平家物語 巻第十二
長谷六代の事
千本の松原に駆けつけた文覚は、六代の父維盛が度々の合戦の大将軍だったことを理由に許さない頼朝に、那須野の狩場まで供をして頼みこみ、ようやく六代をもらい受けたと語った。北条時政は、斬る寸前であったことを喜び、斎藤五・斎藤六を替え馬に乗せて上らせ、情け深く見送った。文覚は六代を連れて上り、正月五日の夜に大覚寺を訪ねたが、誰もおらず、六代が飼っていた白い子犬だけが走り出て迎えた。母上は長谷寺に籠もっていると聞いて斎藤六が知らせると、母上は急ぎ都に上って六代と再会した。文覚は六代を出家させず、高雄に迎えて母上の面倒もみた。
- 1さるさるさるほどほどほどににに文文もん覺覺がく坊坊ぼうももも出出いででで來來きたりりり、、、「「「若若わか君君ぎみ請請こひひい受受うけけけ奉奉たてまつつつったりたりたり。。。」」」とととててて、、、氣氣き色色しょくまことまことまことにににゆゝしげゆゝしげゆゆしげなりなりなり。。。「「「このこのこの若若わか君君ぎみののの父父ちち三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのははは、、、度度ど々々どののの軍軍いくさののの大大たい將將しょう軍軍ぐんにににててておはしおはしおわしけれけれければばば、、、誰誰たれ申申もうすすすともともとも、、、いかにいかにいかにもももかなふかなふかなうまじきまじきまじき由由よしのたまふのたまふのたまう閒閒あいだ、、、聖聖ひじりががが心心こころををを破破やぶらららせせせ給給たまひひいてててははは、、、いかでいかでいかでかかか冥冥みょう加加がののの程程ほどもももおはすおはすおわすべきべきべきなんどなんどなんど、、、さま〴〵さま〴〵さまざま惡惡あく口口こう申申もうしししつれつれつれどもどもども、、、なほなほなおもももかなふかなふかなうまじきまじきまじき由由よし宣宣のたまひひいててて、、、那那な須須す野野のののの狩狩かりににに出出いででで給給たまひひいししし閒閒あいだ、、、あまつさへあまつさへあまつさえ文文もん覺覺がくももも狩狩かり場場ばののの供供ともしししててて、、、さま〴〵さま〴〵さまざまににに申申もうしししててて請請こひひい受受うけけけ奉奉たてまつつつったりたりたり。。。いかにいかにいかに遲遲おそうううおはしおはしおわしつつつらんらんらん。。。」」」などなどなどのたまへのたまへのたまえばばば、、、北北ほう條條じょう申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「聖聖ひじりののの二二は十十つ日日かととと仰仰おおせせせられられられししし、、、約約やく束束そくののの日日ひ數數かずももも過過すぎぎぎぬぬぬ。。。今今いまははは鎌鎌かま倉倉くら殿殿どの御御おん許許ゆるささされれれもももなきなきなきぞぞぞととと心心こころ得得えててて、、、具具ぐししし奉奉たてまつつつっててて下下くだりりり候候そうろう程程ほどににに、、、かしこうかしこうかしこうぞぞぞ、、、たゞたゞただ今今いまこゝこゝここにににてててあやまちあやまちあやまち仕仕つかまつるるるらんらんらんににに。。。」」」とととててて、、、鞍鞍くら置置おいいいててて引引ひかかかせせせられられられたりたりたりけるけるける乘乘のり替替かえどもどもどもににに、、、齋齋さい藤藤とう五五ご、、、齋齋さい藤藤とう六六ろくををを乘乘のせせせててて上上のぼせせせらるらるらる。。。わがわがわが身身みももも遙遙はるかかかにににうちうちうち送送おくりりり、、、「「「今今いましばらくしばらくしばらくももも御御おん供供とも申申もうすすすべうべうびょう候候そうらへへえどもどもども、、、これこれこれははは鎌鎌かま倉倉くらにににさしさしさしててて披披ひ露露ろう仕仕つかまつるるるべきべきべき大大だい事事じどもどもどもあまたあまたあまた候候そうろう。。。」」」とととててて、、、それそれそれよりよりより打打うち別別わかれれれてててぞぞぞ下下くだららられれれけるけるける。。。まことまことまことににに情情なさけ深深ぶかかりかりかりけりけりけり。。。
