古典ライブラリー

平家物語 巻第十

首わたしの事

一の谷で討たれた平家一門の首が都に入り、公卿たちは前例がないと反対したが、範頼・義経の強い訴えで大路を渡された。大覚寺に隠れ住む維盛の北の方は、三位中将が生け捕られたと聞いて心を痛めるが、それは重衡のことであった。侍の斎藤五・六が首を見に行っても維盛の首はなく、維盛は病で屋島にいると聞く。屋島の維盛は、自分の生存を知らせようと北の方と子どもたちに手紙を送り、子らの「早く迎えに来て」という返事を見て、都へ上って妻子に会ってから死のうと泣く泣く語った。

  1. 1壽じゆ壽じゆじゅ永えい永えいえい三さん三さんさん年ねん年ねんねん二に二にに月ぐわつ月ぐわつがつ七なぬ七なぬなぬ日か日かかののの日ひ日ひひ、、、攝つ攝つつ津の津ののののの國くに國くにくに一いち一いちいちののの谷たに谷たにたににてにてにて討う討ううたたたれれれ給たま給たまたまひひいししし平へい平へいへい氏じ氏じじののの首くび首くびくびどもどもども、、、十じふ十じふじゅう二に二にに日にち日にちにちににに都みやこ都みやこみやこへへへ入い入いいるるる。。。平へい平へいへい家け家けけにににむすぼほれむすぼほれむすぼおれたりたりたりししし人ひと人ひとひと々びと々びとびとははは、、、今こん今こんこん度ど度どどわがわがわが方かた方かたかたざまざまざまににに、、、いかなるいかなるいかなる憂う憂ううきききことことことをををかかか聞き聞ききききき、、、いかなるいかなるいかなる憂う憂ううききき目め目めめをををかかか見み見みみんんんずらんずらんずらんととと歎なげ歎なげなげきききあひあひあい、、、悲かな悲かなかなしみしみしみあはあはあわれれれけりけりけり。。。中なか中なかなかにににももも、、、大だい大だいだい覺かく覺かくかく寺じ寺じじににに隱かく隱かくかくれれれゐゐい給たま給たまたまへへえるるる、、、小こ小ここ松まつ松まつまつののの三さん三さんさん位み位みみののの中ちう中ちうちゅう將じやう將じやうじょう維これ維これこれ盛もり盛もりもりののの卿きやう卿きやうきょうののの北きた北きたきたののの方かた方かたかたははは、、、いとゞいとゞいとどおぼつかなうおぼつかなうおぼつかのう思おも思おもおもははわれれれけるけるけるににに、、、今こん今こんこん度ど度どど一いち一いちいちののの谷たに谷たにたににてにてにて、、、一いち一いちいち門もん門もんもんののの人ひと人ひとひと々びと々びとびと殘のこ殘のこのこりりりずくなずくなずくなににに討う討ううちちちなさなさなされれれ、、、今いま今いまいまははは三さん三さんさん位み位みみののの中ちう中ちうちゅう將じやう將じやうじょうととといふいふいう公く公くく卿ぎやう卿ぎやうぎょう一いち一いちいち人にん人にんにん、、、生いけ生いけいけ捕どり捕どりどりにににせせせられられられててて上のぼ上のぼのぼるるるなりなりなりととと聞き聞ききききき給たま給たまたまひひいててて、、、このこのこの人ひと人ひとひと離はな離はなはなれれれ給たま給たまたまははわじじじものものものをををとてとてとて、、、もだえもだえもだえこがれこがれこがれ給たま給たまたまひひいけりけりけり。。。あるあるある女によう女にようにょう房ばう房ばうぼうののの大だい大だいだい覺かく覺かくかく寺じ寺じじににに參まゐ參まゐまいつつっててて申まう申まうもうしししけるけるけるははは、、、「「「三さん三さんさん位み位みみののの中ちう中ちうちゅう將じやう將じやうじょう殿どの殿どのどのとととははは、、、これこれこれののの御おん御おんおん事こと事ことことにてにてにてははは候さふら候さふらそうらははわずずず、、、本ほん本ほんほん三ざん三ざんざん位み位みみののの中ちう中ちうちゅう將じやう將じやうじょう殿どの殿どのどのののの御おん御おんおん事こと事ことことなりなりなり。。。」」」ととと申まう申まうもうしししけれけれければばば、、、さてさてさてははは首くび首くびくびどもどもどもののの中なか中なかなかにににこそこそこそあるあるあるらめらめらめとてとてとて、、、なほなほなお心こゝろ心こゝろこころやすうやすうやすうももも思おも思おもおもひひい給たま給たまたまははわずずず。。。
