平家物語 巻第十
内裏女房の事
生け捕りの本三位中将重衡は都の大路を渡され、人々は南都を焼いた伽藍の罰だと言い合った。院からの使い定長は、三種の神器を返せば屋島へ帰そうという院宣を伝え、重衡は一門に申し送ると答えた。重衡の侍木工右馬允知時は土肥実平に許しを請うて重衡に会い、重衡が契りを交わした内裏の女房に手紙を届けた。女房は重衡の身を嘆き、返事に歌を添える。重衡は実平の情けで女房と一夜対面し、別れの歌を交わした。この女房は、重衡が南都で斬られたと聞いて出家し、その菩提を弔った。
- 1同同おなじきじきじき十十じゅう四四よっ日日か、、、生生いけ捕捕どり本本ほん三三ざん位位みののの中中ちゅう將將じょう重重しげ衡衡ひらののの卿卿きょう都都みやこへへへ入入いつつっててて、、、大大おお路路じををを渡渡わたさささるるる。。。小小こ八八はち葉葉ようののの車車くるまののの前前ぜん後後ごののの簾簾すだれをををあげあげあげ、、、左左さ右右ゆうののの物物もの見見みををを開開ひらくくく。。。土土と肥肥ひののの次次じ郎郎ろう實實さね平平ひらははは木木もく蘭蘭らん地地じののの直直ひた垂垂たれににに小小こ具具ぐ足足そくばかりばかりばかりしてしてして、、、隨隨ずい兵兵ひょう三三さん十十じゅう餘餘よ騎騎き引引ひき具具ぐしししててて、、、車車くるまののの前前ぜん後後ごををを打打うち圍圍かこんんんででで守守しゅ護護ごししし奉奉たてまつるるる。。。京京きょう中中じゅうののの上上じょう下下げこれこれこれををを見見みててて、、、「「「あなあなあないとほしいとほしいとおし、、、いくらいくらいくらもももましますましますまします公公きん達達だちののの中中なかににに、、、このこのこの人人ひと一一いち人人にんかやうかやうかようににになりなりなりたまふたまふたまうことことことよよよ。。。入入にゅう道道どう殿殿どのにににももも、、、二二に位位い殿殿どのにににもももおぼえおぼえおぼえののの御御おん子子こにてにてにてましませましませましませばばば、、、一一いち門門もんののの人人ひと々々びとももも重重おもききき事事ことにににしてしてして、、、院院いん内内だいへへへ參參まいらららせせせ給給たまひひいしししにににももも、、、老老おいいいたるたるたるももも若若わかきききももも、、、所所ところををを置置おきききてててもてなしもてなしもてなし奉奉たてまつらららせせせ給給たまひひいしししぞぞぞかしかしかし。。。今今いままたまたまたかやうかやうかようににになりなりなり給給たまふふう事事ことははは、、、いかさまいかさまいかさまにににももも奈奈な良良らををを燒燒やききき給給たまへへえるるる伽伽が藍藍らんののの罰罰ばち。。。」」」ととといひいひいいあへあへあえりりり。。。六六ろく條條じょうををを東東ひがしへへへ河河かわ原原らまでまでまで渡渡わたいいいててて、、、それそれそれよりよりより歸歸かえつつっててて、、、故故こ中中なかののの御御み門門かどののの藤藤とう中中ちゅう納納な言言ごん家家いえ成成なりののの卿卿きょうののの御御み堂堂どう、、、八八はち條條じょう堀堀ほり河河かわなるなるなる所所ところにににすゑすゑすえ奉奉たてまつつつっててて、、、嚴嚴きびしうしうしゅう守守しゅ護護ごししし奉奉たてまつるるる。。。
- 2院院いんののの御御ご所所しょよりよりより御御おん使使つかいありありあり。。。藏藏くら人人んどののの左左さ衞衞え門門もんののの權權ごんののの佐佐すけ定定さだ長長なが、、、八八はち條條じょう堀堀ほり河河かわへへへぞぞぞ向向むかひひいけるけるける。。。赤赤せき衣衣いににに劍劍けん笏笏しゃくをををぞぞぞ帶帶たいしししたりたりたりけるけるける。。。三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうははは紺紺こん村村むら濃濃ごののの直直ひた垂垂たれににに、、、折折おり烏烏え帽帽ぼ子子し引引ひき立立たてててててておはしますおはしますおわします。。。日日ひ頃頃ごろははは何何なにとととももも思思おもははわれれれざりざりざりししし定定さだ長長ながををを、、、今今いまははは冥冥めい途途どにてにてにて罪罪ざい人人にんどもどもどもががが、、、冥冥みょう官官かんににに逢逢あへへえるるる心心ここちちちぞぞぞせせせられられられけるけるける。。。仰仰おおせせせ下下くだささされれれけるけるけるははは、、、「「「八八や島島しまへへへ歸歸かえりりりたくたくたくばばば、、、一一いち門門もんののの方方かたへへへいひいひいい送送おくつつっててて、、、三三さん種種じゅののの神神しん器器ぎををを都都みやこへへへ返返かえししし入入いれれれ奉奉たてまつれれれ。。。しからばしからばしからば八八や島島しまへへへ歸歸かえさささるるるべしべしべし。。。」」」とととののの御御ご氣氣き色色しょくなりなりなり。。。