今鏡 第二「すべらぎの中」 第12章
紅葉のみかり
白河天皇の御代。二十歳で即位し、譲位後も堀河・鳥羽・崇徳三代にわたって院政を行い、五十六年間国政をとった。法勝寺の九重塔や鳥羽殿を造るなど、豪壮を好んだ。和歌を重んじて後拾遺集・金葉集を撰ばせ、大井川の御幸や承暦の歌合、父の五十の賀を催した。
- 1ノノノ院院いんははは後後のち三條三條さんじょうノノノ院院いんののの一一いちののの御子御子みこにおはしましきにおはしましきにおわしましき。。。そのそのその御母御母おおんはは贈皇后宮贈皇后宮ぞうこうごうぐうととと申申もうすすす。。。權大納言權大納言ごんだいなごん能信能信よしのぶののの御御おんむすめとてむすめとてむすめとて、、、後後のち三條三條さんじょうノノノ院院いんののの東宮東宮とうぐうにおはしましゝにおはしましゝにおわしましし、、、御息所御息所みやすんどころににに參參まいりりり給給たまへりきへりきえりき。。。
- 2誠誠まことにににははは閑院閑院かんいんののの左兵衞左兵衞さひょうえノノノ督督かみののの中納言中納言ちゅうなごんののの女女おんななりなりなり。。。此此こののの中納言中納言ちゅうなごんののの御御おんいもいもいもうとうとうとははは、、、能信能信よしのぶののの大納言大納言だいなごんののの北北きたののの方方かたなりなりなり。。。このみかどこのみかどこのみかど天喜天喜てんぎ元年元年がんねんみづのとのみづのとのみずのとの巳巳み六月六月ろくがつ廿日廿日はつこ生生うまれさせたまひまれさせたまひまれさせたまい、、、延延の久久ひさ元年元年がんねん四月四月しがつ廿八日廿八日にじゅうはちにちににに東宮東宮とうぐうにたゝせにたゝせにたたせ給給たまふふう。。。
- 3御御おんとしとしとし十七十七じゅうしち、、、同同おなじきじきじき四年四年よねん十二月十二月じゅうにがつ八日八日ようか、、、位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまふふう。。。御御おんとしとしとし二十二十はたちにやおはしましけむにやおはしましけむにやおわしましけむ。。。位位くらい讓讓ゆずりたてまつらせりたてまつらせりたてまつらせ給給たまひてひていて、、、次次つぎののの年年としののの五月五月さつきににに後後のち三條三條さんじょうノノノ院院いんかくれさせかくれさせかくれさせ給給たまひにしかばひにしかばいにしかば、、、國國くにのまつりごとのまつりごとのまつりごと、、、廿一廿一にじゅういちののの御年御年おおんとしよりよりより、、、みづからしらせみづからしらせみずからしらせ給給たまひてひていて、、、位位くらいにおはしますにおはしますにおわします事事こと十四年十四年じゅうよねんなりしになりしになりしに、、、三十四三十四さんじゅうしにてにてにて位位くらいおりさせおりさせおりさせ給給たまひてのちひてのちいてのち、、、七十七十しちじゅう七七しちまでおはしましゝかばまでおはしましゝかばまでおわしまししかば五十五十いそじ六年六年ろくねん、、、國國くにのまつりごとのまつりごとのまつりごとをををせさせせさせせさせ給給たまへりきへりきえりき。。。
- 4のみかどのみかどのみかどははは卅卅さんじゅう三年三年さんねんたもたせたまへりしかどもたもたせたまへりしかどもたもたせたまえりしかども、、、位位くらいののの御御おんかぎりかぎりかぎり也也なり。。。ははは八十一八十一はちじゅういちまでおはしましゝかどもまでおはしましゝかどもまでおわしまししかども、、、院院いんののの後後のち久久ひさしくてしくてしくて、、、世世よをばをばをばしらせしらせしらせ給給たまはざりきはざりきわざりき。。。
