平家物語 巻第十
戒文の事
宗盛の請文が届いて、重衡は神器と引き換えに許される望みを失い、関東へ下されることに決まった。重衡は出家を願ったが、法皇は頼朝に見せてからと許さず、かわりに長年帰依していた黒谷の法然上人との対面が許された。重衡は、南都焼き討ちは心ならずも伽藍を滅ぼしたとはいえ大将軍としての罪は自分一人にあると懺悔し、救いの道を問う。法然は、末法の世には称名念仏がすぐれ、罪深い者も念仏すれば往生できると説き、剃るまねをして十戒を授けた。重衡は布施として、清盛が宋の帝から贈られた硯「松蔭」を法然に贈った。
- 1三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうこのこのこの由由よしををを聞聞きききき給給たまひひいててて、、、「「「さささこそこそこそはははあらあらあらんんんずれずれずれ。。。いかにいかにいかに一一いち門門もんののの人人ひと々々びとのののわるうわるうわるう思思おもははわれれれけんけんけん。。。」」」ととと、、、後後こう悔悔かいせせせられられられけれけれけれどもどもどもかひかひかいぞぞぞなきなきなき。。。げにげにげにももも重重しげ衡衡ひら一一いち人人にんををを惜惜おしみしみしみててて、、、さしもさしもさしもにににわがわがわが朝朝ちょうののの重重ちょう寶寶ほう三三さん種種しゅののの神神じん器器ぎををを、、、返返かへししし給給たまふふうらんらんらんとととももも覺覺おぼえええねねねばばば、、、このこのこの請請うけ文文ぶみののの趣趣おもむきははは、、、かねかねかねてててよりよりより思思おもひひい設設もうけけけられられられたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、未未いまだだだ左左そ右右うををを申申もうささされれれざりざりざりつるつるつる程程ほどははは、、、何何なにとととなうなうのう心心こころ許許もとなうなうのう思思おもははわれれれけるけるけるににに、、、請請うけ文文ぶみ既既すでににに到到とう來來らいしてしてして、、、關關かん東東とうへへへ下下くだるるるべきべきべきににに定定さだまりまりまりしかしかしかばばば、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう、、、都都みやこののの名名な殘殘ごりももも今今いま更更さら惜惜おしうしうしゅうややや思思おもははわれれれけんけんけん、、、土土と肥肥ひののの次次じ郎郎ろう實實さね平平ひらををを召召めしししててて、、、「「「出出しゅっ家家けせせせばやばやばやととと思思おもふふうはははいかにいかにいかに。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、このこのこの由由よしををを九九く郎郎ろう御御おん曹曹ぞう司司しへへへ申申もうすすす。。。院院いんののの御御ご所所しょへへへ奏奏そう聞聞もんせせせられられられたりたりたりけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おう、、、「「「賴賴より朝朝ともににに見見みせせせててて後後のちこそこそこそ、、、ともかうもともかうもともこうも計計はからららはははめめめ。。。たゞたゞただ今今いまははは爭爭いかでででかかか許許ゆるすすすべきべきべき。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、このこのこの由由よしををを中中ちゅう將將じょう殿殿どのににに申申もうすすす。。。「「「さらばさらばさらば年年とし頃頃ごろ契契ちぎつつったるたるたる聖聖ひじりににに今今いま一一いち度度ど對對たい面面めんしてしてして、、、後後ご生生しょうののの事事ことをををももも申申もうししし談談だんぜぜぜばやばやばやととと思思おもふふうはははいかにいかにいかに。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、土土と肥肥ひののの次次じ郎郎ろう、、、「「「聖聖ひじりをををばばば誰誰たれととと申申もうししし候候そうろうやらんやらんやらん。。。」」」「「「黑黑くろ谷谷だにののの法法ほう然然ねん坊坊ぼうととといふいふいう人人ひとなりなりなり。。。」」」「「「さてさてさてははは苦苦くるしうしうしゅう候候そうろうまじまじまじ、、、とう〳〵とう〳〵とうとう。。。」」」とてとてとて許許ゆるししし奉奉たてまつるるる。。。
