今鏡 第一「すべらぎの上」 第9章
司召
後三条天皇の御代。東宮に立つにあたっては、藤原能信の強い進言があった。学問にすぐれた天皇は、若き大江匡房を学問の友とし、東宮時代の師藤原実政を重んじ、その恨みをはらすために人事でけじめをつけた。内裏焼亡の夜の右少弁正家の機転も語られる。
- 1此此こののの次次つぎのみかどのみかどのみかど三條三條さんじょうノノノ院院いんにぞおはしましゝにぞおはしましゝにぞおわしましし。。。まだまだまだ御子御子みこにおはしましゝにおはしましゝにおわしましし時時とき、、、父父ちちののの帝帝みかど後朱雀院後朱雀院ごすざくいん、、、さきのさきのさきの年年としののの冬冬ふゆよりわづらはせよりわづらはせよりわずらわせ給給たまひてひていて、、、むつきのむつきのむつきの十日十日とおかあまりのあまりのあまりの比比ごろ、、、位位くらいさらせさらせさらせ給給たまひてひていて、、、みこのみこのみこの宮宮みやにゆづりにゆづりにゆずり申申もうさせたまふとばかりにてさせたまふとばかりにてさせたまうとばかりにて、、、東宮東宮とうぐうののの立立たたせたせたせ給給たまふふう事事ことははは、、、ともかくもともかくもともかくも聞聞きこえざりけるこえざりけるこえざりけるををを、、、大納言大納言だいなごんとてとてとて、、、宇治殿宇治殿うじどのなどのなどのなどの御弟御弟おおんおとうとののの、、、ののの腹腹はらにおはせしがにおはせしがにおわせしが、、、御前御前おまえにまゐりてにまゐりてにまいりて、、、「「「二二にノノノ宮宮みやをををいづれのいづれのいずれの僧僧そうにかにかにか付付つけけけ奉奉たてまつりりりはべるべきはべるべきはべるべき」」」。。。
- 2ととと聞聞きこえさせこえさせこえさせ給給たまひけるにひけるにいけるに、、、「「「にこそにこそにこそははは立立たてめてめてめ。。。僧僧そうにににはははいかゞいかゞいかが附附つけむけむけむ。。。關白關白かんぱくののの、、、東宮東宮とうぐうののの事事ことはははしづかにとしづかにとしずかにと云云いへばへばえば、、、後後のちにこそにこそにこそははは」」」ととと仰仰おおせられけるせられけるせられけるををを、、、「「「けふけふきょう立立たたせたせたせ給給たまはずはずわずははは、、、かなふまじきかなふまじきかなうまじき事事ことににに侍侍はべりりり」」」。。。
- 3ととと申申もうしたまひければしたまひければしたまいければ、、、「「「さらばさらばさらば今日今日きょう」」」とてなんとてなんとてなん東宮東宮とうぐうはははたゝせたゝせたたせ給給たまひけるひけるいける。。。やがてやがてやがてにににははは、、、そのそのその能信能信よしのぶ大納言大納言だいなごんなりたまへりきなりたまへりきなりたまえりき。。。君君きみののの御御おんためためため、、、たゆみなくすゝめたてまつりたゆみなくすゝめたてまつりたゆみなくすすめたてまつり給給たまへりけむへりけむえりけむ。。。
- 4いとありがたしいとありがたしいとありがたし。。。さればさればされば白河院白河院しらかわいんははは、、、まことにやまことにやまことにや。。。大夫大夫だいぶどのとぞどのとぞどのとぞ仰仰おおせられけるとぞせられけるとぞせられけるとぞ人人ひとははは申申もうししし侍侍はべりしりしりし。。。二二にノノノ宮宮みやとととははは後三條院後三條院ごさんじょういんののの御事御事おおんことなりなりなり。。。このこのこの帝帝みかどははは、、、後朱雀院後朱雀院ごすざくいんののの第二第二だいにののの皇子皇子みこにおはしますにおはしますにおわします。。。
- 5御母御母おおんはは太皇太后宮太皇太后宮たいこうたいこうぐう禎子禎子ていしののの內親王內親王ないしんのうととと申申もうすすす。。。陽明門院陽明門院ようめいもんいんこのこのこの御事御事おおんことなりなりなり。。。
