平家物語 巻第九
二度のかけの事
大手の生田の森では、武蔵国の河原太郎高直・次郎盛直の兄弟が、大名と違い自ら手柄を立てねばならないと、徒歩で逆茂木を越えて城中に入り、先陣を名のった。二人は真名辺五郎に射られて討たれ、知盛は惜しい剛の者よと嘆いた。これをきっかけに梶原景時は五百余騎で攻め入るが、引き返すと嫡子源太景季の姿がない。景時は名のりをあげて再び敵中に駆け入り、徒歩で五人の敵に囲まれていた源太を救い出した。これが梶原の二度の駆けである。
- 1さるさるさる程程ほどににに成成なり田田た五五ご郎郎ろうももも出出いででで來來くるるる。。。土土と肥肥ひののの次次じ郎郎ろう實實さね平平ひら七七しち千千せん餘餘よ騎騎き、、、色色いろ々々いろののの旗旗はたさしさしさしあげあげあげ、、、喚喚おめききき叫叫さけんんんででで攻攻せめめめ戰戰たたかふふう。。。大大おお手手て生生いく田田たののの森森もりをををばばば、、、源源げん氏氏じ五五ご萬萬まん餘餘よ騎騎きででで固固かためめめたりたりたりけるけるけるががが、、、そのそのその勢勢せいののの中中なかににに武武む藏藏さしののの國國くにののの住住じゅう人人にん河河かわ原原ら太太た郎郎ろう、、、河河かわ原原ら次次じ郎郎ろうとてとてとて兄兄おと弟弟といありありあり。。。河河かわ原原ら太太た郎郎ろう、、、弟弟おとうとののの次次じ郎郎ろうををを呼呼よううようでででいひいひいいけるけるけるははは、、、「「「大大だい名名みょうはははわれわれわれととと手手てををを下下くださささねねねどもどもども、、、家家け人人にんののの高高こう名名みょうををを以以もっててて名名めい譽譽よすすす。。。われわれわれらららははは自自みずからからから手手てををを下下くださささででではははかなひかなひかない難難がたししし。。。敵敵かたきををを前前まえににに置置おきききながらながらながら、、、矢矢や一一ひとつつつをををだにだにだに射射いずずずしてしてして待待まちちちゐゐいたれたれたればばば、、、餘餘あまりりりににに心心こころもともともとなきなきなきににに、、、高高たか直直なおははは城城じょうののの中中なかへへへまぎれまぎれまぎれ入入いつつっててて、、、一一ひと矢矢や射射いんんんととと思思おもふふうなりなりなり。。。さればさればされば千千せん萬萬まんががが一一ひとつつつももも、、、生生いきききててて歸歸かえらららんんん事事ことありありあり難難がたししし。。。汝汝なんじははは殘殘のこりりり止止とどまつまつまっててて後後のちののの證證しょう人人にんににに立立たててて。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、弟弟おとうとののの次次じ郎郎ろう、、、涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながいいいててて、、、「「「たゞたゞただ兄兄きょう弟弟だい二二ふた人人りあるあるある者者ものががが、、、兄兄あにををを討討うたたたせせせててて弟弟おとうとがががあとあとあとににに殘殘のこりりり留留とどまつまつまったれたれたればばばとてとてとて、、、いくいくいくほどほどほどののの榮榮えい華華がをををかかか保保たもつつつべきべきべき。。。所所ところ々々どころででで討討うたたたれれれんんんよりよりより、、、一一いっ所所しょでででこそこそこそ討討うち死死じにをををもももせせせめめめ。。。」」」とてとてとて、、、下下げ人人にんどもどもども呼呼よびびび寄寄よせせせ、、、妻妻さい子子しののの許許もとへへへ最最さい後後ごのののありありありさまさまさまいひいひいい遣遣つかははわししし、、、馬馬うまにににははは乘乘のらららででで芥下芥下けけをををはきはきはき、、、弓弓ゆん杖杖づえをををついついついててて、、、生生いく田田たののの森森もりののの逆逆さか木木もぎををを上上のぼりりり越越こえええててて、、、城城じょうののの中中なかへへへぞぞぞ入入いつつったりたりたりけるけるける。。。星星ほし明明あかりりりににに鎧鎧よろいののの毛毛けさだかさだかさだかならならならずずず。。。河河かわ原原ら太太た郎郎ろう大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「武武む藏藏さしののの國國くにののの住住じゅう人人にん河河かわ原原ら太太た郎郎ろう私私きさいちののの高高たか直直なお、、、同同おなじきじきじき次次じ郎郎ろう盛盛もり直直なお、、、生生いく田田たののの森森もりののの先先せん陣陣じんぞぞぞややや。。。」」」とととぞぞぞ名名な乘乘のつつったるたるたる。。。
