平家物語 巻第十一
志度合戦の事
夜が明けて平家は志度の浦へ退き、義経が八十余騎で追うと、平家は千余人で取り囲もうとしたが、八島に残っていた源氏二百余騎が駆けつけたのを大軍と見て、船で海上へ逃れた。平家は四国を追われ、九州にも入れず、行き場を失った。伊予から帰る田内左衛門教能の三千余騎には、伊勢三郎義盛がわずか十六騎で向かい、平家は滅び父の阿波民部重能も降人となったと偽って教能を降参させ、その軍勢も義経の勢に加えた。二十二日、ようやく梶原の船二百余艘が八島に着いたが、戦の後の遅参を笑われた。住吉神社では神殿から鏑矢の音が西へ飛び去ったと奏上され、法皇は神宝を奉納した。
- 1あけあけあけけれけれければばば平平へい家家けははは當當とう國國ごく志志し度度どののの浦浦うらへへへ漕漕こぎぎぎ退退しりぞくくく。。。判判ほう官官がん八八はち十十じゅう餘餘よ騎騎き、、、志志し度度どへへへ追追おうううてててぞぞぞ驅驅かけけけられられられけるけるける。。。平平へい家家けこれこれこれををを見見みててて、、、「「「源源げん氏氏じははは小小こ勢勢ぜいなりなりなりけるけるけるぞぞぞ、、、中中なかににに取取とりりりこめこめこめててて討討うてててややや。。。」」」とととててて、、、千千せん餘餘よ人人にん渚渚なぎさににに上上あがりりり、、、源源げん氏氏じををを中中なかににに取取とりりりこめこめこめててて、、、われわれわれ討討うちちち取取とらららんんんとととぞぞぞ進進すすみみみけるけるける。。。さるさるさる程程ほどににに八八や島島しまににに殘殘のこりりり止止とどまつまつまったるたるたる二二に百百ひゃく餘餘よ騎騎きののの勢勢せいどもどもども、、、おくれおくれおくればせばせばせににに馳馳はせせせ來來きたるるる。。。平平へい家家けこれこれこれををを見見みててて、、、「「「あはあはあわややや源源げん氏氏じののの大大おお勢勢ぜいのののつゞいつゞいつづいたるたるたるははは、、、何何なん十十じゅう萬萬まん騎騎ぎかかかあるあるあるらんらんらん、、、取取とりりりこめこめこめられられられてててははは、、、叶叶かなふふうべからべからべからずずず。。。」」」とととててて引引ひき退退しりぞききき、、、みなみなみな船船ふねにににぞぞぞ乘乘のりりりにににけるけるける。。。潮潮しおににに引引ひかかかれれれ風風かぜにににまかせまかせまかせててて、、、いづちいづちいずちををを指指さすすすととともももなくなくなく、、、ゆらゆらゆられれれゆくゆくゆくこそこそこそ悲悲かなしけれしけれしけれ。。。四四し國國こくをををばばば九九く郎郎ろう大大たい夫夫ふののの判判ほう官官がん攻攻せめめめ落落おとささされれれぬぬぬ。。。九九く國國こくへへへははは入入いれれれられられられずずず。。。たゞたゞただ中中ちゅう有有うののの衆衆しゅ生生じょうとととぞぞぞ見見みえええししし。。。
- 2判判ほう官官がんははは志志し度度どののの浦浦うらににに下下おりりりゐゐいててて、、、首首くび共共どもののの實實じっ檢檢けんしししててておはしおはしおわしけるけるけるががが、、、伊伊い勢勢せののの三三さぶ郎郎ろう義義よし盛盛もりををを召召めしししててて、、、「「「阿阿あ波波わののの民民みん部部ぶ重重しげ能能よしががが嫡嫡ちゃく子子し田田でん内内ない左左ざ衞衞え門門もん教教のり能能よし、、、伊伊い豫豫よののの河河こう野野のののの四四し郎郎ろうががが召召めせせせどもどもども參參まいらららぬぬぬををを攻攻せめめめんんんとととててて、、、其其そののの勢勢せい三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きででで伊伊い豫豫よへへへ越越こえええたりたりたりけるけるけるががが、、、河河こう野野のをををばばば討討うちちち漏漏もらしらしらしぬぬぬ。。。