平家物語 巻第九
老馬の事
三草の敗報を受けた宗盛は、山の手(鵯越の麓)の守りを一門に求めたが皆辞退し、能登守教経だけが引き受けた。陣屋に北の方を迎えて名残を惜しむ兄通盛を、教経は強くいさめた。源氏の遠火は星のように一面に広がり、平家は不安な夜を過ごす。六日、義経は軍を二手に分け、自らは三千余騎で鵯越へ向かった。道案内に迷う兵たちに、別府清重の進言で老馬を先に立てて深山に入り、弁慶が連れてきた老猟師の子熊王を鷲尾三郎義久と名のらせて案内者とした。
- 1大臣殿大臣殿おおいどの、、、安安あ藝藝きののの右右う馬馬まののの助助すけ能能よし行行ゆきををを使使し者者しゃにてにてにて、、、人人ひと々々びとののの許許もとへへへのたまひのたまひのたまい遣遣つかははわされされされけるけるけるははは、、、「「「九九く郎郎ろう義義よし經經つねこそこそこそ三三み草草くさののの手手てををを攻攻せめめめ破破やぶつつっててて、、、既既すでににに亂亂みだれれれ入入いるるる由由よし聞聞きこえええ候候そうろう。。。山山やまののの手手てががが大大だい事事じででで候候そうらへへえばばば、、、各各おのおの向向むかははわれれれ候候そうらひひいなんなんなんややや。。。」」」とととのたまひのたまひのたまい遣遣つかははわされされされたりたりたりけれけれければばば、、、皆皆みな辭辭じししし申申もうささされれれけりけりけり。。。能能の登登と殿殿どののののもともともとへへへももも、、、「「「度度たび々々たびののの事事ことでででははは候候そうらへへえどもどもども、、、今今こん度度どもももまたまたまた御御ご邊邊へん向向むかははわれれれ候候そうらひひいなんなんなんややや。。。」」」とととのたまひのたまひのたまい遣遣つかははわされされされたりたりたりけれけれければばば、、、能能の登登と殿殿どのののの返返へん事事じににに、、、「「「軍軍いくさはははさやうさやうさようににに狩狩かり漁漁すなどりなどなどなどののの樣樣ようににに、、、足足あし立立だちのののよからよからよからううう方方かたへへへははは向向むかははわううう、、、あしからあしからあしからんんん方方かたへへへははは向向むかははわじじじなどなどなど候候そうらははわんんんにににははは、、、軍軍いくさににに勝勝かつつつ事事ことはははよもよもよも候候そうらははわじじじ。。。幾幾いく度度たびでででももも候候そうらへへえ、、、こはからこはからこわからんんん方方かたへへへははは教教のり經經つね承承うけたまわつつってててまかりまかりまかり向向むかひひい候候そうろうべしべしべし。。。一一いっ方方ぽううちうちうち破破やぶつつっててて參參まいらせらせらせ候候そうらははわんんん。。。御御おん心心こころ安安やすうううおぼしめさおぼしめさおぼしめされれれ候候そうろうべしべしべし。。。」」」ととと申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、大臣殿大臣殿おおいどのなのめなのめなのめならならならずずずににに喜喜よろこびびび給給たまひひいててて、、、越越えっ中中ちゅうののの前前ぜん司司じ盛盛もり俊俊としををを先先さきとととしてしてして一一いち萬萬まん餘餘よ騎騎き、、、能能の登登と殿殿どのにににぞぞぞつけつけつけられられられけるけるける。。。
- 2兄兄あに越越えち前前ぜんののの三三さん位位み通通みち盛盛もりののの卿卿きょうををを相相あい具具ぐしししててて、、、山山やまののの手手てへへへぞぞぞ向向むかははわれれれけるけるける。。。このこのこの山山やまののの手手てととと申申もうすすすははは、、、一一いちののの谷谷たにののの後後うしろ、、、鵯鵯ひよどり越越ごえののの麓麓ふもとなりなりなり。。。通通みち盛盛もりののの卿卿きょう、、、能能の登登と殿殿どのののの假假かり屋屋やへへへ北北きたののの方方かた迎迎むかへへえよせよせよせ給給たまひひいててて、、、最最さい後後ごののの名名な殘殘ごり惜惜おしましましまれれれけりけりけり。。。