頃頃ころ、、、つれ〴〵におぼしめしけるにやつれ〴〵におぼしめしけるにやつれずれにおぼしめしけるにや。。。歌歌うたよむよむよむ男女男女なんにょ、、、よみかよみかよみかはははさせてさせてさせて御覽御覽ごらんじけりじけりじけり。。。大納言大納言だいなごん、、、中納言中納言ちゅうなごんなどよりなどよりなどより始始はじめてめてめて、、、などいふなどいふなどいう人々人々ひとびとももも、、、さま〴〵のさま〴〵のさまざまの薄樣薄樣うすようににに、、、かきてやりかきてやりかきてやり給給たまひけりひけりいけり。。。
- 7女女おんなはははノノノ內侍內侍ないし、、、四條四條しじょうノノノ宮宮みやののの筑前筑前ちくぜん、、、高倉高倉たかくらののの一宮一宮いちのみやののの紀伊紀伊きい、、、ノノノ齋宮齋宮さいぐうのゆりのゆりのゆり花花はな、、、皇后宮皇后宮こうごうぐうののの肥後肥後ひご、、、津津つののの君君きみなどいふなどいふなどいう、、、ところ〴〵のところ〴〵のところどころの女房女房にょうぼう、、、わわわれも〳〵とれも〳〵とれもれもと返返かえしあへりしあへりしあえり。。。
- 8又女又女またおんなのののうらみたるうらみたるうらみたる歌歌うたよみてよみてよみて、、、男男おとこのがりやりなどしたるのがりやりなどしたるのがりやりなどしたる、、、堀河院堀河院ほりかわのいんのののとてとてとて、、、末末すえののの世世よまでとゞまりてまでとゞまりてまでとどまりて、、、よきよきよき歌歌うたはははおほくおほくおおく撰集撰集せんしゅうなどになどになどに入入いれるなるべしれるなるべしれるなるべし。。。
- 9にてぞにてぞにてぞ、、、講講こうじてきこしめしけるじてきこしめしけるじてきこしめしける。。。又又また時時ときのののうたよみうたよみうたよみ十四人十四人じゅうよにんににに、、、、、、おの〳〵におの〳〵におのおのに奉奉たてまつらせらせらせ給給たまひけりひけりいけり。。。男男おとこをををんなんなんな僧僧そうなどなどなど、、、歌人歌人うたびとみなみなみな名名なあらはれたるあらはれたるあらわれたる人々人々ひとびとなりなりなり。。。
- 10題題だいははは匡房匡房まさふさののの中納言中納言ちゅうなごんぞたてまつりけるぞたてまつりけるぞたてまつりける。。。このこのこの世世よののの人人ひと、、、歌歌うたよむなかだちによむなかだちによむなかだちにははは、、、それなむせらるなるそれなむせらるなるそれなむせらるなる。。。作作つくられられられ侍侍はべりけるころりけるころりけるころ、、、殿上人殿上人てんじょうびとにににあてられあてられあてられ侍侍はべりけるにりけるにりけるに、、、俊賴俊賴としより歌人歌人うたびとにておはしけるににておはしけるににておわしけるに、、、百首歌百首歌ひゃくしゅのうたあんぜむとすればあんぜむとすればあんぜむとすれば、、、いついついつ文字文字もじにににははは華鬘華鬘けまんとのみおかるゝととのみおかるゝととのみおかるると聞聞きかせたまひてかせたまひてかせたまいて、、、ふびんのふびんのふびんの事事ことかなとてかなとてかなとて、、、のぞかせのぞかせのぞかせ給給たまひけるとぞひけるとぞいけるとぞ、、、きこえきこえきこえ侍侍はべりしりしりし。。。
- 11いづれのいづれのいずれの頃頃ごろにかありけむにかありけむにかありけむ。。。南殿南殿なでんかかか仁壽殿仁壽殿じじゅうでんかにてかにてかにて、、、御覽御覽ごらんじつかはしけるにじつかはしけるにじつかわしけるに、、、誰誰たれにかれにかれにか有有ありけむりけむりけむ、、、殿上人殿上人てんじょうびとののの參參まいりてりてりて、、、殿上殿上てんじょうにのぼりてゐたりければにのぼりてゐたりければにのぼりていたりければ、、、
