方丈記 第3章
養和の飢饉
養和のころ、日照りや大風・洪水が続いて二年にわたる大飢饉が起こり、翌年には疫病も加わって、都の路上は飢え死にした人であふれる。薪にするため寺の仏像を壊す者まで現れるなか、愛する者に食べ物を譲って先に死ぬ人々や、死者の額に阿字を書いて回った隆暁法印の姿が語られる。

- 1又又また養養よう和和わのののころころころかかかとととよよよ、、、久久ひさしくしくしくなりなりなりてててたしかたしかたしかにににももも覺覺おぼえええずずず、、、二二ふた年年とせががが間間あいだ、、、世世よののの中中なか飢飢き渴渴かつしてしてして、、、あさましきあさましきあさましきことことこと侍侍はべりりりききき。。。或或あるいははは春春はる夏夏なつ日日ひでりでりでり、、、或或あるいははは秋秋あき冬冬ふゆ大大おお風風かぜ、、、大大おお水水みずなどなどなどよからよからよからぬぬぬ事事ことどもどもどもうちうちうちつゞきつゞきつづきててて、、、五五ご穀穀こくことごとくことごとくことごとくみのらみのらみのらずずず。。。
- 2むなしくむなしくむなしく春春はる耕耕たがえししし、、、夏夏なつ植植ううるうるうるいとなみいとなみいとなみありありありててて、、、秋秋あきかりかりかり冬冬ふゆ收收おさむるむるむるはははなしなしなし。。。これこれこれににによりよりよりててて、、、國國くに々々ぐにののの民民たみ、、、或或あるいははは地地ちををを捨捨すてゝてゝてて堺堺さかいををを出出いででで、、、或或あるいははは家家いえをををわすれわすれわすれててて山山やまにににすむすむすむ。。。さまざまさまざまさまざまののの御御おおん祈祈いのりはじまりはじまりはじまりててて、、、なべてなべてなべてならならならぬぬぬ法法ほうどもどもども行行おこなははわるれるれるれどもどもども、、、さらにさらにさらにそのそのそのしるししるししるしなしなしなし。。。
- 3京京きょうのののならひならひならいなになになに事事ごとにににつけつけつけてててももも、、、みなもとみなもとみなもとははは田田い舍舍なかをををこそこそこそたのめたのめたのめるるるににに、、、絕絕たえええてててのぼるのぼるのぼるものものものなけれなけれなければばば、、、さささのみのみのみやややはははももも作作つくりりりあへあへあえむむん。。。念念ねんじじじわびわびわびつゝつゝつつ、、、さまざまさまざまさまざまののの寶寶たからものものもの、、、かたかたかたはしはしはしよりよりより捨捨すつるつるつるがががごとくごとくごとくすれすれすれどもどもども、、、さらにさらにさらに目目めみたつるみたつるみたつる人人ひともももなしなしなし。。。たまたまたまたまたまたま易易かふるふるうるものものものははは、、、金金こがねをををかろくかろくかろくししし、、、粟粟ぞくををを重重おもくくくすすす。。。乞乞こつ食食じき道道みちののの邊邊ほとりにににおほくおほくおおく、、、うれへうれへうれえ悲悲かなしむしむしむ聲聲こえ耳耳みみにににみてみてみてりりり。。。
- 4さきさきさきののの年年としかくかくかくののの如如ごとくくくからくからくからくしてしてして暮暮くれれれぬぬぬ。。。明明あくるくるくる年年としははは立立たちちちなほるなほるなおるべきべきべきかかかととと思思おもふふうににに、、、あまさへあまさへあまさええやみえやみえやみうちうちうちそひそひそいててて、、、まさるまさるまさるやうやうようにににあとあとあとかたかたかたなしなしなし。。。世世よののの人人ひとみなみなみな飢飢うゑゑえ死死じにににけれけれければばば、、、日日ひををを經經へつゝつゝつつきはまりきはまりきわまり行行ゆくくくさまさまさま、、、少少しょう水水すいののの魚魚うおのののににに叶叶かなへへえりりり。。。
- 5はてはてはてにににははは笠笠かさうちうちうちききき、、、足足あしひきひきひきつゝみつゝみつつみ、、、よろしきよろしきよろしき姿姿すがたしししたるたるたるものものもの、、、ひたすらひたすらひたすら家家いえごとごとごとににに乞乞こひひいありくありくありく。。。かくかくかくわびわびわびしれしれしれたるたるたるものものものどもどもどもありくありくありくかかかととと見見みれれればばば則則すなわちちち斃斃たおれれれふしふしふしぬぬぬ。。。ついついついのののつらつらつら、、、路路ろ頭頭とうににに飢飢うゑゑえ死死しぬるぬるぬるたぐひたぐひたぐいははは數數かずもももしらしらしらずずず。。。取取とりりり捨捨すつるつるつるわざわざわざもももなけれなけれなければばば、、、くさきくさきくさき香香か世世せ界界かいにににみちみちみちみちみちみちててて、、、かはりかはりかわり行行ゆくくくかたちかたちかたちありさまありさまありさま、、、目目めもももあてあてあてられられられぬぬぬことことこと多多おおかりかりかり。。。