能能の登登と殿殿どの大大おおきききににに怒怒いかつつっててて、、、「「「このこのこの手手てははは大大だい事事じののの方方かたとてとてとて、、、教教のり經經つね向向むけけけられられられ候候そうろうががが、、、まことまことまことにににこはうこはうこおう候候そうろうなりなりなり。。。たゞたゞただ今今いまももも上上うえののの山山やまよりよりより敵敵かたき落落おとすすす程程ほどならならならばばば、、、取取とるるるものものものももも取取とりりりあへあへあえ候候そうろうまじまじまじ、、、たとひたとひたとい弓弓ゆみをををばばば持持もつつったりたりたりとととももも、、、矢矢やははははげはげはげずずずばばばあしかるあしかるあしかるべしべしべし。。。たとひたとひたとい矢矢やをををばばばはげはげはげたりたりたりとととももも、、、引引ひかかかずずずばばばなほなほなおももも惡惡あしかるしかるしかるべしべしべし。。。ましてましてましてさやうさやうさようにににうちうちうち解解とけけけてててわたらわたらわたらせせせ給給たまひひいてててははは、、、何何なにののの用用ようにににあはせあはせあわせ給給たまふふうべきべきべき。。。」」」ととと諫諫いさめめめられられられててて、、、通通みち盛盛もりののの卿卿きょうげにげにげにもももとととややや思思おもははわれれれけんけんけん、、、いそぎいそぎいそぎ物物もの具具のぐしてしてして、、、人人ひとをををばばば返返かへししし給給たまひひいけりけりけり。。。
- 3五五いつ日日かののの日日ひののの暮暮くれ方方がたににに、、、源源げん氏氏じ昆昆こ陽陽や野野のををを立立たつつっててて、、、やう〳〵やう〳〵ようよう生生いく田田たののの森森もりへへへ攻攻せめめめ近近ちかづくづくづく。。。雀雀すずめののの松松まつ原原ばら、、、御御み影影かげののの松松まつ、、、昆昆こ陽陽や野野のののの方方かたををを見見み渡渡わたせせせばばば、、、源源げん氏氏じてんでてんでてんでににに陣陣じんををを取取とつつっててて、、、遠遠とお火火びををを燒燒たききき、、、更更ふけけけゆくゆくゆくまゝまゝままににに眺眺ながむれむれむればばば、、、山山やまののの端端は出出いづるづるずる月月つきののの如如ごとししし。。。平平へい家家けももも遠遠とお火火び燒燒たけけけやややとてとてとて、、、生生いく田田たののの森森もりにににももも形形かたののの如如ごとくくくぞぞぞ燒燒たいいいたりたりたりけるけるける。。。明明あけけけゆくゆくゆくまゝまゝままににに見見み渡渡わたせせせばばば、、、晴晴はれれれたるたるたる空空そらののの星星ほしののの如如ごとししし。。。これこれこれややや昔昔むかし河河かわ邊邊べののの螢螢ほたるととと詠詠えいじじじ給給たまひひいけんけんけんももも、、、今今いまこそこそこそ思思おもひひい知知しららられれれけれけれけれ。。。かやうかやうかようににに源源げん氏氏じははは、、、あすこあすこあすこににに陣陣じん取取どつつってててははは馬馬うまやすめやすめやすめ、、、こゝこゝここににに陣陣じん取取どつつってててははは馬馬うま飼飼かひひいなどなどなどしししけるけるける程程ほどににに急急いそがががずずず。。。平平へい家家けののの方方かたにににははは今今いまややや寄寄よすすす、、、今今いまややや寄寄よするするするととと相相あい待待まつつっててて、、、やすいやすいやすい心心こころもももせせせざりざりざりけりけりけり。。。
