今鏡 第一「すべらぎの上」 第4章
初春
後一条天皇の弟、後朱雀天皇の御代。頼通は敦康親王の娘嫄子を養女として入内させ、中宮に立てる。もとの后禎子内親王(陽明門院)は皇后宮となる。語り手は、敦康親王が東宮になれなかった事情や、清少納言との思い出にも触れる。
- 1ととと申申もうすすす、、、さきのさきのさきの一條院一條院いちじょういんののの第三第三だいさんののの皇子皇子みこ、、、御母御母おおんはは上東門院上東門院じょうとうもんいん、、、同同おなじじじ御御おんはははらからにおはしますらからにおはしますらからにおわします。。。このみかどこのみかどこのみかど寬弘寬弘かんこう六年六年ろくねんつちのとのつちのとのつちのとの酉酉とりととと申申もうしゝしゝしし年年としののの、、、霜月霜月しもつきののの廿五日廿五日にじゅうごにちににに生生うまれさせたまひけりれさせたまひけりれさせたまいけり。。。
- 2七年七年しちねん正月正月しょうがつ十六日十六日じゅうろくにちににに、、、親王親王しんのうときこえさせときこえさせときこえさせ給給たまふふう。。。御年御年おおんとし九九ここのつつつ寬仁寬仁かんにん元年元年がんねん八月八月はちがつ九日九日ここのか東宮東宮とうぐうにたゝせにたゝせにたたせ給給たまふふう、、、ときこえさせときこえさせときこえさせ給給たまひきひきいき。。。長元長元ちょうげん九年九年くねん四月四月しがつ十二日十二日じゅうににち位位くらいににに卽卽つかせたまふかせたまふかせたまう、、、御御おんとしとしとし二十八二十八にじゅうはち。。。
- 3其其そののの年年とし御御おん卽卽つ位位くらいなどなどなど過過すぎてぎてぎて、、、年年としもかはりぬればもかはりぬればもかわりぬれば、、、いつしかいつしかいつしか、、、むつきのむつきのむつきの七日七日なぬか、、、關白關白かんぱく左左ひだりのおとゞとてのおとゞとてのおとどとて宇治宇治うじのおほきのおほきのおおきおはしましゝおはしましゝおわしましし、、、たてまつらせたてまつらせたてまつらせ給給たまふふう。。。
- 4帝帝みかどののの御兄御兄おおんあににおはしましゝにおはしましゝにおわしまししののの御子御子みこののの女女おんなぎみのぎみのぎみの、、、村上村上むらかみののの中務中務なかつかさののの宮宮みやののの、、、御御おんむすめのむすめのむすめの御御おんはははらにおはせしらにおはせしらにおわせしををを、、、關白殿關白殿かんぱくどの御子御子みこにしたてまつりにしたてまつりにしたてまつり給給たまひてひていて、、、女御女御にょうごにたてまつりにたてまつりにたてまつり給給たまへるなりへるなりえるなり。。。
- 5一條院一條院いちじょういんのののののの、、、生生うみたてまつりみたてまつりみたてまつり給給たまへりしへりしえりし一一いちののの御子御子みこにおはしませばにおはしませばにおわしませば、、、東宮東宮とうぐうにもたちにもたちにもたち給給たまふべかりしふべかりしうべかりしををを、、、御後見御後見おおんうしろみおはしまさずとておはしまさずとておわしまさずとて、、、二二にのみこにてのみこにてのみこにて先帝先帝せんだい、、、三三さんのみこにてのみこにてのみこにて、、、此此このみかどのみかどのみかどふたりふたりふたり、、、御堂御堂みどうのののうまごうまごうまご、、、關白關白かんぱくののの御御おん甥甥おいにおはしませばにおはしませばにおわしませば、、、うちつゞきうちつゞきうちつづき卽卽つかせたまへるなりかせたまへるなりかせたまえるなり。。。
- 6彼彼かののの一條院一條院いちじょういんののの皇后宮皇后宮こうごうぐうははは、、、御御おんせうとのせうとのしょうとの內內うちののの大臣大臣おとどののの、、、筑紫筑紫つくしにおはしましゝにおはしましゝにおわしましし事事ことどもにどもにどもに、、、おもほしなげかせおもほしなげかせおもおしなげかせ給給たまひてひていて、、、御樣御樣みさまかへさせかへさせかえさせ給給たまへりしへりしえりし後後のちににに、、、式部卿式部卿しきぶきょうののの御子御子みこををを生生うみたてまつらせみたてまつらせみたてまつらせ給給たまへるなりへるなりえるなり。。。