- 5此此こののの院院いんははは、、、父父ちちののの太上天皇太上天皇だいじょうてんのう世世よをををしらせしらせしらせ給給たまひしひしいし事事こと、、、いくばくもおはしまさずいくばくもおはしまさずいくばくもおわしまさず。。。さきのさきのさきの御御おんなごりにてなごりにてなごりにて、、、ののの人人ひとのわがまゝにのわがまゝにのわがままに、、、行行おこなひひい給給たまふもおはせねばふもおはせねばうもおわせねば、、、若若わかくよりくよりくより世世よをををしらせしらせしらせ給給たまひてひていて、、、院院いんののの後後のちははは、、、堀河堀河ほりかわノノノ院院いんノノノ院院いんノノノ院院いん。。。
- 6御子御子みこうまごひゝごうまごひゝごうまごいいご、、、うちつゞきうちつゞきうちつづき三代三代さんだいのみかどののみかどののみかどの御世御世みよ、、、法皇法皇ほうおうののの御御おんまつりごとのまゝまつりごとのまゝまつりごとのまま也也なり、、、かくかくかく久久ひさしくしくしく世世よををを知知しらせらせらせ給給たまふふう事事ことははは、、、昔昔むかしももも類類たぐひなきひなきひなき御有樣御有樣おおんありさまなりなりなり。。。
- 7二條二條にじょうのおとゞぞのおとゞぞのおとどぞ、、、「「「おりおりおり位位くらいのみかどののみかどののみかどの門門もんににに、、、車車くるま立立たつるやうやつるやうやつるようやはははあるあるある」」」。。。などのたまはせけるなどのたまはせけるなどのたまわせける。。。それかくれそれかくれそれかくれ給給たまひてひていて後後のちははは、、、少少すこしもいきおとなどたつるしもいきおとなどたつるしもいきおとなどたつる人人ひとやややははは侍侍はべりしりしりし。。。
- 8このみかどこのみかどこのみかど、、、日日ひににに生生うまれさせまれさせまれさせ給給たまひたるとぞひたるとぞいたるとぞ聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしりしりし。。。又又また誠誠まことにやありけむにやありけむにやありけむ。。。御御おんめのとのめのとのめのとのももも、、、かんかんかん日日ひににに參參まいりそめられたりけるとかやりそめられたりけるとかやりそめられたりけるとかや。。。
- 9されどもされどもされども末末すえのさかえのさかえのさかえ給給たまふことふことうこと、、、此此こののの頃頃ころまでいやまさりにおはすめりまでいやまさりにおはすめりまでいやまさりにおわすめり。。。あしきあしきあしき日日ひ參參まいれりともれりともれりとも聞聞きこえざりしこえざりしこえざりし。。。今今いまひとりのひとりのひとりの御御おんめのとのめのとのめのとの、、、知綱知綱ともつなのぬしののぬしののぬしの御母御母おおんははにていますがりしにていますがりしにていますがりしははは、、、日野三位日野三位ひののさんみのむすめにてのむすめにてのむすめにて、、、世世よおぼえもおぼえもおぼえも殊殊ことののの外外ほかににに聞聞きこえこえこえ給給たまひしかどもひしかどもいしかども、、、みかどのみかどのみかどの五五いつつにおはしましゝつにおはしましゝつにおわしましし年年とし、、、かのめのとかのめのとかのめのと、、、かくれられにしかばかくれられにしかばかくれられにしかば、、、二位二位にいのみのみのみ雙雙ならびなくおはすめりびなくおはすめりびなくおわすめり。。。
