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今鏡 第一「すべらぎの上」 第7章

菊の宴

後朱雀天皇の第一皇子、後冷泉天皇の御代の始まり。斎宮・斎院が定められ、章子内親王が中宮に立つ。殿上の歌合では能因法師の歌が評判となり、頼通の娘寛子が入内して皇后となる。根合や菊の宴など、風雅な催しが続いた。

  1. 1此こ此ここののの次つぎ次つぎつぎのみかどのみかどのみかどははは、、、ノノノ院ゐん院ゐんいんととと申まう申まうもうしきしきしき。。。後朱雀院ごすざくゐん後朱雀院ごすざくゐんごすざくいんののの第一だいいち第一だいいちだいいちののの皇子みこ皇子みこみこ、、、御母おほんはは御母おほんははおおんはは內侍ないし內侍ないしないしのかみのかみのかみ、、、贈ぞう贈ぞうぞう皇太后宮くわうたいこうぐう皇太后宮くわうたいこうぐうこうたいこうぐう嬉子きし嬉子きしきしときこえきときこえきときこえき。。。入道にふだう入道にふだうにゅうどうおほきおとゞのおほきおとゞのおおきおとどの第六だいろく第六だいろくだいろくののの御おん御おんおんむすめむすめむすめ也なり也なりなり。。。
  2. 2上東門院じやうとうもんゐん上東門院じやうとうもんゐんじょうとうもんいんのおなじのおなじのおなじ御おん御おんおんはははらからにおはしますらからにおはしますらからにおわします。。。此こ此ここのみかどのみかどのみかど萬壽まんじゆ萬壽まんじゆまんじゅ二年にねん二年にねんにねんきのとのきのとのきのとの丑うし丑うしうしののの年とし年としとしののの八月はちぐわつ八月はちぐわつはちがつ三日みか三日みかみこ生う生ううまれさせまれさせまれさせ給たま給たまたまへりへりえり。。。長曆ちやうりやく長曆ちやうりやくちょうりゃく元年ぐわんねん元年ぐわんねんがんねん七月しちぐわつ七月しちぐわつしちがつ二日ふつか二日ふつかふつか御元服ごげんぷく御元服ごげんぷくごげんぷく、、、やがてやがてやがてののの位くらゐ位くらゐくらいたまはらせたまはらせたまわらせ給たま給たまたまふふう。。。
  3. 3八月はちぐわつ八月はちぐわつはちがつ十七日じふしちにち十七日じふしちにちじゅうしちにちににに東宮とうぐう東宮とうぐうとうぐうににに立た立たたたせたせたせ給たま給たまたまひてひていて、、、寬德くわんとく寬德くわんとくかんとく二年にねん二年にねんにねん正月しやうぐわつ正月しやうぐわつしょうがつ十六日じふろくにち十六日じふろくにちじゅうろくにち位くらゐ位くらゐくらいににに卽つ卽つつかせたまふかせたまふかせたまう。。。御おん御おんおんとしとしとし二十にじふ二十にじふにじゅう一いち一いちいちにぞおはしましゝにぞおはしましゝにぞおわしましし。。。永承元年えいしようぐわんねん永承元年えいしようぐわんねんえいしょうがんねんやよひのころやよひのころやよいのころ、、、、、、おの〳〵おの〳〵おのおの定さだ定さださだめさせめさせめさせ給たま給たまたまふふう。。。
  4. 4七月しちぐわつ七月しちぐわつしちがつ十日とをか十日とをかとおかたゝせたまひきたゝせたまひきたたせたまいき。。。東宮とうぐう東宮とうぐうとうぐうののの御時おほんとき御時おほんときおおんときよりよりより御息所みやすんどころ御息所みやすんどころみやすんどころにておはしましゝにておはしましゝにておわしましし、、、後一條院ごいちでうゐん後一條院ごいちでうゐんごいちじょういんののの姫君ひめぎみ姫君ひめぎみひめぎみなりなりなり。。。神無月かみなづき神無月かみなづきかみなずきももも過す過すすぎてぎてぎて、、、みかどみかどみかど今年ことし今年ことしことしぞぞぞのみそぎせさせのみそぎせさせのみそぎせさせ給たま給たまたまふふう。。。
  5. 5正月しやうぐわつ正月しやうぐわつしょうがつ十六日じふろくにち十六日じふろくにちじゅうろくにち御おん御おんおんいみのいみのいみの月つき月つきつきとてとてとて、、、ののの節會せちゑ節會せちゑせちえもなしもなしもなし。。。十月じふぐわつ十月じふぐわつじゅうがつににに關白殿くわんぱくどの關白殿くわんぱくどのかんぱくどのののの御おん御おんおんおとうとのおとうとのおとうとの右みぎ右みぎみぎののの大臣おとど大臣おとどおとどたてまつりたまふたてまつりたまふたてまつりたまう。。。大だい大だいだい二條にでう二條にでうにじょう殿どの殿どのどのととと申まう申まうもうしゝしゝしし御事おほんこと御事おほんことおおんことなりなりなり。。。