- 6みかどみかどみかど寬德寬德かんとく二年二年にねん正月正月しょうがつ十六日十六日じゅうろくにちににに東宮東宮とうぐうににに立立たたせたせたせ給給たまふふう。。。御御おんとしとしとし十二十二じゅうに、、、治治じ曆曆りやく四年四年よねん四月四月しがつ十九日十九日じゅうくにち位位くらいににに卽卽つかせたまふかせたまふかせたまう。。。御年御年おおんとし三十三十みそじ五五ご。。。もいまだもいまだもいまだ造造つくられねばられねばられねば、、、太政官太政官だじょうかんののの廳廳ちょうにてにてにて御御おん卽卽つ位位くらい侍侍はべりけるりけるりける。。。
- 7世世よををを治治おさめさせたまふめさせたまふめさせたまう事事こと、、、昔昔むかしかしこきかしこきかしこき御世御世みよにもにもにも耻耻はぢずおはしましきぢずおはしましきじずおわしましき。。。御身御身おおんみののの才才さいははは、、、やんごとなきやんごとなきやんごとなき博士博士はかせどもにもまさらせどもにもまさらせどもにもまさらせ給給たまへりへりえり。。。東宮東宮とうぐうにおはしましけるにおはしましけるにおわしましける時時とき、、、中納言中納言ちゅうなごんまだまだまだ下﨟下﨟げろうにてにてにて侍侍はべりけるにりけるにりけるに、、、世世よををを恨恨うらみてみてみて山山やまののの中中なかににに入入いりてりてりて、、、世世よにもまじらじなどにもまじらじなどにもまじらじなど申申もうしければしければしければ、、、ののの中納言中納言ちゅうなごんととと申申もうしゝしゝしし人人ひとののの「「「われわれわれははは、、、やんごとなかるべきやんごとなかるべきやんごとなかるべき人人ひとなりなりなり。。。然然しかあらばあらばあらば世世よのためのためのため身身みののの爲爲ため、、、くちをしかるべしくちをしかるべしくちおしかるべし」」」。。。
- 8といさめければといさめければといさめければ、、、宇治宇治うじのおほきおとゞのおほきおとゞのおおきおとど心得心得こころえずおぼしたりけれどずおぼしたりけれどずおぼしたりけれど、、、東宮東宮とうぐうににに參參まいりりり侍侍はべりければりければりければ、、、宮宮みやももも喜喜よろこばせばせばせ給給たまひてひていて、、、やがてやがてやがて殿上殿上てんじょうしてしてして、、、人人ひとのよそひなどのよそひなどのよそいなど借借かりてぞりてぞりてぞ、、、。。。
- 9さてよるさてよるさてよる晝晝ひる文文ふみのみちののみちののみちの御御おん友友ともにてなんにてなんにてなん侍侍はべりけるりけるりける。。。位位くらいににに卽卽つかせかせかせ給給たまふふう始始はじめにめにめに、、、つかさもなくてつかさもなくてつかさもなくて、、、五位五位ごいののの藏人藏人くろうどになりたりければになりたりければになりたりければ、、、藏人藏人くろうどののの式部大夫式部大夫しきぶのたゆうとてなむとてなむとてなむ。。。
- 10あきたるにしたがひてあきたるにしたがひてあきたるにしたがいて、、、中務中務なかつかさノノノ少輔少輔しょうにぞなりにぞなりにぞなり侍侍はべりけるりけるりける。。。
- 11實政實政さねまさははは東宮東宮とうぐうののの御時御時おおんときののの學士學士がくしにてにてにて侍侍はべりしりしりしををを、、、ときなくおはしませばときなくおはしませばときなくおわしませば、、、かまへてかまへてかまえて參參まいりよらぬりよらぬりよらぬ事事ことにならむとにならむとにならむと思思おもひけるにひけるにいけるに、、、さすがさすがさすが、、、いたはしくていたはしくていたわしくて甲斐守甲斐守かいのかみににに侍侍はべりければりければりければ、、、かのかのかの國國くによりよりより參參まいるまじきるまじきるまじき心心こころがまへしけるにがまへしけるにがまえしけるに、、、くだりけるにくだりけるにくだりけるに、、、餞餞はなむけせさせたまふとてせさせたまふとてせさせたまうとて、、、
