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平家物語 巻第十一

壇の浦合戦の事

屋島で勝った義経は周防に渡って兄範頼と合流し、平家は長門の引島に着いた。平家に重恩を受けていた熊野別当湛増は、どちらにつくか迷って新熊野に参籠し、白と赤の鶏を闘わせて赤が一羽も勝たなかったので源氏についた。伊予の河野通信も源氏に加わり、源氏の船は三千余艘、平家は千余艘となった。元暦二年三月二十四日の卯の刻を矢合わせと決めたが、その日、梶原景時が先陣を望んで義経に退けられ、「この殿は侍の主にはなれない」とつぶやいたことから、両者は太刀に手をかけて同士討ちしかけ、三浦介と土肥次郎がとりなした。梶原はこれより義経を憎み、のちに讒言して滅ぼしたという。合戦が始まると、梶原は熊手で敵船を引き寄せて乗り移り、その日の第一の功名を立てた。

  1. 1さるさるさるほどほどほどににに判はう判はうほう官ぐわん官ぐわんがん八や八やや島しま島しましまののの軍いくさ軍いくさいくさににに打うち打うちうち勝か勝かかつつっててて、、、周す周すす防はう防はうほうののの地ち地ちちへへへ押おし押おしおし渡わた渡わたわたりりり、、、兄あに兄あにあにののの三み三みみ河かは河かはかわののの守かみ守かみかみととと一ひと一ひとひとつつつににになるなるなる。。。平へい平へいへい家け家けけははは長なが長ながなが門と門ととののの國くに國くにくに引ひく引ひくひく島しま島しましまににに著つ著つつくくくととと聞きこ聞きこきこえええしかしかしかばばば、、、源げん源げんげん氏じ氏じじももも同おな同おなおなじじじ國くに國くにくにののの内うち内うちうち追おひ追おひおい津つ津つつににに著つ著つつくくくこそこそこそ不ふ不ふふ思し思しし議ぎ議ぎぎなれなれなれ。。。こゝこゝここににに紀き紀きき伊い伊いいののの國くに國くにくにののの住ぢゆう住ぢゆうじゅう人にん人にんにん熊くま熊くまくま野の野ののののの別べつ別べつべつ當たう當たうとう湛たん湛たんたん增ぞう增ぞうぞうははは平へい平へいへい家け家けけ重ぢゆう重ぢゆうじゅう恩おん恩おんおんののの身み身みみなりなりなりしししががが、、、忽たちま忽たちまたちまちちちににに心こゝろ心こゝろこころ變がは變がはがわりりりしししててて、、、平へい平へいへい家け家けけへへへややや參まゐ參まゐまいらららんんん、、、源げん源げんげん氏じ氏じじへへへややや參まゐ參まゐまいらららんんんととと思おも思おもおもひひいけるけるけるががが、、、まづまづまず田た田たた邊なべ邊なべなべののの新いま新いまいま熊くま熊くまくま野の野ののににに七なぬ七なぬなぬ日か日かか參さん參さんさん籠ろう籠ろうろうししし、、、御み御みみ神か神かか樂ぐら樂ぐらぐらををを奏そう奏そうそうしししててて權ごん權ごんごん現げん現げんげんへへへ祈き祈きき請せい請せいせい申まう申まうもうしししけれけれければばば、、、たゞたゞただ白しら白しらしら旗はた旗はたはたにににつけつけつけとととののの御ご御ごご託たく託たくたく宣せん宣せんせんありありありしかしかしかどもどもども、、、なほなほなお疑うたが疑うたがうたがひひいをををなしなしなし參まゐ參まゐまいらららせせせててて、、、白しろ白しろしろききき鷄にはとり鷄にはとりにわとり七なな七ななななつつつ赤あか赤あかあかききき鷄にはとり鷄にはとりにわとり七なな七ななななつつつ、、、これこれこれををを以もつ以もつもっててて權ごん權ごんごん現げん現げんげんののの御おん御おんおん前まへ前まへまえにににててて勝しよう勝しようしょう負ぶ負ぶぶをををさせさせさせけるけるけるににに、、、赤あか赤あかあかききき鷄にはとり鷄にはとりにわとり一ひと一ひとひとつつつももも勝か勝かかたたたずずず、、、みなみなみな負ま負ままけけけてててぞぞぞ逃に逃ににげげげにににけるけるける。。。さてさてさてこそこそこそ源げん源げんげん氏じ氏じじへへへ參まゐ參まゐまいらららんんんとととははは思おも思おもおもひひい定さだ定さださだめめめけれけれけれ。。。
