今鏡 第一「すべらぎの上」 第5章
星合
中宮嫄子は二人の皇女を産んだのち、二十四歳で亡くなる。後朱雀天皇の深い嘆きは、翌年の七夕に頼通へ贈った歌に表れている。天皇は詩文にもすぐれ、文章生の試験も行われたが、寛徳二年、病のため位を譲って出家し、まもなく崩御した。
- 1中宮中宮ちゅうぐうこぞよりこぞよりこぞより、、、いつしかいつしかいつしかならずならずならず成成ならせらせらせ給給たまひてひていて、、、霜月霜月しもつきののの十三日十三日じゅうさんにちににに、、、左左ひだりのおとゞののおとゞののおとどの殿殿どのににに出出いでさせでさせでさせ給給たまへりしがへりしがえりしが、、、次次つぎののの年年とし四月一日四月一日しがつついたち、、、みこみこみこ生生うみたてまつらせみたてまつらせみたてまつらせ給給たまひてひていて、、、またうちつゞきまたうちつゞきまとうちつづき、、、またのまたのまたの年年としももも同同おなじやうにまかりじやうにまかりじょうにまかり出出いでさせでさせでさせ給給たまひてひていて、、、丹後守丹後守たんごのかみ行任行任ゆきとうのぬしののぬしののぬしの家家いえにてにてにて、、、長曆長曆ちょうりゃく三年三年さんねん八月八月はちがつ十九日十九日じゅうくにちににに、、、なほなほなおうみたてまつりうみたてまつりうみたてまつり給給たまひてひていて、、、おなじきおなじきおなじき廿八日廿八日にじゅうはちにちにににうせうせうせ給給たまひにきひにきいにき。。。
- 2御御おんとしとしとし廿廿にじゅう四四し、、、あさましくあはれなるあさましくあはれなるあさましくあわれなる事事ことかぎりなしかぎりなしかぎりなし。。。いとゞいとゞいとど秋秋あきのあはれそひてのあはれそひてのあわれそいて、、、有明有明ありあけののの月月つきののの影影かげももも、、、心心こころをををいたましむるいたましむるいたましむる色色いろ、、、ゆふべのゆふべのゆうべの露露つゆのしげきものしげきものしげきも、、、涙涙なみだをもをもをもよほすつまなるべしよほすつまなるべしよおすつまなるべし。。。
- 3かくてかくてかくて九月九日九月九日くがつここのかにににうちよりうちよりうちより故故こ中宮中宮ちゅうぐうののの御御おんためにためにために、、、七寺七寺しちじににに御誦經御誦經みずきょうせさせせさせせさせ給給たまふふう。。。みかどみかどみかど御服御服おおんぶくたてまつりてたてまつりてたてまつりて、、、とてとてとて淸涼殿淸涼殿せいりょうでんののの御簾御簾みすおろしこめられおろしこめられおろしこめられ、、、日日ひのおもののおもののおもの參參まいるもるもるも、、、聲聲こえたてゝたてゝたてて奏奏そうしなどすることもせずしなどすることもせずしなどすることもせず。。。
- 4よろづしめりたるまゝによろづしめりたるまゝによろずしめりたるままにははは、、、ゆふべのゆふべのゆうべの螢螢ほたるをもをもをもあはれとながめさせあはれとながめさせあわれとながめさせ給給たまふふう。。。秋秋あきのともしのともしのともし火火ひかゞけつくさせたまひつゝぞかゞけつくさせたまひつゝぞかがけつくさせたまいつつぞ、、、心心こころぐるしきぐるしきぐるしき折折おりふしなりけるにふしなりけるにふしなりけるに、、、廿日廿日はつかぞぞぞとかいひてとかいひてとかいいて、、、よろづよろづよろず例例れいざまにてざまにてざまにて、、、御殿御殿おおとのののの御簾御簾みすなどもなどもなども卷卷まきあげられきあげられきあげられ、、、すこしすこしすこし晴晴はるゝるゝるる景色景色けしきなりけれどなりけれどなりけれど、、、なほなほなお御御おんけしきけしきけしきははは盡盡つきせずぞきせずぞきせずぞ見見みえさせえさせえさせ給給たまひけるひけるいける。。。