三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「さしもさしもさしもにににわがわがわが朝朝ちょうののの重重ちょう寶寶ほう三三さん種種しゅののの神神じん器器ぎををを、、、重重しげ衡衡ひら一一いち人人にんにににかへかへかへまゐらせまゐらせまいらせんんんとととははは、、、内内だい府府ふ以以い下下げ一一いち門門もんののの者者ものどもどもどもががが、、、よもよもよも申申もうししし候候そうらははわじじじ。。。女女にょ性性しょうででで候候そうらへへえばばば、、、もしもしもし母母ぼ儀儀ぎののの二二に品品ほんなんどなんどなんどもももややや、、、さささももも申申もうししし候候そうらははわんんんずらんずらんずらん。。。さりさりさりながらながらながらももも、、、ゐゐいながらながらながら院院いん宣宣ぜんををを返返かへししし奉奉たてまつらららんんん事事ことははは、、、そのそのそのおそれおそれおそれももも候候そうらへへえばばば、、、速速すみやかかかににに申申もうししし送送おくつつってててこそこそこそ見見み候候そうらははわめめめ。。。」」」とととぞぞぞ申申もうささされれれけるけるける。。。
- 3院院いん宣宣ぜんののの御御おん使使つかいははは御御お坪坪つぼののの召召めし次次つぎ花花はな方方かた、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうののの使使つかいははは平平へい三三ぞう左左ざ衞衞え門門もん重重しげ國國くにととといふいふいう者者ものなりなりなり。。。大臣殿大臣殿おおいどの平平へい大大だい納納な言言ごんへへへははは院院いん宣宣ぜんののの趣趣おもむきををを申申もうさささるるる。。。二二に位位い殿殿どのへへへははは御御おん文文ふみこま〴〵こま〴〵こまごまととと書書かいいいててて參參まいらせらせらせらるらるらる。。。私私わたくしののの文文ふみをををばばば許許ゆるささされれれなけれなけれなければばば、、、人人ひと々々びとのののもともともとへへへはははことばことばことばにてにてにてことづてことづてことづてらるらるらる。。。北北きたののの方方かた大大だい納納な言言ごんののの佐佐すけ殿殿どのへへへもももことばことばことばにてにてにて申申もうささされれれけりけりけり。。。「「「旅旅たびののの空空そらにてにてにてももも人人ひとはははわれわれわれににに慰慰なぐさみみみ、、、われわれわれははは人人ひとににに慰慰なぐさみみみしししものものものををを、、、引引ひき別別わかれれれててて後後のち、、、いかにいかにいかに悲悲かなしうしうしゅうおはすおはすおわすらんらんらん。。。契契ちぎりりりははは朽朽くちちちせせせぬぬぬものものものととと申申もうせせせばばば、、、後後のちののの世世よにににははは必必かならずずず生生うまれれれあひあひあい奉奉たてまつるるるべしべしべし。。。」」」ととと、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなくことづてことづてことづて給給たまへへえばばば、、、重重しげ國國くにもももまことまことまことにににあはれあはれあわれににに覺覺おぼえええててて、、、涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて立立たちちちにににけりけりけり。。。
- 4こゝこゝここににに三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうののの年年とし來來ごろののの侍侍さぶらいににに、、、木木む工工く右右う馬馬まののの允允じょう知知とも時時ときととといふいふいう者者ものありありあり。。。八八はち條條じょうののの女女にょ院院いんににに兼兼けん參參さんののの者者ものにてにてにて候候さぶらひひいけるけるけるががが、、、土土と肥肥ひののの次次じ郎郎ろう實實さね平平ひらがががもともともとににに行行ゆいいいててて、、、「「「これこれこれははは年年とし頃頃ごろ三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのににに召召めし使使つかははわれれれ候候そうらひひいししし、、、某某それがしととと申申もうすすす者者ものにてにてにて候候そうろうががが、、、今日今日きょう大大おお路路じででで見見み參參まいらせらせらせ候候そうらへへえばばば、、、目目めもももあてあてあてられられられずずず、、、あまりあまりあまりににに御御おんいたはしういたはしういたわしゅう思思おもひひい參參まいらせらせらせ候候そうろう。。。何何なにかかか苦苦くるしうしうしゅう候候そうろうべきべきべき、、、知知とも時時ときばかりばかりばかりははは御御おん許許ゆるされされされををを蒙蒙こうぶつつっててて、、、今今いま一一いち度度ど近近ちかづきづきづき參參まいつつっててて、、、はかなきはかなきはかなき昔昔むかし語語がたりをををももも申申もうしししててて、、、慰慰なぐさめめめ奉奉たてまつらららばやばやばやととと存存ぞんじじじ候候そうろう。。。