古典ライブラリー

今鏡 第一「すべらぎの上」 第9章

司召

後三条天皇の御代。東宮に立つにあたっては、藤原能信の強い進言があった。学問にすぐれた天皇は、若き大江匡房を学問の友とし、東宮時代の師藤原実政を重んじ、その恨みをはらすために人事でけじめをつけた。内裏焼亡の夜の右少弁正家の機転も語られる。

  1. 1此こ此ここののの次つぎ次つぎつぎのみかどのみかどのみかど三條さんでう三條さんでうさんじょうノノノ院ゐん院ゐんいんにぞおはしましゝにぞおはしましゝにぞおわしましし。。。まだまだまだ御子みこ御子みこみこにおはしましゝにおはしましゝにおわしましし時とき時ときとき、、、父ちゝ父ちゝちちののの帝みかど帝みかどみかど後朱雀院ごすざくゐん後朱雀院ごすざくゐんごすざくいん、、、さきのさきのさきの年とし年としとしののの冬ふゆ冬ふゆふゆよりわづらはせよりわづらはせよりわずらわせ給たま給たまたまひてひていて、、、むつきのむつきのむつきの十日とをか十日とをかとおかあまりのあまりのあまりの比ごろ比ごろごろ、、、位くらゐ位くらゐくらいさらせさらせさらせ給たま給たまたまひてひていて、、、みこのみこのみこの宮みや宮みやみやにゆづりにゆづりにゆずり申まう申まうもうさせたまふとばかりにてさせたまふとばかりにてさせたまうとばかりにて、、、東宮とうぐう東宮とうぐうとうぐうののの立た立たたたせたせたせ給たま給たまたまふふう事こと事ことことははは、、、ともかくもともかくもともかくも聞き聞ききこえざりけるこえざりけるこえざりけるををを、、、大納言だいなごん大納言だいなごんだいなごんとてとてとて、、、宇治殿うぢどの宇治殿うぢどのうじどのなどのなどのなどの御弟おほんおとうと御弟おほんおとうとおおんおとうとののの、、、ののの腹はら腹はらはらにおはせしがにおはせしがにおわせしが、、、御前おまへ御前おまへおまえにまゐりてにまゐりてにまいりて、、、「「「二に二ににノノノ宮みや宮みやみやをををいづれのいづれのいずれの僧そう僧そうそうにかにかにか付つ付つつけけけ奉たてまつ奉たてまつたてまつりりりはべるべきはべるべきはべるべき」」」。。。
  2. 2ととと聞き聞ききこえさせこえさせこえさせ給たま給たまたまひけるにひけるにいけるに、、、「「「にこそにこそにこそははは立た立たたてめてめてめ。。。僧そう僧そうそうにににはははいかゞいかゞいかが附つ附つつけむけむけむ。。。關白くわんぱく關白くわんぱくかんぱくののの、、、東宮とうぐう東宮とうぐうとうぐうののの事こと事ことことはははしづかにとしづかにとしずかにと云い云いいへばへばえば、、、後のち後のちのちにこそにこそにこそははは」」」ととと仰おほ仰おほおおせられけるせられけるせられけるををを、、、「「「けふけふきょう立た立たたたせたせたせ給たま給たまたまはずはずわずははは、、、かなふまじきかなふまじきかなうまじき事こと事ことことににに侍はべ侍はべはべりりり」」」。。。
  3. 3ととと申まう申まうもうしたまひければしたまひければしたまいければ、、、「「「さらばさらばさらば今日けふ今日けふきょう」」」とてなんとてなんとてなん東宮とうぐう東宮とうぐうとうぐうはははたゝせたゝせたたせ給たま給たまたまひけるひけるいける。。。やがてやがてやがてにににははは、、、そのそのその能信よしのぶ能信よしのぶよしのぶ大納言だいなごん大納言だいなごんだいなごんなりたまへりきなりたまへりきなりたまえりき。。。君きみ君きみきみののの御おん御おんおんためためため、、、たゆみなくすゝめたてまつりたゆみなくすゝめたてまつりたゆみなくすすめたてまつり給たま給たまたまへりけむへりけむえりけむ。。。
  4. 4いとありがたしいとありがたしいとありがたし。。。さればさればされば白河院しらかはゐん白河院しらかはゐんしらかわいんははは、、、まことにやまことにやまことにや。。。大夫だいぶ大夫だいぶだいぶどのとぞどのとぞどのとぞ仰おほ仰おほおおせられけるとぞせられけるとぞせられけるとぞ人ひと人ひとひとははは申まう申まうもうししし侍はべ侍はべはべりしりしりし。。。二に二ににノノノ宮みや宮みやみやとととははは後三條院ごさんでうゐん後三條院ごさんでうゐんごさんじょういんののの御事おほんこと御事おほんことおおんことなりなりなり。。。このこのこの帝みかど帝みかどみかどははは、、、後朱雀院ごすざくゐん後朱雀院ごすざくゐんごすざくいんののの第二だいに第二だいにだいにののの皇子みこ皇子みこみこにおはしますにおはしますにおわします。。。