- 6いはむやいはむやいわんや河河かわ原原らなどなどなどにににははは、、、馬馬うま車車くるまののの行行ゆきききちがふちがふちがう道道みちだにだにだにもももなしなしなし。。。しづしづしず、、、山山やまももも、、、力力ちからつきつきつきててて、、、薪薪たきぎにににさへさへさへともしくともしくともしくなりなりなりゆけゆけゆけばばば、、、たのむたのむたのむかたかたかたなきなきなき人人ひとははは、、、みづからみづからみずから家家いえをををこぼちこぼちこぼちててて市市いちににに出出いでゝでゝでてこれこれこれををを賣賣うるるるににに、、、一一ひと人人りがががもちもちもち出出いでででたるたるたるあたひあたひあたい、、、猶猶なお一一ひと日日ひががが命命いのちをををさゝふるさゝふるささうるにににだにだにだに及及およばばばずずずとととぞぞぞ。。。
- 7あやしきあやしきあやしき事事ことははは、、、かゝるかゝるかかる薪薪たきぎののの中中なかににに、、、つきつきつき、、、しろがねしろがねしろがねこがねこがねこがねのののはくはくはくなどなどなど所所ところ々々どころにににつきつきつきててて見見みゆるゆるゆる木木きのののわれわれわれあひあひあいまじれまじれまじれりりり。。。これこれこれををを尋尋たずぬれぬれぬればばばすべきすべきすべき方方かたなきなきなきものものものゝゝの、、、古古ふる寺寺でらににに至至いたりりりててて佛佛ほとけをををぬすみぬすみぬすみ、、、堂堂どうののの物物ものののの具具ぐをををやぶりやぶりやぶりとりとりとりててて、、、わりわりわりくだけくだけくだけるるるなりなりなりけりけりけり。。。濁濁じょく惡惡あくののの世世よにににしもしもしも生生うまれれれあひあひあいててて、、、かゝるかゝるかかる心心こころうきうきうきわざわざわざをををなむなむなん見見み侍侍はべりりりししし。。。
- 8又又またあはれあはれあわれなるなるなることことこと侍侍はべりりりききき。。。さりさりさりがたきがたきがたき女女め男男おとこなどなどなど持持もちちちたるたるたるものものものははは、、、そのそのその思思おもひひいまさりまさりまさりててて、、、心心こころざしざしざし深深ふかきききはははかならずかならずかならずさきだちさきだちさきだちててて死死ししししぬぬぬ。。。そのそのそのゆゑゆゑゆえははは、、、我我わががが身身みをををばばば次次つぎににになしなしなしててて、、、男男おとこにににもももあれあれあれ女女おんなにににもももあれあれあれ、、、いたはしくいたはしくいたわしく思思おもふふうかたかたかたににに、、、たまたまたまたまたまたま乞乞こひひい得得えたるたるたる物物ものををを、、、まづまづまずゆづるゆづるゆずるににによりよりよりてててなりなりなり。。。
- 9さればさればされば父父ふ子子しあるあるあるものものものはははさだまれさだまれさだまれるるる事事ことにににててて、、、親親おやぞぞぞさきだちさきだちさきだちててて死死しにににけるけるける。。。又又また母母ははががが命命いのちつきつきつきててて臥臥ふせせせるるるをををもももしらしらしらずずずしてしてして、、、いとけなきいとけなきいとけなき子子このののそのそのその乳乳ち房房ぶさににに吸吸すひひいつきつきつきつゝつゝつつ、、、ふせふせふせるるるなどなどなどもももありありありけりけりけり。。。
- 10仁仁にん和和な寺寺じににに、、、慈慈じ尊尊そん院院いんののの大大おお藏藏くら卿卿きょう隆隆りゅう曉曉ぎょう法法ほう印印いんととといふいふいう人人ひと、、、かくかくかくしししつゝつゝつつ、、、かずかずかずしらしらしらずずず死死しぬるぬるぬることことことをををかなしみかなしみかなしみててて、、、ひじりひじりひじりをををあまたあまたあまたかたらひかたらひかたらいつゝつゝつつ、、、そのそのその死死し首首しゅののの見見みゆるゆるゆるごとごとごとににに、、、額額ひたいににに阿阿あををを書書かきききててて、、、緣緣えんをををむすばむすばむすばしむるしむるしむるわざわざわざをををなむなむなんせせせられられられけるけるける。。。
