平家物語 灌頂巻
小原への入御の事
七月の大地震で吉田の住まいも傾き、建礼門院を気にかける縁者も少なくなったが、冷泉大納言隆房と七条修理大夫信隆の北の方が、ひそかに見舞いを続けた。都に近く人目も多いので、ある女房の勧めで、女院は文治元年九月の末、大原の奥の寂光院に移った。寂光院のかたわらに方丈の庵を結び、一間を仏間、一間を寝所として念仏の日々を送った。十月十五日の夕暮れ、楢の落ち葉を踏む音に人の訪れかと驚いたが、小鹿であった。大納言佐の局がそれを歌に詠み、女院は窓の小障子に書き留めた。庵の植木や岩間の水を極楽の宝樹や功徳水になぞらえながら、昔の栄華をしのぶ日々であった。
- 1去去いんんんぬるぬるぬる七七しち月月がつ九九ここの日日かののの日日ひののの大大だい地地じ震震しんににに築築つい地地じももも崩崩くずれれれ、、、荒荒あれれれたるたるたる御御ご所所しょももも傾傾かたぶききき破破やぶれれれててて、、、いとゞいとゞいとど住住すままませせせ給給たまふふうべきべきべき御御おんたよりたよりたよりもももなしなしなし。。。綠綠りょく衣衣いののの監監かん使使し、、、宮宮きゅう門門もんををを守守まもるるるだにだにだにもももなしなしなし。。。心心こころのののまゝまゝままににに荒荒あれれれたるたるたる籬籬まがきははは、、、茂茂しげききき野野のべべべよりよりよりももも露露つゆけくけくけく、、、折折おり知知しりりり顏顏がおににに、、、いつしかいつしかいつしか蟲蟲むしののの聲聲こえ々々ごえ恨恨うらむるむるむるもももあはれあはれあわれなりなりなり。。。さるさるさるまゝまゝままにににははは夜夜よもももやう〳〵やう〳〵ようよう長長ながくくくなれなれなればばば、、、いとゞいとゞいとど御御おん寐寐ね覺覺ざめがちがちがちにににててて、、、あかしあかしあかしかねかねかねさせさせさせ給給たまひひいけりけりけり。。。つきつきつきせせせぬぬぬ御御おん物物もの思思おもひひいににに、、、秋秋あきののの哀哀あわれれれさへさへさへうちうちうち添添そひひいててて、、、いとゞいとゞいとど忍忍しのびびびがたうがたうがとうぞぞぞ思思おぼし召召めささされれれけるけるける。。。何何なに事事ごともももみなみなみな變變かわりりりはてはてはてぬるぬるぬるうきうきうき世世よなれなれなればばば、、、おのづからおのづからおのずから情情なさけをををかけかけかけ奉奉たてまつるるるべきべきべき、、、昔昔むかしののの草草くさのののゆかりゆかりゆかりもももみなみなみな枯枯かれれれはてはてはてててて、、、誰誰たれはぐゝみはぐゝみはぐくみ奉奉たてまつるるるべしべしべしとととももも覺覺おぼえええずずず。。。
- 2されどもされどもされども冷冷れい泉泉ぜいののの大大だい納納な言言ごん隆隆たか房房ふさののの卿卿きょうののの北北きたののの方方かた、、、七七しち條條じょうののの修修しゅ理理りののの大大だい夫夫ぶ信信のぶ隆隆たかののの卿卿きょうののの北北きたののの方方かたよりよりより、、、忍忍しのびびびつゝつゝつつ常常つねはははことことこととひとひとい申申もうささされれれけりけりけり。。。女女にょう院院いん、、、「「「そのそのその昔昔むかし、、、あのあのあの人人ひと共共どものののはぐゝみはぐゝみはぐくみにににてててあるあるあるべしべしべしとととははは、、、露露つゆももも思思おぼし召召めししし寄寄よらららざりざりざりしししものものものををを。。。」」」とととててて、、、御御おん涙涙なみだををを流流ながさささせせせたまひたまひたまいけれけれければばば、、、つきつきつき參參まいらららせせせたるたるたる女女にょう房房ぼう達達たちももも、、、みなみなみな袖袖そでをををぞぞぞぬらさぬらさぬらされれれけるけるける。。。