- 10宿世宿世すくせかしこければかしこければかしこければ、、、あしきあしきあしき日日ひもさはりなかるべしもさはりなかるべしもさわりなかるべし。。。しかあらざらんしかあらざらんしかあらざらん人人ひとははは、、、いかゞいかゞいかが其其そのまねもせむのまねもせむのまねもせむ。。。從二位親子從二位親子じゅにいちかこののの草子合草子合そうしあわせとてとてとて、、、人々人々ひとびとよきよきよき歌歌うたどもよみてどもよみてどもよみて侍侍はべるもるもるも、、、いとやさしくこそいとやさしくこそいとやさしくこそ聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしかりしかりしか。。。
- 11このこのこの帝帝みかどははは、、、御心御心みこころばへたけくもばへたけくもばえたけくも、、、やさしくもおはしましけるさまやさしくもおはしましけるさまやさしくもおわしましけるさまははは、、、後後のち三條三條さんじょうノノノ院院いんにぞにぞにぞ似似に奉奉たてまつらせらせらせ給給たまへりけるへりけるえりける。。。さればゆゝしくさればゆゝしくさればゆゆしく事々事々ことごとしきさまにぞしきさまにぞしきさまにぞ、、、好好このませませませ給給たまひけるひけるいける。。。
- 12ののの御寺御寺みてらももも、、、勝勝すぐれておほきにれておほきにれておおきに、、、やおもてこゝのこしのやおもてこゝのこしのやおもてここのこしの塔塔とうなどなどなど建建たてさせてさせてさせ給給たまひひい、、、百體百體ひゃくたいののの御佛御佛みほとけなどなどなど常常つねははは供養供養くようせさせせさせせさせ給給たまふふう。。。百臺百臺ひゃくだいののの御御おんあかしあかしあかしををを、、、一度一度ひとたびににに、、、程程ほどなくなくなく供供そなふるふるふる、、、ふりうおぼしめしよりてふりうおぼしめしよりてふりゅうおぼしめしよりて、、、前栽前栽せんざいのあなたにのあなたにのあなたに、、、物物ものののの具具ぐかくしおきてかくしおきてかくしおきて、、、あづかりあづかりあずかり百人百人ひゃくにんめしてめしてめして、、、一度一度ひとたびにたてまつらせにたてまつらせにたてまつらせ給給たまひけるにひけるにいけるに、、、事事こと行行おこなひけるひけるいける人人ひと、、、心心こころももも得得えででで少々少々しょうしょうまづともしなどしたりけるまづともしなどしたりけるまずともしなどしたりけるをもをもをも、、、むづからせむづからせむずからせ給給たまひてひていて、、、更更さらににに一度一度ひとたびにともされなどせられけりにともされなどせられけりにともされなどせられけり。。。
- 13鳥羽鳥羽とばなどなどなどをもをもをも廣廣ひろくこめてくこめてくこめて、、、さま〴〵さま〴〵さまざま池池いけ山山やまなどなどなど、、、こぢたくせさせこぢたくせさせこじたくせさせ給給たまへりへりえり。。。後後のち三條三條さんじょうノノノ院院いんははは、、、御修法御修法みしおせさせせさせせさせ給給たまひてもひてもいても、、、國國くにやそこなはれぬらんなどやそこなはれぬらんなどやそこなわれぬらんなど仰仰おおせられせられせられ、、、圓宗寺圓宗寺えんしゅうじをもをもをも、、、こぢたくこぢたくこじたくははは造造つくらせらせらせ給給たまはずはずわず。。。
- 14ののの文文ふみ帝帝みかどののの露臺露臺ろだい造造つくらんとしらんとしらんとし給給たまひてひていて、、、國國くに堪堪たへじなどいひてとゞめへじなどいひてとゞめえじなどいいてとどめ給給たまひひい、、、女御女御にょうご愼夫人愼夫人しんぶにんにににははは、、、裾裾すそもももひかせずひかせずひかせず。。。御帳御帳みちょうのかたびらにものかたびらにものかたびらにも、、、あやなきあやなきあやなきをををせられけるせられけるせられける御心御心みこころなるべしなるべしなるべし。。。おの〳〵おの〳〵おのおの時時ときににに從從したがふべきにやあらむふべきにやあらむうべきにやあらむ。。。