- 4同同おなじきじきじき六六むい日日かののの日日ひののの曙曙あけぼのににに、、、大大たい將將しょう軍軍ぐん九九く郎郎ろう御御おん曹曹ぞう司司し義義よし經經つね一一いち萬萬まん餘餘よ騎騎きををを二二ふた手手てにににわけわけわけててて、、、土土と肥肥ひののの次次じ郎郎ろう實實さね平平ひらににに七七しち千千せん餘餘よ騎騎きをををさしさしさし添添そへへえててて、、、一一いちののの谷谷たにののの西西にしののの木木き戸戸ど口口ぐちへへへ差差さし遣遣つかははわすすす。。。わがわがわが身身みははは三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きででで、、、一一いちののの谷谷たにののの後後うしろ、、、鵯鵯ひよどり越越ごえををを落落おとさささんんんとてとてとて、、、丹丹たん後後ご路路じよりよりより搦搦から手手めへへへこそこそこそ向向むかははわれれれけれけれけれ。。。兵兵つわものどもどもども、、、「「「これこれこれははは聞聞きこゆるゆるゆる惡惡あく所所しょにてにてにてあんあんあんなりなりなり。。。同同おなじうじうじゅう死死しぬるぬるぬるとととももも、、、敵敵かたきにににあうあうおうてててこそこそこそ死死しにににたけれたけれたけれ、、、惡惡あく所所しょににに落落おちちちてててははは死死しにににたからたからたからずずず。。。あつぱれあつぱれあっぱれこのこのこの山山やまののの案案あん内内ない者者しゃやややあるあるある。。。」」」ととと、、、口口くち々々ぐちににに申申もうしししけれけれければばば、、、こゝこゝここににに武武む藏藏さしののの國國くにののの住住じゅう人人にん平平ひら山山やまののの武武む者者しゃ所所どころ進進すすみみみ出出いでででててて、、、「「「季季すえ重重しげこそこそこそこのこのこの山山やまののの案案あん内内ない、、、よくよくよく存存ぞん知知じ仕仕つかまつつつっててて候候そうらへへえ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、御御おん曹曹ぞう司司し、、、「「「わわわ殿殿どのははは東東とう國國ごくそだちそだちそだちののの者者ものののの、、、今日今日きょう始始はじめめめててて見見みるるる西西さい國國こくののの山山やまののの案案あん内内ない者者しゃ、、、大大おおきききにににまことしからまことしからまことしからずずず。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、季季すえ重重しげ重重かさねねねててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「これこれこれははは御御ご諚諚じょうとととももも覺覺おぼえええ候候そうらははわぬぬぬものものものかなかなかな。。。吉吉よし野野の、、、初初はつ瀨瀨せののの花花はなをををばばば見見みねねねどもどもども、、、歌歌か人人じんががが知知しりりり、、、敵敵かたきののの籠籠こもつつったるたるたる城城じょうののの後後うしろののの案案あん内内ないをををばばば、、、剛剛こうののの武武む者者しゃががが知知しりりり候候そうろう。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。これこれこれまたまたまた傍傍ぼう若若じゃく無無ぶ人人じんにににぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
- 5またまたまた武武む藏藏さしののの國國くにののの住住じゅう人人にん別別べつ府府ぷののの小小こ太太た郎郎ろう淸淸きよ重重しげとてとてとて、、、生生しょう年年ねん十十じゅう八八はっ歳歳さいににになりなりなりけるけるけるががが進進すすみみみ出出いでででててて申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「父父ちちにてにてにて候候そうらひひいししし義義よし重重しげ法法ほう師師しががが教教をしへへへ候候そうらひひいしししははは、、、たとへばたとへばたとえば山山やま越越ごえののの獵獵かりをををせせせよよよ、、、またはまたはまたは敵敵かたきにににももも襲襲おそははわれれれよよよ、、、深深しん山山ざんににに迷迷まよひひいたらたらたらんんんずるずるずる時時ときははは、、、老老ろう馬馬ばににに手手た綱綱ずなむすんむすんむすんででで打打うちちちかけかけかけ、、、先先さきににに追追おつつっ立立たててて行行ゆけけけ、、、必必かならずずず道道みちへへへ出出いでででうずるうずるうずるぞぞぞとととこそこそこそ教教をしへへへ候候そうらひひいしかしかしか。