平家物語 巻第九
浜軍の事
浜の戦いで、教盛の末子業盛、経正、清定・清房・経俊らが次々と討たれた。生田の森の大将軍知盛は、子の武蔵守知章と監物太郎頼賢とともに渚へ落ちる途中、児玉党に追われ、知章は父を討たせまいと敵と組んで討たれ、頼賢も討ち死にした。知盛は名馬井上黒に乗って沖の宗盛の船まで泳ぎ着いたが、船に乗せられない馬を射殺させず、渚に返した。馬はのちに院に献上され河越黒と呼ばれた。知盛は、子が父を守って討たれるのを見ながら逃げてきた自分を恥じて泣き、宗盛も清宗と同い年の知章を惜しんだ。
- 1門門かど脇脇わき殿殿どのののの末末ばつ子子し藏藏くら人人んどののの大大たい夫夫ふ業業なり盛盛もりははは、、、常常ひた陸陸ちののの國國くにののの住住じゅう人人にん土土つち屋屋やののの五五ご郎郎ろう重重しげ行行ゆきととと組組くんんんででで討討うたたたれれれたまひたまひたまいぬぬぬ。。。皇皇こう后后ごう宮宮ぐうののの亮亮すけ經經つね正正まさははは、、、武武む藏藏さしののの國國くにののの住住じゅう人人にん河河かわ越越ごえののの小小こ太太た郎郎ろう重重しげ房房ふさががが手手てににに取取とりりりこめこめこめ奉奉たてまつつつっててて、、、遂遂ついににに討討うちちち奉奉たてまつるるる。。。尾尾お張張はりののの守守かみ淸淸きよ定定さだ、、、淡淡あわ路路じののの守守かみ淸淸きよ房房ふさ、、、若若わか狹狹さののの守守かみ經經つね俊俊とし、、、三三さん騎騎きつれつれつれててて敵敵かたきののの中中なかへへへわつわつわっててて入入いりりり、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに戰戰たたかひひい、、、分分ぶん捕捕どりあまたあまたあまたしてしてして、、、一一いっ所所しょででで討討うち死死じにしてしてしてけりけりけり。。。
- 2新新しん中中ちゅう納納な言言ごん知知とも盛盛もりののの卿卿きょうははは生生いく田田たののの森森もりののの大大たい將將しょう軍軍ぐんにてにてにておはしおはしおわしけるけるけるががが、、、そのそのその勢勢せいみなみなみな落落おちちち失失うせせせ討討うたたたれれれにににしかしかしかばばば、、、御御おん子子こ武武む藏藏さしののの守守かみ知知とも章章あきら、、、侍侍さぶらいににに監監けん物物もつ太太た郎郎ろう賴賴より賢賢かた、、、主主しゅ從從じゅう三三さん騎騎き汀汀みぎわののの方方かたへへへ落落おちちち給給たまふふう所所ところににに、、、こゝこゝここににに兒兒こ玉玉だま黨黨とうととと思思おぼしくしくしくててて、、、團團う扇扇ちわののの旗旗はたさしさしさしたるたるたる者者もの共共どもががが十十じっ騎騎きばかりばかりばかり、、、鞭鞭むち鐙鐙あぶみををを合合あははわせせせててておつおつおっかけかけかけ奉奉たてまつるるる。。。監監けん物物もつ太太た郎郎ろうははは究究くっ竟竟きょうののの弓弓ゆみののの上上じょう手手ずなりなりなりけれけれければばば、、、取取とつつってててかへしかへしかへし、、、まづまづまずまつまつまっ先先さきににに進進すすんんんだるだるだる旗旗はた差差さしががが首首くびののの骨骨ほねををを、、、ひようつぱひようつぱひょうっぱととと射射いててて、、、馬馬うまよりよりよりさかさまさかさまさかさまににに射射い落落おとすすす。。。