- 7からからから國國くにののの天皇天皇てんのうののの御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまひてのちにひてのちにいてのちに、、、皇子皇子みこ生生うみみみ給給たまひけんやうにこそおぼえひけんやうにこそおぼえいけんようにこそおぼえ侍侍はべりしかりしかりしか。。。されどされどされど彼彼かれれれはははさきのみかどのさきのみかどのさきのみかどの女御女御にょうごにてにてにて、、、彼彼かののの帝帝みかどかくれさせかくれさせかくれさせ給給たまひにければひにければいにければ、、、世世よをををそむきてそむきてそむきて、、、感業寺感業寺かんごうじとかいふとかいふとかいう寺寺てらににに住住すみみみ給給たまひけるひけるいけるををを、、、先先さきのみかどののみかどののみかどの御子御子みこ位位くらいにつきにつきにつき給給たまひてひていて、、、かのかのかの寺寺てらにおはしてにおはしてにおわして見見みたまひけるにたまひけるにたまいけるに、、、御心御心みこころやよりやよりやより給給たまひけむひけむいけむ。。。
- 8さらにさらにさらに后后きさきににに立立たててて奉奉たてまつりけるとりけるとりけると、、、これこれこれははは同同おなじじじ御代御代みよののの元元もとのきさきなればのきさきなればのきさきなれば、、、いたくかはりいたくかはりいたくかわり給給たまはぬさまにてはぬさまにてわぬさまにて、、、なのめなるやうにてなのめなるやうにてなのめなるようにて侍侍はべりきりきりき。。。かしこきかしこきかしこき御世御世みよののの御事御事おおんこと申申もうししし侍侍はべるもかたじけなくるもかたじけなくるもかたじけなく。。。
- 9かのかのかの皇后宮皇后宮こうごうぐうののの女房女房にょうぼう、、、肥後肥後ひご守守かみ元輔元輔もとすけととと申申もうすがむすめすがむすめすがむすめ、、、とてとてとて殊殊ことになさけあるになさけあるになさけある人人ひとににに侍侍はべりしかばりしかばりしかば、、、常常つねにまかりかよひなどしてにまかりかよひなどしてにまかりかよいなどして、、、彼彼かののの宮宮みやのことものことものこともうけうけうけ給給たまはははりなれりなれりなれ侍侍はべりきりきりき。。。
- 10そのそのその式部卿式部卿しきぶきょうののの親王親王しんのうののの御御おんむすめにおはしませばむすめにおはしませばむすめにおわしませば、、、みかどにみかどにみかどにははは姪姪めいににに當當あたらせらせらせ給給たまへりへりえり。。。かくてかくてかくて、、、彌生彌生やよいのついたちにのついたちにのついたちに、、、きさきにきさきにきさきに立立たたせたせたせ給給たまひぬひぬいぬ。。。御御おんとしとしとし二十二十にじゅう二二ににぞおはしましゝにぞおはしましゝにぞおわしましし。。。
- 11もとのもとのもとの后后きさきははは皇后宮皇后宮こうごうぐうにならせにならせにならせ給給たまひきひきいき。。。そのもとのそのもとのそのもとの后后きさきははは、、、みかどみかどみかど東宮東宮とうぐうにおはしましゝにおはしましゝにおわしましし時時ときよりよりより、、、參參まいりりり給給たまへりきへりきえりき。。。三條院三條院さんじょういんののの姫宮姫宮ひめみやにおはしますにおはしますにおわします。。。
- 12それそれそれははは御御おんとしとしとし廿五廿五にじゅうごにならせたまへりきにならせたまへりきにならせたまえりき。。。陽明門院陽明門院ようめいもんいんととと申申もうすすすはははこのこのこの御事御事おおんことなりなりなり。。。御御おんぐしのぐしのぐしのうつくしさうつくしさうつくしさををを、、、見見みまゐらせぬまゐらせぬまいらせぬ、、、くちをしとてくちをしとてくちおしとて、、、さぐりさぐりさぐり申申もうさせさせさせ給給たまひけんもひけんもいけんも思思おもひやられてひやられていやられて。。。
- 13同同おなじきさきとじきさきとじきさきと申申もうせどもせどもせども、、、やんごとなくおはしますやんごとなくおはしますやんごとなくおわします。。。久久ひさしくしくしく內內うちへへへ參參まいらせらせらせ給給たまはざりけるころはざりけるころわざりけるころ、、、うちよりうちよりうちより、、、