このこのこの御御おん住住すま居居いもももなほなほなお都都みやこ近近ちかくくくててて、、、玉玉たま鉾鉾ぼこののの道道みち行行ゆききき人人びとののの人人ひと目目めもももしげけれしげけれしげければばば、、、露露つゆののの御御おん命命いのちののの風風かぜををを待待またたたんんんほどほどほど、、、うきうきうきことことこと聞聞きかかかぬぬぬ深深ふかききき山山やまののの奧奧おくへへへももも、、、入入いりりりなななばやばやばやとととははは思思おぼし召召めささされれれけれけれけれどもどもども、、、さるさるさるべきべきべきたよりたよりたよりもももましまさましまさましまさずずず。。。あるあるある女女にょう房房ぼうののの吉吉よし田田だににに參參まいつつっててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「これこれこれよりよりより北北きた、、、小小お原原はら山山やまののの奧奧おく、、、寂寂じゃく光光こう院院いんととと申申もうすすす所所ところこそこそこそ靜靜しずかかかににに候候そうらへへえ。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。女女にょう院院いん、、、「「「山山やま里里ざとはははものものものさびしきさびしきさびしき事事ことこそこそこそあんあんあんなれなれなれどもどもども、、、世世よののの憂憂うきききよりよりよりははは住住すみみみよかよかよかんんんなるなるなるものものものををを。。。」」」とととててて、、、思思おぼし召召めししし立立たたたたせせせ給給たまひひいけりけりけり。。。御御おん輿輿こしなどなどなどをををばばば、、、信信のぶ隆隆たか、、、隆隆たか房房ふさののの北北きたののの方方かたよりよりより御御ご沙沙さ汰汰たありありありけるけるけるとととかやかやかや。。。
- 3文文ぶん治治じ元元がん年年ねん九九く月月がつののの末末すえにににかのかのかの寂寂じゃく光光こう院院いんへへへ入入いらららせせせおはしますおはしますおわします。。。道道みちすがらすがらすがらももも四四よ方方もののの梢梢こずえののの色色いろ々々いろなるなるなるををを御御ご覽覽らんじじじ過過すぎぎぎさせさせさせ給給たまふふう程程ほどににに、、、山山やま陰陰かげなれなれなればばばにににややや、、、日日ひもももやう〳〵やう〳〵ようよう暮暮くれれれかゝりかゝりかかりぬぬぬ。。。野野の寺寺でらののの鐘鐘かねののの入入いり相相あいののの聲聲こえすごくすごくすごく、、、わくるわくるわくる草草くさ葉葉ばののの露露つゆしげみしげみしげみ、、、いとゞいとゞいとど御御おん袖袖そでぬれぬれぬれまさりまさりまさり、、、嵐嵐あらしはげしくはげしくはげしく、、、木木こののの葉葉はみだりがはしみだりがはしみだりがわし。。。空空そらかきかきかきくもりくもりくもり、、、いつしかいつしかいつしかうちうちうちしぐれしぐれしぐれつゝつゝつつ、、、鹿鹿しかののの音音ねかすかかすかかすかにににおとづれおとづれおとずれててて、、、蟲蟲むしのののうらみうらみうらみもももたえ〴〵たえ〴〵たえだえなりなりなり。。。とにかくにとにかくにとにかくに取取とりりりあつめあつめあつめたるたるたる御御おん心心こころ細細ぼそさささ、、、たとへたとへたとえやるやるやるべきべきべき方方かたもももなしなしなし。。。浦浦うらづたひづたひづたい、、、島島しまづたひづたひづたいせせせしかしかしかどもどもども、、、さすがさすがさすが斯斯かくくくはははなかりなかりなかりしししものものものをををととと、、、思思おぼし召召めすすすこそこそこそ悲悲かなしけれしけれしけれ。。。岩岩いわににに苔苔こけむしむしむしてててさびさびさびたるたるたる所所ところなれなれなればばば、、、住住すままままほしくまほしくまほしくぞぞぞ思思おぼし召召めすすす。。。露露つゆむすぶむすぶむすぶ庭庭にはののの萩萩はぎ原原はら霜霜しも枯枯がれれれててて、、、籬籬まがきののの菊菊きくののの枯枯かれ〴〵れ〴〵れがれににに、、、移移うつろふろふろう色色いろををを御御ご覽覽らんじじじてててももも、、、御御おん身身みののの上上うえとととややや思思おぼしししけんけんけん。。。