弓弓ゆみ矢矢やををを取取とるるる身身みにてにてにてももも候候そうらははわねねねばばば、、、軍軍いくさ合合かっ戰戰せんののの御御おん供供とも仕仕つかまつつつったるたるたる事事ことももも候候そうらははわずずず、、、朝朝あさ夕夕ゆうたゞたゞただ御御お前前まえににに伺伺し候候こうせせせしししばかりばかりばかりででで候候そうらひひいききき。。。それそれそれももも猶猶なおおぼつかなうおぼつかなうおぼつかのう思思おぼし召召めささされれれ候候そうらははわばばば、、、腰腰こしののの刀刀かたなををを召召めししし置置おかかかれれれててて、、、まげまげまげててて御御おん許許ゆるされされされををを蒙蒙こうぶりりり候候そうらははわばやばやばや。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、土土と肥肥ひののの次次じ郎郎ろうなさけなさけなさけあるあるある者者ものにてにてにて、、、「「「まことまことまことににに御御ご一一いっ身身しんははは、、、何何なにかかか苦苦くるしうしうしゅう候候そうろうべきべきべき。。。さりさりさりながらながらながらももも。。。」」」とてとてとて、、、腰腰こしののの刀刀かたなををを請請こひひい取取とつつってててぞぞぞ入入いつつってててけるけるける。。。
- 5右右う馬馬まののの允允じょうなのめなのめなのめならならならずずず喜喜よろこびびび、、、いそぎいそぎいそぎ參參まいつつっててて御御おんありありありさまさまさまををを見見み奉奉たてまつるるるににに、、、まことまことまことににに深深ふこううう思思おもひひい入入いりりり給給たまへへえるるるとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、御御おん姿姿すがたもももいたくいたくいたくしをれしをれしおれ返返かえつつっててておはしおはしおわしけるけるけるををを見見み參參まいらするらするらするににに、、、知知とも時時とき涙涙なみだももも更更さらにににおさへおさへおさえ難難がたししし。。。中中ちゅう將將じょうももも夢夢ゆめににに夢夢ゆめ見見みるるる心心ここちちちしてしてして、、、とかうとかうとこうののの事事ことをををももものたまはのたまはのたまわずずず。。。やゝやゝややあつあつあっててて昔昔むかし今今いまののの物物もの語語がたりどもどもどもししし給給たまひひいててて後後のち、、、「「「さてもさてもさても汝汝なんじしてしてしてものものものいひいひいいししし人人ひとははは、、、未未いまだだだ内内だい裏裏りにににやややととと聞聞きくくく。。。」」」「「「さささこそこそこそ承承うけたまわりりり候候そうらへへえ。。。」」」中中ちゅう將將じょう、、、「「「われわれわれ西西さい國國こくへへへ下下くだりりりししし時時とき、、、文文ふみをををももも遣遣やらららずずず、、、いひいひいい置置おくくく事事こともももなかりなかりなかりしかしかしかばばば、、、世世よ々々よののの契契ちぎりりりはははみなみなみな僞僞いつわりりりににになりなりなりにににけるけるけるよよよととと、、、思思おもふふうらんらんらんこそこそこそ恥恥はずかしけれかしけれかしけれ。。。文文ふみをををやらやらやらばやばやばやととと思思おもふふうはははいかにいかにいかに。。。尋尋たずねねねててて行行ゆきききてててんんんややや。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、知知とも時時とき、、、「「「やすいやすいやすいほどほどほどののの御御おん事事ことににに候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。中中ちゅう將將じょうなのめなのめなのめならならならずずず喜喜よろこびびび、、、やがてやがてやがて書書かいいいてててぞぞぞたうでたうでとうでけるけるける。。。
- 6知知とも時時ときこれこれこれををを賜賜たまははわつつっててて、、、まかりまかりまかり出出いでででんんんとととしししけれけれければばば、、、守守しゅ護護ごののの武武ぶ士士しどもどもども、、、「「「いかなるいかなるいかなる御御おん文文ふみにてにてにてかかか候候そうろうらんらんらん、、、見見み參參まいらせらせらせ候候そうらははわんんん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、中中ちゅう將將じょう、、、「「「見見みせせせよよよ。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、見見みせせせてててけりけりけり。。。苦苦くるしかるしかるしかるまじまじまじとてとてとて取取とらせらせらせけりけりけり。。。