平家物語 灌頂巻
女院御出家の事
壇の浦から都に戻された建礼門院は、東山の麓、吉田のあたりにある荒れはてた僧坊に身を寄せた。文治元年五月一日、長楽寺の印誓上人を戒師として出家し、布施には形見として持ち帰った安徳天皇の御直衣を差し出した。かつては后として栄華をきわめた女院も、二十九歳で尼となったが、海に沈んだ人々の面影は身から離れず、眠れぬ夜を過ごした。軒近くの花橘に時鳥が鳴いて過ぎると、古歌を思い出して硯の蓋に書きつけた。生き残った女房たちも捕らえられて故郷に帰ったが、住まいは焼けて跡ばかりとなり、訪ねる人もなかった。
- 1建建けん禮禮れい門門もん院院いんははは東東ひがし山山やまののの麓麓ふもと、、、吉吉よし田田だののの邊邊へんなるなるなる所所ところにににぞぞぞ立立たち入入いらららせせせ給給たまひひいけるけるける。。。中中ちゅう納納な言言ごんののの法法ほう印印いん慶慶きょう惠惠えととと申申もうすすす奈奈な良良ら法法ほう師師しののの坊坊ぼうなりなりなりけりけりけり。。。住住すみみみ荒荒あらしらしらしててて年年とし久久ひさしうしうしゅうなりなりなりけれけれければばば、、、庭庭にはにににははは草草くさ深深ふかくくく、、、軒軒のきにににはははしのぶしのぶしのぶ茂茂しげれれれりりり。。。簾簾すだれ斷斷たえええ閨閨ねやあらはあらはあらわにににててて、、、雨雨あめ風風かぜたまるたまるたまるべうべうびょうもももなしなしなし。。。花花はなはははいろ〳〵いろ〳〵いろいろにほへにほへにおえどもどもども、、、主主ある人人じととと賴賴たのむむむ人人ひともももなくなくなく、、、月月つきははは夜夜よな〳〵な〳〵なよなさしさしさし入入いれれれどもどもども、、、ながめながめながめてててあかすあかすあかす主主ぬしもももなしなしなし。。。昔昔むかしははは玉玉たまののの臺臺うてなをををみがきみがきみがき、、、錦錦にしきののの帳帳ちょうにににまとはまとはまとわれれれててて、、、あかしあかしあかし暮暮くらさらさらさせせせ給給たまひひいしししががが、、、今今いまはははありありありとととしししあるあるある人人ひとにににももも、、、みなみなみな別別わかれれれはてはてはてててて、、、あさましげあさましげあさましげなるなるなる朽朽くち房房ぼうににに入入いらららせせせ給給たまひひいけんけんけん御御おん心心こころののの中中うち、、、推推おししし量量はかららられれれてててあはれあはれあわれなりなりなり。。。魚魚うおののの陸陸くがににに上上あがれれれるるるががが如如ごとくくく、、、鳥鳥とりののの巢巢すををを離離はなれれれたるたるたるががが如如ごとししし。。。さるさるさるまゝまゝままにににはははうかりうかりうかりししし波波なみののの上上うえ、、、船船ふねののの中中うちののの御御おん住住すま居居いももも、、、今今いまはははこひしうこひしうこいしゅうぞぞぞ思思おぼし召召めささされれれけるけるける。。。蒼蒼そう波波は路路みち遠遠とおししし、、、思思おもひひいををを西西さい海海かい千千せん里里りののの雲雲くもににに寄寄よすすす。。。白白はく屋屋おく苔苔こけ深深ふかくくくしししててて、、、涙涙なみだ東東とう山山ざん一一いっ庭庭ていののの月月つきににに落落おつつつ。。。かなしかなしかなしととともももいふいふいうばかりばかりばかりなしなしなし。。。