- 15白河白河しらかわノノノ院院いんははは御弓御弓おおんゆみなどもなどもなども上手上手じょうずにておはしましけるにやにておはしましけるにやにておわしましけるにや。。。池池いけののの鳥鳥とりををを射射いたりしかばたりしかばたりしかば、、、故院故院こいんのむづからせのむづからせのむずからせ給給たまひしなどひしなどいしなど、、、仰仰おおせられけるとかやせられけるとかやせられけるとかや。。。まだまだまだ東宮東宮とうぐうのわかのわかのわか宮宮みやととと申申もうしけるしけるしける時時ときよりよりより、、、和歌和歌わかをもをもをも重重おもくせさせたまひてくせさせたまひてくせさせたまいて、、、位位くらいにてもにてもにてもあつめさせあつめさせあつめさせ給給たまふふう。。。
- 16院院いんののの後後のちもももえらばせえらばせえらばせ給給たまへりへりえり。。。いづれにもいづれにもいずれにも御製御製ぎょせいどもどもども多多おおくくく侍侍はべるめりるめりるめり。。。承承うけたまわ保保ほう三年三年さんねん十月十月じゅうがつ廿四日廿四日にじゅうしにち、、、にみゆきせさせにみゆきせさせにみゆきせさせ給給たまひてひていて、、、嵯峨野嵯峨野さがのににに遊遊あそばせばせばせ給給たまひひい、、、御狩御狩みかりなどせさせなどせさせなどせさせ給給たまふふう。。。そのたびのそのたびのそのたびの御歌御歌みゅうた、、、
- 17大井川大井川おおいがわふるきふるきふるき流流ながれれれををを尋尋たずねきてあらしのねきてあらしのねきてあらしの山山やまののの紅葉紅葉もみじをぞをぞをぞ見見みるるる
- 18などよませなどよませなどよませ給給たまへるへるえる、、、むかしのこゝちしてむかしのこゝちしてむかしのここちして、、、いとやさしくおはしましきいとやさしくおはしましきいとやさしくおわしましき。。。承曆二年承曆二年じょうりゃくにねん四月四月しがつ廿八日廿八日にじゅうはちにち、、、殿上殿上てんじょうのののせさせせさせせさせ給給たまふふう。。。判者判者はんざはははノノノ右右みぎのおとゞのおとゞのおとど、、、皇后宮皇后宮こうごうぐう大夫大夫だいぶととと申申もうしゝしゝしし時時ときせさせせさせせさせ給給たまひきひきいき。。。
- 19歌人歌人うたびとどもどもども時時ときにあひにあひにあい、、、よきよきよき歌歌うたももも多多おおくくく侍侍はべるなりるなりるなり。。。歌歌うたのよしあしのよしあしのよしあしはははさることにてさることにてさることにて、、、事事ことざまのざまのざまの儀式儀式ぎしきなどなどなど、、、えもいはぬえもいはぬえもいわぬ事事ことにてにてにて、、、天德歌合天德歌合てんとくうたあわせ、、、承曆歌合承曆歌合しょうりゃくうたあわせをををこそこそこそははは、、、むねとあるむねとあるむねとある歌合歌合うたあわせにににははは、、、世世よののの末末すえまでまでまで思思おもひてひていて侍侍はべるなれるなれるなれ。。。
- 20又又またからからから國國くにののの歌歌うたをもをもをも、、、もてあそばせもてあそばせもてあそばせ給給たまへりへりえり。。。朗詠朗詠ろうえい集集しゅうににに入入いりたるりたるりたる詩詩しののの殘殘のこりのりのりの句句くををを、、、ながらたづねながらたづねながらたずね具具ぐせさせせさせせさせ給給たまふふう事事ことももも、、、おぼしめしよりておぼしめしよりておぼしめしよりて、、、匡房匡房まさふさ中納言中納言ちゅうなごんなむなむなむ、、、集集あつめられめられめられ侍侍はべりけるりけるりける。。。
