平家物語 巻第九
敦盛最後の事
一の谷の戦いに敗れた平家の公達が助け船へ逃れようとするところ、熊谷直実は沖の船へ馬を泳がせる若武者を呼び返し、組み伏せて兜を押し上げた。薄化粧をし、歯を黒く染めた十六、七の美しい若者で、わが子小次郎と同じ年ごろであった。熊谷は助けようとしたが、味方の大軍が迫り、泣く泣くその首を取る。鎧直垂に包もうとすると、腰に錦の袋に入れた笛があった。明け方城中で管絃を奏していたのはこの人々であった。若武者は経盛の末子敦盛、十七歳で、笛は小枝と呼ばれる名笛であった。これを機に熊谷は出家の心を起こした。
- 1さるさるさる程程ほどににに一一いちののの谷谷たにののの軍軍いくさやぶれやぶれやぶれしかしかしかばばば、、、武武む藏藏さしののの國國くにののの住住じゅう人人にん熊熊くま谷谷がえののの次次じ郎郎ろう直直なお實實ざね、、、平平へい家家けののの公公きん達達だちののの助助たすけ船船ぶねににに乘乘のらららんんんとてとてとて、、、汀汀みぎわののの方方かたへへへややや落落おちちち行行ゆききき給給たまふふうらんらんらん、、、あつぱれあつぱれあっぱれよきよきよき大大たい將將しょう軍軍ぐんににに組組くまままばやばやばやととと思思おもひひい、、、細細ほそ道道みちにににかゝつかゝつかかっててて、、、汀汀みぎわののの方方かたへへへ歩歩あゆまするまするまする所所ところににに、、、こゝこゝここににに練練ねり緯緯ぬきににに鶴鶴つる縫縫ぬうううたるたるたる直直ひた垂垂たれににに、、、萌萌もえ黄黄ぎ匂匂においののの鎧鎧よろい著著きててて、、、鍬鍬くわ形形がた打打うつつったるたるたる兜兜かぶとののの緒緒ををををしめしめしめ、、、金金こがねづくりづくりづくりののの太太た刀刀ちををを佩佩はききき、、、二二に十十じゅう四四しさいさいさいたるたるたる切切きり斑斑ふののの矢矢や負負おひひい、、、滋滋しげ籐籐どうののの弓弓ゆみ持持もちちち、、、連連れん錢錢ぜん葦葦あし毛毛げなるなるなる馬馬うまににに、、、金金きん覆覆ぷく輪輪りんののの鞍鞍くらおいおいおいててて乘乘のつつったりたりたりけるけるける者者もの一一いっ騎騎き、、、沖沖おきなるなるなる船船ふねををを目目めにににかけかけかけ、、、海海うみへへへさつさつさっととと打打うち入入いれれれ、、、五五ご六六ろく段段たんばかりばかりばかりぞぞぞ泳泳およがががせせせけるけるける。。。
- 2熊熊くま谷谷がえ、、、「「「あれあれあれはははいかにいかにいかに、、、よきよきよき大大たい將將しょう軍軍ぐんとととこそこそこそ見見み參參まいらせらせらせててて候候そうらへへえ。。。まさなうまさなうまさのうももも敵敵かたきににに後後うしろををを見見みせせせたまふたまふたまうものものものかなかなかな。。。返返かえさささせせせたまへ〳〵たまへ〳〵たまえかえさせたまえ。。。」」」ととと扇扇おうぎをををあげあげあげててて招招まねきききけれけれければばば、、、招招まねかかかれれれててて取取とつつっててて返返かへししし、、、汀汀みぎわににに打打うちちち上上あがらららんんんとととしししたまふたまふたまう所所ところににに、、、熊熊くま谷谷がえ波波なみうちうちうちぎはぎはぎわにてにてにておしおしおしならべならべならべ、、、むずむずむずととと組組くんんんででで、、、どうどうどうととと落落おちちち、、、取取とつつっててておさへおさへおさえててて首首くびをををかかかかかかんんんとてとてとて、、、兜兜かぶとをををおしおしおし仰仰あおけけけててて見見みたりたりたりけれけれければばば、、、薄薄うす化化げ粧粧しょうしてしてして鐵漿黑鐵漿黑かねぐろなりなりなり。。。わがわがわが子子こののの小小こ次次じ郎郎ろうががが齡齡よわいほどほどほどしてしてして、、、十十じゅう六六ろく七七しちばかんばかんばかんなるなるなるががが、、、容容よう顏顏がんまことまことまことににに美美び麗麗れいなりなりなり。。。「「「そも〳〵そも〳〵そもそもいかなるいかなるいかなる人人ひとにてにてにてわたらわたらわたらせせせたまひたまひたまい候候そうろうやらんやらんやらん、、、名名な乘乘のらららせせせたまへたまへたまえ。。。助助たすけけけ參參まいらせらせらせんんん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、「「「まづまづまずかうかうこういふいふいうわわわ殿殿どのははは誰誰たそそそ。。。」」」