平家物語 巻第十一
壇の浦合戦の事
屋島で勝った義経は周防に渡って兄範頼と合流し、平家は長門の引島に着いた。平家に重恩を受けていた熊野別当湛増は、どちらにつくか迷って新熊野に参籠し、白と赤の鶏を闘わせて赤が一羽も勝たなかったので源氏についた。伊予の河野通信も源氏に加わり、源氏の船は三千余艘、平家は千余艘となった。元暦二年三月二十四日の卯の刻を矢合わせと決めたが、その日、梶原景時が先陣を望んで義経に退けられ、「この殿は侍の主にはなれない」とつぶやいたことから、両者は太刀に手をかけて同士討ちしかけ、三浦介と土肥次郎がとりなした。梶原はこれより義経を憎み、のちに讒言して滅ぼしたという。合戦が始まると、梶原は熊手で敵船を引き寄せて乗り移り、その日の第一の功名を立てた。
- 1さるさるさるほどほどほどににに判判ほう官官がん八八や島島しまののの軍軍いくさににに打打うち勝勝かつつっててて、、、周周す防防ほうののの地地ちへへへ押押おし渡渡わたりりり、、、兄兄あにののの三三み河河かわののの守守かみととと一一ひとつつつににになるなるなる。。。平平へい家家けははは長長なが門門とののの國國くに引引ひく島島しまににに著著つくくくととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、源源げん氏氏じももも同同おなじじじ國國くにののの内内うち追追おい津津つににに著著つくくくこそこそこそ不不ふ思思し議議ぎなれなれなれ。。。こゝこゝここににに紀紀き伊伊いののの國國くにののの住住じゅう人人にん熊熊くま野野のののの別別べつ當當とう湛湛たん增增ぞうははは平平へい家家け重重じゅう恩恩おんののの身身みなりなりなりしししががが、、、忽忽たちまちちちににに心心こころ變變がわりりりしししててて、、、平平へい家家けへへへややや參參まいらららんんん、、、源源げん氏氏じへへへややや參參まいらららんんんととと思思おもひひいけるけるけるががが、、、まづまづまず田田た邊邊なべののの新新いま熊熊くま野野のににに七七なぬ日日か參參さん籠籠ろうししし、、、御御み神神か樂樂ぐらををを奏奏そうしししててて權權ごん現現げんへへへ祈祈き請請せい申申もうしししけれけれければばば、、、たゞたゞただ白白しら旗旗はたにににつけつけつけとととののの御御ご託託たく宣宣せんありありありしかしかしかどもどもども、、、なほなほなお疑疑うたがひひいをををなしなしなし參參まいらららせせせててて、、、白白しろききき鷄鷄にわとり七七ななつつつ赤赤あかききき鷄鷄にわとり七七ななつつつ、、、これこれこれををを以以もっててて權權ごん現現げんののの御御おん前前まえにににててて勝勝しょう負負ぶをををさせさせさせけるけるけるににに、、、赤赤あかききき鷄鷄にわとり一一ひとつつつももも勝勝かたたたずずず、、、みなみなみな負負まけけけてててぞぞぞ逃逃にげげげにににけるけるける。。。さてさてさてこそこそこそ源源げん氏氏じへへへ參參まいらららんんんとととははは思思おもひひい定定さだめめめけれけれけれ。。。
- 2さるさるさる程程ほどににに一一いち門門もんののの者者ものどもどもども相相あい催催もよおししし、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい二二に千千せん餘餘よ人人にん、、、二二に百百ひゃく餘餘よ艘艘そうののの兵兵ひょう船船せんににに取取とりりり乘乘のりりり、、、若若にゃく王王おう子子じののの御御み正正しょう體體たいををを船船ふねににに載載のせせせ參參まいらららせせせ、、、旗旗はたののの横横よこ上上がみにににははは金金こん剛剛ごう童童どう子子じををを書書かききき奉奉たてまつりりりててて、、、壇壇だんののの浦浦うらへへへ寄寄よするするするををを見見みててて、、、源源げん氏氏じももも平平へい家家けももも共共ともににに拜拜はいししし奉奉たてまつるるる。。。されどもされどもされどもこのこのこの船船ふね源源げん氏氏じののの方方かたへへへつきつきつきけれけれければばば、、、平平へい家家け興興きょうさめさめさめてててぞぞぞ見見みえええられられられけるけるける。。。またまたまた伊伊い豫豫よののの國國くにののの住住じゅう人人にん河河こう野野のののの四四し郎郎ろう通通みち信信のぶももも、、、百百ひゃく五五ご十十じっ艘艘そうののの大大おお船船ぶねににに乘乘のりりりつれつれつれててて漕漕こぎぎぎ來來きたりりり、、、これこれこれももも同同おなじうじうじゅう源源げん氏氏じののの方方かたへへへつきつきつきけれけれければばば、、、平平へい家家けいとゞいとゞいとど興興きょうさめさめさめてててぞぞぞ思思おもははわれれれけるけるける。。。