知知とも時時ときこれこれこれををを取取とつつっててて、、、いそぎいそぎいそぎ内内だい裏裏りへへへ參參まいりりり、、、晝晝ひるははは人人ひと目目めのののしげけれしげけれしげければばば、、、そのそのその邊邊へん近近ちかききき小小こ家家やににに立立たち寄寄よりりり、、、日日ひををを待待まちちち暮暮くらししし、、、たそがれたそがれたそがれ時時どきにににまぎれまぎれまぎれ入入いつつっててて、、、件件くだんののの女女にょう房房ぼうののの局局つぼねののの下下しも口口ぐち邊邊へんにににたゞずんたゞずんただずんででで聞聞ききききけれけれければばば、、、このこのこの女女にょう房房ぼうののの聲聲こえとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、「「「あなあなあないとほしいとほしいとおし、、、いくらいくらいくらもももましますましますまします公公きん達達だちののの中中なかににに、、、このこのこの人人ひと一一いち人人にんかやうかやうかようににになりなりなり給給たまふふうことことことよよよ。。。人人ひとはははみなみなみな奈奈な良良らををを燒燒やきききたるたるたる伽伽が藍藍らんののの罰罰ばちととといひいひいいあへあへあえりりり。。。中中ちゅう將將じょうもももさささぞぞぞいひいひいいししし。。。わがわがわが心心こころにににおこつおこつおこってててははは燒燒やかかかねねねどもどもども、、、惡惡あく黨黨とう多多おおかりかりかりしかしかしかばばば、、、手手てんんん手手でににに火火ひををを放放はなつつっててて、、、多多おおくくくののの塔塔とう堂堂どうををを燒燒やききき亡亡ほろぼすぼすぼす。。。末末すえののの露露つゆ、、、もともともとののの雫雫しずくのののためしためしためしあれあれあればばば、、、わがわがわが身身み一一ひとつつつののの罪罪ざい業業ごうにににこそこそこそならならならんんんずらめずらめずらめととといひいひいいしがしがしが、、、げにげにげにさささととと覺覺おぼゆるゆるゆるぞぞぞややや。。。」」」とてとてとて泣泣なかかかれれれけれけれければばば、、、知知とも時時とき、、、これこれこれにににももも斯斯かくくく歎歎なげききき給給たまふふう事事ことのののいとほしさいとほしさいとおしさよよよととと思思おもひひい、、、「「「ものものもの申申もうさささううう。。。」」」ととといへいへいえばばば、、、「「「何何なにごとごとごと。。。」」」ととと答答こたふふう。。。「「「これこれこれににに本本ほん三三ざん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのよりよりよりののの御御おん文文ふみののの候候そうろう。。。」」」ととと申申もうしししたりたりたりけれけれければばば、、、日日ひ頃頃ごろははは恥恥はぢぢじててて見見みえええ給給たまははわぬぬぬ人人ひとののの、、、「「「いづらいづらいずらやややいづらいづらいずら。。。」」」とてとてとて走走はしりりり出出いでででててて、、、手手てづからづからずからこのこのこの文文ふみををを取取とつつっててて見見み給給たまふふうににに、、、西西さい國國こくにてにてにて生生いけ捕捕どりにににせせせられられられたりたりたりしししありありありさまさまさま、、、今日今日きょう明日明日あすをををももも知知しらららぬぬぬ身身みのののゆくへゆくへゆくえなどなどなど、、、こま〴〵こま〴〵こまごまととと書書かいいいててて奧奧おくにににははは一一いっ首首しゅののの歌歌うたぞぞぞありありありけるけるける。。。
- 7涙涙なみだ川川がわうきうきうき名名なをををながすながすながす身身みなりなりなりとととももも今今いま一一ひと度度たびのののあふせあふせおうせともともともがながながな
- 8女女にょう房房ぼう、、、このこのこの文文ふみををを顏顏かおにににおしおしおし當當あてててててて、、、とかうとかうとこうのののことことことをををももものたまはのたまはのたまわずずず、、、引引ひきききかづいかづいかずいてててぞぞぞ臥臥ふししし給給たまふふう。。。かくかくかくててて時時じ刻刻こく遙遙はるかかかににに推推おししし移移うつりりりけれけれければばば、、、知知とも時時とき、、、「「「御御おん返返へん事事じ賜賜たまははわつつっててて歸歸かえりりり參參まいりりり候候そうらははわんんん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、女女にょう房房ぼう泣泣なく〳〵く〳〵くなく御御おん返返へん事事じ書書かききき給給たまへへえりりり。。。心心こころ苦苦ぐるしうしうしゅういぶせくいぶせくいぶせくててて、、、このこのこの二二ふた年年とせををを送送おくつつったりたりたりしししありありありさまさまさま、、、こま〴〵こま〴〵こまごまととと書書かいいいててて、、、
- 9君君きみ故故ゆえにににわれわれわれもももうきうきうき名名なををを流流ながすすすとととももも底底そこのののみくづみくづみくずととと共共ともににになりなりなりなななむむん