「「「ものものものそのそのその數數かずにてにてにてははは候候そうらははわねねねどもどもども、、、武武む藏藏さしののの國國くにののの住住じゅう人人にん熊熊くま谷谷がえののの次次じ郎郎ろう直直なお實實ざね。。。」」」ととと名名な乘乘のりりり申申もうすすす。。。「「「さてさてさてははは汝汝なんじががが爲爲ためにににはははよいよいよい敵敵かたきぞぞぞ。。。名名な乘乘のらららずずずとととももも、、、首首くびををを取取とつつっててて人人ひとににに問問とへへへ、、、見見み知知しらららうずるうずるうずるぞぞぞ。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
- 3熊熊くま谷谷がえあつぱれあつぱれあっぱれ大大たい將將しょう軍軍ぐんややや、、、このこのこの人人ひと一一いち人人にん討討うちちち奉奉たてまつりりりたりたりたりとととももも、、、負負まくくくべきべきべき軍軍いくさににに勝勝かつつつべきべきべき樣樣ようなしなしなし。。。またまたまた助助たすけけけ奉奉たてまつりりりたりたりたりとととももも、、、勝勝かつつつ軍軍いくさににに負負まくるくるくる事事こともももよもよもよもあらあらあらじじじ。。。今今け朝朝さ一一いちののの谷谷たににてにてにて、、、わがわがわが子子こ小小こ次次じ郎郎ろうががが薄薄うす手手で負負おううおうたるたるたるをををだにだにだにももも、、、直直なお實實ざねははは心心こころ苦苦ぐるしくしくしく思思おもふふうににに、、、このこのこの殿殿との討討うたたたれれれ給給たまひひいぬぬぬととと聞聞きききき給給たまひひいててて、、、さこそさこそさこそははは歎歎なげききき悲悲かなしみしみしみ給給たまははわんんんずらめずらめずらめ。。。助助たすけけけ參參まいらせらせらせんんんとてとてとて、、、後後うしろををを顧顧かえりみみみたりたりたりけれけれければばば、、、土土と肥肥ひ、、、梶梶かじ原原はら、、、五五ご十十じっ騎騎き許許ばかりりりででで出出いででで來來くるるる。。。熊熊くま谷谷がえ涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながいいいててて、、、「「「あれあれあれ御御ご覽覽らん候候そうらへへえ、、、いかにいかにいかにもももしてしてして助助たすけけけまゐらせまゐらせまいらせんんんとととははは存存ぞんじじじ候候そうらへへえどもどもども、、、御御み方方かたののの軍軍ぐん兵兵びょう、、、雲雲うん霞霞かののの如如ごとくくくににに充充みちちち滿滿みちちちててて、、、よもよもよも遁遁のがしししまゐらせまゐらせまいらせ候候そうらははわじじじ。。。あはれあはれあわれ同同おなじうじうじゅうははは、、、直直なお實實ざねののの手手てにににかけかけかけ奉奉たてまつつつっててて、、、後後のちののの御御ご孝孝きょう養養ようをををももも仕仕つかまつりりり候候そうらははわんんん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、「「「唯唯ただ何何なに樣樣さまにににももも、、、とう〳〵とう〳〵とうとう首首くびををを取取とれれれ。。。」」」とととぞぞぞ宣宣のたまひひいけるけるける。。。熊熊くま谷谷がえあまりあまりあまりにににいとほしくいとほしくいとおしくててて、、、いづくいづくいずくににに刀刀かたなををを立立たつつつべしべしべしとととももも覺覺おぼえええずずず、、、目目めもももくれくれくれ、、、心心こころももも消消きえええはてはてはてててて、、、前前ぜん後後ご不不ふ覺覺かくににに覺覺おぼえええけれけれけれどもどもども、、、さてさてさてしもしもしもあるあるあるべきべきべき事事ことならならならねねねばばば、、、泣泣なく〳〵く〳〵くなく首首くびをををぞぞぞかいかいかいてててけるけるける。。。