- 21そのそのその中中なかにさにさにさ月月つきののの蟬蟬せみののの聲聲こえははは、、、なにのなにのなにの秋秋あきををを送送おくるとかやいふるとかやいふるとかやいう詩詩しののの、、、殘殘のこりのりのりの句句くをををえたづねえたづねえたずね出出いださゞりけるださゞりけるださざりける程程ほどににに、、、あるあるある人人ひとこれなんとてこれなんとてこれなんとて、、、たてまつりたりければたてまつりたりければたてまつりたりければ、、、見見み給給たまひてひていて、、、「「「これこそこれこそこれこそ此此こののの殘殘のこりともりともりとも、、、おぼえおぼえおぼえ侍侍はべらねらねらね」」」。。。
- 22ととと奏奏そうしけるしけるしける後後のちににに、、、仁和寺仁和寺にんなじののの宮宮みやなりけるなりけるなりける手本手本てほんののの中中なかににに、、、誠誠まことののの詩詩し、、、いできたりけるなどぞいできたりけるなどぞいできたりけるなどぞ聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしりしりし。。。又又また本朝秀句本朝秀句ほんちょうしゅうくととと申申もうすなるすなるすなる書書ふみののの後後のちしつがせしつがせしつがせ給給たまふとてふとてうとてははは、、、ノノノ入道入道にゅうどうおとゞにえらばせたてまつりおとゞにえらばせたてまつりおとどにえらばせたてまつり給給たまふとぞふとぞうとぞうけうけうけ給給たまはははりしりしりし。。。
- 23さてさてさて其其そのののふみのふみのふみの名名なははは、、、續本朝秀句續本朝秀句ぞくほんちょうしゅうくととと申申もうしてしてして、、、みまきみまきみまき、、、なさけおほくなさけおほくなさけおおく撰撰えらばせばせばせ給給たまへるへるえるふみふみふみ也也なり。。。五十五十いそじののの御賀御賀おおんがこそめでたくこそめでたくこそめでたくははは侍侍はべりけれりけれりけれ。。。康康やす和和わ四年四年よねん三月三月さんがつ十八日十八日じゅうはちにち、、、堀河堀河ほりかわのみかどのみかどのみかど、、、鳥羽鳥羽とばににに行幸行幸ぎょうこうせさせせさせせさせ給給たまひてひていて、、、父父ちちののの法皇法皇ほうおうののの五十五十いそじののの御御おんよはひよはひよわいををを、、、よろこびよろこびよろこび給給たまふなりふなりうなり。。。
- 24舞人舞人まいびと樂人樂人がくにんなどなどなどははは殿上人殿上人てんじょうびと中少將中少將ちゅうしょうしょう、、、さま〴〵さま〴〵さまざま左右左右さゆうのしらべしのしらべしのしらべし給給たまひきひきいき。。。童舞童舞わらわまい三人三人さんにん、、、胡飮酒胡飮酒こんじゅ、、、陵王陵王りょうおう、、、納蘇利納蘇利なそりなむなむなむ侍侍はべりけるりけるりける。。。そのそのその中中なかににに胡飮酒胡飮酒こんじゅははは源氏源氏げんじののの若君若君わかぎみなむなむなむ舞舞まひひい給給たまひしひしいし。。。
- 25袖袖そでふりふりふり給給たまふさまふさまうさま、、、天童天童てんどうののの下下くだりたるりたるりたる樣樣さまにてにてにて、、、此此こののの世世よののの人人ひとのしわざともなくのしわざともなくのしわざともなく、、、めもあやになむめもあやになむめもあやになむ侍侍はべりけるりけるりける。。。御御おんぞかづけぞかづけぞかずけ給給たまへるへるえるをばをばをば御御おんおやのおやのおやの大納言大納言だいなごんとてとてとて、、、太政太政だいじょうのおのおのおほいほいほい殿殿とのおはせしぞおはせしぞおわせしぞ、、、とりてとりてとりて拜拜はいししし給給たまひけるひけるいける。。。そのそのその若君若君わかぎみははは、、、ノノノ院院いんののの大將大將だいしょうととと聞聞きこえこえこえ給給たまひしなるべしひしなるべしいしなるべし。。。