家家いえののの子子こ郎郎ろう等等どう百百ひゃく五五ご十十じゅう人人にんががが首首くび切切きつつっててて、、、八八や島島しまののの内内だい裏裏りへへへ參參まいらららせせせたるたるたるががが、、、今日今日きょうこれこれこれへへへ著著つくくくととと聞聞きくくく。。。汝汝なんじ行行ゆききき向向むかつつってててこしらへこしらへこしらえててて見見みよよよ。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、義義よし盛盛もり畏畏かしこまりまりまり承承うけたまわつつっててて、、、白白しら旗旗はた一一ひと旒旒ながれ賜賜たまはつはつわってててさすさすさすまゝまゝままににに、、、手手て勢勢ぜい十十じゅう六六ろく騎騎き、、、みなみなみな白白しろ裝裝しょう束束ぞくににに出出いででで立立たちちちててて馳馳はせせせ向向むかふふう。。。
- 3さるさるさる程程ほどににに伊伊い勢勢せののの三三さぶ郎郎ろう、、、田田でん内内ない左左ざ衞衞え門門もん行行ゆきききあうあうおうたりたりたり。。。閒閒あわい一一いっ町町ちょうばかりばかりばかりををを隔隔へだてててててて、、、互互たがいににに赤赤あか旗旗はた白白しら旗旗はた打打うち立立たてててたりたりたり。。。義義よし盛盛もり、、、教教のり能能よしがががもともともとへへへ使使し者者じゃををを立立たてててててて、、、「「「かつかつかつ聞聞きこし召召めささされれれてててもももややや候候そうろうらんらんらん、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのののの御御おん弟弟おとうと九九く郎郎ろう大大たい夫夫ふののの判判ほう官官がん殿殿どのこそこそこそ、、、平平へい家家け追追つい討討とうののの院院いん宣宣ぜんををを承承うけたまわつつっててて、、、西西さい國國こくへへへ向向むかははわせせせ給給たまひひいててて候候そうろう。。。そのそのその御御み内内うちににに伊伊い勢勢せののの三三さぶ郎郎ろう義義よし盛盛もりととと申申もうすすす者者ものにににててて候候そうろうががが、、、軍軍いくさ合合かっ戰戰せんののの料料りょうででで候候そうらははわねねねばばば、、、物物もの具具のぐをををももも仕仕つかまつりりり候候そうらははわずずず、、、弓弓きゅう箭箭せんをををももも帶帶たいししし候候そうらははわずずず。。。大大たい將將しょうににに申申もうすすすべきべきべき事事ことあつあつあっててて、、、これこれこれまでまでまでまかりまかりまかり向向むかつつっててて候候そうろうぞぞぞ。。。あけあけあけててて入入いれれれさせさせさせ給給たまへへえ。。。」」」ととといひいひいい送送おくりりりたりたりたりけれけれければばば、、、三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きののの兵兵つわものどもどもども、、、みなみなみな中中なかをををあけあけあけてててぞぞぞ通通とおしししけるけるける。。。
- 4伊伊い勢勢せののの三三さぶ郎郎ろう、、、田田でん内内ない左左ざ衞衞え門門もんにににうちうちうち竝竝ならべべべててていひいひいいけるけるけるははは、、、「「「かつかつかつ聞聞きききき給給たまひひいてててももも候候そうろうらんらんらん、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのののの御御おん弟弟おとうと九九く郎郎ろう大大たい夫夫ふののの判判ほう官官がん殿殿どのこそこそこそ、、、平平へい家家け追追つい討討とうのののためためためにににこれこれこれまでまでまで向向むかははわせせせ給給たまひひいててて候候そうろうががが、、、一昨日一昨日おととい阿阿あ波波わののの國國くに勝勝かつ浦浦うらににに著著ついいいててて、、、御御ご邊邊へんののの伯伯お父父じ櫻櫻さくら閒閒まののの介介すけ殿殿どの討討うちちち取取とりりり、、、昨日昨日きのう八八や島島しまににに著著ついいいててて軍軍いくさししし、、、御御ご所所しょ内内だい裏裏りみなみなみな燒燒やききき拂拂はらひひい、、、主主しゅ上上しょうははは海海うみへへへ入入いらららせせせ給給たまひひいぬぬぬ。。。