  2. 2同おな同おなおなじきじきじき十じふ十じふじゅう三さん三さんさん日にち日にちにち、、、大たい大たいたい夫ふ夫ふふののの判はう判はうほう官ぐわん官ぐわんがん仲なか仲なかなか賴より賴よりより以い以いい下げ下げげののの檢けん檢けんけん非び非びび違ゐ違ゐい使し使ししどもどもども、、、六ろく六ろくろく條でう條でうじょう河かは河かはかわ原ら原ららににに出い出いいででで向むか向むかむかつつっててて、、、平へい平へいへい氏じ氏じじののの首くび首くびくびどもどもども受うけ受うけうけ取と取ととりりり、、、東ひがし東ひがしひがしののの洞たう洞たうとう院ゐん院ゐんいんををを北きた北きたきたへへへ渡わた渡わたわたいいいててて、、、獄ごく獄ごくごく門もん門もんもんののの木き木ききにににかけかけかけらるらるらるべきべきべき由よし由よしよし、、、範のり範のりのり賴より賴よりより、、、義よし義よしよし經つね經つねつね奏そう奏そうそう聞もん聞もんもんすすす。。。法ほふ法ほふほう皇わう皇わうおうこのこのこの事こと事ことこといかゞいかゞいかがあらあらあらんんんずらんずらんずらんととと、、、思おぼし思おぼしおぼし召め召めめしししわづらはわづらはわずらわせせせたまひたまひたまいててて、、、太だい太だいだい政じやう政じやうじょう大だい大だいだい臣じん臣じんじん、、、左さ左ささ右いう右いうゆうののの大だい大だいだい臣じん臣じんじん、、、内ない内ないない大だい大だいだい臣じん臣じんじん、、、堀ほり堀ほりほり河かは河かはかわののの大だい大だいだい納な納なな言ごん言ごんごん忠たゞ忠たゞただ親ちか親ちかちかののの卿きやう卿きやうきょうににに仰おほ仰おほおおせせせあはせあはせあわせらるらるらる。。。五ご五ごご人にん人にんにんののの公く公くく卿ぎやう卿ぎやうぎょう申まう申まうもうささされれれけるけるけるははは、、、「「「昔むかし昔むかしむかしよりよりより卿けい卿けいけい相しやう相しやうしょうののの位くらゐ位くらゐくらいににに至いた至いたいたるるる人ひと人ひとひとののの首くび首くびくび、、、大おほ大おほおお路ぢ路ぢじををを渡わた渡わたわたさささるゝるゝるることことこと先せん先せんせん例れい例れいれいなしなしなし。。。中なか中なかなかにににもももこのこのこの輩ともがら輩ともがらともがらははは、、、先せん先せんせん帝てい帝ていていののの御おん御おんおん時とき時ときときよりよりより戚せき戚せきせき里り里りりののの臣しん臣しんしんとととしてしてして、、、久ひさ久ひさひさしくしくしく朝てう朝てうちょう家か家かかににに仕つか仕つかつこうううまつるまつるまつる。。。範のり範のりのり賴より賴よりより、、、義よし義よしよし經つね經つねつねががが申まう申まうもうししし條でう條でうじょう、、、あながちあながちあながちににに御ご御ごご許きよ許きよきょ容よう容ようようあるあるあるべからべからべからずずず。。。」」」ととと申まう申まうもうささされれれけれけれければばば、、、渡わた渡わたわたさささるるるまじきまじきまじきににに定さだ定さださだめめめられられられたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、範のり範のりのり賴より賴よりより、、、義よし義よしよし經つね經つねつね、、、かさねかさねかさねててて奏そう奏そうそう聞もん聞もんもんしししけるけるけるははは、、、「「「保ほう保ほうほう元げん元げんげんののの昔むかし昔むかしむかしををを思おも思おもおもへへえばばば祖そ祖そそ父ふ父ふふ爲ため爲ためため義よし義よしよしががが仇あた仇あたあた、、、平へい平へいへい治ぢ治ぢじののの古いにしへ古いにしへいにしえををを按あん按あんあんずるずるずるににに父ちゝ父ちゝちち義よし義よしよし朝とも朝ともともががが敵かたき敵かたきかたきなりなりなり。。。さればさればされば君きみ君きみきみののの御おん御おんおん憤いきどほ憤いきどほいきどおりりりををを休やす休やすやすめめめ奉たてまつ奉たてまつたてまつりりり、、、父ちゝ父ちゝちちののの恥はぢ恥はぢはじををを淸きよ淸きよきよめめめんんんががが爲ため爲ためためににに、、、命いのち命いのちいのちををを捨す捨すすてててててて朝てう朝てうちょう敵てき敵てきてきををを亡ほろ亡ほろほろぼすぼすぼす。。。今こん今こんこん度ど度どど平へい平へいへい氏じ氏じじののの首くび首くびくび大おほ大おほおお路ぢ路ぢじをををわたさわたさわたされれれざらざらざらんんんにににおいおいおいてててははは、、、自じ自じじ今こん今こんこん以い以いい後ご後ごご何なん何なんなんののの勇いさ勇いさいさみみみあつあつあってててかかか兇きよう兇きようきょう徒と徒ととををを退しりぞ退しりぞしりぞけけけんんんややや。。。」」」ととと、、、頻しき頻しきしきりりりににに訴うつた訴うつたうつたへへえ申まう申まうもうささされれれけれけれければばば、、、法ほふ法ほふほう皇わう皇わうおう力ちから力ちからちから及およ及およおよばばばせせせ給たま給たまたまははわずずず、、、遂つひ遂つひついににに渡わた渡わたわたささされれれけりけりけり。。。