平家物語 灌頂巻
小原御幸の事
文治二年の卯月二十日過ぎ、後白河法皇はひそかに大原の寂光院へ御幸した。古びた庭の池や藤、遅桜、山時鳥のありさまに心を打たれて法皇は歌を詠み、女院の粗末な庵室を見てその侘しさに驚いた。応対に出た老尼は、因果経を引いて悟りを説く不思議な尼で、問えば信西の娘の阿波の内侍であった。庵室には来迎の三尊と先帝の御影が掛けられ、障子には経文や定基法師の詩句、女院の歌が書かれていた。やがて山から花籠を臂にかけた女院と、薪や蕨を持った大納言佐の局が下りて来た。女院は変わり果てた姿を法皇に見られる恥ずかしさに、山へも庵へも戻れず立ちつくした。
- 1斯斯かかりかりかりししし程程ほどににに法法ほう皇皇おうははは文文ぶん治治じ二二に年年ねんののの春春はるののの頃頃ころ、、、建建けん禮禮れい門門もん院院いんののの小小お原原はらののの閑閑かん居居きょののの御御おん住住すま居居い、、、御御ご覽覽らんぜぜぜまほしうまほしうまほしゅう思思おぼし召召めささされれれけれけれけれどもどもども、、、二二きさら月月ぎ、、、三三やよ月月いののの程程ほどははは嵐嵐あらしはげしうはげしうはげしゅう、、、餘餘よ寒寒かんももも未未いまだだだつきつきつきずずず、、、峯峯みねののの白白しら雪雪ゆき消消きえええやらやらやらででで、、、谷谷たにのののつらゝつらゝつららもももうちうちうち解解とけけけずずず。。。かくかくかくててて春春はる過過すぎぎぎ夏夏なつ立立たつつっててて、、、北北きた祭祭まつりももも過過すぎぎぎしかしかしかばばば、、、法法ほう皇皇おう夜夜よをををこめこめこめててて、、、小小お原原はらののの奧奧おくへへへ御御ご幸幸こうなるなるなる。。。忍忍しのびびびののの御御ご幸幸こうなりなりなりけれけれけれどもどもども、、、供供ぐ奉奉ぶののの人人ひと々々びとにににははは、、、德德とく大大だい寺寺じ、、、花花か山山ざんののの院院いん、、、土土つち御御み門門かど以以い下下げ、、、公公く卿卿ぎょう六六ろく人人にん、、、殿殿てん上上じょう人人びと八八はち人人にん、、、北北ほく面面めん少少しょう々々しょう候候さぶらひひいけりけりけり。。。鞍鞍くら馬馬ま通通どおりののの御御ご幸幸こうなりなりなりけれけれければばば、、、かのかのかの淸淸きよ原原はらののの深深ふか養養やぶ父父ふががが補補ふ陀陀だ樂樂らく寺寺じ、、、小小を野野のののの皇皇こう太太たい后后こう宮宮ぐうののの舊舊きゅう跡跡せき叡叡えい覽覽らんあつあつあっててて、、、それそれそれよりよりより御御おん輿輿こしにににぞぞぞ召召めささされれれけるけるける。。。遠遠とお山山やまにににかゝるかゝるかかる白白しら雲雲くもははは、、、散散ちりりりにににししし花花はなのののかたみかたみかたみなりなりなり。。。靑靑あお葉葉ばににに見見みゆるゆるゆる梢梢こずえにににははは、、、春春はるののの名名な殘殘ごりぞぞぞ惜惜おしましましまるゝるゝるる。。。頃頃ころははは卯卯う月月づき二二は十十つ日日か餘餘あまりりりののの事事ことなれなれなればばば、、、夏夏なつ草草くさのののしげみしげみしげみががが末末すえをををわけわけわけ入入いらららせせせ給給たまふふうににに、、、始始はじめめめたるたるたる御御ご幸幸こうなれなれなればばば、、、御御ご覽覽らんじじじ馴馴なれれれたるたるたる方方かたもももなくなくなく、、、人人じん跡跡せきたえたえたえたるたるたる程程ほどももも思思おぼし召召めししし知知しららられれれてててあはれあはれあわれなりなりなり。。。