- 12雲雲くものののうへにうへにうえに雲雲くものののうへうへうえ人人ひとのぼりゐぬのぼりゐぬのぼりいぬ
- 13ととと仰仰おおせられけるにせられけるにせられけるに、、、俊賴俊賴としよりのきみのきみのきみ、、、
- 14候候そうらひもせでひもせでいもせで
- 15ととと付付つけられたりけるけられたりけるけられたりけるををを、、、詞詞ことばとゞこほりたりととゞこほりたりととどこおりたりと聞聞きこゆれどこゆれどこゆれど、、、心心こころばせもあるばせもあるばせもある事事ことととと聞聞きこゆめりこゆめりこゆめり。。。歌歌うたののの風情風情ふぜい、、、いたづらにいたづらにいたずらにうするうするうする事事ことなりとてなりとてなりとて、、、連歌連歌れんがをばをばをば大方大方おおかたせられざりけりとせられざりけりとせられざりけりと聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしにりしにりしに、、、金葉集金葉集きんようしゅうにぞいとしもなきにぞいとしもなきにぞいとしもなき、、、多多おおくくく集集あつめられたるめられたるめられたる。。。
- 16いたづらにいたづらにいたずらに出出いできたるできたるできたるををを、、、惜惜おしまれまれまれ侍侍はべるなるべしるなるべしるなるべし。。。ののの君君きみががが連歌連歌れんがははわ、、、「「「つきくさのつきくさのつきくさのうつしのもとのくつわうつしのもとのくつわうつしのもとのくつわ虫虫むし」」」、、、などしたるなどしたるなどしたるをををいふいふいう也也なり。。。
- 17又又また「「「からかどやこのみかどともたゝくかなからかどやこのみかどともたゝくかなからかどやこのみかどともたたくかな」」」。。。などなどなど侍侍はべりけりりけりりけり。。。木工木工もくノノノ頭頭かしら俊賴俊賴としよりももも、、、高陽院高陽院かやのいんののの大殿大殿おおとののののひめひめひめ君君きみととと聞聞きこえこえこえ給給たまひしひしいし時時とき、、、作作つくりてりてりて奉奉たてまつりりり給給たまへりとかへりとかえりとか聞聞きこゆるゆるゆる、、、和歌和歌わかのよむべきのよむべきのよむべきやうなどやうなどようなど侍侍はべるるるふみにふみにふみにははは、、、ののの中將中將ちゅうじょうののの連歌連歌れんが、、、伊勢伊勢いせノノノ大輔大輔たいふががが、、、「「「こここはははえもいはぬえもいはぬえもいわぬ花花はなののの色色いろかなかなかな」」」。。。
- 18ととと付付つけたるけたるけたる事事ことなどなどなど、、、いといといと優優ゆうなることにこそなることにこそなることにこそ侍侍はべるなればるなればるなれば、、、連歌連歌れんがをもをもをも、、、うけぬことにうけぬことにうけぬことに、、、ひとへにしひとへにしひとえにし給給たまふともふともうとも聞聞きこえずこえずこえず。。。おおおほかたほかたほかたははは、、、見見みるるる事聞事聞こときくくく事事ことにつけてにつけてにつけて、、、かねてぞよみまうけられけるかねてぞよみまうけられけるかねてぞよみもうけられける。。。
- 19當座當座とうざによむによむによむことことことはははすくなくすくなくすくなく、、、とかきてぞとかきてぞとかきてぞ侍侍はべりつるりつるりつる。。。さてさてさて侍侍はべりけるにやりけるにやりけるにや。。。家集家集かしゅうににに、、、きゝときゝきゝときゝききときき給給たまへりけるとおぼゆることへりけるとおぼゆることえりけるとおぼゆることををを、、、よみよみよみ集集あつめられめられめられ侍侍はべるめりるめりるめり。。。