- 2さるさるさる程程ほどににに高高たか雄雄おののの文文もん覺覺がく上上しょう人人にん、、、若若わか君君ぎみ受受うけ取取とりりり奉奉たてまつつつっててて、、、夜夜よををを日日ひににについついついででで上上のぼるるるほどほどほどににに、、、尾尾お張張はりののの國國くに熱熱あつ田田たののの邊邊へんにににててて今年今年ことしももも既既すでににに暮暮くれれれぬぬぬ。。。あくるあくるあくる正正しょう月月がつ五五いつ日日かののの夜夜よににに入入いつつっててて都都みやこへへへ上上のぼりりりつきつきつき、、、二二に條條じょう猪猪いの熊熊くまなるなるなる所所ところににに文文もん覺覺がく坊坊ぼうののの宿宿しゅく所所しょのののありありありけるけるけるににに、、、まづまづまずそれそれそれににに落落おちちちついついついててて、、、若若わか君君ぎみしばらくしばらくしばらく休休やすめめめ奉奉たてまつりりり、、、夜夜や半半はんばかりばかりばかりににに大大だい覺覺かく寺寺じへへへ入入いれれれ奉奉たてまつりりり、、、門門もんをををたゝけたゝけたたけどもどもども、、、人人ひとなけれなけれなければばば音音おともももせせせずずず。。。若若わか君君ぎみののの飼飼かひひい給給たまひひいたりたりたりけるけるける白白しろいいい犬犬いぬののの子子こののの、、、築築つい地地じのののくづれくづれくずれよりよりより走走はしりりり出出いでででててて、、、尾尾をををを振振ふつつっててて向向むかひひいけるけるけるににに、、、若若わか君君ぎみ、、、「「「母母ほう上上へはははいづくいづくいずくにににましますましますましますぞぞぞ。。。」」」ととと宣宣のたまひひいけるけるけるこそこそこそいとほしけれいとほしけれいとおしけれ。。。齋齋さい藤藤とう五五ご、、、齋齋さい藤藤とう六六ろく、、、案案あん内内ないははは知知しりりりたりたりたり、、、築築つい地地じををを越越こえええ、、、門門もんをををあけあけあけててて入入いれれれ奉奉たてまつるるる。。。近近ちこううう人人ひとののの住住すんんんだるだるだる所所ところとととももも見見みえええずずず。。。若若わか君君ぎみ人人ひと目目めももも恥恥はぢぢじずずず、、、「「「命命いのちののの惜惜おしうしうしゅう候候そうろうももも、、、母母ほう上上へををを今今いま一一ひと度度たび見見みばやばやばやととと思思おもふふう爲爲ためなりなりなり。。。今今いまははは生生いきききてててももも何何なににににかかかはははせせせんんん。。。」」」とととててて、、、悶悶もだえええこがれこがれこがれ給給たまひひいけりけりけり。。。
- 3そのそのその夜夜よはははそこそこそこにににててて待待まちちちあかしあかしあかし、、、あけあけあけててて後後のち近近きん里里りののの人人ひとににに尋尋たずぬれぬれぬればばば、、、「「「年年としののの内内うちははは大大だい佛佛ぶつ詣詣もうでででととと聞聞きこえええさせさせさせ給給たまひひいしししががが、、、正正しょう月月がつののの程程ほどははは長長は谷谷せ寺寺でらににに御御おん籠籠こもりりりとととこそこそこそ承承うけたまわりりり候候そうらへへえ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、齋齋さい藤藤とう六六ろく急急いそぎぎぎ長長は谷谷せへへへ下下くだりりり、、、母母ほう上上へにににこのこのこの由由よしかくかくかくととと申申もうしししけれけれければばば、、、母母ほう上上へ取取とるるるものものものももも取取とりりりあへあへあえずずず、、、急急いそぎぎぎ都都みやこへへへ上上のぼりりり、、、大大だい覺覺かく寺寺じへへへぞぞぞおはしおはしおわしたるたるたる。。。母母ほう上上へ、、、若若わか君君ぎみをををたゞたゞただ一一ひと目目め見見み給給たまひひいててて、、、「「「いかにいかにいかに六六ろく代代だい御御ご前前ぜん、、、これこれこれははは夢夢ゆめかかかやややうつゝうつゝうつつかかか。。。はや〳〵はや〳〵はやはや出出しゅっ家家けししし給給たまへへえ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえどもどもども、、、文文もん覺覺がく惜惜おしみしみしみ奉奉たてまつつつっててて、、、御御ご出出しゅっ家家けをををばばばせせせさせさせさせ奉奉たてまつらららずずず。。。すぐすぐすぐににに高高たか雄雄おへへへ迎迎むかへへえ取取とつつっててて、、、かすかかすかかすかなるなるなる所所ところをををしつらひしつらひしつらい、、、母母ほう上上へをををもももはぐゝみはぐゝみはぐくみけるけるけるとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。觀觀かん音音おんののの大大だい慈慈じ大大だい悲悲ひははは罪罪つみあるあるあるをををももも罪罪つみなきなきなきをををももも助助たすけけけ給給たまふふう事事ことなれなれなればばば、、、上上じょう代代だいにににははは斯斯かかるかるかる例例ためしもももやややあるあるあるらんらんらん、、、ありがたかりありがたかりありがたかりししし事事ことどもどもどもなりなりなり。。。
現代語訳
