今鏡 第一「すべらぎの上」 第2章
雲井
後一条天皇の御代の始まり。寛弘五年に生まれ、九歳で即位した天皇のもとで、外祖父道長・叔父頼通が政治をとり、道長の娘たちが三后に並ぶ。元服、新造内裏への遷御、威子の立后、法成寺の供養と、栄華の行事が続くなか、東宮妃嬉子が後冷泉院を産んで亡くなる。
- 1のみかどとのみかどとのみかどとははは、、、前前さきののの一條一條いちじょうノノノ院院いんののの第二第二だいにののの皇子皇子みこにおはしますにおはしますにおわします。。。御母御母おおんはは、、、中宮中宮ちゅうぐう彰子彰子しょうしととと申申もうしきしきしき。。。入道入道にゅうどう前前さきのノノノ太政大臣太政大臣だいじょうだいじんのおとゞののおとゞののおとどの第一第一だいいちののの御御おんむすめなりむすめなりむすめなり。。。
- 2このみかどこのみかどこのみかど寬弘寬弘かんこう五年五年ごねんながながなが月月つきののの十日十日とおかあまりあまりあまり、、、ひとひひとひひとひののの日日ひゅ生生うまれさせまれさせまれさせ給給たまへりへりえり。。。同同おなじじじ年年としののの十月十月じゅうがつ十六日十六日じゅうろくにちにぞにぞにぞ親王親王しんのうののの宣旨宣旨せんじきこえさせきこえさせきこえさせ給給たまひしひしいし。。。同同おなじじじ八年八年はちねん六月六月ろくがつ十三日十三日じゅうさんにち東宮東宮とうぐうににに立立たたせたせたせ給給たまふふう。。。
- 3御年御年おおんとし四四よつにおはしましきつにおはしましきつにおわしましき。。。一條一條いちじょうノノノ院院いん位位くらいさらせさらせさらせ給給たまひてひていて、、、御御おんいとこのいとこのいとこの三條三條さんじょうノノノ院院いん東宮東宮とうぐうにおはしましゝににおはしましゝににおわしまししに、、、ゆづりゆづりゆずり申申もうさせさせさせ給給たまひしかばひしかばいしかば、、、そのそのその御御おんかはりのかはりのかわりの東宮東宮とうぐうににに立立たたせたせたせ給給たまへりきへりきえりき。。。
- 4かのかのかの三條三條さんじょうノノノ院院いん位位くらいにおはしますにおはしますにおわします事事こと、、、五五いつとせばかりとせばかりとせばかり過過すぐさせぐさせぐさせ給給たまひてひていて、、、長和五年長和五年ちょうわごねんむつきのむつきのむつきの廿九日廿九日にじゅうくにちににに、、、位位くらいををを此此こののの帝帝みかどににに讓讓ゆずりりり申申もうさせさせさせ給給たまひきひきいき。。。御年御年おおんとし九九ここのつにぞおはしましゝつにぞおはしましゝつにぞおわしましし。。。
- 5さてさてさて東宮東宮とうぐうにににはははかのかのかの三條三條さんじょうノノノ院院いんのののののの親王親王しんのうををを立立たててて申申もうさせさせさせ給給たまへりきへりきえりき。。。攝政攝政せっしょうははは、、、やがてやがてやがて御御おんおほぢのおほぢのおおじの入道入道にゅうどうおとゞおとゞおとど、、、左大臣左大臣さだいじんとてとてとて先先さきのみかどののみかどののみかどの關白關白かんぱくにおはしましゝにおはしましゝにおわしましし、、、ひきつゞかせひきつゞかせひきつづかせ給給たまひてひていて次次つぎののの年年としののの三月三月さんがつににに、、、御子御子みこののののおとゞのおとゞのおとど、、、右大將右大將うだいしょうととと聞聞きこえさせこえさせこえさせ給給たまひしにひしにいしに、、、讓讓ゆずりりり申申もうさせさせさせ給給たまひにきひにきいにき。。。
- 6そのそのその日日ひやがてやがてやがて內大臣內大臣ないだいじんにもならせたまふとにもならせたまふとにもならせたまうと、、、聞聞きこえさせたまひきこえさせたまひきこえさせたまいき。。。そのそのその八月八月はちがつ九日九日ここのか、、、東宮東宮とうぐうわがわがわが御心御心みこころととと、、、のかせのかせのかせ給給たまひきひきいき。。。三條三條さんじょうノノノ院院いんもももうづきにうづきにうずきに御御おんぐしおろさせぐしおろさせぐしおろさせ給給たまひひい、、、五月五月さつきにかくれさせにかくれさせにかくれさせ給給たまひぬるにもひぬるにもいぬるにも、、、世世よののの中中なかさう〴〵しくおもほしめすにやさう〴〵しくおもほしめすにやそうぞうしくおもおしめすにや。。。
