平家物語 巻第十二
六代斬られの事
成長して美しくなった六代について、頼朝は文覚に人柄を問い、文覚は「底もない不覚人です」と答えたが、頼朝はなお気を許さなかった。六代は十六歳で出家して修行に出、高野山で父維盛の最期を滝口入道に聞き、熊野の浜の宮から父が入水した山成の島を望んで弔った。そのころ後鳥羽院は遊びにふけり、文覚は二の宮を位につけようと謀ったが、頼朝の死後に謀叛が漏れて隠岐へ流された。文覚は院を「毬杖冠者」と罵り、のちに承久の乱で院も隠岐へ流された。やがて三位の禅師となった六代も、頼朝の疑いを受けて捕らえられ、相模の田越川のほとりで斬られ、平家の子孫は永く絶えた。
- 1さるさるさる程程ほどににに六六ろく代代だい御御ご前前ぜんやう〳〵やう〳〵ようよう生生おひひい立立たちちち給給たまふふう程程ほどににに、、、十十じゅう四四し五五ごにににもももなりなりなり給給たまへへえばばば、、、いとゞいとゞいとどみめみめみめかたちかたちかたち美美うつくしくしくしく、、、あたりあたりあたりももも照照てりりり輝輝かがやくくく許許ばかりりりなりなりなり。。。母母ほう上上へこれこれこれををを見見み給給たまひひいててて、、、「「「世世よののの世世よにににてててあらあらあらましかましかましかばばば、、、當當とう時時じははは近近こん衞衞え司司つかさにににてててあらあらあらんんんずるずるずるものものものををを。。。」」」とととのたまひのたまひのたまいけるけるけるこそこそこそ、、、あまりあまりあまりののの事事ことなれなれなれ。。。鎌鎌かま倉倉くら殿殿どの、、、便便びん宜宜ぎごとごとごとににに高高たか雄雄おののの聖聖ひじりのののもともともとへへへ、、、「「「さてさてさてももも預預あずけけけ奉奉たてまつつつつししし小小こ松松まつののの三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう維維これ盛盛もりののの卿卿きょうののの子子し息息そく六六ろく代代だい御御ご前前ぜんははは、、、いかやういかやういかようののの人人ひとにににててて候候そうろうやらんやらんやらん。。。昔昔むかし賴賴より朝朝ともををを相相そうししし給給たまひひいしししやうやうようににに、、、朝朝ちょうののの怨怨おん敵敵てきをををももも平平たいらららげげげ、、、父父ちちののの恥恥はじをををもももきよむきよむきよむべきべきべき程程ほどののの仁仁じんやらんやらんやらん。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、文文もん覺覺がく坊坊ぼうののの返返へん事事じににに、、、「「「これこれこれははは一一いっ向向こう底底そこもももなきなきなき不不ふ覺覺かく人人じんにににててて候候そうろうぞぞぞ。。。御御おん心心こころやすくやすくやすくおぼしおぼしおぼし召召めささされれれ候候そうらへへえ。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれけれどもどもども、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのなほなほなおももも心心こころゆかゆかゆかずずずげげげにににててて、、、「「「謀謀む叛叛ほん起起おこさささばばば、、、やがてやがてやがて方方かた人人うどすすすべきべきべき聖聖ひじりののの御御おん坊坊ぼうなりなりなり。。。さりさりさりながらながらながらももも賴賴より朝朝とも一一いち期期ごががが閒閒あいだははは誰誰たれかかか傾傾かたぶくくくべきべきべき、、、子子し孫孫そんののの末末すえははは知知しらららずずず。。。」」」とととのたまひのたまひのたまいけるけるけるこそこそこそ怖怖おそろしろしろしけれけれけれ。。。