- 2西西にしののの山山やまののの麓麓ふもとににに一一いち宇宇うののの御御み堂堂どうありありあり。。。すなはちすなはちすなわち寂寂じゃく光光こう院院いんこれこれこれなりなりなり。。。ふるうふるうふるう造造つくりりりなせなせなせるるる泉泉せん水水すい木木こ立立だち、、、よしよしよしあるあるある樣樣ようののの所所ところなりなりなり。。。甍甍いらか破破やぶれれれてててははは霧霧きり不不ふ斷斷だんののの香香こうをををたきたきたき、、、扉扉とぼそ落落おちちちてててははは月月つき常常じょう住住じゅうののの燈燈ともしびをををかゝぐかゝぐかかぐともともとも、、、斯斯か樣樣ようののの所所ところをををややや申申もうすすすべきべきべき。。。庭庭にはののの若若わか草草くさ茂茂しげりりり合合あひひい、、、靑靑あお柳柳やぎ絲絲いとををを亂亂みだりりりつゝつゝつつ、、、池池いけののの浮浮うき草草くさ波波なみににに漂漂ただよひひい、、、錦錦にしきををを晒晒さらすすすかかかとととあやまたあやまたあやまたるるる。。。中中なか島島じまののの松松まつにににかゝれかゝれかかれるるる藤藤ふじ波波なみののの、、、裏裏うら紫紫むらさきににに咲咲さけけけるるる色色いろ、、、靑靑あお葉葉ばまじりまじりまじりののの遲遲おそ櫻櫻ざくら、、、はつはつはつ花花はなよりよりよりももも珍珍めずらしくらしくらしく、、、岸岸きしののの山山やま吹吹ぶき咲咲さききき亂亂みだれれれ、、、八八や重重へ立立たつつつ雲雲くもののの絶絶たえええまままよりよりより、、、山山やま時時ほとと鳥鳥ぎすののの一一ひと聲聲こえももも、、、君君きみののの御御み幸幸ゆきををを待待まちちちがほがほがおなりなりなり。。。法法ほう皇皇おうこれこれこれををを叡叡えい覽覽らんあつあつあっててて、、、かうかうこうぞぞぞあそばさあそばさあそばされれれけるけるける。。。
- 3池池いけ水水みずにににみぎはみぎはみぎわののの櫻櫻さくらちりちりちりしきしきしきててて波波なみののの花花はなこそこそこそさかりさかりさかりなりなりなりけれけれけれ
- 4ふりふりふりにににけるけるける岩岩いわののの絶絶たえええまままよりよりより、、、落落おちちち來來くるるる水水みずののの音音おとさへさへさへ故故ゆえびびび、、、よしよしよしあるあるある所所ところなりなりなり。。。綠綠りょく蘿蘿らののの垣垣かき、、、翠翠すい黛黛たいののの山山やま、、、繪繪えにににかくかくかくともともとも筆筆ふでももも及及およびびび難難がたししし。。。さてさてさて女女にょう院院いんののの御御おん庵庵あん室室しつををを叡叡えい覽覽らんあるあるあるににに、、、軒軒のきにににははは蔦蔦つた、、、蕣蕣あさがおはひはひはいかゝりかゝりかかり、、、しのぶしのぶしのぶまじりまじりまじりのののわすれわすれわすれ草草ぐさ、、、瓢瓢ひょう簞簞たんしば〳〵しば〳〵しばしば空空むなししし、、、草草そう顏顏がん淵淵えんががが巷巷ちまたにににしげくしげくしげく、、、藜藜れい藿藿かく深深ふかくくく鎖鎖とざせせせりりり、、、雨雨あめ原原げん憲憲けんががが樞樞とぼそををを濕濕うるほすほすおすともともともいひいひいいつつつべしべしべし。。。杉杉すぎののの葺葺ふきききめめめもももまばらまばらまばらにににててて、、、時時しぐ雨雨れももも霜霜しもももも置置おくくく露露つゆももも、、、洩洩もるるる月月つき影影かげにににあらそひあらそひあらそいててて、、、たまるたまるたまるべしべしべしとととももも見見みえええざりざりざりけりけりけり。。。後後うしろははは山山やま、、、前前まえははは野野のべべべ、、、いざゝいざゝいざさ小小お篠篠ざさににに風風かぜさわぎさわぎさわぎ、、、世世よににに立立たたたたぬぬぬ身身みののの習習ならひひいとととててて、、、うきうきうきふしふしふししげきしげきしげき竹竹たけ柱柱ばしら、、、都都みやこののの方方かたのののおとづれおとづれおとずれははは、、、閒閒ま遠遠どおにににゆへゆへゆえるるるませませませ垣垣がきややや、、、わづかわづかわずかににに言言こと問問とふふうものものものとととてててははは、、、峯峯みねににに木木こ傳傳づたふふう猿猿さるののの聲聲こえ、、、賤賤しずががが爪爪つま木木ぎののの斧斧をのののの音音おと、、、これこれこれらららがががおとづれおとづれおとずれならならならでででははは、、、まさきまさきまさきのののかづらかづらかずら、、、靑靑あおつゞらつゞらつづら、、、來來くるるる人人ひと稀稀まれなるなるなる所所ところなりなりなり。。。