- 12州民縱發甘棠詠州民縱發甘棠詠しゅうみんたといかんとうのえいをおこすとも、、、莫忘多年風月遊莫忘多年風月遊わするることなかれたねんふうげつのあそび、、、
- 13ととと作作つくらせらせらせ給給たまへりけるになむへりけるになむえりけるになむ。。。えええ忘忘わすれれれ參參まいらせざりけるらせざりけるらせざりける。。。ののの詠詠よとととははは、、、からからから國國くにににに、、、國國くにののの守守かみになりけるになりけるになりける人人ひとののの、、、宿宿やどれりけるれりけるれりける所所ところににに、、、やまなしのやまなしのやまなしの木木きのおひたりけるのおひたりけるのおいたりけるををを、、、そのそのその人人ひとののの都都みやこへへへかへりてかへりてかえりて後後のち、、、政事政事まつりごとうるはしくうるはしくうるわしく、、、しのばしかりければしのばしかりければしのばしかりければ、、、このなしのこのなしのこのなしの木木き伐伐きるるる事事ことなかれなかれなかれ。。。
- 14かのかのかの人人ひとのやどれりしのやどれりしのやどれりし所所ところなりなりなり。。。といふといふという、、、歌歌うたをををうたひたりけるとなむうたひたりけるとなむうたいたりけるとなむ。。。扨扨さてみかどみかどみかど位位くらいにつかせにつかせにつかせ給給たまひてひていて後後のち「「「左中辨左中辨さちゅうべんににに加加くわへさせへさせえさせ給給たまへへえ」」」。。。ととと申申もうしければしければしければ、、、「「「つゆばかりもつゆばかりもつゆばかりも、、、理理ことわりなきことりなきことりなきことをばをばをばすまじきにすまじきにすまじきに、、、いかでかゝることいかでかゝることいかでかかることをばをばをば申申もうすぞすぞすぞ」」」、、、正左中辨正左中辨しょうさちゅうべんににに始始はじめてならむめてならむめてならむ事事こと、、、あるまじきあるまじきあるまじき由由よし仰仰おおせられければせられければせられければ、、、藏人藏人くろうどののの頭頭とうにてにてにて、、、仲仲なかののの中納言中納言ちゅうなごん侍侍はべりけるがりけるがりけるが、、、重重かさねてねてねて申申もうしけるしけるしけるははは、、、「「「實政實政さねまさ申申もうすすす事事ことなんなんなん侍侍はべるるる。。。のわたりののわたりののわたりの事事ことををを、、、一日一日ついたちにてもにてもにても思思おもひひい知知しりりり侍侍はべらむらむらむ」」」ととと奏奏そうしければしければしければ、、、其其そののの折折おりおもほししづめさせたまひておもほししづめさせたまひておもおししずめさせたまいて、、、計計はからはせたまふらはせたまふらわせたまう御御おんけしきなりけりけしきなりけりけしきなりけり。。。
- 15昔昔むかし實政實政さねまさははは東宮東宮とうぐうののの春日春日かすがののの使使つかいにまかりにまかりにまかり下下くだりけりりけりりけり。。。方方かたははは辨辨べんにてにてにて罷罷まかりけるにりけるにりけるに、、、實政實政さねまさまづまづまず船船ふねなどなどなど設設もうけてけてけて渡渡わたらむとしけるらむとしけるらむとしけるををを、、、隆隆たか方方かたおしさまたげておしさまたげておしさまたげて、、、「「「待待まちちち幸幸さいわひするひするひする者者もの、、、何何なにににに急急いそぐぞぐぞぐぞ」」」などなどなど、、、ないがしろにないがしろにないがしろに申申もうししし侍侍はべりければりければりければ、、、辛辛からくくく思思おもひてひていて、、、かくなんとかくなんとかくなんと申申もうしたりけるしたりけるしたりけるををを、、、おもほしおもほしおもおし出出いだしてだしてだして、、、此此このことわりのことわりのことわり天照天照あまてらるるる御神御神おおんかみににに申申もうしししうけむとてうけむとてうけむとて、、、右中辨右中辨うちゅうべんにににははは加加くわへさせたまひてけりへさせたまひてけりえさせたまいてけり。。。