- 7御病御病おおんやまいひなどきこえてひなどきこえてひなどきこえて、、、かくさらせかくさらせかくさらせ給給たまひぬればひぬればいぬれば、、、みかどのみかどのみかどの御御おんおとうとのおとうとのおとうとの第三第三だいさんののの親王親王しんのうををを、、、このこのこの代代かわりにりにりに立立たててて申申もうさせたまひてさせたまひてさせたまいて、、、廿五日廿五日にじゅうごにちにぞにぞにぞ、、、さきのさきのさきの東宮東宮とうぐうににに院號院號いんごうきこえさせたまひてきこえさせたまひてきこえさせたまいて、、、ととと申申もうすすす。。。
- 8年毎年毎としごとのつかさくらゐのつかさくらゐのつかさくらい、、、もとのもとのもとの如如ごとくくく給給たまはははらせたもらせたもらせたもふふふ。。。御隨身御隨身みずいじんなどきこえなどきこえなどきこえ給給たまひきひきいき。。。ののの女御女御にょうごののの「「「見見みえしおもひのえしおもひのえしおもいの」」」などよみたまへるなどよみたまへるなどよみたまえる、、、ふるきふるきふるき物語物語ものがたりににに侍侍はべるめればるめればるめれば、、、こまかにもこまかにもこまかにも申申もうししし侍侍はべらずらずらず。。。
- 9寬仁寬仁かんにん二年二年にねん正月正月しょうがつにににははは上上うえののの御年御年おおんとし十十とおにあまらせにあまらせにあまらせ給給たまひてひていて、、、三日三日みか御元服御元服ごげんぷくせさせたまへればせさせたまへればせさせたまえれば、、、はははにおはしますににおはしますににおわしますに、、、御御おんかうぶりたてまつりてかうぶりたてまつりてこうぶりたてまつりて、、、おとなにならせおとなにならせおとなにならせ給給たまへるへるえる御姿御姿おおんすがたもももうつくしううつくしううつくしゅう、、、いとめづらかなるいとめづらかなるいとめずらかなる雲居雲居くもいのののはるになむはるになむはるになむ侍侍はべりけるりけるりける。。。
- 10卯月卯月うずきののの廿八日廿八日にじゅうはちにちににに、、、大內大內おおうちやう〳〵やう〳〵ようよう造造つくりりり出出いだしてわたらせだしてわたらせだしてわたらせ給給たまふふう。。。しろがねのしろがねのしろがねのうてなうてなうてな玉玉たまのみのみのみはしはしはし、、、磨磨みがきたてられたるきたてられたるきたてられたる有樣有樣ありさま、、、いときよらにていときよらにていときよらにて、、、明明あきらけきらけきらけき御世御世みよののの曇曇くもりなさもいとゞあらはれりなさもいとゞあらはれりなさもいとどあらわれ侍侍はべるなるべしるなるべしるなるべし。。。
- 11御格子御格子みこうしももも御簾御簾みすももも、、、新新あたらしくかけわたされたるにしくかけわたされたるにしくかけわたされたるに、、、雲雲くもののの上人上人うえびとののの夏夏なつごろもごろもごろも御御おんたちのよそひなどたちのよそひなどたちのよそいなど、、、いとゞいとゞいとど涼涼すずしげになむしげになむしげになむ侍侍はべりけるりけるりける。。。おほおほおお宮宮みやもいらせもいらせもいらせ給給たまふふう。。。
- 12東宮東宮とうぐうもわたらせもわたらせもわたらせ給給たまひてひていて、、、梅壺梅壺うめつぼにぞおはしますにぞおはしますにぞおわします。。。入道入道にゅうどうおとゞのおとゞのおとどの四四しののの君君きみははは、、、ののの內侍內侍ないしのかみとのかみとのかみと聞聞きこえたまひしこえたまひしこえたまいし、、、こよひこよひこよい女御女御にょうごににに參參まいりりり給給たまひてひていて、、、藤壺藤壺ふじつぼにおはしますにおはしますにおわします。。。