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、御御おん曹曹ぞう司司し、、、「「「やさしうやさしうやさしゅうももも申申もうしししたるたるたるものものものかなかなかな。。。雪雪ゆきははは野野の原原はらををを埋埋うずめめめどもどもども、、、老老おいいいたるたるたる馬馬うまぞぞぞ道道みちははは知知しるるるととといふいふいう例例ためしありありあり。。。」」」とてとてとて、、、白白しろ葦葦あし毛毛げなるなるなる老老ろう馬馬ばににに鏡鏡かがみ鞍鞍くら置置おききき、、、白白しろ轡轡ぐつわはげはげはげ、、、手手た綱綱ずな結結むすんんんででで打打うちちちかけかけかけ、、、先先さきににに追追おつつっ立立たててて、、、未未いまだだだ知知しらららぬぬぬ深深しん山山ざんへへへこそこそこそ入入いりりり給給たまへへえ。。。
- 6頃頃ころははは二二きさ月月らぎはじめはじめはじめののの事事ことなれなれなればばば、、、峯峯みねののの雪雪ゆきむらむらむら消消ぎえええててて、、、花花はなかかかととと見見みゆるゆるゆる所所ところもももありありあり。。。谷谷たにののの鶯鶯うぐいすおとづれおとづれおとずれててて、、、霞霞かすみにににまよふまよふまよう所所ところもももありありあり。。。登登のぼれれればばば白白はく雪雪せつ皓皓こう々々こうとととしてしてして聳聳そびえええ、、、下下くだれれればばば靑靑せい山山ざん峨峨が々々がとととしてしてして岸岸きし高高たかししし。。。松松まつののの雪雪ゆきだにだにだに消消きえええやらやらやらででで、、、苔苔こけののの細細ほそ道道みちかすかかすかかすかなりなりなり。。。嵐嵐あらしにににたぐふたぐふたぐう折折おり々々おりははは、、、梅梅ばい花花かととともももまたまたまた疑疑うたがははわれれれ、、、東東とう西西ざいににに鞭鞭むちをををあげあげあげ、、、駒駒こまををを早早はやめめめててて行行ゆくくく程程ほどににに、、、山山やま路路じににに日日ひ暮暮くれれれぬれぬれぬればばば、、、みなみなみな下下おりりりゐゐいててて陣陣じんををを取取とるるる。。。
- 7こゝこゝここににに武武む藏藏さし坊坊ぼう辨辨べん慶慶けい、、、あるあるある老老ろう翁翁おう一一いち人人にん具具ぐしししててて參參まいつつったりたりたり。。。御御おん曹曹ぞう司司し、、、「「「あれあれあれはははいかにいかにいかに。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「これこれこれはははこのこのこの山山やまののの獵獵りょう師師しででで候候そうろう。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、「「「さてさてさてははは案案あん内内ないよくよくよく知知しつつったるたるたるらんらんらん。。。」」」「「「いかでいかでいかでかかか存存ぞん知知じ仕仕つかまつらららでででははは候候そうろうべきべきべき。。。」」」御御おん曹曹ぞう司司し、、、「「「さぞさぞさぞあるあるあるらんらんらん。。。これこれこれよりよりより平平へい家家けののの城城じょう郭郭かく、、、一一いちののの谷谷たにへへへ落落おとさささうううととと思思おもふふうはははいかにいかにいかに。。。」」」「「「ゆめ〳〵ゆめ〳〵ゆめゆめかなひかなひかない候候そうろうまじまじまじ。。。