佛佛ほとけののの御御おん前前まえににに參參まいらららせせせたまひたまひたまいててて、、、「「「天天てん子子し聖聖しょう靈靈りょう、、、成成じょう等等どう正正しょう覺覺がく、、、一一いち門門もん亡亡ぼう魂魂こん、、、頓頓とん證證しょう菩菩ぼ提提だい。。。」」」ととと祈祈いのりりり申申もうさささせせせ給給たまひひいけりけりけり。。。いついついつののの世世よにににももも忘忘わすれれれ難難がたきききははは先先せん帝帝ていののの御御おん面面おも影影かげひしひしひしととと御御おん身身みににに添添そひひいててて、、、いかならいかならいかならんんん世世よにににももも忘忘わするるるべしべしべしとととももも思思おぼし召召めさささずずず。。。
- 4さてさてさて寂寂じゃく光光こう院院いんののの傍傍かたわらににに、、、方方ほう丈丈じょうなるなるなる御御おん庵庵あん室室しつをををむすんむすんむすんででで、、、一一ひと閒閒まをををばばば佛佛ぶつ所所しょににに定定さだめめめ、、、一一ひと閒閒まをををばばば御御ご寢寢しん所所じょにににしつらひしつらひしつらい、、、晝晝ちゅう夜夜や朝朝ちょう夕夕せきののの御御おんつとめつとめつとめ、、、長長ちょう時時じ不不ふ斷斷だんののの御御おん念念ねん佛佛ぶつ、、、怠怠おこたるるる事事ことなくなくなくしししててて月月つき日日ひををを送送おくらららせせせ給給たまひひいけりけりけり。。。かくかくかくててて神神かみ無無な月月づき中中なかののの五五いつ日日かののの暮暮くれ方方がたににに、、、庭庭にはににに散散ちりりり敷敷しくくく楢楢ならののの葉葉はををを、、、ものものもの蹈蹈ふみみみ鳴鳴ならしらしらしててて聞聞きこえええけれけれければばば、、、「「「女女にょう院院いん世世よをををいとふいとふいとう所所ところににに、、、何何なに者者ものののの訪訪とひひい來來くるるるやらんやらんやらん。。。あれあれあれ見見みよよよややや。。。忍忍しのぶぶぶべきべきべきものものものならならならばばば急急いそぎぎぎ忍忍しのばばばんんん。。。」」」とととててて、、、見見みせせせらるゝらるゝらるるににに、、、小小お鹿鹿じかののの通通とおるるるにににてててぞぞぞありありありけるけるける。。。女女にょう院院いん、、、「「「さてさてさていかにいかにいかにやややいかにいかにいかに。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、大大だい納納な言言ごんののの佐佐すけののの局局つぼね涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて、、、
- 5岩岩いわ根根ねふみふみふみ誰誰たれかかかははは訪訪とはははむむん楢楢ならののの葉葉はのののそよぐそよぐそよぐははは鹿鹿しかのののわたるわたるわたるなりなりなりけりけりけり
- 6女女にょう院院いん、、、このこのこの歌歌うたあまりあまりあまりにににあはれあはれあわれににに思思おぼし召召めしししててて、、、窗窗まどののの小小こ障障しょう子子じにににあそばしあそばしあそばし留留とどめめめさせさせさせおはしますおはしますおわします。。。
- 7斯斯かかるかるかる御御おんつれ〴〵つれ〴〵つれづれののの中中うちにににももも、、、思思おぼし召召めしししなぞらふなぞらふなぞらうことことことどもどもどもははは、、、つらきつらきつらき中中なかにににもももあまたあまたあまたありありあり。。。軒軒のきににに竝竝ならべべべるるる植植うえ木木きをををばばば七七しち重重じゅう寶寶ほう樹樹じゅとととかたどりかたどりかたどり、、、岩岩いわ閒閒まにににつもるつもるつもる水水みずをををばばば八八はっ功功く德德どく水水すいととと思思おぼし召召めすすす。。。