平家物語 巻第九
六箇度合戦の事
平家が一の谷へ渡ると、四国の者たちは源氏に心を寄せ、手みやげに平家を攻めようとした。能登守教経は、下津井に寄せた阿波・讃岐の在庁を追い散らし、淡路の福良では源氏の賀茂冠者義嗣を討ち、安芸の沼田城では沼田次郎を降参させ、河野通信を追い落とす。さらに西の宮沖で安摩忠景を、吹飯の浦で園辺忠康を破り、備前の今木城の臼杵・緒方・河野の連合軍も退けた。六度の戦いに勝った教経の手柄を、宗盛以下の人々は口々にほめたたえた。
- 1さるさるさる程程ほどににに平平へい家家け一一いちののの谷谷たにへへへ渡渡わたりりり給給たまひひいててて後後のちははは、、、四四し國國こくののの者者ものどもどもども一一いっ向向こう從從したがひひい奉奉たてまつらららずずず。。。中中なかにににももも阿阿あ波波わ、、、讚讚さぬ岐岐きののの在在ざい廳廳ちょう等等ら、、、みなみなみな平平へい家家けををを背背そむいいいててて、、、源源げん氏氏じににに心心こころををを通通かよははわしししけるけるけるががが、、、さすがさすがさすが昨日昨日きのう今日今日きょうまでまでまで平平へい家家けににに從從したがひひい奉奉たてまつつつったるたるたる身身みののの、、、今日今日きょう始始はじめめめててて源源げん氏氏じへへへ參參まいりりりたりたりたりとととももも、、、よもよもよも用用もちゐゐい給給たまははわじじじ。。。平平へい家家けににに矢矢や一一ひとつつつ射射いかけかけかけ奉奉たてまつつつっててて、、、それそれそれををを表表おもてにににしてしてして參參まいらららんんんとてとてとて、、、門門かど脇脇わきののの平平へい中中ちゅう納納な言言ごん教教のり盛盛もり、、、越越えち前前ぜんののの三三さん位位み通通みち盛盛もり、、、能能の登登とののの守守かみ教教のり經經つね父父ふ子子し三三さん人人にん、、、備備び前前ぜんののの國國くに下下しも津津つ井井いにににましますましますましますととと聞聞きいいいててて、、、兵兵ひょう船船せん十十じゅう餘餘よ艘艘そうでででぞぞぞ寄寄よせせせたりたりたりけるけるける。。。
- 2能能の登登と殿殿どの大大おおきききににに怒怒いかつつっててて、、、「「「昨日昨日きのう今日今日きょうまでまでまでわれわれわれらららががが馬馬うまののの草草くさ剪剪きつつったるたるたる奴奴やつばらばらばらががが、、、いつしかいつしかいつしか契契ちぎりりりををを變變へんずるずるずるにににこそこそこそあんなれあんなれあんなれ。。。そのそのその儀儀ぎならならならばばば、、、一一いち人人にんももも洩洩もらさらさらさずずず討討うてててややや。。。」」」とてとてとて、、、小小こ船船ぶね共共どもおしおしおし浮浮うかべべべててて追追おははわれれれけれけれければばば、、、四四し國國こくののの者者ものどもどもども、、、人人ひと目目めばかりばかりばかりににに、、、矢矢や一一ひとつつつ射射いててて退退のかかかんんんとととこそこそこそ思思おもひひいしにしにしに、、、能能の登登と殿殿どのにににあまりあまりあまりににに手手ていたういたういとう攻攻せめめめられられられ奉奉たてまつつつっててて、、、かなはかなはかなわじじじとととややや思思おもひひいけんけんけん、、、遠遠とお負負まけけけにににしてしてして引引ひき退退しりぞききき、、、淡淡あわ路路じののの國國くに福福ふく良良らののの泊泊とまりににに著著つきききにににけりけりけり。。。