およそおよそおよそ三三さん十十じゅう丈丈じょうののの谷谷たに、、、十十じゅう五五ご丈丈じょうののの岩岩いわさきさきさきなどなどなどをををばばば、、、たやすうたやすうたやすう人人ひとののの通通かよふふうべきべきべきやうやうようももも候候そうらははわずずず。。。そのそのその上上うえ、、、城城じょうののの内内うちにににははは落落おとし穴穴あなをををももも掘掘ほりりり、、、菱菱ひしをををももも植植うゑゑえててて待待まちちち參參まいらせらせらせ候候そうろうらんらんらん。。。ましてましてまして御御おん馬馬うまなどなどなどははは思思おもひひいももも寄寄よりりり候候そうらははわずずず。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、御御おん曹曹ぞう司司し、、、「「「さてさてさてさやうさやうさようののの所所ところははは鹿鹿しかははは通通かよふふうかかか。。。」」」「「「鹿鹿しかははは通通かよひひい候候そうろう。。。世世せ間間けんだにだにだに暖暖あたたかかかににになりなりなり候候そうらへへえばばば、、、草草くさののの深深ふかきききににに臥臥ふさささんんんとてとてとて播播はり磨磨まののの鹿鹿しかははは丹丹たん波波ばへへへ越越こえええ、、、世世せ間間けんだにだにだに寒寒さむくくくなりなりなり候候そうらへへえばばば、、、雪雪ゆきのののあさりあさりあさりににに食食はまままんんんとてとてとて、、、丹丹たん波波ばののの鹿鹿しかははは播播はり磨磨まののの印印いな南南み野野のへへへ越越こえええ候候そうろう。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。
- 8御御おん曹曹ぞう司司し、、、「「「さてさてさてははは馬馬ば場場ばござんなれござんなれござんなれ、、、鹿鹿しかののの通通かよははわんんんずるずるずる所所ところををを、、、馬馬うまののの通通かよははわざるざるざるべきべきべきやうやうようあるあるある。。。さらばさらばさらばやがてやがてやがて汝汝なんじ案案あん内内ない者者しゃせせせよよよ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、「「「このこのこの身身みははは年年とし老老おいいいててて、、、いかにいかにいかにもももかなひかなひかない候候そうろうまじまじまじ。。。」」」ととと申申もうすすす。。。「「「さてさてさて汝汝なんじににに子子こはははないないないかかか。。。」」」「「「さふらふさふらふそうろう。。。」」」とてとてとて、、、熊熊くま王王おうとてとてとて生生しょう年年ねん十十じゅう八八はっ歳歳さいににになりなりなりけるけるける小小こ冠冠かん者者じゃををを奉奉たてまつるるる。。。御御おん曹曹ぞう司司しやがてやがてやがて髻髻もとどり取取とりりり上上あげげげさせさせさせ給給たまひひいててて、、、父父ちちをををばばば鷲鷲わしの尾尾おののの莊莊しょう司司じ武武たけ久久ひさととといふいふいう間間あいだ、、、これこれこれをををばばば鷲鷲わしの尾尾おののの三三さぶ郎郎ろう義義よし久久ひさととと名名な乘乘のらららせせせててて、、、一一いちののの谷谷たにののの先先さき討討うちせせせさせさせさせ、、、案案あん内内ない者者しゃにににこそこそこそ具具ぐせせせられられられけれけれけれ。。。平平へい家家け亡亡ほろびびび、、、源源げん氏氏じののの代代よににになつなつなっててて後後のち、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのととと中中なか違違たごうううててて奧奧おう州州しゅうへへへ下下くだりりり、、、討討うたたたれれれ給給たまひひいししし時時とき、、、鷲鷲わしの尾尾おののの三三さぶ郎郎ろう義義よし久久ひさととと名名な乘乘のつつっててて、、、一一いっ所所しょででで死死しににににににけるけるける兵兵つわものなりなりなり。。。
現代語訳