見み見みみるるる人ひと人ひとひと幾いく幾いくいく千せん千せんせん萬まん萬まんまんととといふいふいう數かず數かずかずををを知し知ししらららずずず。。。帝てい帝ていてい闕けつ闕けつけつににに袖そで袖そでそでをををつらねつらねつらねししし古いにしへ古いにしへいにしえははは、、、怖お怖おおぢぢじ恐おそ恐おそおそるゝるゝるる輩ともがら輩ともがらともがら多おほ多おほおおかりかりかりききき。。。巷ちまた巷ちまたちまたににに頭かうべ頭かうべこうべををを渡わた渡わたわたさささるゝるゝるる今いま今いまいまははは、、、またまたまた憐あはれ憐あはれあわれみみみ悲かな悲かなかなしましましまずずずととといふいふいう事こと事ことことなしなしなし。。。
  3. 3中なか中なかなかにににももも大だい大だいだい覺かく覺かくかく寺じ寺じじににに隱かく隱かくかくれれれゐゐい給たま給たまたまへへえるるる、、、小こ小ここ松まつ松まつまつののの三さん三さんさん位み位みみののの中ちう中ちうちゅう將じやう將じやうじょう維これ維これこれ盛もり盛もりもりののの卿きやう卿きやうきょうののの若わか若わかわか君ぎみ君ぎみぎみ、、、六ろく六ろくろく代だい代だいだい御ご御ごご前ぜん前ぜんぜんにににつきつきつき奉たてまつ奉たてまつたてまつつつったりたりたりけるけるける齋さい齋さいさい藤とう藤とうとう五ご五ごご、、、齋さい齋さいさい藤とう藤とうとう六ろく六ろくろく、、、餘あま餘あまあまりりりのののおぼつかなさおぼつかなさおぼつかなさににに、、、樣さま樣さまさまをををやつしやつしやつしててて見み見みみけれけれければばば、、、御おん御おんおん首くび首くびくびどもどもどもははは、、、みなみなみな見み見みみ知し知ししりりり奉たてまつ奉たてまつたてまつりりりたれたれたれどもどもども、、、三さん三さんさん位み位みみののの中ちう中ちうちゅう將じやう將じやうじょう殿どの殿どのどのののの御おん御おんおん首くび首くびくびははは見み見みみえええ給たま給たまたまははわずずず。。。されどもされどもされども餘あま餘あまあまりりりののの悲かな悲かなかなしさしさしさににに、、、包つゝ包つゝつつむむむにににたへたへたえぬぬぬ涙なみだ涙なみだなみだのみのみのみしげかりしげかりしげかりけれけれければばば、、、よそよそよそののの人ひと人ひとひと目め目めめももも恐おそ恐おそおそろしくろしくろしくててて、、、急いそ急いそいそぎぎぎ大だい大だいだい覺かく覺かくかく寺じ寺じじへへへぞぞぞ歸かへ歸かへかえりりり參まゐ參まゐまいりりりけるけるける。。。北きた北きたきたののの方かた方かたかた、、、「「「さてさてさていかにいかにいかにやややいかにいかにいかに。。。」」」ととと問と問ととひひい給たま給たまたまへへえばばば、、、「「「人ひと人ひとひと々びと々びとびとののの御おん御おんおん首くび首くびくびどもどもどもははは、、、皆みな皆みなみな見み見みみ知し知ししりりり奉たてまつ奉たてまつたてまつつつったれたれたれどもどもども、、、三さん三さんさん位み位みみののの中ちう中ちうちゅう將じやう將じやうじょう殿どの殿どのどのののの御おん御おんおん首くび首くびくびははは見み見みみえええさせさせさせ給たま給たまたまひひい候さふら候さふらそうらははわずずず。。。御ご御ごご兄きやう兄きやうきょう弟だい弟だいだいののの御おん御おんおん中なか中なかなかにににははは、、、備びつ備びつびっ中ちう中ちうちゅうののの守かみ守かみかみ殿どの殿どのどのののの御おん御おんおん首くび首くびくびばかりばかりばかりこそこそこそ見み見みみえええさせさせさせ給たま給たまたまひひい候さふら候さふらそうらひひいつれつれつれ。。。そのそのその外ほか外ほかほかははは、、、そんぢやうそんぢやうそんじょうそのそのその首くび首くびくびそのそのその御おん御おんおん首くび首くびくび。。。」」」ととと申まう申まうもうしししけれけれければばば、、、北きた北きたきたののの方かた方かたかた、、、「「「それそれそれももも人ひと人ひとひとののの上うへ上うへうえとととははは覺おぼ覺おぼおぼえええずずず。。。」」」とてとてとて、、、引ひ引ひひきききかづいかづいかずいてててぞぞぞ臥ふ臥ふふししし給たま給たまたまふふう。。。