- 5神無月神無月かみなずきももも過過すぎぬればぎぬればぎぬれば、、、御忌御忌おおんいみすゑになりてすゑになりてすえになりて、、、かのかのかの失失うせせせ給給たまひにしひにしいにし宮宮みやにてにてにて、、、御佛事御佛事おおんぶつじありありあり。。。こずゑのこずゑのこずえの色色いろももも風風かぜのけしきものけしきものけしきも、、、思思おもひしりひしりいしりがほがほがおなるさまなりなるさまなりなるさまなり。。。
- 6くれなゐくれなゐくれない拂拂はらはぬはぬわぬ昔昔むかしのあとものあとものあとも、、、法法のりのにのにのにはははとてとてとて、、、殊殊ことににに淸淸きよめらるゝにつけてもめらるゝにつけてもめらるるにつけても、、、折折おりにににふれてふれてふれて、、、あはれつきせざりけりあはれつきせざりけりあわれつきせざりけり。。。
- 7霜月霜月しもつきののの七日七日なぬかぞぞぞ、、、內內うちにににははは始始はじめてめてめて、、、まつりごとせさせまつりごとせさせまつりごとせさせ給給たまふふう。。。南殿南殿なでんににに出出いでゐさせでゐさせでいさせ給給たまひてひていて、、、などあるべしなどあるべしなどあるべし。。。後一條後一條ごいちじょうノノノ院院いんののの中宮中宮ちゅうぐうににに侍侍はべりけるりけるりける、、、ののの御御おんといふがといふがというが、、、このこのこの宮宮みやににに侍侍はべりしりしりし伊賀伊賀いがノノノ少將少將しょうしょうがもとにがもとにがもとに、、、
- 8いかばかりいかばかりいかばかり君君きみなげくらむかずならぬなげくらむかずならぬなげくらむかずならぬ身身みだにしぐれしだにしぐれしだにしぐれし秋秋あきののの哀哀あわれををを
- 9とよめりけりとよめりけりとよめりけり。。。秋秋あきののの宮宮みやうちつゞきうちつゞきうちつづき、、、秋秋あきうせさせうせさせうせさせ給給たまへるにへるにえるに、、、いとらうありていとらうありていとろうありて、、、思思おもひよられけるもあはれにこそひよられけるもあはれにこそいよられけるもあわれにこそ聞聞きこえこえこえはべりしかはべりしかはべりしか。。。またのまたのまたの年年としののの七月七日七月七日しちがつなのか、、、關白殿關白殿かんぱくどのににに、、、內內うちよりよりより御消息御消息おおんしょうそこありてありてありて、、、
- 10こぞのこぞのこぞのけふけふきょう別別わかれしれしれし星星ほしもあひぬなりなどたぐひなきもあひぬなりなどたぐひなきもあいぬなりなどたぐいなき我我わががが身身みなるらむなるらむなるらむ
- 11とよませとよませとよませ給給たまひてひていて侍侍はべりけむこそりけむこそりけむこそ、、、いとかたじけなくいとかたじけなくいとかたじけなく、、、なさけなさけなさけ多多おおくおはしましけるくおはしましけるくおわしましける御事御事おおんことかなとかなとかなと、、、うけたまはりしかうけたまはりしかうけたまわりしか。。。楊貴妃楊貴妃ようきひのちぎりものちぎりものちぎりも思思おもひひい出出いでられてでられてでられて、、、星合星合ほしあいののの空空そら、、、いかにながめいかにながめいかにながめ明明あかさせかさせかさせ給給たまひけんといとあはれにひけんといとあはれにいけんといとあわれに、、、ねゆくまぼろしもがなねゆくまぼろしもがなねゆくまぼろしもがな。。。
