平家物語 巻第十二
六代の事
鎌倉殿の代官として都を守る北条時政は、平家の子孫の男子を一人残らず探し出させた。維盛の嫡子六代は、ある女房の密告で嵯峨の菖蒲谷に隠れているのを見つけられ、母や乳母の嘆きの中、六波羅へ連れて行かれた。乳母は高雄の文覚上人を訪ねて助命を頼み、文覚は時政に二十日の猶予を求めて鎌倉へ下った。しかし約束の日が過ぎても文覚は戻らず、時政は六代を連れて東へ下った。駿河の千本の松原でついに斬られようとしたとき、墨染の僧が馬を馳せて来て頼朝の御教書を差し出し、六代の命は救われた。
- 1さるさるさる程程ほどににに北北ほう條條じょうののの四四し郎郎ろう時時とき政政まさははは鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのののの御御おん代代だい官官かんににに、、、都都みやこののの守守しゅ護護ごしししててて候候さぶらははわれれれけるけるけるががが、、、平平へい家家けののの子子し孫孫そんととといはいはいわんんん人人ひと、、、男男なん子子しにににおいおいおいてててははは一一いち人人にんももも漏漏もらさらさらさずずず、、、尋尋たずねねね出出いだしししたらたらたらんんん輩輩ともがらにににははは、、、所所しょ望望もうははは請請こふふうににに依依よるるるべしべしべしととと披披ひ露露ろうせせせらるらるらる。。。京京きょう中中じゅうののの上上じょう下下げ、、、案案あん内内ないははは知知しつつったりたりたり、、、勸勸けん賞賞じょう蒙蒙こうぶらららんんんとととててて、、、尋尋たずねねね求求もとむるむるむるこそこそこそうたてうたてうたてけれけれけれ。。。斯斯かかりかりかりしかしかしかばばば幾幾いく等等らももも尋尋たずねねね出出いだささされれれたりたりたり。。。下下げ臈臈ろうののの子子こなれなれなれどもどもども、、、色色いろ白白じろうううみめみめみめよきよきよきをををばばば、、、あれあれあれははは何何なにののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのののの若若わか君君ぎみ、、、かのかのかの少少しょう將將しょう殿殿どのののの公公きん達達だちなどなどなどいふいふいう閒閒あいだ、、、父父ちち母母はは歎歎なげききき悲悲かなしめしめしめどもどもども、、、彼彼あれははは乳乳めの母母とががが申申もうししし候候そうろう、、、此此これははは介介かい錯錯しゃくののの女女にょう房房ぼうがががなんどなんどなんど申申もうしししててて、、、むげむげむげににに幼幼おさなきききをををばばば水水みずににに入入いれれれ、、、土土つちににに埋埋うずみみみ、、、少少すこしししおとなしきおとなしきおとなしきをををばばば押押おし殺殺ころししし、、、さしさしさし殺殺ころすすす。。。母母ははののの悲悲かなしみしみしみ乳乳めの母母とががが歎歎なげききき、、、譬譬たとへへえんんん方方かたぞぞぞなかりなかりなかりけるけるける。。。北北ほう條條じょうももも子子し孫孫そんさすがさすがさすが廣廣ひろけれけれければばば、、、これこれこれをををいみじいみじいみじとととははは思思おもははわねねねどもどもども、、、世世よににに從從したがふふう習習ならひひいなれなれなればばば力力ちから及及およばばばずずず。。。
- 2中中なかにににももも小小こ松松まつののの三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう維維これ盛盛もりののの卿卿きょうののの若若わか君君ぎみ六六ろく代代だい御御ご前前ぜんとととててて、、、年年としももも少少すこしししおとなしうおとなしうおとなしゅうましますましますまします。。。そのそのその上上うえ平平へい家家けののの嫡嫡ちゃく々々ちゃくにににててておはしおはしおわしけれけれければばば、、、いかにいかにいかにもももしししててて取取とりりり奉奉たてまつつつっててて失失うしなははわんんんとととててて、、、手手てををを分分わけけけててて尋尋たずねねねけれけれけれどもどもども、、、求求もとめめめかねかねかねててて、、、既既すでににに空空むなしうしうしゅう下下くだらららんんんとととしししけるけるける所所ところににに、、、あるあるある女女にょう房房ぼうののの、、、六六ろく波波は羅羅らににに參參まいつつっててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「これこれこれよりよりより西西にし、、、遍遍へん昭昭じょう寺寺じののの奧奧おく、、、大大だい覺覺かく寺寺じととと申申もうすすす山山やま寺寺でらののの北北きた、、、菖菖しょう蒲蒲ぶ谷谷だにととと申申もうすすす所所ところにににこそこそこそ、、、小小こ松松まつののの三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう維維これ盛盛もりののの卿卿きょうののの北北きたののの方方かた、、、若若わか君君ぎみ、、、姫姫ひめ君君ぎみ、、、忍忍しのうでうでうでましますましますましますなれなれなれ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、北北ほう條條じょう嬉嬉うれしきしきしき事事ことをををももも聞聞ききききぬぬぬととと思思おもひひい、、、かしこかしこかしこへへへ人人ひとををを遣遣つかははわしししててて、、、そのそのそのほとりほとりほとりををを窺窺うかがはせはせわせけるけるける程程ほどににに、、、あるあるある坊坊ぼうににに女女にょう房房ぼうたちたちたちあまたあまたあまた、、、幼幼おさなききき人人ひと々々びと、、、ゆゝしうゆゝしうゆゆしゅう忍忍しのうだるうだるうだる體體ていにににててて住住すまははわれれれたりたりたり。。。籬籬まがきののの閒閒ひまよりよりよりのぞいのぞいのぞいててて見見みれれればばば、、、白白しろいいい犬犬いぬののの子子こののの庭庭にはへへへ走走はしりりり出出いでででたるたるたるををを捉捉とらららんんんとととててて、、、世世よににに美美うつくしきしきしき若若わか君君ぎみののの續續つづいいいててて出出いででで給給たまひひいけるけるけるををを、、、乳乳めの母母とののの女女にょう房房ぼうとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、「「「あなあなあなあさましあさましあさまし、、、人人ひともももこそこそこそ見見み參參まいらららせせせ候候そうらへへえ。。。」」」とととててて、、、いそぎいそぎいそぎ引引ひき入入いれれれ奉奉たてまつるるる。。。これこれこれぞぞぞ一一いち定定じょうそそそにににてててましますましますましますらんらんらんととと思思おもひひい、、、いそぎいそぎいそぎ走走はしりりり歸歸かえつつっててて、、、このこのこの由由よし申申もうしししけれけれければばば、、、次次つぎののの日日ひ、、、北北ほう條條じょう菖菖しょう蒲蒲ぶ谷谷だにをををうちうちうち圍圍かこみみみ、、、人人ひとををを入入いれれれててて申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「小小こ松松まつののの三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう維維これ盛盛もりののの卿卿きょうののの若若わか君君ぎみ六六ろく代代だい御御ご前前ぜんのののこれこれこれにににましますましますまします由由よし承承うけたまわつつっててて、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのののの御御おん代代だい官官かんとととしししててて、、、北北ほう條條じょうののの四四し郎郎ろう時時とき政政まさががが御御おん迎迎むかへへえににに參參まいつつっててて候候そうろう。。。とう〳〵とう〳〵とうとう出出いだししし參參まいらららせせせ給給たまへへえ。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、母母ほう上上へ夢夢ゆめののの心心ここちちちしししててて、、、つや〳〵つや〳〵つやつや物物ものをををももも覺覺おぼえええ給給たまははわずずず。。。齋齋さい藤藤とう五五ご、、、齋齋さい藤藤とう六六ろく、、、そのそのその邊邊へんををを走走はしりりり廻廻まわつつっててて窺窺うかがひひいけれけれけれどもどもども、、、武武ぶ士士しどもどもども四四し方方ほうををを打打うち圍圍かこんんんででで、、、いづかたいづかたいずかたよりよりより出出いだししし參參まいらららすすすべしべしべしとととももも覺覺おぼえええずずず。。。