- 3源源げん氏氏じののの勢勢せいははは重重かさなれなれなればばば、、、平平へい家家けののの勢勢せいははは落落おちちちぞぞぞゆくゆくゆく。。。源源げん氏氏じののの船船ふねははは三三さん千千ぜん餘餘よ艘艘そう、、、平平へい家家けののの船船ふねははは千千せん餘餘よ艘艘そう、、、唐唐とう船船せん少少しょう々々しょう相相あい交交まじれれれりりり。。。元元げん暦暦りやく二二に年年ねん三三さん月月がつ二二に十十じゅう四四よっ日日かののの卯卯うののの刻刻こくににに豐豐ぶ前前ぜんののの國國くに田田たののの浦浦うら、、、門門も司司じががが關關せき、、、長長なが門門とののの國國くに壇壇だんののの浦浦うら、、、赤赤あか閒閒まががが關關せきにににててて、、、源源げん平平ぺいののの矢矢やあはせあはせあわせとととぞぞぞ定定さだめめめけるけるける。。。そのそのその日日ひ、、、判判ほう官官がんととと梶梶かじ原原はらととと既既すでににに同同どう士士し軍軍いくさせせせんんんとととすすす。。。梶梶かじ原原はら進進すすみみみ出出いでででててて、、、「「「今日今日きょうののの先先せん陣陣じんをををばばば景景かげ時時ときにににたびたびたび候候そうらへへえかしかしかし。。。」」」判判ほう官官がん、、、「「「義義よし經經つねがががなくなくなくばばばこそこそこそ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、梶梶かじ原原はら、、、「「「まさなうまさなうまさのう候候そうろう。。。殿殿とのははは大大たい將將しょう軍軍ぐんにににてててまし〳〵まし〳〵ましまし候候そうろうものものものををを。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、判判ほう官官がん、、、「「「それそれそれ思思おもひひいももも寄寄よらららずずず。。。鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのこそこそこそ大大たい將將しょう軍軍ぐんよよよ。。。義義よし經經つねははは軍軍いくさ奉奉ぶ行行ぎょうををを承承うけたまわつつったるたるたる身身みなれなれなればばば、、、たゞたゞただわわわ殿殿どのばらばらばらととと同同おなじじじ事事ことよよよ。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
- 4梶梶かじ原原はら先先せん陣陣じんををを所所しょ望望もうしししかねかねかねててて、、、「「「天天てん性性せいこのこのこの殿殿とのははは侍侍さぶらいののの主主しゅうにににはははなりなりなり難難がたししし。。。」」」とととぞぞぞつぶやきつぶやきつぶやきけるけるける。。。判判ほう官官がん、、、「「「わわわ殿殿どのははは日日に本本ほん一一いちのののをこをこおこののの者者ものかなかなかな。。。」」」とととててて、、、太太た刀刀ちののの柄柄つかににに手手てをををかけかけかけ給給たまへへえばばば、、、梶梶かじ原原はら、、、「「「こここはははいかにいかにいかに、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのよりよりより外外ほか、、、別別べちににに主主しゅうをををばばば持持もちちち奉奉たてまつらららぬぬぬものものものををを。。。」」」とととててて、、、これこれこれももも同同おなじうじうじゅう太太た刀刀ちののの柄柄つかににに手手てをををぞぞぞかけかけかけけるけるける。。。父父ちちががが氣氣け色色しきををを見見みててて、、、嫡嫡ちゃく子子しののの源源げん太太だ景景かげ季季すえ、、、次次じ男男なん平平へい次次じ景景かげ高高たか、、、同同おなじきじきじき三三さぶ郎郎ろう景景かげ家家いえ、、、親親おや子子こ主主しゅう從從じゅう十十じゅう四四し五五ご人人にん、、、打打うち物物ものののの鞘鞘さやをををはづいはづいはずいててて、、、父父ちちととと一一ひと所所ところににに寄寄よりりりあうあうおうたりたりたり。。。