- 20これこれこれははは連歌連歌れんがのついでにのついでにのついでに、、、うけたまはりしことうけたまはりしことうけたまわりしことををを申申もうししし侍侍はべるになむるになむるになむ。。。
- 21さてさてさて此此こののの御時御時おおんときににに、、、御息所御息所みやすんどころははは、、、これかれこれかれこれかれ定定さだめられめられめられ給給たまへりけれどもへりけれどもえりけれども、、、御御おんをばをばをばののの前齋院前齋院さきのさいいんぞぞぞににに參參まいりりり給給たまひてひていて、、、中宮中宮ちゅうぐうにたちにたちにたち給給たまひしひしいし。。。殊殊ことののの外外ほかののの御御おんよはひなれどよはひなれどよわいなれど、、、幼幼おさなくよりくよりくより類類たぐひなくひなくひなく見見みとりたてまつらせとりたてまつらせとりたてまつらせ給給たまひてひていて、、、たゞたゞただ四四しののの宮宮みやをををとかやとかやとかや、、、おぼせりければにやおぼせりければにやおぼせりければにや侍侍はべりけんりけんりけん。。。
- 22參參まいらせらせらせ給給たまひけるひけるいける夜夜よももも、、、いとあはぬいとあはぬいとあわぬ事事ことにてにてにて、、、御車御車みくるまにもたてまつらざりければにもたてまつらざりければにもたてまつらざりければ、、、曉近曉近あかつきちかくなるまでぞくなるまでぞくなるまでぞ、、、心心こころもとなくもとなくもとなくはべりけるはべりけるはべりける。。。鳥羽鳥羽とばののの帝帝みかどののの御母御母おおんははののの女御女御にょうごどのもどのもどのも參參まいりりり給給たまひてひていて、、、院院いんもてなしきこえさせもてなしきこえさせもてなしきこえさせ給給たまへばへばえば、、、はなやかにおはしましゝかどもはなやかにおはしましゝかどもはなやかにおわしまししかども、、、中宮中宮ちゅうぐうはははつきせぬつきせぬつきせぬ御心御心みこころざしになむざしになむざしになむ、、、きこえさせきこえさせきこえさせ給給たまひしひしいし。。。女御女御にょうごうせさせうせさせうせさせ給給たまひてのころひてのころいてのころ、、、
- 23梓弓梓弓あずさゆみはははるのるのるの山山やまべのかすみこそべのかすみこそべのかすみこそ戀戀こいしきしきしき人人ひとのかたみなりけれのかたみなりけれのかたみなりけれ
- 24とよませとよませとよませ給給たまへりけるこそへりけるこそえりけるこそ、、、あはれにあはれにあわれに御御おんなさけなさけなさけ多多おおくきこえくきこえくきこえ侍侍はべりしかりしかりしか。。。
- 25末末すえののの世世よのみかどのみかどのみかど、、、廿一廿一にじゅういち年年としまでたもたせまでたもたせまでたもたせ給給たまふふう、、、いとありがたきいとありがたきいとありがたき事事ことなりなりなり。。。時時ときののの人人ひとををを得得えさせさせさせ給給たまへるへるえる、、、誠誠まことにさかりなりけりにさかりなりけりにさかりなりけり。。。一一いちのかみにてのかみにてのかみにてののの左左ひだりのおとゞのおとゞのおとど、、、物物ものかくかくかく宰相宰相さいしょうにてにてにて通俊通俊みちとし、、、匡房匡房まさふさ、、、藏人藏人くろうどノノノ頭頭とうにてにてにて季仲季仲すえなかありありあり。。。
- 26昔昔むかしににに耻耻はぢぬぢぬじぬ世世よなりなりなり。。。などぞおほせられけるなどぞおほせられけるなどぞおおせられける。。。みち〳〵のみち〳〵のみちみちの博士博士はかせももも、、、すぐれたるすぐれたるすぐれたる人人ひと、、、多多おおかるかるかる世世よになむになむになむ侍侍はべりしりしりし。。。このみかどこのみかどこのみかど、、、みそぢにだにみそぢにだにみそじにだに滿滿みたせたせたせ給給たまはぬはぬわぬ、、、世世よののの惜惜おしみたてまつるみたてまつるみたてまつる事事こと、、、限限かぎりなかるべしりなかるべしりなかるべし。。。