- 3母母ほう上上へははは若若わか君君ぎみををを抱抱かかへへえ奉奉たてまつつつっててて、、、「「「たゞたゞただわれわれわれををを失失うしなへへえややや。。。」」」とととててて、、、をめきをめきおめき叫叫さけびびび給給たまひひいけりけりけり。。。乳乳めの母母とももも女女にょう房房ぼうももも御御おん前前まえににに倒倒たおれれれ伏伏ふししし、、、聲聲こえももも惜惜おしましましまずずずをめきをめきおめき叫叫さけぶぶぶ。。。日日ひ頃頃ごろはははものものものをををだにだにだに高高たかくくくいはいはいわずずず、、、忍忍しのびびびつゝつゝつつ隱隱かくれれれゐゐいたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、今今いまははは家家いえののの内内うちにににありありありとととあるあるある者者もの、、、聲聲こえをををそろへそろへそろえててて泣泣なききき悲悲かなしむしむしむ。。。北北ほう條條じょうももも岩岩いわ木木きならならならねねねばばば、、、さすがさすがさすがあはれあはれあわれににに覺覺おぼえええててて、、、涙涙なみだをををおさへおさへおさえ、、、つく〴〵つく〴〵つくづくとととぞぞぞ待待またたたれれれけるけるける。。。やゝやゝややあつあつあっててて、、、またまたまた人人ひとををを入入いれれれててて申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「世世よももも未未いまだだだ靜靜しずまりまりまり候候そうらははわねねねばばば、、、しどけなきしどけなきしどけなき御御おんことことこともももぞぞぞ候候そうらははわんんんずらんずらんずらん。。。時時とき政政まさががが御御おん迎迎むかへへえににに參參まいつつっててて候候そうろう。。。別別べちののの仔仔し細細さいははは候候そうろうまじまじまじ。。。とう〳〵とう〳〵とうとう出出いだししし參參まいらららさせさせさせ給給たまへへえ。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、若若わか君君ぎみ、、、母母ほう上上へににに申申もうさささせせせ給給たまひひいけるけるけるははは、、、「「「遂遂ついににに遁遁のがれれれまじうまじうまじゅう候候そうろう上上うえ、、、はや〳〵はや〳〵はやはや出出いださささせせせおはしませおはしませおわしませ。。。武武ぶ士士しどもどもどもののの打打うち入入いつつっててて搜搜さがすすす程程ほどならならならばばば、、、なか〳〵なか〳〵なかなかうたてげうたてげうたてげなるなるなる御御おんありさまありさまありさまどもどもどもををを、、、見見みえええさせさせさせ給給たまひひい候候そうらははわんんんずらんずらんずらん。。。たとへたとへたとえまかりまかりまかりててて候候そうろうともともとも、、、しばししばししばしもももあらあらあらばばば北北ほう條條じょうとととかやかやかやににに暇暇いとま請請こうううててて、、、歸歸かえりりり參參まいりりり候候そうらははわんんん。。。いたういたういとうななな歎歎なげかかかせせせ給給たまひひいそそそ。。。」」」ととと、、、慰慰なぐさめめめ給給たまふふうこそこそこそいとほしけれいとほしけれいとおしけれ。。。
- 4さてさてさてしもしもしもあるあるあるべきべきべき事事ことならならならねねねばばば、、、母母ほう上上へははは若若わか君君ぎみににに泣泣なく〳〵く〳〵くなく御御おん物物もの著著きせせせ參參まいらららせせせ、、、御御おん髪髪ぐしかきかきかきなでなでなでててて既既すでににに出出いだししし參參まいらららせせせんんんとととししし給給たまひひいけるけるけるががが、、、黑黑くろ木木きののの數數じゅ珠珠ずののの小小ちいさうさうそう美美うつくしきしきしきををを取取とり出出いだしししててて、、、「「「相相あい構構かまへへえててて、、、これこれこれにににててていかにいかにいかにもももならならならんんんまでまでまで念念ねん佛佛ぶつ申申もうしししててて、、、極極ごく樂樂らくへへへ參參まいれれれよよよ。。。」」」とととてててぞぞぞ奉奉たてまつらららるるる。。。若若わか君君ぎみ之之これををを取取とらららせせせ給給たまひひいててて、、、「「「母母ほう上上へにににははは今日今日きょうすでにすでにすでに別別わかれれれ參參まいらららせせせ候候そうらひひいぬぬぬ。。。今今いまはははいかにいかにいかにもももしししててて、、、父父ちちのののましますましますまします所所ところへへへこそこそこそ參參まいりりりたけれたけれたけれ。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、妹妹いもうとののの姫姫ひめ君君ぎみののの生生しょう年年ねん十十とおににになりなりなり給給たまひひいけるけるけるががが、、、われわれわれももも參參まいらららんんんとととててて、、、續續つづいいいててて出出いででで給給たまひひいけるけるけるををを、、、乳乳めの母母とののの女女にょう房房ぼう取取とり止止とどめめめ奉奉たてまつるるる。。。六六ろく代代だい御御ご前前ぜん今年今年ことしははは十十じゅう二二にににになりなりなり給給たまへへえどもどもども、、、世世よののの人人ひとののの十十じゅう四四し五五ごよりよりよりもももおとなしくおとなしくおとなしく、、、みめみめみめ姿姿すがた美美うつくしうしうしゅう、、、心心こころざまざまざま優優ゆうにににおはしおはしおわしけれけれければばば、、、敵敵かたきににに弱弱よわげげげををを見見みえええじじじとととててて、、、おさふるおさふるおさうる袖袖そでのののひまひまひまよりよりよりももも、、、あまりあまりあまりててて涙涙なみだぞぞぞこぼれこぼれこぼれけるけるける。。。さてさてさて御御おん輿輿こしににに召召めささされれれ給給たまふふう。。。武武ぶ士士しどもどもどももももうちうちうち圍圍かこんんんででで出出いでででにににけりけりけり。。。齋齋さい藤藤とう五五ご、、、齋齋さい藤藤とう六六ろくももも御御おん輿輿こしののの左左さ右右ゆうににについついついてててぞぞぞ參參まいりりりけるけるける。。。北北ほう條條じょう乘乘のり替替かえどもどもどもををを下下おろいいいててて馬馬うまににに乘乘のれれれととといへいへいえどもどもども乘乘のらららずずず。。。大大だい覺覺かく寺寺じよりよりより六六ろく波波は羅羅らまでまでまで、、、徒徒かち跣跣はだしでででぞぞぞ參參まいりりりたるたるたる。。。
- 5母母ほう上上へ、、、乳乳めの母母とののの女女にょう房房ぼう、、、天天てんににに仰仰あおぎぎぎ地地ちににに俯俯ふしししててて、、、悶悶もだえええこがれこがれこがれ給給たまひひいけりけりけり。。。母母ほう上上へ、、、乳乳めの母母とののの女女にょう房房ぼうにににのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「このこのこの日日ひ頃頃ごろ、、、平平へい家家けののの子子こどもどもども取取とり集集あつめめめててて、、、水水みずににに入入いれれれ、、、土土つちににに埋埋うずみみみ、、、或或あるいはははおしおしおし殺殺ころししし刺刺さししし殺殺ころししし、、、さま〴〵さま〴〵さまざまにににしししててて失失うしなふふう由由よし聞聞きこゆゆゆなれなれなればばば、、、わがわがわが子子こをををばばば何何なにとととしししてててかかか失失うしなははわんんんずらんずらんずらん。。。年年としももも少少すこしししおとなしけれおとなしけれおとなしければばば、、、定定さだめめめててて首首くびをををこそこそこそ斬斬きらららんんんずらめずらめずらめ。。。人人ひとののの子子こははは乳乳めの母母となんどなんどなんどののの許許もとににに遣遣つかははわしししててて、、、時時とき々々どき見見みるるる事事こともももありありあり。。。それそれそれだにだにだにももも恩恩おん愛愛あいののの道道みちははは悲悲かなしきしきしき習習ならひひいぞぞぞかしかしかし。。。況況いわんんんやややこれこれこれははは生生うみみみ落落おとしししてててよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、一一ひと日日ひ片片かた時時ときももも身身みををを放放はなたたたずずず、、、人人ひとももも持持もたたたぬぬぬ子子こををを持持もちちちたるたるたるやうやうようににに思思おもひひい、、、朝朝あさ夕夕ゆう二二ふた人人りののの中中なかにににててて育育そだてててしししものものものををを、、、たのみたのみたのみをををかけかけかけししし人人ひとににに飽飽あかかかででで別別わかれれれててて後後のちははは、、、二二ふた人人りをををうらうへうらうへうらうえににに置置おいいいてててこそこそこそ慰慰なぐさみみみしししににに、、、今今いまははは早早はややや一一ひと人人りはははあれあれあれどもどもども一一ひと人人りはははなしなしなし。。。今日今日きょうよりよりより後後のちははは如何如何いかがせせせんんん。。。このこのこの三三み年年とせががが閒閒あいだ夜夜よる晝晝ひる肝肝きも魂魂たましいををを消消けしししててて思思おもひひい設設もうけけけたるたるたる事事ことなれなれなれどもどもども、、、さすがさすがさすが昨日昨日きのう今日今日きょうとととははは思思おもひひいもももよらよらよらずずず、、、日日ひ頃頃ごろははは長長は谷谷せののの觀觀かん音音おんをををさりさりさりともともともとととこそこそこそ賴賴たのみみみ奉奉たてまつりりりしししににに、、、遂遂ついににに捕捕とらははわれれれぬるぬるぬる事事ことののの悲悲かなしさしさしさよよよ。。。たゞたゞただ今今いまもももややや失失うしなひひいつつつらんらんらん。。。」」」とととかきかきかきくどきくどきくどき、、、袖袖そでををを顏顏かおにににおしおしおし當當あてててててて、、、さめ〴〵さめ〴〵さめざめとととぞぞぞ泣泣なかかかれれれけるけるける。。。
- 6夜夜よるににになれなれなれどもどもども、、、胸胸むねせきせきせきあぐるあぐるあぐる心心ここちちちしししててて、、、つゆつゆつゆもももまどろみまどろみまどろみ給給たまははわざりざりざりしししががが、、、やゝやゝややあつあつあっててて乳乳めの母母とののの女女にょう房房ぼうにににのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、たゞたゞただ今今いまちとちとちとまどろみまどろみまどろみたりたりたりつるつるつる夢夢ゆめににに、、、このこのこの子子こががが白白しろいいい馬馬うまににに乘乘のりりりててて來來きたりたりたりつるつるつるががが、、、『『『あまりあまりあまりににに御御おん戀戀こいしうしうしゅう思思おもひひい參參まいらららせせせ候候そうろうほどほどほどににに、、、しばししばししばしののの暇暇いとま請請こうううててて參參まいつつっててて候候そうろう。。。』』』とととててて、、、側側そばににについついついゐゐいててて、、、何何なにとととやらんやらんやらん世世よにににうらめしげうらめしげうらめしげにににてててありありありつるつるつるががが、、、いくいくいく程程ほどなくなくなくてててうちうちうち驚驚おどろかかかささされれれ、、、側側そばををを探探さぐれれれどもどもども人人ひともももなしなしなし。。。夢夢ゆめだにだにだにもももしばししばししばしもももあらあらあらででで、、、やがてやがてやがて覺覺さめめめぬるぬるぬる事事ことののの悲悲かなしさしさしさよよよ。。。」」」とととぞぞぞ、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく語語かたりりり給給たまひひいけるけるける。。。