  4. 4やゝやゝややあつあつあっててて齋さい齋さいさい藤とう藤とうとう五ご五ごご、、、涙なみだ涙なみだなみだをををおさへおさへおさえててて申まう申まうもうしししけるけるけるははは、、、「「「このこのこの一いち一いちいち兩りやう兩りやうりょう年ねん年ねんねんははは隱かく隱かくかくれれれゐゐい候さふら候さふらそうらひひいててて、、、人ひと人ひとひとにににもももいたういたういとう見み見みみ知し知ししららられれれ候さふら候さふらそうらははわねねねばばば、、、今いま今いまいましばらくしばらくしばらく候さふら候さふらそうらひひいててて、、、見み見みみ參まゐ參まゐまいらせらせらせたくたくたく存ぞん存ぞんぞんじじじ候さふら候さふらそうらひひいつれつれつれどもどもども、、、世よ世よよににに案あん案あんあん内ない内ないない委くは委くはくわしくしくしく知し知ししつつったるたるたる者もの者ものものののの申まう申まうもうししし候さふら候さふらそうらひひいしししははは、、、『『『今こん今こんこん度ど度どどののの合かつ合かつかっ戰せん戰せんせんににに、、、小こ小ここ松まつ松まつまつ殿どの殿どのどのののの公きん公きんきん達だち達だちだちたちたちたちはははあはせあはせあわせ給たま給たまたまははわずずず。。。そのそのその故ゆゑ故ゆゑゆえははは播はり播はりはり磨ま磨ままととと丹たん丹たんたん波ば波ばばとととののの境さかひ境さかひさかいなるなるなる、、、三み三みみ草くさ草くさくさののの手て手ててををを固かた固かたかためめめさせさせさせ給たま給たまたまひひい候さふら候さふらそうらひひいけるけるけるががが、、、九く九くく郎らう郎らうろう義よし義よしよし經つね經つねつねににに破やぶ破やぶやぶららられれれててて、、、新しん新しんしん三ざん三ざんざん位み位みみののの中ちう中ちうちゅう將じやう將じやうじょう殿どの殿どのどの、、、同おな同おなおなじきじきじき少せう少せうしょう將しやう將しやうしょう殿どの殿どのどの、、、丹たん丹たんたん波ば波ばばののの侍じ侍じじ從じゆう從じゆうじゅう殿どの殿どのどのははは、、、播はり播はりはり磨ま磨ままののの高たか高たかたか砂さご砂さごさごよりよりより御おん御おんおん船ふね船ふねふねににに召め召めめしししててて、、、讚さぬ讚さぬさぬ岐き岐ききののの八や八やや島しま島しましまへへへ渡わた渡わたわたらららせせせ給たま給たまたまひひい候さふら候さふらそうらひひいぬぬぬ。。。何なに何なになにとととしてしてしてかかかははは離はな離はなはなれれれさせさせさせ給たま給たまたまひひいててて候さふら候さふらそうらひひいけるけるけるやらんやらんやらん、、、そのそのその中なか中なかなかににに備びつ備びつびっ中ちう中ちうちゅうののの守かみ守かみかみ殿どの殿どのどのばかりばかりばかりこそこそこそ、、、今こん今こんこん度ど度どど一いち一いちいちののの谷たに谷たにたににてにてにて討う討ううたたたれれれさせさせさせ給たま給たまたまひひいててて候さふら候さふらそうらへへえ。。。』』』ととと語かた語かたかたりりり申まう申まうもうししし候さふら候さふらそうらひひいししし程ほど程ほどほどににに、、、さてさてさて三さん三さんさん位み位みみののの中ちう中ちうちゅう將じやう將じやうじょう殿どの殿どのどのののの御おん御おんおん事こと事ことことはははいかにいかにいかにととと問と問ととひひい候さふら候さふらそうらひひいつれつれつればばば、、、『『『それそれそれははは軍いくさ軍いくさいくさ以い以いい前ぜん前ぜんぜんよりよりより大だい大だいだい事じ事じじののの御おん御おんおんいたはりいたはりいたわりとてとてとて、、、讚さぬ讚さぬさぬ岐き岐ききののの八や八やや島しま島しましまへへへ渡わた渡わたわたらららせせせ給たま給たまたまひひいててて、、、此こ此ここののの度たび度たびたびははは向むか向むかむかははわせせせ給たま給たまたまははわずずず。。。』』』ととと申まう申まうもうすすす者もの者ものものにににこそこそこそ逢あ逢あおうううててて候さふら候さふらそうらひひいつれつれつれ。。。」」」ととと、、、こま〴〵こま〴〵こまごまととと語かた語かたかたりりり申まう申まうもうしししたりたりたりけれけれければばば、、、北きた北きたきたののの方かた方かたかた、、、「「「それそれそれもももわれわれわれらららががが事こと事ことことををを心こゝろ心こゝろこころ苦ぐる苦ぐるぐるしうしうしゅう思おも思おもおもひひいたまひたまひたまいててて、、、朝あさ朝あさあさ夕ゆふ夕ゆふゆう歎なげ歎なげなげかかかせせせ給たま給たまたまふふうががが病やまひ病やまひやまいとととなつなつなったるたるたるにににこそこそこそ。。。風かぜ風かぜかぜののの吹ふ吹ふふくくく日ひ日ひひははは、、、今日けふ今日けふきょうもももややや船ふね船ふねふねににに乘の乘ののりりり給たま給たまたまふふうらんらんらんととと肝きも肝きもきもををを消け消けけししし、、、軍いくさ軍いくさいくさととといふいふいう時とき時ときときははは、、、たゞたゞただ今いま今いまいまもももややや討う討ううたたたれれれ給たま給たまたまひひいぬぬぬらんらんらんととと心こゝろ心こゝろこころをををつくすつくすつくす。。。