現代語訳
白河院は後三条院の第一皇子でいらっしゃいました。その御母は贈皇后宮茂子と申します。権大納言能信の御娘ということで、後三条院が東宮でいらした時に御息所として入内なさいました。本当は閑院の左兵衛督公成中納言の娘です。この中納言の御妹は、能信大納言の北の方です。この帝は天喜元年癸巳の六月二十日にお生まれになり、延久元年四月二十八日に東宮にお立ちになります。御年十七。同じ四年十二月八日に位におつきになります。御年二十でいらっしゃいましたでしょうか。位をお譲りになって、翌年の五月に後三条院がお亡くなりになったので、国の政治を二十一歳の御年から御自らお執りになって、位にいらっしゃったのが十四年でしたが、三十四歳で位をお下りになってから、七十七歳まで生きていらっしゃったので、五十六年間、国の政治をなさいました。延喜の帝(醍醐天皇)は三十三年世を保たれましたが、それは在位の間だけです。陽成院は八十一歳まで生きていらっしゃいましたが、退位後が長くて、世をお治めにはなりませんでした。この院は、父の太上天皇が世をお治めになったのは、いくらもありませんでした。(父院の)前代からの御威光の名残で、摂関がわがままに政治を行うこともなかったので、若い時から世をお治めになって、退位後は、堀河院・鳥羽院・讃岐院と、御子・孫・曾孫と続く三代の帝の御世も、法皇の御政治のままでした。このように長く世をお治めになるのは、昔にも例のないご様子です。後二条の大臣(師通)は、「退位した帝の門に車を立てる(参上する)などということがあるものか」などとおっしゃいました。その方が亡くなられた後は、少しでも勢いを張る人がいたでしょうか。
この帝は坎日にお生まれになったと聞きました。また本当でしょうか、御乳母の二位も、坎日に初めて参上されたとか。けれども子孫の栄えなさることは、このごろまでますますまさっていらっしゃるようです。悪い日に参ったとも聞こえませんでした。もう一人の御乳母で、知綱の母でいらした方は、日野三位の娘で、世間の評判もことのほかよかったのですが、帝が五歳でいらした年に、その乳母がお亡くなりになったので、二位だけが並ぶ者もないようでいらっしゃいます。前世の宿縁がすぐれているので、悪い日も差し支えないのでしょう。そうでない人は、どうしてそのまねができましょう。従二位親子の草子合といって、人々がよい歌を詠んでいますのも、たいそう優雅に聞こえました。
この帝が、お心が勇ましくも優美でもいらしたご様子は、後三条院に似ていらっしゃいました。ですから、堂々と仰々しい様子をお好みになりました。白河の御寺(法勝寺)も、とりわけ大きく、八角九重の塔などをお建てになり、百体の仏などを常に供養なさいます。百基の御灯明を一度に手早く供えるという趣向を思いつかれて、植え込みの向こうに道具を隠しておき、係の者を百人呼んで、一度に奉らせなさったところ、行事を取り仕切る人が心得ずに、少し先に灯したりしたのをも、ご機嫌を損ねられて、改めて一度に灯させなどなさいました。鳥羽なども広く囲いこんで、さまざまに池や築山などを大がかりにお造りになりました。後三条院は、五壇の御修法をなさっても、国が損なわれるのではないかなどとおっしゃって、円宗寺も大げさにはお造りになりませんでした。漢の文帝が露台を造ろうとなさったが、国が費用に堪えないだろうといってやめられ、寵愛した慎夫人にも裳の裾を引かせず、御帳の帷にも模様のないものを用いられたのと同じお心でありましょう。それぞれ時世に従うべきなのでしょうか。
