古典ライブラリー

百人一首 第100首

百敷や

順徳院(じゅんとくいん)

宮中の古びた軒端に生えている忍ぶ草を見るにつけても、いくら偲んでも偲びきれないのは、天皇の御代が栄えていた昔のことだ。百人一首の最後の歌。

古びて荒れた宮中の建物の軒端に忍ぶ草が生い茂り、それを見上げながら、栄えていた昔の宮廷をしのぶ若い天皇(AI生成)
古びて荒れた宮中の建物の軒端に忍ぶ草が生い茂り、それを見上げながら、栄えていた昔の宮廷をしのぶ若い天皇
  1. 1ややや初句
  2. 2ふるきふるきふるきのきばのきばのきばののの二句
  3. 3にににももも三句
  4. 4なほなほなおあまりあまりあまりあるあるある四句
  5. 5なりなりなりけりけりけり結句

引用の仕方

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現代語訳

宮中の古びた軒端に生えている忍ぶ草を見るにつけても、(いくら偲んでも)なお偲びきれないほど慕わしいのは、(天皇の御代が栄えていた)昔のことであるよ。

意訳

宮中の古い建物の軒端に、忍ぶ草が生い茂っている。その荒れたさまを見るにつけ、天皇の力が強く、宮廷が華やかに栄えていた昔のことが、いくら偲んでも偲びきれないほど懐かしく思い出される、という歌である。

作者が20歳のころの作で、武士の世となり、朝廷の権威が衰えていくことへの嘆きがこめられている。この歌を詠んだ数年後、順徳院は父の後鳥羽院とともに承久の乱を起こし、敗れて佐渡に流された。王朝の栄華の終わりを告げるようなこの歌によって、百人一首は締めくくられる。天智天皇の「秋の田の」に始まった王朝和歌の歴史が、ここで幕を閉じるのである。

語釈・文法注

百敷
宮中、皇居。もとは「大宮」にかかる枕詞だったが、のちに宮中そのものを指すようになった。
しのぶ
軒端に生える「忍ぶ草」(シダの一種)と、昔を「偲ぶ」の掛詞。忍ぶ草が生えるのは、建物が古く荒れていることを表す。
昔
天皇が自ら政治を行い、宮廷が栄えていた古い時代。延喜・天暦の治(醍醐・村上天皇の時代)などが理想とされた。

文法

掛詞(しのぶ)
「忍ぶ草」と「偲ぶ」を掛ける。
気づきの「けり」
「昔なりけり」で、偲びきれないのは昔であると、深い感慨をこめて結ぶ。

和歌

詠者
順徳院(1197–1242)
第84代天皇。後鳥羽院(第99首)の第三皇子。父とともに承久の乱を起こしたが敗れ、佐渡に流されて、その地で20年余りを過ごして亡くなった。和歌に深く通じ、歌論書『八雲御抄』を著した。宮中の故実を記した『禁秘抄』もある。
出典
『続後撰和歌集』巻十八・雑下・1205(国歌大観番号)
状況
『続後撰和歌集』には「題しらず」として収める。御集『紫禁和歌草』によれば、1216年の作とされる。

修辞

掛詞
「しのぶ(忍ぶ草・偲ぶ)」。

解説

『百人一首一夕話』は、出典を新後撰集雑下とし、御集の『紫禁和歌草』に詠まれた年を記している。現在の通説では『続後撰和歌集』雑下に収められる歌である。また、百敷とは禁裏(宮中)のことで、帝の御徳の衰えたことを嘆いた歌であると解いている。

順徳院は、父の後鳥羽院の倒幕計画に積極的に加わるため、乱の直前に皇子の仲恭天皇に譲位した。乱後、佐渡に流され、21年後にその地で亡くなった。都に帰ることを願い続けたが、ついにかなわなかった。

順徳院の『八雲御抄』は、和歌の作法・歌語・歌枕などを集大成した歌論書で、後世の和歌研究に大きな影響を与えた。

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作者ゆかりの場所

出典

底本
尾崎雅嘉『百人一首一夕話』 天保4年(1833)刊、巻9。国立国会図書館デジタルコレクション
校合
古谷知新編『日本歴史図会』第12輯(百人一首一夕話) 国民図書、大正9–10年。国立国会図書館デジタルコレクション
松下大三郎・渡辺文雄編『国歌大観』歌集部 明治34–36年
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日