- 2かくかくかくててて女女にょう院院いんははは文文ぶん治治じ元元がん年年ねん五五ご月月がつ一一ひと日日ひののの日日ひ、、、御御おん髪髪ぐしおろさおろさおろさせせせ給給たまひひいけりけりけり。。。御御おん戒戒かいののの師師しにににははは長長ちょう樂樂らく寺寺じののの阿阿あ證證しょう坊坊ぼうののの上上しょう人人にん印印いん誓誓せいとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。御御おん布布ふ施施せにににははは先先せん帝帝ていののの御御おん直直なお衣衣しなりなりなり。。。既既すでににに今今いまはははののの時時ときまでまでまでももも召召めささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、そのそのその御御おんうつりうつりうつり香香がももも未未いまだだだ失失うせせせずずず、、、御御おんかたみかたみかたみににに御御ご覽覽らんぜぜぜんんんとととててて、、、西西さい國國こくよりよりよりはる〴〵はる〴〵はるばるととと都都みやこまでまでまで持持もたたたせせせ給給たまひひいたりたりたりしかしかしかばばば、、、いかならいかならいかならんんん世世よまでまでまでももも、、、御御おん身身みををを放放はなたたたじじじとととこそこそこそ思思おぼし召召めささされれれけれけれけれどもどもども、、、御御おん布布ふ施施せににになりなりなりぬぬぬべきべきべき物物もののののなきなきなき上上うえ、、、かつうかつうかつうはははかのかのかの御御ご菩菩ぼ提提だいののの爲爲ためにににもももとととててて、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく取取とりりり出出いださささせせせおはしますおはしますおわします。。。上上しょう人人にんこれこれこれををを賜賜たまはつはつわっててて、、、何何なにととと奏奏そうすすすべきべきべき旨旨むねもももなくなくなくしししててて、、、墨墨すみ染染ぞめののの袖袖そでををを顏顏かおにににおしおしおし當當あてててててて泣泣なく〳〵く〳〵くなく御御ご所所しょをををぞぞぞまかりまかりまかり出出いでででられられられけるけるける。。。件件くだんののの御御ぎょ衣衣いをををばばば旗旗はたににに縫縫ぬうううててて、、、長長ちょう樂樂らく寺寺じののの佛佛ぶつ前前ぜんにににかけかけかけられられられけるけるけるとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
- 3女女にょう院院いんははは十十じゅう五五ごにににててて女女にょう御御ごののの宣宣せん旨旨じををを蒙蒙こうぶりりり、、、十十じゅう六六ろくにににててて后后こう妃妃ひののの位位くらいににに備備そなはりはりわり、、、君君くん王王おうののの側側かたわらににに候候さぶらははわせせせ給給たまひひいててて、、、朝朝あしたにににははは朝朝あさ政政まつりごとををを勸勸すすめめめ、、、夜夜よるははは夜夜よををを專專もっぱらららにににししし給給たまへへえりりり。。。二二に十十じゅう二二ににににててて皇皇おう子子じ御御ご誕誕たん生生じょうあつあつあっててて、、、皇皇こう太太たい子子しににに立立たちちち、、、位位くらいににに即即つかかかせせせ給給たまひひいしかしかしかばばば、、、院院いん號號ごう蒙蒙こうぶらららせせせ給給たまひひいててて建建けん禮禮れい門門もん院院いんとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの御御おん女女むすめなるなるなる上上うえ、、、天天てん下下かののの國國こく母母もにににてててましませましませましませばばば、、、世世よののの重重おもうううししし奉奉たてまつるるる事事ことなのめなのめなのめならならならずずず。。。今年今年ことしははは二二に十十じゅう九九くにににぞぞぞならならならせせせまし〳〵まし〳〵ましましけるけるける。。。桃桃とう李李りののの御御おんよそほひよそほひよそおい猶猶なおこまやかこまやかこまやかににに、、、芙芙ふ蓉蓉ようののの御御おんかたちかたちかたちももも未未いまだだだ衰衰おとろへへえさせさせさせ給給たまははわねねねどもどもども、、、翡翡ひ翠翠すいののの御御おん簪簪かんざしつけつけつけてててももも何何なににににかかかはははせせせさせさせさせ給給たまふふうべきべきべきなれなれなればばば、、、遂遂ついににに御御おんさまさまさまをををかへかへかへさせさせさせ給給たまひひいてててけりけりけり。。。