- 5法法ほう皇皇おう、、、「「「人人ひとやややあるあるある、、、人人ひとやややあるあるある。。。」」」ととと召召めささされれれけれけれけれどもどもども、、、御御おんいらへいらへいらえ申申もうすすす者者ものもももなしなしなし。。。やゝやゝややあつあつあっててて老老おいいい衰衰おとろへへえたるたるたる尼尼あま一一ひと人人り參參まいりりりたりたりたり。。。「「「女女にょう院院いんはははいづくいづくいずくへへへ御御ご幸幸こうなりなりなりぬるぬるぬるぞぞぞ。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、「「「このこのこの上上うえののの山山やまへへへ花花はな摘摘つみみみにににいらいらいらせせせ給給たまひひいててて候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。「「「さささこそこそこそ世世よをををいとふいとふいとう御御おんならひならひならいとととはははいひいひいいながらながらながら、、、さやうさやうさようののの事事ことににに仕仕つかへへえ奉奉たてまつるるる人人ひともももなきなきなきにににややや、、、御御おんいたはしういたはしういたわしゅうこそこそこそ。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、このこのこの尼尼あま申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「五五ご戒戒かい十十じゅう善善ぜんののの御御おん果果か報報ほうののの盡盡つきききさせさせさせ給給たまふふうににに依依よつつっててて、、、今今いま斯斯かかるかるかる御御おん目目めををを御御ご覽覽らんぜぜぜられられられ候候そうろうにににこそこそこそ。。。捨捨しゃ身身しんののの行行ぎょうににに、、、なじかなじかなじかははは御御おん身身みををを惜惜おしましましませせせ給給たまひひい候候そうろうべきべきべき。。。因因いん果果が經經きょうにににははは、、、「「「欲欲よく知知ち過過か去去こ因因いん、、、見見けん其其ご現現げん在在ざい果果か、、、欲欲よく知知ち未未み來來らい果果か、、、見見けん其其ご現現げん在在ざい因因いん。。。」」」ととと說說とかかかれれれたりたりたり、、、「「「過過か去去こ未未み來來らいののの因因いん果果がをををかねかねかねててて悟悟さとらららせせせたまひたまひたまいなななばばば、、、つや〳〵つや〳〵つやつや御御おん歎歎なげきききあるあるあるべからべからべからずずず。。。昔昔むかし悉悉しつ達達だ太太たい子子しははは十十じゅう九九くにににててて伽伽か耶耶や城城じょうををを出出いでででててて、、、檀檀だん特特とく山山せんののの麓麓ふもとにににててて、、、木木こののの葉葉はをををつらねつらねつらねててて肌肌はだえををを隱隱かくししし、、、峯峯みねににに上上のぼつつっててて薪薪たきぎををを採採とりりり、、、谷谷たにににに下下おりりりててて水水みずををを掬掬むすびびび、、、難難なん行行ぎょう苦苦く行行ぎょうののの功功こうににに依依よつつってててこそこそこそ、、、遂遂ついににに成成じょう等等どう正正しょう覺覺がくししし給給たまひひいききき。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
- 6このこのこの尼尼あまのののありさまありさまありさまををを御御ご覽覽らんずずずれれればばば、、、身身みにににははは絹絹けん布布ぷのののわきわきわきももも見見みえええぬぬぬものものものををを、、、結結むすびびび集集あつめめめてててぞぞぞ著著きたりたりたりけるけるける。。。あのあのあのありさまありさまありさまにににてててももも、、、かやうかやうかようののの事事こと申申もうすすす不不ふ思思し議議ぎさささよよよとととおぼしめしおぼしめしおぼしめしててて、、、「「「そも〳〵そも〳〵そもそも汝汝なんじはははいかなるいかなるいかなる者者ものぞぞぞ。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、このこのこの尼尼あまさめ〴〵さめ〴〵さめざめととと泣泣ないいいててて、、、しばししばししばしははは御御おん返返へん事事じにににももも及及およばばばずずず。。。