- 2母母ほう上上へこのこのこの由由よしををを聞聞きききき給給たまひひいててて、、、「「「いかにいかにいかにややや六六ろく代代だい御御ご前前ぜん、、、はや〳〵はや〳〵はやはや出出しゅっ家家けししし給給たまへへえ。。。」」」とととありありありしかしかしかばばば、、、生生しょう年年ねん十十じゅう六六ろくととと申申もうしししししし文文ぶん治治じ五五ご年年ねんののの春春はるののの頃頃ころ、、、さしもさしもさしも美美うつくしきしきしき御御おん髪髪ぐしををを、、、肩肩かたのののまはりまはりまわりににに鋏鋏はさみみみおろしおろしおろし、、、柹柹かきののの衣衣ころも、、、柹柹かきののの袴袴はかま、、、笈笈おいなどなどなど用用よう意意いしししててて、、、やがてやがてやがて修修しゅ業業ぎょうにににこそこそこそ出出いでででられられられけれけれけれ。。。齋齋さい藤藤とう五五ご、、、齋齋さい藤藤とう六六ろくももも、、、同同おなじじじ樣樣ようににに出出いででで立立たつつっててて、、、御御おん供供ともにににぞぞぞまゐりまゐりまいりけるけるける。。。まづまづまず高高こう野野やへへへ上上のぼりりり、、、父父ちちののの善善ぜん知知じ識識しきししし給給たまひひいけるけるける瀧瀧たき口口ぐち入入にゅう道道どうににに尋尋たずねねね逢逢あひひい、、、御御ご出出しゅっ家家けのののさまさまさま、、、御御ご臨臨りん終終じゅうのののありありあり樣樣よう、、、委委くわしうしうしゅう尋尋たずねねね問問とひひい、、、かつうかつうかつうはははそのそのその跡跡あともももなつかしなつかしなつかしとととててて、、、熊熊くま野野のへへへこそこそこそ參參まいららられれれけれけれけれ。。。濱濱はまののの宮宮みやととと申申もうししし奉奉たてまつるるる王王おう子子じののの御御ご前前ぜんよりよりより、、、父父ちちののの渡渡わたりりり給給たまひひいたりたりたりししし山山やま鳴鳴なりののの島島しま見見み渡渡わたいいいててて、、、渡渡わたらららまほしうまほしうまほしゅう思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、波波なみ風風かぜ向向むこうううててて叶叶かなははわねねねばばば力力ちから及及およびびび給給たまははわずずず、、、ながめながめながめやりやりやり給給たまふふうににに、、、わがわがわが父父ちちはははいづくいづくいずくにににかかか沉沉しずみみみ給給たまひひいけんけんけんととと、、、沖沖おきよりよりより寄寄よするするする白白しら波波なみにににももも、、、問問とはははまほしうまほしうまほしゅうぞぞぞ思思おもははわれれれけるけるける。。。濱濱はまののの砂砂まさごももも父父ちちののの御御おん骨骨こつやらんやらんやらんとととなつかしくなつかしくなつかしくててて、、、涙涙なみだににに袖袖そではははしをれしをれしおれつゝつゝつつ、、、潮潮しお汲汲くむむむあまあまあまののの衣衣ころもならならならねねねどどど、、、乾乾かわくくく閒閒まなくなくなくぞぞぞ見見みえええられられられけるけるける。。。渚渚なぎさににに一一いち夜夜や逗逗とう留留りゅうししし、、、夜夜よもすがらもすがらもすがら經經きょう讀讀よみみみ念念ねん佛佛ぶつしししててて、、、指指ゆびののの先先さきにににててて濱濱はまののの砂砂まさごににに佛佛ほとけののの姿姿すがたををを書書かきききあらはしあらはしあらわし、、、あけあけあけけれけれければばば僧僧そうををを請請しょうじじじ、、、作作さ善善ぜんののの功功く德德どくさながらさながらさながら精精しょう靈靈りょうにににととと廻廻え向向こうしししててて、、、都都みやこへへへ歸歸かえりりり上上のぼららられれれけんけんけん心心こころののの中中うち、、、推推おししし量量はかららられれれてててあはれあはれあわれなりなりなり。。。