- 14あやめあやめあやめ草草ぐさかれしかれしかれし袂袂たもとのねのねのねをををたえてさらにこひぢにまどふたえてさらにこひぢにまどふたえてさらにこいじにまどう頃頃ころかなかなかな
- 15ととと侍侍はべりけんりけんりけん。。。御返事御返事おおんかえりごとははは忘忘わすれにけりれにけりれにけり。。。東宮東宮とうぐうにおはしましゝにおはしましゝにおわしましし時時ときののの御息所御息所みやすんどころなりなりなり。。。このこのこの后后きさきににに、、、御堂御堂みどうののの六六ろくののの君君きみまゐりまゐりまいり給給たまひてひていて、、、內侍內侍ないしのかみときこえたまひしのかみときこえたまひしのかみときこえたまいし、、、後冷泉院後冷泉院ごれいぜいいんののの今今いまののの東宮東宮とうぐうにおはしましゝにおはしましゝにおわしましし、、、生生うみおきたてまつりてみおきたてまつりてみおきたてまつりて、、、うせうせうせ給給たまひしかばひしかばいしかば、、、このこのこの宮宮みやははは、、、そのそのその後後のち參參まいりりり給給たまへるなりへるなりえるなり。。。
- 16故故こ內侍內侍ないしのかみののかみののかみの御御おんもとにもとにもとに、、、「「「うちにおもふうちにおもふうちにおもう心心こころをををととと、、、よませよませよませ給給たまひたるひたるいたる御歌御歌みゅうた、、、たまはりたまはりたまわり給給たまひけるとひけるといけると聞聞きこえこえこえ侍侍はべりしものりしものりしものををを。。。
- 17長曆長曆ちょうりゃく元年元年がんねん神無月神無月かんなずきののの廿三日廿三日にじゅうさんにち關白殿關白殿かんぱくどのののの高陽高陽かやノノノ院院いんににに、、、上東門院上東門院じょうとうもんいんわたらせわたらせわたらせ給給たまひてひていて行幸行幸ぎょうこうありてありてありて、、、きんだちきんだちきんだち院司院司いんじなどなどなど加階加階かかいどもしどもしどもし給給たまひきひきいき。。。かくてかくてかくて年年としもあけぬればもあけぬればもあけぬれば、、、又又また正月正月しょうがつ二日二日ふつか上東門院上東門院じょうとうもんいんににに朝覲朝覲ちょうきんののの行幸行幸ぎょうこうありてありてありて、、、いづくといづくといずくと申申もうしながらしながらしながら、、、猶猶なおこのこのこの院院いんのけしきのけしきのけしき有樣有樣ありさま、、、山山やまののの嵐嵐あらし、、、よろづよろづよろず世世よ呼呼よばふばふばう聲聲こえをををつたへつたへつたえ、、、池池いけののの水水みずももも、、、ちとせのちとせのちとせの影影かげをををすましてすましてすまして、、、まちとりまちとりまちとり奉奉たてまつりりり給給たまひきひきいき。。。
- 18先帝先帝せんだいかくれさせかくれさせかくれさせ給給たまへれどもへれどもえれども、、、かくうちつゞきておはしますかくうちつゞきておはしますかくうちつづきておわします、、、二代二代にだいののの國母國母こくもととと申申もうすもやんごとなしすもやんごとなしすもやんごとなし。。。又又また三日三日みかははは東宮東宮とうぐう朝覲朝覲ちょうきんののの行啓行啓ぎょうけいとてとてとて、、、內內うちににに參參まいらせらせらせ給給たまふふう。。。
- 19帝帝みかどのみゆきよりものみゆきよりものみゆきよりも、、、事事ことしげからぬものからしげからぬものからしげからぬものから、、、はなやかにめづらしくはなやかにめづらしくはなやかにめずらしく、、、一員一員いちいんなどなどなどひきつくろひたるけしきひきつくろひたるけしきひきつくろいたるけしき、、、心心こころことなるべしことなるべしことなるべし。。。
- 20すべらきのすべらきのすべらきの御御おんよそひよそひよそい、、、みこのみこのみこの宮宮みやののの御衣御衣みけしののの色色いろかはりてめづらしくかはりてめづらしくかわりてめずらしく、、、御拜御拜ごはいののの有樣有樣ありさまなどなどなど、、、袖袖そでふりふりふり給給たまふたちゐのふたちゐのうたちいの御御おんよそひよそひよそい、、、うつくしうてうつくしうてうつくしゅうて、、、喜喜よろこびのびのびの涙涙なみだもおさへがたくなんもおさへがたくなんもおさえがたくなん有有ありけるりけるりける。。。