- 27そのそのその御御おんありさまありさまありさま、、、內侍內侍ないしのすけのすけのすけとかとかとか聞聞きこえこえこえ給給たまひしひしいし、、、こまかにかゝれたるこまかにかゝれたるこまかにかかれたるふみふみふみ侍侍はべりとかやりとかやりとかや。。。人人ひとのよまれしのよまれしのよまれしををを、、、ひとかへりひとかへりひとかえりははは聞聞きききき侍侍はべりしりしりし、、、このこのこの中中なかにもにもにも、、、御覽御覽ごらんじてやおはしますらんじてやおはしますらんじてやおわしますらん。。。
現代語訳
堀河天皇は、白河法皇の第二皇子でいらっしゃいました。その御母は贈太皇太后宮賢子中宮です。関白太政大臣師実公の御娘で、本当は右大臣源顕房公の御娘です。この帝は承暦三年己未の二月十日にお生まれになりました。応徳三年十一月二十六日に位におつきになります。御年八歳。この帝はお心が上品で優美でいらっしゃいました。その中でも、笛をすぐれてお吹きになって、朝夕に管弦のお遊びがあるので、滝口の武士が名のりを申すのも、(笛の)調子が高いといって、夜明けになることもありました。その御時に笛を吹きなさった殿上人も、笛の師なども皆、「あの御時にいただいた楽譜だ」などと言って、後の世まで持ち合っております。時元という笙の笛吹きはご寵愛を受けて、夏は御厨子所に氷を取り寄せてお与えになります。たまたま氷のない時には、涼しい御扇だといってお与えになったりしました。宗輔の太政大臣が近衛の次将でいらしたころなど、一晩中御笛をお吹きになって夜を明かされました。
和歌も比べるものがないほどお詠みになって、五月のころ、所在なくお思いになったのでしょうか、歌を詠む男女に詠み交わさせてご覧になりました。大納言公実・中納言国信などをはじめとして、俊頼などという人々も、さまざまな薄様の紙に書いて贈りなさいました。女は周防内侍、四条宮の筑前、高倉の一宮の紀伊、前斎宮のゆり花、皇后宮の肥後、津の君などという、あちこちの女房が、我も我もと返歌し合いました。また女が恨んだ歌を詠んで男のもとへ贈りなどしたのは、堀河院の艶書合といって後の世まで残って、よい歌は多く撰集などに入っているでしょう。二間で披講してお聞きになりました。また当代の歌詠み十四人に、百首歌をそれぞれ奉らせなさいました。男・女・僧など、歌人として皆名の知られた人々です。題は匡房中納言が奉りました。今の世の人が歌を詠む手本には、それを用いているようです。尊勝寺が造られたころ、殿上人に華鬘(の調進)が割り当てられたところ、俊頼は歌人でいらしたのに、百首歌を考えようとすると、五文字(初句)には華鬘とばかり置いてしまうとお聞きになって、気の毒なことだといって、(割り当てから)お除きになったと聞きました。
いつのころでありましたでしょうか、南殿か仁寿殿かで、(帝が)ご覧になっていたところ、誰であったか、殿上人が参って殿上の間にのぼって座っていたので、
雲のうへに雲のうへ人のぼりゐぬ
とおっしゃったところ、俊頼の君が、
しもさぶらひに候ひもせで
と付けられたのを、言葉はぎこちないと聞こえるけれども、機転がきいていると聞こえるようです。(俊頼は)歌の風情がむだに失われることだといって、連歌はほとんどなさらなかったと聞いておりましたのに、金葉集にはつまらない連歌が多く集められています。むだに出来たものを惜しまれたのでしょう。基俊の君の連歌は、「つきくさのうつしのもとのくつわ虫」などとしたものをいうのです。また「からかどやこのみかどともたたくかな」などとありました。