無無む常常じょうははは春春はるののの花花はな、、、風風かぜににに從從したがつつっててて散散ちりりり易易やすくくく、、、有有う涯涯がいははは秋秋あきののの月月つき、、、雲雲くもににに伴伴ともなつつっててて隱隱かくれれれやすしやすしやすし、、、承承しょう陽陽よう殿殿でんににに花花はなをををもてもてもてあそびあそびあそびししし朝朝あしたにににははは、、、風風かぜ來來きたつつってててにほひにほひにおいををを散散ちらしらしらし、、、長長ちょう秋秋しゅう宮宮きゅうににに月月つきををを詠詠えいぜぜぜししし夕夕ゆうべにににははは、、、雲雲くもおほうおほうおおうててて光光ひかりをををかくすかくすかくす。。。昔昔むかしははは玉玉ぎょく樓樓ろう金金きん殿殿でんににに錦錦にしきのののしとねしとねしとねををを敷敷しききき、、、妙妙たえなりなりなりししし御御おん住住すま居居いなりなりなりしかしかしかどもどもども、、、今今いまははは柴柴しば引引ひきききむすぶむすぶむすぶ草草くさののの庵庵いお、、、よそよそよそののの袂袂たもともももしをれしをれしおれけりけりけり。。。
現代語訳
去る七月九日の大地震で築地も崩れ、荒れた御所も傾き壊れて、いっそうお住まいになるよすがもない。緑衣の番人が宮門を守ることさえない。荒れるにまかせた垣根は、草の茂る野辺よりも露っぽく、時節を心得たように、いつしか虫の声々が恨むように鳴くのも哀れである。そうなると夜もしだいに長くなるので、いっそう目覚めがちで、夜を明かしかねておられた。尽きないもの思いに秋の哀れまで加わって、いっそう耐えがたく思われた。何事もすっかり変わり果てたつらい世なので、自然と情けをかけ申すはずの昔の縁者もみな枯れ果てて、誰がお世話申し上げるとも思えなかった。
けれども冷泉大納言隆房卿の北の方と七条修理大夫信隆卿の北の方からは、ひそかにいつもお見舞いを申し上げていた。女院は「昔は、あの人たちの世話になろうとは、露ほども思いもしなかったのに」と言って涙を流されたので、お仕えしている女房たちもみな袖を濡らした。このお住まいもやはり都に近く、道行く人の人目も多いので、露の命が風を待つ間だけでも、つらいことの聞こえない深い山の奥へ入りたいと思われたが、しかるべきつてもなかった。ある女房が吉田に参って申すには、「ここから北、大原山の奥の寂光院という所が静かでございます」と申した。女院は「山里はもの寂しいものだというけれど、つらい世の中よりは住みよいそうだ」と言って、移ることを思い立たれた。御輿などは、信隆・隆房の北の方から手配があったということである。
文治元年九月の末に、その寂光院にお入りになった。道すがら四方の梢がとりどりに色づいているのをご覧になりながら行かれるうちに、山陰だからであろうか、日もしだいに暮れかかった。野寺の鐘の入相の声はもの寂しく、分け入る草葉の露は深く、いっそう袖が濡れまさり、嵐は激しく、木の葉が乱れ散る。空がかき曇り、いつしか時雨が降りだして、鹿の声がかすかに聞こえ、虫の恨むような声も途切れがちである。あれこれと重なる心細さは、たとえようもない。浦伝い、島伝いをしたけれども、さすがにこれほどではなかったのにと思われるのが悲しい。岩に苔がむしてさびた所なので、住みたいと思われた。露の結ぶ庭の萩原は霜に枯れ、垣根の菊が枯れ枯れに色あせていくのをご覧になっても、わが身の上と思われたのであろうか。仏の御前に参られて、「天子の御霊が正しい悟りを得られますように。一門の亡き魂がすみやかに菩提を得られますように」とお祈りになった。いつの世にも忘れがたいのは先帝の面影で、ひしと身に添って、どんな世になっても忘れられるとは思われない。
さて寂光院のかたわらに方丈の庵室を結んで、一間を仏間とし、一間を寝所にしつらえ、昼夜朝夕のお勤め、絶え間のない念仏を怠ることなく、月日を送っておられた。こうして十月十五日の夕暮れに、庭に散り敷いた楢の葉を何者かが踏み鳴らす音が聞こえたので、「世をいとう所に、誰が訪ねて来るのだろう。あれを見なさい。隠れるべき者なら急いで隠れよう」と言って見させると、小鹿が通るのであった。女院が「さて、どうであったか」とおっしゃったので、大納言佐の局が涙をおさえて、