大臣殿大臣殿おおいどの父父ふ子子しをををばばば生生いけ捕捕どりにににししし參參まいらららせせせててて候候そうろう。。。能能の登登と殿殿どのももも御御ご自自じ害害がい、、、そのそのその外外ほかののの人人ひと々々びとははは或或あるいははは御御ご自自じ害害がい、、、或或あるいははは海海うみへへへ入入いらららせせせ給給たまふふう。。。餘餘よ黨黨とうののの少少しょう々々しょう殘殘のこりりりたるたるたるをををばばば、、、今今け朝朝さ志志し度度どののの浦浦うらにににてててみなみなみな討討うちちち取取とりりり候候そうらひひいぬぬぬ。。。御御ご邊邊へんののの父父ちち阿阿あ波波わののの民民みん部部ぶ殿殿どのははは降降こう人人にんににに參參まいらららせせせ給給たまひひいててて候候そうろうををを、、、義義よし盛盛もりががが預預あずかりりり奉奉たてまつつつっててて候候そうろうががが、、、『『『あなあなあな無無む慙慙ざん、、、田田でん内内ない左左ざ衞衞え門門もん教教のり能能よしがががこれこれこれをををばばば夢夢ゆめにににももも知知しらららずずずしししててて、、、明日明日あすははは軍軍いくさしししててて討討うたたたれれれんんんずるずるずる事事ことののの無無む慙慙ざんさささよよよ。。。』』』ととと、、、夜夜よもすがらもすがらもすがら歎歎なげききき給給たまふふうがががいたはしさいたはしさいたわしさににに、、、告告つげげげ知知しらせらせらせ參參まいらららせせせんんんががが爲爲ためににに、、、これこれこれまでまでまでまかりまかりまかり向向むかつつっててて候候そうろうぞぞぞ。。。今今いまははは軍軍いくさしししててて討討うたたたれれれ給給たまははわんんんともともとも、、、またまたまた兜兜かぶとをををぬぎぬぎぬぎ弓弓ゆみののの弦弦つるをををはづしはづしはずし、、、降降こう人人にんににに參參まいつつっててて、、、父父ちちををを今今いま一一いち度度ど見見みたまはたまはたまわんんんともともとも、、、ともかうともかうともこうももも御御ご邊邊へんののの御御おんはからひはからひはからいぞぞぞ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、田田でん内内ない左左ざ衞衞え門門もん、、、かつかつかつ聞聞きくくく事事ことににに少少すこしししももも違違たがははわずずずとととててて、、、兜兜かぶとをををぬぎぬぎぬぎ弓弓ゆみののの弦弦つるをををはづしはづしはずしててて降降こう人人にんにににまゐるまゐるまいる。。。大大たい將將しょうかやうかやうかようににになるなるなる上上うえははは、、、三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きののの兵兵つわものどもどもどもももも、、、皆皆みなかくかくかくののの如如ごとししし。。。義義よし盛盛もりががが僅僅わずか十十じゅう六六ろく騎騎きににに具具ぐせせせられられられててて、、、おめ〳〵おめ〳〵おめおめととと降降こう人人にんにににこそこそこそなりなりなりにににけれけれけれ。。。
- 5義義よし盛盛もり、、、田田でん内内ない左左ざ衞衞え門門もんををを相相あい具具ぐしししててて、、、判判ほう官官がんののの御御ご前前ぜんににに畏畏かしこまつまつまっててて、、、このこのこの由由よしかうかうこうととと申申もうしししけれけれければばば、、、「「「義義よし盛盛もりががが謀謀はかりごと、、、今今いまににに始始はじめめめぬぬぬ事事ことなれなれなれどもどもども、、、神神しん妙妙びょうにににももも仕仕つかまつつつったるたるたるものものものかなかなかな。。。」」」