- 2三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうなのめなのめなのめならならならずずずににに悅悅よろこびびび、、、やがてやがてやがて聖聖ひじりををを請請しょうじじじ奉奉たてまつつつっててて、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「今今こん度度ど西西さい國國こくにてにてにていかにいかにいかにもももなるなるなるべかりべかりべかりししし身身みののの、、、生生いきききながらながらながら捕捕とらははわれれれてててまかりまかりまかり上上のぼりりり候候そうろうははは、、、再再ふたたびびび上上しょう人人にんののの御御ご見見げん參參ざんににに入入いるるるべきべきべきにてにてにて候候そうらひひいけりけりけり。。。さてもさてもさても重重しげ衡衡ひらががが後後ご生生しょうはははいかゞいかゞいかが仕仕つかまつりりり候候そうろうべきべきべき。。。身身みののの身身みにてにてにて候候そうらひひいしししほどほどほどははは出出しゅっ仕仕しにににまぎれまぎれまぎれ、、、政政せい務務むにににほだされほだされほだされ、、、憍憍きょう慢慢まんののの心心こころのみのみのみ深深ふこうううしてしてして、、、到到とう來來らいののの昇昇しょう沉沉ちんををを顧顧かえりみみみずずず。。。況況いわんんんややや運運うんつきつきつき世世よ亂亂みだれれれててて、、、都都みやこををを出出いでででししし後後のちははは、、、こゝこゝここににに戰戰たたかひひい、、、かしこかしこかしこににに爭爭あらそひひい、、、人人ひとををを亡亡ほろぼしぼしぼし、、、身身みををを助助たすからからからんんんととと思思おもふふう惡惡あく心心しんのみのみのみ遮遮さえぎつつっててて、、、善善ぜん心心しんははは嘗嘗かつててて起起おこらららずずず。。。就就なか中中んずく南南なん都都と炎炎えん上上しょうのののことことことははは、、、王王おう命命めいととと申申もうししし武武ぶ命命めいととといひいひいい、、、君君きみににに仕仕つかへへえ、、、世世よににに從從したがふふう法法ほう遁遁のがれれれ難難がとうううしてしてして、、、衆衆しゅ徒徒とののの惡惡あく行行ぎょうををを鎭鎭しずめめめんんんががが爲爲ためにににまかりまかりまかり向向むかつつっててて候候そうらへへえばばば、、、不不ふ慮慮りょににに伽伽が藍藍らんののの滅滅めつ亡亡ぼうににに及及およびびびぬるぬるぬる事事ことははは、、、力力ちから及及およばばばざるざるざる次次し第第だいなりなりなり。。。されどもされどもされども時時ときののの大大たい將將しょう軍軍ぐんにてにてにて候候そうらひひいししし閒閒あいだ、、、責責せめ一一いち人人にんににに歸歸きすすすとととかやかやかや申申もうししし候候そうろうなれなれなればばば、、、重重しげ衡衡ひら一一いち人人にんががが罪罪ざい業業ごうにににこそこそこそなりなりなり候候そうらひひいぬぬぬらめらめらめととと覺覺おぼえええ候候そうろう。。。今今いま又又またかれかれかれこれこれこれ恥恥はじををを曝曝さらすすすももも、、、しかしながらしかしながらしかしながらそのそのその報報むくいいいとととのみのみのみこそこそこそ思思おもひひい知知しららられれれててて候候そうらへへえ。。。今今いまははは髪髪かみををを剃剃そりりり、、、乞乞こっ食食じき頭頭ず陀陀だののの行行ぎょうをををもももしてしてして、、、ひとへひとへひとえににに佛佛ぶつ道道どう修修しゅ行行ぎょうしししたくたくたく候候そうらへへえどもどもども、、、斯斯かかるかるかる身身みににに任任まかりりりなつなつなっててて候候そうらへへえばばば、、、心心こころににに心心こころをををももも任任まかせせせ候候そうらははわずずず。。。いかなるいかなるいかなる行行ぎょうををを修修しゅしししてててももも、、、一一いっ向向こう助助たすかるかるかるべしべしべしとととももも覺覺おぼえええぬぬぬ事事ことこそこそこそ、、、口口くち惜惜おしうしうしゅう候候そうらへへえ。。。つら〳〵つら〳〵つらつら一一いっ生生しょうののの化化け行行ぎょうををを按按あんずるずるずるににに、、、罪罪ざい業業ごうははは須須しゅ彌彌みよりよりよりももも高高たかくくく、、、善善ぜん根根ごんははは微微み塵塵じんばかりばかりばかりももも貯貯たくわへへえなしなしなし。。。かくかくかくててて命命いのち空空むなしうしうしゅう終終おわりりり候候そうらひひいなななばばば、、、火火か血血けつ刀刀とうののの苦苦く果果か敢敢あえててて疑疑うたがひひいなしなしなし。。。願願ねがははわくくくははは上上しょう人人にん慈慈じ悲悲ひををを起起おこししし、、、憐憐あわれみみみををを垂垂たれれれ給給たまひひいててて、、、斯斯かかるかるかる惡惡あく人人にんののの助助たすかりかりかりぬぬぬべきべきべき方方ほう法法ぽう候候そうらははわばばば示示しめししし給給たまへへえ。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、上上しょう人人にん涙涙なみだににに咽咽むせびびび、、、うつぶしうつぶしうつぶしててて、、、暫暫しばしししはははとかうとかうとこうののの事事ことももも宣宣のたまははわずずず。。。