- 3そのそのその國國くにににに源源げん氏氏じ二二に人人にんありありありととと聞聞きこえええけりけりけり。。。故故こ六六ろく條條じょうののの判判ほう官官がん爲爲ため義義よしががが末末ばつ子子し賀賀か茂茂もののの冠冠かん者者じゃ義義よし嗣嗣つぐ、、、淡淡あわ路路じののの冠冠かん者者じゃ義義よし久久ひさととと聞聞きこえええしししををを大大たい將將しょうににに賴賴たのんんんででで、、、城城じょう郭郭かくををを構構かまへへえててて待待まつつつ所所ところににに、、、能能の登登と殿殿どのおしおしおし寄寄よせせせててて、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに攻攻せめめめ給給たまへへえばばば、、、賀賀か茂茂もののの冠冠かん者者じゃ討討うち死死じにすすす。。。淡淡あわ路路じののの冠冠かん者者じゃははは痛痛いた手手で負負おうううててて、、、生生いけ擒擒どりりりにににこそこそこそせせせられられられけれけれけれ。。。殘殘のこりりり留留とどまつまつまっててて防防ふせ矢矢ぎや射射いけるけるける者者もの共共ども二二に百百ひゃく三三さん十十じゅう餘餘よ人人にんががが首首くび斬斬きりりりかけかけかけさせさせさせ、、、討討うつ手手てののの交交きょう名名みょう註註しるいいいててて、、、福福ふく原原はらへへへこそこそこそ參參まいらせらせらせられられられけれけれけれ。。。それそれそれよりよりより門門かど脇脇わき殿殿どのははは一一いちののの谷谷たにへへへぞぞぞ參參まいららられれれけるけるける。。。子子し息息そく達達たちははは、、、伊伊い豫豫よののの河河こう野野のののの四四し郎郎ろうががが召召めせせせどもどもども參參まいらららぬぬぬををを攻攻せめめめんんんとてとてとて、、、四四し國國こくへへへぞぞぞ渡渡わたららられれれけるけるける。。。兄兄あに越越えち前前ぜんののの三三さん位位み通通みち盛盛もりののの卿卿きょうははは阿阿あ波波わののの國國くに花花はな園園ぞのののの城城じょうにににぞぞぞ著著つききき給給たまふふう。。。
- 4弟弟おとうと能能の登登とののの守守かみ教教のり經經つねははは讚讚さぬ岐岐きののの八八や島島しまににに著著つききき給給たまふふう由由よし聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、伊伊い豫豫よののの國國くにののの住住じゅう人人にん河河こう野野のののの四四し郎郎ろう通通みち信信のぶははは、、、安安あ藝藝きののの國國くにののの住住じゅう人人にん沼沼ぬ田田たののの次次じ郎郎ろうははは母母はは方方かたののの伯伯お父父じなりなりなりけれけれければばば、、、一一ひとつつつにににならならならんんんとてとてとて、、、安安あ藝藝きののの國國くにへへへおしおしおし渡渡わたるるる。。。能能の登登と殿殿どのこのこのこの由由よしををを聞聞きききき給給たまひひいててて、、、八八や島島しまををを立立たつつっててて追追おははわれれれけるけるけるががが、、、そのそのその日日ひははは備備びん後後ごののの國國くに蓑蓑みの島島しまととといふいふいう所所ところににに著著つきききててて、、、次次つぎののの日日ひ沼沼ぬ田田たののの城城じょうへへへぞぞぞ寄寄よせせせられられられけるけるける。。。沼沼ぬ田田たののの次次じ郎郎ろう、、、河河こう野野のののの四四し郎郎ろう一一ひとつつつににになつなつなっててて、、、城城じょう郭郭かくををを構構かまへへえててて待待まつつつ所所ところににに、、、能能の登登と殿殿どのやがてやがてやがておしおしおし寄寄よせせせててて、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに攻攻せめめめ給給たまへへえばばば、、、沼沼ぬ田田たののの次次じ郎郎ろうかなはかなはかなわじじじとととややや思思おもひひいけんけんけん、、、兜兜かぶとをををぬぎぬぎぬぎ、、、弓弓ゆみののの弦弦つるをををはづいはづいはずいててて降降こう人人にんににに參參まいるるる。。。
