平家物語 巻第九
落足の事
山の手の大将軍越前三位通盛は、弟教経とはぐれ、東へ落ちて自害しようとするところを、佐々木木村成綱・玉井資景らに囲まれて討たれた。東西の木戸口で源平は数を尽くして戦い、櫓の前や逆茂木の下には人馬の死骸が山のように積み重なり、源氏が掛けた首は二千余に及んだ。一の谷で討たれた平家の主な公達は、通盛・業盛・忠度・知章・師盛・清定・清房・経正・経俊・敦盛の十人であった。平家は天皇とともに船で浦々島々へ散り、十四か国を従え都まであと一日と迫りながら、一の谷も攻め落とされて心細さを深めた。
- 1越越えち前前ぜんののの三三さん位位み通通みち盛盛もりののの卿卿きょうははは山山やまののの手手てののの大大たい將將しょう軍軍ぐんにてにてにておはしおはしおわしけるけるけるががが、、、そのそのその勢勢せい皆皆みな落落おちちち失失うせせせ、、、討討うたたたれれれ、、、大大おお勢勢ぜいにににおしおしおし隔隔へだてててられられられててて、、、弟弟おととののの能能の登登との守守かみにににはははおくれおくれおくれ給給たまひひいぬぬぬ。。。心心こころ靜靜しずかかかににに自自じ害害がいせせせんんんとてとてとて、、、東東ひがしににに向向むかひひいててて落落おちちち行行ゆききき給給たまふふう所所ところににに、、、近近おう江江みののの國國くにののの住住じゅう人人にん佐佐さ々々さ木木きののの木木き村村むらののの三三さぶ郎郎ろう成成なり綱綱つな、、、武武む藏藏さしののの國國くにののの住住じゅう人人にん玉玉たま井井いののの四四し郎郎ろう資資すけ景景かげ、、、かれかれかれこれこれこれ七七しち騎騎きががが中中なかににに取取とりりりこめこめこめ參參まいらせらせらせててて、、、遂遂ついににに討討うちちち奉奉たてまつつつってててけりけりけり。。。そのそのその時時ときまでまでまでははは侍侍さぶらい一一いち人人にんつきつきつき奉奉たてまつつつったりたりたりけれけれけれどもどもども、、、これこれこれももも最最さい後後ごののの時時ときははは落落おちちちあはあはあわずずず。。。
- 2凡凡およそそそ東東とう西西ざいののの木木き戸戸ど口口ぐち、、、時時とき移移うつるるる程程ほどにににもももなりなりなりしかしかしかばばば、、、源源げん平平ぺい數數かずををを盡盡つくしししててて討討うたたたれれれにににけりけりけり。。。櫓櫓やぐらののの前前まえ、、、逆逆さか木木もぎののの下下もとにににははは、、、人人じん馬馬ばののの肉肉ししむら山山やまののの如如ごとししし。。。一一いちののの谷谷たに、、、小小お篠篠ざさ原原はら、、、綠綠みどりののの色色いろをををひきひきひきかへかへかえててて、、、薄薄うす紅紅くれないにににぞぞぞなりなりなりにににけるけるける。。。一一いちののの谷谷たに、、、生生いく田田たののの森森もり、、、山山やまのののそばそばそば、、、海海うみののの汀汀みぎわににに、、、射射いられられられ斬斬きららられれれててて死死しぬるぬるぬるははは知知しらららずずず。。。源源げん氏氏じののの方方かたににに斬斬きりりりかけかけかけらるゝらるゝらるる首首くびどもどもども、、、二二に千千せん餘餘よ人人にんなりなりなり。。。今今こん度度ど一一いちののの谷谷たににてにてにて討討うたたたれれれさせさせさせ給給たまへへえるるる宗宗むね徒徒とののの人人ひと々々びとにににははは、、、まづまづまず越越えち前前ぜんののの三三さん位位み通通みち盛盛もり、、、弟弟おとと藏藏くら人人んどののの大大たい夫夫ふ業業なり盛盛もり、、、薩薩さっ摩摩まののの守守かみ忠忠ただ度度のり、、、武武む藏藏さしののの守守かみ知知とも章章あきら、、、備備びっ中中ちゅうののの守守かみ師師もろ盛盛もり、、、尾尾お張張はりののの守守かみ淸淸きよ定定さだ、、、淡淡あわ路路じののの守守かみ淸淸きよ房房ふさ、、、經經つね盛盛もりののの嫡嫡ちゃく子子し皇皇こう后后ごう宮宮ぐうののの亮亮すけ經經つね正正まさ、、、弟弟おとと若若わか狹狹さののの守守かみ經經つね俊俊とし、、、そのそのその弟弟おとと大大たい夫夫ふ敦敦あつ盛盛もり、、、以以い上上じょう十十じゅう人人にんとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
- 3軍軍いくさ破破やぶれれれにににけれけれければばば、、、主主しゅ上上しょうをををはじめはじめはじめ參參まいらせらせらせててて、、、人人ひと々々びと皆皆みな御御おん船船ふねににに召召めしししててて、、、出出いでででさせさせさせ給給たまふふうこそこそこそ悲悲かなしけれしけれしけれ。。。汐汐しおににに引引ひかかかれれれ、、、風風かぜににに從從したがひひいててて、、、紀紀き伊伊の路路じへへへ赴赴おもむくくく船船ふねもももありありあり、、、蘆蘆あし屋屋やののの沖沖おきににに漕漕こぎぎぎ出出いでででててて、、、波波なみにににゆらゆらゆらるゝるゝるる船船ふねもももありありあり。。。或或あるいははは須須す磨磨まよりよりより明明あか石石しののの浦浦うらづたひづたひづたい、、、泊泊とまりさだめさだめさだめぬぬぬ楫楫かじ枕枕まくら、、、かたかたかたしくしくしく袖袖そでもももしをれしをれしおれつゝつゝつつ、、、おぼろおぼろおぼろにににかすむかすむかすむ春春はるののの月月つき、、、心心こころををを碎碎くだかかかぬぬぬ人人ひとぞぞぞなきなきなき。。。