平家物語 巻第十
首わたしの事
一の谷で討たれた平家一門の首が都に入り、公卿たちは前例がないと反対したが、範頼・義経の強い訴えで大路を渡された。大覚寺に隠れ住む維盛の北の方は、三位中将が生け捕られたと聞いて心を痛めるが、それは重衡のことであった。侍の斎藤五・六が首を見に行っても維盛の首はなく、維盛は病で屋島にいると聞く。屋島の維盛は、自分の生存を知らせようと北の方と子どもたちに手紙を送り、子らの「早く迎えに来て」という返事を見て、都へ上って妻子に会ってから死のうと泣く泣く語った。
- 1壽壽じゅ永永えい三三さん年年ねん二二に月月がつ七七なぬ日日かののの日日ひ、、、攝攝つ津津のののの國國くに一一いちののの谷谷たににてにてにて討討うたたたれれれ給給たまひひいししし平平へい氏氏じののの首首くびどもどもども、、、十十じゅう二二に日日にちににに都都みやこへへへ入入いるるる。。。平平へい家家けにににむすぼほれむすぼほれむすぼおれたりたりたりししし人人ひと々々びとははは、、、今今こん度度どわがわがわが方方かたざまざまざまににに、、、いかなるいかなるいかなる憂憂うきききことことことをををかかか聞聞きききき、、、いかなるいかなるいかなる憂憂うききき目目めをををかかか見見みんんんずらんずらんずらんととと歎歎なげきききあひあひあい、、、悲悲かなしみしみしみあはあはあわれれれけりけりけり。。。中中なかにににももも、、、大大だい覺覺かく寺寺じににに隱隱かくれれれゐゐい給給たまへへえるるる、、、小小こ松松まつののの三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう維維これ盛盛もりののの卿卿きょうののの北北きたののの方方かたははは、、、いとゞいとゞいとどおぼつかなうおぼつかなうおぼつかのう思思おもははわれれれけるけるけるににに、、、今今こん度度ど一一いちののの谷谷たににてにてにて、、、一一いち門門もんののの人人ひと々々びと殘殘のこりりりずくなずくなずくなににに討討うちちちなさなさなされれれ、、、今今いまははは三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうととといふいふいう公公く卿卿ぎょう一一いち人人にん、、、生生いけ捕捕どりにににせせせられられられててて上上のぼるるるなりなりなりととと聞聞きききき給給たまひひいててて、、、このこのこの人人ひと離離はなれれれ給給たまははわじじじものものものをををとてとてとて、、、もだえもだえもだえこがれこがれこがれ給給たまひひいけりけりけり。。。あるあるある女女にょう房房ぼうののの大大だい覺覺かく寺寺じににに參參まいつつっててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのとととははは、、、これこれこれののの御御おん事事ことにてにてにてははは候候そうらははわずずず、、、本本ほん三三ざん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのののの御御おん事事ことなりなりなり。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、さてさてさてははは首首くびどもどもどもののの中中なかにににこそこそこそあるあるあるらめらめらめとてとてとて、、、なほなほなお心心こころやすうやすうやすうももも思思おもひひい給給たまははわずずず。。。
- 2同同おなじきじきじき十十じゅう三三さん日日にち、、、大大たい夫夫ふののの判判ほう官官がん仲仲なか賴賴より以以い下下げののの檢檢けん非非び違違い使使しどもどもども、、、六六ろく條條じょう河河かわ原原らににに出出いででで向向むかつつっててて、、、平平へい氏氏じののの首首くびどもどもども受受うけ取取とりりり、、、東東ひがしののの洞洞とう院院いんををを北北きたへへへ渡渡わたいいいててて、、、獄獄ごく門門もんののの木木きにににかけかけかけらるらるらるべきべきべき由由よし、、、範範のり賴賴より、、、義義よし經經つね奏奏そう聞聞もんすすす。。。