- 5河河こう野野のはははなほなほなおももも從從したがははわずずず、、、そのそのその勢勢せい五五ご百百ひゃく餘餘よ騎騎きありありありけるけるけるががが、、、五五ご十十じっ騎騎きばかりばかりばかりににに討討うちちちなさなさなされれれ、、、城城じょうををを落落おちちちててて行行ゆくくく所所ところににに、、、こゝこゝここににに能能の登登と殿殿どのののの侍侍さぶらいににに平平へい八八はち兵兵びょう衞衞え爲爲ため員員かずととといふいふいう者者もの、、、二二に百百ひゃく騎騎きばりばりばりががが中中なかににに取取とりりりこめこめこめられられられ、、、主主しゅ從從じゅう七七しち騎騎きににに討討うちちちなさなさなされれれ、、、助助たすけ舟舟ぶねににに乘乘のらららんんんとてとてとて、、、細細ほそ道道みちにににかゝつかゝつかかっててて汀汀みぎわののの方方かたへへへ落落おちちち行行ゆくくく所所ところををを、、、平平へい八八はち兵兵びょう衞衞えががが子子し息息そく讚讚さぬ岐岐きののの七七しち郎郎ろう義義よし範範のり、、、屈屈くっ竟竟きょうののの弓弓ゆみののの上上じょう手手ずなりなりなりけれけれければばば、、、おつおつおっかゝりかゝりかかり、、、よつよつよっぴいぴいぴいててて七七しち騎騎きををを五五ご騎騎き射射い落落おとすすす。。。主主しゅ從從じゅう二二に騎騎きにににぞぞぞなりなりなりにににけるけるける。。。河河こう野野のががが身身みにににかへかへかへててて思思おもひひいけるけるける郎郎ろう等等どうににに、、、讚讚さぬ岐岐きののの七七しち郎郎ろうおしおしおし竝竝ならべべべ、、、むずむずむずととと組組くんんんででで、、、どうどうどうととと落落おちちち、、、取取とつつっててて押押おさへへえててて、、、首首くびをををかゝかゝかかんんんとととするするする所所ところににに、、、河河こう野野のののの四四し郎郎ろう取取とつつっててて返返かへししし、、、わがわがわが郎郎ろう等等どうののの上上うえなるなるなる讚讚さぬ岐岐きののの七七しち郎郎ろうががが首首くびかきかきかき切切きつつっててて、、、深深ふか田田たへへへ投投なげげげ入入いれれれ、、、大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「伊伊い豫豫よののの國國くにののの住住じゅう人人にん河河こう野野のののの四四し郎郎ろう越越お智智ちののの通通みち信信のぶ、、、生生しょう年年ねん二二に十十じゅう一一いち、、、軍軍いくさをををばばばかうかうこうこそこそこそすれすれすれ。。。われわれわれととと思思おもははわんんん人人ひと々々びとははは寄寄よつつっててて止止とどめめめよよよややや。。。」」」ととと名名な乘乘のりりり捨捨すてててててて、、、郎郎ろう等等どうををを肩肩かたにににひつひつひっかけかけかけ、、、そこそこそこをををばばばなつくなつくなつく逃逃にげげげのびのびのび、、、伊伊い豫豫よののの國國くにへへへおしおしおし渡渡わたるるる。。。能能の登登と殿殿どの河河こう野野のをををばばば討討うちちち漏漏もらさらさらされれれたりたりたりけれけれけれどもどもども、、、沼沼ぬ田田たののの次次じ郎郎ろうががが降降こう人人にんたるたるたるををを召召めししし具具ぐしししててて、、、一一いちののの谷谷たにへへへぞぞぞ參參まいららられれれけるけるける。。。
- 6またまたまた阿阿あ波波わののの國國くにののの住住じゅう人人にん安安あ摩摩きののの六六ろく郎郎ろう忠忠ただ景景かげ、、、これこれこれももも平平へい家家けををを背背そむいいいててて源源げん氏氏じににに心心こころををを通通かよははわしししけるけるけるががが、、、大大おお船船ぶね二二に艘艘そうににに兵兵ひょう糧糧ろう米米まい積積つみみみ、、、物物もの具具のぐ入入いれれれ、、、都都みやこをををさしさしさしててて上上のぼりりりけるけるけるををを、、、能能の登登と殿殿どの福福ふく原原はらにてにてにて、、、このこのこの由由よしををを聞聞きききき給給たまひひいててて、、、小小こ舟舟ぶねどもどもどもおしおしおし浮浮うかべべべててて追追おははわれれれけれけれければばば、、、西西にしののの宮宮みやののの沖沖おきにてにてにて返返かえしししあはせあはせあわせててて防防ふせぎぎぎ戰戰たたかふふう。。。能能の登登と殿殿どの、、、「「「あますあますあますななな、、、もらすもらすもらすななな。。。」」」とてとてとて、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに攻攻せめめめ給給たまへへえばばば、、、安安あ摩摩きののの六六ろく郎郎ろうかなはかなはかなわじじじとととややや思思おもひひいけんけんけん、、、和和い泉泉ずみののの國國くに吹吹ふけ飯飯ひののの浦浦うらにににたてたてたてこもるこもるこもる。。。