  6. 6同おな同おなおなじきじきじき四年よねん四年よねんよねん十一月じふいちぐわつ十一月じふいちぐわつじゅういちがつににに、、、ののの歌合うたあはせ歌合うたあはせうたあわせせさせせさせせさせ給たま給たまたまひきひきいき。。。村上むらかみ村上むらかみむらかみののの御時おほんとき御時おほんときおおんとき、、、花山院くわざんのゐん花山院くわざんのゐんかざんのいんなどのなどのなどの後のち後のちのち、、、めづらしくめづらしくめずらしく侍はべ侍はべはべるにるにるに、、、いとやさしくおはしましゝにこそいとやさしくおはしましゝにこそいとやさしくおわしまししにこそ。。。
  7. 7ののの「「「はははねのねのねの松まつ松まつまつももも君きみ君きみきみがためがためがため」」」ととと一番いちばん一番いちばんいちばんののの歌うた歌うたうたによみてによみてによみて侍はべ侍はべはべるるる、、、このみちのこのみちのこのみちの好よ好よよきものきものきもの時とき時ときときにあひてにあひてにあいて侍はべ侍はべはべりきりきりき。。。「「「川がは川がはがわのにしきなりけりのにしきなりけりのにしきなりけり」」」。。。
  8. 8といふといふという歌うた歌うたうたももも、、、此こ此ここのたびよみてのたびよみてのたびよみて侍はべ侍はべはべるぞかしるぞかしるぞかし。。。五年ごねん五年ごねんごねんしはすしはすしわす關白殿くわんぱくどの關白殿くわんぱくどのかんぱくどののみむすめのみむすめのみむすめ女御にようご女御にようごにょうごににに參まゐ參まゐまいりりり給たま給たまたまふふう。。。ののの宮みや宮みやみやととと申まう申まうもうしゝしゝしし御事おほんこと御事おほんことおおんことなりなりなり。。。六年ろくねん六年ろくねんろくねん二月にぐわつ二月にぐわつにがつ十日とをか十日とをかとおか、、、后きさき后きさききさきにたちにたちにたち給たま給たまたまふふう。。。
  9. 9皇后宮くわうごうぐう皇后宮くわうごうぐうこうごうぐうととと申まう申まうもうしきしきしき。。。もとのもとのもとの后きさき后きさききさきははは、、、皇太后宮くわうたいこうぐう皇太后宮くわうたいこうぐうこうたいこうぐうにあがりにあがりにあがり給たま給たまたまひきひきいき。。。さつきさつきさつき五日いつか五日いつかいつか殿上てんじやう殿上てんじやうてんじょうのあやめののあやめののあやめの合あは合あはあわせさせせさせせさせ給たま給たまたまひきひきいき。。。そのそのその歌うた歌うたうたどもどもども、、、歌合うたあはせ歌合うたあはせうたあわせののの中なか中なかなかににに侍はべ侍はべはべるらむるらむるらむ。。。
  10. 10后きさき后きさききさきののの宮みや宮みやみやさとにおはしましけるさとにおはしましけるさとにおわしましける時とき時ときとき、、、法師ほふし法師ほふしほうし「「「もみぢもみぢもみじ葉は葉ははのこがれてのこがれてのこがれて見み見みみゆるゆるゆる御舟みふね御舟みふねみふねかなかなかな」」」といふといふという連歌れんが連歌れんがれんが、、、殿上人てんじやうびと殿上人てんじやうびとてんじょうびとののの付つ付つつけざりけるけざりけるけざりけるをもをもをも、、、みかどのみかどのみかどの御おん御おんおん耻はぢ耻はぢはじにおぼしめしたりけるもにおぼしめしたりけるもにおぼしめしたりけるも、、、いとなさけいとなさけいとなさけ多おほ多おほおおくくく、、、おはしましけるにこそおはしましけるにこそおわしましけるにこそ。。。
  11. 11九月九日くぐわつここのか九月九日くぐわつここのかくがつここのか菊きく菊きくきくののの宴えん宴えんえんせさせせさせせさせ給たま給たまたまひてひていて、、、「「「菊きく菊きくきくひらきてひらきてひらきて水みづ水みづみずののの岸きし岸きしきしかうばしかうばしこうばし」」」といふといふという題だい題だいだいををを作つく作つくつくらせらせらせ給たま給たまたまひけるとぞひけるとぞいけるとぞ聞き聞ききこえこえこえ侍はべ侍はべはべりしりしりし。。。七年しちねん七年しちねんしちねん神無月かんなづき神無月かんなづきかんなずきのころのころのころ、、、にてにてにて御おん御おんおんあそびありあそびありあそびあり。。。
  12. 12文ふみ文ふみふみつくらせつくらせつくらせ給たま給たまたまひけるとぞきこえひけるとぞきこえいけるとぞきこえ侍はべ侍はべはべりしりしりし。。。かやうのかやうのかようの御おん御おんおんあそびつねのあそびつねのあそびつねの事こと事ことことなるべしなるべしなるべし。。。