- 7さるさるさる程程ほどににに長長ながききき夜夜よをををいとゞいとゞいとどあかしあかしあかしかねかねかね、、、涙涙なみだににに床床とこももも浮浮うくくく許許ばかりりりなりなりなり。。。かぎりかぎりかぎりあれあれあればばば鷄鷄けい人人じん曉曉あかつきををを唱唱となへへえててて夜夜よもももあけあけあけぬぬぬ。。。齋齋さい藤藤とう六六ろく歸歸かえりりり參參まいりりりたりたりたり。。。母母ほう上上へ、、、「「「さてさてさていかにいかにいかにややや。。。」」」ととと問問とひひいたまへたまへたまえばばば、、、「「「今今いままでまでまでははは別別べちののの御御おん事事ことももも候候そうらははわずずず。。。これこれこれににに御御おん文文ふみののの候候そうろう。。。」」」とととててて。。。取取とり出出いだいいいててて奉奉たてまつるるる。。。これこれこれをををあけあけあけててて見見み給給たまふふうににに、、、「「「今今いままでまでまでははは別別べちののの仔仔し細細さいももも候候そうらははわずずず。。。さささこそこそこそ御御おん心心こころもとなうもとなうもとのう思思おぼし召召めささされれれ候候そうろうらんらんらん。。。いつしかいつしかいつしか誰誰たれ々々たれももも御御おんこひしうこひしうこいしゅうこそこそこそ思思おもひひい參參まいらららせせせ候候そうらへへえ。。。」」」ととと、、、おとなしやかおとなしやかおとなしやかににに書書かききき給給たまへへえりりり。。。母母ほう上上へこれこれこれををを顏顏かおにににおしおしおし當當あてててててて、、、とかうとかうとこうののの事事ことももも宣宣のたまははわずずず、、、引引ひきききかづいかづいかずいてててぞぞぞ臥臥ふしししたまふたまふたまう。。。かくかくかくててて時時じ刻刻こく遙遙はるかかかにににおしおしおし移移うつりりりけれけれければばば、、、齋齋さい藤藤とう六六ろく、、、「「「時時ときののの程程ほどもももおぼつかなうおぼつかなうおぼつかのう候候そうろう。。。御御おん返返へん事事じ賜賜たまはつはつわっててて歸歸かえりりり參參まいりりり候候そうらははわんんん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、母母ほう上上へ泣泣なくくく泣泣なくくく御御おん返返へん事事じ書書かいいいてててぞぞぞたうでたうでとうでけるけるける。。。齋齋さい藤藤とう六六ろく暇暇いとま申申もうしししててて出出いでででにににけりけりけり。。。
- 8乳乳めの母母とののの女女にょう房房ぼう、、、せめてせめてせめてののの心心こころのののあられあられあられずずずさささにににややや、、、大大だい覺覺かく寺寺じをををばばばまぎれまぎれまぎれ出出いでででててて、、、そのそのその邊邊へんををを足足あしにににまかせまかせまかせててて泣泣なききき歩歩ありくくくほどほどほどににに、、、あるあるある人人ひとののの申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「これこれこれよりよりより奧奧おく、、、高高たか雄雄おととといふいふいう山山やま寺寺でらののの聖聖ひじり文文もん覺覺がく坊坊ぼうととと申申もうすすす人人ひとこそこそこそ、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どののののゆゝしきゆゝしきゆゆしき大大だい事事じののの人人ひとににに思思おもははわれれれ參參まいらららせせせてててまし〳〵まし〳〵ましましけるけるけるががが、、、上上じょう臈臈ろうののの子子こををを弟弟で子子しにににせせせんんんとととててて、、、ほしがらほしがらほしがらるゝるゝるるなれなれなれ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、乳乳めの母母とののの女女にょう房房ぼううれしきうれしきうれしき事事ことをををももも聞聞ききききぬぬぬととと思思おもひひい、、、すぐすぐすぐににに高高たか雄雄おへへへ尋尋たずねねね入入いりりり、、、聖聖ひじりににに向向むかひひい參參まいらららせせせててて、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「乳乳ちののの中中なかよりよりより抱抱いだきききあげあげあげ奉奉たてまつりりり、、、おほしおほしおおしたてたてたて參參まいらららせせせててて、、、今年今年ことしははは十十じゅう二二にににになりなりなり給給たまひひいつるつるつる若若わか君君ぎみををを、、、昨日昨日きのう武武ぶ士士しににに捕捕とららられれれててて候候そうろうなりなりなり。。。御御おん命命いのちををを請請こひひい受受うけけけててて、、、御御おん弟弟で子子しにににせせせさせさせさせ給給たまひひいなななんんんややや。。。」」」とととててて、、、聖聖ひじりののの御御おん前前まえににに倒倒たおれれれ伏伏ふししし、、、聲聲こえももも惜惜おしましましまずずずをめきをめきおめき叫叫さけぶぶぶ。。。まことまことまことにににせせせんんん方方かたなげなげなげにににぞぞぞ見見みえええたりたりたりけるけるける。。。
- 9聖聖ひじりももも無無む慙慙ざんににに思思おもひひいててて、、、事事ことののの仔仔し細細さいををを問問とひひいたまふたまふたまう。。。やゝやゝややあつあつあっててて起起おききき上上あがりりり、、、涙涙なみだををを抑抑おさへへえててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「小小こ松松まつののの三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう維維これ盛盛もりののの卿卿きょうののの北北きたののの方方かたににに御御おん親親したしうしうしゅうましますましますまします人人ひとののの若若わか君君ぎみををを、、、養養やしなひひい參參まいらららせせせててて候候そうらひひいつるつるつるををを、、、もしもしもし中中ちゅう將將じょう殿殿どのののの公公きん達達だちとととややや人人ひとののの申申もうしししててて候候そうろうらんらんらん、、、昨日昨日きのう武武ぶ士士しににに捕捕とららられれれててて候候そうろうなりなりなり。。。」」」とととぞぞぞ語語かたりりりけるけるける。。。聖聖ひじり、、、「「「さてさてさてそのそのその武武ぶ士士しをををばばば誰誰たれととといふいふいうやらんやらんやらん。。。」」」「「「北北ほう條條じょうののの四四し郎郎ろう時時とき政政まさとととこそこそこそ名名な乘乘のりりり申申もうししし候候そうらひひいつれつれつれ。。。」」」聖聖ひじり、、、「「「いでいでいでさらばさらばさらば尋尋たずねねねててて見見みんんん。。。」」」とととててて、、、つきつきつき出出いでででぬぬぬ。。。乳乳めの母母とののの女女にょう房房ぼう、、、このこのこの言言こと葉葉ばををを賴賴たのむむむべきべきべきにににはははあらあらあらねねねどもどもども、、、昨日昨日きのう武武ぶ士士しににに捕捕とららられれれてててよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、あまりあまりあまりににに思思おもふふう許許ばかりりりもももなかりなかりなかりつるつるつるににに、、、聖聖ひじりのののかくかくかくのたまへのたまへのたまえばばば、、、少少すこししし心心こころををを取取とりりり延延のべべべててて、、、いそぎいそぎいそぎ大大だい覺覺かく寺寺じへへへぞぞぞ參參まいりりりけるけるける。。。母母ほう上上へ、、、「「「さてさてさてわわわごぜごぜごぜははは身身みををを投投なげげげににに出出いでででぬるぬるぬるやらんやらんやらん、、、われわれわれもももいかなるいかなるいかなる淵淵ふち河河かわへへへももも身身みををを投投なげげげばやばやばやなどなどなど思思おもひひいたれたれたればばば。。。」」」とととててて、、、事事ことののの仔仔し細細さいををを問問とひひいたまふたまふたまう。。。乳乳めの母母とののの女女にょう房房ぼう、、、聖聖ひじりののの申申もうささされれれつるつるつるやうやうようををを、、、こま〴〵こま〴〵こまごまととと語語かたりりり申申もうしししたりたりたりけれけれければばば、、、「「「あはれあはれあわれそのそのその聖聖ひじりののの御御おん坊坊ぼうののの、、、このこのこの子子こををを請請こひひい受受うけけけててて、、、今今いま一一ひと度度たびわれわれわれににに見見みせせせよよよかしかしかし。。。」」」とととててて、、、うれしさうれしさうれしさにににももも、、、たゞたゞただ盡盡つきききせせせぬぬぬものものものははは涙涙なみだなりなりなり。。。
