今鏡 第二「すべらぎの中」 第13章
釣せぬ浦々
白河院は人の任官にけじめをつけ、学才のある者を重んじた。藤原顕隆の機知を喜び、顕頼の不備は厳しくとがめる。金泥の一切経を書写させ、殺生を禁じて漁や狩りを絶やした。娘の郁芳門院の死を嘆いて出家し、大治四年七月七日に崩御した。
- 1此此こののの御時御時おおんときぞぞぞ、、、昔昔むかしのあとのあとのあとををを起起おこさせこさせこさせ給給たまふふう事事ことははは多多おおくくく侍侍はべりしりしりし。。。人人ひとののの官官かんなどなさせなどなさせなどなさせ給給たまふふう事事ことももも、、、よしありてよしありてよしありて、、、たたたはやはやはやすくもなさせすくもなさせすくもなさせ給給たまはざりけりはざりけりわざりけり。。。
- 2六條六條ろくじょうののの修理修理すり大夫大夫だいぶといひしといひしといいし人人ひと、、、世世よのおぼえありておはせしにのおぼえありておはせしにのおぼえありておわせしに、、、といひしといひしといいし博士博士はかせののの、、、「「「などなどなど殿殿どのはははにににはははならせならせならせ給給たまはぬぞはぬぞわぬぞ。。。宰相宰相さいしょうになるになるになる道道みちははは七七ななつつつ侍侍はべるなりるなりるなり。。。中中なかににに三位三位さんみにおはすめりにおはすめりにおわすめり。。。又又また五國五國いつくに治治おさめたるめたるめたる人人ひとももも、、、成成なるとこそるとこそるとこそははは見見みえええ侍侍はべれれれ」」」。。。
- 3といひけれといひけれといいけれははは、、、「「「顯季顯季あきすえももも、、、さおもひてさおもひてさおもいて、、、御氣色御氣色みけしきとりたりしかばとりたりしかばとりたりしかば、、、「「「それもそれもそれもかくうへのかくうへのかくうえの事事ことなりなりなり」」」。。。ととと仰仰おおせられしかばせられしかばせられしかば、、、申申もうすにもおよばでやみにきすにもおよばでやみにきすにもおよばでやみにき」」」。。。
- 4とぞいはれとぞいはれとぞいわれ侍侍はべりけるりけるりける。。。またまたまたののの中納言中納言ちゅうなごんといひしといひしといいし人人ひと、、、世世よにににはははよるのよるのよるの關白關白かんぱくなどなどなど聞聞きこえしもこえしもこえしも、、、「「「辨辨べんになさむとになさむとになさむと思思おもふにふにうに、、、詩詩し作作つくらでらでらではははいかゞあらむいかゞあらむいかがあらむ。。。四韻詩四韻詩しいんのし作作つくるるる者者ものこそこそこそ辨辨べんにににはははなれなれなれ」」」。。。
- 5ととと仰仰おおせられければせられければせられければ、、、おどろきておどろきておどろきて好好このみなどせられけりみなどせられけりみなどせられけり。。。事事ことににに明明あきらかにおはしましてらかにおはしましてらかにおわしまして、、、はかなきことはかなきことはかなきことをもをもをも、、、はえ〴〵しくはえ〴〵しくはえばえしく感感かんぜさせぜさせぜさせ給給たまふふう。。。又又またやすきやすきやすき事事ことをもをもをも、、、きびしくなむおはしましけるきびしくなむおはしましけるきびしくなむおわしましける。。。
- 6いづれのいづれのいずれの山山やまとかとかとか。。。御祈御祈おおんいのりのりのりの賞行賞行しょうおこなはむとおぼされけるにはむとおぼされけるにわむとおぼされけるに、、、たゞたゞただ御布施御布施おおんふせばかりばかりばかり給給たまはむはむわむははは、、、懇懇ねんごろにおぼしめすにおぼしめすにおぼしめす本意本意ほいなかるべしなかるべしなかるべし。。。などなどなど寄寄よせおかむこそかひあるべきにせおかむこそかひあるべきにせおかむこそかいあるべきに、、、さすがさせるさすがさせるさすがさせる事事ことなくてなくてなくて、、、さるさるさる事事こともたもたもたはやはやはやすかるべしとすかるべしとすかるべしと、、、おぼしわづらはせおぼしわづらはせおぼしわずらわせ給給たまへるへるえるををを、、、顯隆顯隆あきたかののの中納言中納言ちゅうなごん、、、「「「しかしかしか侍侍はべらららははは、、、たゞこのたびたゞこのたびただこのたび阿闍梨阿闍梨あざりののの宣旨宣旨せんじををを下下くださせさせさせ給給たまひてひていて、、、ながくよせらるゝながくよせらるゝながくよせらるる事事ことはははなくてなくてなくて候候そうらへかしへかしえかし」」」。。。