木工頭俊頼も、高陽院の大殿(忠実)の姫君(泰子)と申し上げた時に作って差し上げなさったとかいう、和歌の詠み方などを記した書物には、道信中将の連歌に伊勢大輔が「こはえもいはぬ花の色かな」と付けたことなどを、たいそう優美なことと書いていますので、連歌も嫌って、全くなさらなかったとも聞こえません。たいていは、見ること聞くことにつけて、前もって詠みためておかれました。その場で詠むことは少なく、擬作と書いてありました。そうしておかれたのでしょうか、家集に、聞いたことを聞いたままにと思われることを詠み集めておられるようです。これは連歌のついでに、うかがったことを申し上げたのです。
さてこの御時に、御息所は誰かれと定められなさいましたけれども、御叔母の前斎院(篤子内親王)が女御として入内なさって、中宮にお立ちになりました。ことのほかのお年(の差)でしたが、幼い時から比べるものもないほど大切にお世話申し上げなさって、ただ四の宮(篤子)をと思っていらしたからでしょうか。入内なさる夜も、たいそう気が進まないことで、御車にもお乗りにならなかったので、明け方近くなるまで気がかりなことでございました。鳥羽の帝の御母の女御殿(苡子)も入内なさって、院(白河)が大切にお扱い申し上げなさったので、華やかでいらっしゃいましたが、中宮には尽きないご愛情を寄せておられると評判でした。女御がお亡くなりになったころ、
梓弓はるの山べのかすみこそ戀しき人のかたみなりけれ
とお詠みになったのは、しみじみと情け深く聞こえました。末の世の帝で二十一年も世を保たれたのは、まことにめったにないことです。時の人材を得ていらしたのも、まことに盛んでした。一の上(筆頭の大臣)として堀河左大臣(俊房)、文章にすぐれた宰相として通俊・匡房、蔵人頭として季仲がいる。昔に恥じない世だ、などとおっしゃいました。諸道の博士も、すぐれた人が多い世でございました。この帝が三十歳にもならずに(崩御されたのを)、世の人が惜しみ申し上げることは限りもないでしょう。そのご様子は、典侍の讃岐とか申し上げた方が、細かく書かれた書物があるとか。人が読まれたのを、一度は聞きました。この中にも、ご覧になった方がいらっしゃるでしょう。
意訳
堀河天皇は八歳で即位し、父白河院の院政のもとで在位した。今鏡は、政治よりも天皇の風雅を描くことに力を注ぐ。笛の名手で、楽人時元に氷がなければ扇を与え、近衛次将の宗輔と夜通し笛を吹いたという逸話は、音楽を愛した天皇の人柄をよく伝えている。章題の「玉章」は、艶書合の恋文(玉章)による。
康和四年(1102)の艶書合は、男女の歌人が恋文の歌を贈答し合う趣向の催しで、堀河百首(堀河院御時百首和歌)は、のちの百首歌の規範となった。俊頼が華鬘の調進で歌作りに支障をきたしていると聞き、その負担を免じた話には、歌人を大切にする天皇の配慮がうかがえる。
「雲のうへに雲のうへ人のぼりゐぬ」に俊頼が付けた「しもさぶらひに候ひもせで」は、「雲の上(殿上)」と「下侍(しもさぶらい)」を対比した機知の句。語り手はここから話を広げ、俊頼の連歌観や基俊の連歌、俊頼髄脳に見える道信と伊勢大輔の連歌にまで触れている。
後半は后妃の話。堀河天皇は十九歳年上の叔母篤子内親王を中宮とし、深く愛した。一方、白河院の意向で入内した苡子は鳥羽天皇を産んでまもなく亡くなり、天皇は「梓弓」の歌で哀悼した。最後は、人材に恵まれた御代をたたえ、二十九歳での崩御を惜しんで、『讃岐典侍日記』に触れて結ぶ。
語釈・文法注
- 堀河のみかど
- 第七十三代堀河天皇(1079〜1107)。名は善仁。
- 賢子中宮
- 藤原賢子。源顕房の娘で、藤原師実の養女。
- 瀧口の名對面
- 宮中を警護する滝口の武士が、夜、清涼殿の前で名のりをすること。
- 時元
- 豊原時元(1058〜1123)。笙の名手。
