平家物語 灌頂巻
六道の沙汰の事
女院は涙をおさえて法皇と対面し、法皇は天人にも五衰の悲しみがあると世の無常を語った。女院は、出家の身となったことは後生のためには喜びであると答え、自らの生涯を仏法の六道になぞらえて語った。国母として栄華をきわめた日々は天上界、都を落ちて西海をさまよい、太宰府も追われて清経を失ったのは人間界の苦しみ、水も飲めない船上の日々は餓鬼道、一の谷以後の合戦は修羅道であった。壇の浦では二位の尼が幼い先帝を抱いて「波の底にも都がございます」と慰めつつ入水し、残された者の叫びは地獄のようであった。明石の浦では、先帝と一門が龍宮城にいる夢を見て、畜生道も見たと思った。法皇は、生きながら六道を見たのはまれなことだと感じ入った。
- 1「「「世世よをををいとふいとふいとう御御おんならひならひならい、、、何何なにかかか苦苦くるしうしうしゅう候候そうろうべきべきべき。。。はや〳〵はや〳〵はやはや御御ご見見けん參參ざんあつあつあっててて還還かん御御ぎょなしなしなしまゐらさまゐらさまいらさせせせ候候そうらへへえ。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、女女にょう院院いん御御おん涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて、、、御御おん庵庵あん室室しつににに入入いらららせせせおはしますおはしますおわします。。。「「「一一いち念念ねんののの窗窗まどののの前前まえにににははは攝攝せつ取取しゅののの光光こう明明みょうををを期期ごししし、、、十十じゅう念念ねんののの柴柴しばののの樞樞とぼそにににははは聖聖しょう衆衆じゅののの來來らい迎迎ごうをををこそこそこそ待待まちちちつるつるつるににに、、、思思おもひひいののの外外ほかののの御御ご幸幸こうかなかなかな。。。」」」とととててて御御ご見見けん參參ざんありありありけりけりけり。。。法法ほう皇皇おう、、、このこのこの御御おん有有あり樣樣さまををを叡叡えい覽覽らんあつあつあっててて、、、仰仰おおせせせなりなりなりけるけるけるははは、、、「「「悲悲ひ想想そうののの八八はち萬萬まん劫劫ごう、、、猶猶なお必必ひっ滅滅めつののの憂憂うれへへえにににあひあひあい、、、欲欲よく界界かいののの六六ろく天天てん、、、未未いまだだだ五五ご衰衰すいののの悲悲かなしみしみしみををを免免まぬかれれれずずず。。。喜喜き見見けん城城じょうののの勝勝しょう妙妙みょうののの樂樂らく、、、中中ちゅう閒閒げん禪禪ぜんののの高高こう臺臺だいののの閣閣かく、、、夢夢ゆめののの中中うちののの果果か報報ほう、、、又又また幻幻まぼろしののの閒閒あいだののの樂樂たのしみしみしみ、、、既既すでににに流流る轉轉てん無無む窮窮きゅうなりなりなり。。。車車しゃ輪輪りんののの廻廻めぐるるるががが如如ごとししし。。。天天てん人人にんののの五五ご衰衰すいののの悲悲かなしみしみしみ、、、人人にん閒閒げんにににももも候候そうらひひいけるけるけるものものものかなかなかな。。。さるさるさるにににてててももも誰誰たれかかかことことこととひとひとい參參まいらららせせせ候候そうろう。。。何何なに事事ごとにににつけつけつけてててももも、、、さささこそこそこそ古古いにしえをををのみのみのみこそこそこそ思思おぼし召召めししし出出いづづずらめらめらめ。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、女女にょう院院いん、、、「「「いづかたいづかたいずかたよりよりよりもももおとづるゝおとづるゝおとずるる事事ことももも候候そうらははわずずず。。。信信のぶ隆隆たか、、、隆隆たか房房ふさののの卿卿きょうののの北北きたののの方方かたよりよりより、、、たえ〴〵たえ〴〵たえだえ申申もうししし送送おくるるる事事ことこそこそこそ候候そうらへへえ。。。そのそのその昔昔むかしあのあのあの人人ひと共共どものののはぐゝみはぐゝみはぐくみにににてててあるあるあるべしべしべしとととははは、、、つゆつゆつゆももも思思おぼし召召めしししよらよらよらざりざりざりしししものものものををを。。。」」」とととててて、、、御御おん涙涙なみだををを流流ながさささせせせ給給たまへへえばばば、、、つきつきつき參參まいらららせせせたるたるたる女女にょう房房ぼうたちたちたちももも、、、皆皆みな袖袖そでをををぞぞぞぬらさぬらさぬらされれれけるけるける。。。
