今鏡 第一「すべらぎの上」 第8章
こがねの御法
後冷泉天皇は、月を詠んだ歌を残し、金泥で自ら書写した法華経の御八講を高陽院で行う。宇治の平等院への行幸では詩を作り、頼通は准三宮となった。しかし天皇は病に伏し、治暦四年、在位二十三年で崩御する。皇子女はなかった。
- 1いづれのいづれのいずれの年年としにかにかにか侍侍はべりけむりけむりけむ。。。九月十三夜九月十三夜ながつきじゅうさんや、、、ののの內裏內裏うちにおはしましけるににおはしましけるににおわしましけるに、、、瀧瀧たきののの水水みず音音おとすゞしくてすゞしくてすずしくて、、、岩岩いわ間間まののの水水みずににに月月つきやどしてやどしてやどして御覽御覽ごらんぜさせぜさせぜさせ給給たまひてひていて、、、よませたまひけるよませたまひけるよませたまいける。。。
- 2岩岩いわ間間まよりよりより流流ながるゝるゝるる水水みずははははやけれどうつれるはやけれどうつれるはやけれどうつれる月月つきののの影影かげぞのどけきぞのどけきぞのどけき
- 3とぞとぞとぞ聞聞きこえこえこえはべりしはべりしはべりし。。。治治じ曆曆りやく元年元年がんねん九月九月くがつ廿五日廿五日にじゅうごにちににに、、、高陽院高陽院かやのいんにてこがねのにてこがねのにてこがねの文字文字もじののの御經御經おおんきょう、、、みかどみかどみかど御御おんみづからみづからみずから書書ふみかせかせかせ給給たまひてひていて、、、行行おこなはせはせわせ給給たまひきひきいき。。。
- 4村上村上むらかみののの御代御代みよ跡跡あとををを、、、流流ながれくませれくませれくませ給給たまふなるべしふなるべしうなるべし。。。はじめのはじめのはじめの御御おん導師導師どうしはははののの、、、まだまだまだ僧都僧都そうずなどきこえしなどきこえしなどきこえし折折おりぞせらるゝぞせらるゝぞせらるる。。。ととと聞聞きこえええ侍侍はべりしりしりし。。。
- 5いづれのいづれのいずれの問問ととかいひてとかいひてとかいいて、、、ののの事事ことのよしなどものよしなどものよしなども、、、彼彼かののの村上村上むらかみののの御時御時おおんときのののをぞをぞをぞ、、、塵塵ちりばかりばかりばかり引引ひきかへたるやうなりけるとぞきかへたるやうなりけるとぞきかえたるようなりけるとぞ、、、聽聞聽聞ちょうもんしけるしけるしける人人ひとなどなどなど傳傳つたへへえ語語かたりりり侍侍はべりしりしりし。。。
- 6ののの日日ひははは宮々宮々みやみや上達部上達部かんだちめ殿上人殿上人てんじょうびと、、、みなみなみな棒物棒物ささげものたてまつりてたてまつりてたてまつりて、、、船船ふね池池いけにににうかびてうかびてうかびて、、、水水みずののの上上うえにににこゑ〴〵こゑ〴〵こえごえ調調しらべあひてべあひてべあいて、、、佛佛ほとけののの御國御國みくにうつしうつしうつし給給たまへりへりえり。。。
- 7紅葉紅葉もみじのにしきのにしきのにしき水水みずののの綾綾あや、、、所所ところももも折折おりもかなへるもかなへるもかなえる御法御法みのりののの庭庭にわなるべしなるべしなるべし。。。
- 8三年三年さんねん十月十月じゅうがつ十五日十五日じゅうごにちにににははは宇治宇治うじのののににに行幸行幸ぎょうこうありてありてありて、、、おほきおとゞおほきおとゞおおきおとど二三年二三年にさんねん彼彼かれにのみおはしましゝかばれにのみおはしましゝかばれにのみおわしまししかば、、、わざとのみゆきわざとのみゆきわざとのみゆき侍侍はべりてりてりて、、、見見み奉奉たてまつらせらせらせ給給たまふとぞふとぞうとぞうけたまはりしうけたまはりしうけたまわりし。。。