とととててて、、、やがてやがてやがて田田でん内内ない左左ざ衞衞え門門もんをををばばば物物もの具具のぐ召召めささされれれててて伊伊い豫豫よののの三三さぶ郎郎ろうににに預預あずけけけらるらるらる。。。「「「さてさてさてあのあのあの兵兵つわものどもどもどもはははいかにいかにいかに。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「遠遠おん國國ごくののの者者ものどもどもどもははは、、、誰誰たれををを誰誰たれとととかかか思思おもひひい參參まいらららせせせ候候そうろうべきべきべき。。。たゞたゞただ世世よののの亂亂らんををを鎭鎭しずめめめててて國國くにをををしろしめさしろしめさしろしめされれれんんんををを、、、主主しゅうにににししし參參まいらららせせせんんん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、判判ほう官官がんこのこのこの儀儀ぎ最最もっとももも然然しかるるるべしべしべしとととててて、、、三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きののの兵兵つわものどもどもどもををを、、、みなみなみなわがわがわが勢勢せいにににぞぞぞ具具ぐせせせられられられけるけるける。。。
- 6さるさるさる程程ほどににに渡渡わた邊邊なべ、、、福福ふく島島しま兩兩りょう所所しょににに殘殘のこりりり止止とどまりまりまりたりたりたりけるけるける二二に百百ひゃく餘餘よ艘艘そうののの船船ふねどもどもども、、、梶梶かじ原原はらををを先先さきとととしししててて、、、同同おなじくじくじく二二に十十じゅう二二に日日にちののの辰辰たつののの一一いっ點點てんににに八八や島島しまののの磯磯いそにににぞぞぞ著著つきききにににけるけるける。。。四四し國國こくをををばばば九九く郎郎ろう判判ほう官官がん攻攻せめめめ落落おとささされれれぬぬぬ。。。今今いまははは何何なんののの用用ようにににかかかあふあふあうべきべきべき。。。六六むゆ日日かののの菖菖しょう蒲蒲ぶ、、、會會えにににあはあはあわぬぬぬ花花はな、、、いさかひいさかひいさかい果果はててててててののの契契ちぎりりりかなかなかなとととぞぞぞ笑笑わらははわれれれけるけるける。。。判判ほう官官がん八八や島島しまへへへ渡渡わたりりり給給たまひひいててて後後のち、、、住住すみ吉吉よしののの神神かん主主ぬし津津つ守守もりののの長長なが盛盛もり都都みやこへへへ上上のぼりりり、、、院院いん參參さんしししててて、、、「「「去去さんんんぬるぬるぬる十十じゅう六六ろく日日にちののの丑丑うしののの刻刻こくばかりばかりばかり、、、當當とう社社しゃ第第だい三三さんののの神神しん殿殿でんよりよりより鏑鏑かぶら矢矢やののの聲聲こえ出出いでででててて、、、西西にしををを指指さしししてててまかりまかりまかり候候そうらひひいぬぬぬ。。。」」」ととと奏奏そう聞聞もんせせせられられられたりたりたりけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おう大大おおきききににに御御ぎょ感感かんあつあつあっててて、、、御御ぎょ劒劒けん以以い下下げ、、、種種しゅ々々じゅののの神神しん寶寶ぽうををを、、、長長なが盛盛もりしししててて住住すみ吉吉よし大大だい明明みょう神神じんへへへ參參まいらららせせせらるらるらる。。。昔昔むかし神神じん功功ぐう皇皇こう后后ごう新新しら羅羅ぎををを攻攻せめめめさせさせさせ給給たまひひいししし時時とき、、、伊伊い勢勢せ大大だい神神じん宮宮ぐうよりよりより二二に神神じん荒荒あら御御み前前さきをををさしさしさし添添そへへえさせさせさせ給給たまひひいけりけりけり。。。二二に神神じん御御おん船船ふねののの艫艫とも舳舳へににに立立たつつっててて、、、新新しら羅羅ぎをををやすうやすうやすう攻攻せめめめ隨隨したがへへえさせさせさせたまひたまひたまいけりけりけり。。。