- 4あはれあはれあわれ弓弓ゆみ矢矢や取取とるるる身身みほどほどほど、、、口口くち惜惜おしかりしかりしかりけるけるける事事ことはははなしなしなし。。。武武ぶ藝藝げいののの家家いえににに生生うまれれれずずずばばば、、、何何なにしししにににたゞたゞただ今今いま斯斯かかるかるかる憂憂うききき目目めをををばばば見見みるるるべきべきべき。。。情情なさけなうなうのうももも討討うちちち奉奉たてまつつつったるたるたるものものものかなかなかなととと、、、袖袖そでををを顏顏かおにににおしおしおし當當あてててててて、、、さめ〴〵さめ〴〵さめざめとととぞぞぞ泣泣なきききゐゐいたるたるたる。。。首首くびををを包包つつまままんんんとてとてとて、、、鎧鎧よろい直直ひた垂垂たれをををといといといててて見見みけれけれければばば、、、錦錦にしきののの袋袋ふくろににに入入いれれれられられられたりたりたりけるけるける笛笛ふえをををぞぞぞ、、、腰腰こしにににさささささされれれたるたるたる。。。「「「あなあなあないとほしいとほしいとおし、、、このこのこの曉曉あかつき城城じょうののの中中うちにてにてにて管管かん絃絃げんししし給給たまひひいつるつるつるははは、、、このこのこの人人ひと々々びとにてにてにておはしおはしおわしけりけりけり。。。當當とう時時じ御御み方方かたににに東東とう國國ごくののの勢勢せい何何なん萬萬まん騎騎ぎかかかあらあらあらめめめどもどもども、、、軍軍いくさののの陣陣じんににに笛笛ふえもつもつもつ人人ひとはははよもよもよもあらあらあらじじじ。。。上上じょう臈臈ろうはははなほなほなおもももやさしかりやさしかりやさしかりけるけるけるものものものををを。。。」」」とてとてとて、、、これこれこれ取取とつつっててて大大たい將將しょう軍軍ぐんののの御御ご見見げん參參ざんににに入入いれれれたりたりたりけれけれければばば、、、見見みるるる人人ひと涙涙なみだををを流流ながしししけりけりけり。。。後後のちににに聞聞きけけけばばば、、、修修しゅ理理りののの大大だい夫夫ぶ經經つね盛盛もりののの乙乙おと子子ご大大たい夫夫ふ敦敦あつ盛盛もりとてとてとて、、、生生しょう年年ねん十十じゅう七七しちにににぞぞぞならならなられれれけるけるける。。。それそれそれよりよりよりしてしてしてこそこそこそ熊熊くま谷谷がえががが發發ほっ心心しんののの心心こころははは出出いででで來來きにににけれけれけれ。。。
- 5件件くだんののの笛笛ふえははは、、、祖祖そ父父ふ忠忠ただ盛盛もり笛笛ふえののの上上じょう手手ずにてにてにて、、、鳥鳥と羽羽ばののの院院いんよりよりより下下くだししし賜賜たまははわられられられたりたりたりしししををを、、、經經つね盛盛もり相相そう傳傳でんせせせられられられたりたりたりしししををを、、、敦敦あつ盛盛もり笛笛ふえののの器器き量量りょうたるたるたるににに依依よつつっててて、、、持持もたたたれれれたりたりたりけるけるけるとととかやかやかや。。。名名なをををばばば小小さ枝枝えだとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。狂狂きょう言言げん綺綺き語語ごのののことわりことわりことわりととといひいひいいながらながらながら、、、遂遂ついににに讚讚さん佛佛ぶつ乘乘じょうののの因因いんとととなるなるなるこそこそこそあはれあはれあわれなれなれなれ。。。
現代語訳
そうするうちに一の谷の戦いに敗れたので、武蔵国の住人熊谷次郎直実は、平家の公達が助け船に乗ろうとして水際の方へ落ちて行かれるだろう、ああ、よい大将軍と組みたいものだと思い、細道を通って水際の方へ馬を進めて行くところに、練緯の地に鶴を縫い取った直垂に萌黄匂の鎧を着て、鍬形を打った兜の緒をしめ、黄金づくりの太刀を佩き、二十四本差した切斑の矢を負い、滋籐の弓を持ち、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗った武者が一騎、沖の船をめざして海へさっと乗り入れ、五、六段ほど泳がせていた。
熊谷が「そこにおられるのはどなたか。よい大将軍とお見受けしました。卑怯にも敵に後ろをお見せになるものですな。お返しなさい、お返しなさい」と扇をあげて招いたので、招かれて取って返し、水際に上がろうとなさるところを、熊谷は波打ち際で馬を並べてむんずと組んで、どうと落ち、取り押さえて首をかこうとして、兜を押し上げて見ると、薄化粧をして歯を黒く染めている。わが子の小次郎ほどの年ごろで、十六、七歳ぐらいであるが、顔かたちはまことに美しい。「いったいどういうお方でいらっしゃいますか。お名のりください。お助けしましょう」と申したので、「まずそういうおまえは誰か」「ものの数ではございませんが、武蔵国の住人熊谷次郎直実」と名のり申した。「それではおまえにとってはよい敵だ。名のらなくても、首を取って人に尋ねよ。見知っている者がいるだろう」とおっしゃった。