- 2やゝやゝややあつあつあっててて女女にょう院院いん涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて申申もうさささせせせ給給たまひひいけるけるけるははは、、、「「「今今いま斯斯かかるかるかる身身みににになりなりなり候候そうろうことことことははは一一いっ旦旦たんのののなげきなげきなげき、、、申申もうすすすににに及及およびびび候候そうらははわねねねどもどもども、、、後後ご生生しょう菩菩ぼ提提だいののの爲爲ためにににははは、、、喜喜よろこびびびととと覺覺おぼえええ候候そうろうなりなりなり。。。忽忽たちまちちちににに釋釋しゃ迦迦かののの遺遺ゆい弟弟ていににに連連つらなりりり、、、忝忝かたじけなくくくももも彌彌み陀陀だののの本本ほん願願がんににに乘乘じょうじじじててて、、、五五ご障障しょう三三さん從從じゅうののの苦苦くるしみしみしみををを遁遁のがれれれ、、、三三さん時時じににに六六ろく根根こんををを淸淸きよめめめててて、、、一一ひと筋筋すじににに九九く品品ほんののの淨淨じょう刹刹せつををを願願ねがひひい、、、專專もっぱららら一一いち門門もんののの菩菩ぼ提提だいををを祈祈いのりりり、、、常常つねにににははは聖聖しょう衆衆じゅののの來來らい迎迎ごうををを期期ごすすす。。。いついついつののの世世よにににももも忘忘わすれれれ難難がたきききははは先先せん帝帝ていののの御御おん面面おも影影かげ、、、忘忘わすれれれんんんとととすれすれすれどもどもども忘忘わすららられれれずずず、、、忍忍しのばばばんんんとととすれすれすれどもどもども忍忍しのばばばれれれずずず。。。たゞたゞただ恩恩おん愛愛あいののの道道みちほどほどほど悲悲かなしかりしかりしかりけるけるける事事ことはははなしなしなし。。。されされさればばばかのかのかの御御ご菩菩ぼ提提だいののの爲爲ためににに、、、朝朝あさ夕夕ゆうののの勤勤つとめめめ怠怠おこたるるる事事こと候候そうらははわずずず。。。これこれこれももも然然しかるるるべきべきべき善善ぜん知知じ識識しきととと覺覺おぼえええ候候そうろう。。。」」」ととと申申もうさささせせせ給給たまへへえばばば、、、法法ほう皇皇おう仰仰おおせせせなりなりなりけるけるけるははは、、、「「「それそれそれわがわがわが國國くにははは粟粟ぞく散散さん邊邊へん土土どなりなりなりととといへいへいえどもどもども、、、忝忝かたじけなくくくももも十十じゅう善善ぜんののの餘餘よ薰薰くんににに答答こたへへえ、、、萬萬ばん乘乘じょうののの主主あるじとととなりなりなり、、、隨隨ずい分分ぶん一一ひとつつつとととしししててて心心こころにににかなはかなはかなわずずずととといふいふいう事事ことなしなしなし。。。就就なかん中中ずく佛佛ぶつ法法ぽう流流る布布ふののの世世よににに生生うまれれれててて、、、佛佛ぶつ道道どう修修しゅ行行ぎょうののの志志こころざしあれあれあればばば、、、後後ご生生しょう善善ぜん所所しょ疑疑うたがひひいあるあるあるまじきまじきまじき事事ことなれなれなればばば、、、人人にん閒閒げんのののあだあだあだなるなるなるならひならひならい、、、今今いま更更さら驚驚おどろくくくべきべきべきにににははは候候そうらははわねねねどもどもども、、、御御おんありさまありさまありさま見見み參參まいらららせせせ候候そうろうににに、、、せせせんんん方方かたなくなくなくこそこそこそ候候そうらへへえ。。。」」」とととててて、、、御御おん涙涙なみだせきせきせきあへあへあえさせさせさせ給給たまははわずずず。。。
- 3女女にょう院院いんかさねかさねかさねててて申申もうさささせせせ給給たまひひいけるけるけるははは、、、「「「わがわがわが身身み平平へい相相しょう國國こくののの女女むすめとととしししててて、、、天天てん下下かののの國國こく母母もとととなりなりなりしかしかしかばばば、、、一一いっ天天てん四四し海海かいはははみなみなみな掌掌たなごころのののまゝまゝままなりなりなりききき。。。されされさればばば拜拜はい禮禮らいののの春春はるののの始始はじめよりよりより、、、いろ〳〵いろ〳〵いろいろののの衣衣ころもがへがへがえ、、、佛佛ぶつ名名みょうののの年年としののの暮暮くれ、、、攝攝せつ籙籙ろく以以い下下げののの大大だい臣臣じん、、、公公く卿卿ぎょうにににもてなさもてなさもてなされれれしししありさまありさまありさまははは、、、六六ろく欲欲よく四四し禪禪ぜんののの雲雲くもののの上上うえにににててて、、、八八はち萬萬まんののの諸諸しょ天天てんににに圍圍い繞繞にょうせせせられられられ候候そうろうらんらんらんやうやうようににに、、、百百ひゃく官官かん悉悉ことごとくくく仰仰あおがががぬぬぬ者者ものややや候候そうらひひいししし。。。