大臣殿(宗盛)は安芸右馬助能行を使者にして、人々のもとへおっしゃって遣わされるには、「九郎義経が三草の陣を攻め破って、もう乱入してくると聞こえます。山の手が大事ですから、どなたか向かってくださいませんか」とおっしゃって遣わされたが、皆辞退された。能登殿のもとへも、「たびたびのことではありますが、今度もまたあなたが向かってくださいませんか」とおっしゃって遣わされたところ、能登殿の返事に、「戦というものは、狩りや漁などのように、足場のよい方へは向かおう、悪い方へは向かうまいなどと言っていては、戦に勝つことはまさかありますまい。何度でもかまいません。手強い方へは教経が承って向かいましょう。一方を打ち破ってみせましょう。ご安心ください」と申されたので、大臣殿はたいそう喜ばれて、越中前司盛俊を先頭とする一万余騎を能登殿につけられた。
能登殿は兄の越前三位通盛卿を連れて、山の手へ向かわれた。この山の手というのは、一の谷の背後、鵯越の麓である。通盛卿は能登殿の陣屋へ北の方を迎え寄せられて、最後の名残を惜しまれた。能登殿はひどく怒って、「この手は大事な方面だといって教経が向けられましたが、まことに手強い所です。今にも上の山から敵が攻め下りてきたら、取るものも取りあえないでしょう。たとえ弓を持っていても、矢をつがえていなければ悪いでしょう。たとえ矢をつがえていても、引きしぼっていなければなおさら悪いでしょう。ましてそのようにくつろいでおられては、何の役にお立ちになれましょうか」といさめられて、通盛卿はもっともだと思われたのであろうか、急いで武具をつけて、北の方をお帰しになった。
五日の日暮れに、源氏は昆陽野を発って、しだいに生田の森へ攻め近づいた。雀の松原、御影の松、昆陽野の方を見渡すと、源氏は思い思いに陣を取って遠火を焚き、夜が更けるにつれて眺めると、山の端から出る月のようである。平家も遠火を焚けといって、生田の森でも形ばかり焚いた。夜が明けるにつれて見渡すと、晴れた空の星のようである。これがあの昔、河辺の蛍と詠まれた歌の景色かと、今こそ思い知られた。このように源氏は、あちらに陣取っては馬を休め、こちらに陣取っては馬に飼い葉をやったりして急がない。平家の方では、今にも寄せてくるか、今にも寄せてくるかと待ち受けて、落ちついた心地もしなかった。
同月六日の明け方、大将軍九郎御曹司義経は一万余騎を二手に分けて、土肥次郎実平に七千余騎をつけて一の谷の西の木戸口へ差し向けた。自分は三千余騎で、一の谷の背後の鵯越を駆け下ろうとして、丹後路から搦手へ向かわれた。兵たちが「ここは名高い難所だそうだ。同じく死ぬにしても、敵に会ってこそ死にたい。難所に落ちて死にたくはない。ああ、この山の案内を知っている者はいないか」と口々に言ったところ、武蔵国の住人平山武者所が進み出て、「季重がこの山の案内をよく知っております」と申したので、御曹司は「おまえは東国育ちの者で、今日初めて見る西国の山の案内者とは、まったく本当とは思えない」とおっしゃると、季重は重ねて申すには、「これはお言葉とも思えませんな。吉野や初瀬の花は見なくても歌人は知っており、敵のこもった城の背後の案内は、剛の武者が知っているものです」と申した。これもまた傍若無人に聞こえた。
また武蔵国の住人、別府小太郎清重といって、生年十八歳になる者が進み出て申すには、「父の義重法師が教えましたのは、たとえば山越えの狩りをするにしても、敵に襲われるにしても、深山で迷ったときは、老馬に手綱を結んで首にかけ、先に追い立てて行け、必ず道へ出るものだと教えました」と申したので、御曹司は「よくも言ったものだ。雪は野原を埋めても、老いた馬は道を知るという例がある」といって、白葦毛の老馬に鏡鞍を置き、白い轡をはめ、手綱を結んで首にかけ、先に追い立てて、まだ知らない深山へ入って行かれた。