- 21列列つらなれるなれるなれる紫紫むらさきののの袖袖そでももも、、、、、、花花はなやかなるやかなるやかなる御垣御垣みかきのののうちのうちのうちの春春はるなりけるとなんきこえなりけるとなんきこえなりけるとなんきこえ侍侍はべりしりしりし。。。
現代語訳
後朱雀院と申し上げる方は、先の一条院の第三皇子で、御母は上東門院、先帝(後一条天皇)と同じ御兄弟でいらっしゃいます。この帝は寛弘六年己酉と申した年の十一月二十五日にお生まれになりました。七年正月十六日に親王の宣旨を受けられます。御年九歳、寛仁元年八月九日に東宮にお立ちになった、と申し上げました。長元九年四月十二日に位におつきになります。御年二十八。その年の御即位や大嘗会などが過ぎて、年も改まると、さっそく正月七日に、関白左大臣で宇治の太政大臣(頼通)でいらした方が、女御を入内させなさいます。帝の御兄でいらした式部卿(敦康親王)の御子の姫君で、村上天皇の皇子中務宮(具平親王)の御娘を母としてお生まれになった方を、関白殿が御養女になさって、女御として入内させなさったのです。一条院の皇后宮(定子)がお産みになった第一皇子でいらしたので、東宮にもお立ちになるはずでしたのに、御後見がいらっしゃらないということで、第二皇子として先帝、第三皇子としてこの帝のお二人が、御堂殿(道長)の孫、関白の甥でいらしたので、続けて即位なさったのです。あの一条院の皇后宮は、兄の内大臣(伊周)が筑紫に流されなさった事などをお嘆きになって、出家なさった後に、式部卿の御子をお産みになったのです。唐の則天皇后が出家なさった後に皇子をお産みになったという話のように思われました。けれども則天皇后は先の帝の女御で、その帝がお亡くなりになったので、世を捨てて感業寺とかいう寺に住んでいらしたのを、先帝の御子が位におつきになって、その寺に行ってご覧になったところ、お心を寄せられたのでしょうか、改めて后にお立てになったというのですが、こちらは同じ御代の元の后ですので、それほど違ったご様子ではなく、まあ普通のことでございました。尊い御代のことを申し上げるのも恐れ多いことです。その皇后宮の女房で、肥後守元輔と申す者の娘が、清少納言といって格別に情趣のある人でしたので、いつも通ったりして、あの宮のことも聞き慣れておりました。その式部卿の親王の御娘でいらっしゃいますので、帝には姪にあたられます。こうして三月一日に、后にお立ちになりました。御年二十二でいらっしゃいました。
もとの后は皇后宮におなりになりました。そのもとの后は、帝が東宮でいらした時から入内なさっていました。三条院の姫宮でいらっしゃいます。その方は御年二十五になっておられました。陽明門院と申し上げるのはこの方のことです。御髪の美しさを、故院(三条院)が目でご覧になれないのが残念だといって、手で探ってお確かめになったというのも思いやられます。同じ后と申しても、まことに尊くていらっしゃいます。長く内裏にお参りにならなかったころ、帝から、
あやめ草かれし袂のねをたえてさらにこひぢにまどふ頃かな
とお詠みになったそうです。お返事は忘れてしまいました。(禎子は)帝が東宮でいらした時の御息所です。この后より前に、御堂殿の六女が入内なさって、尚侍と申し上げた方が、後冷泉院、今の東宮でいらした方をお産みおきになって亡くなられたので、この宮は、その後に入内なさったのです。故尚侍のもとに、「かすみのうちにおもふ心を」とお詠みになった御歌を、お与えになったと聞いておりますのに。
長暦元年十月二十三日、関白殿の高陽院に上東門院がお移りになって行幸があり、公達や院司などが位を上げられました。こうして年も明けたので、また正月二日に上東門院に朝覲の行幸があって、どこでも同じとは申しながら、やはりこの院の様子は格別で、山の嵐は万歳を呼ぶ声を伝え、池の水も千年の影を澄ませて、お待ち受け申し上げなさいました。先帝はお亡くなりになったけれども、こうして続いていらっしゃる二代の国母と申すのも尊いことです。また三日には東宮の朝覲の行啓ということで、内裏に参られます。帝の行幸よりも事は簡素ながら、華やかで珍しく、靫負佐一人などが装いを整えている様子も格別でありましょう。天皇の御装束、東宮の御衣の色が違っていて珍しく、拝礼の様子など、袖をひるがえして立ったり座ったりなさるお姿がかわいらしくて、喜びの涙もおさえきれないほどでした。並んだ公卿の紫の袍の袖も、位に応じた緋や緑の袍も、華やかな宮中の春であったと聞いております。
