平家物語 巻第九
三草勢ぞろへの事
正月二十九日、範頼・義経は平家追討のため西国へ向かうことを奏上し、三種の神器を無事に取り戻すよう命じられた。二月四日、福原では清盛の一周忌の仏事が営まれ、除目も行われたが、教盛は夢の中で夢を見るようなわが身だと詠んで大納言への昇進を辞した。都に残った人々は平家が福原まで攻め上ったと喜び、梶井の宮は専親に歌を送った。維盛は都の妻子を思い沈んでいた。源氏は二月四日、大手範頼の五万余騎が昆陽野に、搦手義経の一万余騎が丹波路を経て三草山の東の小野原に陣を取った。
- 1同同おなじきじきじき正正しょう月月がつ二二に十十じゅう九九く日日にち、、、範範のり賴賴より、、、義義よし經經つね院院いん參參さんしてしてして、、、平平へい家家け追追つい討討とうののの爲爲ためににに西西さい國國こくへへへ發發はっ向向こうすすすべきべきべき由由よしををを奏奏そう聞聞もんすすす。。。本本ほん朝朝ちょうにににははは、、、神神じん代代だいよりよりより傳傳つたははわれれれるるる御御おん寶寶たから三三みつつつつありありあり、、、神神しん璽璽じ、、、寶寶ほう劍劍けん、、、内内ない侍侍し所所どころこれこれこれなりなりなり。。。ことことこと故故ゆえなうなうのう都都みやこへへへ返返かえししし入入いれれれ奉奉たてまつるるるべきべきべき由由よし、、、仰仰おおせせせ下下くださささるるる。。。兩兩りょう人人にん庭庭てい上上しょうににに畏畏かしこまりまりまり承承うけたまわつつってててまかりまかりまかり出出いづづず。。。
- 2二二に月月がつ四四よっ日日かののの日日ひ、、、福福ふく原原はらにににははは故故こ入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの忌忌き日日にちとてとてとて、、、佛佛ぶつ事事じかたかたかたののの如如ごとくくく遂遂とげげげ行行おこなははわるるる。。。朝朝あさ夕夕ゆうののの軍軍いくさ立立だちににに、、、過過すぎぎぎゆくゆくゆく月月つき日日ひははは知知しらららねねねどもどもども、、、去去こ年年ぞははは今今こ年年としににに廻廻めぐりりり來來きててて、、、うかりうかりうかりししし春春はるにににもももなりなりなりにににけりけりけり。。。世世よののの世世よにてにてにてあらあらあらましかましかましかばばば、、、いかなるいかなるいかなる起起き立立りゅう塔塔とう婆婆ばののの企企くわだててて、、、供供く佛佛ぶつ施施せ僧僧そうののの營營いとなみみみもももあるあるあるべかりべかりべかりしかしかしかどもどもども、、、たゞたゞただ男男なん女女にょののの君君きみたちたちたちさしさしさしつどひつどひつどいててて、、、歎歎なげききき悲悲かなしみしみしみあはあはあわれれれけりけりけり。。。福福ふく原原はらにににはははこのこのこのついでついでついでににに除除じ目目もく行行おこなははわれれれててて、、、僧僧そうももも俗俗ぞくもももみなみなみな司司つかさなさなさなされれれけりけりけり。。。中中なかにににももも門門かど脇脇わきののの平平へい中中ちゅう納納な言言ごん教教のり盛盛もりののの卿卿きょうをををばばば、、、正正じょう二二に位位い大大だい納納な言言ごんににに上上のぼりりり給給たまふふうべきべきべき由由よし、、、大臣殿大臣殿おおいどのよりよりよりのたまひのたまひのたまい遣遣つかははわされされされたりたりたりけれけれければばば、、、教教のり盛盛もりののの卿卿きょう、、、
- 3今日今日きょうまでまでまでもももあれあれあればばばあるあるあるかかかののの我我わががが身身みかはかはかは夢夢ゆめのののうちうちうちにににもももゆめゆめゆめををを見見みるるるかなかなかな
- 4ととと御御おん返返へん事事じ申申もうさささせせせ給給たまひひいててて、、、遂遂ついににに大大だい納納な言言ごんにににはははなりなりなり給給たまははわずずず。。。