法法ほう皇皇おうこのこのこの事事こといかゞいかゞいかがあらあらあらんんんずらんずらんずらんととと、、、思思おぼし召召めしししわづらはわづらはわずらわせせせたまひたまひたまいててて、、、太太だい政政じょう大大だい臣臣じん、、、左左さ右右ゆうののの大大だい臣臣じん、、、内内ない大大だい臣臣じん、、、堀堀ほり河河かわののの大大だい納納な言言ごん忠忠ただ親親ちかののの卿卿きょうににに仰仰おおせせせあはせあはせあわせらるらるらる。。。五五ご人人にんののの公公く卿卿ぎょう申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「昔昔むかしよりよりより卿卿けい相相しょうののの位位くらいににに至至いたるるる人人ひとののの首首くび、、、大大おお路路じををを渡渡わたさささるゝるゝるることことこと先先せん例例れいなしなしなし。。。中中なかにににもももこのこのこの輩輩ともがらははは、、、先先せん帝帝ていののの御御おん時時ときよりよりより戚戚せき里里りののの臣臣しんとととしてしてして、、、久久ひさしくしくしく朝朝ちょう家家かににに仕仕つこうううまつるまつるまつる。。。範範のり賴賴より、、、義義よし經經つねががが申申もうししし條條じょう、、、あながちあながちあながちににに御御ご許許きょ容容ようあるあるあるべからべからべからずずず。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、渡渡わたさささるるるまじきまじきまじきににに定定さだめめめられられられたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、範範のり賴賴より、、、義義よし經經つね、、、かさねかさねかさねててて奏奏そう聞聞もんしししけるけるけるははは、、、「「「保保ほう元元げんののの昔昔むかしををを思思おもへへえばばば祖祖そ父父ふ爲爲ため義義よしががが仇仇あた、、、平平へい治治じののの古古いにしえををを按按あんずるずるずるににに父父ちち義義よし朝朝ともががが敵敵かたきなりなりなり。。。さればさればされば君君きみののの御御おん憤憤いきどおりりりををを休休やすめめめ奉奉たてまつりりり、、、父父ちちののの恥恥はじををを淸淸きよめめめんんんががが爲爲ためににに、、、命命いのちををを捨捨すてててててて朝朝ちょう敵敵てきををを亡亡ほろぼすぼすぼす。。。今今こん度度ど平平へい氏氏じののの首首くび大大おお路路じをををわたさわたさわたされれれざらざらざらんんんにににおいおいおいてててははは、、、自自じ今今こん以以い後後ご何何なんののの勇勇いさみみみあつあつあってててかかか兇兇きょう徒徒とををを退退しりぞけけけんんんややや。。。」」」ととと、、、頻頻しきりりりににに訴訴うつたへへえ申申もうささされれれけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おう力力ちから及及およばばばせせせ給給たまははわずずず、、、遂遂ついににに渡渡わたささされれれけりけりけり。。。見見みるるる人人ひと幾幾いく千千せん萬萬まんととといふいふいう數數かずををを知知しらららずずず。。。帝帝てい闕闕けつににに袖袖そでをををつらねつらねつらねししし古古いにしえははは、、、怖怖おぢぢじ恐恐おそるゝるゝるる輩輩ともがら多多おおかりかりかりききき。。。巷巷ちまたににに頭頭こうべををを渡渡わたさささるゝるゝるる今今いまははは、、、またまたまた憐憐あわれみみみ悲悲かなしましましまずずずととといふいふいう事事ことなしなしなし。。。
- 3中中なかにににももも大大だい覺覺かく寺寺じににに隱隱かくれれれゐゐい給給たまへへえるるる、、、小小こ松松まつののの三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう維維これ盛盛もりののの卿卿きょうののの若若わか君君ぎみ、、、六六ろく代代だい御御ご前前ぜんにににつきつきつき奉奉たてまつつつったりたりたりけるけるける齋齋さい藤藤とう五五ご、、、齋齋さい藤藤とう六六ろく、、、餘餘あまりりりのののおぼつかなさおぼつかなさおぼつかなさににに、、、樣樣さまをををやつしやつしやつしててて見見みけれけれければばば、、、御御おん首首くびどもどもどもははは、、、みなみなみな見見み知知しりりり奉奉たてまつりりりたれたれたれどもどもども、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのののの御御おん首首くびははは見見みえええ給給たまははわずずず。。。