  2. 2さるさるさる程ほど程ほどほどににに一いち一いちいち門もん門もんもんののの者もの者ものものどもどもども相あひ相あひあい催もよほ催もよほもよおししし、、、都つ都つつ合がふ合がふごうそのそのその勢せい勢せいせい二に二にに千せん千せんせん餘よ餘よよ人にん人にんにん、、、二に二にに百ひやく百ひやくひゃく餘よ餘よよ艘さう艘さうそうののの兵ひやう兵ひやうひょう船せん船せんせんににに取と取ととりりり乘の乘ののりりり、、、若にやく若にやくにゃく王わう王わうおう子じ子じじののの御み御みみ正しやう正しやうしょう體たい體たいたいををを船ふね船ふねふねににに載の載ののせせせ參まゐ參まゐまいらららせせせ、、、旗はた旗はたはたののの横よこ横よこよこ上がみ上がみがみにににははは金こん金こんこん剛がう剛がうごう童どう童どうどう子じ子じじををを書か書かかききき奉たてまつ奉たてまつたてまつりりりててて、、、壇だん壇だんだんののの浦うら浦うらうらへへへ寄よ寄よよするするするををを見み見みみててて、、、源げん源げんげん氏じ氏じじももも平へい平へいへい家け家けけももも共とも共ともともににに拜はい拜はいはいししし奉たてまつ奉たてまつたてまつるるる。。。されどもされどもされどもこのこのこの船ふね船ふねふね源げん源げんげん氏じ氏じじののの方かた方かたかたへへへつきつきつきけれけれければばば、、、平へい平へいへい家け家けけ興きよう興きようきょうさめさめさめてててぞぞぞ見み見みみえええられられられけるけるける。。。またまたまた伊い伊いい豫よ豫よよののの國くに國くにくにののの住ぢゆう住ぢゆうじゅう人にん人にんにん河かう河かうこう野の野ののののの四し四しし郎らう郎らうろう通みち通みちみち信のぶ信のぶのぶももも、、、百ひやく百ひやくひゃく五ご五ごご十じつ十じつじっ艘さう艘さうそうののの大おほ大おほおお船ぶね船ぶねぶねににに乘の乘ののりりりつれつれつれててて漕こ漕ここぎぎぎ來きた來きたきたりりり、、、これこれこれももも同おな同おなおなじうじうじゅう源げん源げんげん氏じ氏じじののの方かた方かたかたへへへつきつきつきけれけれければばば、、、平へい平へいへい家け家けけいとゞいとゞいとど興きよう興きようきょうさめさめさめてててぞぞぞ思おも思おもおもははわれれれけるけるける。。。
  3. 3源げん源げんげん氏じ氏じじののの勢せい勢せいせいははは重かさ重かさかさなれなれなればばば、、、平へい平へいへい家け家けけののの勢せい勢せいせいははは落お落おおちちちぞぞぞゆくゆくゆく。。。源げん源げんげん氏じ氏じじののの船ふね船ふねふねははは三さん三さんさん千ぜん千ぜんぜん餘よ餘よよ艘さう艘さうそう、、、平へい平へいへい家け家けけののの船ふね船ふねふねははは千せん千せんせん餘よ餘よよ艘さう艘さうそう、、、唐たう唐たうとう船せん船せんせん少せう少せうしょう々せう々せうしょう相あひ相あひあい交まじ交まじまじれれれりりり。。。元げん元げんげん暦りやく暦りやくりやく二に二にに年ねん年ねんねん三さん三さんさん月ぐわつ月ぐわつがつ二に二にに十じふ十じふじゅう四よつ四よつよっ日か日かかののの卯う卯ううののの刻こく刻こくこくににに豐ぶ豐ぶぶ前ぜん前ぜんぜんののの國くに國くにくに田た田たたののの浦うら浦うらうら、、、門も門もも司じ司じじががが關せき關せきせき、、、長なが長ながなが門と門ととののの國くに國くにくに壇だん壇だんだんののの浦うら浦うらうら、、、赤あか赤あかあか閒ま閒ままががが關せき關せきせきにににててて、、、源げん源げんげん平ぺい平ぺいぺいののの矢や矢ややあはせあはせあわせとととぞぞぞ定さだ定さださだめめめけるけるける。。。そのそのその日ひ日ひひ、、、判はう判はうほう官ぐわん官ぐわんがんととと梶かぢ梶かぢかじ原はら原はらはらととと既すで既すですでににに同どう同どうどう士し士しし軍いくさ軍いくさいくさせせせんんんとととすすす。。。梶かぢ梶かぢかじ原はら原はらはら進すゝ進すゝすすみみみ出い出いいでででててて、、、「「「今日けふ今日けふきょうののの先せん先せんせん陣ぢん陣ぢんじんをををばばば景かげ景かげかげ時とき時ときときにににたびたびたび候さふら候さふらそうらへへえかしかしかし。。。」」」判はう判はうほう官ぐわん官ぐわんがん、、、「「「義よし義よしよし經つね經つねつねがががなくなくなくばばばこそこそこそ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、梶かぢ梶かぢかじ原はら原はらはら、、、「「「まさなうまさなうまさのう候さふらふ候さふらふそうろう。。。