- 12などやなどやなどや、、、おぼしけんとおぼしけんとおぼしけんと推推おしししはははかられてこそかられてこそかられてこそ、、、傳傳つたへきゝへきゝえきき侍侍はべりしかりしかりしか。。。詩詩しなどなどなどをもをもをも、、、をかしくをかしくおかしく作作つくらせらせらせ給給たまひけるとこそひけるとこそいけるとこそ聞聞きこえええ侍侍はべりしかりしかりしか。。。「「「秋秋あきのかげいづちかへらんとすのかげいづちかへらんとすのかげいずちかえらんとす」」」。。。などいふことになどいふことになどいうことに、、、
- 13路非山水誰堪趁路非山水誰堪趁みちはさんすいにあらずたれかおうにたえむ、、、跡任乾坤豈得尋跡任乾坤豈得尋あとはけんこんにまかすあにたずぬることをえむ、、、
- 14などなどなど作作つくらせらせらせ給給たまひけるとこそひけるとこそいけるとこそ、、、うけたまはりしかうけたまはりしかうけたまわりしか。。。といふといふというはははあめつちといふことにぞあめつちといふことにぞあめつちということにぞ侍侍はべりけるりけるりける。。。
- 15長久長久ちょうきゅう二年二年にねん三月三月さんがつ四日四日よか、、、花花はなののの宴宴えんせさせせさせせさせ給給たまひてひていて、、、歌歌うたののの舌舌したははは鶯鶯うぐいすにしかずにしかずにしかず。。。といふといふという題題だいたまひてたまひてたまいて、、、桂桂かつらををを折折おるるる試試こころみありとみありとみありと聞聞きこえええ侍侍はべりきりきりき。。。つぎのつぎのつぎの年年としのやよひののやよひののやよいの頃頃ころ、、、右大臣右大臣うだいじん、、、そのそのその時時とき東宮東宮とうぐうノノノ大夫大夫だいぶととと申申もうしゝにしゝにししに、、、女御女御にょうごたてまつりたてまつりたてまつり給給たまひきひきいき。。。
- 16帥帥そつののの內內うちのおとゞのむすめののおとゞのむすめののおとどのむすめの御御おんはははらなりらなりらなり。。。おとゞたちにもおとゞたちにもおとどたちにも劣劣おとりたまはずりたまはずりたまわず、、、いとめでたくいとめでたくいとめでたく侍侍はべりきりきりき。。。神無月神無月かんなずきののの比比ごろ、、、おほおほおお殿內殿內とのぬち大臣大臣おとどときこえときこえときこえ給給たまひしひしいし、、、二二にののの君君きみ內侍內侍ないしのかみになりてまゐりたまひてのかみになりてまゐりたまひてのかみになりてまいりたまいて、、、かた〴〵かた〴〵かたがた花花はなやかにおはしきやかにおはしきやかにおわしき。。。
- 17十一月十一月じゅういちがつにににははは二二にノノノ宮宮みやとてとてとて、、、式部式部しきぶ大輔大輔たいふときこえしときこえしときこえし博士博士はかせ、、、御注孝經御注孝經ごちゅうこうきょうといふといふという書書ふみ、、、をしへたてまつりきをしへたてまつりきおしえたてまつりき。。。藏人藏人くろうど實政實政さねまさ、、、とてとてとて、、、それもそれもそれも御御おん師師しなるべしなるべしなるべし。。。
- 18同同おなじきじきじき四年四年よねんののの三月三月さんがつにもにもにも、、、佐國孝言時綱國綱佐國孝言時綱國綱すけくにたかときときつなくにつななどいふなどいふなどいう者者ものどもどもども、、、試試こころみさせみさせみさせ給給たまひきひきいき。。。にてぞにてぞにてぞ、、、作作つくりてたてまつりりてたてまつりりてたてまつり給給たまひけるひけるいける。。。もともともと桂桂かつらををを折折おりたるりたるりたるははは、、、博士博士はかせをををのぞみのぞみのぞみ、、、まだまだまだ折折おらぬらぬらぬ者者ものははは、、、望望のぞみなむありけるみなむありけるみなむありける。。。