- 10知知とも時時ときこれこれこれををを賜賜たまははわつつっててて歸歸かえりりり參參まいつつったりたりたりけれけれければばば、、、守守しゅ護護ごののの武武ぶ士士しどもどもどもまたまたまた、、、「「「いかなるいかなるいかなる御御おん文文ふみにてにてにてかかか候候そうろうらんらんらん、、、見見みまゐらせまゐらせまいらせんんん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、見見みせせせてててけりけりけり。。。苦苦くるしうしうしゅう候候そうろうまじまじまじとてとてとて奉奉たてまつるるる。。。中中ちゅう將將じょうこれこれこれををを見見みたまひたまひたまいててて、、、いとゞいとゞいとど御御おん物物もの思思おもひひいやややまさらまさらまさられれれけんけんけん、、、やゝやゝややあつあつあっててて土土と肥肥ひののの次次じ郎郎ろう實實さね平平ひらををを召召めしししててて宣宣のたまひひいけるけるけるははは、、、「「「さてもさてもさてもこのこのこのほどほどほど、、、各各おのおののののなさけなさけなさけ深深ふこううう芳芳ほう心心しんせせせられられられつるつるつるこそこそこそ、、、ありありありがたうがたうがとう嬉嬉うれしけれしけれしけれ。。。今今いま一一いち度度ど芳芳ほう恩恩おん蒙蒙こうぶりりりたきたきたき事事ことありありあり。。。われわれわれははは一一いち人人にんののの子子こなけれなけれなければばば、、、うきうきうき世世よににに思思おもひひい置置おくくく事事ことなしなしなし。。。年年とし頃頃ごろ契契ちぎりりりたりたりたりししし女女にょう房房ぼうににに、、、今今いま一一いち度度ど對對たい面面めんしてしてして後後ご生生しょうののの事事ことをををもももいひいひいい置置おかかかばやばやばやととと思思おもふふうはははいかにいかにいかに。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、土土と肥肥ひののの次次じ郎郎ろうなさけなさけなさけあるあるある者者ものにてにてにて、、、「「「誠誠まことににに女女にょう房房ぼうなどなどなどののの御御おん事事ことははは、、、何何なにかかか苦苦くるしうしうしゅう候候そうろうべきべきべき。。。とう〳〵とう〳〵とうとう。。。」」」とてとてとて許許ゆるしししたてまつるたてまつるたてまつる。。。中中ちゅう將將じょうなのめなのめなのめならならならずずず喜喜よろこびびび、、、人人ひとににに車車くるま借借かつつっててて遣遣つかははわされされされたりたりたりけれけれければばば、、、女女にょう房房ぼう取取とりりりあへあへあえずずず、、、急急いそぎぎぎ乘乘のつつってててぞぞぞおはしおはしおわしけるけるける。。。緣緣えんににに車車くるまやりやりやり寄寄よせせせ、、、このこのこの由由よしかくかくかくととと申申もうしししたりたりたりけれけれければばば、、、中中ちゅう將將じょう車車くるま寄寄よせまでまでまで出出いででで向向むかひひい、、、「「「武武ぶ士士しどもどもどもののの見見み參參まいらせらせらせ候候そうろうににに、、、下下おりりりさせさせさせ給給たまふふうべからべからべからずずず。。。」」」とてとてとて、、、車車くるまののの簾簾すだれをををうちうちうちかづきかづきかずき手手てににに手手てををを取取とりりり組組くみみみ、、、顏顏かおににに顏顏かおをををおしおしおし當當あてててててて、、、しばししばししばしはははとかうとかうとこうののの事事ことをををももも宣宣のたまははわずずず、、、たゞたゞただ泣泣なくくくよりよりより外外ほかののの事事ことぞぞぞなきなきなき。。。
- 11やゝやゝややあつあつあっててて中中ちゅう將將じょう、、、涙涙なみだをををおさへおさへおさえてててのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「西西さい國國こくへへへ下下くだりりり候候そうらひひいししし時時ときももも、、、今今いま一一いち度度ど御御ご見見げん參參ざんににに入入いりりりたかりたかりたかりしかしかしかどもどもども、、、大大おお方方かたののの世世よのののさわがしささわがしささわがしさ、、、申申もうししし送送おくるるるべきべきべき便便たよりりりもももなくなくなくしてしてして、、、まかりまかりまかり下下くだりりり候候そうらひひいききき。。。そのそのその後後のち御御おん文文ふみをををももも奉奉たてまつりりり、、、御御おん返返へん事事じをををももも見見み參參まいらせらせらせたうたうとう候候そうらひひいつれつれつれどもどもども、、、旅旅たびののの空空そらのののものものものうさうさうさ、、、朝朝あさ夕夕ゆうののの軍軍いくさ立立だちにににひまひまひまなくなくなくしてしてして、、、空空むなしうしうしゅうまかりまかりまかり過過すぎぎぎ候候そうらひひいききき。。。