されどもされどもされども餘餘あまりりりののの悲悲かなしさしさしさににに、、、包包つつむむむにににたへたへたえぬぬぬ涙涙なみだのみのみのみしげかりしげかりしげかりけれけれければばば、、、よそよそよそののの人人ひと目目めももも恐恐おそろしくろしくろしくててて、、、急急いそぎぎぎ大大だい覺覺かく寺寺じへへへぞぞぞ歸歸かえりりり參參まいりりりけるけるける。。。北北きたののの方方かた、、、「「「さてさてさていかにいかにいかにやややいかにいかにいかに。。。」」」ととと問問とひひい給給たまへへえばばば、、、「「「人人ひと々々びとののの御御おん首首くびどもどもどもははは、、、皆皆みな見見み知知しりりり奉奉たてまつつつったれたれたれどもどもども、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのののの御御おん首首くびははは見見みえええさせさせさせ給給たまひひい候候そうらははわずずず。。。御御ご兄兄きょう弟弟だいののの御御おん中中なかにににははは、、、備備びっ中中ちゅうののの守守かみ殿殿どのののの御御おん首首くびばかりばかりばかりこそこそこそ見見みえええさせさせさせ給給たまひひい候候そうらひひいつれつれつれ。。。そのそのその外外ほかははは、、、そんぢやうそんぢやうそんじょうそのそのその首首くびそのそのその御御おん首首くび。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、北北きたののの方方かた、、、「「「それそれそれももも人人ひとののの上上うえとととははは覺覺おぼえええずずず。。。」」」とてとてとて、、、引引ひきききかづいかづいかずいてててぞぞぞ臥臥ふししし給給たまふふう。。。
- 4やゝやゝややあつあつあっててて齋齋さい藤藤とう五五ご、、、涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「このこのこの一一いち兩兩りょう年年ねんははは隱隱かくれれれゐゐい候候そうらひひいててて、、、人人ひとにににもももいたういたういとう見見み知知しららられれれ候候そうらははわねねねばばば、、、今今いましばらくしばらくしばらく候候そうらひひいててて、、、見見み參參まいらせらせらせたくたくたく存存ぞんじじじ候候そうらひひいつれつれつれどもどもども、、、世世よににに案案あん内内ない委委くわしくしくしく知知しつつったるたるたる者者ものののの申申もうししし候候そうらひひいしししははは、、、『『『今今こん度度どののの合合かっ戰戰せんににに、、、小小こ松松まつ殿殿どのののの公公きん達達だちたちたちたちはははあはせあはせあわせ給給たまははわずずず。。。そのそのその故故ゆえははは播播はり磨磨まととと丹丹たん波波ばとととののの境境さかいなるなるなる、、、三三み草草くさののの手手てををを固固かためめめさせさせさせ給給たまひひい候候そうらひひいけるけるけるががが、、、九九く郎郎ろう義義よし經經つねににに破破やぶららられれれててて、、、新新しん三三ざん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どの、、、同同おなじきじきじき少少しょう將將しょう殿殿どの、、、丹丹たん波波ばののの侍侍じ從從じゅう殿殿どのははは、、、播播はり磨磨まののの高高たか砂砂さごよりよりより御御おん船船ふねににに召召めしししててて、、、讚讚さぬ岐岐きののの八八や島島しまへへへ渡渡わたらららせせせ給給たまひひい候候そうらひひいぬぬぬ。。。何何なにとととしてしてしてかかかははは離離はなれれれさせさせさせ給給たまひひいててて候候そうらひひいけるけるけるやらんやらんやらん、、、そのそのその中中なかににに備備びっ中中ちゅうののの守守かみ殿殿どのばかりばかりばかりこそこそこそ、、、今今こん度度ど一一いちののの谷谷たににてにてにて討討うたたたれれれさせさせさせ給給たまひひいててて候候そうらへへえ。。。』』』