そのそのその中中なかののの大大たい將將しょうととと思思おぼしきしきしき者者もの、、、新新しん中中ちゅう納納な言言ごんににに組組くみみみ奉奉たてまつらららんんんとてとてとて馳馳はせせせならぶるならぶるならぶる所所ところににに、、、御御おん子子こ武武む藏藏さしののの守守かみ知知とも章章あきら、、、父父ちちををを討討うたたたせせせじじじととと中中なかににに隔隔へだたりたりたり、、、おしおしおしならべならべならべてててむずむずむずととと組組くんんんででで、、、どうどうどうととと落落おちちち、、、取取とつつっててておさへおさへおさえててて首首くびをををかきかきかき、、、立立たち上上あがらららんんんとととししし給給たまふふう所所ところににに、、、敵敵かたきののの童童わらわ落落おちちちあはせあはせあわせててて、、、武武む藏藏さしののの守守かみののの首首くびををを取取とるるる。。。監監けん物物もつ太太た郎郎ろう落落おちちちかさなりかさなりかさなり、、、武武む藏藏さしののの守守かみ討討うちちち奉奉たてまつつつったりたりたりけるけるける敵敵かたきののの童童わらわをををももも討討うつつってててけりけりけり。。。そのそのその後後のち矢矢や種種だねのののあるあるあるほどほどほど射射いつくしつくしつくし、、、打打うち物物もの拔拔ぬいいいててて戰戰たたかひひいけるけるけるががが、、、弓弓ゆん手手でののの膝膝ひざ口口ぐちをををしたゝかしたゝかしたたかににに射射いさせさせさせ立立たち上上あがらららででで、、、ゐゐいながらながらながら討討うち死死じにしてしてしてけりけりけり。。。
- 3このこのこのまぎれまぎれまぎれににに新新しん中中ちゅう納納な言言ごん知知とも盛盛もりののの卿卿きょうははは、、、そこそこそこをををつつつととと逃逃にげげげ延延のびびびててて、、、究究くっ竟竟きょうののの息息いき長長ながききき名名めい馬馬ばにににははは乘乘のりりり給給たまひひいぬぬぬ。。。海海うみののの面面おもて二二に十十じゅう餘餘よ町町ちょう泳泳およがががせせせててて、、、大臣殿大臣殿おおいどのののの御御おん船船ふねへへへぞぞぞ參參まいららられれれけるけるける。。。船船ふねにににははは人人ひと多多おおくくく取取とりりり乘乘のつつっててて、、、馬馬うま立立たつつつべきべきべきやうやうようもももなかりなかりなかりけれけれければばば、、、馬馬うまをををばばば渚渚なぎさへへへ追追おつつっかへさかへさかえさるるる。。。阿阿あ波波わののの民民みん部部ぶ重重しげ能能よし、、、「「「御御おん馬馬うま敵敵かたきのののものものものににになりなりなり候候そうらひひいなんなんなんずずず。。。射射い殺殺ころししし候候そうらははわんんん。。。」」」とてとてとて、、、片片かた手手て矢矢やはげはげはげててて出出いでででけれけれければばば、、、新新しん中中ちゅう納納な言言ごん、、、「「「たとひたとひたとい何何なにのののものものものにににもももならならならばばばなれなれなれ、、、たゞたゞただ今今いまわがわがわが命命いのち助助たすけけけたらたらたらんんんずるずるずるものものものををを、、、あるあるあるべうべうびょうもももなしなしなし。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、力力ちから及及およばばばででで射射いざりざりざりけりけりけり。。。このこのこの馬馬うま、、、主主しゅののの別別わかれれれををを惜惜おしみしみしみつゝつゝつつ、、、しばししばししばしははは船船ふねををを放放はなれれれもももやらやらやらずずず、、、沖沖おきののの方方かたへへへ泳泳およぎぎぎけるけるけるががが、、、次次し第第だいににに遠遠とおくくくなりなりなりけれけれければばば、、、空空むなしきしきしき渚渚なぎさへへへ泳泳およぎぎぎかへりかへりかえり、、、足足あし立立たつつつ程程ほどにににもももなりなりなりしかしかしかばばば、、、なほなほなお船船ふねののの方方かたををを顧顧かえりみみみててて、、、二二に三三さん度度どまでまでまでこそこそこそ嘶嘶いななきききけれけれけれ。。。
