今鏡 第一「すべらぎの上」 第6章
望月
後一条・後朱雀両天皇の母、上東門院彰子の生涯。紫式部が皇子誕生を祝った歌、一条院をしのぶ歌、出家と剃髪、源顕基との歌の贈答、東北院の念仏、そして「上東門院」の院号が門の名に由来することなどが語られる。女院は八十七歳まで生きた。
- 1世繼世繼よつぎももも帝帝みかどののの御御おんついでについでについでに、、、國母國母こくもののの御事御事おおんこと申申もうししし侍侍はべればればれば、、、このこのこの帝帝みかどののの御母御母おおんははきさきのきさきのきさきの御事御事おおんこと、、、このついでにこのついでにこのついでに申申もうししし侍侍はべるべしるべしるべし。。。御年御年おおんとし廿三廿三にじゅうさんにおはしましゝにおはしましゝにおわしましし時時とき、、、後一條院後一條院ごいちじょういん、、、後朱雀院後朱雀院ごすざくいんうちつゞきうちつゞきうちつづき生生うみみみ奉奉たてまつらせらせらせ給給たまへりへりえり。。。
- 2にてにてにて、、、後一條院後一條院ごいちじょういんうみうみうみ奉奉たてまつらせらせらせ給給たまへりしへりしえりしののの御遊御遊おおんあそびびにびにびに、、、御簾御簾みすのののうちよりうちよりうちより、、、出出いだされだされだされ侍侍はべりけるさかづきにりけるさかづきにりけるさかずきに、、、添添そへられへられえられ侍侍はべりしりしりし歌歌うたははわ、、、、、、
- 3めづらしきめづらしきめずらしき光光ひかりさしそふさかつきさしそふさかつきさしそうさかつきはもはもはもちながらこそちながらこそちながらこそ千世千世ちよははは廻廻めぐらめらめらめ
- 4とぞおぼえとぞおぼえとぞおぼえ侍侍はべるるる。。。そのそのその女院女院にょういんははは十三十三じゅうさんよりよりより后后きさきにおはしましきにおはしましきにおわしましき。。。一條院一條院いちじょういんかくれさせかくれさせかくれさせ給給たまひてひていて後一條後一條ごいちじょうのみかどのみかどのみかど、、、をさなくおはしましけるにをさなくおはしましけるにおさなくおわしましけるに、、、なでしこのなでしこのなでしこの花花はなをををとらせとらせとらせ給給たまひければひければいければ、、、御母御母おおんははぎさきぎさきぎさき、、、
- 5見見みるまゝにるまゝにるままに露露つゆぞこぼるゝおくれにしぞこぼるゝおくれにしぞこぼるるおくれにし心心こころををを知知しらぬなでしこのらぬなでしこのらぬなでしこの花花はな
- 6のころのころのころ、、、昔昔むかしををを思思おもひいでてひいでていいでて、、、殿上人殿上人てんじょうびと參參まいりてりてりて侍侍はべりけるにりけるにりけるに、、、ノノノ大輔大輔たいふ
- 7はやくみしはやくみしはやくみし井井いののの水水みずのののうすうすうす氷氷ごおりうちとけざまうちとけざまうちとけざまはははかはらざりけりかはらざりけりかわらざりけり
- 8とぞよみとぞよみとぞよみ出出いだしだしだし侍侍はべりけるりけるりける。。。寬弘寬弘かんこう九年九年くねん二月二月きさらぎににに皇太后宮皇太后宮こうたいこうぐうにあがらせにあがらせにあがらせ給給たまふふう。。。御年御年おおんとし廿五廿五にじゅうごととと聞聞きこえさせこえさせこえさせ給給たまひきひきいき。。。後一條後一條ごいちじょうのみかどのみかどのみかど位位くらいににに卽卽つかせかせかせ給給たまひてひていて、、、寬仁寬仁かんにん二年二年にねん正月正月しょうがつににに太皇太后宮太皇太后宮たいこうたいこうぐうにならせたまひきにならせたまひきにならせたまいき。。。