ととと語語かたりりり申申もうししし候候そうらひひいししし程程ほどににに、、、さてさてさて三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのののの御御おん事事ことはははいかにいかにいかにととと問問とひひい候候そうらひひいつれつれつればばば、、、『『『それそれそれははは軍軍いくさ以以い前前ぜんよりよりより大大だい事事じののの御御おんいたはりいたはりいたわりとてとてとて、、、讚讚さぬ岐岐きののの八八や島島しまへへへ渡渡わたらららせせせ給給たまひひいててて、、、此此こののの度度たびははは向向むかははわせせせ給給たまははわずずず。。。』』』ととと申申もうすすす者者ものにににこそこそこそ逢逢おうううててて候候そうらひひいつれつれつれ。。。」」」ととと、、、こま〴〵こま〴〵こまごまととと語語かたりりり申申もうしししたりたりたりけれけれければばば、、、北北きたののの方方かた、、、「「「それそれそれもももわれわれわれらららががが事事ことををを心心こころ苦苦ぐるしうしうしゅう思思おもひひいたまひたまひたまいててて、、、朝朝あさ夕夕ゆう歎歎なげかかかせせせ給給たまふふうががが病病やまいとととなつなつなったるたるたるにににこそこそこそ。。。風風かぜののの吹吹ふくくく日日ひははは、、、今日今日きょうもももややや船船ふねににに乘乘のりりり給給たまふふうらんらんらんととと肝肝きもををを消消けししし、、、軍軍いくさととといふいふいう時時ときははは、、、たゞたゞただ今今いまもももややや討討うたたたれれれ給給たまひひいぬぬぬらんらんらんととと心心こころをををつくすつくすつくす。。。ましてましてましてさやうさやうさようののの御御おんいたはりいたはりいたわりなんどなんどなんどをををばばば、、、誰誰たれかかか心心こころやすうやすうやすうあつかひあつかひあつかい奉奉たてまつるるるべきべきべき。。。それそれそれををを委委くわしうしうしゅう聞聞きかかかばやばやばや。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、若若わか君君ぎみ、、、姫姫ひめ君君ぎみももも、、、「「「などなどなど何何なにののの御御おんいたはりいたはりいたわりとととははは問問とはははざりざりざりけるけるけるぞぞぞ。。。」」」ととと宣宣のたまひひいけるけるけるこそこそこそ哀哀あわれれれなれなれなれ。。。
- 5三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょうももも通通かよふふう心心こころなれなれなればばば、、、さてもさてもさても都都みやこにににはははいかにいかにいかに心心こころもとなうもとなうもとのう思思おもふふうらんらんらん。。。たとひたとひたとい首首くびどもどもどもののの中中なかにににこそこそこそなくなくなくとととももも、、、矢矢やににに當當あたつつってててももも死死しににに、、、水水みずににに溺溺おぼれれれててて失失うせせせぬぬぬらんらんらん。。。今今いままでまでまでこのこのこの世世よにににあるあるあるものものものとととははは、、、よもよもよも思思おもひひい給給たまははわじじじ。。。露露つゆののの命命いのちののの消消きえええやらやらやらででで、、、未未いまだだだうきうきうき世世よにににながらへながらへながらへたるたるたるををを知知しらせらせらせ奉奉たてまつらららんんんとてとてとて、、、使使つかいををを一一いち人人にんしししたてたてたてててて上上のぼせせせられられられけるけるけるががが、、、三三みつつつつののの文文ふみをををぞぞぞ書書かかかかれれれけるけるける。。。まづまづまず北北きたののの方方かたへへへののの御御おん文文ふみにににははは、、、「「「都都みやこにににははは敵敵かたき充充みちちち滿滿みちちちててて、、、御御おん身身み一一ひとつつつののの置置おききき所所どころだにだにだにあらあらあらじじじににに、、、幼幼おさなききき者者ものどもどもども引引ひき具具ぐしししててて、、、いかにいかにいかに悲悲かなしうしうしゅうおはすおはすおわすらんらんらん。。。これこれこれへへへ迎迎むかへへえ參參まいらせらせらせててて、、、一一ひとつつつ所所ところにてにてにていかにいかにいかにもももならならならばやばやばやとととははは思思おもへへえどもどもども、、、わがわがわが身身みこそこそこそあらあらあらめめめ、、、御御おんためためためいたはしくいたはしくいたわしくててて。。。」」」なんどなんどなんど、、、こま〴〵こま〴〵こまごまととと書書かいいいててて、、、奧奧おくにににははは一一いっ首首しゅののの歌歌うたぞぞぞありありありけるけるける。。。