- 19句每句每くごとにもろこしのにもろこしのにもろこしの博士博士はかせののの名名ななどおきければなどおきければなどおきければ、、、つゞりかなふるつゞりかなふるつづりかなうる人人ひとかたくなむありけるかたくなむありけるかたくなむありける。。。寬德寬德かんとく元年元年がんねん八月八月はちがつににに、、、大隅守長國大隅守長國おおすみのかみながくに但馬介但馬介たじまのすけになりになりになり、、、民部民部みんぶノノノ丞丞じょう生行生行なりゆきおなじおなじおなじ國國くにののの掾掾じょうになしたまひてになしたまひてになしたまいて、、、、、、彼彼かののの國國くにににに着着つきたるきたるきたる、、、とぶらはせとぶらはせとぶらわせ給給たまひきひきいき。。。
- 20御御おんなやみとてなやみとてなやみとて、、、明明あくるくるくる年年とし正月正月しょうがつ十六日十六日じゅうろくにちににに、、、位位くらいさらせさらせさらせ給給たまひひい、、、御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまふふう。。。御年御年おおんとし卅卅さんじゅう七七しちになんおはしまししになんおはしまししになんおわしましし。。。世世よをををたもたせたまふたもたせたまふたもたせたまう事事こと九年九年くねんなりきなりきなりき。。。
- 21まだまだまだ若若わかくおはしますさまくおはしますさまくおわしますさまををを、、、惜惜おしみしみしみ奉奉たてまつらずといふらずといふらずという人人ひとなしなしなし。。。先帝先帝せんだい廿廿にじゅう九九くにておはしましきにておはしましきにておわしましき。。。これこれこれはははされどされどされど、、、みそぢみそぢみそじ餘餘あまりのりのりの春秋春秋はるあきすぎさせすぎさせすぎさせ給給たまへりへりえり。。。
- 22母母ははきさきのきさきのきさきの、、、餘餘あまりりり永永ながくおはしますにくおはしますにくおわしますに、、、かくのみおはしませばかくのみおはしませばかくのみおわしませば、、、御幸御幸おおんさいわひのひのひの中中なかにもにもにも、、、御歎御歎おおんなげきにきにきに堪堪たへざるべしへざるべしえざるべし。。。なほなほなお御御おんうまごのうまごのうまごの一一いちののの御子御子みこはははみかどみかどみかど、、、二二にのみこのみこのみこははは東宮東宮とうぐうにおはしませばにおはしませばにおわしませば、、、いとやんごとなきいとやんごとなきいとやんごとなき御有樣御有樣おおんありさまなるへしなるへしなるべし。。。
現代語訳
中宮(嫄子)は去年から早くも身ごもられて、十一月十三日に左大臣(頼通)の高倉殿に退出なさっていましたが、翌年の四月一日に皇女をお産みになり、また続いて、その翌年も同じように退出なさって、丹後守行任の家で、長暦三年八月十九日に、また皇女をお産みになって、同じ月の二十八日にお亡くなりになりました。御年二十四で、あきれるほど痛ましいことこの上もありません。いっそう秋の哀れが加わって、有明の月の光も心を痛ませる色であり、夕べの露がしげく置くのも、涙を誘うきっかけとなったことでしょう。こうして九月九日に内裏から故中宮のために、七つの寺で御誦経をおさせになります。帝は喪服をお召しになり、廃朝ということで清涼殿の御簾はすべて下ろされ、御膳を差し上げるときも声を立てて奏上することもしません。何もかもひっそりと沈んでいるなかで、夕べの蛍をもしみじみと眺めておいでになります。秋の灯火をかき立てかき立てして夜を明かされるような、おいたわしい折でしたが、二十日に解陣とかいって、何事も平常どおりになり、御殿の御簾なども巻き上げられて、少し晴れやかな様子になったけれども、やはり帝のお嘆きは尽きないようにお見えになりました。十月も過ぎたので、御忌も末になって、あの亡くなられた宮で、御仏事があります。梢の色も風の様子も、事情を知っているかのような様子です。紅葉を払わない昔のままの跡も、仏事の庭として格別に清められるにつけても、折にふれて、哀れは尽きませんでした。