異異い國國こくののの軍軍いくさををを鎭鎭しずめめめさせさせさせ給給たまひひいててて、、、歸歸き朝朝ちょうののの後後のち、、、一一いち神神じんははは攝攝つ津津のののの國國くに住住すみ吉吉よしののの郡郡こおりににに止止とどまらまらまらせせせおはしますおはしますおわします。。。住住すみ吉吉よし大大だい明明みょう神神じんこれこれこれなりなりなり。。。今今いま一一いち神神じんははは信信しな濃濃のののの國國くに諏諏す訪訪わののの郡郡こおりににに跡跡あとををを垂垂たるるる。。。諏諏す訪訪わののの大大だい明明みょう神神じんののの御御おん事事ことなりなりなり。。。昔昔むかしののの征征せい伐伐ばつののの事事ことををを思思おぼし召召めししし忘忘わすれれれさせさせさせ給給たまははわででで、、、今今いまももも朝朝ちょうののの怨怨おん敵敵てきををを滅滅ほろぼしぼしぼし給給たまふふうべきべきべきにににやややととと、、、君君きみももも臣臣しんもももたのもしうたのもしうたのもしゅうぞぞぞ思思おぼし召召めささされれれけるけるける。。。
現代語訳
夜が明けると、平家は当国(讃岐)の志度の浦へ漕ぎ退いた。判官は八十余騎で志度へ追って駆けられた。平家はこれを見て、「源氏は小勢であったぞ。中に取りこめて討て」といって、千余人が渚に上がり、源氏を中に取り囲んで、われこそ討ち取ろうと進んだ。そのうちに八島に残っていた二百余騎の勢が遅れて馳せ参じた。平家はこれを見て、「ああ、源氏の大軍が続いてきたぞ。何十万騎あるかわからない。取り囲まれてはかなわない」といって退き、みな船に乗ってしまった。潮に引かれ風にまかせて、どこを目指すともなく揺られていくのは悲しいことである。四国は九郎大夫判官に攻め落とされた。九州へは入れてもらえない。ただ中有の衆生のように見えた。
判官は志度の浦に下りて首の実検をしておられたが、伊勢三郎義盛を呼んで、「阿波民部重能の嫡子田内左衛門教能は、伊予の河野四郎が召しても参らないのを攻めようとして、三千余騎で伊予へ越えたが、河野は討ちもらした。家の子郎等百五十人の首を切って八島の内裏へ送ってきたが、今日ここへ着くと聞く。おまえ行き向かって、うまく取りはからってみよ」とおっしゃると、義盛はかしこまって承り、白旗を一流いただいて差させ、手勢十六騎をみな白装束に出で立たせて馳せ向かった。
やがて伊勢三郎と田内左衛門とは行き会った。間を一町ほど隔てて、互いに赤旗・白旗を立てた。義盛は教能のもとへ使者を立てて、「お聞き及びかもしれませんが、鎌倉殿の御弟九郎大夫判官殿が、平家追討の院宣を承って西国へ向かわれました。その御内の伊勢三郎義盛と申す者でございますが、戦のためではありませんので、武具も着けず、弓矢も帯びておりません。大将に申し上げることがあって、ここまで参りました。道をあけて入れてください」と言い送ったので、三千余騎の兵たちはみな中をあけて通した。
伊勢三郎は田内左衛門と馬を並べて言うには、「お聞き及びかもしれませんが、鎌倉殿の御弟九郎大夫判官殿が平家追討のためここまで向かわれましたが、一昨日阿波国勝浦に着いて、あなたの伯父の桜間介殿を討ち取り、昨日八島に着いて戦い、御所も内裏もみな焼き払い、主上は海にお入りになりました。大臣殿父子は生け捕りにいたしました。能登殿もご自害、そのほかの人々はご自害なさったり、海にお入りになったりしました。わずかに残った余党も、今朝志度の浦でみな討ち取りました。あなたの父の阿波民部殿は降人となられ、義盛がお預かりしておりますが、『ああ痛ましい。田内左衛門教能がこれを夢にも知らずに、明日は戦をして討たれるのが痛ましい』と夜通し嘆かれるのがおいたわしくて、お知らせするためにここまで参ったのです。今は戦をして討たれなさるのも、また兜を脱ぎ弓の弦をはずして降人となり、父上にもう一度お会いになるのも、どちらでもあなたのお心しだいです」と言ったので、田内左衛門は、聞いていたことと少しも違わないといって、兜を脱ぎ弓の弦をはずして降人となった。大将がこうなったうえは、三千余騎の兵たちもみな同じであった。義盛のわずか十六騎に連れられて、おめおめと降人になってしまった。