- 6いづくいづくいずくとととももも知知しらららぬぬぬあふせあふせおうせののの藻藻も鹽鹽しお草草ぐさかきかきかき置置おくくくあとあとあとをををかたみかたみかたみとととももも見見みよよよ
- 7さてさてさてをさなきをさなきおさなき人人ひと々々びとののの御御おんもともともとへへへははは、、、「「「つれ〴〵つれ〴〵つれづれをををばばば何何なにとととしてしてしてかかかははは慰慰なぐさむむむらんらんらん。。。やがてやがてやがてこれこれこれへへへ迎迎むかへへえ取取とらららうずるうずるうずるぞぞぞ。。。」」」ととと、、、ことばことばことばももも變變かわらららずずず書書かいいいててて上上のぼせせせらるらるらる。。。使使つかい都都みやこへへへ上上のぼりりり、、、北北きたののの方方かたににに御御おん文文ふみ取取とり出出いだいいいててて奉奉たてまつるるる。。。これこれこれをををあけあけあけててて見見み給給たまひひいててて、、、いとゞいとゞいとど思思おもひひいやややまさらまさらまさられれれけんけんけん、、、引引ひき被被かずいいいてててぞぞぞ臥臥ふししし給給たまふふう。。。
- 8かくかくかくててて四四し五五ご日日にちももも過過すぎぎぎしかしかしかばばば、、、使使つかい、、、「「「御御おん返返へん事事じ賜賜たまははわつつっててて歸歸かえりりり參參まいりりり候候そうらははわんんん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、北北きたののの方方かた泣泣なく〳〵く〳〵くなく御御おん返返へん事事じ書書かききき給給たまふふう。。。若若わか君君ぎみ、、、姫姫ひめ君君ぎみももも面面めん々々めんににに筆筆ふでををを染染そめめめててて、、、「「「さてさてさて父父ちち御御ご前前ぜんへへへののの御御おん返返へん事事じをををばばば何何なにととと書書かききき申申もうすすすべきべきべきやらんやらんやらん。。。」」」ととと問問とひひい給給たまへへえばばば、、、北北きたののの方方かた、、、「「「たゞたゞただともかうもともかうもともこうも、、、わごぜわごぜわごぜたちたちたちががが思思おもははわんんんずるずるずるやうやうようををを申申もうすすすべしべしべし。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。「「「などなどなどややや今今いままでまでまでははは迎迎むかへへえさせさせさせ給給たまひひい候候そうらははわぬぬぬぞぞぞ。。。あまりあまりあまりににに御御おんこひしうこひしうこいしゅう思思おもひひい參參まいらせらせらせ候候そうろうににに、、、とくとくとく迎迎むかへへえさせさせさせ給給たまへへえ。。。」」」ととと、、、同同おなじじじことばことばことばにににぞぞぞ書書かかかかれれれたるたるたる。。。使使つかい御御おん文文ふみ賜賜たまははわつつっててて、、、八八や島島しまへへへ歸歸かえりりり參參まいつつっててて、、、三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう殿殿どのににに御御おん返返へん事事じ取取とり出出いだいいいててて奉奉たてまつるるる。。。まづまづまずをさなきをさなきおさなき人人ひと々々びとののの御御おん返返へん事事じををを見見み給給たまひひいててて、、、いとゞいとゞいとどせんせんせん方方かたなげなげなげにににぞぞぞ見見みえええられられられけるけるける。。。「「「そも〳〵そも〳〵そもそもこれこれこれよりよりより穢穢え土土どををを厭厭いとふふうににに勇勇いさみみみなしなしなし。。。閻閻えん浮浮ぶ愛愛あい執執しゅうののの綱綱つな強強つよけれけれければばば、、、淨淨じょう土土どををを願願ねがははわんんんももも物物もの憂憂うししし。。。たゞたゞただこれこれこれよりよりより山山やまづたひづたひづたいににに都都みやこへへへ上上のぼりりり、、、こひしきこひしきこいしき者者ものどもどもどもをををももも今今いま一一いち度度ど見見みもももししし、、、見見みえええててて後後のち、、、自自じ害害がいをををせせせんんんにににははは如如しかかかじじじ。。。」」」とととぞぞぞ、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく語語かたりりり給給たまひひいけるけるける。。。