淸淸せい涼涼りょう、、、紫紫し宸宸しんののの床床ゆかののの上上うえ、、、玉玉たまののの簾簾すだれののの内内うちにににもてなさもてなさもてなされれれ、、、春春はるははは南南なん殿殿でんののの櫻櫻さくらににに心心こころをををとめとめとめててて日日ひををを暮暮くらししし、、、九九きゅう夏夏か三三さん伏伏ぷくののの暑暑あつききき日日ひははは、、、泉泉いずみををを掬掬むすんんんででで心心こころををを慰慰なぐさみみみ、、、秋秋あきははは雲雲くもののの上上うえののの月月つきをををひとりひとりひとり見見みんんん事事ことををを許許ゆるささされれれずずず。。。玄玄げん冬冬とう素素そ雪雪せつののの寒寒さむききき夜夜よははは、、、衾衾ふすまををを重重かさねねねててて暖暖あたたかかかにににすすす。。。長長ちょう生生せい不不ふ老老ろうののの術術じゅつををを願願ねがひひい、、、蓬蓬ほう萊萊らいににに不不ふ死死しののの藥藥くすりををを尋尋たずねねねてててももも、、、たゞたゞただ久久ひさしからしからしからんんん事事ことををを思思おもへへえりりり。。。あけあけあけてててももも暮暮くれれれてててももも樂樂たのしみしみしみ榮榮さかえええ候候そうらひひいしししことことこと、、、天天てん上上じょうののの果果か報報ほうもももこれこれこれにににははは過過すぎぎぎじじじとととこそこそこそ覺覺おぼえええ候候そうらひひいしかしかしか。。。偖偖さてももも壽壽じゅ永永えいののの秋秋あきののの始始はじめめめ、、、木木き曾曾そ義義よし仲仲なかとととかやかやかやににに襲襲おそははわれれれててて、、、一一いち門門もんののの人人ひと々々びと、、、住住すみみみなれなれなれししし都都みやこをををばばば雲雲くも居居いのののよそよそよそににに顧顧かえりみみみててて、、、故故ふる鄕鄕さとををを燒燒やけ野野のががが原原はらとととうちうちうち眺眺ながめめめ、、、古古いにしえははは名名なをををのみのみのみ聞聞ききききししし、、、須須す磨磨まよりよりより明明あか石石しののの浦浦うらづたひづたひづたい、、、さすがさすがさすがあはれあはれあわれににに覺覺おぼえええててて、、、晝晝ひるははは漫漫まん々々まんたるたるたる大大だい海海かいににに、、、波波なみ路路じをををわけわけわけててて袖袖そでをををぬらしぬらしぬらし、、、夜夜よるははは洲洲す崎崎さきののの千千ち鳥鳥どりととと共共ともににに鳴鳴なきききあかすあかすあかす。。。浦浦うら々々うら島島しま々々じま、、、よしよしよしあるあるある所所ところををを見見みしかしかしかどもどもども、、、故故ふる鄕鄕さとののの事事ことをををばばば忘忘わすららられれれずずず。。。」」」
- 4「「「かくかくかくててて寄寄よるるる方方かたなかりなかりなかりしししははは、、、五五ご衰衰すい必必ひっ滅滅めつののの悲悲かなしみしみしみとととこそこそこそ覺覺おぼえええ候候そうらひひいしかしかしか。。。凡凡およそそそ、、、人人にん閒閒げんののの事事ことははは愛愛あい別別べつ離離り苦苦く、、、怨怨おん憎憎ぞう會會え苦苦く、、、四四し苦苦く八八はっ苦苦く、、、共共ともににに一一ひとつとととしししててて、、、わがわがわが身身みににに知知しららられれれててて殘殘のこるるる所所ところももも候候そうらははわずずず。。。偖偖さてももも筑筑ちく前前ぜんののの國國くに太太だ宰宰ざい府府ふとととかやかやかやににに著著ついいいててて、、、少少すこししし心心こころををを延延のべべべしかしかしかばばば、、、維維これ義義よしとととかやかやかやににに九九く國國こくののの内内うちをををももも追追おひひい出出いだささされれれ、、、山山さん野野や廣廣ひろしししととといへいへいえどもどもども、、、立立たち寄寄よりりり休休やすむむむべきべきべき所所ところもももなしなしなし。。。同同おなじじじ秋秋あきののの暮暮くれにににもももなりなりなりしかしかしかばばば、、、昔昔むかしははは九九ここの重重へののの雲雲くもののの上上うえにににててて見見みししし月月つきををを、、、八八や重重へののの潮潮しお路路じにににながめながめながめつゝつゝつつ、、、あかしあかしあかし暮暮くらししし候候そうらひひいししし程程ほどににに、、、神神かみ無無な月月づきののの頃頃ころほひほひおい、、、淸淸きよ經經つねののの中中ちゅう將將じょうががが、、、都都みやこをををばばば源源げん氏氏じががが爲爲ためににに攻攻せめめめ落落おとささされれれ、、、鎭鎭ちん西西ぜいをををばばば維維これ義義よしががが爲爲ためににに追追おひひい出出いださささるるる。。。網網あみにににかゝれかゝれかかれるるる魚魚うおののの如如ごとししし。。。何何いず處處くへへへ行行ゆかかかばばば遁遁のがるるるべきべきべきかかかははは。。。ながらへながらへながらへはつはつはつべきべきべき身身みにににもももあらあらあらずずずとととててて、、、海海うみににに沉沉しずみみみ候候そうらひひいししし。。。