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

この次の帝は、後冷泉院と申し上げました。後朱雀院の第一皇子で、御母は尚侍で、贈皇太后宮嬉子と申し上げました。入道太政大臣(道長)の第六の御娘です。上東門院の同じ御姉妹でいらっしゃいます。この帝は万寿二年乙丑の年の八月三日にお生まれになりました。長暦元年七月二日に御元服、すぐに三品の位をお受けになります。八月十七日に東宮にお立ちになって、寛徳二年正月十六日に位におつきになります。御年二十一でいらっしゃいました。永承元年三月ごろ、斎宮・斎院をそれぞれお定めになります。七月十日に中宮がお立ちになりました。東宮の御時から御息所でいらした、後一条院の姫君(章子内親王)です。十月も過ぎて、帝はこの年、大嘗会の御禊をなさいます。正月十六日は御忌月(後朱雀院の崩御の月)ということで、踏歌の節会もありません。十月に関白殿(頼通)の御弟の右大臣(教通)が女御を入内させなさいます。大二条殿と申し上げた方のことです。

同じ四年十一月に、殿上の歌合をなさいました。村上天皇の御時や花山院などの後には珍しいことで、たいそう風雅でいらっしゃったのです。能因法師が「いはねの松も君がため」と一番の歌に詠みましたのは、この道の数寄者が時を得たのでした。「たつたの川のにしきなりけり」という歌も、このときに詠んだのですよ。五年十二月に関白殿の御娘(寛子)が女御として入内なさいます。四条宮と申し上げた方のことです。六年二月十日、后にお立ちになりました。皇后宮と申し上げました。もとの后は、皇太后宮にお上りになりました。五月五日には殿上の菖蒲の根合をなさいました。その歌どもは、歌合の中にあるでしょう。后の宮が里においでになったとき、良暹法師が「もみぢ葉のこがれて見ゆる御舟かな」という連歌の句を詠みかけたのを、殿上人が付けられなかったのを、帝がご自分の恥とお思いになったというのも、まことに情け深くいらしたのです。九月九日に菊の宴をなさって、「菊ひらきて水の岸かうばし(菊が開いて水辺の岸がかぐわしい)」という題で詩をお作らせになったと聞いております。七年十月ごろ、釣殿で管弦のお遊びがありました。詩をお作らせになったとも聞いております。このようなお遊びは、いつものことであったのでしょう。