- 7またまたまた紀紀き伊伊いののの國國くにののの住住じゅう人人にん園園その邊邊べののの兵兵ひょう衞衞え忠忠ただ康康やす、、、これこれこれももも平平へい家家けににに心心こころよからよからよからざりざりざりけるけるけるががが、、、安安あ摩摩きののの六六ろく郎郎ろうががが能能の登登と殿殿どのににに手手ていたういたういとう攻攻せめめめられられられ奉奉たてまつつつっててて、、、和和い泉泉ずみののの國國くに吹吹ふけ飯飯ひののの浦浦うらにににありありありととと聞聞きいいいててて、、、そのそのその勢勢せい百百ひゃく騎騎きばかりばかりばかりででで、、、和和い泉泉ずみののの國國くにへへへうちうちうち越越こえええててて、、、安安あ摩摩きののの六六ろく郎郎ろう、、、園園その邊邊べののの兵兵ひょう衞衞え一一ひとつつつににになつなつなっててて、、、城城じょう郭郭かくををを構構かまへへえててて待待まつつつ所所ところににに、、、能能の登登と殿殿どのやがてやがてやがておしおしおし寄寄よせせせててて、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに攻攻せめめめ給給たまへへえばばば、、、安安あ摩摩きののの六六ろく郎郎ろう、、、園園その邊邊べののの兵兵ひょう衞衞えかなはかなはかなわじじじとととややや思思おもひひいけんけんけん、、、身身みがらがらがらははは逃逃にげげげててて京京きょうへへへ上上のぼるるる。。。殘殘のこりりり止止とどまつまつまっててて、、、防防ふせ矢矢ぎや射射いけるけるける兵兵つわものどもどもども百百ひゃく三三さん十十じゅう餘餘よ人人にんががが首首くび切切きつつっててて、、、福福ふく原原はらへへへこそこそこそ參參まいららられれれけれけれけれ。。。
- 8またまたまた豐豐ぶん後後ごののの國國くにののの住住じゅう人人にん臼臼うす杵杵きののの次次じ郎郎ろう惟惟これ隆隆たか、、、緒緒お方方がたののの三三さぶ郎郎ろう惟惟これ義義よし、、、伊伊い豫豫よののの國國くにののの住住じゅう人人にん河河こう野野のののの四四し郎郎ろう通通みち信信のぶ一一ひとつつつににになつなつなっててて、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい二二に千千せん餘餘よ人人にん、、、小小こ船船ぶねどもどもどもににに取取とりりり乘乘のつつっててて、、、備備び前前ぜんののの國國くにへへへおしおしおし渡渡わたりりり、、、今今いま木木きののの城城じょうにににたてたてたてこもるこもるこもる。。。能能の登登と殿殿どの福福ふく原原はらにてにてにてこのこのこの由由よしををを聞聞きききき給給たまひひいててて、、、やすからやすからやすからぬぬぬ事事ことなりなりなりとてとてとて、、、そのそのその勢勢せい三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きででで備備び前前ぜんののの國國くにへへへ馳馳はせせせ下下くだりりり、、、今今いま木木きののの城城じょうををを攻攻せめめめ給給たまふふう。。。能能の登登と殿殿どの、、、「「「きやつきやつきゃつばらばらばらはははこはいこはいこわい御御おん敵敵かたきででで候候そうろう。。。かさねかさねかさねててて勢勢せいををを賜賜たまははわるるるべきべきべき。。。」」」