これこれこれぞぞぞ憂憂うききき事事ことののの始始はじめめめにににてててははは候候そうらひひいしかしかしか。。。波波なみののの上上うえにににててて日日ひををを暮暮くらししし、、、船船ふねののの中中うちにににててて夜夜よをををあかすあかすあかす。。。貢貢みつぎ物物ものもももなけれなけれなければばば供供く御御ごををを備備そなふるふるうる事事こともももなくなくなく、、、たま〳〵たま〳〵たまたま供供く御御ごををを備備そなへへえんんんとととすれすれすれどもどもども、、、水水みずなけれなけれなければばば參參まいらららずずず。。。大大だい海海かいににに浮浮うかむむむととといへいへいえどもどもども、、、潮潮うしおなれなれなればばば飮飮のむむむ事事ことなしなしなし。。。これこれこれまたまたまた餓餓が鬼鬼き道道どうののの苦苦くるしみしみしみとととこそこそこそ覺覺おぼえええ候候そうらひひいしかしかしか。。。」」」
- 5「「「かくかくかくててて室室むろ山山やま、、、水水みず島島しま、、、二二に箇箇か度度どののの軍軍いくさににに勝勝かちちちしかしかしかばばば、、、一一いち門門もんののの人人ひと々々びと、、、少少すこししし色色いろ直直なおつつっててて見見みえええ候候そうらひひいしかしかしかばばば、、、攝攝せっ津津つののの國國くに一一いちののの谷谷たにとととかやかやかやににに城城じょう郭郭かくををを構構かまへへえ、、、各各おのおの直直なお衣衣し束束そく帶帶たいををを引引ひきききかへかへかえててて、、、鐵鐵くろがねをををのべのべのべててて身身みににに纏纏まとひひい、、、あけあけあけてててももも暮暮くれれれてててももも、、、軍軍いくさよばひよばひよばいののの聲聲こえののの絶絶たゆるゆるゆる事事こともももなかりなかりなかりしししははは、、、修修しゅ羅羅らののの鬪鬪とう諍諍じょう、、、帝帝たい釋釋しやくののの爭爭あらそひひいももも、、、これこれこれにににははは過過すぎぎぎじじじとととこそこそこそ覺覺おぼえええ候候そうらひひいしかしかしか。。。一一いちののの谷谷たにををを攻攻せめめめ落落おとささされれれててて後後のち、、、親親おやははは子子こにににおくれおくれおくれ妻妻めははは夫夫おつとににに別別わかるるる沖沖おきににに釣釣つりするするする船船ふねをををばばば、、、敵敵かたきののの船船ふねかかかととと肝肝きもををを消消けししし、、、遠遠とおききき松松まつににに白白しろききき鷺鷺さぎののの羣羣むれれれゐるゐるいるををを見見みてててははは、、、源源げん氏氏じののの旗旗はたかかかととと心心こころをををつくすつくすつくす。。。かくかくかくててて門門も司司じ、、、赤赤あか閒閒ま、、、壇壇だんののの浦浦うらののの軍軍いくさににに、、、既既すでににに今日今日きょうををを限限かぎりりりととと見見みえええしかしかしかばばば、、、二二に位位いののの尼尼あま泣泣なく〳〵く〳〵くなく申申もうししし候候そうらひひいしししははは、、、『『『このこのこの世世よののの中中なかののの有有あり樣樣さま、、、今今いまはははかうかうこうととと覺覺おぼゆるゆるゆるなりなりなり。。。今今こん度度どののの軍軍いくさににに、、、男男おとこののの命命いのちののの生生いききき殘殘のこらららんんん事事ことははは、、、千千せん萬萬まんががが一一いちもももありがたしありがたしありがたし。。。たとひたとひたといまたまたまた遠遠とおきききゆかりゆかりゆかりははは、、、おのづからおのづからおのずから生生いききき殘殘のこるるる事事ことありありありととといふいふいうともともとも、、、わらはわらはわらわががが後後ご生生しょう弔弔とぶらははわんんん事事こともももありがたしありがたしありがたし。。。昔昔むかしよりよりより女女おんなははは殺殺ころさささぬぬぬならひならひならいなれなれなればばば、、、いかにいかにいかにもももしししてててながらへながらへながらへててて、、、主主しゅ上上じょうののの御御ご菩菩ぼ提提だいををを弔弔とぶらひひい、、、われわれわれらららががが後後ご生生しょうをををももも助助たすけけけ給給たまへへえ。。。』』』ととと申申もうししし候候そうらひひいしししををを、、、夢夢ゆめののの心心ここちちちしししててて覺覺おぼえええ候候そうらひひいししし程程ほどににに、、、風風かぜ忽忽たちまちちちににに吹吹ふききき、、、浮浮ふ雲雲うんあつくあつくあつくたなびきたなびきたなびき、、、兵兵つわものどもどもどもののの心心こころををを迷迷まどははわししし、、、天天てん運運うん盡盡つきききててて、、、人人ひとののの力力ちからにににももも及及およびびび難難がたししし。。。」」」