- みづし所
- 御厨子所。天皇の食事を調える所。
- 宗輔のおほきおとゞ
- 藤原宗輔(1077〜1162)。笛の名手。太政大臣。
- 大納言公實
- 藤原公実(1053〜1107)。閑院流。待賢門院の父。
- 中納言國信
- 源国信(1069〜1111)。歌人。
- 俊賴
- 源俊頼(1055〜1129)。歌人。『金葉和歌集』の撰者。歌論書『俊頼髄脳』を著した。
- 周防ノ內侍
- 周防内侍。後冷泉から堀河までの四代に仕えた女房歌人。
- 艷書合
- 男女の歌人が恋文の歌を贈答し合う形の歌合。康和四年(1102)閏五月に行われた。
- 二間
- 清涼殿の、夜の御殿の東にある部屋。
- 百首歌
- 堀河百首。十四人(のち十六人)の歌人が、匡房の定めた百の題で詠んだ。
- 尊勝寺
- 堀河天皇の御願寺。六勝寺の一つ。康和四年(1102)供養。
- 華鬘
- 仏前を飾る装飾具。造営の際、殿上人に調進が割り当てられた。
- しもさぶらひ
- 下侍。殿上の間の南にある、侍臣の控える所。「雲の上」に対していう。
- 基俊
- 藤原基俊(1060〜1142)。歌人。俊頼と並ぶ歌壇の重鎮。
- 和歌のよむべきやうなど侍るふみ
- 『俊頼髄脳』。藤原忠実の娘泰子(のちの高陽院)のために書かれた歌論書。
- 道信の中將
- 藤原道信(972〜994)。歌人。
- 擬作
- その場で詠んだ形をとるが、前もって作っておいた歌。
- 前齋院
- 篤子内親王(1060〜1114)。後三条天皇の皇女で、堀河天皇の叔母。十九歳年上で中宮となった。
- 女御どの
- 藤原苡子(1076〜1103)。藤原実季の娘。鳥羽天皇を産んで亡くなった。
- 堀河の左のおとゞ
- 源俊房(1035〜1121)。師房の子。左大臣。
- 內侍のすけ讃岐
- 藤原長子。讃岐典侍。堀河天皇の発病から崩御までを記した『讃岐典侍日記』の作者。
文法
- 持ちあはれ侍るなり
- 「あはれ」は「あへ(合ふ)」の誤りか。持ち合っております。
- もてかしづき
- 大切に世話をする。
- 御車にもたてまつらざりければ
- 「たてまつる」は「乗る」の尊敬語。
和歌
雲のうへに雲のうへ人のぼりゐぬ
- 詠者
- 堀河天皇
- 状況
- 殿上人が殿上の間に上って座っているのを見て、天皇が詠みかけた連歌の上の句。
修辞
- 掛詞
- 「雲のうへ」に宮中と、文字どおりの雲の上をかける。
しもさぶらひに候ひもせで
- 詠者
- 源俊頼
- 状況
- 天皇の上の句に付けた下の句。
修辞
- 対比
- 「雲のうへ」に「しも(下)」を対させ、下侍に控えもせずに上ったことを機知的にとがめる。
梓弓はるの山べのかすみこそ戀しき人のかたみなりけれ
- 詠者
- 堀河天皇
- 状況
- 女御苡子が亡くなったころ詠んだ歌。
修辞
- 枕詞
- 「梓弓」は「はる」にかかる。
- 見立て
- 火葬の煙を、春の山辺の霞にたとえ、亡き人の形見とする。
解説
堀河天皇の御代(1086〜1107)は、白河院政の初期にあたるが、天皇は政務にも熱心で、人材に恵まれた。今鏡が並べる俊房・通俊・匡房・季仲は、それぞれ政界と学問の第一人者である。
『讃岐典侍日記』は、堀河天皇に仕えた藤原長子が、天皇の病と崩御を克明に記した作品。今鏡の語り手が「人のよまれしを、ひとかへりは聞き侍りし」と言うのは、当時この日記が読み聞かせの形で享受されていたことを示す貴重な証言である。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、67〜72頁(コマ48–51)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日