今今こん度度ど一一いちののの谷谷たににてにてにていかにいかにいかにもももなるなるなるべかりべかりべかりししし身身みののの、、、生生いきききながらながらながら捕捕とらははわれれれててて、、、再再ふたたびびび都都みやこへへへまかりまかりまかり上上のぼりりり候候そうろうももも、、、御御ご見見げん參參ざんににに入入いるるるべきべきべきとととののの事事ことにてにてにて候候そうろうぞぞぞややや。。。」」」とてとてとて、、、またまたまた涙涙なみだをををおさへおさへおさえてててぞぞぞ伏伏ふししし給給たまふふう。。。互互たがいののの心心こころののの中中うち、、、推推おししし量量はかららられれれててて哀哀あわれれれなりなりなり。。。かくかくかくててて小小さ夜夜よもももやう〳〵やう〳〵ようよう更更ふけけけゆけゆけゆけばばば、、、守守しゅ護護ごののの武武ぶ士士しどもどもども、、、「「「このこのこの程程ほどははは大大おお路路じののの狼狼ろう藉藉ぜきもももぞぞぞ候候そうろうににに、、、とう〳〵とう〳〵とうとう。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、中中ちゅう將將じょう力力ちから及及およびびび給給たまははわずずず、、、やがてやがてやがて返返かへししし給給たまふふう。。。車車くるまやりやりやり出出いだせせせばばば、、、中中ちゅう將將じょう女女にょう房房ぼうののの袖袖そでをををひかへひかへひかえててて、、、
- 12逢逢あふふうことことことももも露露つゆののの命命いのちももももろもろもろともともともににに今今こ宵宵よいばかりばかりばかりややや限限かぎりりりなるなるなるらむらむらん
- 13女女にょう房房ぼうとりとりとりあへあへあえずずず、、、
- 14限限かぎりりりとてとてとてたちたちたち別別わかるれるれるればばば露露つゆののの身身みののの君君きみよりよりよりさきさきさきににに消消きえええぬぬぬべきべきべきかはかはかは
- 15さてさてさて女女にょう房房ぼうははは内内だい裏裏りへへへ參參まいりりり給給たまひひいぬぬぬ。。。そのそのその後後のちははは守守しゅ護護ごののの武武ぶ士士しどもどもども許許ゆるさささねねねばばば、、、時時とき々々どきたゞたゞただ御御おん文文ふみばかりばかりばかりぞぞぞ通通かよひひいけるけるける。。。このこのこの女女にょう房房ぼうととと申申もうすすすははは民民みん部部ぶ卿卿きょう入入にゅう道道どう親親しん範範ぱんののの女女むすめなりなりなり。。。みめみめみめかたちかたちかたち世世よにににすぐれすぐれすぐれ、、、なさけなさけなさけ深深ふかききき人人ひとなれなれなればばば、、、中中ちゅう將將じょう、、、南南なん都都とへへへ渡渡わたささされれれててて、、、斬斬きららられれれ給給たまひひいぬぬぬととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、やがてやがてやがて樣樣さまをををかへかへかへ、、、濃濃こききき墨墨すみ染染ぞめにににやつれやつれやつれはてはてはてててて、、、かのかのかの後後ご世世せ菩菩ぼ提提だいををを弔弔とぶらひひい給給たまふふうぞぞぞあはれあはれあわれなるなるなる。。。
現代語訳
同月十四日、生け捕りの本三位中将重衡卿が都へ入って、大路を渡された。小八葉の車の前後の簾を上げ、左右の物見窓を開けてある。土肥次郎実平は木蘭地の直垂に小具足だけをつけ、随兵三十余騎を連れて、車の前後を囲んでお守りした。京中の身分の上下の人々はこれを見て、「ああお気の毒に。大勢おられる公達の中で、この方一人がこのようなことになられるとは。入道殿(清盛)にも二位殿にもかわいがられた御子でいらしたので、一門の人々も大事にして、院の御所や内裏へ参られたときにも、老いた人も若い人も席を譲っておもてなし申されたものだ。今またこのようになられるのは、きっと奈良を焼かれた伽藍の罰だ」と言い合った。六条を東へ河原まで渡して、そこから引き返し、故中御門藤中納言家成卿の御堂で八条堀河にある所にお据え申して、厳しくお守りした。
院の御所から御使いがあった。蔵人左衛門権佐定長が八条堀河へ向かった。赤い衣に剣と笏を帯びていた。三位中将は紺村濃の直垂に折烏帽子を立ててかぶっておられる。日ごろは何とも思っておられなかった定長を、今は冥途で罪人たちが冥官に会うような心地がなさった。仰せ下されるには、「屋島へ帰りたければ、一門の方へ言い送って、三種の神器を都へお返し申せ。そうすれば屋島へ帰されるであろう」とのお考えである。三位中将が申されるには、「あれほどのわが国の宝である三種の神器を、重衡一人と引き換えにしようとは、内府(宗盛)以下一門の者たちがまさか申しますまい。女性でございますから、もしかすると母の二品(時子)などは、そう申すかもしれません。けれども、居ながらにして院宣をお返し申すのも恐れ多いことでございますので、すぐに申し送ってみましょう」と申された。