  5. 5御母おほんはは御母おほんははおおんはは太皇太后宮たいくわうたいこうぐう太皇太后宮たいくわうたいこうぐうたいこうたいこうぐう禎子ていし禎子ていしていしののの內親王ないしんわう內親王ないしんわうないしんのうととと申まう申まうもうすすす。。。陽明門院やうめいもんゐん陽明門院やうめいもんゐんようめいもんいんこのこのこの御事おほんこと御事おほんことおおんことなりなりなり。。。
  6. 6みかどみかどみかど寬德くわんとく寬德くわんとくかんとく二年にねん二年にねんにねん正月しやうぐわつ正月しやうぐわつしょうがつ十六日じふろくにち十六日じふろくにちじゅうろくにちににに東宮とうぐう東宮とうぐうとうぐうににに立た立たたたせたせたせ給たま給たまたまふふう。。。御おん御おんおんとしとしとし十二じふに十二じふにじゅうに、、、治ぢ治ぢじ曆りやく曆りやくりやく四年よねん四年よねんよねん四月しぐわつ四月しぐわつしがつ十九日じふくにち十九日じふくにちじゅうくにち位くらゐ位くらゐくらいににに卽つ卽つつかせたまふかせたまふかせたまう。。。御年おほんとし御年おほんとしおおんとし三十みそぢ三十みそぢみそじ五ご五ごご。。。もいまだもいまだもいまだ造つく造つくつくられねばられねばられねば、、、太政官だじやうくわん太政官だじやうくわんだじょうかんののの廳ちやう廳ちやうちょうにてにてにて御おん御おんおん卽つ卽つつ位くらゐ位くらゐくらい侍はべ侍はべはべりけるりけるりける。。。
  7. 7世よ世よよををを治をさ治をさおさめさせたまふめさせたまふめさせたまう事こと事ことこと、、、昔むかし昔むかしむかしかしこきかしこきかしこき御世みよ御世みよみよにもにもにも耻は耻ははぢずおはしましきぢずおはしましきじずおわしましき。。。御身おほんみ御身おほんみおおんみののの才さい才さいさいははは、、、やんごとなきやんごとなきやんごとなき博士はかせ博士はかせはかせどもにもまさらせどもにもまさらせどもにもまさらせ給たま給たまたまへりへりえり。。。東宮とうぐう東宮とうぐうとうぐうにおはしましけるにおはしましけるにおわしましける時とき時ときとき、、、中納言ちゆうなごん中納言ちゆうなごんちゅうなごんまだまだまだ下﨟げらふ下﨟げらふげろうにてにてにて侍はべ侍はべはべりけるにりけるにりけるに、、、世よ世よよををを恨うら恨うらうらみてみてみて山やま山やまやまののの中なか中なかなかににに入い入いいりてりてりて、、、世よ世よよにもまじらじなどにもまじらじなどにもまじらじなど申まう申まうもうしければしければしければ、、、ののの中納言ちゆうなごん中納言ちゆうなごんちゅうなごんととと申まう申まうもうしゝしゝしし人ひと人ひとひとののの「「「われわれわれははは、、、やんごとなかるべきやんごとなかるべきやんごとなかるべき人ひと人ひとひとなりなりなり。。。然しか然しかしかあらばあらばあらば世よ世よよのためのためのため身み身みみののの爲ため爲ためため、、、くちをしかるべしくちをしかるべしくちおしかるべし」」」。。。
  8. 8といさめければといさめければといさめければ、、、宇治うぢ宇治うぢうじのおほきおとゞのおほきおとゞのおおきおとど心得こころえ心得こころえこころえずおぼしたりけれどずおぼしたりけれどずおぼしたりけれど、、、東宮とうぐう東宮とうぐうとうぐうににに參まゐ參まゐまいりりり侍はべ侍はべはべりければりければりければ、、、宮みや宮みやみやももも喜よろこ喜よろこよろこばせばせばせ給たま給たまたまひてひていて、、、やがてやがてやがて殿上てんじやう殿上てんじやうてんじょうしてしてして、、、人ひと人ひとひとのよそひなどのよそひなどのよそいなど借か借かかりてぞりてぞりてぞ、、、。。。
  9. 9さてよるさてよるさてよる晝ひる晝ひるひる文ふみ文ふみふみのみちののみちののみちの御おん御おんおん友とも友ともともにてなんにてなんにてなん侍はべ侍はべはべりけるりけるりける。。。位くらゐ位くらゐくらいににに卽つ卽つつかせかせかせ給たま給たまたまふふう始はじ始はじはじめにめにめに、、、つかさもなくてつかさもなくてつかさもなくて、、、五位ごゐ五位ごゐごいののの藏人くらうど藏人くらうどくろうどになりたりければになりたりければになりたりければ、、、藏人くらうど藏人くらうどくろうどののの式部大夫しきぶのたいふ式部大夫しきぶのたいふしきぶのたゆうとてなむとてなむとてなむ。。。