- 6「「「既既すでにににかうかうこうととと見見みえええしかしかしかばばば、、、二二に位位いののの尼尼あま先先せん帝帝ていををを抱抱いだききき參參まいらららせせせててて舷舷ふなばたににに出出いでででししし時時とき、、、呆呆あきれれれたるたるたる御御おんありさまありさまありさまにににててて、、、『『『そも〳〵そも〳〵そもそも尼尼あま前前ぜわれわれわれをををばばばいづちいづちいずちへへへ具具ぐしししててて行行ゆかかかんんんずるずるずるぞぞぞ。。。』』』ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、二二に位位いののの尼尼あま涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながいいいててて、、、幼幼いとけなききき君君きみににに向向むかひひいまゐらせまゐらせまいらせててて、、、『『『君君きみははは未未いまだだだ知知しろし召召めささされれれ候候そうらははわずずずややや。。。前前ぜん世世せののの十十じゅう善善ぜん戒戒かい行行ぎょうののの御御おん力力ちからににに依依よつつっててて、、、今今いま萬萬ばん乘乘じょうののの主主あるじとととははは生生うまれれれさせさせさせたまへたまへたまえどもどもども、、、惡惡あく緣緣えんににに引引ひかかかれれれててて、、、御御ご運運うん既既すでににに盡盡つきききさせさせさせ給給たまひひい候候そうらひひいぬぬぬ。。。まづまづまず東東ひがしににに向向むかははわせせせ給給たまひひいててて、、、伊伊い勢勢せ大大だい神神じん宮宮ぐう伏伏ふししし拜拜おがままませせせおはしましおはしましおわしましててて、、、そのそのその後後のち西西さい方方ほう淨淨じょう土土どののの來來らい迎迎ごうににに預預あずからららんんんととと、、、誓誓ちかははわせせせおはしましおはしましおわしましててて、、、御御おん念念ねん佛佛ぶつ候候そうろうべしべしべし。。。このこのこの國國くにははは粟粟ぞく散散さん邊邊へん土土どととと申申もうしししててて、、、心心こころうきうきうき境境さかいにににててて候候そうろう。。。あのあのあの波波なみののの底底そこにににこそこそこそ極極ごく樂樂らく淨淨じょう土土どととと申申もうしししててて、、、めでたきめでたきめでたき都都みやこののの候候そうろう。。。それそれそれへへへ具具ぐししし參參まいらららせせせ候候そうろうぞぞぞ。。。』』』ととと、、、樣樣よう々々ようににに慰慰なぐさめめめまゐらせまゐらせまいらせしかしかしかばばば、、、山山やま鳩鳩ばと色色いろののの御御ぎょ衣衣いににに、、、びんづらびんづらびんずらゆはゆはゆわせせせ給給たまひひいててて、、、御御おん涙涙なみだにににおぼれおぼれおぼれ、、、小小ちいさうさうそう美美うつくしきしきしき御御おん手手てををを合合あははわせせせ、、、まづまづまず東東ひがしににに向向むかははわせせせ給給たまひひいててて、、、伊伊い勢勢せ大大だい神神じん宮宮ぐうににに御御おん暇暇いとま申申もうさささせせせ給給たまひひい、、、そのそのその後後のち西西にしににに向向むかははわせせせ給給たまひひいててて御御おん念念ねん佛佛ぶつありありありしかしかしかばばば、、、二二に位位いののの尼尼あま、、、先先せん帝帝ていををを抱抱いだききき參參まいらららせせせててて、、、海海うみににに沉沉しずみみみしししありさまありさまありさま、、、目目めもももくれくれくれ、、、心心こころももも消消きえええはてはてはてててて、、、忘忘わすれれれんんんとととすれすれすれどもどもども忘忘わすららられれれずずず。。。忍忍しのばばばんんんとととすれすれすれどもどもども忍忍しのばばばれれれずずず。。。かくかくかくててて生生いききき殘殘のこりりりたるたるたる者者ものどもどもどもののの、、、をめきをめきおめき叫叫さけびびびしししありさまありさまありさまははは、、、叫叫きょう喚喚かん、、、大大だい叫叫きょう喚喚かん、、、無無む閒閒けん阿阿あ鼻鼻び、、、炎炎ほのおののの底底そこののの罪罪ざい人人にんももも、、、これこれこれにににははは過過すぎぎぎじじじとととこそこそこそ覺覺おぼえええしかしかしか。。。」」」