やゝやゝややあつあつあっててて涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて、、、「「「申申もうすすすにににつけつけつけてててはゞかりはゞかりはばかり覺覺おぼえええ候候そうらへへえどもどもども、、、故故こ少少しょう納納な言言ごん入入にゅう道道どう信信しん西西ぜいががが女女むすめ、、、阿阿あ波波はののの内内ない侍侍しととと申申もうすすす者者ものにににててて候候そうろうなりなりなり。。。母母ははははは紀紀き伊伊いののの二二に位位い、、、さしもさしもさしも御御おんいとほしみいとほしみいとおしみ深深ふこうううこそこそこそ候候そうらひひいしししににに、、、御御ご覽覽らんじじじ忘忘わすれれれさせさせさせたまふたまふたまうにににつけつけつけてててももも、、、身身みののの衰衰おとろへへえぬるぬるぬる程程ほど思思おもひひい知知しららられれれててて、、、今今いま更更さらせせせんんん方方かたなうなうのうこそこそこそ候候そうらへへえ。。。」」」とととててて、、、袖袖そでををを顏顏かおにににおしおしおし當當あてててててて忍忍しのびびびあへあへあえぬぬぬ樣樣さま、、、目目めももも當當あてててられられられずずず。。。法法ほう皇皇おう、、、「「「げにげにげにももも汝汝なんじははは阿阿あ波波はののの内内ない侍侍しにににてててあるあるある、、、ござんござんござんなれなれなれ、、、御御ご覽覽らんじじじ忘忘わすれれれさせさせさせ給給たまふふうぞぞぞかしかしかし。。。何何なに事事ごとにににつけつけつけてててももも、、、たゞたゞただ夢夢ゆめとととのみのみのみこそこそこそ思思おぼし召召めせせせ。。。」」」とととててて、、、御御おん涙涙なみだせきせきせきあへあへあえさせさせさせ給給たまははわねねねばばば、、、供供ぐ奉奉ぶののの公公く卿卿ぎょう、、、殿殿てん上上じょう人人びとももも、、、不不ふ思思し議議ぎののの事事こと申申もうすすす尼尼あまかなかなかなととと思思おもひひいたれたれたればばば、、、ことわりことわりことわりにににててて申申もうしししけりけりけりとととぞぞぞ、、、各各おの々々おの感感かんじじじあはあはあわれれれけるけるける。。。
- 7さてさてさてかなたかなたかなたこなたこなたこなたををを叡叡えい覽覽らんあるあるあるににに、、、庭庭にはののの千千ち草草ぐさ露露つゆ重重おもくくく、、、籬籬まがきににに倒倒たおれれれかゝりかゝりかかりつゝつゝつつ、、、外外そと面面もののの小小お田田だももも水水みず越越こえええててて、、、鴫鴫しぎ立立たつつつ隙隙ひまももも見見みえええわかわかわかずずず。。。さてさてさて女女にょう院院いんののの御御おん庵庵あん室室しつへへへ入入いらららせせせおはしましおはしましおわしまし、、、障障しょう子子じををを引引ひきききあけあけあけててて叡叡えい覽覽らんあるあるあるににに、、、一一ひと閒閒まにににははは來來らい迎迎ごうののの三三さん尊尊ぞんおはしますおはしますおわします。。。中中ちゅう尊尊ぞんののの御御み手手てにににははは五五ご色色しきののの絲絲いとをををかけかけかけられられられたりたりたり。。。左左ひだりににに普普ふ賢賢げんののの繪繪え像像ぞう、、、右右みぎににに善善ぜん導導どう和和か尙尙しょう、、、竝竝ならびににに先先せん帝帝ていののの御御み影影えいをををかけかけかけ、、、八八はち軸軸じくののの妙妙みょう文文もん、、、九九く帖帖じょうののの御御ご書書しょももも置置おかかかれれれたりたりたり。。。蘭蘭らん麝麝じゃのののにほひにほひにおいににに引引ひきききかへかへかえててて、、、香香こうののの煙煙けぶりぞぞぞ立立たちちち上上のぼるるる。。。かのかのかの淨淨じょう名名みょう居居こ士士じののの、、、方方ほう丈丈じょうののの室室しつののの内内うちににに三三さん萬萬まん二二に千千せんののの床床ゆかををを竝竝ならべべべ、、、十十じっ方方ぽうののの諸諸しょ佛佛ぶつををを請請しょうじじじたまひたまひたまいけんけんけんももも、、、かくかくかくやややとととぞぞぞ覺覺おぼえええけるけるける。。。