- 10そのそのその後後のち聖聖ひじり六六ろく波波は羅羅らににに出出いでででててて、、、事事ことののの仔仔し細細さいををを問問とひひいたまふたまふたまう。。。北北ほう條條じょう申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのののの仰仰おおせせせにににははは、、、平平へい家家けののの子子し孫孫そんととといはいはいわんんん人人ひと、、、男男なん子子しにににおいおいおいててて、、、一一いち人人にんももも漏漏もらさらさらさずずず尋尋たずねねね出出いだしししててて失失うしなふふうべしべしべし。。。中中なかにににももも小小こ松松まつののの三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう維維これ盛盛もりののの卿卿きょうののの子子し息息そく六六ろく代代だい御御ご前前ぜんとととててて、、、年年としももも少少すこしししおとなしうおとなしうおとなしゅうましますましますまします。。。そのそのその上上うえ平平へい家家けののの嫡嫡ちゃく々々ちゃくなりなりなり。。。故故こ中中なかののの御御み門門かど新新しん大大だい納納な言言ごん成成なり親親ちかののの卿卿きょうののの女女むすめののの腹腹はらにににありありありととと聞聞きくくく。。。いかにいかにいかにもももしししててて捕捕とりりり奉奉たてまつつつっててて、、、失失うしなひひい參參まいらららせせせよよよととと、、、仰仰おおせせせををを蒙蒙こうぶつつっててて候候そうろう閒閒あいだ、、、末末すえ々々ずえののの公公きん達達だちたちたちたちをををばばば少少しょう々々しょう捕捕とりりり奉奉たてまつつつってててははは候候そうらへへえどもどもども、、、このこのこの若若わか君君ぎみののの在在ざい所所しょをををいづくいづくいずくとととももも知知しりりり參參まいらららせせせずずずしししててて、、、既既すでににに空空むなしうしうしゅう下下くだらららんんんととと仕仕つかまつるるる所所ところににに、、、思思おもははわざるざるざる外外ほかににに一昨日一昨日おととい聞聞きききき出出いだししし參參まいらららせせせててて、、、昨日昨日きのうこれこれこれまでまでまで迎迎むかへへえ奉奉たてまつつつっててて候候そうらへへえどもどもども、、、餘餘あまりりりににに美美うつくしうしうしゅうましましまし候候そうろう程程ほどににに、、、未未いまだだだともともともかうかうこうもももししし奉奉たてまつらららででで置置おききき奉奉たてまつつつっててて候候そうろう。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、聖聖ひじり、、、「「「いでいでいでさらばさらばさらば見見み參參まいらららせせせんんん。。。」」」とととててて若若わか君君ぎみののの渡渡わたらららせせせ給給たまふふう所所ところににに參參まいつつっててて見見み給給たまへへえばばば、、、二二ふた重重へ織織おり物物ものののの直直ひた垂垂たれににに、、、黑黑くろ木木きののの珠珠じゅ數數ず手手てにににぬきぬきぬき入入いれれれててておはしますおはしますおわします。。。髪髪かみのののかゝりかゝりかかり、、、姿姿すがたことことことがらがらがら、、、まことまことまことにににあてあてあてににに美美うつくしくしくしく、、、このこのこの世世よののの人人ひととととももも見見みえええ給給たまははわずずず。。。今今こ夜夜よいうちうちうちとけとけとけてててまどろみまどろみまどろみ給給たまははわぬぬぬかかかとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、少少すこししし面面おも痩痩やせせせ給給たまふふうををを見見み參參まいらららするするするにににつけつけつけてててももも、、、いとゞいとゞいとどらうたくらうたくろうたくぞぞぞ思思おもははわれれれけるけるける。。。
- 11若若わか君君ぎみ聖聖ひじりををを見見み給給たまひひいててて、、、いかゞいかゞいかがおぼしおぼしおぼしけんけんけん涙涙なみだぐみぐみぐみ給給たまへへえばばば、、、聖聖ひじりもももすゞろすゞろすずろににに墨墨すみ染染ぞめののの袖袖そでをををぞぞぞぬらさぬらさぬらされれれけるけるける。。。末末すえののの世世よにににはははいかなるいかなるいかなる怨怨おん敵敵てきとととなりなりなり給給たまふふうととといふいふいうともともとも、、、これこれこれをををばばばいかでいかでいかでかかか失失うしなひひい奉奉たてまつるるるべきべきべきととと思思おもははわれれれけれけれければばば、、、北北ほう條條じょうににに向向むかつつっててて宣宣のたまひひいけるけるけるははは、、、「「「先先せん世世ぜのののことことことにににややや候候そうろうらんらんらん、、、このこのこの若若わか君君ぎみををを見見み參參まいらららせせせ候候そうらへへえばばば、、、あまりあまりあまりにににいとほしういとほしういとおしゅう思思おもひひいまゐらまゐらまいらせせせ候候そうろう。。。何何なにかかか苦苦くるしうしうしゅう候候そうろうべきべきべき、、、二二は十十つ日日かののの命命いのちををを延延のべべべてててたべたべたべ、、、鎌鎌かま倉倉くらへへへ下下くだつつっててて申申もうししし許許ゆるいいいててて奉奉たてまつらららんんん。。。そのそのその故故ゆえははは、、、聖聖ひじり鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのををを世世よにににあらあらあらせせせ奉奉たてまつらららんんんとととててて、、、院院いん宣宣ぜん伺伺うかがひひいににに京京きょうへへへ上上のぼるるるががが、、、案案あん内内ないももも知知しらららぬぬぬ富富ふ士士じ川川がわののの裾裾すそににに、、、夜夜よ渡渡わたりりりかゝつかゝつかかっててて、、、既既すでにににおしおしおし流流ながささされれれんんんとととしししたりたりたりししし事事こと、、、またまたまた高高たか市市しののの山山やまにににててて引引ひっ剝剝はぎにににあひあひあい、、、からからからききき命命いのちばかりばかりばかり生生いきききつゝつゝつつ、、、福福ふく原原はらののの牢牢ろうののの御御ご所所しょににに參參まいつつっててて、、、院院いん宣宣ぜん申申もうししし出出いだいいいててて奉奉たてまつつつつししし時時ときののの御御おん約約やく束束そくにににははは、、、たとひたとひたといいかなるいかなるいかなる大大だい事事じをををももも申申もうせせせ、、、聖聖ひじりががが申申もうさささんんんずるずるずる事事ことどもどもどもをををばばば、、、賴賴より朝朝とも一一いち期期ごががが閒閒あいだはははかなへかなへかなえんんんとととこそこそこそ宣宣のたまひひいしかしかしか。。。そのそのその外外ほか度度たび々々たびののの奉奉ほう公公こうをををばばば、、、かつかつかつ見見み給給たまひひいししし事事ことぞぞぞかしかしかし。。。事事こと新新あたらしうしうしゅう始始はじめめめててて申申もうすすすべきべきべきにににあらあらあらずずず。。。契契ちぎりりりををを重重おもんんんじじじててて命命いのちををを輕輕かろんんんずずず。。。鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのににに受受じゅ領領りょう神神がみつきつきつき給給たまははわずずずばばば、、、よもよもよも忘忘わすれれれ給給たまははわじじじ。。。」」」とととててて、、、やがてやがてやがてそのそのその曉曉あかつきぞぞぞ立立たたたたれれれけるけるける。。。
- 12齋齋さい藤藤とう五五ご、、、齋齋さい藤藤とう六六ろく、、、聖聖ひじりををを生生しょう身身じんののの佛佛ほとけののの如如ごとくくくににに思思おもうううててて、、、手手てををを合合あははわせせせててて涙涙なみだををを流流ながすすす。。。これこれこれらららまたまたまた大大だい覺覺かく寺寺じににに參參まいつつっててて、、、このこのこの由由よし申申もうしししけれけれけれははは、、、母母ほう上上へいかばかりいかばかりいかばかりかかか嬉嬉うれしうしうしゅう思思おもははわれれれけんけんけん。。。されどもされどもされども鎌鎌かま倉倉くら殿殿どののののはからひはからひはからいなれなれなればばば、、、いかゞいかゞいかがあらあらあらんんんずらんずらんずらんととと思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、二二は十十つ日日かののの命命いのちののの延延のびびび給給たまふふうにににぞぞぞ、、、母母ほう上上へ、、、乳乳めの母母とののの女女にょう房房ぼう少少すこししし心心こころををを取取とり延延のべべべててて、、、ひとへひとへひとえににに長長は谷谷せののの觀觀かん音音おんののの御御おん助助たすけけけなれなれなればばばにににやややととと、、、たのもしうたのもしうたのもしゅうぞぞぞ思思おもははわれれれけるけるける。。。かくかくかくしししててて明明あかししし暮暮くらさささせせせ給給たまふふう程程ほどににに、、、二二は十十つ日日かののの過過すぐるぐるぐるははは夢夢ゆめなれなれなれややや、、、聖聖ひじりももも未未いまだだだ見見みえええたまはたまはたまわずずず。。。「「「これこれこれはははさはさはさわ何何なにとととしししつるつるつる事事ことどもどもどもぞぞぞややや。。。」」」ととと、、、なか〳〵なか〳〵なかなか心心こころ苦苦ぐるしくしくしくててて、、、今今いま更更さらまたまたまた悶悶もだえええこがれこがれこがれ給給たまひひいけりけりけり。。。北北ほう條條じょうももも、、、聖聖ひじりののの二二は十十つ日日かととと申申もうささされれれししし約約やく束束そくののの日日ひ數數かずももも過過すぎぎぎぬぬぬ。。。今今いまははは鎌鎌かま倉倉くら殿殿どの御御おん許許ゆるささされれれなきなきなきにににこそこそこそあんあんあんなれなれなれ。。。さささのみのみのみ在在ざい京京きょうしししててて、、、年年としををを暮暮くらすすすべきべきべきにににあらあらあらずずず。。。今今いまははは下下くだらららんんんとととてててひしめけひしめけひしめけりりり。。。齋齋さい藤藤とう五五ご、、、齋齋さい藤藤とう六六ろくももも手手てををを握握にぎりりり、、、肝肝きも魂魂たましいををを消消けしししててて思思おもへへえどもどもども、、、聖聖ひじりももも未未いまだだだ見見みえええ給給たまははわずずず、、、使使し者者しゃをををだにだにだにももも上上のぼせせせねねねばばば、、、思思おもふふうばかりばかりばかりぞぞぞなかりなかりなかりけるけるける。。。これこれこれらららまたまたまた大大だい覺覺かく寺寺じににに參參まいりりり、、、「「「聖聖ひじりももも未未いまだだだ見見みえええ給給たまははわずずず、、、北北ほう條條じょうもももこのこのこの曉曉あかつき下下げ向向こう仕仕つかまつりりり候候そうろう。。。」」」とととててて、、、涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながしししけれけれければばば、、、母母ほう上上へ、、、聖聖ひじりのののさしもさしもさしもたのもしげたのもしげたのもしげににに申申もうしししててて下下くだりりりぬるぬるぬる後後のちははは、、、母母ほう上上へ、、、乳乳めの母母とののの女女にょう房房ぼう、、、少少すこししし心心こころををを取取とり延延のべべべててて、、、ひとへひとへひとえににに觀觀かん音音おんののの御御おん助助たすけけけなりなりなりととと、、、たのもしうたのもしうたのもしゅう思思おもははわれれれつるつるつるににに、、、このこのこの曉曉あかつきにににもももなりなりなりしかしかしかばばば、、、母母ほう上上へ、、、乳乳めの母母とののの女女にょう房房ぼうののの心心こころののの中中うち、、、さささこそこそこそははは便便たよりりりなかりなかりなかりけめけめけめ。。。