或或あるいははは淡淡あわ路路じののの迫迫せ門門とをををおしおしおし渡渡わたりりり、、、繪繪え島島しまががが磯磯いそににに漂漂ただよへへえばばば、、、浪浪なみ路路じ遙遙はるかかかににに鳴鳴なきききわたりわたりわたり、、、友友ともまよはせるまよはせるまよわせる小小さ夜夜よ千千ち鳥鳥どり、、、これこれこれもももわがわがわが身身みのののたぐひたぐひたぐいかなかなかな。。。行行ゆく末末すえ未未いまだだだいづくいづくいずくとととももも、、、思思おもひひい定定さだめめめぬぬぬかかかとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、一一いちののの谷谷たにののの沖沖おきにににやすらふやすらふやすらう船船ふねもももありありあり。。。かやうかやうかようににに浦浦うら々々うら島島しま々々じまにににたゞよへたゞよへただよえばばば、、、互互たがいののの死死し生生しょうももも知知しりりり難難がたししし。。。國國くにををを從從したがふるふるうる事事ことももも十十じゅう四四し箇箇か國國こく、、、勢勢せいのののつくつくつく事事ことももも十十じゅう萬萬まん餘餘よ騎騎き、、、都都みやこへへへ近近ちかづくづくづく事事ことももも僅僅わずかににに一一いち日日にちののの路路みちなれなれなればばば、、、今今こん度度どはははさりさりさりともともともととと、、、たのもしうたのもしうたのもしゅうこそこそこそ思思おもははわれれれつるつるつるににに、、、一一いちののの谷谷たにをををももも攻攻せめめめ落落おとささされれれててて、、、いとゞいとゞいとど心心こころ細細ぼそうううぞぞぞならならなられれれけるけるける。。。
現代語訳
越前三位通盛卿は山の手の大将軍でいらしたが、その勢はみな逃げたり討たれたりし、大勢に押し隔てられて、弟の能登守(教経)にもはぐれてしまわれた。心静かに自害しようとして、東に向かって落ちて行かれるところを、近江国の住人佐々木の木村三郎成綱、武蔵国の住人玉井四郎資景ら七騎の中に取りこめ申して、ついに討ち申した。そのときまでは侍が一人ついておられたが、これも最後のときには居合わせなかった。
およそ東西の木戸口では、時がたつにつれて源平が数を尽くして討たれた。櫓の前や逆茂木の下には、人や馬の肉が山のように積み重なった。一の谷や小篠原は、緑の色を変えて薄紅に染まった。一の谷・生田の森・山のそば・海の水際で、射られ斬られて死んだ者は数知れない。源氏の方で斬って掛けられた首は二千余りである。今度一の谷で討たれなさった主だった人々は、まず越前三位通盛、弟の蔵人大夫業盛、薩摩守忠度、武蔵守知章、備中守師盛、尾張守清定、淡路守清房、経盛の嫡子皇后宮亮経正、その弟の若狭守経俊、その弟の大夫敦盛、以上十人と聞こえた。
戦いに敗れたので、天皇をはじめとして人々はみな御船に乗ってお出になったのは悲しいことである。潮に引かれ風に従って紀伊路へ向かう船もあり、芦屋の沖に漕ぎ出して波に揺られる船もある。あるいは須磨から明石の浦伝いに、泊まる所も定まらない船の旅寝に、片袖を敷く袖も涙にしおれながら、おぼろにかすむ春の月を見て、心を砕かない人はいない。あるいは淡路の瀬戸を押し渡り、絵島が磯に漂うと、波路はるかに鳴き渡り、友を見失った小夜千鳥も、わが身と同じ境遇かと思われる。行く末をまだどことも決めかねているのであろうか、一の谷の沖にとどまっている船もある。このように浦々島々に漂うので、互いの生死も分からない。従えた国は十四か国、ついた勢は十万余騎、都へもわずか一日の道のりまで近づいたので、今度こそはと頼もしく思っておられたのに、一の谷も攻め落とされて、いっそう心細くなられた。
意訳
一の谷の合戦の結末を語る章段である。討たれた平家の公達十人の名を連ねることで、一の谷の敗北がいかに大きなものであったかが示される。
後半は、春のおぼろ月や小夜千鳥といった景物を重ねた美文で、行く先も定まらずに海上をさまよう平家の人々の心細さを描く。都まであと一日と迫りながら再び追われたという落差が、平家の運命の暗転を印象づけている。
語釈・文法注
文法
- 「人馬の肉山の如し」
- 人や馬の死骸が山のように積み重なっている。
- 「楫枕」
- 船の楫を枕にすること。船旅の寝床。
- 「友まよはせる小夜千鳥」
- 友を見失った夜の千鳥。『源氏物語』須磨の巻などにも見える歌語。
- 「迫門」
- 「せと」。瀬戸、海峡。
解説
『吾妻鏡』は、一の谷の合戦で討たれた平家方の主な者として、通盛・忠度・経正・知章・敦盛・業盛・盛俊などの名を挙げている。生け捕られた重衡を除き、平家一門の多くの公達がこの戦いで命を落とした。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、697–699頁(コマ377–378)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日