- 9遙遙はるかなるにかなるにかなるに、、、舟舟ふねよりよりより樂人樂人がくにん參參まいりりり向向むかひてひていて、、、宇治川宇治川うじがわににに浮浮うかべてべてべて、、、漕漕こぎのぼりぎのぼりぎのぼり侍侍はべりけるりけるりけるほどほどほど、、、からからから國國くにもかくやとぞもかくやとぞもかくやとぞ見見みえけるえけるえける。。。ととと人人ひとははは語語かたりりり侍侍はべりしりしりし。。。
- 10御堂御堂みどうののの有樣有樣ありさま、、、川川がわののの上上うえににに、、、錦錦にしきのかりやのかりやのかりや造造つくりてりてりて、、、池池いけののの上上うえにもにもにも、、、からからから船船ふねににに笛笛ふえのねのねのね、、、さま〴〵さま〴〵さまざましらべてしらべてしらべて、、、御前御前おまえのものなどのものなどのものなどははは、、、白白しろがねがねがね、、、色々色々いろいろののの玉玉たまどもどもどもをををなむなむなん、、、つらぬきつらぬきつらぬき飾飾かざられたりけるられたりけるられたりける。。。
- 11十六日十六日じゅうろくにちにかへらせにかへらせにかえらせ給給たまふべきにふべきにうべきに、、、雨雨あめにとゞまらせにとゞまらせにとどまらせ給給たまひてひていて、、、十七日十七日じゅうしちにちににに文文ふみなどなどなど作作つくらせたまふらせたまふらせたまう。。。そのたびのみかどのそのたびのみかどのそのたびのみかどの御製御製ぎょせいとてとてとてうけうけうけ給給たまはははりりり侍侍はべりしりしりしははは、、、
- 12忽看鳥瑟三明影忽看鳥瑟三明影たちまちみるちょうしつさんみょうのかげ、、、暫駐鸞輿一日蹤暫駐鸞輿一日蹤しばらくとどむらんよいちじつのあと
- 13とかやとかやとかや、、、作作つくらせたまへるとらせたまへるとらせたまえると、、、ほのかにおぼえほのかにおぼえほのかにおぼえ侍侍はべるるる。。。折折おりにあひてにあひてにあいて、、、おぼしよらせおぼしよらせおぼしよらせ給給たまひけんひけんいけんほどほどほど、、、いとめでたきいとめでたきいとめでたき事事ことととと、、、知知しりたるりたるりたる人申人申ひともうしけるしけるしける。。。
- 14そのたびぞそのたびぞそのたびぞののの宣旨宣旨せんじははは、、、宇治殿宇治殿うじどのかうぶらせかうぶらせこうぶらせ給給たまひけるとひけるといけると聞聞きこえさせこえさせこえさせ給給たまひしひしいし。。。そのそのその頃頃ごろにやにやにや侍侍はべりけむりけむりけむ。。。內裏內裏うちにてにてにて童舞童舞わらわまい御覽御覽ごらんぜさせぜさせぜさせ給給たまひきひきいき。。。
- 15上達部上達部かんだちめののの若君若君わかぎみたちたちたち、、、おの〳〵おの〳〵おのおの舞舞まひひい給給たまひきひきいき。。。樂人樂人がくにんははは殿上人殿上人てんじょうびと、、、さまざまのさまざまのさまざまの吹吹ふききき物物もの、、、ひきものなどひきものなどひきものなど、、、せさせたまふせさせたまふせさせたまう。。。其其そののの中中なかににに、、、六條六條ろくじょうののの右右みぎのおとゞののおとゞののおとどの中納言中納言ちゅうなごんととと聞聞きこえたまひしこえたまひしこえたまいし時時とき、、、そのそのその若君若君わかぎみまひまひまい給給たまふふうををを、、、御前御前おまえにめしてにめしてにめして、、、御衣御衣みけし賜賜たまふにふにうに、、、おほぢのおほぢのおおじの內大臣內大臣ないだいじんとておはせしとておはせしとておわせし、、、座座ざをををたちてたちてたちて拜拜はいししし給給たまひけるひけるいけるははは、、、ののの大臣大臣おとどとぞきこえとぞきこえとぞきこえ給給たまひしひしいし。。。
- 16舞舞まひたまひしひたまひしいたまいしははは、、、のおとゞとやのおとゞとやのおとどとや申申もうしけんしけんしけん。。。かくてしはすのかくてしはすのかくてしわすの十二日十二日じゅうににち、、、にみてぐらたてまつらせにみてぐらたてまつらせにみてぐらたてまつらせ給給たまひきひきいき。。。みかどのみかどのみかどの御惱御惱おおんなやみのみのみの事事こととてとてとて」」」。。。