障障しょう子子じにににははは、、、諸諸しょ經經きょうののの要要よう文文もんどもどもども、、、色色しき紙紙しににに書書かいいいててて所所しょ々々しょにににおさおさおされれれたりたりたり。。。そのそのその中中なかににに大大おお江江えののの定定さだ基基もと法法ほう師師しががが、、、淸淸しょう涼涼りょう山山せんにににしししててて詠詠えいじじじたりたりたりけんけんけん、、、「「「笙笙せい歌歌かはるかはるかはるかににに聞聞きこゆゆゆ孤孤こ雲雲うんののの上上うえ、、、聖聖しょう衆衆じゅ來來らい迎迎ごうすすす落落らく日日じつののの前前まえ。。。」」」とととももも書書かかかかれれれたりたりたり。。。少少すこししし引引ひきききのけのけのけててて、、、女女にょう院院いんののの御御おん歌歌うたとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、
- 8思思おもひひいきききややや深深み山山やまののの奧奧おくにににすまひすまひすまいしししててて雲雲くも居居いののの月月つきをををよそよそよそににに見見みむむんとととははは
- 9さてさてさて傍傍かたわらををを叡叡えい覽覽らんあるあるあるににに、、、御御ご寢寢しん所所じょとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、竹竹たけののの御御おん竿竿さおににに麻麻あさののの御御おん衣衣ころも、、、紙紙かみのののふすまふすまふすまなんどなんどなんど掛掛かけけけられられられたりたりたり。。。さしもさしもさしも本本ほん朝朝ちょう、、、漢漢かん土土どののの妙妙たえなるなるなるたぐひたぐひたぐい數數かずをををつくしつくしつくし、、、綾綾りょう羅羅ら錦錦きん繡繡しゅうのののよそほひよそほひよそおいももも、、、さながらさながらさながら夢夢ゆめにににぞぞぞなりなりなりにににけるけるける。。。法法ほう皇皇おう御御おん涙涙なみだををを流流ながさささせせせ給給たまへへえばばば、、、供供ぐ奉奉ぶののの公公く卿卿ぎょう、、、殿殿てん上上じょう人人びとももも、、、まのあたりまのあたりまのあたり見見み奉奉たてまつりりりししし事事ことどもどもども、、、今今いまのののやうやうようににに覺覺おぼえええててて、、、みなみなみな袖袖そでをををぞぞぞしぼらしぼらしぼられれれけるけるける。。。やゝやゝややあつあつあっててて上上うえののの山山やまよりよりより、、、濃濃こききき墨墨すみ染染ぞめののの衣衣ころも著著きたりたりたりけるけるける尼尼あま二二ふた人人り、、、岩岩いわのののがけぢがけぢがけじををを傳傳つたひひいつゝつゝつつ、、、下下おりりり煩煩わずらひひいたるたるたるさまさまさまなりなりなりけりけりけり。。。法法ほう皇皇おう、、、「「「あれあれあれはははいかなるいかなるいかなるものものものぞぞぞ。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、老老ろう尼尼に涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて、、、「「「花花はな筐筐がたみ臂臂ひじにににかけかけかけ、、、岩岩いわ躑躑つつ躅躅じ取取とりりり具具ぐしししててて、、、持持もたたたせせせ給給たまひひいててて候候そうろうははは、、、女女にょう院院いんにににててて渡渡わたらららせせせ給給たまひひい候候そうろう。。。爪爪つま木木ぎににに薇薇わらび折折おりりりそへそへそえててて持持もちちちたるたるたるははは、、、鳥鳥とり飼飼かいののの中中ちゅう納納な言言ごん維維これ實實ざねががが女女むすめ、、、五五ご條條じょうののの大大だい納納な言言ごん國國くに綱綱つなののの養養よう子子じ、、、先先せん帝帝ていののの御御おん乳乳めの母母と、、、大大だい納納な言言ごんののの佐佐すけののの局局つぼね。。。」」」ととと申申もうしししもももあへあへあえずずず泣泣なきききにににけりけりけり。。。法法ほう皇皇おう御御おん涙涙なみだををを流流ながさささせせせ給給たまへへえばばば、、、供供ぐ奉奉ぶののの公公く卿卿ぎょう、、、殿殿てん上上じょう人人びとももも、、、みなみなみな袖袖そでをををぞぞぞぬらさぬらさぬらされれれけるけるける。。。