殿との殿とのとのははは大たい大たいたい將しやう將しやうしょう軍ぐん軍ぐんぐんにににてててまし〳〵まし〳〵ましまし候さふらふ候さふらふそうろうものものものををを。。。」」」ととと申まう申まうもうしししけれけれければばば、、、判はう判はうほう官ぐわん官ぐわんがん、、、「「「それそれそれ思おも思おもおもひひいももも寄よ寄よよらららずずず。。。鎌かま鎌かまかま倉くら倉くらくら殿どの殿どのどのこそこそこそ大たい大たいたい將しやう將しやうしょう軍ぐん軍ぐんぐんよよよ。。。義よし義よしよし經つね經つねつねははは軍いくさ軍いくさいくさ奉ぶ奉ぶぶ行ぎやう行ぎやうぎょうををを承うけたまは承うけたまはうけたまわつつったるたるたる身み身みみなれなれなればばば、、、たゞたゞただわわわ殿どの殿どのどのばらばらばらととと同おな同おなおなじじじ事こと事ことことよよよ。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
  4. 4梶かぢ梶かぢかじ原はら原はらはら先せん先せんせん陣ぢん陣ぢんじんををを所しよ所しよしょ望まう望まうもうしししかねかねかねててて、、、「「「天てん天てんてん性せい性せいせいこのこのこの殿との殿とのとのははは侍さぶらひ侍さぶらひさぶらいののの主しゆう主しゆうしゅうにににはははなりなりなり難がた難がたがたししし。。。」」」とととぞぞぞつぶやきつぶやきつぶやきけるけるける。。。判はう判はうほう官ぐわん官ぐわんがん、、、「「「わわわ殿どの殿どのどのははは日に日にに本ほん本ほんほん一いち一いちいちのののをこをこおこののの者もの者ものものかなかなかな。。。」」」とととててて、、、太た太たた刀ち刀ちちののの柄つか柄つかつかににに手て手ててをををかけかけかけ給たま給たまたまへへえばばば、、、梶かぢ梶かぢかじ原はら原はらはら、、、「「「こここはははいかにいかにいかに、、、鎌かま鎌かまかま倉くら倉くらくら殿どの殿どのどのよりよりより外ほか外ほかほか、、、別べち別べちべちににに主しゆう主しゆうしゅうをををばばば持も持ももちちち奉たてまつ奉たてまつたてまつらららぬぬぬものものものををを。。。」」」とととててて、、、これこれこれももも同おな同おなおなじうじうじゅう太た太たた刀ち刀ちちののの柄つか柄つかつかににに手て手ててをををぞぞぞかけかけかけけるけるける。。。父ちゝ父ちゝちちががが氣け氣けけ色しき色しきしきををを見み見みみててて、、、嫡ちやく嫡ちやくちゃく子し子ししののの源げん源げんげん太だ太だだ景かげ景かげかげ季すゑ季すゑすえ、、、次じ次じじ男なん男なんなん平へい平へいへい次じ次じじ景かげ景かげかげ高たか高たかたか、、、同おな同おなおなじきじきじき三さぶ三さぶさぶ郎らう郎らうろう景かげ景かげかげ家いへ家いへいえ、、、親おや親おやおや子こ子ここ主しゆう主しゆうしゅう從じゆう從じゆうじゅう十じふ十じふじゅう四し四しし五ご五ごご人にん人にんにん、、、打うち打うちうち物もの物ものものののの鞘さや鞘さやさやをををはづいはづいはずいててて、、、父ちゝ父ちゝちちととと一ひと一ひとひと所ところ所ところところににに寄よ寄よよりりりあうあうおうたりたりたり。。。判はう判はうほう官ぐわん官ぐわんがんののの氣け氣けけ色しき色しきしきををを見み見みみ奉たてまつ奉たてまつたてまつりりりててて、、、伊い伊いい勢せ勢せせののの三さぶ三さぶさぶ郎らう郎らうろう義よし義よしよし盛もり盛もりもり、、、奧あう奧あうおう州しう州しうしゅうののの佐さ佐ささ藤とう藤とうとう四し四しし郎らう郎らうろう兵びやう兵びやうびょう衞ゑ衞ゑえ忠たゞ忠たゞただ信のぶ信のぶのぶ、、、江え江ええ田だ田だだののの源げん源げんげん三ざう三ざうぞう、、、熊くま熊くまくま井ゐ井ゐいののの太た太たた郎らう郎らうろう、、、武む武むむ藏さし藏さしさし坊ばう坊ばうぼう辨べん辨べんべん慶けい慶けいけいなどなどなどいふいふいう一いち一いちいち人にん人にんにん當たう當たうとう千ぜん千ぜんぜんののの兵つはもの兵つはものつわものどもどもども、、、梶かぢ梶かぢかじ原はら原はらはらををを中なか中なかなかににに取と取ととりりりこめこめこめててて、、、われわれわれ討う討ううちちち取と取ととらららんんんとととぞぞぞ進すゝ進すゝすすみみみけるけるける。。。