- 9萬壽萬壽まんじゅ三年三年さんねん正月正月しょうがつ十九日十九日じゅうくにちににに、、、御御おんさまかへさせさまかへさせさまかえさせ給給たまふふう。。。御御おんとしとしとし卅卅さんじゅう九九く、、、御名御名みなはははととと申申もうしけりしけりしけり。。。きさきのきさきのきさきの御名御名みなとゞめさせとゞめさせとどめさせ給給たまひてひていて女院女院にょういんときこえさせときこえさせときこえさせ給給たまふふう。。。
- 10年毎年毎としごとのつかさのつかさのつかさ位位くらいたまはらせたまはらせたまわらせ給給たまふふう事事ことははは、、、同同おなじやうにかはりじやうにかはりじょうにかわり侍侍はべらざりけりらざりけりらざりけり。。。長曆長曆ちょうりゃく三年三年さんねん五月五月さつき七日七日なぬか御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまふふう。。。ののの入道入道にゅうどう中納言中納言ちゅうなごん、、、
- 11世世よをををすてゝすてゝすてて宿宿やどををを出出いでにしでにしでにし身身みなれどもなれどもなれども猶猶なお戀戀こいしきしきしきははは昔昔むかしなりけりなりけりなりけり
- 12とよみてとよみてとよみて、、、このこのこの女院女院にょういんへたてまつりへたてまつりへたてまつり給給たまへるへるえる御返事御返事おおんかえりごとににに、、、
- 13つかのまもつかのまもつかのまも戀戀こいしきしきしき事事ことののの慰慰なぐさまばまばまば二二ふたたびたびたび世世よをもをもをもそむかざらましそむかざらましそむかざらまし
- 14とよませとよませとよませ給給たまへるへるえる、、、はじめはじめはじめははは御御おん給給たまひてひていて、、、後後のちににに皆皆みなおろさせおろさせおろさせ給給たまふふう心心こころなるべしなるべしなるべし。。。かのかのかの中納言中納言ちゅうなごんははは後一條院後一條院ごいちじょういんののの御御おんおぼえのおぼえのおぼえの人人ひとにおはしけるににおはしけるににおわしけるに、、、御忌御忌おおんいみにおはしてにおはしてにおわして、、、宮宮みやのののうちにうちにうちに御御おんとなぶらもたてまつらずとなぶらもたてまつらずとなぶらもたてまつらず侍侍はべりければりければりければ、、、いかにといかにといかにと尋尋たずねねね給給たまひけるにひけるにいけるに、、、女官女官にょかんどもどもども今今いまののの內內うちににに參參まいりてりてりて、、、かきともしするかきともしするかきともしする人人ひともなしもなしもなし。。。
- 15などきゝなどきゝなどきき給給たまふにふにうに、、、いとゞいとゞいとど悲悲かなしくてしくてしくて、、、帝帝みかどのかくれさせのかくれさせのかくれさせ給給たまひてひていて、、、六日六日むゆかといふにといふにというに、、、かしらおろしてかしらおろしてかしらおろして、、、山山やまふかくこもりたまへりけりふかくこもりたまへりけりふかくこもりたまえりけり。。。年年とし卅卅さんじゅう七七しちになんおはしけるになんおはしけるになんおわしける。。。
- 16聞聞きくくく人人ひと涙涙なみだををを流流ながさずといふさずといふさずという事事ことなくなむなくなむなくなむ侍侍はべりけるりけるりける。。。ののの僧正僧正そうじょうののの、、、深草深草ふかくさのみかどののみかどののみかどの御御おんいみにいみにいみに、、、御御おんぐしおろしぐしおろしぐしおろし給給たまひけんにもひけんにもいけんにも、、、おくれぬおくれぬおくれぬ御心御心みこころなるべしなるべしなるべし。。。
- 17猶猶なおつきせずおもほしけるにこそとかなしくつきせずおもほしけるにこそとかなしくつきせずおもおしけるにこそとかなしく、、、御返御返おおんかえししもいとあはれにしもいとあはれにしもいとあわれに、、、御母御母おおんはは后后きさきさこそさこそさこそはははおもほしけめとおぼえておもほしけめとおぼえておもおしけめとおぼえて」」」。。。