- 17つぎのつぎのつぎの年年とし正月正月しょうがつ一日一日ついたちははは日蝕日蝕にっしょくなりしかばなりしかばなりしかば、、、廢朝廢朝はいちょうとてみすもおろしとてみすもおろしとてみすもおろし、、、世世よののの政事政事まつりごとももも侍侍はべらざりきらざりきらざりき。。。さきのおほきおとゞもさきのおほきおとゞもさきのおおきおとども御惱御惱おおんなやみとてみとてみとて、、、きさらぎのきさらぎのきさらぎの比比ごろ、、、皇后宮皇后宮こうごうぐうもさとにもさとにもさとに出出いでさせでさせでさせ給給たまひきひきいき。。。
- 18內內うちにににはははののの法法ほうおこなはせおこなはせおこなわせ給給たまひてひていて、、、とておはしましゝとておはしましゝとておわしましし仁和寺仁和寺にんなじののの宮宮みやののの御弟子御弟子おおんでし僧綱僧綱そうごうになりになりになり、、、我我わががが御身御身おおんみももも牛車牛車ぎっしゃなどなどなど蒙蒙こうぶりたまひきりたまひきりたまいき。。。
- 19みかどみかどみかど御心御心みこころちおこたらせちおこたらせちおこたらせ給給たまふなるべしふなるべしうなるべし。。。四月四月しがつにににはははこがねしろがねこがねしろがねこがねしろがね、、、綾綾あや錦錦にしきなどのみてぐらなどのみてぐらなどのみてぐら、、、神々神々かみがみののの社社やしろににに奉奉たてまつらせたまひきらせたまひきらせたまいき。。。かゝるかゝるかかる程程ほどなれどなれどなれど、、、左左ひだりののの大臣大臣おとどのみむすめののみむすめののみむすめの女御女御にょうご、、、皇后宮皇后宮こうごうぐうににに立立たちたまひちたまひちたまい、、、ちゝおとゞもちゝおとゞもちちおとども關白關白かんぱくになりたまひきになりたまひきになりたまいき。。。
- 20內內うちにもにもにも御御おんなやみなやみなやみ怠怠おこたらせらせらせ給給たまはずはずわず。。。おほきおとゞもおほきおとゞもおおきおとども、、、よろづのがれよろづのがれよろずのがれ給給たまひてひていて、、、讓讓ゆずりりり申申もうしたまふなるべししたまふなるべししたまうなるべし。。。みかどみかどみかど世世よをををたもたせたもたせたもたせ給給たまふふう事事こと、、、廿三廿三にじゅうさん年年としなりきなりきなりき。。。
- 21御御おんとしとしとし四四よそぢにそぢにそじに四年四年よねんばかりあまらせばかりあまらせばかりあまらせ給給たまへりけるなるべしへりけるなるべしえりけるなるべし。。。をのこにてもをのこにてもおのこにても女女おんなにてもにてもにても、、、御子御子みこのおはしまさぬぞくちをしきやのおはしまさぬぞくちをしきやのおわしまさぬぞくちおしきや。。。御御おんはゝはゝはは內侍內侍ないしのかみのかみのかみ御御おんとしとしとし十九十九じゅうくにてにてにて、、、このみかどこのみかどこのみかど生生うみたてまつりみたてまつりみたてまつり給給たまひてひていて、、、かくれさせたまひにきかくれさせたまひにきかくれさせたまいにき。。。
- 22寬德寬德かんとく二年二年にねん八月八月はちがつ十一日十一日じゅういちにちににに、、、皇后宮皇后宮こうごうぐう贈贈おくりたてまつられきりたてまつられきりたてまつられき。。。國忌國忌こきにてにてにて、、、そのそのその日日ひはははよろづのまつりごとよろづのまつりごとよろずのまつりごと侍侍はべらずらずらず。。。昔昔むかしははは后后きさきにたちにたちにたち給給たまはではでわでうせたまへれどうせたまへれどうせたまえれど、、、みかどのみかどのみかどの御母御母おおんははなれなれなれははは、、、後後のちにににはやはやはやんごとなきんごとなきんごとなき御名御名みなとゞまりたまへりとゞまりたまへりとどまりたまえり。。。