院宣の御使いは御坪の召次花方、三位中将の使いは平三左衛門重国という者である。大臣殿と平大納言(時忠)へは院宣の趣旨を申された。二位殿へはお手紙をこまごまと書いて差し上げられた。私的な手紙は許されなかったので、人々のもとへは言葉で言づけられた。北の方の大納言佐殿へも言葉で申された。「旅の空でも、そなたは私に慰められ、私はそなたに慰められてきたのに、別れてから、どんなに悲しい思いをしておられるだろう。夫婦の契りは朽ちないものと申すから、来世では必ず生まれ合い申そう」と泣く泣く言づけられたので、重国もまことにあわれに思って、涙をおさえて出立した。
ここに三位中将の長年の侍で、木工右馬允知時という者がいた。八条女院にも兼ねて仕えていたが、土肥次郎実平のもとへ行って、「これは長年三位中将殿に召し使われておりました某と申す者でございますが、今日大路でお見かけ申したところ、目も当てられず、あまりにおいたわしく思われます。何の差しさわりがありましょう、知時だけはお許しをいただいて、もう一度おそばに参り、たわいない昔話でもして、お慰め申したいと存じます。弓矢を取る身でもございませんので、合戦のお供をしたこともございません。朝夕ただ御前にお仕えしていただけです。それでもなお心配にお思いなら、腰の刀をお預かりになって、どうかお許しをいただきたい」と申したので、土肥次郎は情けのある者で、「まことにあなた一人なら、何の差しさわりがありましょう。ただし念のため」といって、腰の刀を受け取って中に入れた。
右馬允はたいそう喜び、急いで参って御様子を拝見すると、まことに深く思い沈んでおられると見えて、お姿もひどくしおれ返っておられるのを拝見するにつけ、知時は涙をまったくこらえきれない。中将も夢の中で夢を見る心地がして、何もおっしゃらない。しばらくして昔や今の話などをされた後、「ところで、おまえを介して言い交わしていた人は、まだ内裏にいると聞くが」「そのように承っております」。中将は「わしが西国へ下ったとき、手紙もやらず、言い置くこともしなかったので、末長くと交わした約束はみな偽りになってしまったと思っているだろうと思うと恥ずかしい。手紙をやりたいと思うがどうだろう。訪ねて行ってくれるか」とおっしゃると、知時は「たやすいことでございます」と申した。中将はたいそう喜んで、すぐに手紙を書いてお与えになった。
知時がこれをいただいて退出しようとすると、守護の武士たちが「どんなお手紙でしょうか。拝見しましょう」と申したので、中将が「見せよ」とおっしゃると、見せた。差しさわりはあるまいといって返した。知時はこれを受け取って、急いで内裏へ参り、昼は人目が多いので、そのあたりの近くの小家に立ち寄って日が暮れるのを待ち、たそがれどきにまぎれ入って、その女房の局の下口のあたりにたたずんで聞いていると、この女房の声と思われて、「ああお気の毒に。大勢おられる公達の中で、この方一人がこのようになられるとは。人はみな奈良を焼いた伽藍の罰だと言い合っている。中将もそう言っていた。自分の心から焼いたのではないが、悪党が多かったので、それぞれが火を放って多くの塔や堂を焼き滅ぼした。末の露も本の雫も同じ道理で、結局はわが身一つの罪業になるのだろうと言っていたが、本当にそうだと思われる」といって泣いておられたので、知時は、この方もこのように嘆いておられるのがいとおしいと思い、「申し上げます」と言うと、「何ごと」と答えた。「こちらに本三位中将殿からのお手紙がございます」と申したところ、日ごろは恥ずかしがって姿をお見せにならない人が、「どこに、どこに」といって走り出てきて、自分の手でこの手紙を受け取ってご覧になると、西国で生け捕りにされたありさまや、今日明日をも知れない身の行く末などがこまごまと書かれていて、奥に一首の歌があった。
(涙の川にうき名を流す身であっても、もう一度だけ会う機会があってほしい)
女房はこの手紙を顔に押し当てて、何もおっしゃらず、衣を引きかぶって伏してしまわれた。こうして時がずいぶんたったので、知時が「お返事をいただいて帰りましょう」と申したところ、女房は泣く泣くお返事をお書きになった。心苦しく気のふさぐ思いでこの二年を送ってきたありさまを、こまごまと書いて、
(あなたのために私もうき名を流すことになっても、あなたと一緒に水底の藻屑となりましょう)