- 18かのかのかのはははこのこのこの院院いんののの御願御願ごがんにてにてにて、、、ちゝおとゞのちゝおとゞのちちおとどの御堂御堂みどう、、、法成寺法成寺ほうじょうじのかたはらにのかたはらにのかたわらに作作つくらせらせらせ給給たまへりへりえり。。。山山やまのかたちのかたちのかたち池池いけのすがたもなべてならずのすがたもなべてならずのすがたもなべてならず。。。松松まつのかげのかげのかげ花花はなのこずゑものこずゑものこずえも外外ほかにににはすぐれてなむはすぐれてなむはすぐれてなむ見見みえええ侍侍はべりけるりけるりける。。。
- 19九月十三夜九月十三夜ながつきじゅうさんやよりよりより望月望月もちずきののの影影かげまでまでまで、、、佛佛ほとけのみかほものみかほものみかおも光光ひかりそへられたまへりりそへられたまへりりそえられたまえり。。。御御おん念佛念佛ねんぶつはははじまりけるじまりけるじまりける程程ほどににに、、、上達部上達部かんだちめ殿上人殿上人てんじょうびと參參まいりりり集集あつまりまりまり給給たまへるにへるにえるに、、、宇治宇治うじのおほきおとゞののおほきおとゞののおおきおとどの、、、朗詠朗詠ろうえい侍侍はべりなんとりなんとりなんと勸勸すすめさせめさせめさせ給給たまひければひければいければ、、、ののの民部卿民部卿みんぶきょう、、、年年としたけたるたけたるたけたる上達部上達部かんだちめにてにてにて「「「極樂極樂ごくらくののの尊尊ぞんををを念念ねんじたてまつるじたてまつるじたてまつる事事こと一夜一夜ひとよ」」」とととうちうちうち出出いだしだしだし給給たまひけんひけんいけん、、、折節折節おりふしいかにめでたくいかにめでたくいかにめでたく侍侍はべりけんりけんりけん。。。
- 20といふといふという博士博士はかせのつくりたるがのつくりたるがのつくりたるが、、、生生いけるよにけるよにけるよに、、、いかにいみじくいかにいみじくいかにいみじく侍侍はべりけんりけんりけん。。。此此こののの世世よならばならばならば、、、今今いまののの人人ひとののの作作つくりたることよもりたることよもりたることよも出出いだしだしだし給給たまはざらましはざらましわざらまし。。。
- 21殿上人殿上人てんじょうびとをををににに色色いろののの指貫指貫さしぬき、、、このこのこの御御おん念佛念佛ねんぶつよりこそよりこそよりこそ着着き始始はじめめめ給給たまひしかひしかいしか。。。此此こののの堂堂どう土御門土御門つちみかどののの末末すえにあたればにあたればにあたれば、、、上東門院上東門院じょうとうもんいんととと申申もうすなりすなりすなり。。。このこのこの後後のち代々代々よよののの女院女院にょういんののの院號院號いんごう、、、かどのかどのかどの名名なきこえきこえきこえはべるめりはべるめりはべるめり。。。
- 22陽明門陽明門ようめいもんももも、、、近衞近衞こんえにあたりたればにあたりたればにあたりたれば、、、此此こののの例例れいによりてによりてによりて附附つかせかせかせ給給たまへりへりえり。。。などなどなどははは、、、大炊御門大炊御門おおいのみかど、、、中中なかのみかどにのみかどにのみかどに御所御所ごしょおはしまさねどおはしまさねどおわしまさねど、、、なぞらへてなぞらへてなぞらえて附附つかせたまへるとぞかせたまへるとぞかせたまえるとぞ聞聞きこえこえこえ侍侍はべるるる。。。
- 23待賢門院待賢門院たいけんもんいんののの院號院號いんごうのさだめのさだめのさだめ侍侍はべりけるにりけるにりけるに、、、「「「なぞらへてなぞらへてなぞらえて付付つけかせたまふならばかせたまふならばかせたまうならば、、、などさしこえてなどさしこえてなどさしこえて、、、郁芳門院郁芳門院いくほうもんいんとととははは付付つけたてまつりけるにかけたてまつりけるにかけたてまつりけるにか」」」。。。