ましてましてましてさやうさやうさようののの御おん御おんおんいたはりいたはりいたわりなんどなんどなんどをををばばば、、、誰たれ誰たれたれかかか心こゝろ心こゝろこころやすうやすうやすうあつかひあつかひあつかい奉たてまつ奉たてまつたてまつるるるべきべきべき。。。それそれそれををを委くは委くはくわしうしうしゅう聞き聞ききかかかばやばやばや。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、若わか若わかわか君ぎみ君ぎみぎみ、、、姫ひめ姫ひめひめ君ぎみ君ぎみぎみももも、、、「「「などなどなど何なに何なになにののの御おん御おんおんいたはりいたはりいたわりとととははは問と問ととはははざりざりざりけるけるけるぞぞぞ。。。」」」ととと宣のたま宣のたまのたまひひいけるけるけるこそこそこそ哀あは哀あはあわれれれなれなれなれ。。。
  5. 5三さん三さんさん位み位みみののの中ちう中ちうちゅう將じやう將じやうじょうももも通かよ通かよかよふふう心こゝろ心こゝろこころなれなれなればばば、、、さてもさてもさても都みやこ都みやこみやこにににはははいかにいかにいかに心こゝろ心こゝろこころもとなうもとなうもとのう思おも思おもおもふふうらんらんらん。。。たとひたとひたとい首くび首くびくびどもどもどもののの中なか中なかなかにににこそこそこそなくなくなくとととももも、、、矢や矢ややににに當あた當あたあたつつってててももも死し死ししににに、、、水みづ水みづみずににに溺おぼ溺おぼおぼれれれててて失う失ううせせせぬぬぬらんらんらん。。。今いま今いまいままでまでまでこのこのこの世よ世よよにににあるあるあるものものものとととははは、、、よもよもよも思おも思おもおもひひい給たま給たまたまははわじじじ。。。露つゆ露つゆつゆののの命いのち命いのちいのちののの消き消ききえええやらやらやらででで、、、未いま未いまいまだだだうきうきうき世よ世よよにににながらへながらへながらへたるたるたるををを知し知ししらせらせらせ奉たてまつ奉たてまつたてまつらららんんんとてとてとて、、、使つかひ使つかひつかいををを一いち一いちいち人にん人にんにんしししたてたてたてててて上のぼ上のぼのぼせせせられられられけるけるけるががが、、、三みつ三みつみつつつつののの文ふみ文ふみふみをををぞぞぞ書か書かかかかかれれれけるけるける。。。まづまづまず北きた北きたきたののの方かた方かたかたへへへののの御おん御おんおん文ふみ文ふみふみにににははは、、、「「「都みやこ都みやこみやこにににははは敵かたき敵かたきかたき充み充みみちちち滿み滿みみちちちててて、、、御おん御おんおん身み身みみ一ひと一ひとひとつつつののの置お置おおききき所どころ所どころどころだにだにだにあらあらあらじじじににに、、、幼をさな幼をさなおさなききき者もの者ものものどもどもども引ひき引ひきひき具ぐ具ぐぐしししててて、、、いかにいかにいかに悲かな悲かなかなしうしうしゅうおはすおはすおわすらんらんらん。。。これこれこれへへへ迎むか迎むかむかへへえ參まゐ參まゐまいらせらせらせててて、、、一ひと一ひとひとつつつ所ところ所ところところにてにてにていかにいかにいかにもももならならならばやばやばやとととははは思おも思おもおもへへえどもどもども、、、わがわがわが身み身みみこそこそこそあらあらあらめめめ、、、御おん御おんおんためためためいたはしくいたはしくいたわしくててて。。。」」」なんどなんどなんど、、、こま〴〵こま〴〵こまごまととと書か書かかいいいててて、、、奧おく奧おくおくにににははは一いつ一いついっ首しゆ首しゆしゅののの歌うた歌うたうたぞぞぞありありありけるけるける。。。
  6. 6いづくいづくいずくとととももも知し知ししらららぬぬぬあふせあふせおうせののの藻も藻もも鹽しほ鹽しほしお草ぐさ草ぐさぐさかきかきかき置お置おおくくくあとあとあとをををかたみかたみかたみとととももも見み見みみよよよ