- 4そのそのその後後のち、、、陸陸くがににに上上あがつつっててて休休やすみみみゐゐいたりたりたりけるけるけるををを、、、河河かわ越越ごえののの小小こ太太た郎郎ろう重重しげ房房ふさ取取とつつっててて、、、院院いんへへへ參參まいらせらせらせたりたりたり。。。もともともともももこのこのこの馬馬うま院院いんののの御御ご祕祕ひ藏藏ぞうにてにてにて、、、一一いちののの御御おん廐廐うまやににに立立たてててられられられたりたりたりしししををを、、、一一ひと年年とせ宗宗むね盛盛もり公公こう内内ない大大だい臣臣じんににになつなつなっててて、、、悅悅よろこび申申もうしししのののありありありししし時時とき、、、下下くだししし賜賜たまははわられられられたりたりたりしししををを、、、弟弟おとと中中ちゅう納納な言言ごんににに預預あずけけけられられられたりたりたりしかしかしかばばば、、、餘餘あまりりりににに祕祕ひ藏藏ぞうしてしてして、、、このこのこの馬馬うまののの祈祈いのりりりののの爲爲ためにににとてとてとて、、、毎毎まい月月げつ朔朔つい日日たち毎毎ごとににに泰泰たい山山ざん府府ぶ君君くんをををぞぞぞ祭祭まつららられれれけるけるける。。。そのそのその故故ゆえにににややや馬馬うまののの息息いきももも長長なごううう、、、主主しゅののの命命いのちももも助助たすけけけけるけるけるこそこそこそめでたけれめでたけれめでたけれ。。。このこのこの馬馬うま、、、もともともとははは信信しな濃濃のののの國國くに井井いの上上うえそだちそだちそだちにてにてにてありありありけれけれければばば、、、井井いの上上うえ黑黑ぐろとととぞぞぞ召召めささされれれけるけるける。。。今今こん度度どははは河河かわ越越ごえががが取取とつつっててて院院いんへへへ參參まいらせらせらせたりたりたりけれけれければばば、、、河河かわ越越ごえ黑黑ぐろとととぞぞぞ召召めささされれれけるけるける。。。
- 5そのそのその後後のち新新しん中中ちゅう納納な言言ごん知知とも盛盛もりののの卿卿きょう、、、大臣殿大臣殿おおいどのののの御御ご前前ぜんにににおはしおはしおわしててて、、、涙涙なみだををを流流ながいいいててて申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「武武む藏藏さし守守のかみにににももも後後おくれれれ候候そうらひひいぬぬぬ。。。監監けん物物もつ太太た郎郎ろうをををももも討討うたたたせせせ候候そうらひひいぬぬぬ。。。今今いまははは心心こころ細細ぼそうううこそこそこそまかりまかりまかりなつなつなっててて候候そうらへへえ。。。さればさればされば子子こはははあつあつあっててて父父ちちををを討討うたたたせせせじじじととと、、、敵敵かたきににに組組くむむむををを見見みながらながらながら、、、いかなるいかなるいかなる親親おやなれなれなればばば、、、子子こののの討討うたたたるゝるゝるるををを助助たすけけけずずずしてしてして、、、これこれこれまでまでまで遁遁のがれれれ參參まいつつっててて候候そうろうやらんやらんやらん。。。あはれあはれあわれ人人ひとののの上上うえならならならばばば、、、いかいかいかばかりばかりばかりもももどかしうどかしうどかしゅう候候そうろうべきべきべきににに、、、わがわがわが身身みののの上上うえににになりなりなり候候そうらへへえばばば、、、ようようよう命命いのちははは惜惜おしきしきしきものものものにてにてにて候候そうらひひいけりけりけりととと、、、今今いまこそこそこそ思思おもひひい知知しららられれれててて候候そうらへへえ。。。