- 13神無月神無月かんなずきののの十日十日とおかあまりのころあまりのころあまりのころ、、、きさきにきさきにきさきに立立たたせたせたせ給給たまふふう。。。ももも后后きさきもあねおとゝにおはしませばもあねおとゝにおはしませばもあねおととにおわしませば、、、いとたぐひなきいとたぐひなきいとたぐいなき御榮御榮おおんさかえなるべしえなるべしえなるべし。。。廿二日廿二日にじゅうににちににに上東門院上東門院じょうとうもんいんにみゆきありてにみゆきありてにみゆきありて、、、ををを折折おるるる試試こころみせさせたまふみせさせたまふみせさせたまう。。。
- 14題題だい、、、霜霜しもをををへてへてへて菊菊きくののの性性せいをををしるしるしる。。。又又またみどりのみどりのみどりの松松まつ、、、色色いろををを改改あらたむるむるむる事事ことなしなしなし。。。などぞきこえしなどぞきこえしなどぞきこえし。。。おほきおとゞたてまつらせおほきおとゞたてまつらせおおきおとどたてまつらせ給給たまへるとなむへるとなむえるとなむ。。。同同おなじじじ三年三年さんねん八月八月はちがつ廿八日廿八日にじゅうはちにち東宮東宮とうぐう御元服御元服ごげんぷくせさせせさせせさせ給給たまふふう。。。
- 15御御おんとしとしとし十一十一じゅういちにぞおはしましゝにぞおはしましゝにぞおわしましし。。。九月九月くがつ廿九日廿九日にじゅうくにちににに、、、入道入道にゅうどうおとゞおとゞおとど東大寺東大寺とうだいじにてにてにて御戒御戒おおんかいうけさせたまひきうけさせたまひきうけさせたまいき。。。同同おなじじじ四年四年よねんかのえさるかのえさるかのえさる、、、三月三月さんがつ廿二日廿二日にじゅうににちにににつくりつくりつくり出出いださせださせださせ給給たまひてひていて、、、供養供養くようせさせせさせせさせ給給たまふふう。。。
- 16行啓行啓ぎょうけいせさせせさせせさせ給給たまふふう。。。御御おんありさまどもありさまどもありさまども、、、ふるきふるきふるき物語物語ものがたりににに、、、こまかにこまかにこまかにはべればはべればはべれば、、、さのみさのみさのみ同同おなじことじことじことをやをやをや申申もうしかさねしかさねしかさねはべるべきはべるべきはべるべき。。。十月十月じゅうがつにににははは入道入道にゅうどうのおとゞのおとゞのおとど、、、比叡比叡ひえにのぼりたまひてにのぼりたまひてにのぼりたまいて、、、とかいひてとかいひてとかいいて、、、御戒御戒おおんかい重重かさねてねてねて受受うけさせたまふけさせたまふけさせたまう。。。
- 17治安治安じあん二年二年にねんみづのえみづのえみずのえ戌戌いぬののの七月七月しちがつ十四日十四日じゅうよっかににに行幸行幸ぎょうこうせさせせさせせさせ給給たまひきひきいき。。。入道入道にゅうどう大臣大臣おとど金堂金堂こんどう供養供養くようせさせせさせせさせ給給たまひしかばひしかばいしかば、、、東宮東宮とうぐうもきさきたちももきさきたちももきさきたちも、、、皆皆みな行啓行啓ぎょうけいせさせせさせせさせ給給たまひきひきいき。。。
- 18罪罪つみあるものどもあるものどもあるものども皆皆みな赦赦ゆるされされされ侍侍はべりにけりりにけりりにけり。。。三年三年さんねん正月正月しょうがつににに太皇太后宮太皇太后宮たいこうたいこうぐうにににののの行幸行幸ぎょうこうせさせせさせせさせ給給たまひきひきいき。。。東宮東宮とうぐうもおなじやうにもおなじやうにもおなじょうに行啓行啓ぎょうけいせさせたまひけるせさせたまひけるせさせたまいける、、、ふたりふたりふたりののの御子御子みこおはしませばおはしませばおわしませば、、、いとたぐひなきいとたぐひなきいとたぐいなき宮宮みやのののうちなるべしうちなるべしうちなるべし。。。
- 19十月十三日十月十三日じゅうがつじゅうさんにちににに上東門院上東門院じょうとうもんいんののの御母御母おおんはは鷹司鷹司たかつかさどのどのどの、、、六十六十ろくじゅうののの御賀御賀おおんがせさせせさせせさせ給給たまふふう。。。そのそのその御御おんありさまありさまありさま、、、むかしのむかしのむかしの物物ものがたりにがたりにがたりに侍侍はべればればれば、、、このこのこの中中なかにもにもにも御覽御覽ごらんぜさせたまへるぜさせたまへるぜさせたまえる人人ひとももも、、、おはしますらむおはしますらむおわしますらむ。。。