- 10女女にょう院院いんははは世世よをををいとふいとふいとう御御おんならひならひならいととといひいひいいながらながらながら、、、今今いま斯斯かかるかるかるありさまありさまありさまををを見見みえええ參參まいらららせせせんんんずらんずらんずらん恥恥はずかしさかしさかしさよよよ。。。消消きえええももも失失うせせせばやばやばやととと思思おぼし召召めせせせどもどもどもかひかひかいぞぞぞなきなきなき。。。宵宵よい々々よいごとごとごとののの閼閼あ伽伽かののの水水みず、、、むすぶむすぶむすぶ袂袂たもともももしをるゝしをるゝしおるるににに、、、曉曉あかつき起起おきののの袖袖そでののの上上うえ、、、山山やま路路じののの露露つゆももも繁繁しげくくくしししててて、、、しぼりしぼりしぼりやややかねかねかねさせさせさせ給給たまひひいけんけんけん、、、山山やまへへへもももかへらかへらかえらせせせ給給たまははわずずず、、、またまたまた御御おん庵庵あん室室しつへへへももも入入いらららせせせおはしまさおはしまさおわしまさずずず、、、あきれあきれあきれててて立立たたたたせせせまし〳〵まし〳〵ましましたるたるたる所所ところににに、、、内内ない侍侍しののの尼尼あま參參まいりりりつゝつゝつつ、、、花花はな筐筐がたみをををばばば賜賜たまはりはりわりけりけりけり。。。
現代語訳
こうしているうちに、法皇は文治二年の春ごろ、建礼門院の大原の閑居のお住まいをご覧になりたいと思われたが、二月、三月のころは嵐が激しく、余寒もまだ去らず、峰の白雪も消えきらず、谷のつららも解けない。こうして春が過ぎ夏になって、賀茂の祭も過ぎたので、法皇は夜深くに大原の奥へ御幸なさった。お忍びの御幸ではあったが、お供には徳大寺・花山院・土御門以下、公卿六人、殿上人八人、北面の武士が少々お仕えした。鞍馬街道を通る御幸だったので、あの清原深養父の補陀落寺や小野の皇太后宮の旧跡をご覧になって、そこから御輿にお乗りになった。遠い山にかかる白雲は、散った花の形見である。青葉に見える梢には、春の名残が惜しまれる。ころは四月二十日過ぎのことなので、夏草の茂みの奥を分け入っていかれると、初めての御幸なので見慣れた所もなく、人跡の絶えたさまも思い知られて哀れである。
西の山の麓に一棟の御堂がある。これがすなわち寂光院である。古風に造った池や木立は、由緒ありげな所である。「屋根瓦が破れては霧が絶え間なく香をたき、扉が落ちては月が常夜灯をかかげる」とは、このような所をいうのであろうか。庭の若草は茂り合い、青柳は糸を乱したようになびき、池の浮草は波に漂い、錦を晒したかと見まがうほどである。中島の松にかかった藤の花房の裏紫に咲く色、青葉にまじる遅桜は初花よりも珍しく、岸の山吹は咲き乱れ、幾重にも立つ雲の切れ間から聞こえる山時鳥の一声も、君の御幸を待っていたかのようである。法皇はこれをご覧になって、このようにお詠みになった。
池の水に、水際の桜が散り敷いて、波の花こそ今が盛りであることよ。
古びた岩の切れ目から落ちてくる水の音までも趣深く、由緒ありげな所である。緑のつたかずらの垣、青黒い山の色は、絵に描こうとしても筆が及ばない。さて女院の御庵室をご覧になると、軒には蔦や朝顔が這いかかり、しのぶ草にまじって忘れ草が生え、「瓢箪はしばしば空しく、草は顔淵の巷に茂り、藜や藿は深く戸を閉ざし、雨は原憲の扉を濡らす」とも言えそうである。杉の葺き目もまばらで、時雨も霜も置く露も、漏れる月の光と争うように入りこみ、防げそうにも見えない。後ろは山、前は野辺で、いざさの小笹に風が騒ぎ、世に出ない身のならいとして、つらいことの多い竹の柱、都からの便りは間遠く、間を置いて結んだ籬のようで、わずかに訪れてくるものといえば、峰の木を伝う猿の声と、賤しい者が薪を切る斧の音、これらのほかは、まさきのかずらや青つづらが這うばかりで、来る人もまれな所である。