- 13母母ほう上上へ、、、乳乳めの母母とののの女女にょう房房ぼうにににのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、あはれあはれあわれおとなしやかおとなしやかおとなしやかならならならんんんずるずるずる者者ものががが、、、道道みちにににててて聖聖ひじりににに行行ゆきききあはあはあわんんん所所ところまでまでまで、、、このこのこの子子こををを具具ぐせせせよよよととといへいへいえかしかしかし。。。もしもしもし請請こひひい受受うけけけててて上上のぼらららんんんににに、、、さきさきさきににに斬斬きららられれれたらたらたらんんんずるずるずる心心こころうさうさうさをををばばばいかゞいかゞいかがせせせんんん。。。さてさてさてやがてやがてやがて失失うしなひげひげいげなりなりなりつるつるつるかかか。。。」」」ととと問問とひひい給給たまへへえばばば、、、「「「このこのこの曉曉あかつきののの程程ほどとととこそこそこそ見見みえええさせさせさせまし〳〵まし〳〵ましまし候候そうらへへえ。。。そのそのその故故ゆえははは、、、このこのこの程程ほど御御おん宿宿との直直い仕仕つかまつりりり候候そうらひひいつるつるつる北北ほう條條じょうののの家家いえののの子子こ郎郎ろう等等どうどもどもども、、、世世よににに名名な殘殘ごり惜惜おしげしげしげにににててて、、、或或あるいははは念念ねん佛佛ぶつ申申もうすすす者者ものももも候候そうろう、、、或或あるいははは涙涙なみだををを流流ながすすす者者ものももも候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。母母ほう上上へ、、、「「「さてさてさてこのこのこの子子こがががありさまありさまありさまははは何何なにとととあるあるあるぞぞぞ。。。」」」ととと問問とひひい給給たまへへえばばば、、、「「「人人ひとののの見見みまゐらまゐらまいらせせせ候候そうろう時時ときははは、、、さらさらさらぬぬぬ體體ていにににもてもてもてないないないててて、、、御御おん數數じゅ珠珠ずをををくらくらくらせせせまし〳〵まし〳〵ましまし候候そうろう。。。またまたまた人人ひとののの見見み參參まいらららせせせ候候そうらははわぬぬぬ時時ときははは、、、傍傍かたわらににに向向むかははわせせせ給給たまひひいててて、、、御御おん袖袖そでををを御御おん顏顏かおにににおしおしおし當當あてててててて、、、涙涙なみだににに咽咽むせばばばせせせ給給たまひひい候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。母母ほう上上へ、、、「「「さささぞぞぞあるあるあるらめらめらめ。。。年年としこそこそこそをさなけれをさなけれおさなけれどもどもども、、、心心こころ少少すこしししおとなしやかおとなしやかおとなしやかなるなるなる者者ものなりなりなり。。。しばししばししばしもももあらあらあらばばば、、、北北ほう條條じょうとととかやかやかやににに暇暇いとま乞乞こうううててて歸歸かえりりり參參まいらららんんんとととはははいひいひいいつれつれつれどもどもども、、、今日今日きょう既既すでににに二二は十十つ日日かにににあまるあまるあまるににに、、、あれあれあれへへへももも行行ゆかかかずずず、、、これこれこれへへへももも見見みえええずずず。。。またまたまたいづれいづれいずれののの日日ひ、、、いづれいづれいずれののの時時とき、、、必必かならずずず逢逢あひひい見見みるるるべしべしべしとととももも覺覺おぼえええずずず。。。今今こ宵宵よい限限かぎりりりののの命命いのちととと思思おもうううててて、、、さささこそこそこそははは心心こころ細細ぼそかりかりかりけめけめけめ。。。さてさてさて汝汝なんじ等等らはははいかゞいかゞいかがははは計計はからふらふらうやらんやらんやらん。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、「「「これこれこれはははいづくいづくいずくまでまでまでももも御御おん供供とも仕仕つかまつりりり、、、いかにいかにいかにもももならならならせせせましまさましまさましまさばばば、、、御御おん骨骨こつををを取取とりりり奉奉たてまつりりり、、、高高こう野野やののの御御お山山やまににに納納おさめめめ奉奉たてまつりりり、、、出出しゅっ家家け入入にゅう道道どう仕仕つかまつりりり、、、御御ご菩菩ぼ提提だいををを弔弔とぶらひひい參參まいらららせせせんんんとととこそこそこそ存存ぞんじじじ候候そうらへへえ。。。」」」とととててて、、、涙涙なみだにににむせむせむせ沉沉しずんんんでででぞぞぞ伏伏ふしししにににけるけるける。。。
- 14かくかくかくててて時時じ刻刻こく遙遙はるかかかにににおしおしおし移移うつりりりけれけれければばば、、、母母ほう上上へ、、、「「「時時ときののの程程ほどもももおぼつかなしおぼつかなしおぼつかなし、、、さらばさらばさらばとうとうとう歸歸かえれれれ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、二二ふた人人りののの者者もの共共ども、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく暇暇いとま申申もうしししてててまかりまかりまかり出出いづづず。。。さるさるさる程程ほどににに同同おなじきじきじき十十じゅう二二に月月がつ十十じゅう七七しち日日にちののの曉曉あかつき、、、北北ほう條條じょうののの四四し郎郎ろう時時とき政政まさ若若わか君君ぎみ具具ぐししし奉奉たてまつつつっててて、、、既既すでににに都都みやこををを立立たちちちにににけりけりけり。。。齋齋さい藤藤とう五五ご、、、齋齋さい藤藤とう六六ろくももも御御おん輿輿こしののの左左さ右右ゆうににについついついてててぞぞぞ參參まいりりりけるけるける。。。北北ほう條條じょう乘乘のり替替かえどもどもども下下おろいいいててて、、、「「「馬馬うまににに乘乘のれれれ。。。」」」ととといへいへいえどもどもども乘乘のらららずずず。。。「「「最最さい後後ごののの御御おん供供ともででで候候そうらへへえばばば苦苦くるしうしうしゅうももも候候そうらははわずずず。。。」」」とととててて、、、血血ちののの涙涙なみだををを流流ながいいいててて、、、徒徒かち跣跣はだしでででぞぞぞ下下くだりりりけるけるける。。。若若わか君君ぎみはははさしもさしもさしも離離はなれれれ難難がとうううおぼえおぼえおぼえけるけるける母母ほう上上へ、、、乳乳めの母母とののの女女にょう房房ぼうにににももも別別わかれれれはてはてはてててて、、、住住すみみみ馴馴なれれれししし都都みやこをををばばば雲雲くも居居いのののよそよそよそににに顧顧かえりみみみててて、、、今日今日きょうををを限限かぎりりりののの東東あずま路路じににに赴赴おもむいいいててて、、、はる〴〵はる〴〵はるばるととと下下くだららられれれけんけんけん心心こころののの中中うち、、、推推おししし量量はかららられれれててて哀哀あわれれれなりなりなり。。。駒駒こまををを早早はやむるむるむる武武ぶ士士しあれあれあればばば、、、わがわがわが首首くび斬斬きらららんんんかかかととと肝肝きもををを消消けししし、、、ものいひかはすものいひかはすものいいかわす者者ものあれあれあればばば、、、すはすはすわ今今いまやややととと心心こころをををつくすつくすつくす。。。四四しののの宮宮みや河河かわ原原らととと思思おもへへえどもどもども、、、關關せき山山やまをををもももうちうちうち過過すぎぎぎててて、、、大大おお津津つののの浦浦うらにににもももなりなりなりにににけりけりけり。。。粟粟あわ津津ずののの原原はらかかかととと窺窺うかがへへえばばば、、、今日今日きょうもももはやはやはや暮暮くれれれにににけりけりけり。。。國國くに々々ぐに宿宿しゅく々々しゅくうちうちうち過過すぎ〳〵ぎ〳〵ぎすぎ下下くだりりり給給たまふふう程程ほどににに、、、駿駿する河河がののの國國くににににもももなりなりなりしかしかしかばばば、、、若若わか君君ぎみののの露露つゆののの御御おん命命いのち、、、今日今日きょうををを限限かぎりりりとととぞぞぞ見見みえええししし。。。