- 16隆隆たか方方かたはははかりなきかりなきかりなき心心こころばへにてばへにてばえにて、、、殿上殿上てんじょうににに司召司召つかさめしのののふみふみふみ出出いだされたるだされたるだされたるををを、、、上達部上達部かんだちめたちたちたち、、、かつ〳〵かつ〳〵かつかつ見見みたまひてたまひてたまいて、、、何何なにになりけりになりけりになりけり。。。かれにかれにかれに成成なりにたりりにたりりにたり。。。
- 17などのたまはせけるなどのたまはせけるなどのたまわせけるををを、、、「「「隆隆たか方方かたつかうまつりてつかうまつりてつこうまつりて侍侍はべらむらむらむ」」」などなどなど、、、得得えたりがほにたりがほにたりがおに云云いひけるひけるいけるををを、、、「「「さもあらぬさもあらぬさもあらぬ者者もののかみにのかみにのかみに加加くわはははりたるぞりたるぞりたるぞ」」」などなどなど、、、人々人々ひとびと侍侍はべりければりければりければ、、、うちしめりてうちしめりてうちしめりて出出いでにけりでにけりでにけり。。。
- 18次次つぎのあしたののあしたののあしたのははは、、、隆隆たか方方かたががが番番ばんにてにてにて侍侍はべりけるりけるりけるををを、、、「「「よもよもよも參參まいらじらじらじ。。。ことことこと人人ひとをもをもをもよほせよほせよおせ」」」ととと仰仰おおせられけるせられけるせられける程程ほどににに、、、午午うまののの時時ときよりさきによりさきによりさきに、、、隆隆たか方方かたまゐりまゐりまいり侍侍はべりければりければりければ、、、みかどさすがにおもほしめしてみかどさすがにおもほしめしてみかどさすがにおもおしめして、、、日日ひごろごろごろははは御御おんゆするゆするゆする召召めしてしてして、、、うるはしくうるはしくうるわしく御御おん鬢鬢びんかゝせかゝせかかせ給給たまひてひていて、、、たしかにつかせたまふたしかにつかせたまふたしかにつかせたまう御心御心みこころににに、、、けふけふきょうははは待待まちけれどもちけれどもちけれども、、、程程ほどすぎてすぎてすぎて出出いでさせでさせでさせ給給たまへりけるにへりけるにえりけるに、、、陪膳陪膳はいぜんつかうまつりてつかうまつりてつこうまつりて、、、辭辭じししし申申もうしてしてして、、、こもりこもりこもり侍侍はべりにけりとなんりにけりとなんりにけりとなん。。。御代御代みよのののはじめつはじめつはじめつ方方かたののの事事ことにやにやにや侍侍はべりけむりけむりけむ。。。
- 19內裏燒亡內裏燒亡だいりしょうもうののの侍侍はべりけるにりけるにりけるに、、、殿上人殿上人てんじょうびと、、、上達部上達部かんだちめなどもなどもなども、、、さぶらひあひたまはぬさぶらひあひたまはぬさぶらいあいたまわぬ程程ほどにてにてにて、、、南殿南殿なでんににに出出いでさせたまへりけるにでさせたまへりけるにでさせたまえりけるに、、、御覽御覽ごらんじもじもじも知知しらぬらぬらぬ者者もの、、、すくよかにすくよかにすくよかに走走はしりめぐりてりめぐりてりめぐりて、、、出出いだしたてまつりだしたてまつりだしたてまつり、、、右近右近うこんノノノ陣陣じんににに、、、御輿御輿みこしたづねたづねたずね出出いだしてだしてだして、、、御御おんはははしにしにしに寄寄よせてせてせて、、、載載のせたてまつりなどしければせたてまつりなどしければせたてまつりなどしければ、、、「「「おのれおのれおのれははは誰誰たれぞれぞれぞ」」」ととと問問とはせたまひけるにはせたまひけるにわせたまいけるに、、、「「「右右う少少すこ辨辨べん」」」ととと申申もうしけれしけれしけれははは、、、「「「辨官辨官べんかんならばならばならば、、、近近ちかくさぶらへくさぶらへくさぶらえ」」」。。。