  10. 10あきたるにしたがひてあきたるにしたがひてあきたるにしたがいて、、、中務なかつかさ中務なかつかさなかつかさノノノ少輔せう少輔せうしょうにぞなりにぞなりにぞなり侍はべ侍はべはべりけるりけるりける。。。
  11. 11實政さねまさ實政さねまささねまさははは東宮とうぐう東宮とうぐうとうぐうののの御時おほんとき御時おほんときおおんときののの學士がくし學士がくしがくしにてにてにて侍はべ侍はべはべりしりしりしををを、、、ときなくおはしませばときなくおはしませばときなくおわしませば、、、かまへてかまへてかまえて參まゐ參まゐまいりよらぬりよらぬりよらぬ事こと事ことことにならむとにならむとにならむと思おも思おもおもひけるにひけるにいけるに、、、さすがさすがさすが、、、いたはしくていたはしくていたわしくて甲斐守かひのかみ甲斐守かひのかみかいのかみににに侍はべ侍はべはべりければりければりければ、、、かのかのかの國くに國くにくによりよりより參まゐ參まゐまいるまじきるまじきるまじき心こころ心こころこころがまへしけるにがまへしけるにがまえしけるに、、、くだりけるにくだりけるにくだりけるに、、、餞はなむけ餞はなむけはなむけせさせたまふとてせさせたまふとてせさせたまうとて、、、
  12. 12州民縱發甘棠詠しうみんたとひかんたうのえいをおこすとも州民縱發甘棠詠しうみんたとひかんたうのえいをおこすともしゅうみんたといかんとうのえいをおこすとも、、、莫忘多年風月遊わするることなかれたねんふうげつのあそび莫忘多年風月遊わするることなかれたねんふうげつのあそびわするることなかれたねんふうげつのあそび、、、
  13. 13ととと作つく作つくつくらせらせらせ給たま給たまたまへりけるになむへりけるになむえりけるになむ。。。えええ忘わす忘わすわすれれれ參まゐ參まゐまいらせざりけるらせざりけるらせざりける。。。ののの詠よ詠よよとととははは、、、からからから國くに國くにくにににに、、、國くに國くにくにののの守かみ守かみかみになりけるになりけるになりける人ひと人ひとひとののの、、、宿やど宿やどやどれりけるれりけるれりける所ところ所ところところににに、、、やまなしのやまなしのやまなしの木き木ききのおひたりけるのおひたりけるのおいたりけるををを、、、そのそのその人ひと人ひとひとののの都みやこ都みやこみやこへへへかへりてかへりてかえりて後のち後のちのち、、、政事まつりごと政事まつりごとまつりごとうるはしくうるはしくうるわしく、、、しのばしかりければしのばしかりければしのばしかりければ、、、このなしのこのなしのこのなしの木き木きき伐き伐ききるるる事こと事ことことなかれなかれなかれ。。。
  14. 14かのかのかの人ひと人ひとひとのやどれりしのやどれりしのやどれりし所ところ所ところところなりなりなり。。。といふといふという、、、歌うた歌うたうたをををうたひたりけるとなむうたひたりけるとなむうたいたりけるとなむ。。。扨さて扨さてさてみかどみかどみかど位くらゐ位くらゐくらいにつかせにつかせにつかせ給たま給たまたまひてひていて後のち後のちのち「「「左中辨さちゆうべん左中辨さちゆうべんさちゅうべんににに加くは加くはくわへさせへさせえさせ給たま給たまたまへへえ」」」。。。ととと申まう申まうもうしければしければしければ、、、「「「つゆばかりもつゆばかりもつゆばかりも、、、理ことわ理ことわことわりなきことりなきことりなきことをばをばをばすまじきにすまじきにすまじきに、、、いかでかゝることいかでかゝることいかでかかることをばをばをば申まう申まうもうすぞすぞすぞ」」」、、、正左中辨しやうさちゆうべん正左中辨しやうさちゆうべんしょうさちゅうべんににに始はじ始はじはじめてならむめてならむめてならむ事こと事ことこと、、、あるまじきあるまじきあるまじき由よし由よしよし仰おほ仰おほおおせられければせられければせられければ、、、藏人くらうど藏人くらうどくろうどののの頭とう頭とうとうにてにてにて、、、仲なか仲なかなかののの中納言ちゆうなごん中納言ちゆうなごんちゅうなごん侍はべ侍はべはべりけるがりけるがりけるが、、、重かさ重かさかさねてねてねて申まう申まうもうしけるしけるしけるははは、、、「「「實政さねまさ實政さねまささねまさ申まう申まうもうすすす事こと事ことことなんなんなん侍はべ侍はべはべるるる。。。