- 2城城じょうののの内内うちにににはははこれこれこれををを聞聞きいいいててて、、、「「「あつぱれあつぱれあっぱれ東東とう國國ごくののの武武ぶ士士しほどほどほど、、、おそろしかりおそろしかりおそろしかりけるけるける者者ものはははなしなしなし。。。このこのこの大大おお勢勢ぜいののの中中なかへへへ、、、たゞたゞただ兄兄きょう弟弟だい二二ふた人人りかけかけかけ入入いつつったらたらたらばばば、、、何何なにほどほどほどののの事事ことをををかかかししし出出いだすすすべきべきべき。。。たゞたゞただ置置おいいいててて愛愛あいせせせよよよややや。。。」」」とてとてとて、、、討討うたたたんんんととといふいふいう者者ものこそこそこそなかりなかりなかりけれけれけれ。。。河河かわ原原ら兄兄きょう弟弟だい、、、究究くっ竟竟きょうののの弓弓ゆみののの上上じょう手手ずなりなりなりけれけれければばば、、、さしさしさしつめつめつめ引引ひきききつめつめつめ、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに射射いるるる。。。城城じょうののの内内うちにににはははこれこれこれををを見見みててて、、、「「「今今いまはははこのこのこの者者もの愛愛あいしししにくしにくしにくし。。。討討うてててややや。。。」」」ととといふいふいう程程ほどこそこそこそありありありけめけめけめ、、、西西さい國國こくににに聞聞きこえええたるたるたる強強つよ弓弓ゆみ、、、精精せい兵兵びょう、、、備備びっ中中ちゅうののの國國くにののの住住じゅう人人にん眞眞ま名名な邊邊べののの四四し郎郎ろう、、、眞眞ま名名な邊邊べののの五五ご郎郎ろうとてとてとて兄兄おと弟弟といありありあり。。。兄兄あにののの四四し郎郎ろうをををばばば一一いちののの谷谷たにににに置置おかかかれれれたりたりたり。。。弟弟おとうとののの五五ご郎郎ろうははは生生いく田田たののの森森もりにににありありありけるけるけるががが、、、これこれこれををを見見みててて、、、よつよつよっぴきぴきぴき、、、しばししばししばし保保たもつつってててひようとひようとひょうと射射いるるる。。。河河かわ原原ら太太た郎郎ろうががが鎧鎧よろいののの胸胸むな板板いたををを、、、後後うしろへへへつつつととと射射いぬかぬかぬかれれれててて、、、弓弓ゆん杖杖づえににに縋縋すがりりりすくむすくむすくむ所所ところををを、、、弟弟おとうとののの次次じ郎郎ろう走走はしりりり寄寄よりりり、、、兄兄あにををを肩肩かたにににひつひつひっかけかけかけててて、、、生生いく田田たののの森森もりののの逆逆さか木木もぎ上上のぼりりり越越こえええんんんとととするするする所所ところををを、、、眞眞ま名名な邊邊べががが二二にののの矢矢やににに弟弟おとうとののの次次じ郎郎ろうががが鎧鎧よろいののの草草くさ摺摺ずりのののはづれはづれはずれををを射射いさせさせさせててて、、、同同おなじじじ枕枕まくらににに伏伏ふしししにににけりけりけり。。。眞眞ま名名な邊邊べががが下下げ人人にん落落おちちちあはせあはせあわせててて、、、河河かわ原原ら兄兄きょう弟弟だいががが首首くびををを取取とるるる。。。大大たい將將しょう軍軍ぐん新新しん中中ちゅう納納な言言ごん知知とも盛盛もりののの卿卿きょうののの御御ご見見げん參參ざんににに入入いれれれたりたりたりけれけれければばば、、、「「「あつぱれあつぱれあっぱれ剛剛こうののの者者ものややや、、、これこれこれらららをををこそこそこそ一一いち人人にん當當とう千千ぜんのののよきよきよき兵兵つわものどもどもどもととともももいふいふいうべけれべけれべけれ。。。あつたらあつたらあったら者者ものどもどもどもががが、、、命命いのちをををばばば助助たすけけけててて見見みててて。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