- 20とぞとぞとぞ仰仰おおせられけるせられけるせられける。。。正家正家まさいえ匡房匡房まさふさとてとてとて、、、時時ときにすぐれたるにすぐれたるにすぐれたる一一ひとつがひのつがひのつがいの博士博士はかせなるになるになるに、、、匡房匡房まさふさははは朝夕朝夕あさゆうさぶらひけりさぶらひけりさぶらいけり。。。これこれこれははは御覽御覽ごらんじもじもじも知知しられまゐらせざりけるにこそられまゐらせざりけるにこそられまいらせざりけるにこそ。。。
- 21つかさつかさつかさをををさへさへさへ具具ぐしてしてして、、、申申もうしけむしけむしけむ、、、折節折節おりふしにつけてにつけてにつけて、、、いとかどあるいとかどあるいとかどある心心こころばへなるべしばへなるべしばえなるべし。。。さてこそさてこそさてこそ、、、これかれのこれかれのこれかれの殿上人殿上人てんじょうびと上達部上達部かんだちめ、、、束帶束帶そくたいなるもなるもなるも、、、又又また直衣直衣のうし狩衣狩衣かりぎぬなどなるなどなるなどなる人人ひとももも、、、とりもあへずとりもあへずとりもあえずさま〴〵にさま〴〵にさまざまに參參まいりあつまりたりけれりあつまりたりけれりあつまりたりけれ。。。となむきこえとなむきこえとなむきこえ侍侍はべりしりしりし。。。
現代語訳
この次の帝は後三条院でいらっしゃいました。まだ皇子でいらした時、父の帝後朱雀院が前の年の冬からご病気になって、正月の十日過ぎに位をお退きになり、皇子の宮(後冷泉)に位をお譲りになるということだけで、東宮をお立てになることは、何とも聞こえてこなかったのを、能信大納言といって、宇治殿(頼通)などの御弟で、高松殿(明子)の腹から生まれた方が、御前に参上して、「二宮をどの僧にお付け申し上げたらよろしいでしょうか」と申し上げなさったところ、「東宮にこそ立てよう。どうして僧に付けたりしようか。関白が、東宮のことはゆっくりと、と言うので、後にしようと思うのだ」とおっしゃったのを、「今日お立てにならなければ、かなわないことでございます」と申し上げなさったので、「それならば今日」ということで、東宮はお立ちになったのです。すぐに東宮大夫には、その能信大納言がおなりになりました。君の御ために、怠りなくお勧め申し上げたのでしょう。まことにめったにないことです。だから白河院は、本当でしょうか、「大夫殿」とお呼びになったと人は申しておりました。二宮とは後三条院のことです。この帝は、後朱雀院の第二皇子でいらっしゃいます。御母は太皇太后宮禎子内親王と申します。陽明門院がこの方です。
帝は寛徳二年正月十六日に東宮にお立ちになります。御年十二。治暦四年四月十九日に位におつきになります。御年三十五。大極殿もまだ再建されていなかったので、太政官の庁で御即位の儀がありました。世をお治めになることは、昔の賢い御代にも恥じないほどでいらっしゃいました。御学才は、尊い博士たちにもまさっていらっしゃいました。東宮でいらした時、匡房中納言がまだ身分の低いころに、世を恨んで山の中に入って、世間とも交わるまいなどと言ったので、経任の中納言と申した人が、「あなたはきっと高い身分になる人だ。そんなことをしたら世のため身のため、残念なことになるだろう」といさめたので、宇治の太政大臣(頼通)は気に入らないとお思いになったけれども、東宮のもとに参りましたところ、宮もお喜びになって、すぐに昇殿させて、人の装束などを借りて、殿上の簡にも名を付けたのでした。そして夜も昼も学問の道のお友としてお仕えしたのです。位におつきになった初めに、官職もないまま五位の蔵人になったので、蔵人の式部大夫といったのです。空きが出るにしたがって、中務少輔になりました。