現代語訳
いつの年のことでしたか。九月十三夜、高陽院の内裏にいらしたとき、滝の水音が涼しくて、岩間の水に月が映っているのをご覧になって、お詠みになった歌、
岩間より流るゝ水ははやけれどうつれる月の影ぞのどけき
と聞いております。治暦元年九月二十五日に、高陽院で金泥の文字の御経を、帝が御自ら書写なさって、御八講をお行わせになりました。村上天皇の御代の御筆跡の流れを汲まれたのでしょう。初日の御導師は勝範座主が、まだ僧都などと申し上げていた折に勤められた、と聞きました。いずれの問いとかいって、論議の次第なども、あの村上の御時のものを、少しも変えずに行ったようだと、聴聞した人などが伝え語っておりました。五巻の日は、宮々や公卿・殿上人がみな捧げ物を奉って、竜頭鷁首の唐風の船が池に浮かび、水の上でさまざまな楽器の音を調べ合わせて、仏の国をこの世に写しなさいました。紅葉の錦、水の綾と、場所も時節もふさわしい法会の庭であったことでしょう。
三年十月十五日には宇治の平等院に行幸があって、太政大臣(頼通)がこの二、三年そこにばかりいらっしゃったので、わざわざ行幸があって、お会いになったと承りました。宇治橋がはるかに見えるところに、舟から楽人が参り迎えて、宇治川に舟を浮かべて漕ぎのぼっていった様子は、唐の国もこのようであろうかと見えた、と人は語っておりました。御堂のご様子は、川の上に錦の仮屋を造り、池の上にも、唐風の船で笛の音をさまざまに調べ、御前の調度などは、金銀や色とりどりの玉を貫いて飾られていました。十六日にお帰りになる予定でしたが、雨でお留まりになって、十七日に詩などをお作らせになります。その時の帝の御製としてうかがいましたのは、
忽看鳥瑟三明影、暫駐鸞輿一日蹤(たちまち仏の頂に輝く三明の光を見て、しばらく天子の車をとどめて一日を過ごした)
とか、お作りになったと、かすかに覚えております。折にかなって思いつかれたのは、まことにすばらしいことだと、知っている人が申しました。その時に准三宮の宣旨を、宇治殿はお受けになったと聞いております。そのころでございましたか、内裏で童舞をご覧になりました。公卿の若君たちが、それぞれ舞いなさいました。楽人は殿上人で、さまざまの管楽器・弦楽器などを演奏させなさいます。その中で、六条右大臣(顕房)が中納言と申し上げていた時、その若君(雅実)が胡飲酒を舞いなさったのを、御前に召して御衣を賜ったところ、祖父の内大臣でいらした方が、座を立って拝舞なさったのは、土御門の大臣(師房)と申し上げた方でした。舞いなさったのは、太政大臣(雅実)と申し上げた方でしょうか。こうして十二月十二日、二十二社に幣帛を奉られました。帝の御病気のことということで。
翌年正月一日は日食だったので、廃朝ということで御簾も下ろし、朝廷の政務もありませんでした。前の太政大臣(頼通)も御病気ということで、二月ごろ、皇后宮(寛子)も里に退出なさいました。内裏では孔雀明王の法を行わせなさって、大御室と申し上げた仁和寺の宮(性信親王)の御弟子が僧綱となり、御自身も牛車の宣旨などを受けられました。帝の御病気がよくなられるようにということでしょう。四月には金銀・綾錦などの幣帛を神々の社に奉られました。このような時でしたが、左大臣(教通)の御娘の女御(歓子)が皇后宮にお立ちになり、父大臣も関白におなりになりました。帝の御病気は少しもよくなられません。太政大臣(頼通)も何もかも退かれて、(関白を)お譲りになったのでしょう。帝が世をお治めになったのは二十三年でした。御年は四十に四年ばかり余っていらっしゃったのでしょう。男子も女子も、御子がいらっしゃらなかったのは残念なことです。御母の尚侍は十九歳でこの帝をお産みになって、お亡くなりになりました。寛徳二年八月十一日に、皇后宮の位を追贈されました。国忌として、その日はいっさいの政務がありません。昔は后にお立ちにならずに亡くなられたけれども、帝の御母なので、後には尊いお名前が残られたのです。