- 3そのそのその後後のち、、、河河かわ原原らががが下下げ人人にん走走はしりりり散散ちつつっててて、、、「「「河河かわ原原ら殿殿どの兄兄きょう弟弟だいこそこそこそたゞたゞただ今今いま城城じょうののの中中なかへへへ、、、まつまつまっ先先さきかけかけかけててて討討うたたたれれれさせさせさせ給給たまひひいぬるぬるぬるははは。。。」」」ととと呼呼よばははわつつったりたりたりけれけれければばば、、、梶梶かじ原原はら平平へい三三ぞうこれこれこれををを聞聞きいいいててて、、、「「「これこれこれははは私私しののの黨黨とうののの殿殿との原原ばらののの不不ふ覺覺かくでででこそこそこそ、、、河河かわ原原ら兄兄きょう弟弟だいをををばばば討討うたたたせせせたれたれたれ。。。時時ときよくよくよくなりなりなりぬるぬるぬるぞぞぞ、、、寄寄よせせせよよよややや。。。」」」とてとてとて、、、梶梶かじ原原はら五五ご百百ひゃく餘餘よ騎騎き生生いく田田たののの森森もりののの逆逆さか木木もぎををを取取とりりりのけのけのけさせさせさせててて、、、城城じょうののの内内うちへへへをめいをめいおめいてててかくかくかく。。。次次じ男男なん平平へい次次じ、、、あまりあまりあまりににに先先さきをををかけかけかけうううととと進進すすむむむ間間あいだ、、、父父ちち平平へい三三ぞう使使し者者しゃををを立立たてててててて、、、「「「後後ご陣陣じんののの勢勢せいのののつゞかつゞかつづかざらざらざらんんんににに、、、先先さきかけかけかけたらたらたらんんん者者ものにににははは、、、勸勸けん賞賞じょうあるあるあるまじきまじきまじきよしよしよし大大たい將將しょう軍軍ぐんよりよりよりののの仰仰おおせせせぞぞぞ。。。」」」ととといひいひいい送送おくつつったりたりたりけれけれければばば、、、平平へい次次じしばらくしばらくしばらく控控ひかへへえててて、、、
- 4もののふもののふもののうののの取取とりりりつたへつたへつたえたるたるたる梓梓あずさ弓弓ゆみ引引ひいいいてててははは人人ひとのののかへすかへすかえすものものものかはかはかは
- 5ととと申申もうさささせせせ給給たまへへえやややとてとてとて、、、をめいをめいおめいてててかくかくかく。。。梶梶かじ原原はらこれこれこれををを見見みててて、、、「「「平平へい次次じ討討うたたたすすすななな者者ものどもどもども、、、景景かげ高高たか討討うたたたすすすななな續續つづけけけややや。。。」」」とてとてとて、、、父父ちちののの平平へい三三ぞう、、、兄兄あにののの源源げん太太た、、、同同おなじきじきじき三三さぶ郎郎ろうつゞいつゞいつづいたりたりたり。。。梶梶かじ原原はら五五ご百百ひゃく餘餘よ騎騎き、、、大大おお勢勢ぜいののの中中なかへへへかけかけかけ入入いりりり、、、縱縱たてざまざまざま、、、横横よこざまざまざま、、、蜘蜘く蛛蛛も手手で、、、十十じゅう文文もん字字じにににかけかけかけわつわつわっててて、、、さつさつさっととと引引ひいいいててて出出いでででたれたれたればばば、、、嫡嫡ちゃく子子しののの源源げん太太たははは見見みえええざりざりざりけりけりけり。。。梶梶かじ原原はら、、、郎郎ろう等等どうどもどもどもににに、、、「「「源源げん太太たはははいかにいかにいかに。。。」」」ととと問問とひひいけれけれければばば、、、「「「あまりあまりあまりににに深深ふか入入いりりりしてしてして、、、討討うたたたれれれさせさせさせ給給たまひひいててて候候そうろうやらんやらんやらん。。。遙遙はるかかかににに見見みえええさせさせさせ給給たまひひい候候そうらははわずずず。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、梶梶かじ原原はら、、、涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながいいいててて、、、「「「軍軍いくさののの先先さきをををかけかけかけうううととと思思おもふふうももも子子こどもどもどもがががためためため、、、源源げん太太た討討うたたたせせせててて、、、景景かげ時時とき命命いのち生生いきききててて何何なににににかかかはははせせせんんんなれなれなればばば、、、かへせかへせかえせややや。。。」」」とてとてとて、、、またまたまた取取とつつってててかへすかへすかえす。。。