のわたりののわたりののわたりの事こと事ことことををを、、、一日ついたち一日ついたちついたちにてもにてもにても思おも思おもおもひひい知し知ししりりり侍はべ侍はべはべらむらむらむ」」」ととと奏そう奏そうそうしければしければしければ、、、其そ其そそののの折をり折をりおりおもほししづめさせたまひておもほししづめさせたまひておもおししずめさせたまいて、、、計はか計はかはからはせたまふらはせたまふらわせたまう御おん御おんおんけしきなりけりけしきなりけりけしきなりけり。。。
  15. 15昔むかし昔むかしむかし實政さねまさ實政さねまささねまさははは東宮とうぐう東宮とうぐうとうぐうののの春日かすが春日かすがかすがののの使つかひ使つかひつかいにまかりにまかりにまかり下くだ下くだくだりけりりけりりけり。。。方かた方かたかたははは辨べん辨べんべんにてにてにて罷まか罷まかまかりけるにりけるにりけるに、、、實政さねまさ實政さねまささねまさまづまづまず船ふね船ふねふねなどなどなど設まう設まうもうけてけてけて渡わた渡わたわたらむとしけるらむとしけるらむとしけるををを、、、隆たか隆たかたか方かた方かたかたおしさまたげておしさまたげておしさまたげて、、、「「「待ま待ままちちち幸さいは幸さいはさいわひするひするひする者もの者ものもの、、、何なに何なになにににに急いそ急いそいそぐぞぐぞぐぞ」」」などなどなど、、、ないがしろにないがしろにないがしろに申まう申まうもうししし侍はべ侍はべはべりければりければりければ、、、辛から辛からからくくく思おも思おもおもひてひていて、、、かくなんとかくなんとかくなんと申まう申まうもうしたりけるしたりけるしたりけるををを、、、おもほしおもほしおもおし出い出いいだしてだしてだして、、、此こ此ここのことわりのことわりのことわり天照あまてら天照あまてらあまてらるるる御神おほんかみ御神おほんかみおおんかみににに申まう申まうもうしししうけむとてうけむとてうけむとて、、、右中辨うちゆうべん右中辨うちゆうべんうちゅうべんにににははは加くは加くはくわへさせたまひてけりへさせたまひてけりえさせたまいてけり。。。
  16. 16隆たか隆たかたか方かた方かたかたはははかりなきかりなきかりなき心こころ心こころこころばへにてばへにてばえにて、、、殿上てんじやう殿上てんじやうてんじょうににに司召つかさめし司召つかさめしつかさめしのののふみふみふみ出い出いいだされたるだされたるだされたるををを、、、上達部かんだちめ上達部かんだちめかんだちめたちたちたち、、、かつ〳〵かつ〳〵かつかつ見み見みみたまひてたまひてたまいて、、、何なに何なになにになりけりになりけりになりけり。。。かれにかれにかれに成な成ななりにたりりにたりりにたり。。。
  17. 17などのたまはせけるなどのたまはせけるなどのたまわせけるををを、、、「「「隆たか隆たかたか方かた方かたかたつかうまつりてつかうまつりてつこうまつりて侍はべ侍はべはべらむらむらむ」」」などなどなど、、、得え得ええたりがほにたりがほにたりがおに云い云いいひけるひけるいけるををを、、、「「「さもあらぬさもあらぬさもあらぬ者もの者ものもののかみにのかみにのかみに加くは加くはくわはははりたるぞりたるぞりたるぞ」」」などなどなど、、、人々ひとびと人々ひとびとひとびと侍はべ侍はべはべりければりければりければ、、、うちしめりてうちしめりてうちしめりて出い出いいでにけりでにけりでにけり。。。