- 20萬壽元年萬壽元年まんじゅがんねん九月九月くがつ十九日十九日じゅうくにち、、、關白殿關白殿かんぱくどののののににに行幸行幸ぎょうこうありてありてありて、、、くらべくらべくらべ馬馬うま御覽御覽ごらんぜさせぜさせぜさせ給給たまふべきにてふべきにてうべきにて、、、太皇太后宮太皇太后宮たいこうたいこうぐうまづまづまず十四日十四日じゅうよっかにわたりゐさせたまひてぞにわたりゐさせたまひてぞにわたりいさせたまいてぞ、、、まちたてまつらせまちたてまつらせまちたてまつらせ給給たまひけるひけるいける。。。
- 21かくてかくてかくて廿一日廿一日にじゅういちにちににに、、、大宮大宮おおみやははは內內うちへへへいらせいらせいらせ給給たまひきひきいき。。。高陽院高陽院かやのいんののの行幸行幸ぎょうこうにににははは、、、かのかのかの家家いえののの司司つかさ、、、加階加階かかいなどしなどしなどし侍侍はべりけりりけりりけり。。。村上村上むらかみののの中務中務なかつかさののの宮宮みやののの御子御子みこ源氏源氏げんじのののををを、、、入道入道にゅうどうおとゞのおとゞのおとどの御御おんやしなひやしなひやしない子子こときこえときこえときこえ給給たまふふう。。。
- 22このたびこのたびこのたび三位中將三位中將さんみちゅうじょうになりたまひきになりたまひきになりたまいき。。。二年八月三日二年八月三日にねんはちがつみか東宮東宮とうぐうののの、、、をのこをのこおのこ宮宮みやうみたてまつりうみたてまつりうみたてまつり給給たまひてひていて、、、五日五日いつかにかくれさせにかくれさせにかくれさせ給給たまひきひきいき。。。入道入道にゅうどうおとゞのおとゞのおとどの六六ろくののの君君きみにおはするにおはするにおわする、、、御御おんさいはひのさいはひのさいわいの中中なかににに、、、あさましくあさましくあさましく悲悲かなしとしとしと申申もうすもおろかにすもおろかにすもおろかに侍侍はべれどれどれど、、、後冷泉院後冷泉院ごれいぜいいんををを生生うみおきたてまつりみおきたてまつりみおきたてまつり給給たまへればへればえれば、、、いとやんごとなくおはしますいとやんごとなくおはしますいとやんごとなくおわします。。。
- 23そのそのその折折おりののの悲悲かなしさしさしさははは、、、たぐひなくたぐひなくたぐいなく侍侍はべりしかどもりしかどもりしかども、、、いきていきていきて后后きさきににに立立たちたまへるちたまへるちたまえる御姉御姉おおんあねたちよりもたちよりもたちよりも、、、おはしまさぬあとのめでたさおはしまさぬあとのめでたさおわしまさぬあとのめでたさははは、、、こよなくこそこよなくこそこよなくこそ侍侍はべるめれるめれるめれ。。。
現代語訳
後一条天皇と申すのは、先の一条院の第二皇子でいらっしゃいます。御母は上東門院、中宮彰子と申し上げました。入道前太政大臣道長公の第一の御娘です。この帝は寛弘五年九月十一日にお生まれになりました。同じ年の十月十六日に親王の宣旨が下されました。同じ八年六月十三日に東宮にお立ちになります。御年四歳でいらっしゃいました。一条院が位をお退きになり、御いとこの三条院が東宮でいらしたのにお譲りになったので、その代わりの東宮にお立ちになったのです。その三条院が位におつきになって五年ほどお過ごしになり、長和五年正月二十九日に、位をこの帝にお譲りになりました。御年九歳でいらっしゃいました。そして東宮には、その三条院の式部卿の親王(敦明親王)をお立てになりました。摂政は、そのまま御祖父の入道殿(道長)が、左大臣として先帝の関白でいらしたのを引き継がれ、翌年の三月に、御子の宇治殿(頼通)が右大将と申し上げていらしたのにお譲りになりました。その日すぐに内大臣にもおなりになったと聞いております。その年の八月九日、東宮が御自分の意志で、東宮の位をお退きになりました。三条院も四月に出家なさり、五月にお亡くなりになったので、世の中がものさびしくお思いになったのでしょうか。御病気などということで、こうしてお退きになったので、帝の御弟の第三皇子(敦良親王)を、その代わりにお立てになって、二十五日に、前の東宮に院号を奉って、小一条院と申します。毎年の官位の推挙の権利も、元どおりお与えになります。御随身なども付けられたと聞いております。堀河の女御が「見えしおもひの」などとお詠みになったことは、昔の物語に書かれているようですので、詳しくは申しません。