- 5大大だい外外げ記記き中中なか原原はらののの師師もろ直直なおががが子子こ周周す防防おうののの介介すけ師師もろ純純ずみ大大だい外外げ記記きににになるなるなる。。。兵兵ひょう部部ぶののの少少しょう輔輔ふ正正まさ明明あきら五五ご位位いののの藏藏くら人人んどににになさなさなされれれててて、、、藏藏くら人人んどののの少少しょう輔輔ふとととぞぞぞ召召めささされれれけるけるける。。。昔昔むかし將將まさ門門かど東東とう八八はっ箇箇か國國こくをををうちうちうち從從したがへへえててて、、、下下しも總總ふさののの國國くに相相そう馬馬まののの郡郡こおりににに都都みやこををを立立たててて、、、わがわがわが身身みををを平平へい親親しん王王のうととと稱稱しょうしししててて、、、百百ひゃく官官かんをををなしなしなしたりたりたりしししにににははは、、、曆曆こよみののの博博はか士士せぞぞぞなかりなかりなかりけるけるける。。。これこれこれはははそれそれそれにににははは似似にるるるべからべからべからずずず。。。主主しゅ上上しょう舊舊きゅう都都とをををこそこそこそ出出いでででさせさせさせ給給たまふふうととといへいへいえどもどもども、、、三三さん種種しゅののの神神じん器器ぎををを帶帶たいしししててて萬萬ばん乘乘じょうののの位位くらいにににそなはりそなはりそなわり給給たまへへえばばば、、、敍敍じょ位位い除除じ目目もく行行おこなははわれれれんんんもももひがひがひがことことことにににはははあらあらあらずずず。。。
- 6平平へい氏氏じ既既すでににに福福ふく原原はらまでまでまで攻攻せめめめ上上のぼりりりたるたるたる由由よし聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、故故ふる鄕鄕さとににに殘殘のこりりり止止とどまりまりまり給給たまふふう人人ひと々々びと、、、みなみなみな勇勇いさみみみ喜喜よろこびびびあはあはあわれれれけりけりけり。。。中中なかにににももも二二に位位いののの僧僧そう都都ず專專せん親親しんははは、、、梶梶かじ井井いののの宮宮みやののの年年とし頃頃ごろののの御御ご同同どう宿宿しゅくにてにてにておはしおはしおわしけれけれければばば、、、風風かぜののの便便たよりりりにににももも申申もうささされれれけりけりけり。。。宮宮みやよりよりよりもももまたまたまた御御おん文文ふみありありあり。。。旅旅たびののの空空そらのののよそほひよそほひよそおい、、、御御おん心心こころ苦苦ぐるしけれしけれしけれどもどもども、、、都都みやこももも未未いまだだだ鎭鎭しずまらまらまらずずずなどなどなど、、、細細こま々々ごまとととあそばいあそばいあそばいててて、、、奧奧おくにににははは一一いっ首首しゅののの歌歌うたぞぞぞありありありけるけるける。。。
- 7人人ひと知知しれれれずずずそなたそなたそなたををを忍忍しのぶぶぶ心心こころをををばばば傾傾かたぶくくく月月つきにににたぐへたぐへたぐえてててぞぞぞやるやるやる
- 8僧僧そう都都ずこれこれこれををを顏顏かおにににおしおしおし當當あてててててて、、、悲悲かなしみしみしみののの涙涙なみだせきせきせきあへあへあえずずず。。。
- 9さるさるさる程程ほどににに小小こ松松まつののの三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう維維これ盛盛もりののの卿卿きょうははは、、、年年とし隔隔へだたりたりたり日日ひ重重かさなるなるなるににに從從したがつつっててて、、、故故ふる鄕鄕さとににに止止とどめめめ置置おききき給給たまへへえるるる北北きたののの方方かた、、、稚稚おさなききき人人ひと々々びとののの事事ことをををのみのみのみ歎歎なげききき悲悲かなしみしみしみ給給たまひひいけりけりけり。。。