- 7ととと申申もうされければされければされければ、、、「「「誠誠まことにしかこそあるべかりけれにしかこそあるべかりけれにしかこそあるべかりけれ。。。己己おのれなからましかばれなからましかばれなからましかば、、、我我われいかゞせましれいかゞせましれいかがせまし」」」。。。とぞとぞとぞ、、、かひがひしくかひがひしくかいがいしく感感かんぜさせぜさせぜさせ給給たまひけるひけるいける。。。
- 8そのそのその子子このののといひしといひしといいし中納言中納言ちゅうなごんをもをもをも、、、夢夢ゆめににに手手てをををひかれてゆくとひかれてゆくとひかれてゆくと見見みたりしものたりしものたりしものををを、、、などなどなど仰仰おおせられてせられてせられて、、、殊殊ことののの外外ほかにおもほしめせりけるにおもほしめせりけるにおもおしめせりける人人ひとにてにてにて、、、書書ふみののの函函はこなどなどなどひきさげなどするひきさげなどするひきさげなどする事事ことをもをもをも、、、下下くだらうなどめしてらうなどめしてろうなどめして、、、持持もたせさせたせさせたせさせ給給たまふなどふなどうなど、、、重重おもくおもほしめせりけるにくおもほしめせりけるにくおもおしめせりけるに、、、五位五位ごいノノノ藏人藏人くろうどにてにてにて、、、ののの目錄目錄もくろくとかとかとか奏奏そうせられけるにせられけるにせられけるに、、、御覽御覽ごらんじてじてじて、、、あらゝかにあらゝかにあららかに裂裂さかせかせかせ給給たまひてひていて、、、かへしたびければかへしたびければかえしたびければ、、、何事何事なにごとにかとにかとにかと恐恐おそれれれ思思おもひてひていて、、、まかりいでてまかりいでてまかりいでて、、、そのそのその後後のち父父ちちののの中納言中納言ちゅうなごんまゐりたりけるにぞまゐりたりけるにぞまいりたりけるにぞ、、、「「「ははは、、、津津つののの國國くにのののももも、、、まだまだまだ勘勘かんがへぬものへぬものへぬものをばをばをば、、、いかでいかでいかで目錄目錄もくろくににに入入いれてれてれて、、、たてまつりけるぞたてまつりけるぞたてまつりけるぞ」」」。。。
- 9ととと仰仰おおせられなどしてせられなどしてせられなどして、、、さやうのさやうのさようの事事ことももも、、、かくなむおはしけるかくなむおはしけるかくなむおわしける。。。
- 10法文法文ほうもんなどなどなどをもをもをも誠誠まことしくしくしく習習ならはせはせわせ給給たまひけるにこそひけるにこそいけるにこそ。。。ににに、、、六十卷六十卷ろくじっかんといひてといひてといいて、、、法華經法華經ほけきょうののの心心こころとけるとけるとける文文ふみうけさせうけさせうけさせ給給たまへりけるにへりけるにえりけるに、、、西西にしののの京京きょうににに籠籠こもりゐりゐりい給給たまひてひていて、、、比叡比叡ひえののの山山やまののの大衆大衆だいしゅのゆるさゞりければのゆるさゞりければのゆるさざりければ、、、さてさてさて居居い給給たまへりけるへりけるえりける所所ところ、、、とぶらはせとぶらはせとぶらわせ給給たまひけりひけりいけり。。。