- 3やゝやゝややあつあつあっててて上上しょう人人にんのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「まことまことまことににに受受うけけけ難難がたききき人人にん身身じんををを受受うけけけながらながらながら、、、空空むなしうしうしゅう三三さん途途ずににに返返かえりりりましまさましまさましまさんんん事事こと、、、悲悲かなしんしんしんでででももも猶猶なおあまりあまりあまりありありあり。。。然然しかるるるににに今今いま穢穢え土土どををを厭厭いとひひい、、、淨淨じょう土土どををを願願ねがははわんんんととと思思おぼし召召めさささばばば、、、惡惡あく心心しんををを棄棄すてててててて、、、善善ぜん心心しんををを起起おこしししましまさましまさましまさんんんにににおいおいおいてててははは、、、三三さん世世ぜののの諸諸しょ佛佛ぶつももも定定さだめめめててて隨隨ずい喜喜きししし給給たまふふうらんらんらん。。。それそれそれ出出しゅつ離離りののの道道みちのののまち〳〵まち〳〵まちまちなりなりなりとととははは申申もうせせせどもどもども、、、末末まつ法法ぽう濁濁じょく亂亂らんののの機機きにににははは、、、稱稱しょう名名みょうををを以以もってててすぐれすぐれすぐれたりたりたりとととすすす。。。志志こころざしををを九九く品品ぼんにににわかちわかちわかち、、、行行ぎょうををを六六ろく字字じにににつゞめつゞめつづめててて、、、いかなるいかなるいかなる愚愚ぐ智智ち闇闇あん鈍鈍どんののの者者ものももも唱唱となふるふるうるににに便便たよりりりありありあり。。。罪罪つみ深深ふかけれけれければばばとてとてとて卑卑ひ下下げししし給給たまふふうべからべからべからずずず、、、十十じゅう惡惡あく五五ご逆逆ぎゃく廻廻え心心しんすれすれすればばば往往おう生生じょうををを遂遂とぐぐぐ。。。功功く德德どく少少すくなけれけれければばばとてとてとて望望のぞみみみををを絶絶たつつつべからべからべからずずず、、、一一いち念念ねん十十じゅう念念ねんののの心心こころををを致致いたせせせばばば來來らい迎迎ごうすすす。。。專專せん稱稱しょう名名みょう號號ごう至至し西西さい方方ほうととと釋釋しゃくしししててて專專もわららら名名みょう號號ごうををを稱稱しょうずれずれずればばば、、、西西さい方方ほうににに至至いたりりり、、、念念ねん々々ねん稱稱しょう名名みょう常常じょう懺懺さん悔悔げとととのたまひのたまひのたまいててて、、、念念ねん々々ねんににに彌彌み陀陀だををを唱唱となふれふれうればばば懺懺さん悔悔げするするするなりなりなり。。。」」」とととぞぞぞ教教をしへへへけるけるける。。。
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- 5中中ちゅう將將じょう、、、隨隨ずい喜喜きののの涙涙なみだををを流流ながいいいててて、、、これこれこれををを受受うけけけ保保たもちちち給給たまふふう。。。上上しょう人人にんもももよろづよろづよろずものものものあはれあはれあわれににに覺覺おぼえええててて、、、かきかきかきくらすくらすくらす心心ここちちちしてしてして、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく戒戒かいをををぞぞぞ說說とかかかれれれけるけるける。。。御御おん布布ふ施施せとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、日日ひ頃頃ごろおはしおはしおわしてててあそばあそばあそばれれれけるけるける、、、侍侍さぶらいのののもともともとににに預預あずけけけ置置おかかかれれれたりたりたりけるけるける御御おん硯硯すずりををを、、、知知とも時時ときしてしてして召召めししし寄寄よせせせててて、、、上上しょう人人にんににに奉奉たてまつりりり、、、「「「これこれこれをををばばば人人ひとにににたびたびたび候候そうらははわででで、、、常常つねににに御御おん目目めのののかゝらかゝらかからんんんずるずるずる所所ところににに置置おかかかれれれ候候そうらひひいててて、、、某某それがしががが物物ものぞぞぞかしかしかしととと御御ご覽覽らんぜぜぜられられられんんん度度たびごとごとごとにににははは、、、御御おん念念ねん佛佛ぶつ候候そうろうべしべしべし。。。