現代語訳
寿永三年二月七日、摂津国一の谷で討たれなさった平氏の首が、十二日に都に入った。平家と縁を結んでいた人々は、今度は自分たちの身の上にどんなつらいことを聞き、どんなつらい目を見るだろうかと嘆き合い、悲しみ合われた。なかでも、大覚寺に隠れ住んでおられた小松の三位中将維盛卿の北の方は、たいそう気がかりに思っておられたところ、今度一の谷で一門の人々はわずかしか残らないほど討たれ、今は三位中将という公卿が一人、生け捕りにされて都へ上ってくると聞かれて、この人に違いないといって身もだえして嘆かれた。ある女房が大覚寺に参って申すには、「三位中将殿というのは、こちらの殿のことではございません。本三位中将殿(重衡)のことです」と申したので、それでは首の中にあるのだろうといって、なお安心はなさらなかった。
同月十三日、大夫判官仲頼以下の検非違使たちが六条河原に出向いて、平氏の首を受け取り、東洞院を北へ渡して獄門の木に掛けるべきだと、範頼・義経が奏上した。法皇はどうしたものかと思い悩まれて、太政大臣・左右の大臣・内大臣・堀河大納言忠親卿にご相談になった。五人の公卿が申されるには、「昔から卿相の位に至った人の首が大路を渡された先例はない。なかでもこの者たちは、先帝の御代から外戚の臣として長く朝廷に仕えてきた。範頼・義経の申し出を、むやみにお許しになってはならない」と申されたので、渡さないことに決められたが、範頼・義経が重ねて奏上するには、「保元の昔を思えば祖父為義の仇、平治の昔を考えれば父義朝の敵である。だから君のお憤りを鎮め申し、父の恥をすすぐために、命を捨てて朝敵を滅ぼしたのだ。今度平氏の首を大路に渡されないのなら、今後何の励みがあって凶徒を退けられましょうか」としきりに訴え申されたので、法皇もどうしようもなく、ついに渡された。見物する人は幾千万とも数知れない。宮中で袖を連ねていた昔は恐れはばかる者が多かった。巷に首を渡される今は、また憐れみ悲しまない者はなかった。
なかでも大覚寺に隠れ住んでおられた小松の三位中将維盛卿の若君、六代御前に仕えていた斎藤五・斎藤六は、あまりの気がかりさに身なりを変えて見に行くと、首はみな見知り申していたが、三位中将殿の首は見えない。けれどもあまりの悲しさに、こらえきれない涙ばかりこぼれたので、よその人目も恐ろしくて、急いで大覚寺へ帰り参った。北の方が「それでどうだった、どうだった」とお尋ねになると、「人々の首はみな見知り申しましたが、三位中将殿の首はお見えになりませんでした。ご兄弟の中では、備中守殿(師盛)の首だけがお見えになりました。そのほかはこれこれの方の首、これこれの方の首でした」と申したので、北の方は「それも他人のこととは思えない」といって、衣を引きかぶって伏してしまわれた。
しばらくして斎藤五が涙をおさえて申すには、「この一、二年は隠れておりましたので、人にもあまり顔を知られておりませんから、もうしばらくそこにいて見ておりたいと思いましたが、事情をよく知っている者が申しましたのは、『今度の合戦に小松殿の公達は加わっておられない。そのわけは、播磨と丹波の境の三草の陣を固めておられたが、九郎義経に破られて、新三位中将殿(資盛)、同じく少将殿(有盛)、丹波侍従殿(忠房)は播磨の高砂から御船に乗って讃岐の屋島へお渡りになった。どうして離れておられたのか、その中で備中守殿だけが今度一の谷で討たれなさったのです』と語りましたので、それでは三位中将殿のことはどうかと尋ねましたら、『その方は合戦の前から重いご病気だといって、讃岐の屋島へお渡りになって、今度は出陣されませんでした』と申す者に会いました」と、こまごまと語り申したので、北の方は「それも私たちのことを心苦しく思われて、朝夕お嘆きになるのが病となったのでしょう。風の吹く日は、今日も船に乗っておられるかと肝を冷やし、合戦というときは、今にも討たれなさったかと心を尽くす。ましてそのようなご病気などを、誰が心をこめてお世話申すでしょう。それを詳しく聞きたいものだ」とおっしゃると、若君・姫君も「どうして何のご病気かとは聞かなかったの」とおっしゃったのは哀れであった。