- 15千千せん本本ぼんののの松松まつ原原ばらととといふいふいう所所ところににに御御おん輿輿こしかきかきかきすゑすゑすえさせさせさせ、、、「「「若若わか君君ぎみ下下おりりりさせさせさせ給給たまへへえ。。。」」」とととててて、、、敷敷しき皮皮がわ敷敷しいいいてててすゑすゑすえ奉奉たてまつるるる。。。北北ほう條條じょういそぎいそぎいそぎ馬馬うまよりよりより飛飛とんんんででで下下おりりり、、、若若わか君君ぎみののの御御おん側側そば近近ちこううう參參まいつつっててて申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「もしもしもし道道みちにににててて聖聖ひじりにににややや行行ゆきききあひあひあい候候そうろうととと、、、これこれこれまでまでまで具具ぐ足足そくししし奉奉たてまつつつっててて候候そうらへへえどもどもども、、、山山やまのののあなたあなたあなたまでまでまでははは、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのののの御御ご心心しん中中ちゅうをををももも計計はかりがたうりがたうりがとう候候そうらへへえばばば、、、近近おう江江みののの國國くににににててて失失うしなひひいまゐらまゐらまいらせせせたるたるたる由由よし、、、披披ひ露露ろう仕仕つかまつりりり候候そうらははわんんん。。。誰誰たれ申申もうすすすともともとも、、、一一いち業業ごう所所しょ感感かんののの御御おん身身みなれなれなればばば、、、よもよもよも叶叶かなははわせせせ給給たまひひい候候そうらははわじじじ。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、若若わか君君ぎみとかうとかうとこうののの返返へん事事じにににももも及及およびびび給給たまははわずずず。。。齋齋さい藤藤とう五五ご、、、齋齋さい藤藤とう六六ろくををを召召めしししてててのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「あなあなあなかしこかしこかしこ、、、汝汝なんじ等等ら都都みやこへへへ上上のぼりりり、、、われわれわれ道道みちにににててて斬斬きららられれれたりたりたりなどなどなど申申もうすすすべからべからべからずずず。。。そのそのその故故ゆえははは、、、終終ついにににはははかくれかくれかくれあるあるあるまじけれまじけれまじけれどもどもども、、、まさしうまさしうまさしゅうこのこのこのありさまありさまありさまををを聞聞きききき給給たまひひいててて、、、歎歎なげききき悲悲かなしみしみしみ給給たまははわばばば、、、後後ご世世せのののさはりさはりさわりととともももならならならんんんずるずるずるぞぞぞ。。。鎌鎌かま倉倉くらまでまでまで送送おくりりりつけつけつけててて上上のぼつつったるたるたる由由よし申申もうすすすべしべしべし。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、二二ふた人人りののの者者もの共共ども、、、涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながすすす。。。やゝやゝややあつあつあっててて齋齋さい藤藤とう五五ご、、、涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「君君きみののの神神かみにににももも佛佛ほとけにににもももならならならせせせ給給たまひひいなななんんん後後のち、、、命命いのち生生いきききててて再再ふたたびびび都都みやこへへへ歸歸かえりりり上上のぼるるるべしべしべしとととももも存存ぞんじじじ候候そうらははわずずず。。。」」」とととててて、、、またまたまた涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて伏伏ふしししにににけりけりけり。。。
- 16若若わか君君ぎみ今今いまはははかうかうこうととと見見みえええししし時時とき、、、御御おん髪髪ぐしののの肩肩かたにににかゝりかゝりかかりけるけるけるををを、、、小小ちいさうさうそう美美うつくしきしきしき御御おん手手てををを以以もっててて、、、前前まえへへへかきかきかきこさこさこさせせせ給給たまふふうををを、、、守守しゅ護護ごののの武武ぶ士士し共共ども見見み參參まいらららせせせててて、、、「「「あなあなあないとほしいとほしいとおし、、、未未いまだだだ御御おん心心こころのののましますましますましますぞぞぞややや。。。」」」とととてててみなみなみな鎧鎧よろいののの袖袖そでをををぞぞぞぬらしぬらしぬらしけるけるける。。。そのそのその後後のち若若わか君君ぎみ、、、西西にしににに向向むかつつっててて手手てををを合合あははわせせせ、、、高高こう聲聲じょうににに十十じゅう念念ねん唱唱となへへえさせさせさせ給給たまひひいつゝつゝつつ、、、頸頸くびををを延延のべべべてててぞぞぞ待待またたたれれれけるけるける。。。狩狩か野野のののの工工く藤藤どう三三さぶ郎郎ろう親親ちか俊俊とし、、、斬斬きり手手てににに選選えらまままれれれ、、、太太た刀刀ちををを引引ひきききそばめそばめそばめ、、、左左ひだりののの方方かたよりよりより若若わか君君ぎみののの御御おん後後うしろににに立立たち廻廻まわりりり、、、すですですでににに斬斬きらららんんんとととしししけるけるけるががが、、、目目めもももくれくれくれ心心こころももも消消きえええはてはてはてててて、、、いづくいづくいずくににに刀刀かたなををを打打うちちちつくつくつくべしべしべしととともももおぼえおぼえおぼえずずず。。。前前ぜん後後ご不不ふ覺覺かくににに覺覺おぼえええけれけれければばば、、、「「「仕仕つかまつつつつとととももも存存ぞんじじじ候候そうらははわずずず。。。他他た人人にんににに仰仰おおせせせつけつけつけられられられ候候そうらへへえ。。。」」」とととててて、、、太太た刀刀ちををを捨捨すててててててぞぞぞ退退のきききにににけるけるける。。。「「「さらばさらばさらばあれあれあれ斬斬きれれれ、、、これこれこれ斬斬きれれれ。。。」」」とととててて、、、斬斬きり手手てををを選選えらぶぶぶ所所ところににに、、、こゝこゝここににに墨墨すみ染染ぞめののの衣衣ころも著著きたりたりたりけるけるける僧僧そう一一ひと人人り、、、月月つき毛毛げなるなるなる馬馬うまににに乘乘のつつっててて鞭鞭むちををを打打うつつってててぞぞぞ馳馳はせせせたりたりたりけるけるける。。。そのそのその邊邊へんののの者者ものどもどもども、、、「「「あなあなあないとほしいとほしいとおし、、、あのあのあの松松まつ原原ばらののの中中なかにににててて世世よにににうつくしきうつくしきうつくしき若若わか君君ぎみををを、、、北北ほう條條じょう殿殿どののののたゞたゞただ今今いま斬斬きりりり奉奉たてまつらららるゝるゝるるぞぞぞややや。。。」」」とととててて、、、者者もの共共どもひし〳〵ひし〳〵ひしひしととと走走はしりりり集集あつまりまりまりけれけれければばば、、、このこのこの僧僧そう心心こころもとなさもとなさもとなさににに、、、鞭鞭むちををを上上あげげげててて招招まねきききけるけるけるががが、、、なほなほなおおぼつかなさおぼつかなさおぼつかなさににに、、、著著きたるたるたる笠笠かさをををぬいぬいぬいでででさしさしさし上上あげげげてててぞぞぞ招招まねきききけるけるける。。。
- 17北北ほう條條じょう仔仔し細細さいありありありとととててて待待まつつつ所所ところににに、、、このこのこの僧僧そうほどほどほどなくなくなく馳馳はせせせ來來きたりりり、、、いそぎいそぎいそぎ馬馬うまよりよりより飛飛とんんんででで下下おりりり、、、「「「若若わか君君ぎみ請請こひひい受受うけけけ奉奉たてまつつつったりたりたり。。。鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのののの御御み教教きょう書書しょこれこれこれにににありありあり。。。」」」とととててて取取とり出出いだすすす。。。北北ほう條條じょうこれこれこれををを開開ひらいいいててて見見みるるるににに、、、「「「まことまことまことややや小小こ松松まつののの三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう維維これ盛盛もりののの卿卿きょうののの子子し息息そく六六ろく代代だい御御ご前前ぜん尋尋たずねねね出出いだささされれれててて候候そうろう。。。然然しかるるるををを高高たか雄雄おののの聖聖ひじり文文もん覺覺がく坊坊ぼうのののしばししばししばし請請こひひい受受うけけけうううととと候候そうろう。。。疑疑うたがひひいをををなさなさなさずずず預預あずけけけらるらるらるべしべしべし。。。北北ほう條條じょうののの四四し郎郎ろう殿殿どのへへへ、、、賴賴より朝朝とも。。。」」」とととあそばいあそばいあそばいててて御御ご判判はんありありあり。。。北北ほう條條じょうおしおしおしかへし〳〵かへし〳〵かえしおしかえし、、、二二に三三さん返返べん讀讀ようううででで、、、「「「神神しん妙妙びょう々々しん々々びょう。。。」」」とととててて、、、さしさしさし置置おかかかれれれけれけれければばば、、、齋齋さい藤藤とう五五ご、、、齋齋さい藤藤とう六六ろくはははいふいふいうににに及及およばばばずずず、、、北北ほう條條じょうののの家家いえののの子子こ郎郎ろう等等どうどもどもどもももも、、、みなみなみな喜喜よろこびびびののの涙涙なみだをををぞぞぞ流流ながしししけるけるける。。。
現代語訳
さて北条四郎時政は、鎌倉殿の代官として都の守護をしておられたが、「平家の子孫という人は、男子なら一人も漏らさず、探し出した者には望みどおりの褒美を与える」と触れを出された。都の上下の者は事情を知っているので、褒美をもらおうと探し求めるのは嘆かわしいことであった。こうして多くの者が探し出された。身分の低い者の子でも、色白で顔立ちのよい子を、「あれは何々の中将殿の若君、あの少将殿の公達」などと言うので、父母が嘆き悲しんでも、「あの子は乳母がそう申しています」「この子は世話役の女房が」などと言って、ごく幼い子は水に沈め、土に埋め、少し大きい子は押し殺し、刺し殺した。母の悲しみ、乳母の嘆きは、たとえようもなかった。北条も、子や孫が多い身であったから、これをよいこととは思わなかったが、世に従うならいなのでどうしようもなかった。