十一月七日に、帝は初めて政務をおとりになります。南殿にお出ましになって、官奏などがあったのでしょう。後一条院の中宮(威子)にお仕えしていた出雲の御という女房が、この宮(嫄子)にお仕えしていた伊賀少将のもとに、
いかばかり君なげくらむかずならぬ身だにしぐれし秋の哀を
と詠みました。秋に中宮が続けて、秋にお亡くなりになったのに、たいそう巧みに思いついたのも、しみじみと聞こえました。翌年の七月七日、関白殿に、帝からお手紙があって、
とお詠みになったというのは、まことに恐れ多く、情け深くいらした方だと、うかがいました。楊貴妃との契りも思い出されて、星合の空をどれほど眺め明かされたことかと、たいそうしみじみとして、「尋ねゆくまぼろしもがな(魂のありかを尋ねてゆく幻術士がいてほしい)」などとお思いになったのではないかと推し量られて、伝え聞いたことでございます。漢詩などもみごとにお作りになったと聞いております。「秋のかげいづちかへらんとす(秋の光はどこへ帰ろうとするのか)」などという題に、
路非山水誰堪趁、跡任乾坤豈得尋(その道は山や川にあるのではないから、誰が追っていけようか。その跡は天地にまかせているから、どうして尋ねることができようか)
などとお作りになったと、うかがいました。乾坤というのは天地ということでございます。
長久二年三月四日、花の宴をなさって、「歌の舌は鶯にしかず(人の歌う声も鶯には及ばない)」という題を出されて、桂を折る試み(文章生の試験)があったと聞きました。翌年の三月ごろ、堀河右大臣(頼宗)が、その時は東宮大夫と申し上げていましたが、女御を入内させなさいました。帥の内大臣(伊周)の娘を母とする方です。大臣たちの娘にも劣らず、まことにめでたいことでした。十月ごろ、大二条殿で内大臣と申し上げていた方(教通)の次女が尚侍になって入内なさって、それぞれ華やかでいらっしゃいました。十一月には二宮(尊仁親王、後三条)の御読書始ということで、式部大輔と申し上げた博士が、御注孝経という書をお教え申し上げました。蔵人実政が尚復ということで、これも御師でありましょう。同じ四年の三月にも、佐国・孝言・時綱・国綱などという者どもに、試験をおさせになりました。弓場殿で詩を作って差し上げました。もともと桂を折った者(及第者)は博士を望み、まだ折らない者は灯火の料(学問料)を望んだのです。句ごとに唐の博士の名などを詠みこんだので、うまく綴れる人はなかなかいませんでした。寛徳元年八月に、大隅守長国を但馬介とし、民部丞生行を同じ国の掾に任じなさって、異国の人がその国に着いたのを、取り調べさせなさいました。御病気ということで、翌年正月十六日に、位をお退きになり、出家なさいます。御年三十七でいらっしゃいました。世を治められたのは九年でした。まだお若くていらっしゃったのを、惜しみ申し上げない人はありません。先帝は二十九歳でいらっしゃいました。こちらは、それでも三十の春秋を過ぎていらっしゃいました。母后(上東門院)が長生きでいらっしゃるのに、このようなことばかり続くので、お幸せの中にも、お嘆きに堪えられないことでしょう。それでも御孫の第一皇子は帝、第二皇子は東宮でいらっしゃるので、まことに尊いご様子でありましょう。
意訳
中宮嫄子は、祐子内親王・禖子内親王を産んだのち、産後まもなく二十四歳で亡くなった。語り手は、秋の景物(有明の月・夕べの露・蛍・秋の灯火)を重ねて、天皇の悲しみを描く。「夕べの蛍」「秋の灯火かかげつくす」は、白居易「長恨歌」の玄宗の嘆きをふまえた表現である。