  18. 18次つぎ次つぎつぎのあしたののあしたののあしたのははは、、、隆たか隆たかたか方かた方かたかたががが番ばん番ばんばんにてにてにて侍はべ侍はべはべりけるりけるりけるををを、、、「「「よもよもよも參まゐ參まゐまいらじらじらじ。。。ことことこと人ひと人ひとひとをもをもをもよほせよほせよおせ」」」ととと仰おほ仰おほおおせられけるせられけるせられける程ほど程ほどほどににに、、、午むま午むまうまののの時とき時ときときよりさきによりさきによりさきに、、、隆たか隆たかたか方かた方かたかたまゐりまゐりまいり侍はべ侍はべはべりければりければりければ、、、みかどさすがにおもほしめしてみかどさすがにおもほしめしてみかどさすがにおもおしめして、、、日ひ日ひひごろごろごろははは御おん御おんおんゆするゆするゆする召め召めめしてしてして、、、うるはしくうるはしくうるわしく御おん御おんおん鬢びん鬢びんびんかゝせかゝせかかせ給たま給たまたまひてひていて、、、たしかにつかせたまふたしかにつかせたまふたしかにつかせたまう御心みこころ御心みこころみこころににに、、、けふけふきょうははは待ま待ままちけれどもちけれどもちけれども、、、程ほど程ほどほどすぎてすぎてすぎて出い出いいでさせでさせでさせ給たま給たまたまへりけるにへりけるにえりけるに、、、陪膳はいぜん陪膳はいぜんはいぜんつかうまつりてつかうまつりてつこうまつりて、、、辭じ辭じじししし申まう申まうもうしてしてして、、、こもりこもりこもり侍はべ侍はべはべりにけりとなんりにけりとなんりにけりとなん。。。御代みよ御代みよみよのののはじめつはじめつはじめつ方かた方かたかたののの事こと事ことことにやにやにや侍はべ侍はべはべりけむりけむりけむ。。。
  19. 19內裏燒亡だいりせうまう內裏燒亡だいりせうまうだいりしょうもうののの侍はべ侍はべはべりけるにりけるにりけるに、、、殿上人てんじやうびと殿上人てんじやうびとてんじょうびと、、、上達部かんだちめ上達部かんだちめかんだちめなどもなどもなども、、、さぶらひあひたまはぬさぶらひあひたまはぬさぶらいあいたまわぬ程ほど程ほどほどにてにてにて、、、南殿なでん南殿なでんなでんににに出い出いいでさせたまへりけるにでさせたまへりけるにでさせたまえりけるに、、、御覽ごらん御覽ごらんごらんじもじもじも知し知ししらぬらぬらぬ者もの者ものもの、、、すくよかにすくよかにすくよかに走はし走はしはしりめぐりてりめぐりてりめぐりて、、、出い出いいだしたてまつりだしたてまつりだしたてまつり、、、右近うこん右近うこんうこんノノノ陣ぢん陣ぢんじんににに、、、御輿みこし御輿みこしみこしたづねたづねたずね出い出いいだしてだしてだして、、、御おん御おんおんはははしにしにしに寄よ寄よよせてせてせて、、、載の載ののせたてまつりなどしければせたてまつりなどしければせたてまつりなどしければ、、、「「「おのれおのれおのれははは誰た誰たたれぞれぞれぞ」」」ととと問と問ととはせたまひけるにはせたまひけるにわせたまいけるに、、、「「「右う右うう少すこ少すこすこ辨べん辨べんべん」」」ととと申まう申まうもうしけれしけれしけれははは、、、「「「辨官べんくわん辨官べんくわんべんかんならばならばならば、、、近ちか近ちかちかくさぶらへくさぶらへくさぶらえ」」」。。。
  20. 20とぞとぞとぞ仰おほ仰おほおおせられけるせられけるせられける。。。正家まさいへ正家まさいへまさいえ匡房まさふさ匡房まさふさまさふさとてとてとて、、、時とき時ときときにすぐれたるにすぐれたるにすぐれたる一ひと一ひとひとつがひのつがひのつがいの博士はかせ博士はかせはかせなるになるになるに、、、匡房まさふさ匡房まさふさまさふさははは朝夕あさゆふ朝夕あさゆふあさゆうさぶらひけりさぶらひけりさぶらいけり。。。これこれこれははは御覽ごらん御覽ごらんごらんじもじもじも知し知ししられまゐらせざりけるにこそられまゐらせざりけるにこそられまいらせざりけるにこそ。。。
  21. 21つかさつかさつかさをををさへさへさへ具ぐ具ぐぐしてしてして、、、申まう申まうもうしけむしけむしけむ、、、折節をりふし折節をりふしおりふしにつけてにつけてにつけて、、、いとかどあるいとかどあるいとかどある心こころ心こころこころばへなるべしばへなるべしばえなるべし。。。さてこそさてこそさてこそ、、、これかれのこれかれのこれかれの殿上人てんじやうびと殿上人てんじやうびとてんじょうびと上達部かんだちめ上達部かんだちめかんだちめ、、、束帶そくたい束帶そくたいそくたいなるもなるもなるも、、、又また又またまた直衣なほし直衣なほしのうし狩衣かりぎぬ狩衣かりぎぬかりぎぬなどなるなどなるなどなる人ひと人ひとひとももも、、、とりもあへずとりもあへずとりもあえずさま〴〵にさま〴〵にさまざまに參まゐ參まゐまいりあつまりたりけれりあつまりたりけれりあつまりたりけれ。。。となむきこえとなむきこえとなむきこえ侍はべ侍はべはべりしりしりし。。。