またまたまた御御おんひまひまひまにににははは、、、經經きょうをををももも一一いっ巻巻かん御御ご廻廻え向向こう候候そうらははわばばば然然しかるるるべうべうびょう候候そうろう。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、上上しょう人人にんとかうとかうとこうののの返返へん事事じにににももも及及およびびび給給たまははわずずず、、、これこれこれををを取取とつつっててて懷懷ふところににに入入いれれれ、、、墨墨すみ染染ぞめののの袖袖そでををを顏顏かおにににおしおしおし當當あてててててて、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく黑黑くろ谷谷だにへへへぞぞぞ歸歸かえららられれれけるけるける。。。件件くだんののの硯硯すずりははは親親しん父父ぶ入入にゅう道道どう相相しょう國國こく、、、宋宋そう朝朝ちょうののの御御み門門かどへへへ沙沙しゃ金金きんををを多多おおくくく參參まいらせらせらせ給給たまひひいたりたりたりしかしかしかばばば、、、返返へん報報ぽうとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、日日にっ本本ほん和和わ田田だののの平平へい大大たい相相しょう國國こくのののもともともとへへへとてとてとて、、、送送おくららられれれたりたりたりけるけるけるとととかやかやかや。。。名名なをををばばば松松まつ蔭蔭かげとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
現代語訳
三位中将(重衡)はこのことを聞かれて、「そうであろう。一門の人々はどんなに私を悪く思われたことか」と後悔されたが、どうにもならない。本当に重衡一人を惜しんで、あれほどのわが国の宝である三種の神器をお返しになるとも思われないので、この請文の内容は前々から覚悟しておられたが、まだ返事が来ないうちは、なんとなく気がかりに思っておられたところ、請文がもう届いて、関東へ下されることに決まったので、三位中将は、都の名残も今さら惜しく思われたのであろうか、土肥次郎実平を呼んで、「出家したいと思うがどうだろう」とおっしゃったので、このことを九郎御曹司(義経)に申した。院の御所へ奏上されたところ、法皇は「頼朝に見せてから、どうにでも計らおう。今はどうして許せようか」と仰せになったので、このことを中将殿に申した。「それなら長年帰依していた聖にもう一度会って、後世のことを相談したいと思うがどうだろう」とおっしゃると、土肥次郎は「聖とはどなたのことでしょうか」「黒谷の法然房という人だ」「それなら差しさわりはございますまい。早く早く」といってお許し申した。
三位中将はたいそう喜んで、すぐに聖をお招き申し、泣く泣く申されるには、「今度、西国でどうにでもなるはずだった身が、生きながら捕らわれて都へ上ってきたのは、もう一度上人にお目にかかるためでございました。それにしても重衡の後世はどうしたらよいでしょう。身が栄えておりましたころは出仕にまぎれ、政務にとらわれて、おごりの心ばかり深くて、やがて来る浮き沈みを顧みませんでした。まして運が尽き世が乱れて都を出てからは、ここで戦い、あそこで争い、人を滅ぼし、自分は助かろうと思う悪心ばかりがさえぎって、善心はまったく起こりませんでした。とりわけ南都炎上のことは、王命といい武命といい、君に仕え世に従う道理は逃れがたく、衆徒の悪行を鎮めるために向かいましたところ、思いがけず伽藍を滅ぼすことになってしまったのは、どうしようもないことでした。けれども時の大将軍でございましたので、責任は一人に帰するとか申しますから、重衡一人の罪業になったのだろうと思われます。今またあれこれと恥をさらすのも、すべてその報いと思い知らされております。今は髪を剃り、乞食頭陀の修行もして、ひたすら仏道を修行したいのですが、このような身になってしまいましたので、心のままにもなりません。どんな修行をしても、まったく助かるとも思われないことこそ無念でございます。よくよく一生の行いを考えると、罪業は須弥山よりも高く、善根は塵ほどの蓄えもありません。このまま命がむなしく終わったら、地獄・餓鬼・畜生の苦しみの報いは疑いありません。どうか上人、慈悲を起こし、憐れみをかけてくださって、このような悪人が助かる方法がありましたらお示しください」と申されたので、上人は涙にむせび、うつむいて、しばらくは何もおっしゃらなかった。