法皇が「誰かいるか、誰かいるか」とお呼びになったが、お返事申す者もいない。しばらくして老い衰えた尼が一人参った。「女院はどこへお出かけになったのか」と仰せになると、「この上の山へ花摘みにお出かけになっております」と申す。「いくら世をいとうお暮らしとはいえ、そのような事をしてお仕えする人もいないのか。おいたわしいことだ」と仰せになると、この尼が申すには、「五戒十善の御果報が尽きなさったので、今このような目をご覧になっておられるのでございましょう。捨身の行に、どうして御身を惜しまれることがございましょう。因果経には『過去の因を知ろうと思えば、現在の果を見よ。未来の果を知ろうと思えば、現在の因を見よ』と説かれております。過去と未来の因果をあらかじめ悟っておられれば、少しもお嘆きになることはありません。昔、悉達太子は十九歳で伽耶城を出て、檀特山の麓で木の葉を綴って肌を隠し、峰に登って薪を採り、谷に下りて水を汲み、難行苦行の功によってこそ、ついに正しい悟りを得られたのです」と申した。
この尼の姿をご覧になると、身には絹とも布とも見分けのつかないものを結び集めて着ていた。あのような姿でありながら、このようなことを申すのは不思議なことだと思われて、「そもそもおまえは何者か」と仰せになると、この尼はさめざめと泣いて、しばらくはお返事もできなかった。しばらくして涙をおさえて、「申し上げるのもはばかられますが、故少納言入道信西の娘で、阿波の内侍と申す者でございます。母は紀伊の二位で、あれほどお目をかけていただいておりましたのに、お見忘れになるにつけても、わが身の衰えたほどが思い知られて、今さらどうしようもございません」と言って、袖を顔に押し当てて忍びきれない様子は、見ていられないほどであった。法皇は「本当におまえは阿波の内侍であったのか。見忘れていたことよ。何事につけても、ただ夢とばかり思われる」と言って涙をおさえきれなかったので、お供の公卿や殿上人も、不思議なことを申す尼だと思っていたが、もっともなことを申していたのだと、皆感じ入った。
さてあちらこちらをご覧になると、庭の千草は露が重く、籬に倒れかかり、家の外の小田も水があふれて、鴫の立つすき間も見分けられない。さて女院の御庵室にお入りになり、障子を引き開けてご覧になると、一間には来迎の三尊がいらっしゃる。中尊の御手には五色の糸が掛けられている。左には普賢菩薩の絵像、右には善導和尚と先帝の御影を掛け、八巻の法華経、九帖の御書も置かれている。蘭や麝香の匂いにかわって、香の煙が立ちのぼっている。あの維摩居士が方丈の部屋の中に三万二千の座を並べ、十方の諸仏を招かれたというのも、このようであったかと思われた。障子には諸経の要文を色紙に書いて、あちこちに貼ってある。その中に大江定基法師が清涼山で詠んだという「笙歌はるかに聞こゆ孤雲の上、聖衆来迎す落日の前」という句も書かれていた。少し離れて、女院の御歌と思われるものに、
思いもしなかった。深い山の奥に住んで、宮中で見た月をよそながら眺めることになろうとは。
さてかたわらをご覧になると、寝所と思われる所に、竹の竿に麻の御衣や紙の夜具などが掛けてあった。あれほど本朝と漢土のすぐれた品々を尽くし、綾羅錦繍で装っていたのも、すっかり夢になってしまったのである。法皇が涙を流されると、お供の公卿や殿上人も、まのあたりに見申し上げた昔のことが今のように思われて、皆袖を絞った。しばらくして上の山から、濃い墨染の衣を着た尼が二人、岩の崖道を伝いながら、下りかねている様子であった。法皇が「あれは何者か」と仰せになると、老尼が涙をおさえて、「花籠を臂にかけ、岩つつじを取り添えて持っていらっしゃるのが女院でいらっしゃいます。薪に蕨を折り添えて持っているのは、鳥飼の中納言維実の娘で、五条大納言国綱の養女、先帝の御乳母の大納言佐の局です」と申しも終わらないうちに泣きだした。法皇が涙を流されると、お供の公卿や殿上人も皆袖を濡らした。