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

この次の帝は後三条院でいらっしゃいました。まだ皇子でいらした時、父の帝後朱雀院が前の年の冬からご病気になって、正月の十日過ぎに位をお退きになり、皇子の宮(後冷泉)に位をお譲りになるということだけで、東宮をお立てになることは、何とも聞こえてこなかったのを、能信大納言といって、宇治殿(頼通)などの御弟で、高松殿(明子)の腹から生まれた方が、御前に参上して、「二宮をどの僧にお付け申し上げたらよろしいでしょうか」と申し上げなさったところ、「東宮にこそ立てよう。どうして僧に付けたりしようか。関白が、東宮のことはゆっくりと、と言うので、後にしようと思うのだ」とおっしゃったのを、「今日お立てにならなければ、かなわないことでございます」と申し上げなさったので、「それならば今日」ということで、東宮はお立ちになったのです。すぐに東宮大夫には、その能信大納言がおなりになりました。君の御ために、怠りなくお勧め申し上げたのでしょう。まことにめったにないことです。だから白河院は、本当でしょうか、「大夫殿」とお呼びになったと人は申しておりました。二宮とは後三条院のことです。この帝は、後朱雀院の第二皇子でいらっしゃいます。御母は太皇太后宮禎子内親王と申します。陽明門院がこの方です。