しばらくして上人がおっしゃるには、「まことに受けがたい人の身を受けながら、むなしく三途(地獄・餓鬼・畜生)に帰られることは、悲しんでもなお余りあります。けれども今、穢土を厭い浄土を願おうとお思いになって、悪心を捨て善心を起こされるならば、三世の諸仏もきっとお喜びになるでしょう。そもそも迷いを離れる道はさまざまであると申しますが、末法の濁り乱れた世の人々には、称名念仏がすぐれているとされます。志を九品に分け、修行を南無阿弥陀仏の六字に縮めて、どんな愚かな者、鈍い者でも唱えやすいのです。罪が深いからといって卑下してはなりません。十悪・五逆の者でも心を改めれば往生を遂げます。功徳が少ないからといって望みを絶ってはなりません。一念・十念でも心を尽くせば阿弥陀仏が迎えに来てくださいます。『専ら名号を称えれば西方に至る』と解釈し、『念々に称名すれば常に懺悔となる』とおっしゃって、念々に阿弥陀仏を唱えれば懺悔となるのです」と教えた。
「『利剣はすなわち弥陀の名号である』と頼めば魔縁も近づかず、『一声称念すれば罪はみな除かれる』と念ずれば、罪はみな除かれると見えます。浄土宗の奥義は、それぞれ要点を心得て、大略これを肝心とします。ただし往生できるかどうかは信心の有無によるでしょう。ただこの教えを深く信じて、行・住・坐・臥、時と所と縁をいとわず、身・口・意の三業と四つの威儀のうちに、心に念じ口に称えることをお忘れにならなければ、命の終わるときを期として、この苦しみの世界を出て、あの極楽浄土の不退の地に往生なさることに、何の疑いがありましょう」と教え導かれたので、三位中将はたいそう喜んで、「どうかこの機会に戒を受けたいと思いますが、出家しなければかないませんか」と申されたので、上人は「出家しない人も戒を受けるのはよくあることです」といって、額に剃刀を当てて剃るまねをして、十戒をお授けになった。
中将は感激の涙を流して、これを受け保たれた。上人も何かにつけてあわれに思われて、目の前が暗くなる心地がして、泣く泣く戒をお説きになった。お布施にとお思いになって、日ごろおいでになって遊ばれていた侍のもとに預けておかれた硯を、知時に取り寄せさせて上人に差し上げ、「これを人にお与えにならず、いつもお目にとまる所に置かれて、某の物だとご覧になるたびに、念仏をしてください。またお暇なときには、お経も一巻回向していただければありがたく存じます」と申されたので、上人は何の返事もなさらず、これを受け取って懐に入れ、墨染の袖を顔に押し当てて、泣く泣く黒谷へ帰られた。この硯は、父の入道相国(清盛)が宋の帝に砂金を多く贈られたので、その返礼として、「日本和田の平大相国のもとへ」といって贈られたものだとかいう。名を松蔭と申した。
意訳
神器との交換が叶わず、関東へ送られることになった重衡が、法然上人に罪を懺悔し、念仏の教えを受ける章段である。南都焼き討ちの罪を「責一人に帰す」と引き受ける重衡の言葉には、平家の公達としての誇りと、悔いの深さとが表れている。
法然は、罪深い悪人こそ念仏によって救われると説き、剃るまねをして戒を授ける。浄土宗の教えが平家物語の世界にはっきりと現れる場面であり、のちの重衡の最期や、建礼門院の往生(灌頂巻)へと続く仏教的な救いの主題を準備している。
語釈・文法注
文法
- 「左右を申されざりつる」
- どちらとも返事をしてこなかった。
- 「身の身にて候ひしほど」
- 身が栄えていた(自分が思うままにふるまえた)ころ。
- 「責一人に歸す」
- 責任は大将一人に帰する。
- 「火血刀の苦果」
- 地獄(火)・畜生(血)・餓鬼(刀)の三悪道の苦しみの報い。
- 「九品」
- 極楽往生の九つの等級。
- 「專稱名號至西方」「念々稱名常懺悔」「利劍卽是彌陀號」「一聲稱念罪皆除」
- 善導の『般舟讃』などの句。称名念仏の功徳を説く。
- 「三業四威儀」
- 身・口・意の三つの行いと、行・住・坐・臥の四つの振る舞い。
- 「日本和田の平大相國」
- 福原(和田の岬)にいた清盛をさす。宋の側から見た呼び名。
解説
法然(源空)は浄土宗の開祖で、京都東山の吉水や比叡山の黒谷に住した。重衡が法然に帰依していたことは『平家物語』諸本に見え、のちの浄土宗の伝記にも取り入れられた。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、721–724頁(コマ389–391)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日