- 11西院西院さいいんのののほとけほとけほとけ、、、をがませをがませおがませ給給たまふついでとてぞふついでとてぞうついでとてぞ、、、御幸御幸みゆきありけるありけるありける。。。御法御法みのりのためものためものためも、、、人人ひとのためものためものためも、、、面目面目めんぼくありけるとなんありけるとなんありけるとなん聞聞きききき侍侍はべりしりしりし。。。金泥金泥こんでいのののかゝせかゝせかかせ給給たまへるもへるもえるも、、、もろこしにももろこしにももろこしにも類類たぐひすくなくやとひすくなくやとひすくなくやと聞聞きこえしこえしこえし。。。
- 12そのそのその後後のちこそこそこそ、、、このこのこの國國くににもにもにも、、、あまたあまたあまた聞聞きこえこえこえ侍侍はべれれれ。。。このこのこの院院いんのしのしのしはじめさせはじめさせはじめさせ給給たまへるなりへるなりえるなり。。。又又またきとしきとしきとし生生いけるものゝけるものゝけるものの命命いのちをををすくはせすくはせすくわせ給給たまひてひていて、、、かくれさせかくれさせかくれさせ給給たまふまでおはしましきふまでおはしましきうまでおわしましき。。。
- 13五月五月さつきのさやまにのさやまにのさやまに、、、賤賤しずのののをもをもをもなくなくなく、、、秋秋あきののの夕夕ゆうぐれぐれぐれ浦浦うらににに釣釣つりするあまもするあまもするあまも絕絕たえにきえにきえにき。。。おのづからおのづからおのずから網網あみなどなどなど持持もたるあまのたるあまのたるあまの笘屋笘屋とまやもあればもあればもあれば、、、とりとりとり出出いだしてたくなだしてたくなだしてたくなはははののの殘殘のこるもなくるもなくるもなく烟烟けぶりとなりぬりとなりぬりとなりぬ。。。
- 14もたるもたるもたる主主ぬしはははいひしらぬめどもみていひしらぬめどもみていいしらぬめどもみて、、、罪罪つみをををかぶるかぶるかぶる事事ことかずなしかずなしかずなし。。。ののの御厨御厨みくりやばかりぞゆるされてばかりぞゆるされてばかりぞゆるされて、、、かたのやうにかたのやうにかたのように備備そなへてへてえて、、、そのそのその外外ほかははは、、、殿上殿上てんじょうののの臺盤臺盤だいばんなどもなどもなどもにかはるにかはるにかわる事事ことなかりけりなかりけりなかりけり。。。
- 15位位くらいにおはしましゝにおはしましゝにおわしましし時時ときははは、、、ののの御事御事おおんことなげかせなげかせなげかせ給給たまひてひていて、、、多多おおくのくのくの御堂御堂みどうどもどもども作作つくらせらせらせ給給たまひきひきいき。。。院院いんののの後後のちははは、、、そのそのその御御おんむすめのむすめのむすめのかくれさせかくれさせかくれさせ給給たまへりしこそへりしこそえりしこそ、、、限限かぎりなくなげかせりなくなげかせりなくなげかせ給給たまひてひていて、、、御御おんぐしもおろさせぐしもおろさせぐしもおろさせ給給たまひしぞかしひしぞかしいしぞかし。。。
- 16四十五六四十五六しじゅうごろくののの程程ほどにやにやにや、、、おはしましけむおはしましけむおわしましけむ。。。御御おんなげきのあまりになげきのあまりになげきのあまりに、、、世世よをばをばをばのがれさせのがれさせのがれさせ給給たまへりしかどもへりしかどもえりしかども、、、御受戒御受戒ごじゅかいなどなどなどははは聞聞きこえさせこえさせこえさせ給給たまはははででで、、、佛道佛道ぶつどうののの御名御名みななどもおはしまさゞりけるにやなどもおはしまさゞりけるにやなどもおわしまさざりけるにや。。。
- 17敎王房敎王房きょうおうぼうときこえしときこえしときこえし山山やまののの座主座主ざす、、、御祈御祈おおんいのりのりのりの祭文祭文さいもんににに、、、御名御名みなののの事事こと申申もうされけるにされけるにされけるに、、、「「「いまだいまだいまだ付付つけかぬかぬかぬ」」」。。。ととと仰仰おおせられければせられければせられければ、、、「「「其其そののの心心こころををを得得え侍侍はべりてこそりてこそりてこそ、、、申申もうしあげしあげしあげ侍侍はべらめらめらめ」」」。。。ととと申申もうされけるとかやされけるとかやされけるとかや。。。