帝は寛徳二年正月十六日に東宮にお立ちになります。御年十二。治暦四年四月十九日に位におつきになります。御年三十五。大極殿もまだ再建されていなかったので、太政官の庁で御即位の儀がありました。世をお治めになることは、昔の賢い御代にも恥じないほどでいらっしゃいました。御学才は、尊い博士たちにもまさっていらっしゃいました。東宮でいらした時、匡房中納言がまだ身分の低いころに、世を恨んで山の中に入って、世間とも交わるまいなどと言ったので、経任の中納言と申した人が、「あなたはきっと高い身分になる人だ。そんなことをしたら世のため身のため、残念なことになるだろう」といさめたので、宇治の太政大臣(頼通)は気に入らないとお思いになったけれども、東宮のもとに参りましたところ、宮もお喜びになって、すぐに昇殿させて、人の装束などを借りて、殿上の簡にも名を付けたのでした。そして夜も昼も学問の道のお友としてお仕えしたのです。位におつきになった初めに、官職もないまま五位の蔵人になったので、蔵人の式部大夫といったのです。空きが出るにしたがって、中務少輔になりました。

大弐実政は東宮の御時の学士でしたが、(後三条が)なかなか即位されないので、何とかして東宮のもとに参り寄らないようにしようと思っていたところ、さすがに気の毒に思われて、甲斐守になっていたので、その国から帰参するまいという心づもりをしていましたが、任国に下る折に、送別の宴をお催しになって、

州民縱發甘棠詠、莫忘多年風月遊(任国の民がたとえ甘棠の歌を歌ってお前を慕うことがあっても、長年ともに風月を楽しんだことを忘れるな)

とお作りになったので、忘れ申し上げることができなかったのです。甘棠の詠というのは、唐の国で、国守になった人の泊まっていた所に、やまなしの木が生えていたのを、その人が都に帰った後、その政治が立派で慕わしかったので、「このなしの木を伐ってはならない。あの方のお泊まりになった所だ」という歌をうたったということです。さて、帝が位におつきになった後、(実政が)「左中弁に加えてください」と申したところ、「少しでも道理に合わないことはするまいと思っているのに、どうしてこんなことを申すのか」と、いきなり正官の左中弁になる例はあってはならないとおっしゃったので、蔵人頭で資仲の中納言がいましたが、重ねて申し上げたことには、「実政が申すことがございます。木津の渡しの事を、一日でも思い知らせてやりたい」と奏上したので、その時お心を静めなさって、取り計らわれるご様子でした。昔、実政は東宮の春日祭の使として下向しました。隆方は弁官として下ったところ、実政が先に船などを用意して渡ろうとしたのを、隆方が押しとどめて、「ご運の開けるのを待っている者が、何を急ぐのか」などと、ばかにして申しましたので、つらく思って、そのように申し上げたのを、思い出しなさって、この道理は天照大神に申し受けようということで、(実政を)右中弁に加えなさったのでした。隆方は思慮の浅い性格で、殿上に司召(任官)の文書が出されたのを、公卿たちが次々にご覧になって、「誰々が何になった。あの者はこれになった」などとおっしゃっていたところ、「隆方がその役を勤めましょう(自分が任じられるだろう)」などと得意顔に言ったのを、「そうでもない者が上に加わったぞ」などと人々が言ったので、しょげて退出してしまいました。翌朝の陪膳(御膳の給仕)は、隆方の当番でしたが、「まさか参るまい。ほかの人を呼べ」とおっしゃっているうちに、正午より前に、隆方が参上したので、帝はさすがにお思いになって、いつもは御髪を洗い、きちんと鬢をかかせなさって、きちんと座におつきになるのに、今日は待っていたけれども、時間が過ぎてからお出ましになったところ、陪膳をお勤めして、辞職を申し出て、引きこもってしまったということです。御代の初めのころのことでございましたでしょうか。

内裏が焼けた時、殿上人や公卿なども、そろってお仕えしていない時で、帝が南殿にお出ましになったところ、見たこともない者が、てきぱきと走り回って、内侍所(神鏡)をお出し申し上げ、右近の陣で御輿を探し出して、階段の下に寄せて、お乗せ申し上げなどしたので、「お前は誰だ」とお尋ねになると、「右少弁正家」と申したので、「弁官ならば、近くに控えよ」とおっしゃいました。正家と匡房とは、当時すぐれた一対の博士でしたが、匡房は朝夕おそばに仕えていました。正家はお顔も覚えていただいていなかったのです。官職まで添えて名のりを申し上げたのは、時と場合にかなって、まことに才気ある心づかいでありましょう。そうしてこそ、あれこれの殿上人・公卿が、束帯の者も、また直衣・狩衣などの者も、取るものも取りあえず、さまざまに参り集まったのでした、と聞いております。