寛仁二年正月には帝の御年が十歳を越えられて、三日に御元服なさったので、まだ幼くていらっしゃるのに冠をおつけになり、大人になられた御姿もかわいらしく、まことにめったにない宮中の春でございました。四月二十八日に、内裏がようやく造り上げられて、お移りになります。銀の台、玉の階段と、磨きたてられた有様はたいそう美しく、明らかな御代の曇りのなさも、いっそうはっきりと表れているようでございました。御格子も御簾も、新しく掛けわたされたところに、殿上人の夏の装束や女房たちの装いなどが、いっそう涼しげでございました。大宮(彰子)も内裏にお入りになります。東宮もお移りになって、梅壺にいらっしゃいます。入道殿の四女は、威子の尚侍と申し上げた方で、この夜女御として入内なさり、藤壺にいらっしゃいます。十月の十日過ぎ(十六日)に、后にお立ちになります。国母(彰子)も后(威子)も姉妹でいらっしゃるので、まことに比べるものもない御栄えでありましょう。二十二日に上東門院に行幸があって、桂を折る試み(文章生の試験)をおさせになります。題は「霜をへて菊の性をしる」、また「みどりの松、色を改むる事なし」などと聞きました。太政大臣(道長)がお出しになったということです。同じ三年八月二十八日に東宮が御元服なさいます。御年十一歳でいらっしゃいました。九月二十九日に、入道殿は東大寺で御受戒なさいました。同じ四年、庚申の年の三月二十二日に、無量寿院を造り上げなさって、供養をなさいます。三人の后が行啓なさいます。そのご様子は、昔の物語に詳しく書かれていますので、同じことをくり返して申し上げることもございますまい。十月には入道殿が比叡山にお登りになって、廻心戒とかいって、重ねて御戒をお受けになります。
治安二年、壬戌の年の七月十四日に、法成寺に行幸なさいました。入道大臣が金堂の供養をなさったので、東宮も后たちも、皆行啓なさいました。罪ある者どもも皆赦されました。三年正月に太皇太后宮(彰子)に朝覲の行幸をなさいました。東宮も同じように行啓なさいましたが、お二人の御子がいらっしゃるのですから、まことに比べるもののない宮の内でありましょう。十月十三日に上東門院の御母、鷹司殿(倫子)の六十の御賀をなさいます。そのご様子は、昔の物語に書かれていますので、この中にもご覧になった方がいらっしゃるでしょう。万寿元年九月十九日、関白殿(頼通)の高陽院に行幸があって、競馬をご覧になる予定で、太皇太后宮がまず十四日にお移りになって、お待ち申し上げなさいました。そして二十一日に、大宮は内裏にお帰りになりました。高陽院の行幸では、その家の家司たちが位を上げられたりしました。村上天皇の皇子中務宮(具平親王)の御子、源氏の中将(師房)を、入道殿の御養子と申していました。この時に三位中将になられました。二年八月三日、東宮の御息所(嬉子)が男宮をお産みになって、五日にお亡くなりになりました。入道殿の六女でいらっしゃる方で、お幸せの中に、あきれるほど悲しいと申すのも言葉が足りないほどですが、後冷泉院をお産みおきになったので、たいそう尊いお方でいらっしゃいます。その時の悲しさは比べるものもないほどでしたが、生きて后にお立ちになった御姉たちよりも、亡くなられた後のめでたさは、この上なくまさっているようでございます。
意訳
老女の語りは、後一条天皇の生い立ちと即位から始まる。九歳の帝のもとで、外祖父の道長が摂政となり、翌年には子の頼通に譲る。三条院の皇子敦明親王が東宮を辞して小一条院となり、帝の弟敦良親王(後朱雀)が東宮に立つ。道長の血を引く皇子たちが皇位と東宮を占める体制が、ここで固まった。