- 3そのそのその頃頃ころののの主主しゅ上上じょうははは後後ご鳥鳥と羽羽ばののの院院いんにににてててまし〳〵まし〳〵ましましけるけるけるががが、、、御御ぎょ遊遊ゆうをををのみのみのみ宗宗むねとととせせせさせさせさせおはしますおはしますおわします。。。政政せい道道どうははは一一いっ向向こう、、、卿卿きょうののの局局つぼねのののまゝまゝままなりなりなりけれけれければばば、、、人人ひとののの憂憂うれへへえ歎歎なげきききもももやまやまやまずずず。。。呉呉ご王王おう劍劍けん客客かくををを好好このみみみしかしかしかばばば、、、天天てん下下かににに傷傷きずををを蒙蒙こうぶるるる輩輩ともがら絶絶たえええずずず。。。楚楚そ王王おう細細さい腰腰ようををを愛愛あいせせせしかしかしかばばば、、、宮宮きゅう中中ちゅうににに餓餓うゑゑえててて死死しするするする女女おんな多多おおかりかりかりききき。。。上上かみののの好好このむむむ事事ことににに下下しもははは從從したがふふう習習ならひひいなれなれなればばば、、、世世よののの危危あやうきききありさまありさまありさまををを見見みてててははは、、、心心こころあるあるある人人ひとののの歎歎なげききき悲悲かなしましましまぬぬぬはははなかりなかりなかりけりけりけり。。。中中なかにににももも二二にののの宮宮みやととと申申もうすすすははは、、、政政せい道道どうををを專專もっぱらららとととせせせさせさせさせ給給たまひひいててて、、、御御おん學學がく問問もん怠怠おこたらららせせせ給給たまははわねねねばばば、、、文文もん覺覺がくはははおそろしきおそろしきおそろしき聖聖ひじりにににててて、、、いろふいろふいろうまじきまじきまじき事事ことをををのみのみのみいろひいろひいろい給給たまへへえりりり。。。いかにいかにいかにもももしししてててこのこのこの君君きみををを位位くらいにににつけつけつけ奉奉たてまつらららばやばやばやととと思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、賴賴より朝朝ともののの卿卿きょうのののおはしおはしおわしけるけるける程程ほどははは、、、思思おもひひいももも立立たたたたれれれずずず。。。
- 4かくかくかくててて建建けん久久きゅう十十じゅう年年ねん正正しょう月月がつ十十じゅう三三さん日日にち、、、賴賴より朝朝とも卿卿きょう年年とし五五ご十十じゅう三三さんにににててて失失うせせせ給給たまひひいしかしかしかばばば、、、文文もん覺覺がくやがてやがてやがて謀謀む叛叛ほんををを起起おこささされれれけるけるけるががが、、、忽忽たちまちちちににに漏漏もれれれ聞聞きこえええててて、、、文文もん覺覺がく坊坊ぼうののの宿宿しゅく所所しょ二二に條條じょう猪猪いの熊熊くまなるなるなる所所ところににに、、、官官かん人人にん共共どもあまたあまたあまたつけつけつけられられられててて、、、八八はち十十じゅうにににあまつあまつあまっててて、、、搦搦からめめめ捕捕とららられれれててて、、、遂遂ついににに隱隱お岐岐きののの國國くにへへへぞぞぞ流流ながささされれれけるけるける。。。文文もん覺覺がく京京きょうををを出出いづるづるずるとととててて、、、「「「これこれこれ程程ほどににに老老おいののの浪浪なみににに立立たつつっててて、、、今日今日きょう明日明日あすををを知知しらららぬぬぬ身身みををを、、、たとひたとひたとい敕敕ちょっ勘勘かんなれなれなればばばとととててて、、、都都みやこののの片片かたほとりほとりほとりにににももも置置おかかかずずずしししててて、、、はる〴〵はる〴〵はるばるととと隱隱お岐岐きののの國國くにまでまでまで流流ながささされれれけるけるける、、、毬毬ぎっ杖杖ちょう冠冠かん者者じゃこそこそこそやすからやすからやすからねねね。。。いかやういかやういかようにににもももわがわがわが流流ながさささるゝるゝるる國國くにへへへ、、、迎迎むかへへえ取取とらららんんんずるずるずるものものものををを。。。」」」ととと躍躍おどりりり上上あがり〳〵り〳〵りおどりあがりぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。このこのこの君君きみはははあまりあまりあまりににに毬毬ぎっ杖杖ちょうののの玉玉たまををを愛愛あいせせせさせさせさせ給給たまふふう閒閒あいだ、、、文文もん覺覺がくかやうかやうかようにににははは惡惡あく口口こう申申もうしししけるけるけるなりなりなり。。。