判判ほう官官がんののの氣氣け色色しきををを見見み奉奉たてまつりりりててて、、、伊伊い勢勢せののの三三さぶ郎郎ろう義義よし盛盛もり、、、奧奧おう州州しゅうののの佐佐さ藤藤とう四四し郎郎ろう兵兵びょう衞衞え忠忠ただ信信のぶ、、、江江え田田だののの源源げん三三ぞう、、、熊熊くま井井いののの太太た郎郎ろう、、、武武む藏藏さし坊坊ぼう辨辨べん慶慶けいなどなどなどいふいふいう一一いち人人にん當當とう千千ぜんののの兵兵つわものどもどもども、、、梶梶かじ原原はらををを中中なかににに取取とりりりこめこめこめててて、、、われわれわれ討討うちちち取取とらららんんんとととぞぞぞ進進すすみみみけるけるける。。。されどもされどもされども判判ほう官官がんにににははは三三み浦浦うらののの介介すけ取取とりりりつきつきつき奉奉たてまつりりり、、、梶梶かじ原原はらにににははは土土と肥肥ひののの次次じ郎郎ろうつかみつかみつかみついついついててて、、、兩兩りょう人人にん手手てをををすつすつすっててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「これこれこれ程程ほどののの御御おん大大だい事事じををを前前まえににに抱抱かかへへえながらながらながら、、、同同どう士士し軍軍いくさししし給給たまひひいなばなばなば、、、平平へい家家けににに勢勢せいつきつきつき候候そうらひひいなんずなんずなんず。。。かつうかつうかつうははは鎌鎌かま倉倉くら殿殿どののののかへりかへりかえり聞聞きこし召召めささされれれんんんずるずるずる所所ところももも穩穩おん便便びんならならならずずず。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、判判ほう官官がん靜靜しずまりまりまり給給たまひひいぬぬぬ。。。梶梶かじ原原はら進進すすむむむににに及及およばばばずずず。。。それそれそれよりよりよりしししててて梶梶かじ原原はら、、、判判ほう官官がんををを惡惡にくみみみ初初そめめめ奉奉たてまつりりりててて、、、讒讒ざん言言げんしししててて遂遂ついににに失失うしなひひい奉奉たてまつつつったりたりたりとととぞぞぞ、、、後後のちにににははは聞聞きこえええししし。。。
- 5さるさるさる程程ほどににに源源げん平平ぺい兩兩りょう方方ほう陣陣じんをををあはすあはすあわす。。。陣陣じんののの閒閒あわい、、、海海うみののの面面おもて僅僅わずかににに三三さん十十じゅう餘餘よ町町ちょうをををぞぞぞ隔隔へだてててたるたるたる。。。門門も司司じ、、、赤赤あか閒閒ま、、、壇壇だんののの浦浦うらはははたぎりたぎりたぎりててて落落おつるつるつる潮潮しおなれなれなればばば、、、平平へい家家けののの船船ふねははは心心こころならならならずずず潮潮しおににに向向むかつつっててておしおしおし落落おとさささるるる。。。源源げん氏氏じののの船船ふねはははおのづからおのづからおのずから、、、潮潮しおににに追追おうううてててぞぞぞ出出いででで來來くるるる。。。沖沖おきははは潮潮しおののの早早はやけれけれければばば、、、汀汀みぎわににについついついててて、、、梶梶かじ原原はら敵敵かたきののの船船ふねののの行行ゆきききちがふちがふちがうををを、、、熊熊くま手手でにににかけかけかけててて引引ひき寄寄よせせせ、、、乘乘のりりり移移うつり〳〵り〳〵りのりゅうつり、、、親親おや子子こ主主しゅう從從じゅう十十じゅう四四し五五ご人人にん、、、打打うち物物ものののの鞘鞘さやをををはづいはづいはずいててて、、、艫艫とも舳舳へにににさん〴〵さん〴〵さんざんににに薙薙ないいいでででまはりまはりまわり、、、分分ぶん捕捕どり數數あま多多たしししててて、、、そのそのその日日ひののの高高こう名名みょうののの一一いちののの筆筆ふでにににぞぞぞつきつきつきにににけれけれけれ。。。
現代語訳
さて判官は八島の戦に勝って周防の地へ押し渡り、兄の三河守(範頼)と一つになった。平家は長門国の引島に着いたと聞こえたので、源氏も同じ国の追津に着いたのは不思議なことである。ここに紀伊国の住人熊野の別当湛増は、平家の重い恩を受けた身であったが、たちまち心変わりして、平家へ参ろうか源氏へ参ろうかと思ったが、まず田辺の新熊野に七日間参籠し、御神楽を奏して権現に祈請申すと、「ただ白旗につけ」とのお告げがあったけれども、なお疑い申して、白い鶏七羽と赤い鶏七羽を、権現の御前で闘わせたところ、赤い鶏は一羽も勝たず、みな負けて逃げてしまった。それで源氏へ参ろうと思い定めた。
やがて一門の者たちを集め、総勢二千余人で二百余艘の兵船に乗りこみ、若王子のご神体を船に載せ申して、旗の横上には金剛童子をお描き申して壇の浦へ寄せてくるのを見て、源氏も平家もともに拝み申した。けれどもこの船は源氏の方についたので、平家は興ざめした様子であった。また伊予国の住人河野四郎通信も、百五十艘の大船に乗り連れて漕ぎ寄せ、これも同じく源氏の方についたので、平家はいよいよ興ざめに思われた。