ころは二月初めのことなので、峰の雪はまだらに消えて、花かと見える所もある。谷の鶯が鳴いて、霞に迷う所もある。登れば白雪がきらきらと輝いてそびえ、下れば青い山が険しく岸は高い。松の雪さえ消えきらず、苔むした細道はかすかである。嵐に雪が舞う折々は、梅の花かとも疑われ、東へ西へと鞭をあげ、駒を早めて行くうちに、山路で日が暮れたので、皆馬から降りて陣を取った。
そこへ武蔵坊弁慶が、ある老人を一人連れてきた。御曹司が「それは誰か」とおっしゃると、「これはこの山の猟師でございます」と申したので、「それなら案内をよく知っているだろう」「どうして知らないことがありましょう」。御曹司が「そうであろう。ここから平家の城郭の一の谷へ駆け下ろうと思うが、どうだ」「とてもかないますまい。三十丈もある谷、十五丈もある岩の先などは、たやすく人が通れるようなところではありません。そのうえ城の中には落とし穴も掘り、菱も植えてお待ち申しているでしょう。まして御馬などは思いも寄りません」と申したので、御曹司は「それでは、そういう所を鹿は通うか」「鹿は通います。世間が暖かくなりますと、草の深い所に寝ようとして播磨の鹿は丹波へ越え、世間が寒くなりますと、雪の中で餌をあさろうとして、丹波の鹿は播磨の印南野へ越えます」と申した。
御曹司は「それならそこは馬場ではないか。鹿が通う所を、馬が通えないはずがあろうか。それならすぐにおまえが案内をせよ」とおっしゃると、「この身は年老いて、とてもかないますまい」と申す。「それではおまえに子はいないか」「おります」といって、熊王という生年十八歳になる若者を差し出した。御曹司はすぐに髻を結い上げさせ(元服させ)なさって、父を鷲尾荘司武久というので、この子を鷲尾三郎義久と名のらせて、一の谷の先駆けをさせ、案内者として連れて行かれた。平家が滅び源氏の世になってから、義経が鎌倉殿と仲たがいして奥州へ下り、討たれなさったとき、鷲尾三郎義久と名のって、ともに死んだ武士である。
意訳
一の谷の合戦の前夜を語る章段である。誰もが嫌がる山の手の守りを「こはからん方へは教經承つて」と引き受ける能登守教経と、北の方との名残を惜しむ兄通盛とが対照的に描かれる。この夜が通盛と北の方(小宰相)の最後の別れとなることは、巻第九の結び「小宰相の事」で語られる。
義経は、「老いたる馬ぞ道は知る」という故事にならって老馬を先に立て、雪の残る深山に分け入る。猟師の「鹿は通ひ候」という言葉に「馬場ござんなれ」と応じる義経の発想が、次の坂落としにつながっていく。案内者となった鷲尾三郎義久が、のちに奥州で義経と運命を共にしたことも語り添えられている。
語釈・文法注
文法
- 「足立のよからう方」
- 足場のよい方面。
- 「こはからん方」
- 手強い方面。
- 「これや昔河邊の螢と詠じ給ひけん」
- 『伊勢物語』第八十七段の「晴るる夜の星か河辺の螢かもわが住むかたの海人のたく火か」を踏まえる。
- 「雪は野原を埋めども、老いたる馬ぞ道は知る」
- 『韓非子』の、管仲が道に迷ったとき老馬を放って道を得たという故事による。
- 「鏡鞍」
- 前輪・後輪を金属の鏡板で覆った鞍。
- 「雪のあさりに食まん」
- 雪の中で餌をあさって食べようと。
- 「馬場ござんなれ」
- 「馬場にこそあるなれ」のつまった形。それなら馬場(馬の通り道)ではないか。
- 「髻取り上げさせ」
- 髪を結い上げさせて元服させること。
解説
鵯越(兵庫県神戸市)は一の谷の北の山地を越える道で、義経がここから一の谷の背後に回りこんだと伝えられる。ただし実際の坂落としの場所については、鵯越説と一の谷背後の鉄拐山説とがあり、定まっていない。
鷲尾三郎義久(経春とも)は、文治五年(1189)の衣川の合戦で義経とともに討ち死にしたと伝えられる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、670–674頁(コマ364–366)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日