されどもされどもされども判はう判はうほう官ぐわん官ぐわんがんにににははは三み三みみ浦うら浦うらうらののの介すけ介すけすけ取と取ととりりりつきつきつき奉たてまつ奉たてまつたてまつりりり、、、梶かぢ梶かぢかじ原はら原はらはらにににははは土と土とと肥ひ肥ひひののの次じ次じじ郎らう郎らうろうつかみつかみつかみついついついててて、、、兩りやう兩りやうりょう人にん人にんにん手て手ててをををすつすつすっててて申まう申まうもうしししけるけるけるははは、、、「「「これこれこれ程ほど程ほどほどののの御おん御おんおん大だい大だいだい事じ事じじををを前まへ前まへまえににに抱かゝ抱かゝかかへへえながらながらながら、、、同どう同どうどう士し士しし軍いくさ軍いくさいくさししし給たま給たまたまひひいなばなばなば、、、平へい平へいへい家け家けけににに勢せい勢せいせいつきつきつき候さふら候さふらそうらひひいなんずなんずなんず。。。かつうかつうかつうははは鎌かま鎌かまかま倉くら倉くらくら殿どの殿どのどののののかへりかへりかえり聞きこし聞きこしきこし召め召めめささされれれんんんずるずるずる所ところ所ところところももも穩をん穩をんおん便びん便びんびんならならならずずず。。。」」」ととと申まう申まうもうしししけれけれければばば、、、判はう判はうほう官ぐわん官ぐわんがん靜しづ靜しづしずまりまりまり給たま給たまたまひひいぬぬぬ。。。梶かぢ梶かぢかじ原はら原はらはら進すゝ進すゝすすむむむににに及およ及およおよばばばずずず。。。それそれそれよりよりよりしししててて梶かぢ梶かぢかじ原はら原はらはら、、、判はう判はうほう官ぐわん官ぐわんがんををを惡にく惡にくにくみみみ初そ初そそめめめ奉たてまつ奉たてまつたてまつりりりててて、、、讒ざん讒ざんざん言げん言げんげんしししててて遂つひ遂つひついににに失うしな失うしなうしなひひい奉たてまつ奉たてまつたてまつつつったりたりたりとととぞぞぞ、、、後のち後のちのちにににははは聞きこ聞きこきこえええししし。。。
  5. 5さるさるさる程ほど程ほどほどににに源げん源げんげん平ぺい平ぺいぺい兩りやう兩りやうりょう方はう方はうほう陣ぢん陣ぢんじんをををあはすあはすあわす。。。陣ぢん陣ぢんじんののの閒あはひ閒あはひあわい、、、海うみ海うみうみののの面おもて面おもておもて僅わづか僅わづかわずかににに三さん三さんさん十じふ十じふじゅう餘よ餘よよ町ちやう町ちやうちょうをををぞぞぞ隔へだ隔へだへだてててたるたるたる。。。門も門もも司じ司じじ、、、赤あか赤あかあか閒ま閒まま、、、壇だん壇だんだんののの浦うら浦うらうらはははたぎりたぎりたぎりててて落お落おおつるつるつる潮しほ潮しほしおなれなれなればばば、、、平へい平へいへい家け家けけののの船ふね船ふねふねははは心こゝろ心こゝろこころならならならずずず潮しほ潮しほしおににに向むか向むかむかつつっててておしおしおし落おと落おとおとさささるるる。。。源げん源げんげん氏じ氏じじののの船ふね船ふねふねはははおのづからおのづからおのずから、、、潮しほ潮しほしおににに追お追おおうううてててぞぞぞ出い出いいででで來く來くくるるる。。。沖おき沖おきおきははは潮しほ潮しほしおののの早はや早はやはやけれけれければばば、、、汀みぎは汀みぎはみぎわににについついついててて、、、梶かぢ梶かぢかじ原はら原はらはら敵かたき敵かたきかたきののの船ふね船ふねふねののの行ゆ行ゆゆきききちがふちがふちがうををを、、、熊くま熊くまくま手で手ででにににかけかけかけててて引ひき引ひきひき寄よ寄よよせせせ、、、乘の乘ののりりり移うつ移うつうつり〳〵り〳〵りのりゅうつり、、、親おや親おやおや子こ子ここ主しゆう主しゆうしゅう從じゆう從じゆうじゅう十じふ十じふじゅう四し四しし五ご五ごご人にん人にんにん、、、打うち打うちうち物もの物ものものののの鞘さや鞘さやさやをををはづいはづいはずいててて、、、艫とも艫ともとも舳へ舳へへにににさん〴〵さん〴〵さんざんににに薙な薙なないいいでででまはりまはりまわり、、、分ぶん分ぶんぶん捕どり捕どりどり數あま數あまあま多た多たたしししててて、、、そのそのその日ひ日ひひののの高かう高かうこう名みやう名みやうみょうののの一いち一いちいちののの筆ふで筆ふでふでにににぞぞぞつきつきつきにににけれけれけれ。。。