- 6梶梶かじ原原はら鐙鐙あぶみふんばりふんばりふんばり立立たちちちあがりあがりあがり、、、大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「昔昔むかし八八はち幡幡まん殿殿どのののの後後ご三三さん年年ねんののの御御おん戰戰たたかいににに、、、出出で羽羽わののの國國くに千千せん福福ぶく金金かね澤澤ざわののの城城じょうををを攻攻せめめめ給給たまひひいししし時時とき、、、生生しょう年年ねん十十じゅう六六ろく歳歳さいととと名名な乘乘のつつってててまつまつまっ先先さきかけかけかけ、、、弓弓ゆん手手でののの眼眼まなこををを兜兜かぶとののの鉢鉢はちつけつけつけののの板板いたににに射射いつけつけつけられられられながらながらながら、、、そのそのその矢矢やををを拔拔ぬかかかででで、、、當當とうののの矢矢やををを射射いかへしかへしかえし、、、敵敵かたき射射い落落おとししし、、、勸勸けん賞賞じょう蒙蒙こうむりりり、、、名名なををを後後こう代代だいににに揚揚あげげげたりたりたりししし鎌鎌かま倉倉くらののの權權ごん五五ご郎郎ろう景景かげ政政まさににに五五ご代代だいののの末末ばつ葉葉よう、、、梶梶かじ原原はら平平へい三三ぞう景景かげ時時ときとてとてとて、、、東東とう國國ごくににに聞聞きこえええたるたるたる一一いち人人にん當當とう千千ぜんののの兵兵つわものぞぞぞややや。。。われわれわれととと思思おもははわんんん人人ひと々々びとははは寄寄よりりりあへあへあえややや、、、見見げん參參ざんせせせんんん。。。」」」とてとてとて、、、をめいをめいおめいてててかくかくかく。。。城城じょうののの内内うちにににはははこれこれこれををを聞聞きいいいててて、、、「「「たゞたゞただ今今いま名名な乘乘のるるるははは東東とう國國ごくににに聞聞きこえええたるたるたる兵兵つわものぞぞぞややや。。。あますあますあますななな、、、もらすもらすもらすななな、、、討討うてててややや。。。」」」とてとてとて、、、梶梶かじ原原はらををを中中なかににに取取とりりりこめこめこめててて、、、われわれわれ討討うちちち取取とらららんんんとととぞぞぞ進進すすみみみけるけるける。。。
- 7梶梶かじ原原はらまづまづまずわがわがわが身身みののの上上うえをををばばば知知しらららずずずしてしてして、、、源源げん太太たはははいづくいづくいずくにににあるあるあるやらんやらんやらんととと、、、驅驅かけけけわりわりわり驅驅かけけけ廻廻まわりりり尋尋たずぬるぬるぬる程程ほどににに、、、案案あんののの如如ごとくくく、、、源源げん太太たははは馬馬うまをををももも射射いさせさせさせ、、、徒徒かち歩歩だちににになりなりなり、、、兜兜かぶとをををももも打打うち落落おとささされれれ、、、大大おお童童わらわににに戰戰たたかひひいなつなつなっててて、、、二二に丈丈じょうばかりばかりばかりありありありけるけるける岸岸きしををを後後うしろににに當當あててて、、、郎郎ろう等等どう二二ふた人人り左左さ右右ゆうににに立立たててて、、、打打うち物物もの拔拔ぬいいいててて、、、敵敵かたき五五ご人人にんががが中中なかににに取取とりりりこめこめこめられられられててて、、、面面おもてもももふらふらふらずずず、、、命命いのちももも惜惜おしましましまずずず、、、こゝこゝここををを最最さい後後ごととと攻攻せめめめ戰戰たたかふふう。。。梶梶かじ原原はらこれこれこれををを見見みててて、、、源源げん太太たははは未未いまだだだ討討うたたたれれれざりざりざりけりけりけりととと、、、うれしううれしううれしゅう思思おもひひい、、、急急いそぎぎぎ馬馬うまよりよりより飛飛とんんんででで下下おりりり、、、「「「いかにいかにいかに源源げん太太た、、、景景かげ時時ときこゝこゝここにににありありあり、、、同同おなじうじうじゅう死死しぬるぬるぬるとととももも、、、敵敵かたきににに後後うしろををを見見みすすすななな。。。」」」