- 24などなどなど聞聞きこえければこえければこえければ、、、ののの中納言中納言ちゅうなごんといひしといひしといいし人人ひとののの、、、「「「此此こののの御料御料りょうににに遺遺のこしておかれけるにこそしておかれけるにこそしておかれけるにこそ侍侍はべるめれるめれるめれ」」」。。。ととと申申もうされけるとかやされけるとかやされけるとかや。。。さてぞさてぞさてぞ付付つけかせかせかせ給給たまひにけるとなんひにけるとなんいにけるとなん。。。
- 25みかどのみかどのみかどの御前御前おまえなどにてなどにてなどにてははは、、、土御門土御門つちみかど近衞近衞こんえなどなどなどははは申申もうさでさでさで、、、上東門上東門じょうとうもんののの大路大路おおじよりよりよりはははいづかたいづかたいずかた、、、陽明門陽明門ようめいもんのおほぢよりのおほぢよりのおおじよりはははかなたなどぞかなたなどぞかなたなどぞ奏奏そうすなるすなるすなる。。。さればさればされば一條一條いちじょう二條二條にじょうなどなどなど申申もうすにもおなじすにもおなじすにもおなじ心心こころなるべしなるべしなるべし。。。このこのこの上東門院上東門院じょうとうもんいんののの御年御年おおんとしははは、、、八十七八十七はちじゅうしちまでおはしましきまでおはしましきまでおわしましき。。。
現代語訳
世継も天皇のお話のついでに国母のことを申しておりますので、この帝の御母后のことを、このついでに申し上げましょう。御年二十三でいらっしゃった時、後一条院・後朱雀院を続けてお産みになりました。土御門殿で後一条院をお産みになった七夜のお祝いの宴で、御簾の内から差し出された盃に添えられた歌は、昔のお局(紫式部)がお詠みになった、
めづらしき光さしそふさかつきはもちながらこそ千世は廻らめ
であったと覚えております。その女院は十三歳から后でいらっしゃいました。一条院がお亡くなりになって、後一条天皇がまだ幼くていらしたころ、なでしこの花をお取りになったので、御母后は、
見るまゝに露ぞこぼるゝおくれにし心を知らぬなでしこの花
五節のころ、昔を思い出して、殿上人が参上していた折に、伊勢大輔が、
はやくみし山井の水のうす氷うちとけざまはかはらざりけり
と詠み出しました。寛弘九年二月に皇太后宮にお上りになります。御年二十五と申しました。後一条天皇が位におつきになって、寛仁二年正月に太皇太后宮におなりになりました。
万寿三年正月十九日に出家なさいます。御年三十九、法名は清浄覚と申しました。后の御名をおやめになって女院と申し上げます。毎年の官位の推挙の権利をお受けになることは、后であった時と変わりませんでした。長暦三年五月七日に御髪をすべてお下ろしになります。顕基の入道中納言が、
世をすてゝ宿を出でにし身なれども猶戀しきは昔なりけり
と詠んで、この女院に差し上げたお返事に、
つかのまも戀しき事の慰まば二たび世をもそむかざらまし
とお詠みになったのは、初めは髪を短く切りそろえるだけで出家なさって、後にすべてお下ろしになった、そのお気持ちでありましょう。その中納言は後一条院のご寵愛を受けた人でいらしたが、御忌の間に参上して、宮の中に灯火もともしていなかったので、どうしたのかとお尋ねになると、女官たちは新帝の内裏に参ってしまって、灯をかき立てる人もいない、などとお聞きになって、いっそう悲しくなって、帝がお亡くなりになって六日目に、髪を下ろして山深くこもってしまわれました。年は三十七でいらっしゃいました。聞く人で涙を流さない者はありませんでした。花山僧正(遍昭)が深草の帝(仁明天皇)の御忌に出家なさったのにも劣らないお心でありましょう。やはり尽きることなくお慕いしていたのだと悲しく、女院のお返しもたいそうしみじみとして、御母后としてさぞそうお思いになったのだろうと思われて。