商商あき人人んどののの便便たよりりりににに文文ふみなどなどなどののの通通かよふふうにににももも、、、北北きたののの方方かたののの都都みやこののの御御おんすまひすまひすまい、、、心心こころ苦苦ぐるしうしうしゅう聞聞きききき給給たまひひいててて、、、さらばさらばさらばこれこれこれへへへ迎迎むかへへえ參參まいらせらせらせててて、、、一一ひと所所ところでででいかにいかにいかにもももならならならばやばやばやととと思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、わがわがわが身身みこそこそこそあらあらあらめめめ、、、御御おんためためため痛痛いたはしくはしくわしくてててなどなどなど、、、思思おぼし召召めししし沉沉しずんんんででであかしあかしあかし暮暮くらししし給給たまふふうにににぞぞぞ、、、せめてせめてせめてののの御御おん志志こころざしののの深深ふかさささののの程程ほどはははあらはれあらはれあらわれにににけるけるける。。。
- 10二二に月月がつ四四よっ日日かののの日日ひ、、、源源げん氏氏じ福福ふく原原はらををを攻攻せむむむべかりべかりべかりしかしかしかどどど、、、故故こ入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの忌忌き日日にちととと聞聞きいいいててて、、、佛佛ぶつ事事じ遂遂とげげげさせさせさせんんんががが爲爲ためにににそのそのその日日ひははは寄寄よせせせずずず。。。五五いつ日日かははは西西にしふさがりふさがりふさがり、、、六六むい日日か道道どう虛虛こ日日にち、、、七七なぬ日日かののの日日ひののの卯卯うののの刻刻こくににに一一いちののの谷谷たにののの東東とう西西ざいののの木木き戸戸ど口口ぐちにてにてにて、、、源源げん平平ぺい矢矢や合合あわせとととぞぞぞ定定さだめめめけるけるける。。。されどもされどもされども四四よっ日日かははは吉吉きち日日にちなれなれなればばばとてとてとて、、、大大おお手手て、、、搦搦から手手めののの軍軍ぐん兵兵びょう、、、二二ふた手手てにににわけわけわけててて攻攻せめめめ下下くだるるる。。。大大おお手手てののの大大たい將將しょう軍軍ぐんにににははは蒲蒲かばののの御御おん曹曹ぞう司司し範範のり賴賴より、、、相相あい伴伴ともなふふう人人ひと々々びと、、、武武たけ田田だののの太太た郎郎ろう信信のぶ義義よし、、、加加か賀賀が美美みののの次次じ郎郎ろう遠遠とお光光みつ、、、同同おなじきじきじき小小こ次次じ郎郎ろう長長なが淸淸きよ、、、山山やま名名なののの次次じ郎郎ろう範範のり義義よし、、、同同おなじきじきじき三三さぶ郎郎ろう義義よし行行ゆき、、、侍侍さぶらい大大たい將將しょうにににははは梶梶かじ原原はら平平へい三三ぞう景景かげ時時とき、、、嫡嫡ちゃく子子しののの源源げん太太た景景かげ季季すえ、、、次次じ男男なん平平へい次次じ景景かげ高高たか、、、同同おなじきじきじき三三さぶ郎郎ろう景景かげ家家いえ、、、稻稻いな毛毛げののの三三さぶ郎郎ろう重重しげ成成なり、、、榛榛はん谷谷がえののの四四し郎郎ろう重重しげ朝朝とも、、、同同おなじきじきじき五五ご郎郎ろう行行ゆき重重しげ、、、小小お山山やまののの小小こ四四し郎郎ろう朝朝とも政政まさ、、、中中なか沼沼ぬまののの五五ご郎郎ろう宗宗むね政政まさ、、、結結ゆう城城きののの七七しち郎郎ろう朝朝とも光光みつ、、、佐佐さ貫貫ぬきののの四四し郎郎ろう大大たい夫夫ふ廣廣ひろ綱綱つな、、、小小お野野の寺寺でらののの禪禪ぜん師師じ太太た郎郎ろう道道みち綱綱つな、、、曾曾そ我我がののの太太た郎郎ろう祐祐すけ信信のぶ、、、中中なか村村むらののの太太た郎郎ろう時時とき經經つね、、、江江え戸戸どののの四四し郎郎ろう重重しげ春春はる、、、玉玉たま井井いののの四四し郎郎ろう資資すけ景景