とてとてとて、、、父父おや子子こしてしてして五五ご人人にんののの敵敵かたきををを三三さん人人にん討討うちちち取取とりりり、、、二二ふた人人りににに手手て負負おははわせせせててて、、、「「「弓弓ゆみ矢矢や取取とりははは、、、かくるかくるかくるももも引引ひくくくももも折折おりにににこそこそこそよれよれよれ、、、いざいざいざうれうれうれ源源げん太太た。。。」」」とてとてとて、、、かいかいかい具具ぐしししてててぞぞぞ出出いでででたりたりたりけるけるける。。。梶梶かじ原原はらががが二二に度度どのののかけかけかけとととはははこれこれこれなりなりなり。。。
現代語訳
そうするうちに成田五郎も現れた。土肥次郎実平の七千余騎は、色とりどりの旗を差し上げ、わめき叫んで攻め戦った。大手の生田の森は源氏の五万余騎で固めていたが、その軍勢の中に武蔵国の住人河原太郎・河原次郎という兄弟がいた。河原太郎が弟の次郎を呼んで言うには、「大名は自分で手を下さなくても、家人の手柄によって名誉を得る。われらは自分で手を下さなくてはかなわない。敵を前にしながら矢一本も射ずに待っているのは、あまりにもどかしいので、高直は城の中へまぎれこんで一矢射ようと思う。だから万に一つも生きて帰ることはあるまい。おまえは残って後の証人に立て」と言ったので、弟の次郎は涙をはらはらと流して、「たった二人の兄弟が、兄を討たせて弟が後に残ったからといって、どれほどの栄華を保てましょう。別々の所で討たれるより、一緒に討ち死にしましょう」といって、下人たちを呼び寄せて妻子のもとへ最後のありさまを言い送り、馬には乗らずに草鞋をはき、弓を杖について、生田の森の逆茂木を越えて城の中へ入った。星明かりで鎧の縅の色もはっきりしない。河原太郎は大音声をあげて、「武蔵国の住人河原太郎私市高直、同じく次郎盛直、生田の森の先陣だぞ」と名のった。
城の中ではこれを聞いて、「ああ、東国の武士ほど恐ろしい者はない。この大勢の中へたった兄弟二人で駆け入って、何ほどのことができよう。ただ放っておいてかわいがってやれ」といって、討とうという者はいなかった。河原兄弟は屈強の弓の名手だったので、次々と矢をつがえて引きしぼり、さんざんに射る。城の中ではこれを見て、「もうこいつらはかわいがってはいられない。討て」と言うやいなや、西国に聞こえた強弓・精兵の、備中国の住人真名辺四郎・真名辺五郎という兄弟がいた。兄の四郎は一の谷に置かれていた。弟の五郎は生田の森にいたが、これを見て、弓をよく引きしぼってしばらく狙いを保ち、ひょうと射た。河原太郎は鎧の胸板を後ろへさっと射抜かれて、弓杖にすがってすくむところを、弟の次郎が走り寄って兄を肩にかつぎ、生田の森の逆茂木を越えようとするところを、真名辺の二の矢に、弟の次郎も鎧の草摺のはずれを射られて、同じ所に倒れ伏した。真名辺の下人が駆け寄って、河原兄弟の首を取った。大将軍の新中納言知盛卿のお目にかけると、「ああ剛の者よ。これらこそ一騎当千のよい武士というべきだ。惜しい者どもだ。命を助けておきたかったものを」とおっしゃった。
その後、河原の下人が走り回って、「河原殿のご兄弟がただ今、城の中へ真っ先に駆けて討たれなさったぞ」と叫んだので、梶原平三(景時)はこれを聞いて、「これはわが党の殿原の不覚で、河原兄弟を討たせてしまったのだ。今こそ時が来たぞ。寄せよ」といって、梶原の五百余騎は生田の森の逆茂木を取りのけさせて、城の中へわめいて駆け入った。次男の平次(景高)があまりに先駆けしようと進むので、父の平三が使者を立てて、「後陣の勢が続かないのに先駆けした者には恩賞を与えないと、大将軍からの仰せだぞ」と言い送ったところ、平次はしばらく馬を止めて、
(武士が先祖から伝えてきた梓弓は、いったん引いたら引き返すものだろうか。一度進んだら引き返せない)
と申し上げてくださいといって、わめいて駆けた。梶原はこれを見て、「平次を討たせるな者ども、景高を討たせるな。続け」といって、父の平三、兄の源太、同じく三郎が続いた。梶原の五百余騎は大勢の中へ駆け入り、縦横、四方八方に駆け割って、さっと引いて出てきたところ、嫡子の源太の姿が見えない。梶原が郎等たちに「源太はどうした」と問うと、「あまりに深入りして討たれなさったのでしょうか。遠くにもお姿が見えません」と申したので、梶原は涙をはらはらと流して、「戦の先駆けをしようと思うのも子どもたちのためだ。源太を討たせて、景時が生きていても何になろう。引き返せ」といって、また取って返した。
梶原は鐙を踏んばって立ち上がり、大音声をあげて、「昔、八幡殿(源義家)の後三年の御戦で、出羽国千福金沢の城を攻められたとき、生年十六歳と名のって真っ先に駆け、左の目を兜の鉢付けの板まで射通されながら、その矢を抜かずに射返して敵を射落とし、恩賞をこうむって名を後世にあげた鎌倉権五郎景政から五代の子孫、梶原平三景時といって、東国に聞こえた一騎当千の武士だぞ。われと思わん人々は寄って来い。お目にかかろう」といって、わめいて駆けた。城の中ではこれを聞いて、「ただ今名のるのは東国に聞こえた武士だぞ。討ち残すな、漏らすな、討て」といって、梶原を中に取りこめて、自分が討ち取ろうと進んだ。
梶原は、まず自分の身の上もかえりみず、源太はどこにいるのかと、駆け割り駆け回って探すうちに、案の定、源太は馬を射られて徒歩となり、兜も打ち落とされて髪を振り乱して戦い、二丈ほどの崖を背にして、郎等二人を左右に立て、太刀を抜いて、五人の敵に取り囲まれながら、わき目もふらず、命も惜しまず、ここを最後と攻め戦っていた。梶原はこれを見て、源太はまだ討たれていなかったとうれしく思い、急いで馬から飛び降り、「どうした源太。景時はここにいるぞ。同じく死ぬにしても、敵に後ろを見せるな」といって、父子で五人の敵のうち三人を討ち取り、二人に傷を負わせて、「弓矢取る身は、駆けるも引くも時によるものだ。さあ源太」といって、抱えるようにして連れ出した。梶原の二度の駆けとはこのことである。
意訳
生田の森の大手の戦いを語る章段である。前半の河原兄弟は、大名のように家人の手柄で名をあげることのできない小武士の悲哀を背負い、命と引きかえに先陣の名を得ようとする。敵将知盛までが「あつたら者ども」と惜しんだ二人の死は、東国武士の気概をよく伝えている。
後半は、嫡子源太を救うために再び敵中に駆け入る梶原景時の「二度のかけ」である。のちに義経と対立して讒言者として描かれる景時も、ここでは子を思う父として、また家の名誉を誇る東国武士として描かれている。平次の梓弓の歌も、退くことを恥とする若武者の心意気を示している。
語釈・文法注
文法
- 「愛せよや」
- かわいがってやれ。取るに足りないものとして相手にしないこと。
- 「芥下」
- 「けけ」。わらで作った粗末な履物。
- 「私の高直」
- 「私」は「きさいち」と読み、武蔵の私市(きさいち)党の名字。
- 「同じ枕に伏しにけり」
- 兄と同じ所に倒れ伏した。
- 「私の黨の殿原」
- わが党の人々。ここでは「し(私)」と読む。
- 「當の矢」
- 自分を射た相手に射返す矢。
- 「大童」
- 兜が脱げて髪がばらばらに乱れたさま。
- 「かい具して」
- 抱きかかえるようにして連れて。
和歌
もののふの取りつたへたる梓弓引いては人のかへすものかは
- 詠者
- 梶原景高
- 状況
- 一の谷の生田の森の戦いで、先駆けを止めようとした父景時の使者に返した歌。
修辞
- 梓弓引いては
- 「弓を引く」と「(戦いから)引く」を掛け、一度弓を引いたら(進んだら)引き返せないの意。
- かへす
- 弓の「返す」と兵を「返す」を掛ける。
解説
生田の森(神戸市中央区の生田神社付近)は、一の谷合戦で平家が東の木戸口を構えた所で、大手の範頼軍と平家の知盛・重衡らがここで戦った。梶原景時が生田の森で箙に梅の枝を挿して戦ったという「箙の梅」の伝説も、景季にまつわるものとして伝えられている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、680–683頁(コマ369–370)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日