憂憂うききき世世よをををいとひいとひいとい、、、まことまことまことののの道道みちににに入入いらららせせせ給給たまへへえどもどもども、、、御御おんなげきなげきなげきははは更更さらにににつきつきつきせせせずずず。。。人人ひと々々びと今今いまはははかうかうこうとととててて海海うみににに沉沉しずみみみしししありさまありさまありさま、、、先先せん帝帝てい、、、二二に位位い殿殿どのののの御御おん面面おも影影かげ、、、ひしひしひしととと御御おん身身みににに添添そひひいててて、、、いかならいかならいかならんんん世世よににに忘忘わするるるべしべしべしとととももも思思おぼし召召めさささねねねばばば、、、露露つゆののの御御おん命命いのちののの、、、何何なにしししににに今今いままでまでまでながらへながらへながらへててて、、、斯斯かかるかるかるうきうきうき目目めををを見見みるるるらんらんらんとととててて、、、御御おん涙涙なみだせきせきせきあへあへあえさせさせさせ給給たまははわずずず。。。
- 4五五さ月月つきのののみじかみじかみじか夜夜よなれなれなれどもどもども、、、あかしあかしあかしかねかねかねさせさせさせ給給たまひひいつゝつゝつつ、、、おのづからおのづからおのずからうちうちうちまどろままどろままどろませせせ給給たまははわねねねばばば、、、昔昔むかしののの事事ことをををばばば夢夢ゆめにににだにだにだに御御ご覽覽らんぜぜぜずずず。。。壁壁かべににに背背そむけけけるるる殘殘のこんんんののの燈燈ともしびののの影影かげかすかかすかかすかににに、、、夜夜よもすがらもすがらもすがら窗窗まど打打うつつつ暗暗くらききき雨雨あめののの音音おとぞぞぞ寂寂さびしかりしかりしかりけるけるける。。。上上しょう陽陽よう人人じんががが上上しょう陽陽よう宮宮きゅうににに閉閉とぢぢじられられられたりたりたりけんけんけん悲悲かなしみしみしみももも、、、これこれこれにににははは過過すぎぎぎじじじとととぞぞぞ見見みえええししし。。。昔昔むかしををを忍忍しのぶぶぶつまつまつまとととなれなれなれとととてててややや、、、もともともとののの主主ある人人じののの移移うつししし植植うゑゑえ置置おきききたりたりたりけんけんけん、、、花花はな橘橘たちばなののの風風かぜなつかしくなつかしくなつかしく、、、軒軒のき近近ちかくくくかをりかをりかおりけるけるけるににに、、、山山やま時時ほとと鳥鳥ぎすののの二二ふた聲聲こえ三三み聲聲こえおとづれおとづれおとずれててて通通とおりりりけれけれければばば、、、女女にょう院院いんふるきふるきふるきことことことなれなれなれどもどもども、、、思思おぼし召召めししし出出いでででててて、、、御御おん硯硯すずりののの蓋蓋ふたにににかうかうこうぞぞぞあそばさあそばさあそばされれれけるけるける。。。
- 5ほとゝぎすほとゝぎすほととぎす花花はな橘橘たちばなののの香香かをををとめとめとめててて啼啼なくくくはははむかしむかしむかしののの人人ひとぞぞぞこひしきこひしきこいしき
- 6女女にょう房房ぼうたちたちたちははは二二に位位い殿殿どの、、、越越えち前前ぜんののの三三さん位位みののの上上うえののの樣樣ようににに、、、さささのみのみのみ猛猛たきょううう、、、水水みずののの底底そこにににももも沉沉しずみみみ給給たまははわねねねばばば、、、武武ぶ士士しのののあらけなきあらけなきあらけなきににに捕捕とらははわれれれててて、、、舊舊きゅう里里りににに歸歸かえりりり、、、老老おいいいたるたるたるももも若若わかきききももも或或あるいはははさまさまさまをををかへかへかへ、、、或或あるいはははかたちかたちかたちをををやつしやつしやつし、、、あるあるあるにににもももあらあらあらぬぬぬ有有あり樣樣さまどもどもどもにににててて、、、思思おもひひいもももかけかけかけぬぬぬ谷谷たにののの底底そこ、、、岩岩いわののの閒閒はざまにににてててぞぞぞあかしあかしあかし暮暮くらさささせせせ給給たまひひいけるけるける。。。