  7. 7さてさてさてをさなきをさなきおさなき人ひと人ひとひと々びと々びとびとののの御おん御おんおんもともともとへへへははは、、、「「「つれ〴〵つれ〴〵つれづれをををばばば何なに何なになにとととしてしてしてかかかははは慰なぐさ慰なぐさなぐさむむむらんらんらん。。。やがてやがてやがてこれこれこれへへへ迎むか迎むかむかへへえ取と取ととらららうずるうずるうずるぞぞぞ。。。」」」ととと、、、ことばことばことばももも變かは變かはかわらららずずず書か書かかいいいててて上のぼ上のぼのぼせせせらるらるらる。。。使つかひ使つかひつかい都みやこ都みやこみやこへへへ上のぼ上のぼのぼりりり、、、北きた北きたきたののの方かた方かたかたににに御おん御おんおん文ふみ文ふみふみ取とり取とりとり出いだ出いだいだいいいててて奉たてまつ奉たてまつたてまつるるる。。。これこれこれをををあけあけあけててて見み見みみ給たま給たまたまひひいててて、、、いとゞいとゞいとど思おも思おもおもひひいやややまさらまさらまさられれれけんけんけん、、、引ひき引ひきひき被かづ被かづかずいいいてててぞぞぞ臥ふ臥ふふししし給たま給たまたまふふう。。。
  8. 8かくかくかくててて四し四しし五ご五ごご日にち日にちにちももも過す過すすぎぎぎしかしかしかばばば、、、使つかひ使つかひつかい、、、「「「御おん御おんおん返へん返へんへん事じ事じじ賜たま賜たまたまははわつつっててて歸かへ歸かへかえりりり參まゐ參まゐまいりりり候さふら候さふらそうらははわんんん。。。」」」ととと申まう申まうもうしししけれけれければばば、、、北きた北きたきたののの方かた方かたかた泣な泣ななく〳〵く〳〵くなく御おん御おんおん返へん返へんへん事じ事じじ書か書かかききき給たま給たまたまふふう。。。若わか若わかわか君ぎみ君ぎみぎみ、、、姫ひめ姫ひめひめ君ぎみ君ぎみぎみももも面めん面めんめん々めん々めんめんににに筆ふで筆ふでふでををを染そ染そそめめめててて、、、「「「さてさてさて父ちゝ父ちゝちち御ご御ごご前ぜん前ぜんぜんへへへののの御おん御おんおん返へん返へんへん事じ事じじをををばばば何なに何なになにととと書か書かかききき申まう申まうもうすすすべきべきべきやらんやらんやらん。。。」」」ととと問と問ととひひい給たま給たまたまへへえばばば、、、北きた北きたきたののの方かた方かたかた、、、「「「たゞたゞただともかうもともかうもともこうも、、、わごぜわごぜわごぜたちたちたちががが思おも思おもおもははわんんんずるずるずるやうやうようををを申まう申まうもうすすすべしべしべし。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。「「「などなどなどややや今いま今いまいままでまでまでははは迎むか迎むかむかへへえさせさせさせ給たま給たまたまひひい候さふら候さふらそうらははわぬぬぬぞぞぞ。。。あまりあまりあまりににに御おん御おんおんこひしうこひしうこいしゅう思おも思おもおもひひい參まゐ參まゐまいらせらせらせ候さふらふ候さふらふそうろうににに、、、とくとくとく迎むか迎むかむかへへえさせさせさせ給たま給たまたまへへえ。。。」」」ととと、、、同おな同おなおなじじじことばことばことばにににぞぞぞ書か書かかかかかれれれたるたるたる。。。使つかひ使つかひつかい御おん御おんおん文ふみ文ふみふみ賜たま賜たまたまははわつつっててて、、、八や八やや島しま島しましまへへへ歸かへ歸かへかえりりり參まゐ參まゐまいつつっててて、、、三さん三さんさん位み位みみののの中ちう中ちうちゅう將じやう將じやうじょう殿どの殿どのどのににに御おん御おんおん返へん返へんへん事じ事じじ取とり取とりとり出いだ出いだいだいいいててて奉たてまつ奉たてまつたてまつるるる。。。まづまづまずをさなきをさなきおさなき人ひと人ひとひと々びと々びとびとののの御おん御おんおん返へん返へんへん事じ事じじををを見み見みみ給たま給たまたまひひいててて、、、いとゞいとゞいとどせんせんせん方かた方かたかたなげなげなげにににぞぞぞ見み見みみえええられられられけるけるける。。。「「「そも〳〵そも〳〵そもそもこれこれこれよりよりより穢ゑ穢ゑえ土ど土どどををを厭いと厭いといとふふうににに勇いさ勇いさいさみみみなしなしなし。。。閻えん閻えんえん浮ぶ浮ぶぶ愛あい愛あいあい執しふ執しふしゅうののの綱つな綱つなつな強つよ強つよつよけれけれければばば、、、淨じやう淨じやうじょう土ど土どどををを願ねが願ねがねがははわんんんももも物もの物ものもの憂う憂ううししし。。。たゞたゞただこれこれこれよりよりより山やま山やまやまづたひづたひづたいににに都みやこ都みやこみやこへへへ上のぼ上のぼのぼりりり、、、こひしきこひしきこいしき者もの者ものものどもどもどもをををももも今いま今いまいま一いち一いちいち度ど度どど見み見みみもももししし、、、見み見みみえええててて後のち後のちのち、、、自じ自じじ害がい害がいがいをををせせせんんんにににははは如し如ししかかかじじじ。。。」」」とととぞぞぞ、、、泣な泣ななく〳〵く〳〵くなく語かた語かたかたりりり給たま給たまたまひひいけるけるける。。。