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

さて判官は八島の戦に勝って周防の地へ押し渡り、兄の三河守(範頼)と一つになった。平家は長門国の引島に着いたと聞こえたので、源氏も同じ国の追津に着いたのは不思議なことである。ここに紀伊国の住人熊野の別当湛増は、平家の重い恩を受けた身であったが、たちまち心変わりして、平家へ参ろうか源氏へ参ろうかと思ったが、まず田辺の新熊野に七日間参籠し、御神楽を奏して権現に祈請申すと、「ただ白旗につけ」とのお告げがあったけれども、なお疑い申して、白い鶏七羽と赤い鶏七羽を、権現の御前で闘わせたところ、赤い鶏は一羽も勝たず、みな負けて逃げてしまった。それで源氏へ参ろうと思い定めた。

やがて一門の者たちを集め、総勢二千余人で二百余艘の兵船に乗りこみ、若王子のご神体を船に載せ申して、旗の横上には金剛童子をお描き申して壇の浦へ寄せてくるのを見て、源氏も平家もともに拝み申した。けれどもこの船は源氏の方についたので、平家は興ざめした様子であった。また伊予国の住人河野四郎通信も、百五十艘の大船に乗り連れて漕ぎ寄せ、これも同じく源氏の方についたので、平家はいよいよ興ざめに思われた。