あの東北院はこの女院の御願で、父大臣(道長)の御堂である法成寺のかたわらにお造らせになりました。山の形も池の姿も並々ではありません。松の陰や花の梢も、よそよりすぐれて見えました。九月十三夜から十五夜の満月の光まで、仏のお顔も光り輝いていらっしゃいました。御念仏が始まったころ、公卿や殿上人が参り集まりなさったところ、宇治の太政大臣(頼通)が、朗詠をしなさいとお勧めになったので、斉信の民部卿が、年配の公卿として「極楽の尊を念じたてまつる事一夜」と吟じ出されたのは、折にかなってどれほどすばらしかったことでしょう。斉名という博士が作った句ですが、作者が生きていたなら、どれほどうれしく思ったことでしょう。今の世であれば、今の人の作った句などは、まさか吟じ出されはしなかったでしょう。殿上人が紫苑色の指貫を着るのは、この御念仏から始まったのです。この堂は土御門大路の末にあたるので、上東門院と申すのです。この後、代々の女院の院号に、門の名が用いられるようになったようです。陽明門院も、近衛大路にあたっているので、この例によってお付けになりました。郁芳門・待賢門などは、大炊御門大路や中御門大路に御所がおありになったわけではないけれども、それになぞらえてお付けになったと聞いております。待賢門院の院号を定めました折に、「なぞらえて付けるのなら、どうして(待賢門を)飛び越えて、郁芳門院とお付けしたのか」などと言われたので、顕隆の中納言といった人が、「この方のために残しておかれたのでございましょう」と申されたとか。それでお付けになったということです。帝の御前などでは、土御門・近衛などとは申さずに、上東門の大路からはどちら、陽明門の大路からはあちらなどと奏上するようです。ですから一条・二条などと申すのも同じ意味なのでしょう。この上東門院の御年は、八十七まで長生きなさいました。
意訳
後一条天皇の代のついでに、その母后上東門院(彰子)の生涯がまとめて語られる。冒頭の歌は紫式部が敦成親王(後一条)誕生の祝宴で詠んだもので、『紫式部日記』にも見える。「もち」に「望月」と「持ち」をかけ、盃を持ったまま千年もめぐり続けるだろうと皇子の長寿を祝う。章題の「望月」はこの歌と、東北院の十五夜の念仏による。
一条院の死後、幼い後一条がなでしこを手に取るのを見て、彰子は父の死を知らない子をなでしこにたとえて涙する。続いて伊勢大輔が、五節の夜に昔を思い出して詠んだ歌、出家した彰子と源顕基の贈答が並べられ、女院の周辺に集う人々の哀感が描かれる。
源顕基は後一条天皇に寵愛された近臣で、天皇の死後、宮中の灯火さえ絶えているのを見て無常を感じ、三十七歳で出家した。語り手はこれを、仁明天皇の死を悲しんで出家した遍昭になぞらえる。
後半は、彰子が法成寺の傍らに建てた東北院の念仏会と、院号の由来の話。彰子以後、女院の院号には宮城の門の名がつけられるようになった。待賢門院の院号をめぐる藤原顕隆の機知に富んだ答えは、宮廷の会話のおもしろさを伝える逸話である。
語釈・文法注
- 土御門殿
- 道長の邸宅。上東門院とも呼ばれた。彰子はここで敦成親王(後一条)を出産した。
- 七夜
- 誕生後七日目の夜の祝い。産養(うぶやしない)の一つ。
- みつぼね
- お局。宮仕えの女房の尊称。ここでは紫式部をさす。
- 伊勢ノ大輔
- 伊勢大輔。大中臣輔親の娘で、彰子に仕えた女房歌人。「いにしへの奈良の都の八重桜」の歌で知られる。
- 五節
- 十一月の新嘗祭・大嘗祭のときに行われる、舞姫の舞を中心とする行事。
- 山井の水
- 山の泉の水。五節の舞姫などの着る小忌衣(おみごろも)の山藍に掛けていう。
- 淸淨覺
- 彰子の法名。