なかでも小松三位中将維盛卿の若君六代御前は、年も少し大きくおなりである。そのうえ平家の嫡流でいらしたので、なんとかして捕らえて殺そうと、手分けして探したが見つけられず、もうむなしく鎌倉へ下ろうとしていたところに、ある女房が六波羅に参って、「ここから西、遍照寺の奥、大覚寺という山寺の北の菖蒲谷という所に、小松三位中将維盛卿の北の方と若君・姫君が隠れていらっしゃるそうです」と言ったので、北条はよいことを聞いたと思い、そこへ人をやって辺りをうかがわせると、ある僧坊に女房たちが大勢、幼い人々も、たいそう人目を忍ぶ様子で住んでいた。垣根のすき間からのぞいて見ると、白い子犬が庭へ走り出たのを捕まえようと、たいそう美しい若君が続いて出ていらしたのを、乳母らしい女房が「まあ大変、人が見ているかもしれません」と言って、急いで引き入れた。これこそきっとその若君であろうと思い、急いで走り帰ってこのことを申したので、翌日、北条は菖蒲谷を取り囲み、人を入れて申されるには、「小松三位中将維盛卿の若君六代御前がここにいらっしゃると承って、鎌倉殿の代官として北条四郎時政がお迎えに参りました。早くお出しください」と申されたので、母上は夢のような心地で、まったく何もわからなくなられた。斎藤五・斎藤六はあたりを走り回って様子をうかがったが、武士たちが四方を取り囲んでいて、どこからお逃がしすることもできそうになかった。
母上は若君を抱きかかえて、「いっそ私を殺しておくれ」と言って泣き叫ばれた。乳母も女房たちも御前に倒れ伏して、声も惜しまず泣き叫んだ。日ごろは物さえ高い声では言わず、ひそかに隠れ住んでいたが、今は家の中にいる者が皆、声をそろえて泣き悲しんだ。北条も岩や木ではないから、さすがに哀れに思って涙を押さえ、じっと待っておられた。しばらくして、また人を入れて申されるには、「世の中もまだ静まっておりませんので、不始末なことが起こるかもしれません。時政がお迎えに参りました。別段のことはございますまい。早くお出しください」と申されたので、若君が母上に申されるには、「とうてい逃れられないのですから、早く早く出してください。武士たちが押し入って捜すことにでもなれば、かえって見苦しいお姿をお見せになることになるでしょう。たとえ参りましても、しばらくしたら北条とかいう人においとまをもらって帰って参ります。そんなにお嘆きにならないでください」と、お慰めになるのはいじらしいことであった。
そうしてばかりもいられないので、母上は若君に泣く泣くお着物を着せ、お髪をなでて、もうお出ししようとなさったが、黒木の小さく美しい数珠を取り出して、「よくよく心して、これでどうなるときまで念仏を唱えて、極楽へ参るのですよ」と言ってお渡しになった。若君はこれを受け取られて、「母上とは今日もうお別れいたしました。今はなんとしても、父上のいらっしゃる所へ参りたいものです」とおっしゃると、妹の姫君で十歳におなりの方が、私も参りますと言って続いて出ようとなさったのを、乳母の女房が引きとめた。六代御前は今年十二歳におなりだが、世間の十四、五の子よりも大人びて、顔かたちも美しく、心ばえもすぐれていらしたので、敵に弱みを見せまいと、押さえる袖のすき間からも、あふれて涙がこぼれた。こうして御輿にお乗りになった。武士たちも周りを取り囲んで出て行った。斎藤五・斎藤六も御輿の左右について参った。北条が替え馬を下ろして馬に乗れと言ったが乗らず、大覚寺から六波羅まで裸足で参った。
母上と乳母の女房は、天を仰ぎ地に伏して、もだえ苦しまれた。母上が乳母の女房におっしゃるには、「この日ごろ、平家の子どもを集めて水に沈め、土に埋め、あるいは押し殺し刺し殺し、さまざまにして殺すと聞くので、わが子はどのようにして殺されるのだろう。年も少し大きいから、きっと首を斬られるのだろう。人の子は乳母などのもとに預けて、時々会うこともある。それでさえ親子の情愛は悲しいものなのだ。ましてこの子は生まれてからこのかた、一日片時も身から離さず、人の持たないような子を持ったように思って、朝夕二人の間で育ててきたのに、頼りにしていた人と心ならずも別れてからは、二人を左右に置いて心を慰めていたのに、今はもう一人はいても一人はいない。今日から後はどうしたらよいのか。この三年の間、夜も昼も肝をつぶして覚悟していたことではあるが、さすがに昨日今日のこととは思いもよらず、日ごろは長谷の観音をいくらなんでもと頼み申していたのに、とうとう捕らえられてしまった悲しさよ。今ごろはもう殺してしまったのだろうか」とかき口説き、袖を顔に押し当てて、さめざめと泣かれた。
夜になっても、胸がせき上げる心地がして少しもお眠りにならなかったが、しばらくして乳母の女房におっしゃるには、「今少しまどろんだ夢に、あの子が白い馬に乗って来て、『あまりに恋しく思いましたので、少しのおいとまをもらって参りました』と言って、そばにひざまずいて、なんだかたいそう恨めしそうにしていたが、まもなくはっと目が覚めて、そばを探っても誰もいない。夢でさえしばらくも続かず、すぐ覚めてしまった悲しさよ」と泣く泣く語られた。
こうして長い夜をいっそう明かしかね、涙で床も浮くほどであった。限りがあるので、時を告げる役人が暁を告げて夜も明けた。斎藤六が帰って参った。母上が「さてどうでしたか」とお尋ねになると、「今までは別段のこともございません。ここにお手紙がございます」と言って取り出して差し上げた。これを開けてご覧になると、「今までは別段のこともございません。さぞご心配に思っていらっしゃるでしょう。早くも皆さまが恋しく思われます」と大人びてお書きになっていた。母上はこれを顔に押し当てて、何もおっしゃらず、衣を引きかぶって伏してしまわれた。こうして時がだいぶたったので、斎藤六が「時刻も気がかりです。お返事をいただいて帰って参りましょう」と申したので、母上は泣く泣くお返事を書いてお与えになった。斎藤六はおいとまを申して出て行った。
乳母の女房は、あまりのことにじっとしていられなかったのか、大覚寺をこっそり抜け出して、あたりを足にまかせて泣きながら歩いていると、ある人が申すには、「ここから奥の高雄という山寺の聖、文覚坊という人こそ、鎌倉殿がたいへん大切な人と思っておられるが、身分の高い家の子を弟子にしたいと欲しがっておられるそうだ」と言ったので、乳母の女房はよいことを聞いたと思い、すぐに高雄へ訪ねて行き、聖に向かって泣く泣く申すには、「乳飲み子のころから抱き上げてお育て申し、今年十二歳におなりの若君を、昨日武士に捕らえられてしまいました。お命をもらい受けて、お弟子になさってくださいませんか」と言って、聖の御前に倒れ伏し、声も惜しまず泣き叫んだ。まことにどうしようもない様子に見えた。
聖も気の毒に思って事情をお尋ねになった。しばらくして起き上がり、涙を押さえて申すには、「小松三位中将維盛卿の北の方に親しくお仕えしている人の若君をお育てしておりましたのを、もしや中将殿の公達だと誰かが申したのでしょうか、昨日武士に捕らえられてしまいました」と語った。聖が「さてその武士は誰というのか」と言うと、「北条四郎時政と名のっておりました」。聖は「さあ、それなら訪ねてみよう」と言って出て行った。乳母の女房は、この言葉を頼みにすべきではないが、昨日武士に捕らえられてからこのかた、あまりのことに思案のしようもなかったところに、聖がこのようにおっしゃったので、少し気を取り直して急いで大覚寺へ参った。母上は「さてそなたは身投げに出て行ったのかと、私もどこかの淵や川へ身を投げたいと思っていたのに」と言って、事情をお尋ねになった。乳母の女房が聖の申されたことを細かに語ったので、「ああ、その聖の御坊があの子をもらい受けて、もう一度私に会わせてほしい」と言って、うれしいにつけても、ただ尽きないものは涙であった。
その後、聖は六波羅に出かけて事情をお尋ねになった。北条が申されるには、「鎌倉殿の仰せには、平家の子孫という人は、男子なら一人も漏らさず探し出して殺せ。なかでも小松三位中将維盛卿の子息六代御前は年も少し大きい。そのうえ平家の嫡流である。故中御門新大納言成親卿の娘の腹の子と聞く。なんとしても捕らえて殺せ、と仰せを受けておりますので、末々の公達は少々捕らえ申しましたが、この若君の居所がどことも分からず、もうむなしく下ろうとしておりましたところに、思いがけず一昨日聞き出して、昨日ここまでお迎えしましたが、あまりに美しくいらっしゃるので、まだどうともせずに置いております」と申されたので、聖は「さあ、それならお会いしよう」と言って若君のいらっしゃる所へ参ってご覧になると、二重織物の直垂を着て、黒木の数珠を手にかけていらっしゃる。髪の様子、姿や人柄はまことに上品で美しく、この世の人とも見えない。昨夜は気を許して眠れなかったのか、少し面やつれしていらっしゃるのを見申すにつけても、いっそういとおしく思われた。
若君は聖をご覧になって、どう思われたのか涙ぐまれたので、聖もそぞろに墨染の袖を濡らされた。後の世にどのような仇敵になられるとしても、この子をどうして殺し申すことができようかと思われたので、北条に向かっておっしゃるには、「前世からの因縁でしょうか、この若君をお見かけすると、あまりにいとおしく思われます。かまうものですか、二十日の命を延ばしてください。鎌倉へ下って許しをいただいて差し上げましょう。そのわけは、この聖は鎌倉殿を世に立たせ申そうとして、院宣をうかがいに京へ上ったとき、勝手も知らない富士川の下流で夜に渡りかかって、もう少しで押し流されそうになったこと、また高市の山で追いはぎにあい、危うい命ばかりを拾って福原の牢の御所に参り、院宣をいただいて差し上げたときのお約束には、たとえどんな大事でも申せ、この聖が申すことは頼朝一生の間かなえよう、とおっしゃったのです。そのほか度々の奉公は、あなたもご覧になったことです。改めて申すまでもありません。約束を重んじて命を軽んずるものです。鎌倉殿に受領神がとりつきでもしなければ、よもやお忘れにはなるまい」と言って、すぐにその明け方に出立された。