よしよしよし申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、福福ふく原原はらよりよりより數數す萬萬まん騎騎ぎののの軍軍ぐん兵兵びょうをををさしさしさし向向むけけけらるゝらるゝらるる由由よし聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、城城じょうののの内内うちののの兵兵つわものどもどもども、、、手手てのののきはきはきわ戰戰たたかひひい、、、分分ぶん捕捕どり高高こう名名みょうしししきはめきはめきわめててて、、、敵敵かたきははは多多た勢勢ぜいなりなりなり、、、御御み方方かたははは小小こ勢勢ぜいなりなりなりけれけれければばば、、、取取とりりりこめこめこめられられられてててはははかなふかなふかなうまじまじまじ。。。こゝこゝここをををばばば落落おちちちててて、、、しばししばししばしののの息息いきをををつげつげつげやややとてとてとて、、、臼臼うす杵杵きののの次次じ郎郎ろう惟惟これ隆隆たか、、、緒緒お方方がたののの三三さぶ郎郎ろう惟惟これ義義よしははは、、、豐豐ぶん後後ごののの國國くにへへへおしおしおし渡渡わたりりり、、、河河こう野野のははは伊伊い豫豫よへへへぞぞぞ渡渡わたりりりけるけるける。。。能能の登登と殿殿どの今今いまははは攻攻せむむむべきべきべき敵敵かたきなしなしなしとてとてとて、、、福福ふく原原はらへへへこそこそこそ參參まいららられれれけれけれけれ。。。大臣殿大臣殿おおいどの以以い下下げののの月月げつ卿卿けい雲雲うん客客かく寄寄よりりりあひあひあい給給たまひひいててて、、、能能の登登と殿殿どのののの毎毎まい度度どののの高高こう名名みょうをををぞぞぞ感感かんじじじあはあはあわれれれけるけるける。。。
現代語訳
そうするうちに、平家が一の谷へ渡られてから後は、四国の者たちはまったく従い申さない。なかでも阿波・讃岐の在庁官人たちは、みな平家に背いて源氏に心を通わせていたが、昨日今日まで平家に従っていた身が、今日初めて源氏へ参っても、まさか用いてはくださるまい。平家に矢を一本でも射かけ申して、それを手柄にして参ろうといって、門脇の平中納言教盛、越前三位通盛、能登守教経の父子三人が備前国下津井におられると聞いて、兵船十余艘で寄せてきた。
能登殿はひどく怒って、「昨日今日まで、われらの馬の草を刈っていたやつらが、いつの間に約束を変えるというのか。そういうことなら一人も漏らさず討て」といって、小船を浮かべて追われたので、四国の者たちは、人目だけのために矢を一本射て退こうと思っていたのに、能登殿にあまりに激しく攻められて、かなわないと思ったのであろうか、遠くへ逃げて引き退き、淡路国の福良の泊に着いた。
その国に源氏が二人いると聞こえた。故六条判官為義の末子の賀茂冠者義嗣と淡路冠者義久と聞こえたのを大将に頼んで、城郭を構えて待つところに、能登殿が押し寄せてさんざんに攻められたので、賀茂冠者は討ち死にした。淡路冠者は深手を負って生け捕りにされた。残って防ぎ矢を射た者ども二百三十余人の首を斬って掛けさせ、討ち取った者の名簿を記して、福原へ差し出された。それから門脇殿は一の谷へ参られた。子息たちは、伊予の河野四郎が召しても参らないのを攻めようといって四国へ渡られた。兄の越前三位通盛卿は阿波国の花園城に着かれた。
弟の能登守教経は讃岐の屋島に着かれたと聞こえたので、伊予国の住人河野四郎通信は、安芸国の住人沼田次郎が母方の伯父であったので、一つになろうとして安芸国へ渡った。能登殿はこのことをお聞きになって、屋島を発って追われたが、その日は備後国の蓑島という所に着いて、次の日に沼田城へ寄せられた。沼田次郎と河野四郎が一つになって城郭を構えて待つところに、能登殿がすぐに押し寄せてさんざんに攻められたので、沼田次郎はかなわないと思ったのであろうか、兜を脱ぎ弓の弦をはずして降参した。