大弐実政は東宮の御時の学士でしたが、(後三条が)なかなか即位されないので、何とかして東宮のもとに参り寄らないようにしようと思っていたところ、さすがに気の毒に思われて、甲斐守になっていたので、その国から帰参するまいという心づもりをしていましたが、任国に下る折に、送別の宴をお催しになって、
州民縱發甘棠詠、莫忘多年風月遊(任国の民がたとえ甘棠の歌を歌ってお前を慕うことがあっても、長年ともに風月を楽しんだことを忘れるな)
とお作りになったので、忘れ申し上げることができなかったのです。甘棠の詠というのは、唐の国で、国守になった人の泊まっていた所に、やまなしの木が生えていたのを、その人が都に帰った後、その政治が立派で慕わしかったので、「このなしの木を伐ってはならない。あの方のお泊まりになった所だ」という歌をうたったということです。さて、帝が位におつきになった後、(実政が)「左中弁に加えてください」と申したところ、「少しでも道理に合わないことはするまいと思っているのに、どうしてこんなことを申すのか」と、いきなり正官の左中弁になる例はあってはならないとおっしゃったので、蔵人頭で資仲の中納言がいましたが、重ねて申し上げたことには、「実政が申すことがございます。木津の渡しの事を、一日でも思い知らせてやりたい」と奏上したので、その時お心を静めなさって、取り計らわれるご様子でした。昔、実政は東宮の春日祭の使として下向しました。隆方は弁官として下ったところ、実政が先に船などを用意して渡ろうとしたのを、隆方が押しとどめて、「ご運の開けるのを待っている者が、何を急ぐのか」などと、ばかにして申しましたので、つらく思って、そのように申し上げたのを、思い出しなさって、この道理は天照大神に申し受けようということで、(実政を)右中弁に加えなさったのでした。隆方は思慮の浅い性格で、殿上に司召(任官)の文書が出されたのを、公卿たちが次々にご覧になって、「誰々が何になった。あの者はこれになった」などとおっしゃっていたところ、「隆方がその役を勤めましょう(自分が任じられるだろう)」などと得意顔に言ったのを、「そうでもない者が上に加わったぞ」などと人々が言ったので、しょげて退出してしまいました。翌朝の陪膳(御膳の給仕)は、隆方の当番でしたが、「まさか参るまい。ほかの人を呼べ」とおっしゃっているうちに、正午より前に、隆方が参上したので、帝はさすがにお思いになって、いつもは御髪を洗い、きちんと鬢をかかせなさって、きちんと座におつきになるのに、今日は待っていたけれども、時間が過ぎてからお出ましになったところ、陪膳をお勤めして、辞職を申し出て、引きこもってしまったということです。御代の初めのころのことでございましたでしょうか。
内裏が焼けた時、殿上人や公卿なども、そろってお仕えしていない時で、帝が南殿にお出ましになったところ、見たこともない者が、てきぱきと走り回って、内侍所(神鏡)をお出し申し上げ、右近の陣で御輿を探し出して、階段の下に寄せて、お乗せ申し上げなどしたので、「お前は誰だ」とお尋ねになると、「右少弁正家」と申したので、「弁官ならば、近くに控えよ」とおっしゃいました。正家と匡房とは、当時すぐれた一対の博士でしたが、匡房は朝夕おそばに仕えていました。正家はお顔も覚えていただいていなかったのです。官職まで添えて名のりを申し上げたのは、時と場合にかなって、まことに才気ある心づかいでありましょう。そうしてこそ、あれこれの殿上人・公卿が、束帯の者も、また直衣・狩衣などの者も、取るものも取りあえず、さまざまに参り集まったのでした、と聞いております。
意訳