斎藤五・斎藤六は聖を生き仏のように思って、手を合わせて涙を流した。この者たちはまた大覚寺に参ってこのことを申したので、母上はどれほどうれしく思われたことだろう。けれども鎌倉殿のお考えしだいなので、どうなることかと思われたが、二十日の命が延びたので、母上も乳母の女房も少し気を取り直して、ひとえに長谷の観音のお助けであろうかと頼もしく思われた。こうして日を送られるうちに、二十日が過ぎるのは夢のようで、聖はまだ見えない。「これはいったいどうしたことか」と、かえって心苦しく、今さらまたもだえ苦しまれた。北条も、聖が二十日と申した約束の日数も過ぎてしまった。今は鎌倉殿のお許しがないのであろう。そうそう在京して年を越すわけにもいかない。今はもう下ろうと騒ぎたてた。斎藤五・斎藤六も手を握りしめ、肝をつぶす思いであったが、聖はまだ見えず、使者さえよこさないので、どうしようもなかった。この者たちはまた大覚寺に参り、「聖はまだお見えになりません。北条もこの明け方に下向いたします」と言って涙をはらはらと流したので、聖があれほど頼もしげに申して下ってから、母上も乳母の女房も少し気を取り直して、ひとえに観音のお助けだと頼もしく思っていたのに、この明け方になってしまったので、母上と乳母の女房の心の中は、さぞ心細いことであっただろう。
母上が乳母の女房におっしゃるには、「ああ、誰か分別のある者が、道中で聖に行き会うところまで、あの子を連れて行ってくれと言ってほしい。もしもらい受けて上って来ても、その前に斬られていたらそのつらさをどうしよう。それで、もうすぐ殺されそうな様子だったか」とお尋ねになると、「この明け方のころと見えました。そのわけは、このごろ宿直をしておりました北条の家の子郎等たちが、ひどく名残惜しそうにして、念仏を唱える者もおり、涙を流す者もおりました」と申す。母上が「それで、あの子の様子はどうなのか」とお尋ねになると、「人が見ているときは何気ないふうをして、お数珠をくっていらっしゃいます。また人が見ていないときは、脇を向いて、お袖をお顔に押し当てて、涙にむせんでいらっしゃいます」と申す。母上は「そうであろう。年こそ幼いけれども、心は少し大人びた子です。しばらくしたら北条とかいう人においとまをもらって帰って参ると言ったけれども、今日もう二十日を過ぎたのに、あちらへも行けず、こちらへも来られない。またいつの日、いつの時に必ず会えるとも思えない。今夜限りの命と思って、さぞ心細かっただろう。それで、おまえたちはどうするつもりなのか」とおっしゃると、「私どもはどこまでもお供いたし、もしものことがあれば御骨を拾い、高野山に納め、出家入道して、ご菩提をお弔い申そうと思っております」と言って、涙にむせび沈んで伏してしまった。
こうして時がだいぶたったので、母上が「時刻も気がかりだ、では早く帰りなさい」とおっしゃると、二人の者は泣く泣くおいとまを申して退出した。そうして同じ十二月十七日の明け方、北条四郎時政は若君を連れて、もう都を出発した。斎藤五・斎藤六も御輿の左右について参った。北条が替え馬を下ろして「馬に乗れ」と言ったが乗らず、「最後のお供ですから、つらくもございません」と言って、血の涙を流しながら裸足で下っていった。若君は、あれほど離れがたく思っていた母上や乳母の女房とも別れ果て、住み慣れた都を遠く雲のかなたに振り返りながら、今日を限りの東国への道に向かって、はるばると下っていかれた心の中は推し量られて哀れである。馬を急がせる武士がいると、自分の首を斬るのかと肝をつぶし、言葉を交わす者がいると、さあ今かと心を砕く。四の宮河原かと思っていると逢坂の関山も過ぎて、大津の浦にもなった。粟津の原かとうかがっていると、今日ももう暮れてしまった。国々の宿場を次々と過ぎて下っていかれるうちに、駿河国にもなったので、若君の露のような命も、今日を限りと見えた。
千本の松原という所に御輿を据えさせ、「若君、お降りください」と言って、敷皮を敷いて座らせ申した。北条は急いで馬から飛び降り、若君のおそば近くに参って申されるには、「もしや道中で聖に行き会うかと、ここまでお連れ申しましたが、山の向こうまでは鎌倉殿のお心の内もはかりがたいので、近江国で殺し申したことにして披露いたしましょう。誰が何と申しても、前世の業による御身ですから、とても助かりはなさいますまい」と申されたので、若君は何の返事もなさらなかった。斎藤五・斎藤六を呼んでおっしゃるには、「決して、おまえたちは都へ上って、私が道中で斬られたなどと申してはならない。そのわけは、いずれは隠しおおせないだろうが、まさしくこの様子をお聞きになって嘆き悲しまれたら、後世の妨げにもなるだろう。鎌倉まで送り届けて上ってきたと申しなさい」とおっしゃると、二人の者は涙をはらはらと流した。しばらくして斎藤五が涙を押さえて申すには、「君が神にも仏にもおなりになった後、命を長らえてふたたび都へ帰り上ろうとは思っておりません」と言って、また涙を押さえて伏してしまった。
若君がもうこれまでと見えたとき、肩にかかっていた御髪を、小さく美しいお手で前へかき寄せなさったのを、警護の武士たちが見申して、「ああおいたわしい。まだお心はしっかりしていらっしゃるのだ」と言って、皆鎧の袖を濡らした。その後若君は西に向かって手を合わせ、声高に十念を唱えなさりながら、首を差し伸べて待っておられた。狩野の工藤三郎親俊が斬り手に選ばれ、太刀を脇に引き寄せ、左の方から若君の御後ろに回り、もう斬ろうとしたが、目もくらみ心も消え果てて、どこに刀を打ち当てればよいかもわからない。前後不覚になってしまったので、「とてもできそうにありません。ほかの人にお命じください」と言って、太刀を捨てて退いた。「それならあの者が斬れ、この者が斬れ」と斬り手を選んでいるところに、墨染の衣を着た僧が一人、月毛の馬に乗って鞭を打って馳せて来た。あたりの者たちが「ああおいたわしい。あの松原の中で、たいそう美しい若君を北条殿が今にも斬り申されるのだ」と言って、ひしひしと走り集まってきたので、この僧は気が気でなく、鞭を上げて招いたが、それでもなお気がかりで、かぶっていた笠を脱いで差し上げて招いた。
北条が何かわけがあるのだろうと待っていると、この僧はまもなく馳せて来て、急いで馬から飛び降り、「若君をもらい受けました。鎌倉殿の御教書がここにあります」と言って取り出した。北条がこれを開いて見ると、「まことに、小松三位中将維盛卿の子息六代御前が探し出されたとのこと。それを高雄の聖文覚坊がしばらく預かりたいと申しています。疑わずに預けよ。北条四郎殿へ、頼朝」とお書きになって御判がある。北条は繰り返し繰り返し二、三度読んで、「結構、結構」と言って置かれたので、斎藤五・斎藤六は言うまでもなく、北条の家の子郎等たちも皆、喜びの涙を流した。
意訳
平家の血を引く男子を根絶やしにしようとする鎌倉方の追及と、それに加担する都の人々の浅ましさから語り起こされる。わずかな手がかりから六代の隠れ家が見つかる場面は、白い子犬を追って庭に出た少年という一瞬の情景によって描かれ、平穏な日常があっけなく崩れていく痛ましさを際立たせている。
六代が自ら母を慰めて連れ去られていく場面や、母が夢に現れた子を思う場面には、親子の情愛が切々と描かれる。十二歳の少年が敵に弱みを見せまいとしながら涙をこぼす姿は、平家の嫡流としての気高さと幼さとを同時に感じさせる。
後半は、乳母の必死の嘆願に心を動かされた文覚の奔走と、約束の二十日を過ぎても戻らない聖を待つ人々の焦燥が描かれる。千本の松原で斬り手さえ太刀を捨てるほどの哀れな最期が迫ったその瞬間、笠を振って駆けつける僧の姿によって劇的に命が救われる構成は、物語の中でも屈指の緊迫した場面である。
語釈・文法注
文法
- 「所望は請ふに依るべし」
- 望みは願いのままにかなえよう。褒美は思いのままに与えるということ。
- 「勸賞蒙らん」
- 褒美をいただこう。
- 「彼は乳母が申し候、此は介錯の女房がなんど申して」
- 「あの子のことは乳母がそう申しています」「この子のことは世話役の女房が」などと言って。密告者がそれぞれの子の素性を言い立てるさま。
- 「一定そにてましますらん」
- きっとその人(六代)でいらっしゃるだろう。
- 「籬の閒」
- 垣根のすき間。底本は「閒」に「ひま」と振る。
- 「御物著せ參らせ」
- お着物をお着せ申し上げて。
- 「うらうへ」
- 裏と表。ここでは左右、両脇の意。
- 「のたまひけるは、たゞ今ちとまどろみたりつる夢に」
- 底本は会話の開きの「「」を刷らない。
- 「鷄人曉を唱へて」
- 宮中で時刻を告げる役人が夜明けを告げて。漢詩句による表現。
- 「とて。取出いて」
- 底本は「とて」の後に句点を刷る。
- 「たうでける」
- 「賜うでける」の音便。お与えになった。
- 「あられずさにや」
- じっとしていられなさからであろうか。
- 「美しうまし候程に」
- 底本は「まします」ではなく「まし候」と刷る。
- 「受領神つき給はずば」
- 受領(国司)になると欲深くなるという俗信から、心変わりする神がとりつかなければ、の意。
- 「この由申しけれは」
- 底本は「けれは」と濁点なしに刷る。申したので。
- 「のたまひけるは、あはれおとなしやかならんずる者が」
- 底本は会話の開きの「「」を刷らない。
- 「涙にむせ沉んでぞ伏しにける」
- 底本は「むせび」ではなく「むせ」と刷る。
- 「國々宿々うち過ぎ〳〵」
- 国々の宿場を次々と過ぎて。
- 「一業所感の御身」
- 前世の同じ業によって同じ報いを受ける身。平家一門として逃れられない運命にあるということ。
- 「仕つとも存じ候はず」
- とてもいたしおおせるとは思えません。
- 「請ひ受けうと候」
- もらい受けたいと申しています。
- 「神妙々々」
- よろしい、よろしい。殊勝なことだという感嘆。
解説
六代(1173?–1199?)は平維盛の嫡子で、母は藤原成親の娘。平家滅亡後の文治元年(1185)十二月、北条時政に捕らえられたが、文覚の助命嘆願によって救われ、のちに出家して妙覚と名のった。静岡県沼津市の千本松原には、六代の助命を伝える「六代松」の碑が残る。文覚は伊豆配流中に頼朝と親交を結び、挙兵を勧めたと伝えられる僧で、本章段で語られる富士川や福原での苦労は、巻第五「福原院宣」の話を受けている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、836–847頁(コマ447–452)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日