- 18そのそのその後後のち久久ひさしくしくしく世世よををを治治おさめさせめさせめさせ給給たまひしひしいし程程ほどににに、、、七月七日七月七日しちがつなのか俄俄にわかににに御心御心みこころ地地じそこなはせそこなはせそこなわせ給給たまひてひていて、、、などきこえしなどきこえしなどきこえしほどにほどにほどに、、、月日月日つきいももも歷歷へさせさせさせ給給たまはははででで、、、やがてかくれさせやがてかくれさせやがてかくれさせ給給たまひにしかばひにしかばいにしかば、、、そらのけしきもそらのけしきもそらのけしきも、、、常常つねにににはははかはりてかはりてかわりて、、、風雨風雨ふううののの音音おともももおどろ〳〵しくおどろ〳〵しくおどろおどろしく、、、日日ひををを重重かさねてねてねて世世よのなげきものなげきものなげきもうちそへたるうちそへたるうちそえたる心地心地ここちしてしてして侍侍はべりきりきりき。。。
- 19あさましきあさましきあさましき心心こころのののうちにもうちにもうちにも、、、すき〴〵しかりしすき〴〵しかりしすきずきしかりし人人ひとにてにてにて、、、平氏平氏へいじののの刑部卿刑部卿ぎょうぶきょうときこえしときこえしときこえし、、、このこのこの折折おり何何なにのかみとかのかみとかのかみとか申申もうしけむしけむしけむ。。。そのそのその歌歌うたとてとてとて傳傳つたへへえ聞聞きききき侍侍はべりしりしりし、、、
- 20又又またもこむもこむもこむ秋秋あきをををまつべきまつべきまつべき七夕七夕たなばたのわかるゝだにもいかゞのわかるゝだにもいかゞのわかるるだにもいかが悲悲かなしきしきしき
- 21とかやとかやとかや。。。鳥羽鳥羽とばノノノ院院いんのおとゞのおとゞのおとど、、、攝政攝政せっしょう殿殿とのなどのなどのなどの、、、わかきわかきわかき御御おんすがたにすがたにすがたに御衣御衣みけしどもどもども染染そめさせめさせめさせ給給たまひてひていて、、、御忌御忌おおんいみののの程程ほど、、、佛佛ほとけののの道道みちのことのことのこと、、、とぶらひとぶらひとぶらい申申もうさせさせさせ給給たまふふう。。。いづれのいづれのいずれの程程ほどににに、、、たれかよませたれかよませたれかよませ給給たまひけるとかやひけるとかやいけるとかや。。。
- 22いかにしていかにしていかにして消消きえにしえにしえにし秋秋あきのしらのしらのしら露露つゆをををはははちすのちすのちすの上上うえののの玉玉たまととと磨磨みがかむかむかむ
- 23といふといふという御歌御歌みゅうた侍侍はべりけるとなむりけるとなむりけるとなむ。。。鳥羽殿鳥羽殿とばどのははは、、、このこのこの法皇法皇ほうおうののの作作つくらせらせらせ給給たまへればへればえれば、、、さやうにやさやうにやさようにや申申もうさむとさむとさむと、、、おもへりしかどもおもへりしかどもおもえりしかども、、、白河白河しらかわにもにもにもかた〴〵かた〴〵かたがた御所御所ごしょどもどもども侍侍はべりしかりしかりしかははは、、、白河院白河院しらかわいんとぞさだめとぞさだめとぞさだめ參參まいらせけるらせけるらせける。。。
- 24此此このみかどののみかどののみかどの御母御母おおんははははは、、、東宮東宮とうぐうののの御息所御息所みやすんどころとてとてとて、、、うせさせうせさせうせさせ給給たまへればへればえれば、、、延延の久久ひさ三年三年さんねん五月五月さつき十八日十八日じゅうはちにち、、、從二位從二位じゅにいおくりたてまつらせおくりたてまつらせおくりたてまつらせ給給たまふふう。。。位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまひてひていて、、、同同おなじきじきじき五年五年ごねん五月五月さつき六日六日むゆか、、、皇后宮皇后宮こうごうぐうおくりおくりおくり奉奉たてまつらせらせらせ給給たまふふう。。。