意訳

後朱雀天皇の譲位の際、頼通は東宮を立てることを先延ばしにしようとした。これに対して、頼通の異母弟で頼通と対立していた能信が強く進言し、尊仁親王(後三条)が東宮となった。摂関家を外戚としない後三条の即位は、頼通の意向に反するものであり、能信の働きがなければ実現しなかったとされる。白河院が能信を「大夫殿」と呼んで敬ったというのはそのためである。

後三条天皇は学問にすぐれ、若い大江匡房を学問の友とした。匡房が世を恨んで隠遁しようとしたとき、藤原経任がいさめたこと、頼通が匡房の東宮への出仕を快く思わなかったことは、東宮時代の後三条が頼通から冷遇されていた事情を物語る。

東宮学士の藤原実政は、即位の見込みが立たない東宮から離れようとしたが、送別の詩で心をつかまれ、忠勤を続けた。即位後、天皇は実政を一挙に左中弁にという願いをいったん退けながら、かつて隆方から受けた侮辱を知ると、実政を隆方の上に任じてけじめをつけた。天皇の公正さと情の深さとの両面が描かれている。

最後の内裏焼亡の話では、名も知られていなかった右少弁藤原正家が、内侍所(神鏡)と御輿を手際よく運び出し、官名を添えて名のったことが称えられる。章題の「司召」は、実政・隆方の任官の話による。

語釈・文法注

後三條ノ院
第七十一代後三条天皇(1034〜1073)。名は尊仁。後朱雀天皇と禎子内親王の子。摂関家を外戚としない天皇で、荘園整理などの政治改革を行った。
能信大納言
藤原能信(995〜1065)。道長の子で、母は源明子(高松殿)。頼通らとは異母兄弟。
高松の腹
道長の妻源明子の子。明子は高松殿と呼ばれた。
坊
東宮坊。転じて東宮。
大夫
東宮大夫。東宮坊の長官。
大極殿
大内裏の朝堂院の正殿。即位の儀を行う。天喜六年(1058)に焼失していた。
匡房中納言
大江匡房(1041〜1111)。学者・歌人。後三条・白河・堀河の三代に仕えた。
經任の中納言
藤原経任(1000〜1066)。
ふだ
殿上の簡(ふだ)。昇殿を許された者の名を記した札。
大貳實政
藤原実政(1019〜1093)。後三条の東宮学士。のちに大宰大弐。
甘棠の詠
『詩経』召南「甘棠」。周の召公が甘棠(やまなし)の木の下で政務をとったのを、民が慕って、その木を伐るなと歌った。
資仲の中納言
藤原資仲(1021〜1087)。
木津のわたり
山城国の木津川の渡し。奈良への途中にある。
隆方
藤原隆方(1014〜1078)。
陪膳
天皇の食事の給仕を勤めること。
內侍所
神鏡(八咫鏡の形代)を安置する温明殿。またその神鏡。
正家
藤原正家(1026〜1111)。文章博士。
名對面
宮中で、宿直の者などが名を名のること。

文法

坊にこそは立てめ
「こそ…め」の係り結び。「め」は意志の助動詞「む」の已然形。
待ち幸ひする者
運が開けるのを待っている者。即位の見込みの立たない東宮に仕える者を、あざけっていう。
申しけれは
底本は濁点を付けないが「申しければ」。

解説

後三条天皇(在位1068〜1072)は、宇多天皇以来百七十年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇で、延久の荘園整理令を出し、記録荘園券契所を置くなど、摂関家の権勢を抑える政治を行った。今鏡はこの天皇を「昔かしこき御世にも恥ぢず」と高く評価している。

大江匡房と後三条天皇との関係は、今鏡の中でも繰り返し語られる。天皇が東宮時代から学問を通じて人材を育て、即位後に登用したことが、のちの院政の基盤ともなった。

関連

出典

底本
関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、41〜46頁(コマ35–38)。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日