源氏の勢は重なっていき、平家の勢は減っていく。源氏の船は三千余艘、平家の船は千余艘で、唐船も少し交じっていた。元暦二年三月二十四日の卯の刻に、豊前国田の浦・門司が関、長門国壇の浦・赤間が関で、源平の矢合わせと定めた。その日、判官と梶原とはすんでのところで同士討ちをしようとした。梶原が進み出て、「今日の先陣は景時にお与えください」。判官は「義経がいなければこそ」とおっしゃると、梶原は「とんでもないことです。殿は大将軍でいらっしゃるのに」と申したので、判官は、「それは思いもよらない。鎌倉殿こそ大将軍だ。義経は軍奉行を承った身なのだから、ただおまえたちと同じことだ」とおっしゃった。
梶原は先陣を望んでも得られず、「生まれつきこの殿は侍の主にはなれない」とつぶやいた。判官は「おまえは日本一の愚か者だな」といって太刀の柄に手をかけられると、梶原は「これはどうしたことか。鎌倉殿のほかに主人を持ち申していないのに」といって、これも同じく太刀の柄に手をかけた。父の様子を見て、嫡子の源太景季、次男平次景高、同じく三郎景家ら親子主従十四、五人が打物の鞘をはずして父のもとに寄り集まった。判官の様子を見申して、伊勢三郎義盛、奥州の佐藤四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などという一人当千の兵たちが、梶原を中に取り囲んで、われこそ討ち取ろうと進んだ。けれども判官には三浦介が取りすがり、梶原には土肥次郎がつかみついて、二人が手をすり合わせて申すには、「これほどの御大事を前に控えながら同士討ちをなさったら、平家に勢いがつきましょう。一つには、鎌倉殿が伝え聞かれるところもおだやかではありません」と申したので、判官は静まられた。梶原も進むことはできなかった。それから梶原は判官を憎みはじめ申して、讒言してついに滅ぼし申したと、のちに聞こえた。
やがて源平両方が陣を向かい合わせた。陣の間は海上わずか三十余町を隔てている。門司・赤間・壇の浦は激しく流れ落ちる潮なので、平家の船は心ならずも潮に逆らって押し流される。源氏の船は自然と潮に乗って出てくる。沖は潮が速いので、汀に沿って、梶原は敵の船の行き違うのを熊手にかけて引き寄せ、乗り移り乗り移り、親子主従十四、五人で打物の鞘をはずして、艫と舳でさんざんに薙いで回り、多くの分捕りをして、その日の功名の筆頭に記された。
意訳
平家物語の最後の決戦、壇の浦の合戦の始まりである。熊野の湛増が鶏合わせで源氏につくことを決め、河野通信も源氏に加わって、平家の勢がしだいに減っていくさまは、すでに勝敗の帰趨が見えていることを感じさせる。
先陣をめぐる義経と梶原の争いは、逆櫓の論争に続いて二人の対立が決定的になった場面であり、のちの義経の悲劇の原因として語られる。潮の流れに押し流される平家の船と、潮に乗って進む源氏の船という対比は、天運が源氏に傾いたことを象徴している。
語釈・文法注
文法
- 「引島」
- 長門国の彦島(下関市)。
- 「新熊野」
- 紀伊国田辺の新熊野(闘鶏神社)。
- 「若王子の御正體」
- 熊野の若一王子の神体(御正体=懸仏)。
- 「旗の横上」
- 旗の上部の横木の部分。
- 「義經がなくばこそ」
- 義経がいないのならばともかく(義経がいる以上、先陣は義経がする)。
- 「まさなう候」
- もってのほかでございます。
- 「をこの者」
- 愚か者。
- 「手をすつて」
- 手をすり合わせて。懇願するさま。
- 「たぎりて落つる潮」
- 激しく流れる潮。関門海峡の急流。
- 「一の筆にぞつきにけれ」
- 功名の記録の筆頭に記された。底本は係助詞「ぞ」を「けれ」で結ぶ。
解説
壇の浦の戦いは元暦二年(1185)三月二十四日、関門海峡で行われた。湛増は熊野水軍を率いて源氏に味方し、田辺の闘鶏神社には、湛増が紅白の鶏を闘わせて去就を決めたという伝承が残る。梶原景時は、のちに頼朝に義経を讒言したとされ、義経の没落の一因として語られている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、783–786頁(コマ420–422)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日