意訳

後冷泉天皇は、道長の六女嬉子の子で、生まれてすぐ母を失った。二十一歳で即位すると、後一条天皇の皇女章子内親王を中宮に立て、さらに教通の娘歓子、頼通の娘寛子が入内し、摂関家の兄弟が娘を競って后とする時代となる。

永承四年(1049)の内裏歌合は、天徳四年(960)の村上天皇の歌合、花山院の歌合以来の盛儀として知られる。能因の「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり」は、この歌合で詠まれ、のちに百人一首にも採られた。

良暹の連歌「もみぢ葉のこがれて見ゆる御舟かな」に、殿上人の誰も付句ができなかったのを、天皇が自分の恥と感じたという逸話は、文雅を重んじた後冷泉天皇の人柄を伝えている。章題の「菊の宴」は、九月九日の重陽の宴による。

語釈・文法注

後冷泉ノ院
第七十代後冷泉天皇(1025〜1068)。名は親仁。後朱雀天皇と嬉子の子。
三品
親王の位の第三等。
いつき
斎宮(伊勢神宮に仕える未婚の皇女)と斎院(賀茂神社に仕える未婚の皇女)。天皇の代替わりごとに定められた。
中宮
章子内親王。後一条天皇の皇女で、後冷泉天皇の中宮。のちの二条院。
豐のみそぎ
大嘗会の前に、天皇が賀茂川で行う御禊。
踏歌の節會
正月十六日に行われる、女踏歌を見る宴。
女御
藤原歓子(1021〜1102)。教通の娘で、後冷泉天皇の皇后。小野皇太后と呼ばれた。
殿上の歌合
永承四年(1049)十一月九日の内裏歌合。
能因法師
能因(988〜?)。俗名橘永愷。諸国を旅した歌人。
いはねの松も君がため
能因がこの歌合の一番(松の題)に詠んだ、岩根に根を張る松に寄せて天皇の御代を祝う歌の句。
たつたの川のにしきなりけり
能因の「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり」(百人一首六十九番)の下の句。
四條の宮
藤原寛子(1036〜1127)。頼通の娘で、後冷泉天皇の皇后。
あやめの根合
左右に分かれて菖蒲の根の長さを競い、歌を詠み合わせる遊び。永承六年(1051)五月五日の内裏根合。
良暹法師
良暹。比叡山の僧で歌人。「さびしさに宿を立ち出でてながむれば」(百人一首七十番)で知られる。
釣殿
寝殿造りで、池に臨んで建てられた建物。

文法

やさしくおはしましゝにこそ
「やさし」は、優美で風雅である。「にこそ」の後に「あれ」などが省略されている。
好きもの
「すき」は風流の道に打ち込むこと。数寄者。
御耻におぼしめしたりける
自分の(宮廷の)恥とお思いになった。

解説

後冷泉天皇の御代(1045〜1068)は、頼通が関白として政治をとった時代で、内裏歌合や根合、菊の宴など、和歌と詩文の催しが盛んに行われた。今鏡は、そうした風雅の記録を好んで書き留めている。

良暹の連歌の話は、『袋草紙』などにも見え、上の句「もみぢ葉のこがれて見ゆる御舟かな」に、殿上人たちが付けようと苦心するうちに舟が池を一巡りしてしまった、と伝えられる。

関連

出典

底本
関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、34〜36頁(コマ32–33)。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日