- 11そのそのその人人ひと數數かずををを知知しらららむむんとてとてとて、、、四四し五五ご兩兩りょう月月がつがががほどほどほどかぞへかぞへかぞへたりたりたりけれけれければばば、、、京京きょうののの中中うち、、、一一いち條條じょうよりよりより南南みなみ、、、九九く條條じょうよりよりより北北きた、、、京京きょう極極ごくよりよりより西西にし、、、朱朱す雀雀ざくよりよりより東東ひんがし、、、道道みちのののほとりほとりほとりにににあるあるある頭頭かしら、、、すべてすべてすべて四四し萬萬まん二二に千千せん三三さん百百びゃくあまりあまりあまりなむなむなんありありありけるけるける。。。
- 12いはむやいはむやいわんやそのそのその前前ぜん後後ごににに死死しぬるぬるぬるものものもの多多おおくくく、、、河河かわ原原ら、、、白白しら河河かわ、、、にしにしにしののの京京きょう、、、もろもろもろもろもろもろののの邊邊へん地地じなどなどなどをををくはへくはへくわえててていはゞいはゞいわば際際さい限限げんもももあるあるあるべからべからべからずずず。。。いかにいかにいかにいはむやいはむやいわんや、、、諸諸しょ國國こく七七しち道道どうをををややや。。。
- 13近近ちかくくくははは崇崇す德德とく院院いんののの御御み位位くらいのののときときとき、、、長長ちょう承承しょうのののころころころかかかとととよよよ、、、かゝるかゝるかかるためしためしためしはははありありありけるけるけるととと聞聞きけけけどどど、、、そのそのその世世よのののありさまありさまありさまははは知知しらららずずず。。。まのあたりまのあたりまのあたりいといといとめづらかめづらかめずらかににに、、、かなしかりかなしかりかなしかりしししことことことなりなりなり。。。
現代語訳
また、養和のころだったか、長い年月がたってはっきりとも覚えていないが、二年のあいだ、世の中が飢饉になって、ひどいことがございました。あるときは春と夏に日照り、あるときは秋と冬に大風や洪水など、よくないことが続いて、穀物はまったく実らない。
むなしく春に田を耕し、夏に苗を植える営みはあっても、秋に刈り取り冬に収める賑わいはない。このため、諸国の民は、ある者は土地を捨てて国境を越え、ある者は家を捨てて山に住む。さまざまなご祈祷が始まって、並々でない修法も行われるけれど、まったくその効果がない。
京の暮らしのならわしは、何事につけても、もとは田舎を頼りにしているのに、まったく都へ上ってくる物がないので、そういつまでも体面をとりつくろってもいられようか。我慢しきれずに、さまざまな財宝を、片っ端から捨てるように売ろうとするけれど、まったく目をとめる人もいない。たまに交換する者は、金を安く見て、穀物を重んじる。乞食が道ばたに多く、嘆き悲しむ声が耳に満ちている。
前の年はこのようにしてやっとのことで暮れた。翌年は立ち直るだろうかと思っていると、そのうえ疫病まで加わって、いっそうひどくなり、跡形もないありさまである。世の人がみな飢え死にしたので、日がたつにつれて窮まっていくさまは、少ない水の中の魚のたとえにぴったりである。
しまいには、笠をかぶり、足を包み、相当な身なりをした者が、ひたすら家ごとに物乞いをして歩く。このように困りはてた者たちが、歩いているかと見ると、たちまち倒れ伏してしまう。土塀のそばや道ばたに飢え死にしている者のたぐいは数えきれない。死体を取り片づけるすべもないので、臭い匂いがあたりに満ちて、腐って変わっていく姿やありさまは、目も当てられないことが多い。
まして鴨川の河原などには、馬や車の行き交う道さえない。身分の低い者や木こりも、力が尽きて、薪にさえ事欠くようになったので、頼るところのない人は、自分で家を壊して市に出して売るが、一人が持ち出した薪の値は、それでも一日の命をつなぐのにさえ足りないということだ。
不審なことには、こうした薪の中に、赤い丹がつき、銀や金の箔などがところどころについて見える木の割れ端が混じっている。これを調べてみると、どうしようもなくなった者が、古寺に行って仏像を盗み、堂の仏具を壊し取って、割り砕いたものなのであった。濁りきった悪世に生まれ合わせて、このような情けない行いを見たのでございました。
また、哀れなことがございました。離れがたい妻や夫を持っている者は、その愛情がまさって、心ざしの深い者が必ず先に死んだ。そのわけは、自分のことは後回しにして、男であれ女であれ、いとしく思う相手に、たまたま手に入れた食べ物を、まず譲るからである。
それで親子でいる者は、決まって親のほうが先に死んだ。また母親の命が尽きて横たわっているのも知らないで、幼い子がその乳房に吸いついたまま、横になっていることもあった。