意訳
後朱雀天皇の即位と、頼通が養女嫄子を入内させたことが語られる。嫄子の父敦康親王は一条天皇の第一皇子だったが、母定子の実家(中関白家)が没落し、有力な後見がいなかったため皇位につけなかった。語り手は、定子が出家後に敦康を産んだことを則天武后の例と比べつつ、同じ御代のことだから大きな違いはないと、やんわり弁護している。
語り手が清少納言のもとに通っていたというくだりは、今鏡の語り手が王朝文学の世界と地続きであることを示す、印象的な一節である。
禎子内親王(陽明門院)は三条天皇の皇女で、後朱雀の東宮時代からの妃。目の不自由だった父三条院が、娘の髪の美しさを手で探って確かめたという話が添えられる。後朱雀が里に下がったままの禎子に贈った「あやめ草」の歌は、「こひぢ(泥・恋路)」の掛詞に思いをこめている。
最後は、上東門院への朝覲の行幸と、翌日の東宮(後冷泉)の朝覲の行啓の華やかさで結ばれる。二代の天皇の母である上東門院の存在が、宮廷の中心にあることが印象づけられる。
語釈・文法注
- 後朱雀院
- 第六十九代後朱雀天皇(1009〜1045)。名は敦良。後一条天皇の同母弟。
- せんだい
- 先帝。ここでは後一条天皇。
- 大嘗會
- 天皇が即位後に初めて行う新嘗祭。一代一度の大祭。
- 女御
- 藤原嫄子(1016〜1039)。敦康親王の娘で、頼通の養女として入内し、中宮となった。
- 式部卿
- 敦康親王(999〜1018)。一条天皇の第一皇子。母は定子。
- 一條院の皇后宮
- 藤原定子(977〜1000)。一条天皇の皇后。中関白道隆の娘。
- 內の大臣
- 藤原伊周(974〜1010)。定子の兄。長徳二年(996)に大宰権帥に左遷された(長徳の変)。
- 則天皇后
- 唐の則天武后。太宗の後宮にいたが、太宗の死後に感業寺で尼となり、のちに高宗に迎えられて皇后となった。
- 清少納言
- 清少納言。清原元輔の娘で、定子に仕えた。『枕草子』の作者。
- もとの后
- 禎子内親王(1013〜1094)。三条天皇の皇女で、後朱雀天皇の皇后。後三条天皇の母。のちに陽明門院。
- 故院
- 三条院。晩年は眼病のため目がよく見えなかった。
- かすみのうちにおもふ心を
- 後朱雀天皇が東宮時代、妃の嬉子に贈った歌の句。
- ゆげひのすけ
- 靫負佐。衛門府の次官。
- あけもみどりも
- 緋(五位)と緑(六位)の袍。位によって袍の色が決まっていた。
文法
- あやめ草かれし袂の
- 「ね」は「根」と「音(泣く声)」、「こひぢ」は「泥(こひぢ)」と「恋路」をかける。
- なのめなるやうにて
- 「なのめなり」は、ありふれている、格別でない。
- すべらき
- 「すめらぎ」に同じ。天皇。
和歌
あやめ草かれし袂のねをたえてさらにこひぢにまどふ頃かな
- 詠者
- 後朱雀天皇
- 状況
- 皇后禎子内親王が長く里に下がって参内しなかったころ、天皇が贈った歌。
修辞
- 掛詞
- 「ね」に菖蒲の「根」と泣く「音」、「こひぢ」に「泥(こひぢ)」と「恋路」をかける。
- 縁語
- 「あやめ草」「ね(根)」「こひぢ(泥)」は縁語。
解説
章題の「初春」は、長暦二年正月の朝覲の行幸・行啓を、宮中の春の華やかさとして描く結びの部分による。
今鏡は、天皇の代ごとに、生年・親王宣旨・立太子・即位・后妃・皇子女を順に記す。これは史書の「本紀」にならった書き方で、その間に和歌や逸話をはさみこんで語りに変化をつけている。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、19〜23頁(コマ24–26)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日