三位中将も同じ思いであったので、さても都ではどんなに気がかりに思っているだろう。たとえ首の中になくても、矢に当たって死んだか、水に溺れて死んだかと思っているだろう。今までこの世に生きているとは、まさか思ってはいないだろう。露のような命が消えずに、まだこのつらい世に生きながらえていることを知らせ申そうといって、使いを一人仕立てて上らせられたが、三通の手紙を書かれた。まず北の方への手紙には、「都には敵が満ちあふれて、身一つの置き所さえないだろうに、幼い者たちを連れて、どんなに悲しい思いをしておられるだろう。こちらへお迎えして、一つ所でどうにでもなりたいとは思うけれども、自分はともかく、あなたのためにはいたわしくて」などとこまごまと書いて、奥に一首の歌があった。
(いつどこで会えるとも知れないが、藻塩草をかき集めるように書き置くこの手紙を、私の形見と思って見てください)
また幼い人々のもとへは、「さびしさをどうやって慰めているだろう。すぐにこちらへ迎え取るからね」と、同じ言葉で書いて上らせられた。使いが都へ上り、北の方に手紙を取り出して差し上げた。これを開けてご覧になって、いっそう思いがつのられたのであろうか、衣を引きかぶって伏してしまわれた。
こうして四、五日が過ぎたので、使いが「お返事をいただいて帰りましょう」と申したので、北の方は泣く泣くお返事をお書きになる。若君・姫君もそれぞれ筆を染めて、「さて父上へのお返事は何と書いたらよいでしょう」とお尋ねになると、北の方は「ただどうなりとも、あなたたちが思うとおりに書きなさい」とおっしゃった。二人とも「どうして今まで迎えに来てくださらないのですか。あまりに恋しく思っておりますので、早く迎えに来てください」と、同じ言葉で書かれた。使いは手紙をいただいて屋島へ帰り、三位中将殿にお返事を取り出して差し上げた。まず幼い人々のお返事をご覧になって、いっそうどうしようもないご様子に見えた。「そもそもこれでは、穢土を厭う心にも励みがない。この世への愛執の綱が強いので、浄土を願うのもつらい。ただここから山伝いに都へ上り、恋しい者たちにももう一度会い、顔を見せてから自害するに越したことはない」と、泣く泣く語られた。
意訳
巻第十の冒頭の章段である。一の谷で討たれた平家一門の首が都大路を渡され、かつて宮中で人々に恐れられた人々の首を、今は人々が憐れんで見る。範頼・義経の言葉には、保元・平治以来の源氏の怨みが込められている。
後半は、屋島にいる維盛と、都の大覚寺に隠れ住む妻子との手紙のやりとりである。「とく迎へさせ給へ」という幼い子らの言葉は、維盛の心を都へと強く引き戻し、のちの高野・熊野への旅と入水へとつながっていく。
語釈・文法注
文法
- 「この人離れ給はじものを」
- この人に違いない。「三位中将」は維盛にも重衡にも当たるので、維盛のことと思った。
- 「戚里の臣」
- 天子の外戚の家臣。
- 「そんぢやうその首」
- 「そんぢやう」は「それぞれ・これこれ」の意。誰それの首、誰それの首。
- 「あふせの藻鹽草」
- 「あふせ」は逢う機会。「藻塩草」は塩を取る海藻で、手紙(書く)の縁語。
- 「わごぜたち」
- 「わ御前たち」。おまえたち。親しい相手への呼びかけ。
- 「閻浮愛執の綱」
- この世(閻浮提)への執着を綱にたとえたもの。
和歌
いづくとも知らぬあふせの藻鹽草かき置くあとをかたみとも見よ
- 詠者
- 平維盛
- 状況
- 屋島から都の北の方に送った手紙の奥に書き添えた歌。
修辞
- 藻鹽草
- 「かき(掻き・書き)」を導く。
- かき置くあと
- 書き置いた筆跡(手紙)。
解説
寿永三年(1184)二月、一の谷で討たれた平家一門の首は、公卿たちの反対を押し切って都大路を渡され、獄門に掛けられた。『玉葉』には、九条兼実が首を渡すことに強く反対したことが記されている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、707–711頁(コマ382–384)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日