白河院は弓なども上手でいらっしゃったのでしょうか。池の鳥を射たところ、故院(後三条)がご機嫌を損ねられたなどとおっしゃったとか。まだ東宮の若宮と申し上げていた時から和歌を重んじられて、在位中にも後拾遺集を集めさせなさいます。院となられた後も金葉集を撰ばせなさいました。どちらにも御製が多くあるようです。承保三年十月二十四日、大井川に行幸なさって、嵯峨野でお遊びになり、鷹狩などをなさいます。その時の御歌、
大井川ふるき流れを尋ねきてあらしの山の紅葉をぞ見る
などとお詠みになったのは、昔の心地がして、たいそう優雅でいらっしゃいました。承暦二年四月二十八日、殿上の歌合をなさいます。判者は六条右大臣(顕房)で、皇后宮大夫と申し上げていた時に務められました。歌人たちは時を得て、よい歌も多くあります。歌のよしあしはともかくとして、催しの儀式などが何とも言えないほど立派で、天徳の歌合と承暦の歌合とを、代表的な歌合として、後の世まで思っているのです。
また唐の国の歌(漢詩)もお好みになりました。和漢朗詠集に入っている詩の残りの句を、四韻の詩の全体まで探して揃えようとお思いつきになって、匡房中納言が集められました。その中で「五月の蝉の声は、何の秋を送る」とかいう詩の残りの句を探し出せなかったところ、ある人がこれだと言って差し上げたので、江帥(匡房)が見て、「これがこの残りの句とも思われません」と奏上した後に、仁和寺の宮にあった手本の中から、本当の詩が出てきたなどと聞きました。また本朝秀句と申す書の続編をお作らせになるということで、法性寺入道殿(忠通)にお撰ばせになったと承りました。そしてその書の名は続本朝秀句と申して、三巻で、情趣豊かにお撰ばせになった書です。五十の御賀こそすばらしいものでした。康和四年三月十八日、堀河天皇が鳥羽に行幸なさって、父の法皇の五十歳をお祝いになったのです。舞人・楽人などは殿上人や中将・少将で、さまざまに左方・右方の楽を奏されました。童舞は三人で、胡飲酒・陵王・納蘇利がありました。その中で胡飲酒は源氏の若君が舞いなさいました。袖をひるがえされる様子は、天童が下ってきたようで、この世の人のしわざとも思えず、目もまばゆいほどでした。御衣を肩に掛けて賜ったのを、御親の大納言で、太政大臣でいらした方(雅実)が受け取って拝舞なさいました。その若君は、中院の大将と申し上げた方(雅定)でありましょう。
意訳
白河天皇の生涯を概観する章。白河院は在位十四年、退位後も堀河・鳥羽・崇徳の三代にわたって院政を行い、あわせて五十六年間政治を執った。父後三条の時代に摂関家の力が抑えられていたため、若くして親政を行えたことが、長い院政の基盤となった。藤原師通の「おり位のみかどの門に車立つるやうやはある」という言葉は、院政に抵抗した摂関家の最後の意地を伝えている。
坎日(凶日)に生まれた天皇と、坎日に出仕した乳母藤原親子とが、ともに栄えた話は、運勢を気にする当時の風潮と、それを越える「宿世」の考え方を示している。
白河院は豪壮を好み、法勝寺の八角九重塔や鳥羽殿を造営した。倹約を旨とした父後三条や漢の文帝と対比しつつ、語り手は「おのおの時に従ふべきにやあらむ」と、どちらとも決めかねている。
後半は文化事業。後拾遺集・金葉集の撰集、承保三年の大井川御幸、承暦二年(1078)の内裏歌合、匡房による朗詠集の詩の補完、続本朝秀句の撰集、そして康和四年(1102)の鳥羽殿での五十の賀が語られる。章題の「紅葉のみかり」は、大井川御幸の紅葉の歌による。