- 顯基の入道中納言
- 源顕基(1000〜1047)。俊賢の子。後一条天皇の崩御を機に出家した。
- 御ぐしそがせ
- 髪を肩のあたりで切りそろえる。尼削ぎ。在家のまま略式に出家すること。
- 花山の僧正
- 遍昭(816〜890)。仁明天皇の崩御を悲しんで出家した。六歌仙の一人。
- 東北院
- 彰子が法成寺の東北に建てた御堂。長元三年(1030)供養。
- 齊信の民部卿
- 藤原斉信(967〜1035)。一条朝の四納言の一人。
- 齊名
- 紀斉名(957〜999)。文章博士で詩人。「極楽の尊を念じたてまつる事一夜」は『和漢朗詠集』に採られた斉名の詩句。
- しをに色
- 紫苑色。薄紫色。
- 郁芳門待賢門
- 大内裏の東面の門。北から上東門・陽明門・待賢門・郁芳門の順に並ぶ。それぞれ土御門・近衛・中御門・大炊御門の大路に面した。
- 顯隆の中納言
- 藤原顕隆(1072〜1129)。白河院の近臣。
文法
- もちながらこそ千世は廻らめ
- 「もち」は「望月(満月)」と「持ち」の掛詞。「こそ…め」の係り結びで、きっと千年もめぐり続けるだろう。
- そむかざらまし
- 反実仮想の「まし」。慰められるならば二度も出家はしないだろうに(実際には慰められないので重ねて出家した)。
- おぼえて」。
- 底本はここに閉じ括弧を置くが、対応する開き括弧はない。底本どおりに翻刻した。
和歌
めづらしき光さしそふさかつきはもちながらこそ千世は廻らめ
- 詠者
- 紫式部
- 状況
- 敦成親王(後一条天皇)誕生の七夜の祝宴で、盃に添えて詠んだ歌。『紫式部日記』にも見える。
修辞
- 掛詞
- 「もち」に「望月」と「持ち」をかける。
- 見立て
- 皇子の誕生を、盃にさしそう「めづらしき光」にたとえる。
見るまゝに露ぞこぼるゝおくれにし心を知らぬなでしこの花
- 詠者
- 上東門院彰子
- 状況
- 一条院の崩御後、幼い後一条天皇がなでしこの花を手に取ったのを見て詠んだ歌。
修辞
- 掛詞
- 「なでしこ」に花の名と「撫でし子(かわいがった子)」をかける。
- 見立て
- 「露」に涙をかさねる。
はやくみし山井の水のうす氷うちとけざまはかはらざりけり
- 詠者
- 伊勢大輔
- 状況
- 五節のころ、昔を思い出して殿上人が参上したときに詠んだ歌。
修辞
- 掛詞
- 「うちとけ」に氷が解ける意と、打ち解ける意をかける。
- 縁語
- 「山井」「水」「氷」「とけ」。
世をすてゝ宿を出でにし身なれども猶戀しきは昔なりけり
- 詠者
- 源顕基
- 状況
- 後一条天皇の崩御後に出家した顕基が、上東門院に贈った歌。
つかのまも戀しき事の慰まば二たび世をもそむかざらまし
- 詠者
- 上東門院彰子
- 状況
- 顕基の歌への返し。尼削ぎで出家した後、改めて剃髪したときの心境を詠む。
修辞
- 反実仮想
- 「〜ば〜まし」。少しでも慰められるなら二度も世を背かないだろうに。
解説
上東門院彰子は、十二歳で一条天皇に入内し、二人の天皇の母、二人の天皇の祖母として、承保元年(1074)に八十七歳で亡くなるまで、およそ七十年にわたって宮廷に重きをなした。今鏡が天皇の代の途中で彼女の伝をまとめて語るのは、その存在の大きさを示している。
女院の院号は、上東門院のほかは、陽明門院・郁芳門院・待賢門院のように、宮城の門の名によるものが多い。今鏡は、そのはじまりが上東門院の御所の位置にあったことを説き、宮中では大路の名を門の名で呼ぶ習わしにまで話を広げている。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、29〜33頁(コマ29–31)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日