意訳
冒頭の「岩間より」の歌は、流れの速い水と、そこに映ってゆったりと動かない月の光とを対比し、天皇の落ち着いた心境を思わせる。
治暦元年(1065)の御八講は、天皇が自ら金泥で書写した法華経を供養するもので、村上天皇の宸筆御八講にならったという。章題の「こがねの御法」はこの金字経による。
治暦三年(1067)の平等院行幸は、宇治に引退していた頼通のもとへ天皇が出向いたもので、頼通はこの時に准三宮の宣旨を受けた。頼通の栄華の頂点を示す出来事であった。
翌年の正月には日食があり、頼通も病み、天皇の病も重くなる。教通の娘歓子の立后と教通の関白就任のあと、天皇は四十四歳で崩御した。皇子がなかったため、皇位は摂関家を外戚としない後三条天皇へと移ることになる。
語釈・文法注
- 高陽院の內裏
- 頼通の邸宅高陽院は、内裏焼失の際の里内裏(仮の皇居)となった。
- こがねの文字の御經
- 金泥で書写した法華経。
- 御八講
- 法華経八巻を八回の講座に分けて講説する法会。
- 村上の御代のみづぐきの跡
- 村上天皇が宸筆の法華経で行った御八講(天暦九年〈955〉)の先例。
- 勝範座主
- 勝範(996〜1077)。天台座主。
- 論義
- 経文の意味について問答する法会の儀式。
- 五卷の日
- 法華経第五巻を講じる日。提婆達多品を含むため最も重んじられ、薪の行道や捧げ物が行われた。
- たつとりのから船
- 竜頭鷁首の船。船首に竜の頭と鷁(水鳥)の首を飾った一対の船で、楽人が乗って演奏した。
- 平等院
- 頼通が宇治の別業を寺とした寺院。阿弥陀堂(鳳凰堂)で知られる。
- うちはし
- 宇治橋。
- 准三宮
- 太皇太后・皇太后・皇后の三宮に准じる待遇。年官年爵などを与えられる。
- 胡飮酒
- 舞楽の曲名。胡国の王が酒に酔って舞う様子を表すという一人舞。
- 土御門の大臣
- 源師房。村上源氏の祖で、土御門右大臣と呼ばれた。顕房の父。
- 太政のおとゞ
- 源雅実(1059〜1127)。顕房の子で、のちに村上源氏で初めて太政大臣となった。
- 廿二社
- 朝廷が特に重んじて奉幣した二十二の神社。伊勢・石清水・賀茂など。
- 孔雀明王の法
- 孔雀明王を本尊とする密教の修法。病気平癒や祈雨に行われた。
- 大御室
- 性信親王(1005〜1085)。三条天皇の皇子で、仁和寺の門跡。
文法
- 影ぞのどけき
- 係助詞「ぞ」の結びで、形容詞「のどけし」が連体形「のどけき」になる。
- みかどの御惱みの事とて」。
- 底本はここに閉じ括弧を置くが、対応する開き括弧はない。
- 四そぢに四年ばかり
- 四十に四年ほど余る。四十四歳。
和歌
岩間より流るゝ水ははやけれどうつれる月の影ぞのどけき
- 詠者
- 後冷泉天皇
- 状況
- 九月十三夜、里内裏の高陽院で、岩間を流れる水に映る月を見て詠んだ歌。
修辞
- 対比
- 速く流れる水と、そこに映って静かな月の光を対比する。
解説
後冷泉天皇の御代の末には、頼通が関白を弟の教通に譲り、摂関家の権勢にも陰りが見えはじめる。皇子のない天皇の後を継いだのは、摂関家と外戚関係のない異母弟の後三条天皇で、ここから院政へと向かう新しい時代が始まる。
平等院行幸の際の童舞の話は、村上源氏の三代(師房・顕房・雅実)が晴れの場に並んだ場面として描かれる。今鏡は第七「村上の源氏」でこの一族を詳しく語るが、ここでもその繁栄の兆しを書き留めている。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、36〜40頁(コマ33–35)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日