人人ひと々々びとのののおぼしめさおぼしめさおぼしめさんんん御御おん心心こころののの中中うちどもどもどもこそこそこそ恥恥はずかしうかしうかしゅう候候そうらへへえ。。。」」」とてとてとて、、、鎧鎧よろいののの袖袖そでををを顏顏かおにににおしおしおし當當あてててててて、、、さめ〴〵さめ〴〵さめざめととと泣泣なかかかれれれけれけれければばば、、、大臣殿大臣殿おおいどの、、、「「「まことまことまことににに武武む藏藏さし守守のかみののの、、、父父ちちののの命命いのちににに代代かわららられれれけるけるけるこそこそこそありありありがたけれがたけれがたけれ。。。手手てもももきききききき心心こころももも剛剛こうにににしてしてして、、、よきよきよき大大たい將將しょう軍軍ぐんにてにてにておはしおはしおわしつるつるつる人人ひとををを。。。あのあのあの淸淸きよ宗宗むねととと同同おな年年いどしにてにてにて、、、今今こ年年としははは十十じゅう六六ろくななな。。。」」」とてとてとて、、、御御おん子子こ右右う衞衞え門門もんののの督督かみのののおはしおはしおわしけるけるける方方かたををを見見み給給たまひひいててて、、、涙涙なみだぐみぐみぐみ給給たまへへえばばば、、、そのそのその座座ざにににいくらいくらいくらもももなみなみなみゐゐい給給たまへへえるるる人人ひと々々びと、、、心心こころあるあるあるももも心心こころなきなきなきももも、、、みなみなみな鎧鎧よろいののの袖袖そでをををぞぞぞ濡濡ぬらさらさらされれれけるけるける。。。
現代語訳
門脇殿(教盛)の末子、蔵人大夫業盛は、常陸国の住人土屋五郎重行と組んで討たれなさった。皇后宮亮経正は、武蔵国の住人河越小太郎重房の手勢に取りこめられ、ついに討たれなさった。尾張守清定・淡路守清房・若狭守経俊の三騎は連れ立って敵の中へ割って入り、さんざんに戦い、分捕りを多くして、同じ所で討ち死にした。
新中納言知盛卿は生田の森の大将軍でいらしたが、その勢がみな逃げたり討たれたりしてしまったので、子の武蔵守知章と侍の監物太郎頼賢と主従三騎で水際の方へ落ちて行かれるところに、児玉党と思われる、団扇の旗を差した者どもが十騎ほど、鞭と鐙を合わせて追いかけ申した。監物太郎は屈強の弓の名手だったので、取って返し、まず真っ先に進んできた旗差の首の骨をひょうと射て、馬から真っ逆さまに射落とした。その中の大将と思われる者が新中納言に組み申そうと馬を並べてくるところに、子の武蔵守知章が父を討たせまいと間に割って入り、馬を並べてむんずと組んでどうと落ち、取り押さえて首をかき、立ち上がろうとなさるところに、敵の童が駆け寄って武蔵守の首を取った。監物太郎は上から重なり落ちて、武蔵守を討ち申した敵の童をも討ち取った。その後、矢のある限り射尽くし、太刀を抜いて戦ったが、左の膝頭をひどく射られて立ち上がれず、座ったまま討ち死にした。
このまぎれに新中納言知盛卿はそこをさっと逃げのびて、屈強の息の長い名馬に乗っておられたので、海の上を二十余町も泳がせて、大臣殿(宗盛)の御船に参られた。船には人が大勢乗りこんでいて、馬を立てる場所もなかったので、馬は渚へ追い返された。阿波民部重能が「御馬が敵のものになってしまいましょう。射殺しましょう」といって、矢をつがえて出てきたので、新中納言は「たとえ誰のものになろうともかまわない。今わしの命を助けてくれたものを、とんでもないことだ」とおっしゃったので、どうしようもなく射なかった。この馬は主との別れを惜しみながら、しばらくは船を離れようともせず沖の方へ泳いでいたが、しだいに遠くなったので、誰もいない渚へ泳ぎ帰り、足が立つほどになると、なお船の方を振り返って、二、三度までいなないた。