仁和寺に、慈尊院の大蔵卿隆暁法印という人が、このように数知れず人が死ぬことを悲しんで、僧を大勢誘っては、その死者の頭が見えるたびに、額に阿字を書いて、仏との縁を結ばせることをなさった。
その死者の数を知ろうとして、四月・五月の二か月のあいだ数えたところ、京の中、一条より南、九条より北、京極より西、朱雀大路より東の、道ばたにある頭は、全部で四万二千三百あまりもあったという。
ましてその前後に死んだ者も多く、また河原・白河・西の京や、そのほかの周辺の土地などを加えて言えば、際限もないであろう。まして諸国七道を加えたらどれほどであろうか。
近いところでは崇徳院のご在位のとき、長承のころだったか、このような例はあったと聞くが、その時代のありさまは知らない。目の前で見たのは、まことに例のない、悲しいことであった。
意訳
養和の飢饉(1181〜82年)は、源平の争乱のさなかに起こった。作者は、都の暮らしがいかに地方からの物資に頼っていたかを指摘し、財宝を差し出しても誰も見向きもせず、金より穀物が重んじられるという価値の逆転を描く。きちんとした身なりの人が家々を物乞いして歩き、歩いていたかと思うと倒れるという描写は、飢えが身分を問わず人々を襲ったことを伝えている。
薪にするために寺の仏像を割り砕くという話に、作者は「濁悪の世」、つまり末法の世のきわみを見ている。しかしこの章で最も心を打つのは、愛する者に食べ物を譲って先に死んでいく人々と、死んだ母の乳房に吸いつく幼子の姿である。悲惨な光景の中に、人の情愛の深さが浮かび上がる。
隆暁法印が二か月で数えた四万二千三百あまりという死者の数は、都の一部だけのものである。作者はそこから、周辺や諸国を加えればどれほどになるかと想像を広げ、被害の途方もない大きさを読者に示している。
語釈・文法注
- ぞめき
- にぎわい。騒がしく浮かれること。収穫の喜びのにぎわいをいう。
- みさを
- 操。ふだんどおりの態度、体面。「みさをも作りあへむ」で、平気なふりをしていられようか、の意。
- 少水の魚
- 水の少ない所にいる魚。死が迫っていることのたとえ。『往生要集』などに引かれる仏典の言葉。
- ついひぢ
- 築地。土を盛って固め、屋根をかけた塀。
- 山がつ
- 木こりなど、山で暮らす身分の低い人。前の「しづ」も身分の低い者をいう。
- に
- 丹。赤い色の顔料。仏像や仏具に塗られた朱の色。
- 阿字
- 梵字の最初の字「阿」。密教で万物の根源を表すとされ、死者の額に書いて成仏の縁を結ばせた。
文法
- 「さのみやはみさをも作りあへむ」
- 「やは」は反語。「あへ」は「敢ふ」の未然形で、最後まで…しきれる、の意。そういつまでも平気な顔をしていられようか、いや、できない。
- 「あまさへ」
- 「あまりさへ」の変化した形で、そのうえ、おまけに、の意。のちに「あまつさへ」となる。
- 「親ぞさきだちて死にける」
- 係助詞「ぞ」の結びで、過去の助動詞「けり」が連体形「ける」になる。
- 「四萬二千三百あまりなむありける」
- 係助詞「なむ」の結びで「ける」と連体形になる。数の多さを強調している。
- 「いかにいはむや、諸國七道をや」
- 「いはむや…をや」は、まして…はなおさらだ、の意の漢文訓読調の言い回し。
解説
養和の飢饉は、治承四年(1180)から翌年にかけての干ばつに始まり、西日本を中心に深刻な被害をもたらした。源平の争乱のさなかで、平家が西国の兵糧に頼れなくなったことが、のちの都落ちの一因になったともいわれる。作者は「養和のころかとよ、久しくなりてたしかにも覺えず」と記憶のあいまいさを断るが、描写の具体性は体験者ならではのものである。
隆暁法印は仁和寺の僧で、源俊隆の子。死者の額に阿字を書いて回ったという話は、この『方丈記』によって伝えられている。四万二千三百という数字は、当時の都の人口から考えて、被害がいかに大きかったかを示している。
作者が最後に「崇徳院の御位のとき、長承のころ」の飢饉を引き合いに出すのは、伝え聞いた昔の例と自分の目で見た現実とを比べ、後者の悲惨さを際立たせるためである。「まのあたりいとめづらかに、かなしかりしことなり」という結びには、目撃者としての実感がこもっている。
関連
出典
- 底本
- 丸岡桂・松下大三郎編『国文大観』日記草子部(方丈記) 板倉屋書房、明治36年(1903)、544–546頁(コマ284–285)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日