義盛は田内左衛門を連れて判官の御前にかしこまり、このことをかくかくと申したので、判官は「義盛の計略は今に始まったことではないが、みごとにやってのけたものだ」といって、すぐに田内左衛門は武具を取り上げられて伊勢三郎に預けられた。「さてあの兵どもはどうか」とおっしゃると、「遠国の者たちは、誰を主君と思うこともありません。ただ世の乱れを鎮めて国をお治めになる方を、主とお仰ぎいたしましょう」と申したので、判官はもっともなことだといって、三千余騎の兵たちをみな自分の勢に加えられた。
そのうちに渡辺・福島の二か所に残っていた二百余艘の船が、梶原を先頭として、同じく二十二日の辰の一点に八島の磯に着いた。四国は九郎判官がもう攻め落とされた。今さら何の役に立とうか。「六日の菖蒲、会に会わない花、喧嘩が終わってからの棒ちぎりだな」と笑われた。判官が八島へお渡りになった後、住吉の神主津守長盛が都へ上り、院の御所に参って、「去る十六日の丑の刻ごろ、当社の第三の神殿から鏑矢の音がして、西を指して飛んでいきました」と奏上されたので、法皇はたいそうお喜びになって、御剣以下さまざまの神宝を、長盛に託して住吉大明神へ奉納された。昔、神功皇后が新羅を攻められたとき、伊勢大神宮から二柱の神の荒御前を差し添えられた。二神は御船の艫と舳に立って、新羅をたやすく攻め従えさせなさった。異国の戦を鎮められて帰朝の後、一神は摂津国住吉郡にとどまっておられる。住吉大明神がこれである。もう一神は信濃国諏訪郡に跡を垂れておられる。諏訪大明神のことである。昔の征伐のことをお忘れにならず、今も朝廷の怨敵を滅ぼしてくださるのであろうかと、君も臣も頼もしく思われた。
意訳
屋島を追われた平家が、四国にも九州にも拠り所を失い、中有の衆生のように海上をさまよう姿が描かれる。いよいよ壇の浦での最後の戦いへ向かう前の、追いつめられた平家の悲哀がにじむ。
伊勢三郎義盛の偽りの言葉によって三千余騎が戦わずして降参する話は、弁舌と計略で勝つ義経の郎等たちのしたたかさを示す。遅れて着いた梶原の船団を「六日の菖蒲」と笑う話は、逆櫓の論争以来の梶原と義経の不和を暗示し、住吉の神殿から鏑矢が西へ飛んだという霊験譚は、源氏の勝利が神意にかなうことを語っている。
語釈・文法注
文法
- 「中有の衆生」
- 死後、次の生を受けるまでの中間の状態(中有)にある者。行き場を失った平家のたとえ。
- 「こしらへて見よ」
- うまく言いくるめて(取りはからって)みよ。
- 「白旗一旒」
- 白旗一本。
- 「軍合戰の料で候はねば」
- 戦をするためではありませんので。
- 「伊豫の三郎に預けらる」
- 底本は「伊豫の三郎」と刷る。伊勢三郎義盛の誤りであろう。
- 「六日の菖蒲、會にあはぬ花、いさかひ果てての契り」
- いずれも時機に遅れて役に立たないもののたとえ。五月五日の節句の翌日の菖蒲、法会に間に合わない花、喧嘩が終わってから持ち出す棒(ちぎりき)。
- 「第三の神殿」
- 住吉大社の第三本宮(表筒男命)。
- 「御劒」
- 底本の字形は判読しにくいが、「劒」と読んだ。
- 「荒御前」
- 神の荒々しく勇猛な霊(荒魂)。
解説
志度の浦は香川県さぬき市志度で、志度寺の近くに源平の古戦場の伝承が残る。屋島の合戦の後、平家は彦島(下関市)に拠って、最後の決戦である壇の浦の戦いへ向かう。阿波民部重能(田口成良)は壇の浦で平家を裏切り、源氏に味方したと伝える。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、780–783頁(コマ419–420)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日