住住すまひひいししし宿宿やどはははみなみなみな煙煙けぶりととと立立たちちち上上のぼりりりにににしかしかしかばばば、、、空空むなしきしきしき跡跡あとのみのみのみ殘殘のこつつっててて、、、しげきしげきしげき野野のべべべとととなりなりなりつゝつゝつつ、、、見見みなれなれなれししし人人ひとののの訪訪とひひい來來くるるるもももなしなしなし。。。仙仙せん家家かよりよりより歸歸かえつつっててて七七しち世世せいののの孫孫そんににに逢逢あひひいけんけんけんももも、、、かくかくかくやややととと覺覺おぼえええてててあはれあはれあわれなりなりなり
現代語訳
建礼門院は東山の麓、吉田のあたりにある所にお入りになった。中納言の法印慶恵と申す奈良法師の僧坊であった。住み荒らして年久しくなっていたので、庭には草が深く、軒にはしのぶ草が茂っていた。簾は切れ、寝所はむき出しで、雨風も防ぎようがない。花はとりどりに咲き匂うけれども、主人と頼む人もなく、月は夜ごとに差し込むけれども、眺めて夜を明かす主もいない。昔は玉の御殿を磨きたて、錦の帳に囲まれて日々を過ごしていらしたのに、今は親しい人々ともみな別れ果てて、見る影もない朽ちた僧坊にお入りになった御心の中は、推し量られて哀れである。魚が陸に上がったようで、鳥が巣を離れたようである。そうなると、つらかった波の上、船の中のお住まいも、今は恋しく思われた。青い波の路は遠く、思いを西海千里の雲に寄せる。粗末な家に苔は深く、涙は東山の庭に差す月に落ちる。悲しいとも言いようがなかった。
こうして女院は文治元年五月一日に御髪をおろされた。御戒の師は長楽寺の阿証坊の上人印誓ということであった。御布施には先帝の御直衣を差し出された。最期のときまでお召しになっていたので、その移り香もまだ消えず、形見に見ようと西国からはるばる都まで持っておいでになったので、どんな世になっても身から離すまいと思われていたが、布施になりそうな物がないうえ、一つには先帝のご菩提のためにもと、泣く泣く取り出された。上人はこれをいただいて、何と申し上げる言葉もなく、墨染の袖を顔に押し当てて、泣く泣く御所を退出された。その御衣は幡に縫って、長楽寺の仏前に掛けられたということである。
女院は十五歳で女御の宣旨を受け、十六歳で后の位にお就きになり、帝のおそばにお仕えして、朝には政務をお勧めし、夜は寵愛を一身に受けておられた。二十二歳で皇子がお生まれになり、皇太子に立ち、やがて位にお就きになったので、院号を賜って建礼門院と申し上げた。入道相国の御娘であるうえ、天下の国母でいらしたので、世の人々の重んじ申すことはひととおりではなかった。今年は二十九歳におなりであった。桃や李のような美しさはなお細やかで、芙蓉のようなお顔立ちもまだ衰えていらっしゃらなかったが、翡翠の髪飾りをつけても何になろうかと、ついに尼姿になられたのであった。憂き世をいとい、仏の道にお入りになったけれども、お嘆きはいっこうに尽きない。人々がもはやこれまでと海に沈んだありさま、先帝と二位殿の面影がひしと身に添って、いつの世にも忘れられるとは思えないので、露のようにはかない命が、どうして今まで長らえて、このようなつらい目を見るのだろうと、涙をおさえきれなかった。
五月の短い夜ではあるが、明かしかねていらして、自然とまどろむこともおできにならないので、昔のことを夢にさえご覧にならない。壁に背を向けた燃え残りの灯火の影はかすかで、夜通し窓を打つ暗い雨の音がもの寂しかった。上陽人が上陽宮に閉じこめられたという悲しみも、これにはまさるまいと見えた。昔をしのぶよすがとなれというのか、もとの主人が移し植えておいたのであろう、花橘の香りが風になつかしく、軒近く匂っているところへ、山時鳥が二声三声鳴いて通り過ぎたので、女院は古い歌であるけれども思い出されて、御硯の蓋にこのようにお書きになった。