十一歳の元服、新造内裏への遷御、道長の四女威子の入内と立后。国母の彰子と后の威子が姉妹であることを、語り手は「たぐひなき御榮え」とたたえる。題の「霜をへて菊の性をしる」「みどりの松、色を改むる事なし」は、どちらも変わらぬ節操と長寿を祝う題で、御代の繁栄を寿ぐ意味がある。
法成寺の金堂供養、朝覲の行幸、倫子の六十の賀、高陽院の競馬と、道長一家の栄華を彩る行事が次々に語られる。しかし最後に、東宮妃嬉子が皇子(後冷泉院)を産んで二日後に十九歳で亡くなる悲劇が置かれ、語り手は、生きて后となった姉たちよりも、天皇の母となった死後の栄誉のほうがまさると結ぶ。
語釈・文法注
- 後一條のみかど
- 第六十八代後一条天皇(1008〜1036)。名は敦成。一条天皇と彰子の子。
- 上東門院
- 藤原彰子(988〜1074)。道長の長女で一条天皇の中宮。後一条・後朱雀両天皇の母。
- 道長
- 藤原道長(966〜1027)。摂政・太政大臣。三人の娘を后に立て、摂関政治の全盛を築いた。
- 式部卿の親王
- 敦明親王(994〜1051)。三条天皇の皇子。東宮を自ら辞して小一条院と呼ばれた。
- 宇治のおとゞ
- 藤原頼通(992〜1074)。道長の長男。宇治に平等院を建てたので宇治殿と呼ばれる。
- 小一條院
- 敦明親王の院号。東宮を辞した代わりに上皇に准じる待遇を受けた。
- 堀河の女御
- 藤原顕光の娘延子。小一条院の妃。院が道長の娘寛子を迎えたため顧みられなくなり、嘆きのうちに亡くなった。
- きびは
- 幼くてか弱いさま。
- 威子
- 藤原威子(999〜1036)。道長の四女。後一条天皇の中宮。天皇の叔母にあたる。
- 國母
- 天皇の母。ここでは彰子。
- 桂を折る試み
- 文章生を選ぶ試験。「桂を折る」は中国の故事から、官吏登用の試験に及第することをいう。
- 無量壽院
- 道長が自邸の土御門殿の東に建てた阿弥陀堂。のちに寺域を広げて法成寺となった。
- きさきみところ
- 三人の后。太皇太后彰子・皇太后妍子・中宮威子で、みな道長の娘。
- 惠心
- 底本の頭注によれば「廻心(ゑしん)」で、廻心戒のこと。心をひるがえして大乗の菩薩戒を受けること。
- 法成寺
- 道長が建てた大寺院。治安二年(1022)に金堂が完成し、後一条天皇の行幸のもとで供養が行われた。
- 朝覲
- 天皇が上皇や母后の御所に行幸して拝礼すること。
- 高陽院
- 頼通の邸宅。広大な池庭で知られ、たびたび行幸があった。
- 源氏の中將
- 源師房(1008〜1077)。具平親王の子で、頼通の養子となった。村上源氏の祖。
- 東宮の御息所
- 藤原嬉子(1007〜1025)。道長の六女で東宮敦良親王の妃。親仁親王(後冷泉天皇)を産んで二日後に亡くなった。
文法
- のかせ給ひき
- 「のく」は位などから退く。尊敬の「せ給ふ」に過去の「き」。
- たもふ
- 「給ふ」を底本は「たもふ」と刷る。
- 惠心とかいひて
- 「とか」は伝聞・不確かさを表す。底本の頭注は「廻心」の宛字とみる。
- おはしまさぬあとのめでたさは
- 亡くなった後の栄誉。「おはしまさぬ」は「おはします」の未然形に打消「ぬ」で、この世にいらっしゃらない、の意。
解説
この章の題「雲井」は、後一条天皇の元服を「いとめづらかなる雲居のはる」と語る一句による。今鏡の章題は、このように本文中の印象的な言葉や歌の句から採られたものが多い。
後一条天皇の御代は、道長の娘たちが三后を占め、摂政・関白を道長・頼通が継いだ、摂関政治のもっとも安定した時期である。語り手は、こまかな出来事は「ふるき物語」(『栄花物語』や『大鏡』)に書かれているとしばしば断り、それらとの重複を避けながら、年月日を追って簡潔に記している。
嬉子の死を、生前の栄達よりも死後に天皇の母となったことのほうがめでたいとまとめる語り口には、天皇の母となることを何よりの幸いとする当時の価値観がよく表れている。後冷泉天皇の即位後、嬉子には皇太后が追贈された。
関連
出典
- 底本
- 関根正直『今鏡新註』 六合館、昭和2年(1927)、6〜11頁(コマ18–20)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日