- 25國忌國忌こきみさゝきなどおかれてみさゝきなどおかれてみささきなどおかれて、、、おなじきおなじきおなじき日日ひ、、、能信能信よしのぶののの大納言殿大納言殿だいなごんどの、、、おほきおとゞおほきおとゞおおきおとど、、、おほきおほきおおき一一ひとつのつのつの位位くらい贈贈おくらせらせらせ給給たまふふう。。。御息所御息所みやすんどころののの御母御母おおんはは、、、秘子秘子やすこととと申申もうしゝにもしゝにもししにも、、、おほきおほきおおきひとつのひとつのひとつの位位くらいををを贈贈おくりりり給給たまふふう、、、これこれこれはははきびのきびのきびの中中なかのつかさのつかさのつかさ、、、知光知光ともみつのぬしのむすめなりのぬしのむすめなりのぬしのむすめなり。。。
現代語訳
この御時に、昔の伝統を復興なさることが多くありました。人を官職におつけになることも、理由があって、たやすくはおつけになりませんでした。六条の修理大夫顕季という人が、院の信任が厚くていらしたところ、敦光という博士が、「どうして殿は宰相にならないのですか。宰相になる道は七つあるそうです。その中に三位でいらっしゃることが含まれているようです。また五か国を治めた人もなれると見えます」と言ったので、「顕季もそう思って院のご意向をうかがったところ、『それも物を書くうえでのことだ(学才がなければならない)』とおっしゃったので、申し上げるまでもなくやめてしまった」と言われました。また顕隆の中納言という人は、世間では「夜の関白」などと呼ばれた人ですが、「弁官にしようと思うのに、詩を作れなくてはどうだろう。四韻の詩を作れる者こそ弁官にはなれるのだ」とおっしゃったので、驚いて詩作に励んだりされました。物事に明らかでいらして、ちょっとしたことでも華やかにお褒めになります。また簡単なことにも厳しくていらっしゃいました。どこの山とか、御祈祷の褒賞をしようとお思いになったが、ただ御布施だけを与えるのでは、心をこめてお思いになる本意に合わないだろう。阿闍梨の職などを寄進しておけば甲斐があるのに、さすがにそれほどのことでもなくて、そういうことも軽々しくなるだろうと、思い悩んでいらしたところ、顕隆の中納言が、「それならば、ただこの度だけの阿闍梨の宣旨をお下しになって、永く寄進なさることはなしにしてください」と申されたので、「まことにそうあるべきだった。お前がいなかったら、私はどうしただろう」と、甲斐甲斐しくお褒めになりました。その子の顕頼という中納言をも、夢で手を引かれて行くのを見たのに、などとおっしゃって、格別にお目をかけた人で、書物の箱などを提げることさえも、下臈などを呼んで持たせなさるなど、重んじていらっしゃいましたが、五位蔵人として除目の目録とかを奏上された時、ご覧になって、荒々しく破られて、お返しになったので、何事かと恐れて退出し、その後、父の中納言(顕隆)が参上した時に、「大外記師遠は、摂津国の公文もまだ審査していないのに、どうして目録に入れて差し上げたのか」とおっしゃったりして、そのようなことにも、このように厳しくていらっしゃいました。