そのそのその後後のち承承じょう久久きゅうににに御御ご謀謀む叛叛ほん起起おこさささせせせ給給たまひひいててて、、、國國くにこそこそこそ多多おおけれけれけれ、、、はる〴〵はる〴〵はるばるととと隱隱お岐岐きののの國國くにまでまでまで遷遷うつささされれれさせさせさせまし〳〵まし〳〵ましましけるけるける宿宿しゅく緣緣えんののの程程ほどこそこそこそ不不ふ思思し議議ぎなれなれなれ。。。そのそのその國國くににににててて文文もん覺覺がくががが亡亡ぼう靈靈れい荒荒あれれれててて、、、恐恐おそろしきろしきろしき事事ことどもどもども多多おおかりかりかりけりけりけり。。。常常つねははは御御ご前前ぜんへへへももも參參まいりりり、、、御御おん物物もの語語がたりどもどもども申申もうしししけるけるけるとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
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現代語訳
そうして六代御前はしだいに成長なさって、十四、五歳にもおなりになると、いっそう顔かたちが美しく、あたりも照り輝くほどであった。母上はこれをご覧になって、「世が世であったなら、今ごろは近衛の官人になっていたであろうに」とおっしゃったのは、あまりのことである。鎌倉殿は機会があるたびに高雄の聖のもとへ、「さてお預けした小松三位中将維盛卿の子息六代御前は、どのような人でしょうか。昔この頼朝を見立てなさったように、朝廷の仇敵をも平らげ、父の恥をもすすぐほどの人物でしょうか」と申されたので、文覚坊の返事には、「これはまったく底の知れない愚か者でございます。ご安心ください」と申されたが、鎌倉殿はなおも納得しない様子で、「謀叛を起こせば、すぐに味方をするに違いない聖の御坊だ。しかし頼朝一代の間は誰が世を傾けられよう。子孫の末はわからない」とおっしゃったのは恐ろしいことであった。
母上はこのことをお聞きになって、「さあ六代御前、早く早く出家しなさい」とおっしゃったので、生年十六歳と申した文治五年の春のころ、あれほど美しい御髪を肩のあたりで切り下ろし、柿色の衣と袴、笈などを用意して、すぐに修行に出られた。斎藤五・斎藤六も同じ姿で出立してお供に参った。まず高野山に上り、父の出家の導師をなさった滝口入道を訪ねて会い、ご出家の様子、ご臨終のありさまを詳しく尋ね聞き、一つにはその跡もなつかしいと、熊野へ参られた。浜の宮と申す王子社の御前から、父が渡られた山成の島を見渡して、渡りたいと思われたが、波風が向かい風でかなわないのでどうしようもなく、眺めやりながら、わが父はどこに沈まれたのだろうと、沖から寄せる白波にも尋ねたい思いであった。浜の砂も父の御骨であろうかとなつかしくて、涙に袖は濡れしおれ、潮を汲む海人の衣ではないけれど、乾く間もないように見えた。渚に一夜とどまり、夜通し経を読み念仏を唱え、指の先で浜の砂に仏の姿を描き、夜が明けると僧を招いて、作善の功徳をそのまま父の霊にと回向して、都へ帰り上られた心の中は、推し量られて哀れである。
そのころの帝は後鳥羽院でいらしたが、遊びばかりを第一になさっていた。政治はすべて卿局の思いのままであったので、人々の憂い嘆きはやまなかった。呉王が剣客を好んだので、天下に傷を負う者が絶えなかった。楚王が細い腰を愛したので、宮中に飢えて死ぬ女が多かった。上の好むことに下は従うならいなので、世の危うい様子を見ては、心ある人で嘆き悲しまない者はなかった。なかでも二の宮と申す方は、政治を第一とされ、ご学問も怠りなさらなかったので、文覚は恐ろしい聖で、関わるべきでないことにばかり口出しをされた。なんとかしてこの君を位におつけ申したいと思われたが、頼朝卿がおられる間は思い立つこともできなかった。