岩を踏みわけて誰が訪ねて来ようか。楢の葉がそよぐのは、鹿が渡っていく音なのであった。
女院はこの歌をたいそう哀れに思われて、窓の小障子にお書き留めになった。
このような所在ない日々の中にも、なぞらえて思われることは、つらい中にも多くあった。軒に並ぶ植木を極楽の七重宝樹にかたどり、岩間にたまる水を八功徳水と思われる。無常は春の花のように風に従って散りやすく、限りある命は秋の月のように雲に伴って隠れやすい。承陽殿で花をもてあそんだ朝には風が吹いて匂いを散らし、長秋宮で月を詠じた夕べには雲がおおって光を隠す。昔は玉楼金殿に錦の敷物を敷き、すばらしいお住まいであったが、今は柴を引き結んだ草の庵で、よその人の袂まで涙にしおれるのであった。
意訳
女院が都を離れ、大原の寂光院に移るまでを語る章段である。荒れ果てた吉田の住まい、晩秋の山路の寂しさ、庵の質素な暮らしが重ねて描かれ、栄華から遠ざかっていく女院の歩みが季節の移ろいとともに示される。
落ち葉を踏む音に人の訪れかと身構え、それが小鹿だったと知る場面は、人目を避けて生きる女院たちの不安と、山里の静けさとを同時に伝える。結びでは極楽の宝樹や功徳水になぞらえる仏道の心と、承陽殿・長秋宮での昔の栄華をしのぶ心とが対照的に置かれている。
語釈・文法注
文法
- 「綠衣の監使、宮門を守るだにもなし」
- 緑の衣を着た番人が宮門を守ることさえない。白居易「上陽白髪人」の句による。
- 「折知り顏に」
- 時節を心得た顔つきで。
- 「昔の草のゆかり」
- 昔の縁故の人々。「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る」による表現。
- 「露の御命の風を待たんほど」
- 露のようにはかない命が、風に散るのを待つ間だけでも。
- 「住みよかんなるものを」
- 住みよいということだよ。
- 「みだりがはし」
- 乱れているさま。
- 「天子聖靈、成等正覺、一門亡魂、頓證菩提」
- 安徳天皇の御霊が正しい悟りを成就し、一門の亡魂がすみやかに菩提を証せられますように。
- 「方丈なる御庵室」
- 一丈四方ほどの小さな庵室。
- 「長時不斷の御念佛」
- 絶え間なく唱え続ける念仏。
- 「さていかにやいかに」
- さて、どうであったか、どうであった。
- 「七重寶樹」
- 極楽浄土に七重に並ぶという宝の樹。
- 「八功德水」
- 極楽の池に満ちる、八つの功徳をそなえた水。
- 「承陽殿」「長秋宮」
- いずれも中国の宮殿の名で、皇后の御殿を指す。女院が中宮であったころの暮らしにたとえる。
和歌
岩根ふみ誰かは訪はむ楢の葉のそよぐは鹿のわたるなりけり
- 詠者
- 大納言佐の局
- 状況
- 寂光院の庵で、楢の落ち葉を踏む音に人の訪れかと驚いたところ、小鹿であったと知って詠んだ。
修辞
- 誰かは訪はむ
- 反語。こんな山奥に誰が訪ねて来ようか、誰も来はしない。
- なりけり
- 気づきの「けり」。鹿だったのだと今わかった。
解説
寂光院(京都市左京区大原)は聖徳太子の創建と伝える天台宗の尼寺で、建礼門院がここに隠棲したことで知られる。建礼門院の大原入りは、史実では文治元年(1185)の秋とされる。大納言佐の局は平重衡の妻(藤原輔子)で、安徳天皇の乳母を務めた人。七月の大地震は元暦二年(文治元年)七月九日の大地震で、巻第十二「大地震の事」に語られている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、855–858頁(コマ456–458)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日