- 7「「「さてさてさて武武もの夫夫ふ共共どものののあらけなきあらけなきあらけなきににに捕捕とらははわれれれててて、、、上上のぼりりり候候そうらひひいししし程程ほどににに、、、播播はり磨磨まののの國國くに明明あか石石しののの浦浦うらとととかやかやかやににに著著ついいいててて、、、ちとちとちとまどろみまどろみまどろみたりたりたりししし夢夢ゆめににに、、、昔昔むかしののの内内だい裏裏りにににははは遙遙はるかかかににに優優まさりりりたるたるたる所所ところににに、、、先先せん帝帝ていををを始始はじめめめ參參まいらららせせせててて、、、一一いち門門もんののの月月げつ卿卿けい雲雲うん客客かく、、、各各おのおのゆゝしげゆゝしげゆゆしげなるなるなる禮禮れい儀儀ぎどもどもどもにににててて竝竝なみみみゐゐいたりたりたり。。。都都みやこををを出出いでででててて後後のち、、、未未いまだだだ斯斯かかるかるかる所所ところををを見見みずずず。。。こゝこゝここをををばばばいづくいづくいずくととといふいふいうぞぞぞととと問問とひひい候候そうらひひいしかしかしかばばば、、、二二に位位いののの尼尼あま答答こたへへえ申申もうししし候候そうらひひいしししははは、、、龍龍りゅう宮宮ぐう城城じょうととと申申もうすすす所所ところなりなりなり。。。さてさてさてはははめでたきめでたきめでたき所所ところかなかなかな、、、このこのこの國國くにににに苦苦くはははなきなきなきやらんやらんやらんととと問問とひひい候候そうらひひいつれつれつればばば、、、龍龍りゅう畜畜ちく經經きょうににに見見みえええててて候候そうろう、、、後後ご世世せよく〳〵よく〳〵よくよく弔弔とぶらははわせせせ給給たまへへえととと申申もうすすすととと覺覺おぼえええててて、、、夢夢ゆめさめさめさめぬぬぬ。。。そのそのその後後のちははは彌彌いよいよ經經きょう讀讀よみみみ念念ねん佛佛ぶつしししててて、、、かのかのかの御御ご菩菩ぼ提提だいををを弔弔とぶらひひい奉奉たてまつるるる。。。これこれこれひとへひとへひとえににに六六ろく道道どうににに違違たがははわじじじとととこそこそこそ覺覺おぼえええ候候そうらへへえ。。。」」」ととと申申もうさささせせせ給給たまへへえばばば、、、法法ほう皇皇おう仰仰おおせせせなりなりなりけるけるけるははは、、、「「「異異い國國こくののの玄玄げん弉弉ぞう三三さん藏藏ぞうははは悟悟さとりりりののの前前まえににに六六ろく道道どうををを見見みききき。。。わがわがわが朝朝ちょうののの日日にち藏藏ぞう上上しょう人人にんははは藏藏ざ王王おう權權ごん現現げんののの御御おん力力ちからににに依依よつつっててて、、、六六ろく道道どうををを見見みたりたりたりとととこそこそこそ承承うけたまわれれれ。。。まのあたりまのあたりまのあたり御御ご覽覽らんぜぜぜられられられけるけるけるこそこそこそありがたうありがたうありがとう候候そうらへへえ。。。」」」とととぞぞぞ仰仰おおせせせけるけるける。。。
現代語訳
「世をいとうお暮らしとはいえ、何のさしつかえがございましょう。早くご対面なさって、お帰りいただくようにしてください」と申されたので、女院は涙をおさえて御庵室にお入りになった。「一念の窓の前では仏の摂取の光明を待ち望み、十念の柴の戸では聖衆の来迎をこそ待っておりましたのに、思いがけない御幸でございます」と言ってご対面になった。法皇はこのご様子をご覧になって仰せになるには、「非想天の八万劫の寿命も、なお必ず滅びる憂いにあい、欲界の六天もまだ五衰の悲しみを免れない。喜見城のすばらしい楽しみも、中間禅の高台の楼閣も、夢の中の果報、幻の間の楽しみで、すべて流転してきわまりない。車輪が回るようなものである。天人の五衰の悲しみが、人間にもあったのだなあ。それにしても誰かお見舞いに参りますか。何事につけても、さぞ昔のことばかり思い出されるでしょう」と仰せになると、女院は「どなたからも訪れはございません。信隆・隆房卿の北の方から、ときおり便りがあるばかりです。昔は、あの人たちの世話になろうとは露ほども思いませんでしたのに」と言って涙を流されたので、お仕えする女房たちも皆袖を濡らした。
しばらくして女院が涙をおさえて申されるには、「今このような身になりましたことは、ひとたびの嘆きとして申すまでもございませんが、後生の菩提のためには喜びと思っております。たちまち釈迦の遺弟に連なり、かたじけなくも弥陀の本願に乗じて、五障三従の苦しみを逃れ、三時に六根を清めて、ひたすら九品の浄土を願い、もっぱら一門の菩提を祈り、いつも聖衆の来迎を待っております。いつの世にも忘れがたいのは先帝の面影で、忘れようとしても忘れられず、こらえようとしてもこらえきれません。ただ親子の情愛ほど悲しいものはございません。ですからあの御方の菩提のために、朝夕の勤めを怠ることはございません。これもしかるべき仏道への導きと思っております」と申されると、法皇が仰せになるには、「そもそもわが国は粟粒を散らしたような辺地の小国ではあるが、かたじけなくも前世の十善の余徳に応じて万乗の主となり、何一つとして思いどおりにならないことはない。とりわけ仏法の広まった世に生まれて、仏道修行の志があるのだから、後生に善い所に生まれることは疑いないので、人の世のはかなさは今さら驚くことではないが、このご様子を拝見すると、どうしようもなく悲しい」と言って、涙をおさえきれなかった。