こうして建久十年正月十三日、頼朝卿が五十三歳で亡くなられると、文覚はすぐに謀叛を企てられたが、たちまち漏れ聞こえて、文覚坊の宿所である二条猪熊という所に役人が大勢差し向けられ、八十を越えた身で捕らえられて、ついに隠岐国へ流された。文覚は京を出るとき、「これほど老いの波に立って、今日明日をも知れない身を、たとえ勅勘だからといって、都のかたほとりにも置かずに、はるばる隠岐国まで流すとは、あの毬杖冠者こそ腹立たしい。いずれわしが流される国へ迎え取ってやるものを」と、躍り上がり躍り上がりして申した。この君があまりに毬杖の玉をお好みになったので、文覚はこのように悪口を申したのである。その後、承久に謀叛を起こされて、国も多いのに、はるばる隠岐国まで流されなさったのは、前世からの因縁のほどが不思議である。その国で文覚の亡霊が荒れて、恐ろしいことが多かった。いつも院の御前にも参って、お話を申し上げたということである。
そのうちに六代御前は三位の禅師と名のって、高雄の奥でひたすら修行していらしたが、鎌倉殿が「あの人の子であり、あの者の弟子である。たとえ頭は剃られても、心はよもや剃られまい」と言って、召し捕って殺すべきことを鎌倉殿から朝廷へ奏上されたので、すぐに安判官資兼に命じて召し捕らせ、関東へ下された。駿河国の住人岡部権守泰綱に命じて、相模国の田越川のほとりでついに斬られてしまった。十二歳の年から三十歳を過ぎるまで命を保ったのは、ひとえに長谷観音のご利益であったという。三位の禅師が斬られて後、平家の子孫は永く絶えてしまった。
意訳
一度は救われた六代の、その後の生涯と最期を語り、平家の血筋の断絶をもって本編を結ぶ章段である。頼朝の六代への疑いは、文覚の「底もない不覚人」という返答でも晴れず、頼朝没後の世の乱れの予兆とも重なっていく。
熊野で父の入水した海を望み、浜の砂に仏を描いて弔う六代の姿は、巻第十「維盛入水」の場面と響き合う。また文覚が後鳥羽院を罵り、のちに院自身が隠岐へ流されたという因縁話は、驕る者も久しからずという物語全体の主題を、源氏の世にまで押し広げている。「平家の子孫は永く絶えにけり」の一文は、「祇園精舎」に始まった平家一門の物語の終わりを告げている。
語釈・文法注
文法
- 「世の世にてあらましかば」
- 世が世であったなら。平家の世が続いていたなら。
- 「近衞司」
- 近衛府の官人。名門の子弟が若くして任じられる職。
- 「便宜ごとに」
- 機会があるたびに。
- 「賴朝を相し給ひしやうに」
- 頼朝の人相を見て将来を見立てなさったように。
- 「一向底もなき不覺人」
- まったく底の知れない愚か者。六代を守るための文覚の言葉。
- 「方人すべき」
- 味方をするに違いない。
- 「善知識」
- 仏道に導く師。ここでは維盛の出家の戒師。
- 「かつうは」
- 一つには。
- 「山鳴の島」
- 底本は「山鳴」と刷る。通行本文は「山成」。維盛が入水前に上陸したと語られる島。
- 「作善の功德さながら精靈にと廻向して」
- 仏事を営んだ功徳をそのまま亡き父の霊に振り向けて。
- 「卿の局」
- 後鳥羽院の乳母、藤原兼子。院の側近として権勢をふるった。
- 「呉王劍客を好みしかば」
- 呉王が剣客を好んだので天下に傷を負う者が絶えず、楚王が細腰を好んだので宮中に飢え死にする女が多かったという故事。上の好みに下が従う例。
- 「いろふまじき事をのみいろひ給へり」
- 関与すべきでないことにばかり口出しをなさった。
- 「毬杖冠者」
- 毬杖(木の玉を杖で打つ遊び)を好む若造。後鳥羽院を罵った言葉。
- 「躍り上り〳〵」
- 躍り上がり躍り上がりして。
- 「國こそ多けれ」
- 国も多いのに(よりによって隠岐へ)。
解説
頼朝は建久十年(1199)正月に没し、文覚は同年に佐渡へ流された(隠岐への配流は元久二年(1205)ともいう)。後鳥羽院は承久三年(1221)の承久の乱に敗れて隠岐へ流され、同地で没した。六代の斬首の時期は諸説あり、鎌倉の田越川(神奈川県逗子市)のほとりには六代御前の墓と伝える塚が残る。流布本の平家物語は、この章段のあとに灌頂巻を置き、建礼門院の後半生を語って全巻を結ぶ。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、850–852頁(コマ454–455)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日