河野はなおも従わず、その勢五百余騎であったが、五十騎ほどに討ちへらされ、城を落ちて行くところに、能登殿の侍の平八兵衛為員という者の二百騎ほどの中に取りこめられ、主従七騎に討ちへらされ、助け船に乗ろうとして、細道を通って水際の方へ落ちて行くところを、平八兵衛の子の讃岐七郎義範は屈強の弓の名手であったので、追いかかって弓を引きしぼり、七騎のうち五騎を射落とした。主従二騎になってしまった。河野が自分の身に代えても大事に思っていた郎等に讃岐七郎が馬を並べ、むんずと組んでどうと落ち、取り押さえて首をかこうとするところに、河野四郎が取って返し、自分の郎等の上になっている讃岐七郎の首をかき切って深田へ投げ入れ、大音声をあげて、「伊予国の住人河野四郎越智通信、生年二十一、戦とはこのようにするものだ。われと思わん人々は寄って止めてみよ」と名のり捨てて、郎等を肩に引っかけ、そこを無事に逃げのびて伊予国へ渡った。能登殿は河野を討ちもらされたが、降参した沼田次郎を連れて一の谷へ参られた。
また阿波国の住人安摩六郎忠景も平家に背いて源氏に心を通わせていたが、大船二艘に兵糧米を積み、武具を入れて都をさして上っていくのを、能登殿は福原でこのことをお聞きになって、小舟を浮かべて追われたので、西の宮の沖で引き返して防ぎ戦った。能登殿が「討ち残すな、漏らすな」といってさんざんに攻められたので、安摩六郎はかなわないと思ったのであろうか、和泉国の吹飯の浦に立てこもった。
また紀伊国の住人園辺兵衛忠康も平家によくない心を抱いていたが、安摩六郎が能登殿に激しく攻められて和泉国の吹飯の浦にいると聞いて、その勢百騎ほどで和泉国へ越えて、安摩六郎と園辺兵衛が一つになって城郭を構えて待つところに、能登殿がすぐに押し寄せてさんざんに攻められたので、安摩六郎と園辺兵衛はかなわないと思ったのであろうか、身一つで逃げて京へ上った。残って防ぎ矢を射た兵ども百三十余人の首を斬って、福原へ差し出された。
また豊後国の住人臼杵次郎惟隆と緒方三郎惟義、伊予国の住人河野四郎通信が一つになって、合わせてその勢二千余人、小船に乗って備前国へ渡り、今木城に立てこもった。能登殿は福原でこのことをお聞きになって、けしからぬことだといって、その勢三千余騎で備前国へ馳せ下り、今木城を攻められた。能登殿が「あいつらは手強い敵でございます。重ねて軍勢をいただきたい」と申されたので、福原から数万騎の軍兵を差し向けられると聞こえたので、城の中の兵たちは、力の限り戦い、分捕りや手柄も十分に立てたうえで、敵は大勢、味方は小勢なので、取りこめられてはかなうまい。ここは落ちて、しばらく息をつこうといって、臼杵次郎惟隆と緒方三郎惟義は豊後国へ渡り、河野は伊予へ渡った。能登殿は、今は攻めるべき敵もないといって福原へ参られた。大臣殿以下の公卿・殿上人は寄り集まられて、能登殿のたびたびの手柄に感じ入られた。
意訳
一の谷の合戦の前に、能登守教経が四国・淡路・安芸・紀伊・備前と転戦し、六度の戦いに勝った武勇を語る章段である。源氏方に寝返ろうとする者たちを次々と打ち破る教経の姿は、平家随一の猛将としての面目を示している。
そのなかで、討ちもらされた河野通信が、郎等を肩にかついで逃げのびながら「軍をばかうこそすれ」と名のる場面は、敵ながら鮮やかに描かれている。平家に背く者が四国・九州に広がっていくなかで、教経一人の奮戦が一門を支えていたことがうかがえる。
語釈・文法注
文法
- 「在廳」
- 在庁官人。国司の役所(国衙)で実務を担った地元の役人。
- 「それを表にして」
- それを手柄として表向きの名目にして。
- 「遠負けにして」
- 遠くまで逃げて負けて。
- 「交名」
- 人名を書き連ねた名簿。
- 「なつく逃げのび」
- 無事に逃げのび。「なつく」は難なく、の意か。
- 「手のきは戰ひ」
- 力の限り戦い。
解説
寿永二年(1183)の冬から翌年正月にかけて、平家は瀬戸内海一帯で勢力を回復しようとし、能登守教経はその中心となって各地を転戦した。河野通信は伊予の豪族で、のちに源氏方として壇の浦の合戦に加わる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、662–665頁(コマ360–361)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日