女院は、世をいとうお暮らしとはいいながら、今このようなありさまをお見せ申すことになろうとは恥ずかしいことよ、消えてしまいたいと思われたが、どうしようもない。夜ごとの閼伽の水を汲む袂も濡れしおれているのに、暁に起きる袖の上には山路の露もしげく、絞りかねておられたのであろうか、山へもお帰りにならず、また御庵室へもお入りにならず、途方にくれて立っておられるところへ、内侍の尼が参って、花籠をお受け取りした。
意訳
後白河法皇が大原の寂光院を訪ねる「大原御幸」は、灌頂巻の中心となる場面である。前半では、晩春から初夏へ移る山里の景色が美しい対句で描かれ、法皇の歌によって寂光院の閑かな趣が示される。
粗末な身なりの老尼が仏法を説き、実は信西の娘阿波の内侍であったと明かされる場面は、栄華と零落の落差を印象づける。庵室の来迎三尊や先帝の御影、障子の要文は、女院の仏道一筋の暮らしを語る。花籠を手に山から下りてきた女院が、変わり果てた姿を法皇に見られることを恥じて立ちつくす結びは、次の「六道の沙汰」へと続いていく。
語釈・文法注
文法
- 「北祭」
- 賀茂祭(葵祭)。石清水の南祭に対していう。四月の中の酉の日に行われた。
- 「甍破れては霧不斷の香をたき、扉落ちては月常住の燈をかゝぐ」
- 荒れた寺のさまをいう漢詩風の対句。
- 「待ちがほなり」
- 待っているような様子である。
- 「瓢簞しば〳〵空し、草顏淵が巷にしげく、藜藿深く鎖せり、雨原憲が樞を濕ほす」
- 『和漢朗詠集』の句による。貧しくとも道を楽しんだ孔子の弟子顔淵・原憲の住まいにたとえる。
- 「閒遠にゆへるませ垣」
- 間をあけて結った籬。都からの便りがまれなことを掛ける。
- 「五戒十善の御果報」
- 前世に五戒・十善を守った報いとしての、帝王の家に生まれる果報。
- 「欲知過去因、見其現在果、欲知未來果、見其現在因」
- 過去の因を知ろうと思えば今の果を見よ、未来の果を知ろうと思えば今の因を見よ。
- 「と說かれたり、「過去未來の因果を」
- 底本は「說かれたり」の後に「、「」を刷り、閉じの「」」は「給ひき。」の後の一つだけである。
- 「絹布のわきも見えぬもの」
- 絹か布か見分けもつかないような粗末な衣。
- 「ござんなれ」
- 「にこそあるなれ」のつまった形。であったのだな。
- 「來迎の三尊」
- 阿弥陀如来と観音・勢至の二菩薩。臨終の人を迎えに来る姿の像。
- 「八軸の妙文」
- 八巻の『法華経』。
- 「九帖の御書」
- 善導の著作九帖。
- 「淨名居士の、方丈の室の内に三萬二千の床を竝べ」
- 維摩居士が一丈四方の部屋に三万二千の師子座を並べたという『維摩経』の話。
- 「笙歌はるかに聞ゆ孤雲の上、聖衆來迎す落日の前」
- 大江定基(寂照)が入宋して清涼山で詠んだと伝える詩句。極楽往生の情景。
- 「花筐」
- 花を摘んで入れる籠。
和歌
池水にみぎはの櫻ちりしきて波の花こそさかりなりけれ
- 詠者
- 後白河法皇
- 状況
- 寂光院の庭の池に、岸の遅桜が散り敷いているのを見て詠んだ。
修辞
- 波の花
- 白い波を花にたとえる語に、水面に散った桜の花びらを重ねる。
思ひきや深山の奧にすまひして雲居の月をよそに見むとは
- 詠者
- 建礼門院
- 状況
- 寂光院の庵室の障子に書かれていた女院の歌。
修辞
- 思ひきや
- 思っただろうか、いや思いもしなかった。反語。
- 雲居の月
- 宮中で見た月。雲居は宮中の意を掛ける。
解説
後白河法皇の大原御幸は文治二年(1186)四月のことと伝えられ、謡曲「大原御幸」の題材にもなった。阿波の内侍は藤原信西(通憲)の娘とされるが、孫とする説もある。寂光院は平成十二年(2000)の火災で本堂を焼失したが、のちに再建された。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、858–862頁(コマ458–460)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日