かげ、、、大大おお河河こう津津ずののの太太た郎郎ろう廣廣ひろ行行ゆき、、、庄庄しょうののの三三さぶ郎郎ろう忠忠ただ家家いえ、、、同同おなじきじきじき四四し郎郎ろう高高たか家家いえ、、、勝勝しょう大大だいののの八八はち郎郎ろう行行ゆき平平ひら、、、久久く下下げののの次次じ郎郎ろう重重しげ光光みつ、、、河河かわ原原らののの太太た郎郎ろう高高たか直直なお、、、同同おなじきじきじき次次じ郎郎ろう盛盛もり直直なお、、、藤藤ふじ田田たののの三三さぶ郎郎ろう大大たい夫夫ふ行行ゆき泰泰やすををを先先さきとととしてしてして、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい五五ご萬萬まん餘餘よ騎騎き、、、二二に月月がつ四四よっ日日かののの日日ひ、、、辰辰たつののの一一いっ點點てんににに都都みやこををを立立たつつっててて、、、そのそのその日日ひののの申申さる酉酉とりののの刻刻こくにににははは攝攝つ津津のののの國國くに昆昆こ陽陽や野野のににに陣陣じんをををぞぞぞ取取とつつったりたりたりけるけるける。。。
- 11搦搦から手手めののの大大たい將將しょう軍軍ぐんにににははは九九く郎郎ろう御御おん曹曹ぞう司司し義義よし經經つね、、、同同おなじうじうじゅう伴伴ともなふふう人人ひと々々びと、、、安安やす田田だののの三三さぶ郎郎ろう義義よし定定さだ、、、大大おお内内うちののの太太た郎郎ろう惟惟これ義義よし、、、村村むら上上かみののの判判ほう官官がん代代だい康康やす國國くに、、、田田た代代しろののの冠冠かん者者じゃ信信のぶ綱綱つな、、、侍侍さぶらい大大たい將將しょうにににははは土土と肥肥ひののの次次じ郎郎ろう實實さね平平ひら、、、子子し息息そくののの彌彌や太太た郎郎ろう遠遠とお平平ひら、、、三三み浦浦うらののの介介すけ義義よし澄澄ずみ、、、子子し息息そくののの平平へい六六ろく義義よし村村むら、、、畠畠はたけ山山やまののの莊莊しょう司司じ次次じ郎郎ろう重重しげ忠忠ただ、、、同同おなじきじきじき長長なが野野のののの三三さぶ郎郎ろう重重しげ淸淸きよ、、、佐佐さ原原はらののの十十じゅう郎郎ろう義義よし連連つら、、、和和わ田田だののの小小こ太太た郎郎ろう義義よし盛盛もり、、、同同おなじきじきじき次次じ郎郎ろう義義よし茂茂もち、、、三三さぶ郎郎ろう宗宗むね實實ざね、、、佐佐さ々々さ木木き四四し郎郎ろう高高たか綱綱つな、、、同同おなじきじきじき五五ご郎郎ろう義義よし淸淸きよ、、、熊熊くま谷谷がえののの次次じ郎郎ろう直直なお實實ざね、、、子子し息息そくののの小小こ次次じ郎郎ろう直直なお家家いえ、、、平平ひら山山やまののの武武む者者しゃ所所どころ季季すえ重重しげ、、、天天あま野野のののの次次じ郎郎ろう直直なお經經つね、、、小小を河河がわののの次次じ郎郎ろう助助すけ義義よし、、、原原はらののの三三さぶ郎郎ろう淸淸きよ益益ます、、、多多た々々た羅羅らののの五五ご郎郎ろう義義よし春春はる、、、そのそのその子子こののの太太た郎郎ろう光光みつ義義よし、、、渡渡わたり柳柳やなぎののの彌彌や五五ご郎郎ろう淸淸きよ忠忠ただ、、、別別べつ府府ぷののの小小こ太太た郎郎ろう淸淸きよ重重しげ、、、金金かね子子こののの十十じゅう郎郎ろう家家いえ忠忠ただ、、、同同おなじきじきじき與與よ一一いち親親ちか範範のり、、、源源げん八八はち廣廣ひろ綱綱つな、、、片片かた岡岡おかののの太太た郎郎ろう經經つね春春はる、、、伊伊い勢勢せののの三三さぶ郎郎ろう義義よし盛盛もり、、、奧奧おう州州しゅうののの佐佐さ藤藤とう三三さぶ郎郎ろう繼繼つぐ信信のぶ、、、同同おなじきじきじき四四し郎郎ろう忠忠ただ信信のぶ、、、江江え田田だののの源源げん三三ぞう、、、熊熊くま井井いののの太太た郎郎ろう、、、武武む藏藏さし坊坊ぼう辨辨べん慶慶けい、、、これこれこれらららををを先先さきとととしてしてして、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい一一いち萬萬まん餘餘よ騎騎き、、、同同おなじじじ日日ひののの同同おなじじじ時時ときににに都都みやこををを立立たつつっててて、、、丹丹たん波波ば路路じにににかゝりかゝりかかり、、、二二ふつ日日か路路じををを一一ひと日日ひにににうつうつうっててて、、、丹丹たん波波ばととと播播はり磨磨まののの境境さかいなるなるなる三三み草草くさののの山山やまののの東東ひがしののの山山やま口口ぐち、、、小小お野野の原原はらににに陣陣じんをををぞぞぞ取取とつつったりたりたりけるけるける。。。
現代語訳
同年正月二十九日、範頼・義経は院の御所に参って、平家追討のために西国へ向かうことを奏上した。わが国には神代から伝わる御宝が三つある。神璽・宝剣・内侍所(神鏡)がこれである。これらを無事に都へお返し入れ申せと仰せ下された。二人は庭上でかしこまって承り、退出した。
二月四日、福原では故入道相国の命日だといって、仏事が形どおりに営まれた。朝夕の合戦の支度に、過ぎてゆく月日も分からないけれども、去年はまた今年にめぐって来て、つらい春になってしまった。世が世であったら、どれほどの塔婆の建立や、仏への供養、僧への布施の営みもあったであろうに、ただ男女の公達が寄り集まって、嘆き悲しみ合われた。福原ではこの機会に除目が行われて、僧も俗人もみな官職に任じられた。なかでも門脇の平中納言教盛卿を正二位大納言に昇進させようと、大臣殿からおっしゃって遣わされたので、教盛卿は、
(今日まで生きていると言えば生きているようなわが身であろうか。夢の中で、さらに夢を見ているようなものだ)
と御返事を申し上げて、とうとう大納言にはおなりにならなかった。
大外記中原師直の子、周防介師純が大外記になった。兵部少輔正明は五位の蔵人に任じられて、蔵人の少輔と呼ばれた。昔、将門が東八か国を従えて、下総国相馬郡に都を立て、自らを平親王と称して百官を任じたときには、暦博士がいなかった。これはそれとは違うはずである。天皇は旧都こそお出になったけれども、三種の神器を帯びて天子の位にあられるのだから、叙位や除目が行われるのも間違ったことではない。
平氏がもう福原まで攻め上ったと聞こえたので、故郷の都に残っておられた人々はみな勇み喜び合われた。なかでも二位僧都専親は、梶井の宮の長年の御同宿であったので、ついでの便りにも申し上げていた。宮からもまたお手紙があった。旅の空のありさまがお気の毒だが、都もまだ鎮まっていないなどと細々とお書きになって、奥には一首の歌があった。
(人知れずそちらを恋しく思う心を、西へ傾いていく月に添えて送ります)
僧都はこれを顔に押し当てて、悲しみの涙をこらえきれなかった。
そうするうちに、小松の三位中将維盛卿は、年が隔たり日が重なるにつれて、故郷に残してこられた北の方や幼い子どもたちのことばかりを嘆き悲しまれた。商人の便りに手紙などが通うにつけても、北の方の都での暮らしぶりを気の毒にお聞きになって、それならこちらへお迎えして一緒にどうにでもなろうかと思われたが、自分はともかく、北の方のためにはいたわしいなどと思い沈んで日を送っておられるところに、せめてもの深い愛情のほどが表れていた。