熊谷は、ああ立派な大将軍だ、この人一人を討ち申しても、負けるはずの戦に勝てるわけでもない。また助け申しても、勝つはずの戦に負けることもまさかあるまい。今朝一の谷で、わが子小次郎が浅手を負ったのさえ直実はつらく思うのに、この殿が討たれなさったとお聞きになったら、父君はさぞお嘆き悲しみになるだろう。お助けしようと思って後ろを振り返ると、土肥・梶原が五十騎ほどで現れた。熊谷は涙をはらはらと流して、「あれをご覧ください。なんとかしてお助けしようとは思いますが、味方の軍兵が雲霞のように満ちていて、とてもお逃がしすることはできますまい。同じことなら、直実の手におかけ申して、後のご供養をいたしましょう」と申したので、「ただどうでもよい。早く早く首を取れ」とおっしゃった。熊谷はあまりにいたわしくて、どこに刀を立ててよいかも分からず、目もくらみ、心も消え果てて、前後も分からなくなったが、そうしてばかりもいられないので、泣く泣く首をかき切った。
ああ、弓矢を取る身ほど無念なものはない。武芸の家に生まれなかったら、どうして今このようなつらい目にあうことがあろうか。情けなくも討ち申したものよと、袖を顔に押し当てて、さめざめと泣いていた。首を包もうとして鎧直垂を解いて見ると、錦の袋に入れた笛を腰に差しておられた。「ああ、いたわしい。この明け方、城の中で管絃をなさっていたのは、この人々であったのだ。今味方には東国の軍勢が何万騎いるか分からないが、戦の陣に笛を持つ人はまさかあるまい。身分の高い人はやはり優雅なものだ」といって、これを大将軍(義経)のお目にかけたところ、見る人はみな涙を流した。後に聞くと、修理大夫経盛の末子、大夫敦盛といって、生年十七歳になっておられた。それからこそ、熊谷の出家の心が起こったのである。
その笛は、祖父忠盛が笛の名手で鳥羽院から下賜されたものを、経盛が受け継いでおられたのを、敦盛が笛の才能があったので持っておられたとかいう。名を小枝と申した。音楽や詩歌は狂言綺語(飾りたてた無益な言葉)だというけれども、ついには仏道を讃える縁となったことこそ、しみじみと心を打つ。
意訳
『平家物語』の中でもっとも広く知られた章段の一つである。組み伏せた敵の若武者が、わが子と同じ年ごろの美しい公達だと知って助けようとする熊谷と、名のらずに潔く首を差し出す敦盛との対照が、静かな緊張のうちに描かれている。
「弓矢取る身ほど、口惜しかりける事はなし」という熊谷の嘆きは、手柄を求めて先陣を争った「一二のかけ」の熊谷とは別人のようである。腰の笛が、明け方に城中から聞こえた管絃の主を明かす結末には、戦場と雅びとの残酷な交わりがあり、熊谷はこれを機に出家の道へ向かう。
語釈・文法注
文法
- 「練緯」
- 縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いて織った絹。
- 「萌黄匂の鎧」
- 萌黄色を上から下へしだいに薄くした縅の鎧。
- 「薄化粧して鐵漿黑なり」
- 薄く化粧をし、歯を鉄漿(おはぐろ)で黒く染めている。上流の公達のたしなみ。
- 「ばかんなる」
- 「ばかりなる」の音便。
- 「首を取つて人に問へ、見知らうずるぞ」
- 首を取って人に尋ねよ。見知っている者がいるだろう。名のらずとも身分の高さは分かる、という誇り。
- 「後の御孝養」
- 死後の供養。
- 「乙子」
- 末の子。
- 「狂言綺語」
- 道理に合わない言葉と飾りたてた言葉。仏教の立場から詩歌や物語をいう。白居易の詩句に基づく。
- 「讚佛乘の因」
- 仏の教えを讃える縁。
解説
平敦盛は清盛の弟経盛の末子で、寿永三年(1184)二月七日、一の谷で熊谷直実に討たれた。十七歳。神戸市須磨区の須磨寺には敦盛の首塚と、敦盛遺愛と伝える青葉の笛(「小枝」とも)が伝わる。
熊谷直実はのちに法然の弟子となり、蓮生と名のった。この話は、能「敦盛」、幸若舞「敦盛」(織田信長が好んで舞ったという「人間五十年」の一節を含む)、浄瑠璃・歌舞伎「一谷嫩軍記」など、多くの芸能に受け継がれた。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、692–694頁(コマ375–376)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日