翌年の七夕、天皇が頼通に贈った歌は、一年に一度は会える牽牛・織女と、二度と会えない自分とを比べる。語り手はここでも玄宗と楊貴妃の故事を思い起こし、「尋ねゆくまぼろしもがな」(源氏物語桐壺巻の歌の句)を引いて、亡き人の魂を求める天皇の思いを推し量っている。
後半は、花の宴や文章生の試験、皇子の御読書始など、学問を重んじた後朱雀朝の文化的な行事を記す。天皇は在位九年、三十七歳で譲位・出家し、まもなく崩御した。語り手は、二人の息子に先立たれた上東門院の嘆きに思いを寄せつつ、孫が帝と東宮であることに慰めを見いだしている。
語釈・文法注
- 唯ならず
- 妊娠して。
- 高倉殿
- 頼通の邸宅の一つ。
- 女みこ
- 祐子内親王(1038〜1105)。
- 女宮
- 禖子内親王(1039〜1096)。六条斎院。歌合を多く催した。
- 廢朝
- 天皇が政務を執らず朝廷の儀を停止すること。近親の死などの際に行う。
- 解陣
- 固関・警固などの陣を解くこと。ここでは喪に服した特別な態勢を解いて平常に戻ること。
- 官奏
- 太政官から天皇に諸国の申し文などを奏上する儀式。
- 出雲の御
- 後一条天皇の中宮威子に仕えた女房。
- 尋ねゆくまぼろしもがな
- 『源氏物語』桐壺巻で、更衣を失った帝が詠む「尋ねゆくまぼろしもがなつてにても魂のありかをそこと知るべく」の句。「まぼろし」は幻術士。
- 乾坤
- 天と地。
- 堀川右大臣
- 藤原頼宗(993〜1065)。道長の次男。母は源明子。
- おほ二條殿
- 藤原教通(996〜1075)。道長の三男で頼通の同母弟。大二条殿と呼ばれた。
- 御書始
- 皇子が初めて漢籍の講読を受ける儀式。
- 尙複
- 読書始で、師の読んだ所を繰り返して読む役。
- 弓場殿
- 内裏の校書殿の東にある建物。天皇が弓を射るのを見る所。
- ともしびの望み
- 学問料(灯燭料)の支給を望むこと。
- こまうど
- 高麗人。ここでは外国人の意で、実際には宋の商人が但馬に漂着した。
文法
- 唯ならず成らせ給ひて
- 「ただならず」は普通でない、の意で、妊娠をいう婉曲表現。
- かゞけつくさせたまひつゝぞ
- 「かかげつくす」は灯火の芯をかき立てて燃やし尽くす。眠れずに夜を明かすことをいう。
- なるへし
- 底本は濁点を付けないが「なるべし」。
和歌
いかばかり君なげくらむかずならぬ身だにしぐれし秋の哀を
- 詠者
- 出雲の御
- 状況
- 中宮威子・中宮嫄子と、秋に后が続けて亡くなったことを悲しみ、嫄子に仕えた伊賀少将に贈った歌。
修辞
- 掛詞
- 「しぐれし」は時雨が降る意と、涙にくれる意をかける。
- 対比
- 「かずならぬ身」の自分と、主を失った「君」とを比べ、相手の悲しみを思いやる。
解説
章題の「星合」は、後朱雀天皇の七夕の歌による。今鏡には、このように后の死を悲しむ天皇の姿が繰り返し描かれ、政治の記録よりも人の心の動きに重きを置く作品の性格がよく表れている。
後朱雀天皇は寛徳二年(1045)正月十六日に譲位し、十八日に崩御した。在位中は頼通が関白として政治をとり、天皇の外戚としての道長一家の権勢が続いたが、天皇自身は学問を好み、漢詩文にすぐれていたと伝えられる。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、23〜28頁(コマ26–29)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日