知時がこれをいただいて帰ってくると、守護の武士たちがまた「どんなお手紙でしょう。拝見しましょう」と申したので見せた。差しさわりはございますまいといって差し上げた。中将はこれをご覧になって、いっそう物思いがつのられたのであろうか、しばらくして土肥次郎実平を召しておっしゃるには、「さてもこの間、おのおのが情け深くお心遣いくださったことは、ありがたくうれしい。もう一度お情けをいただきたいことがある。私には子が一人もいないので、この世に思い残すことはない。長年契りを交わしていた女房にもう一度会って、後世のことも言い置きたいと思うが、どうだろう」とおっしゃると、土肥次郎は情けのある者で、「まことに女房などのことは、何の差しさわりがありましょう。早く早く」といって許し申した。中将はたいそう喜んで、人から車を借りて迎えにやられたので、女房は取るものも取りあえず、急いで乗っておいでになった。縁先に車を寄せて、このことを申し上げると、中将は車寄せまで出迎えて、「武士たちが見ておりますので、お降りになってはなりません」といって、車の簾を頭からかぶるようにして中に入り、手に手を取り組み、顔に顔を押し当てて、しばらくは何もおっしゃらず、ただ泣くよりほかはなかった。
しばらくして中将が涙をおさえておっしゃるには、「西国へ下ったときも、もう一度お目にかかりたかったのですが、世の中の騒がしさに申し送る手立てもなくて、下って行きました。その後お手紙も差し上げ、お返事も拝見したいと思いましたが、旅の空のつらさ、朝夕の合戦の支度に暇もなくて、むなしく過ごしてしまいました。今度一の谷でどうにでもなるはずだった身が、生きながら捕らわれて、再び都へ上ってきたのも、あなたにお目にかかるためだったのですね」といって、また涙をおさえて伏してしまわれた。互いの心の中が推し量られて哀れである。こうして夜もしだいに更けてきたので、守護の武士たちが「近ごろは大路の狼藉もありますから、早く早く」と申したので、中将はどうしようもなく、すぐにお帰しになった。車を出そうとすると、中将は女房の袖をつかんで、
(会うことも露のような命も、ともに今夜限りなのだろうか)
女房はすぐに、
(これが最後と別れるのなら、露のような私の身が、あなたより先に消えずにいられようか)
さて女房は内裏へ帰られた。その後は守護の武士たちが許さなかったので、ときどきただ手紙だけが通った。この女房というのは、民部卿入道親範の娘である。顔かたちが世にすぐれ、情け深い人であったので、中将が南都へ渡されて斬られなさったと聞こえると、すぐに尼となり、濃い墨染の衣にやつれ果てて、中将の後世の菩提を弔われたのはあわれである。
意訳
一の谷で生け捕られた重衡が都に引き回され、三種の神器と引き換えに屋島へ帰すという院宣を受ける章段である。華やかな公達として知られた重衡が、罪人として冥官に会うような心地で院の使いを迎える姿に、境遇の激変がよく表れている。
後半は、侍知時の取りなしによって、重衡と内裏の女房とが手紙を交わし、一夜の対面を果たす物語である。南都焼き討ちの罪を背負う重衡と、その身を嘆いて出家する女房との別れは、のちの千手前との交わりとともに、重衡の物語に深い哀感を添えている。
語釈・文法注
文法
- 「小八葉の車」
- 小さな八葉の紋をつけた網代車。
- 「伽藍の罰」
- 南都(東大寺・興福寺)を焼き討ちにした罪の報い(巻第五「奈良炎上」)。
- 「冥官に逢へる心ち」
- 冥途で閻魔庁の役人に会う罪人のような気持ち。
- 「二品」
- 従二位の重衡の母、時子。
- 「末の露、もとの雫」
- 草の葉末の露も根元の雫も、遅い早いの違いはあっても消えることに変わりはない。ここでは、誰が手を下しても罪は大将一人に帰すことのたとえ。
- 「たうでける」
- 「たびてける」の音便。お与えになった。
- 「下口」
- 局の下手の出入り口。
和歌
涙川うき名をながす身なりとも今一度のあふせともがな
- 詠者
- 平重衡
- 状況
- 生け捕られて都にあった重衡が、内裏の女房に送った手紙の奥に書いた歌。
修辞
- 涙川
- 涙を川にたとえる。「流す」「瀬」と縁語。
- あふせ
- 「逢ふ瀬」。川の縁語。
君故にわれもうき名を流すとも底のみくづと共になりなむ
- 詠者
- 内裏の女房
- 状況
- 重衡の手紙への返事に書いた歌。
修辞
- 底のみくづ
- 水底の藻屑。重衡の歌の「涙川」を受けて、ともに沈む覚悟を詠む。
逢ふことも露の命ももろともに今宵ばかりや限りなるらむ
- 詠者
- 平重衡
- 状況
- 一夜の対面を終えて女房を帰すとき、車を出そうとする女房の袖をつかんで詠んだ歌。
限りとてたち別るれば露の身の君よりさきに消えぬべきかは
- 詠者
- 内裏の女房
- 状況
- 重衡の歌への返歌。
修辞
- 露の身
- 露のようにはかない身。重衡の「露の命」を受ける。
解説
平重衡は寿永三年(1184)二月七日に一の谷で生け捕られ、同月十四日に都に入った。この女房は、民部卿藤原親範の娘とされ、のちに出家して重衡の菩提を弔ったという。三種の神器と重衡の身柄との交換は、次の「八島院宣」「請文」で、平家方に拒まれる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、711–717頁(コマ384–387)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日