時鳥よ、花橘の香を求めてやって来て鳴くのは、おまえも昔の人が恋しいからなのか。
女房たちは、二位殿や越前三位の北の方のように気丈に海の底に沈むこともなさらなかったので、荒々しい武士に捕らえられて故郷に帰り、老いた者も若い者も、あるいは尼になり、あるいは姿をやつして、生きているともいえないありさまで、思いもかけない谷の底や岩のはざまで日々を過ごしておられた。住んでいた家はみな煙となって立ちのぼってしまったので、むなしい跡ばかりが残って草深い野辺となり、見慣れた人の訪れてくることもない。仙境から帰って七代後の孫に会ったという話も、このようであったかと思われて哀れである。
意訳
灌頂巻は、壇の浦で生き残った建礼門院の後半生を語る巻で、流布本では巻第十二のあとに置かれる。冒頭の荒れた僧坊の描写は、かつての后の御殿との落差によって、女院の境遇の激変を印象づける。
形見の御直衣を布施として差し出す場面には、わが子安徳天皇への思いを断ち切って仏道に入ろうとする女院の決意と、なお断ち切れない悲しみとが重ねられている。花橘と時鳥の古歌は、「昔の人」を恋う女院の心をそのまま映し出している。
語釈・文法注
文法
- 「簾斷え閨あらはにて」
- 簾は切れ、寝所はむき出しになって。
- 「玉の臺」
- 玉で飾ったような美しい御殿。
- 「蒼波路遠し、思ひを西海千里の雲に寄す。白屋苔深くして、涙東山一庭の月に落つ」
- 漢詩風の対句。西海に沈んだ人々を思い、東山の粗末な住まいで涙を落とす。
- 「御直衣」
- 安徳天皇の着ていた直衣。
- 「旗に縫うて」
- 仏前に掛ける幡(ばん)に縫い直して。
- 「夜は夜を專らにし給へり」
- 夜は帝の寵愛を一身に受けておられた。「長恨歌」の句による。
- 「桃李の御よそほひ」
- 桃や李の花のような美しいお姿。
- 「翡翠の御簪」
- かわせみの羽のように美しい髪飾り。
- 「壁に背ける殘んの燈」
- 壁に背けて置いた燃え残りの灯火。「上陽白髪人」の詩句による。
- 「上陽人が上陽宮に閉ぢられたりけん悲しみ」
- 唐の玄宗の時代、楊貴妃に疎まれて上陽宮に閉じこめられ、空しく老いた宮女の悲しみ。白居易「上陽白髪人」による。
- 「昔を忍ぶつま」
- 昔をしのぶよすが。
- 「仙家より歸つて七世の孫に逢ひけん」
- 仙境から帰ると七代後の孫の世になっていたという故事。
- 「かくやと覺えてあはれなり」
- 底本は末尾に句点を刷らない。
和歌
ほとゝぎす花橘の香をとめて啼くはむかしの人ぞこひしき
- 詠者
- 建礼門院(古歌)
- 状況
- 軒近くの花橘に時鳥が鳴いて過ぎたとき、女院が古い歌を思い出して硯の蓋に書きつけた。
修辞
- 花橘の香
- 『古今集』の「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」以来、昔の人をしのばせるもの。
- むかしの人
- ここでは安徳天皇や海に沈んだ平家一門の人々。
解説
建礼門院(平徳子、1155–1213)は平清盛の娘で、高倉天皇の中宮となり安徳天皇を生んだ。壇の浦で入水したが源氏に引き上げられ、文治元年(1185)五月に出家した。戒師の印誓は東山の長楽寺の僧で、長楽寺には今も女院ゆかりの品が伝わる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、853–855頁(コマ455–456)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日