語釈・文法注
- 白河ノ院
- 第七十二代白河天皇(1053〜1129)。名は貞仁。院政を始めた。
- 茂子
- 藤原茂子(?〜1062)。藤原公成の娘で、能信の養女。白河天皇を産んだが、即位前に亡くなった。
- 公成
- 藤原公成(999〜1043)。閑院流。
- 延喜のみかど
- 醍醐天皇(885〜930)。在位三十三年。
- 陽成院
- 陽成天皇(868〜949)。在位八年で退位し、八十二歳まで生きた。
- 一の人
- 摂政・関白。
- 讚岐ノ院
- 崇徳院。保元の乱で讃岐に流されたので讃岐院と呼ばれた。
- 後二條のおとゞ
- 藤原師通(1062〜1099)。関白。白河院政に批判的だった。
- かん日
- 坎日。陰陽道で万事に凶とされる日。
- 御めのとの二位
- 藤原親子。白河天皇の乳母で従二位。藤原顕季の母。
- 白河の御寺
- 法勝寺。白河天皇の御願寺で、八角九重塔が建てられた。六勝寺の筆頭。
- 鳥羽
- 鳥羽殿。白河院が京の南の鳥羽に造営した離宮。
- 五壇御修法
- 五大明王を五つの壇に祀って同時に行う密教の修法。
- 漢の文帝
- 前漢の文帝(在位前180〜前157)。倹約で知られる。露台(見晴らし台)の建設を、費用が百金かかると聞いてやめた。
- 後拾遺
- 『後拾遺和歌集』。第四番目の勅撰集。白河天皇の命で藤原通俊が撰び、応徳三年(1086)に成った。
- 金葉集
- 『金葉和歌集』。第五番目の勅撰集。白河院の命で源俊頼が撰んだ。
- 大井川
- 京都の嵐山のふもとを流れる川。紅葉の名所。
- 殿上の歌合
- 承暦二年(1078)四月二十八日の内裏歌合。天徳四年の歌合とともに晴儀の歌合の代表とされる。
- 六條ノ右のおとゞ
- 源顕房(1037〜1094)。師房の子。白河天皇の中宮賢子の実父。
- 四韻
- 八句の律詩。四つの韻をふむ。
- 江帥
- 大江匡房。大宰権帥となったので江帥と呼ばれた。
- 法性寺ノ入道おとゞ
- 藤原忠通(1097〜1164)。関白。法性寺殿と呼ばれた。
- 中ノ院の大將
- 源雅定(1094〜1162)。雅実の子。中院右大臣。
文法
- おはしましけむ
- 「けむ」は過去推量。いらっしゃったのであろうか。
- こぢたく
- 「こちたし」の連用形。ことごとしく、大げさに。
- むづからせ給ひて
- 「むづかる」は機嫌を損ねる、不快に思う。
和歌
大井川ふるき流れを尋ねきてあらしの山の紅葉をぞ見る
- 詠者
- 白河天皇
- 状況
- 承保三年(1076)十月の大井川御幸で詠んだ歌。
修辞
- 掛詞
- 「ふるき流れ」に、大井川の古い流れと、宇多・醍醐天皇の大井川御幸の先例をかける。
- 縁語
- 「流れ」「尋ね」。
解説
白河院政は、摂関家に代わって上皇が国政を握る新しい政治形態の始まりであった。今鏡は、白河院を「たけくもやさしくも」ある人として描き、権力者としての豪壮さと、和歌・漢詩を愛する風雅とを併せ語っている。
康和四年の五十の賀で胡飲酒を舞った源雅定は、平等院行幸(第8章)で胡飲酒を舞った雅実の子である。村上源氏の親子二代が同じ舞で晴れの場を飾ったことを、語り手は印象深く書き留めている。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、55〜60頁(コマ42–45)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日