女院が重ねて申されるには、「わが身は平相国の娘として天下の国母となりましたので、天下はすべて掌の中のように思いのままでした。ですから拝礼の春の初めから、季節ごとの衣替え、仏名会の年の暮れまで、摂政・関白以下の大臣や公卿にもてなされたありさまは、六欲天・四禅天の雲の上で八万の天人に取り囲まれるようで、百官のうち仰ぎ見ない者があったでしょうか。清涼殿・紫宸殿の床の上、玉の簾の内でもてなされ、春は南殿の桜に心を寄せて日を暮らし、夏の盛りの暑い日は泉の水を汲んで心を慰め、秋は雲の上の月を一人で見ることも許されず、冬の雪の寒い夜は衾を重ねて暖かく過ごしました。長生不老の術を願い、蓬莱に不死の薬を尋ねてでも、ただ長く続くことを願っておりました。明けても暮れても楽しみ栄えたことは、天上界の果報もこれにはまさるまいと思われました。ところが寿永の秋の初め、木曾義仲とかいう者に攻められて、一門の人々は住み慣れた都を雲のかなたに振り返り、故郷を焼け野原として眺め、昔は名前ばかり聞いていた須磨から明石の浦伝いに、さすがに哀れに思われて、昼は果てしない大海に波路を分けて袖を濡らし、夜は洲崎の千鳥とともに泣き明かしました。浦々島々の趣のある所を見ましたけれども、故郷のことは忘れられませんでした。」
「こうして身を寄せる所もなかったのは、天人の五衰必滅の悲しみと思われました。およそ人間界の事は、愛別離苦・怨憎会苦、四苦八苦のすべてを一つ残らず身をもって知りました。さて筑前国の太宰府とかいう所に着いて少し心を落ち着けたところ、維義とかいう者に九州の内からも追い出され、山野は広いといっても立ち寄って休む所もありません。同じ秋の暮れになったので、昔は宮中の雲の上で見た月を、はるかな潮路で眺めながら日々を送っておりましたが、十月のころ、清経の中将が、都は源氏のために攻め落とされ、九州は維義のために追い出された、網にかかった魚のようなものだ、どこへ行けば逃れられようか、生き長らえられる身でもないと言って、海に沈みました。これがつらいことの始まりでした。波の上で日を暮らし、船の中で夜を明かしました。貢物もないので食事を差し上げることもなく、たまたま食事を差し上げようとしても水がないのでとれません。大海に浮かんでいても、潮なので飲むことができません。これはまた餓鬼道の苦しみと思われました。」
「こうして室山・水島の二度の合戦に勝ったので、一門の人々も少し顔色がよくなったように見えましたが、摂津国の一の谷とかいう所に城郭を構え、皆直衣や束帯を脱ぎかえて鉄の鎧を身にまとい、明けても暮れても鬨の声の絶えることもなかったのは、修羅の闘いや帝釈天と阿修羅の争いもこれにはまさるまいと思われました。一の谷を攻め落とされて後は、親は子に先立たれ、妻は夫に別れ、沖で釣りをする船を敵の船かと肝をつぶし、遠い松に白鷺が群れているのを見ては源氏の旗かと心をすり減らしました。こうして門司・赤間・壇の浦の合戦で、もはや今日が最後と見えたので、二位の尼が泣く泣く申しましたのは、『この世の中のありさまは、もはやこれまでと思われる。今度の合戦で男の命が生き残ることは万に一つもないだろう。たとえまた遠い縁者が偶然生き残ることがあったとしても、私の後生を弔ってくれることもないだろう。昔から女は殺さないならいだから、なんとしても生き長らえて、帝のご菩提を弔い、私たちの後生も助けてください』と申しましたのを、夢のような心地で聞いておりましたうちに、風がにわかに吹き、浮雲が厚くたなびき、兵たちの心を惑わせ、天運も尽きて、人の力ではどうにもなりませんでした。」
「もはやこれまでと見えたので、二位の尼が先帝を抱き申して船端に出たとき、先帝は呆然としたご様子で、『尼御前よ、私をどこへ連れて行こうとするのか』と仰せになると、二位の尼は涙をはらはらと流して、幼い君に向かい申して、『君はまだご存じないのですか。前世の十善の戒行のお力によって今は万乗の主とお生まれになりましたが、悪縁に引かれて、ご運はもう尽きてしまわれました。まず東に向かって伊勢大神宮を伏し拝まれ、その後、西方浄土の来迎にあずかろうとお誓いになって、お念仏をお唱えください。この国は粟散辺土といって、つらい所でございます。あの波の底にこそ極楽浄土といって、すばらしい都がございます。そこへお連れいたしますよ』と、さまざまにお慰め申したので、山鳩色の御衣を召し、角髪に結われた先帝は、涙にむせびながら小さく美しいお手を合わせ、まず東に向かって伊勢大神宮にお別れを申され、その後西に向かってお念仏を唱えられると、二位の尼は先帝を抱き申して海に沈みました。そのありさまは、目もくらみ心も消え果てて、忘れようとしても忘れられず、こらえようとしてもこらえきれません。こうして生き残った者たちが泣き叫んだありさまは、叫喚・大叫喚・無間阿鼻地獄の炎の底の罪人も、これにはまさるまいと思われました。」