二月四日、源氏は福原を攻めるはずであったが、故入道相国の命日と聞いて、仏事を遂げさせるためにその日は寄せなかった。五日は西の方角がふさがり、六日は道虚日なので、七日の卯の刻に一の谷の東西の木戸口で源平の矢合わせと定めた。けれども四日は吉日であるからといって、大手・搦手の軍兵は二手に分かれて攻め下った。大手の大将軍は蒲御曹司範頼で、従う人々は、武田太郎信義、加賀美次郎遠光、同じく小次郎長清、山名次郎範義、同じく三郎義行、侍大将には梶原平三景時、嫡子の源太景季、次男の平次景高、同じく三郎景家、稲毛三郎重成、榛谷四郎重朝、同じく五郎行重、小山小四郎朝政、中沼五郎宗政、結城七郎朝光、佐貫四郎大夫広綱、小野寺禅師太郎道綱、曾我太郎祐信、中村太郎時経、江戸四郎重春、玉井四郎資景、大河津太郎広行、庄三郎忠家、同じく四郎高家、勝大八郎行平、久下次郎重光、河原太郎高直、同じく次郎盛直、藤田三郎大夫行泰を先頭として、合わせてその勢五万余騎、二月四日の辰の一点(午前七時ごろ)に都を発って、その日の申・酉の刻(夕方)には摂津国の昆陽野に陣を取った。
搦手の大将軍は九郎御曹司義経で、同じく従う人々は、安田三郎義定、大内太郎惟義、村上判官代康国、田代冠者信綱、侍大将には土肥次郎実平、子息の弥太郎遠平、三浦介義澄、子息の平六義村、畠山荘司次郎重忠、同じく長野三郎重清、佐原十郎義連、和田小太郎義盛、同じく次郎義茂、三郎宗実、佐々木四郎高綱、同じく五郎義清、熊谷次郎直実、子息の小次郎直家、平山武者所季重、天野次郎直経、小河次郎助義、原三郎清益、多々羅五郎義春、その子の太郎光義、渡柳弥五郎清忠、別府小太郎清重、金子十郎家忠、同じく与一親範、源八広綱、片岡太郎経春、伊勢三郎義盛、奥州の佐藤三郎継信、同じく四郎忠信、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶、これらを先頭として、合わせてその勢一万余騎、同じ日の同じ時刻に都を発って、丹波路を通り、二日の道のりを一日で進んで、丹波と播磨の境にある三草山の東の山口、小野原に陣を取った。
意訳
一の谷の合戦を前に、福原の平家と、出陣する源氏の双方を描く章段である。清盛の一周忌に営まれる仏事や除目は形ばかりのもので、教盛の歌は、夢のような栄華から夢のような流浪へと移った一門の心情をよく表している。
後半は大手・搦手に分かれた源氏の武将たちの名を連ねて、合戦の始まりを告げる。義経のもとには、土肥実平・畠山重忠・熊谷直実・佐藤兄弟・弁慶ら、この後の合戦で名をあげる人々が並んでいる。
語釈・文法注
文法
- 「内侍所」
- 神鏡を祀る宮中の所。転じて神鏡(八咫鏡)をいう。
- 「起立塔婆」
- 供養のために塔婆を建てること。
- 「あればあるかの我が身かは」
- 生きているといえば生きているようなわが身であろうか。
- 「曆の博士ぞなかりける」
- 将門の新政には暦を作る博士がいなかった。形だけの朝廷であったことをいう。
- 「西ふさがり」
- 陰陽道で、西の方角が凶とされて行けないこと。
- 「道虛日」
- 外出や旅立ちを忌む凶日。
- 「辰の一點」
- 辰の刻(午前八時ごろ)を四つに分けた最初。
和歌
今日までもあればあるかの我が身かは夢のうちにもゆめを見るかな
- 詠者
- 平教盛
- 状況
- 福原での除目で、宗盛から正二位大納言への昇進を勧められたとき、辞退して返した歌。
修辞
- 夢のうちにもゆめを見る
- 流浪の身そのものが夢のようなのに、そのうえ昇進という夢を見るのか、の意。
人知れずそなたを忍ぶ心をば傾く月にたぐへてぞやる
- 詠者
- 梶井の宮(承仁法親王)
- 状況
- 福原にいる二位僧都専親に、都から送った手紙に添えた歌。
修辞
- 傾く月
- 西に傾く月。平家のいる西国の方角を示す。
解説
寿永三年(1184)二月四日は清盛の一周忌にあたる。源氏は大手範頼が摂津の昆陽野(兵庫県伊丹市)、搦手義経が丹波路を経て播磨との境の三草山(兵庫県加東市)の東に陣を取り、福原・一の谷の平家を東西から挟み撃ちにする態勢を整えた。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、665–668頁(コマ361–363)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日