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

寿永三年二月七日、摂津国一の谷で討たれなさった平氏の首が、十二日に都に入った。平家と縁を結んでいた人々は、今度は自分たちの身の上にどんなつらいことを聞き、どんなつらい目を見るだろうかと嘆き合い、悲しみ合われた。なかでも、大覚寺に隠れ住んでおられた小松の三位中将維盛卿の北の方は、たいそう気がかりに思っておられたところ、今度一の谷で一門の人々はわずかしか残らないほど討たれ、今は三位中将という公卿が一人、生け捕りにされて都へ上ってくると聞かれて、この人に違いないといって身もだえして嘆かれた。ある女房が大覚寺に参って申すには、「三位中将殿というのは、こちらの殿のことではございません。本三位中将殿(重衡)のことです」と申したので、それでは首の中にあるのだろうといって、なお安心はなさらなかった。

同月十三日、大夫判官仲頼以下の検非違使たちが六条河原に出向いて、平氏の首を受け取り、東洞院を北へ渡して獄門の木に掛けるべきだと、範頼・義経が奏上した。法皇はどうしたものかと思い悩まれて、太政大臣・左右の大臣・内大臣・堀河大納言忠親卿にご相談になった。五人の公卿が申されるには、「昔から卿相の位に至った人の首が大路を渡された先例はない。なかでもこの者たちは、先帝の御代から外戚の臣として長く朝廷に仕えてきた。範頼・義経の申し出を、むやみにお許しになってはならない」と申されたので、渡さないことに決められたが、範頼・義経が重ねて奏上するには、「保元の昔を思えば祖父為義の仇、平治の昔を考えれば父義朝の敵である。だから君のお憤りを鎮め申し、父の恥をすすぐために、命を捨てて朝敵を滅ぼしたのだ。今度平氏の首を大路に渡されないのなら、今後何の励みがあって凶徒を退けられましょうか」としきりに訴え申されたので、法皇もどうしようもなく、ついに渡された。見物する人は幾千万とも数知れない。宮中で袖を連ねていた昔は恐れはばかる者が多かった。巷に首を渡される今は、また憐れみ悲しまない者はなかった。

なかでも大覚寺に隠れ住んでおられた小松の三位中将維盛卿の若君、六代御前に仕えていた斎藤五・斎藤六は、あまりの気がかりさに身なりを変えて見に行くと、首はみな見知り申していたが、三位中将殿の首は見えない。けれどもあまりの悲しさに、こらえきれない涙ばかりこぼれたので、よその人目も恐ろしくて、急いで大覚寺へ帰り参った。北の方が「それでどうだった、どうだった」とお尋ねになると、「人々の首はみな見知り申しましたが、三位中将殿の首はお見えになりませんでした。ご兄弟の中では、備中守殿(師盛)の首だけがお見えになりました。そのほかはこれこれの方の首、これこれの方の首でした」と申したので、北の方は「それも他人のこととは思えない」といって、衣を引きかぶって伏してしまわれた。