仏典などもまじめにお習いになったのです。良真座主から、六十巻という、法華経の意味を説いた書の講義をお受けになっていましたが、(座主が)西の京に籠もっていらして、比叡山の大衆が許さなかったので、そのまま籠もっていらした所を、お訪ねになりました。西院の仏を拝むついでということで、御幸がありました。仏法のためにも、人のためにも、名誉なことであったと聞きました。金泥の一切経をお書かせになったのも、唐にも例が少ないのではないかと評判になりました。その後こそ、この国にもたくさん聞こえますが、それはこの院が始められたのです。また生きとし生けるものの命をお救いになって、お亡くなりになるまで(殺生禁断を)続けられました。五月の狭山に、火をともして鹿を狩る賤の男もいなくなり、秋の夕暮れに浦で釣りをする漁師も絶えてしまいました。たまたま網などを持っている漁師の苫屋があれば、取り出して焼き、網の縄が残らず煙となりました。持っていた主はひどい目にあって、罪をこうむることが数知れませんでした。神の御厨だけは許されて、形ばかりに供えて、その他は、殿上の食膳なども六斎日と変わることがありませんでした。位にいらした時は、中宮(賢子)のことをお嘆きになって、多くの御堂をお造りになりました。退位後は、その御娘の郁芳門院がお亡くなりになったのをこの上なくお嘆きになって、出家までなさったのでした。四十五、六歳のころでいらっしゃいましたでしょうか。お嘆きのあまりに世をお捨てになったのですが、御受戒などはなさらず、仏道の御名(法名)などもおありにならなかったのでしょうか。教王房と申した比叡山の座主が、御祈祷の祭文に御名のことを申されたところ、「まだ付けていない」とおっしゃったので、「そのおつもりを承ってから、申し上げましょう」と申されたとか。
その後、長く世をお治めになっていたところ、七月七日に急に御気分が悪くなられて、御霍乱などと聞こえるうちに、日も経たずに、そのままお亡くなりになったので、空の様子もふだんとは変わって、風雨の音もすさまじく、日を重ねて世の嘆きもいっそう加わったような心地がしました。あきれるほど悲しい中にも、風流を好んだ人で、平氏の刑部卿忠盛と申した人が、その時は何の守とか申したでしょうか、その人の歌として伝え聞きました、
又もこむ秋をまつべき七夕のわかるゝだにもいかゞ悲しき
とか。鳥羽院、花園の大臣(有仁)、摂政殿(忠通)などが、若いお姿で御衣を墨染めにお染めになって、御忌の間、仏事の供養を申し上げなさいます。いつのころに、どなたがお詠みになったのでしょうか、
いかにして消えにし秋のしら露をはちすの上の玉と磨かむ
という御歌があったということです。鳥羽殿はこの法皇がお造りになったので、(院号を)そう申し上げようかと思ったけれども、白河にもあちこちに御所がありましたので、白河院とお定め申し上げました。この帝の御母は、東宮の御息所として亡くなられたので、延久三年五月十八日に従二位を追贈申し上げなさいます。(白河天皇が)位におつきになって、同じ五年五月六日に皇后宮を追贈申し上げなさいます。国忌や御陵などが置かれて、同じ日に、能信大納言殿に太政大臣・正一位を贈られます。御息所の御母、藤原秘子と申した方にも正一位をお贈りになります。この方は備中守知光の娘です。
意訳
白河院の人事の厳しさを示す逸話が並ぶ。顕季が宰相(参議)を望んでも、学才がないとして許されず、顕隆には詩を作れなければ弁官になれないと告げる。一方で顕隆の機転を「己れなからましかば」と喜び、その子顕頼が不備のある目録を奏上すると、目の前で破り捨てる。人をよく見て、褒めるときは華やかに、とがめるときは厳しくという院の人柄が描かれる。
院は深く仏法に帰依し、金泥一切経の書写を始めたほか、殺生禁断を徹底した。狩猟や漁が禁じられて網が焼かれ、漁民が罪をこうむったという記述は、仏法の理想と民の暮らしとの衝突を、語り手が率直に記したものである。章題の「釣せぬ浦々」はここによる。
愛娘郁芳門院の死を悲しんで出家したが、受戒も法名もなかったという話は、院の出家が悲しみによる衝動的なものであったことを伝える。大治四年(1129)七月七日の崩御の場面では、平忠盛の七夕の歌と、遺された人々の歌が引かれ、一つの時代の終わりが哀切に語られる。
語釈・文法注
- 顯季
- 藤原顕季(1055〜1123)。白河院の乳母子で近臣。歌人。六条修理大夫。