後朱雀天皇の譲位の際、頼通は東宮を立てることを先延ばしにしようとした。これに対して、頼通の異母弟で頼通と対立していた能信が強く進言し、尊仁親王(後三条)が東宮となった。摂関家を外戚としない後三条の即位は、頼通の意向に反するものであり、能信の働きがなければ実現しなかったとされる。白河院が能信を「大夫殿」と呼んで敬ったというのはそのためである。
後三条天皇は学問にすぐれ、若い大江匡房を学問の友とした。匡房が世を恨んで隠遁しようとしたとき、藤原経任がいさめたこと、頼通が匡房の東宮への出仕を快く思わなかったことは、東宮時代の後三条が頼通から冷遇されていた事情を物語る。
東宮学士の藤原実政は、即位の見込みが立たない東宮から離れようとしたが、送別の詩で心をつかまれ、忠勤を続けた。即位後、天皇は実政を一挙に左中弁にという願いをいったん退けながら、かつて隆方から受けた侮辱を知ると、実政を隆方の上に任じてけじめをつけた。天皇の公正さと情の深さとの両面が描かれている。
最後の内裏焼亡の話では、名も知られていなかった右少弁藤原正家が、内侍所(神鏡)と御輿を手際よく運び出し、官名を添えて名のったことが称えられる。章題の「司召」は、実政・隆方の任官の話による。
語釈・文法注
- 後三條ノ院
- 第七十一代後三条天皇(1034〜1073)。名は尊仁。後朱雀天皇と禎子内親王の子。摂関家を外戚としない天皇で、荘園整理などの政治改革を行った。
- 能信大納言
- 藤原能信(995〜1065)。道長の子で、母は源明子(高松殿)。頼通らとは異母兄弟。
- 高松の腹
- 道長の妻源明子の子。明子は高松殿と呼ばれた。
- 坊
- 東宮坊。転じて東宮。
- 大夫
- 東宮大夫。東宮坊の長官。
- 大極殿
- 大内裏の朝堂院の正殿。即位の儀を行う。天喜六年(1058)に焼失していた。
- 匡房中納言
- 大江匡房(1041〜1111)。学者・歌人。後三条・白河・堀河の三代に仕えた。
- 經任の中納言
- 藤原経任(1000〜1066)。
- ふだ
- 殿上の簡(ふだ)。昇殿を許された者の名を記した札。
- 大貳實政
- 藤原実政(1019〜1093)。後三条の東宮学士。のちに大宰大弐。
- 甘棠の詠
- 『詩経』召南「甘棠」。周の召公が甘棠(やまなし)の木の下で政務をとったのを、民が慕って、その木を伐るなと歌った。
- 資仲の中納言
- 藤原資仲(1021〜1087)。
- 木津のわたり
- 山城国の木津川の渡し。奈良への途中にある。
- 隆方
- 藤原隆方(1014〜1078)。
- 陪膳
- 天皇の食事の給仕を勤めること。
- 內侍所
- 神鏡(八咫鏡の形代)を安置する温明殿。またその神鏡。
- 正家
- 藤原正家(1026〜1111)。文章博士。
- 名對面
- 宮中で、宿直の者などが名を名のること。
文法
- 坊にこそは立てめ
- 「こそ…め」の係り結び。「め」は意志の助動詞「む」の已然形。
- 待ち幸ひする者
- 運が開けるのを待っている者。即位の見込みの立たない東宮に仕える者を、あざけっていう。
- 申しけれは
- 底本は濁点を付けないが「申しければ」。
解説
後三条天皇(在位1068〜1072)は、宇多天皇以来百七十年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇で、延久の荘園整理令を出し、記録荘園券契所を置くなど、摂関家の権勢を抑える政治を行った。今鏡はこの天皇を「昔かしこき御世にも恥ぢず」と高く評価している。
大江匡房と後三条天皇との関係は、今鏡の中でも繰り返し語られる。天皇が東宮時代から学問を通じて人材を育て、即位後に登用したことが、のちの院政の基盤ともなった。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、41〜46頁(コマ35–38)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日