その後、陸に上がって休んでいたのを、河越小太郎重房が捕らえて院へ差し上げた。もともとこの馬は院の秘蔵の馬で、一の御厩に立てられていたのを、ある年宗盛公が内大臣になってお礼参りをしたときに下賜されたのを、弟の中納言に預けておかれたところ、中納言はたいそう大事にして、この馬の無事を祈るために、毎月一日ごとに泰山府君を祭られた。そのおかげであろうか、馬の息も長く、主の命も助けたのはめでたいことである。この馬はもと信濃国の井上で育ったので、井上黒と呼ばれた。今度は河越が捕らえて院へ差し上げたので、河越黒と呼ばれた。
その後、新中納言知盛卿は大臣殿の御前においでになって、涙を流して申されるには、「武蔵守にも先立たれました。監物太郎も討たせてしまいました。今は心細くなりました。子は父を討たせまいと敵に組むのを見ながら、どういう親だからといって、子が討たれるのを助けずにここまで逃げて参ったのでしょうか。他人の身の上なら、どんなにもどかしく思うことでしょうに、わが身の上になってみますと、よくよく命は惜しいものだと、今こそ思い知りました。人々がどうお思いになっているかと思うと恥ずかしゅうございます」といって、鎧の袖を顔に押し当てて、さめざめと泣かれたので、大臣殿は「まことに武蔵守が父の命の身代わりになられたのは、めったにないことです。腕も立ち心も剛で、よい大将軍でいらした人を。あの清宗と同い年で、今年は十六でしたね」といって、子の右衛門督(清宗)のおられる方をご覧になって涙ぐまれたので、その座に大勢居並んでおられた人々は、情を解する者も解さない者も、みな鎧の袖を濡らされた。
意訳
一の谷の浜辺での平家の公達の最期を語る章段である。父知盛を守って敵と組み、討たれた十六歳の知章と、その敵を討って座ったまま討ち死にした監物太郎の姿が、短いながら強く描かれる。
息の長い名馬に救われた知盛は、馬を射殺させずに渚へ返し、馬は主を慕って何度もいななく。のちに壇の浦で「見るべき程の事は見つ」と言って入水する知盛が、ここでは子を見捨てて逃げた自分を「よう命は惜しきものにて候ひけり」と恥じて泣く。勇将の弱さをそのまま語ることで、人の情のありかを深く照らし出している。
語釈・文法注
文法
- 「團扇の旗」
- 児玉党の旗印。団扇の紋を描いた旗。
- 「ゐながら討死してけり」
- 座ったまま討ち死にした。
- 「あるべうもなし」
- とんでもないことだ。あってはならない。
- 「悅申し」
- 官職に任じられたお礼を申し上げること。
- 「泰山府君」
- 中国の泰山の神。人の寿命や福禄をつかさどるとされ、陰陽道で祭られた。
- 「よう命は惜しきものにて候ひけり」
- よくよく命は惜しいものでございました。
- 「心あるも心なきも」
- 情を解する者も解さない者も。
解説
平知章は知盛の子で、一の谷の合戦で父をかばって討たれた。十六歳。神戸市長田区には知章を祀る塚が伝わる。知盛は屋島・壇の浦と戦い続け、文治元年(1185)壇の浦で入水する(巻第十一)。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、694–697頁(コマ376–377)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日