源氏の勢は重なっていき、平家の勢は減っていく。源氏の船は三千余艘、平家の船は千余艘で、唐船も少し交じっていた。元暦二年三月二十四日の卯の刻に、豊前国田の浦・門司が関、長門国壇の浦・赤間が関で、源平の矢合わせと定めた。その日、判官と梶原とはすんでのところで同士討ちをしようとした。梶原が進み出て、「今日の先陣は景時にお与えください」。判官は「義経がいなければこそ」とおっしゃると、梶原は「とんでもないことです。殿は大将軍でいらっしゃるのに」と申したので、判官は、「それは思いもよらない。鎌倉殿こそ大将軍だ。義経は軍奉行を承った身なのだから、ただおまえたちと同じことだ」とおっしゃった。

梶原は先陣を望んでも得られず、「生まれつきこの殿は侍の主にはなれない」とつぶやいた。判官は「おまえは日本一の愚か者だな」といって太刀の柄に手をかけられると、梶原は「これはどうしたことか。鎌倉殿のほかに主人を持ち申していないのに」といって、これも同じく太刀の柄に手をかけた。父の様子を見て、嫡子の源太景季、次男平次景高、同じく三郎景家ら親子主従十四、五人が打物の鞘をはずして父のもとに寄り集まった。判官の様子を見申して、伊勢三郎義盛、奥州の佐藤四郎兵衛忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などという一人当千の兵たちが、梶原を中に取り囲んで、われこそ討ち取ろうと進んだ。けれども判官には三浦介が取りすがり、梶原には土肥次郎がつかみついて、二人が手をすり合わせて申すには、「これほどの御大事を前に控えながら同士討ちをなさったら、平家に勢いがつきましょう。一つには、鎌倉殿が伝え聞かれるところもおだやかではありません」と申したので、判官は静まられた。梶原も進むことはできなかった。それから梶原は判官を憎みはじめ申して、讒言してついに滅ぼし申したと、のちに聞こえた。

やがて源平両方が陣を向かい合わせた。陣の間は海上わずか三十余町を隔てている。門司・赤間・壇の浦は激しく流れ落ちる潮なので、平家の船は心ならずも潮に逆らって押し流される。源氏の船は自然と潮に乗って出てくる。沖は潮が速いので、汀に沿って、梶原は敵の船の行き違うのを熊手にかけて引き寄せ、乗り移り乗り移り、親子主従十四、五人で打物の鞘をはずして、艫と舳でさんざんに薙いで回り、多くの分捕りをして、その日の功名の筆頭に記された。

意訳

平家物語の最後の決戦、壇の浦の合戦の始まりである。熊野の湛増が鶏合わせで源氏につくことを決め、河野通信も源氏に加わって、平家の勢がしだいに減っていくさまは、すでに勝敗の帰趨が見えていることを感じさせる。

先陣をめぐる義経と梶原の争いは、逆櫓の論争に続いて二人の対立が決定的になった場面であり、のちの義経の悲劇の原因として語られる。潮の流れに押し流される平家の船と、潮に乗って進む源氏の船という対比は、天運が源氏に傾いたことを象徴している。

語釈・文法注

文法

「引島」
長門国の彦島(下関市)。
「新熊野」
紀伊国田辺の新熊野(闘鶏神社)。
「若王子の御正體」
熊野の若一王子の神体(御正体=懸仏)。
「旗の横上」
旗の上部の横木の部分。
「義經がなくばこそ」
義経がいないのならばともかく(義経がいる以上、先陣は義経がする)。
「まさなう候」
もってのほかでございます。
「をこの者」
愚か者。
「手をすつて」
手をすり合わせて。懇願するさま。
「たぎりて落つる潮」
激しく流れる潮。関門海峡の急流。
「一の筆にぞつきにけれ」
功名の記録の筆頭に記された。底本は係助詞「ぞ」を「けれ」で結ぶ。

解説

壇の浦の戦いは元暦二年(1185)三月二十四日、関門海峡で行われた。湛増は熊野水軍を率いて源氏に味方し、田辺の闘鶏神社には、湛増が紅白の鶏を闘わせて去就を決めたという伝承が残る。梶原景時は、のちに頼朝に義経を讒言したとされ、義経の没落の一因として語られている。

関連

出典

底本
『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、783–786頁(コマ420–422)。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日