- 敦光
- 藤原敦光(1063〜1144)。文章博士。藤原明衡の子。
- 宰相になる道は七つ
- 参議に任じられる資格。大弁・近衛中将・蔵人頭・五か国の国守・三位などの七つの経歴をいう。
- 物かくうへの事
- 文章を書く学才に関わること。参議には漢文の素養が求められた。
- 顯隆
- 藤原顕隆。白河院の近臣で、院の信任が厚く「夜の関白」と呼ばれた。
- 阿闍梨
- 密教で、伝法灌頂を受けた高僧の職位。寺に阿闍梨の定員を置くことは大きな名誉だった。
- 顯賴
- 藤原顕頼(1094〜1148)。顕隆の子。
- 除目の目錄
- 官職の任命(除目)のための候補者の一覧。
- 大外記師遠
- 中原師遠(1070〜1130)。外記の長官。
- 公文
- 国司が提出する公文書。
- 良眞座主
- 良真(1022〜1096)。天台座主。山門の衆徒と対立し、西京に籠もった。
- 金泥の一切經
- 仏典のすべてを金泥で書写したもの。
- 生きとし生けるものゝ命をすくはせ給ひて
- 白河院は晩年に殺生禁断令を出し、狩猟・漁労を厳しく禁じた。
- ともしする
- 照射(ともし)。夏の夜、火をともして鹿をおびき寄せて射る狩り。
- 神の御厨
- 神社に供える魚などを納める領地。
- 六齋
- 六斎日。月のうち八・十四・十五・二十三・二十九・三十日の六日で、精進潔斎する日。
- 中宮
- 藤原賢子(1057〜1084)。源顕房の娘で、師実の養女。白河天皇の中宮で、堀河天皇の母。白河天皇は深く寵愛し、その死を嘆いた。
- 郁芳門院
- 媞子内親王(1076〜1096)。白河天皇と賢子の皇女。二十一歳で亡くなった。
- 御霍亂
- 暑気あたりによる急病。
- 忠盛
- 平忠盛(1096〜1153)。清盛の父。武士として初めて昇殿を許された。歌人でもあった。
- 花園のおとゞ
- 源有仁(1103〜1147)。後三条天皇の孫で、白河院の猶子。花園左大臣。
- 藤原秘子
- 藤原祉子。藤原知光の娘で、能信の妻。茂子の養母。底本は「秘子」と刷る。
文法
- いひけれは
- 底本は濁点を付けないが「いひければ」。
- 己れなからましかば、我れいかゞせまし
- 反実仮想「ましかば〜まし」。お前がいなかったら、私はどうしただろう。
- 御心地こそなはせ給ひて
- 「そこなふ」に尊敬の「せ給ふ」。底本は「御心地そこなはせ」。
- 侍りしかは
- 底本は濁点を付けないが「侍りしかば」。
和歌
又もこむ秋をまつべき七夕のわかるゝだにもいかゞ悲しき
- 詠者
- 平忠盛
- 状況
- 七月七日に崩御した白河院を悼んで詠んだ歌。
修辞
- 対比
- 来年の秋にはまた逢える七夕の別れでさえ悲しいのに、二度と逢えない別れはどれほどか、と言外に嘆く。
いかにして消えにし秋のしら露をはちすの上の玉と磨かむ
- 詠者
- 未詳
- 状況
- 白河院の御忌のころ詠まれた歌。
修辞
- 見立て
- 院の死を秋の白露が消えたことにたとえ、極楽の蓮の葉の上の玉として磨きたい(往生を願う)と詠む。
- 縁語
- 「露」「はちす」「玉」。
解説
白河院の殺生禁断は、晩年の大治年間を中心に厳しく行われ、全国で漁網が焼かれたと伝えられる。今鏡はこれを院の慈悲深さとして記しつつ、漁民が罪をこうむったことも書き留めており、記述は単純な礼賛にとどまっていない。
「鳥羽院」と呼ぶか「白河院」と呼ぶかを議論したという院号の話は、院の御所が白河(法勝寺の周辺)と鳥羽の双方にあったことを示している。鳥羽の名は孫の鳥羽院が用いることになった。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、61〜66頁(コマ45–48)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日