そのうちに文覚坊もやって来て、「若君をもらい受けました」と言って、その様子はまことに得意げであった。「この若君の父三位中将殿は、度々の合戦の大将軍でいらしたので、誰が何と申してもまったくかなうまいとおっしゃるので、『この聖の心を踏みにじりなさっては、どうして神仏のご加護がおありになりましょう』などと、さまざまに悪口を申したけれども、それでもかなうまいとおっしゃって那須野の狩にお出かけになったので、そのうえ文覚も狩場のお供をして、いろいろに申してもらい受けたのです。どんなに遅いと思われたことでしょう」などとおっしゃると、北条が申されるには、「聖が二十日と仰せられた約束の日数も過ぎてしまいました。今は鎌倉殿のお許しもないのだと思って、お連れ申して下ってまいりましたところ、運がよかった。今にもここで過ちを犯すところでした」と言って、鞍を置いて引かせていた替え馬に、斎藤五・斎藤六を乗せて上らせた。自分もはるばると見送って、「もうしばらくもお供すべきところですが、これは鎌倉に行って披露しなければならない大事がたくさんございます」と言って、そこから別れて下っていかれた。まことに情け深いことであった。
そうして高雄の文覚上人は若君をお受け取りして、夜を日に継いで上るうちに、尾張国熱田のあたりで今年ももう暮れてしまった。明くる正月五日の夜になって都に上り着き、二条猪熊という所に文覚坊の宿所があったので、まずそこに落ち着いて若君をしばらく休ませ申し、夜半ごろに大覚寺へお連れ申して門をたたいたが、人がいないので物音もしない。若君が飼っておられた白い子犬が、築地の崩れから走り出てきて、尾を振って迎えたので、若君が「母上はどこにいらっしゃるのか」とおっしゃったのはいたわしいことであった。斎藤五・斎藤六は勝手を知っているので、築地を越えて門を開けてお入れ申した。近ごろ人の住んでいた所とも見えない。若君は人目も恥じず、「命が惜しいのも、母上をもう一度見たいと思うためです。今は生きていても何になろう」と言って、もだえ苦しまれた。
その夜はそこで待ち明かし、夜が明けてから近くの里の人に尋ねると、「年の内は大仏詣でとうかがっておりましたが、正月の間は長谷寺にお籠もりと承っております」と申したので、斎藤六が急いで長谷へ下り、母上にこれこれと申すと、母上は取るものも取りあえず急いで都へ上り、大覚寺へいらっしゃった。母上は若君をただ一目ご覧になって、「まあ六代御前、これは夢か現実か。早く早く出家しなさい」とおっしゃったが、文覚は惜しんで、ご出家はおさせ申さなかった。すぐに高雄へ迎え取って、ひっそりとした所をしつらえ、母上の面倒もみたということである。観音の大慈大悲は、罪のある者も罪のない者もお助けになるものなので、昔にはこのような例もあったのだろうか、まことにめったにないことであった。
意訳
前の章段に続き、文覚が六代を救い出した経緯が本人の口から語られる。頼朝の狩場まで押しかけて食い下がる文覚の強引さと、命を救われた六代を情け深く送り出す北条時政の人柄とが、ともに印象深く描かれる。
白い子犬は、六代が見つかるきっかけとなった存在であり、無人の大覚寺で再び六代を迎える。この照応によって、捕らわれてから戻るまでの時の流れと、母のいない寂しさが際立つ。母子の再会は長谷観音の霊験として結ばれ、章段名の由来ともなっている。
語釈・文法注
文法
- 「氣色まことにゆゝしげなり」
- 様子がまことにものものしい。得意げで威勢のよいさま。
- 「聖が心を破らせ給ひては、いかでか冥加の程もおはすべき」
- 聖の心を踏みにじりなさっては、どうして神仏の加護がおありになろうか。
- 「あまつさへ」
- そのうえ。
- 「かしこうぞ、たゞ今こゝにてあやまち仕るらんに」
- 運がよかった、もう少しでここで過ちを犯すところだった。
- 「打別れてぞ下られける」
- そこから別れて(鎌倉へ)下っていかれた。
- 「夜を日についで」
- 夜も昼も休まずに。
- 「築地のくづれ」
- 土塀の崩れたところ。
- 「近里の人」
- 近くの里の人。
- 「はぐゝみける」
- 世話をした、養った。
解説
六代が大覚寺に戻ったのは文治二年(1186)正月と語られる。母が籠もった長谷寺(奈良県桜井市)は十一面観音を本尊とし、平安時代から貴族の参詣が盛んであった。母子の再会を長谷観音の霊験とする語り口は、前の章段で母が「長谷の観音をさりともとこそ頼み奉りしに」と嘆いたことと響き合っている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、848–849頁(コマ453)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日