「さて荒々しい武士たちに捕らえられて都へ上りましたとき、播磨国の明石の浦とかいう所に着いて少しまどろんだ夢に、昔の内裏よりもはるかにすぐれた所に、先帝をはじめとして一門の公卿・殿上人たちが、皆おごそかな礼装で並んでいました。都を出てから、まだこのような所は見たことがありません。ここは何という所かと尋ねますと、二位の尼が答えて、龍宮城という所ですと申しました。それはすばらしい所だ、ここには苦しみはないのかと尋ねましたところ、龍畜経に見えております、後世をよくよく弔ってくださいと申したと思って、夢が覚めました。その後はいよいよ経を読み念仏を唱えて、あの方々の菩提を弔っております。これはひとえに六道を見たのと違わないと思っております」と申されると、法皇が仰せになるには、「異国の玄奘三蔵は悟りを開く前に六道を見た。わが国の日蔵上人は蔵王権現のお力によって六道を見たと聞いている。目の当たりに六道をご覧になったのは、まことにまれで尊いことです」と仰せになった。
意訳
女院が自らの半生を仏教の六道(天上・人間・餓鬼・修羅・地獄・畜生)になぞらえて語る、灌頂巻の中心となる章段である。国母としての栄華を天上界の楽しみに、都落ちから西海流浪の苦しみを人間界・餓鬼道に、一の谷以後の合戦を修羅道にたとえ、壇の浦の入水を地獄の叫びとして語る構成は、平家一門の興亡そのものを仏法の世界観で総括している。
とりわけ二位の尼が幼い安徳天皇に「波の底にも都の候ふぞ」と言い聞かせて入水する場面は、巻第十一「先帝御入水」と重なりつつ、母である女院自身の口から語られることで、いっそう痛切な響きをもつ。夢に見た龍宮城の一門の姿によって畜生道まで語り終えた女院に、法皇が「まのあたり御覽ぜられけるこそありがたう候へ」と応える結びは、苦難そのものが悟りへの道となったことを示している。
語釈・文法注
文法
- 「御見參あつて還御なしまゐらさせ候へ」
- ご対面なさって、(法皇を)お帰し申し上げてください。
- 「一念の窗の前には攝取の光明を期し、十念の柴の樞には聖衆の來迎をこそ待ちつる」
- 念仏の窓辺で仏の救いの光を待ち、柴の戸で聖衆の来迎を待っていた。
- 「悲想の八萬劫」
- 非想非非想天(無色界の最上天)に生まれた者の八万劫の寿命。底本は「悲想」と刷る。
- 「五衰」
- 天人の命が尽きるときに現れる五つの衰えのしるし。
- 「喜見城」
- 帝釈天の住む宮殿。
- 「釋迦の遺弟に連り」
- 釈迦の遺した弟子(僧尼)の列に加わり。
- 「五障三從」
- 女性が持つとされた五つの障りと、父・夫・子に従う三つの従い。
- 「九品の淨刹」
- 九つの等級に分かれた極楽浄土。
- 「粟散邊土」
- 粟粒を散らしたような辺地の小国。日本をいう。
- 「十善の餘薰」
- 前世に十善を守った余徳。帝王の位はその報いとされた。
- 「攝籙」
- 摂政・関白。
- 「六欲四禪の雲の上」
- 欲界の六天と色界の四禅天。天上界の世界。
- 「九夏三伏」
- 夏の九十日と、最も暑い三伏の時期。
- 「玄冬素雪」
- 冬と白い雪。
- 「愛別離苦、怨憎會苦、四苦八苦」
- 愛する者と別れる苦しみ、憎む者と会う苦しみなど、人間の苦しみのすべて。
- 「親は子におくれ妻は夫に別る沖に」
- 底本は「別る」の後に句読点を刷らない。
- 「修羅の鬪諍、帝釋の爭ひ」
- 阿修羅の闘争と、帝釈天と阿修羅との戦い。修羅道の苦しみ。
- 「山鳩色の御衣」
- 黄色がかった青色の御衣。天皇の常服の色。
- 「叫喚、大叫喚、無閒阿鼻」
- いずれも八大地獄の名。無間(阿鼻)地獄は最も苦しい地獄。
- 「龍畜經」
- 龍や畜生の世界を説く経。龍宮城は畜生道とされた。
- 「玄弉三藏は悟りの前に六道を見き」
- 唐の玄奘三蔵が悟りを開く前に六道を見たという伝え。
- 「日藏上人は藏王權現の御力に依つて、六道を見たり」
- 平安中期の僧日蔵(道賢)が、金峯山で蔵王権現の導きによって冥界をめぐったという伝え。
解説
女院が六道を語る話は『平家物語』の諸本に広く見え、源平の争乱を仏教の世界観で意味づける重要な場面となっている。安徳天皇の入水は寿永四年(文治元年、1185)三月二十四日のことで、八歳であった。二位の尼(平時子)が「波の下にも都の候ふぞ」と慰めた言葉は、巻第十一「先帝御入水」にも見える。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、863–868頁(コマ460–463)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日