しばらくして斎藤五が涙をおさえて申すには、「この一、二年は隠れておりましたので、人にもあまり顔を知られておりませんから、もうしばらくそこにいて見ておりたいと思いましたが、事情をよく知っている者が申しましたのは、『今度の合戦に小松殿の公達は加わっておられない。そのわけは、播磨と丹波の境の三草の陣を固めておられたが、九郎義経に破られて、新三位中将殿(資盛)、同じく少将殿(有盛)、丹波侍従殿(忠房)は播磨の高砂から御船に乗って讃岐の屋島へお渡りになった。どうして離れておられたのか、その中で備中守殿だけが今度一の谷で討たれなさったのです』と語りましたので、それでは三位中将殿のことはどうかと尋ねましたら、『その方は合戦の前から重いご病気だといって、讃岐の屋島へお渡りになって、今度は出陣されませんでした』と申す者に会いました」と、こまごまと語り申したので、北の方は「それも私たちのことを心苦しく思われて、朝夕お嘆きになるのが病となったのでしょう。風の吹く日は、今日も船に乗っておられるかと肝を冷やし、合戦というときは、今にも討たれなさったかと心を尽くす。ましてそのようなご病気などを、誰が心をこめてお世話申すでしょう。それを詳しく聞きたいものだ」とおっしゃると、若君・姫君も「どうして何のご病気かとは聞かなかったの」とおっしゃったのは哀れであった。

三位中将も同じ思いであったので、さても都ではどんなに気がかりに思っているだろう。たとえ首の中になくても、矢に当たって死んだか、水に溺れて死んだかと思っているだろう。今までこの世に生きているとは、まさか思ってはいないだろう。露のような命が消えずに、まだこのつらい世に生きながらえていることを知らせ申そうといって、使いを一人仕立てて上らせられたが、三通の手紙を書かれた。まず北の方への手紙には、「都には敵が満ちあふれて、身一つの置き所さえないだろうに、幼い者たちを連れて、どんなに悲しい思いをしておられるだろう。こちらへお迎えして、一つ所でどうにでもなりたいとは思うけれども、自分はともかく、あなたのためにはいたわしくて」などとこまごまと書いて、奥に一首の歌があった。

(いつどこで会えるとも知れないが、藻塩草をかき集めるように書き置くこの手紙を、私の形見と思って見てください)

また幼い人々のもとへは、「さびしさをどうやって慰めているだろう。すぐにこちらへ迎え取るからね」と、同じ言葉で書いて上らせられた。使いが都へ上り、北の方に手紙を取り出して差し上げた。これを開けてご覧になって、いっそう思いがつのられたのであろうか、衣を引きかぶって伏してしまわれた。

こうして四、五日が過ぎたので、使いが「お返事をいただいて帰りましょう」と申したので、北の方は泣く泣くお返事をお書きになる。若君・姫君もそれぞれ筆を染めて、「さて父上へのお返事は何と書いたらよいでしょう」とお尋ねになると、北の方は「ただどうなりとも、あなたたちが思うとおりに書きなさい」とおっしゃった。二人とも「どうして今まで迎えに来てくださらないのですか。あまりに恋しく思っておりますので、早く迎えに来てください」と、同じ言葉で書かれた。使いは手紙をいただいて屋島へ帰り、三位中将殿にお返事を取り出して差し上げた。まず幼い人々のお返事をご覧になって、いっそうどうしようもないご様子に見えた。「そもそもこれでは、穢土を厭う心にも励みがない。この世への愛執の綱が強いので、浄土を願うのもつらい。ただここから山伝いに都へ上り、恋しい者たちにももう一度会い、顔を見せてから自害するに越したことはない」と、泣く泣く語られた。

意訳

巻第十の冒頭の章段である。一の谷で討たれた平家一門の首が都大路を渡され、かつて宮中で人々に恐れられた人々の首を、今は人々が憐れんで見る。範頼・義経の言葉には、保元・平治以来の源氏の怨みが込められている。

後半は、屋島にいる維盛と、都の大覚寺に隠れ住む妻子との手紙のやりとりである。「とく迎へさせ給へ」という幼い子らの言葉は、維盛の心を都へと強く引き戻し、のちの高野・熊野への旅と入水へとつながっていく。

語釈・文法注

文法

「この人離れ給はじものを」
この人に違いない。「三位中将」は維盛にも重衡にも当たるので、維盛のことと思った。
「戚里の臣」
天子の外戚の家臣。
「そんぢやうその首」
「そんぢやう」は「それぞれ・これこれ」の意。誰それの首、誰それの首。
「あふせの藻鹽草」
「あふせ」は逢う機会。「藻塩草」は塩を取る海藻で、手紙(書く)の縁語。
「わごぜたち」
「わ御前たち」。おまえたち。親しい相手への呼びかけ。
「閻浮愛執の綱」
この世(閻浮提)への執着を綱にたとえたもの。

和歌

いづくとも知らぬあふせの藻鹽草かき置くあとをかたみとも見よ

詠者
平維盛
状況
屋島から都の北の方に送った手紙の奥に書き添えた歌。

修辞

藻鹽草
「かき(掻き・書き)」を導く。
かき置くあと
書き置いた筆跡(手紙)。

解説

寿永三年(1184)二月、一の谷で討たれた平家一門の首は、公卿たちの反対を押し切って都大路を渡され、獄門に掛けられた。『玉葉』には、九条兼実が首を渡すことに強く反対したことが記されている。

関連

出典

底本
『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、707–711頁(コマ382–384)。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日