平家物語 巻第九
木曾の最後の事
義仲が信濃から連れてきた女武者巴は、七騎になっても討たれずにいた。義仲は今井兼平の行方を案じて勢多へ向かい、大津の打出の浜で兼平とめぐり会う。兼平の旗に三百騎が集まり、一条次郎の六千余騎に駆け入って、主従五騎にまで討ちへらされた。義仲は巴を落ちのびさせ、巴は御田八郎を討って東国へ去る。兼平と二騎になった義仲は、粟津の松原で自害するよう勧められるが、深田に馬を乗り入れて動けなくなったところを、石田為久に射られて首を取られた。それを聞いた兼平は、太刀の切っ先を口に含んで馬から飛び落ち、自害した。
- 1木木き曾曾そははは信信しな濃濃のををを出出いでででしししよりよりより、、、巴巴ともえ、、、山山やま吹吹ぶきとてとてとて二二に人人にんののの美美び女女じょををを具具ぐせせせられられられたりたりたり。。。山山やま吹吹ぶきはははいたはりいたはりいたわりあつあつあっててて都都みやこににに止止とどまりまりまりぬぬぬ。。。中中なかにににももも巴巴ともえははは色色いろ白白しろううう髪髪かみ長長ながくくく、、、容容よう顏顏がんまことまことまことににに美美び麗麗れいなりなりなり。。。究究くっ竟竟きょうののの荒荒あら馬馬うま乘乘のりののの、、、惡惡あく所所しょおとしおとしおとし、、、弓弓ゆみ矢矢や、、、打打うち物物もの取取とつつってててははは、、、いかなるいかなるいかなる鬼鬼おににににももも神神かみにににもももあふあふあうととといふいふいう、、、一一いち人人にん當當とう千千ぜんののの兵兵つわものなりなりなり。。。さればさればされば軍軍いくさととといふいふいう時時ときははは、、、札札さねよきよきよき鎧鎧よろい著著きせせせ、、、強強つよ弓弓ゆみ、、、大大おお太太だ刀刀ち持持もたたたせせせててて、、、一一いっ方方ぽうののの大大たい將將しょうににに向向むけけけられられられけるけるけるににに、、、度度ど々々どののの高高こう名名みょう、、、肩肩かたををを雙雙ならぶるぶるぶる者者ものなしなしなし。。。さればさればされば今今こん度度どももも多多おおくくくののの者者もの落落おちちち失失うせせせ、、、討討うたたたれれれけるけるける中中なかににに、、、七七しち騎騎きががが中中なかまでまでまでももも巴巴ともえははは討討うたたたれれれざりざりざりけりけりけり。。。
- 2木木き曾曾そははは長長なが坂坂さかををを經經へててて丹丹たん波波ば路路じへへへとととももも聞聞きこゆゆゆ。。。龍龍りゅう華華げ越越ごえにににかゝりかゝりかかりててて、、、またまたまた北北ほっ國國こくへへへとととももも聞聞きこえええけりけりけり。。。かかりかかりかかりしかしかしかどもどもども今今いま井井いがががゆくゆくゆくすゑすゑすえのののおぼつかなさおぼつかなさおぼつかなさににに、、、取取とつつっててて返返かへしししててて、、、勢勢せ多多たののの方方かたへへへぞぞぞ落落おちちち行行ゆききき給給たまふふう。。。今今いま井井いののの四四し郎郎ろう兼兼かね平平ひらももも八八はっ百百ぴゃく餘餘よ騎騎きにてにてにて勢勢せ多多たををを固固かためめめたりたりたりけるけるけるががが、、、五五ご十十じっ騎騎きばかりばかりばかりににに討討うちちちなさなさなされれれ、、、旗旗はたをををばばば捲捲まかかかせせせててて持持もたたたせせせつゝつゝつつ、、、主主しゅのののゆくへゆくへゆくえのののおぼつかなさおぼつかなさおぼつかなさににに、、、都都みやこののの方方かたへへへ上上のぼるるる程程ほどににに、、、大大おお津津つののの打打うち出出でののの濱濱はまにてにてにて、、、木木き曾曾そ殿殿どのににに行行ゆきききあひあひあい奉奉たてまつるるる。。。中中なか一一いっ町町ちょうばかりばかりばかりよりよりより互互たがいにににそれそれそれととと見見み知知しつつっててて、、、主主しゅ從從じゅう駒駒こまををを早早はやめめめててて寄寄よりりり合合あひひいたりたりたり。。。
- 3木木き曾曾そ殿殿どの、、、今今いま井井いががが手手てををを取取とつつってててのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「義義よし仲仲なか、、、六六ろく條條じょう河河かわ原原らにてにてにていかにいかにいかにもももなるなるなるべかりべかりべかりしかしかしかどもどもども、、、汝汝なんじがががゆくへゆくへゆくえのののおぼつかなさおぼつかなさおぼつかなさににに、、、多多おおくくくののの敵敵かたきににに後後うしろををを見見みせせせててて、、、これこれこれまでまでまで遁遁のがれれれたるたるたるはははいかにいかにいかに。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、今今いま井井い四四し郎郎ろう、、、「「「御御ご諚諚じょうまことまことまことにににかたじけなうかたじけなうかたじけのう候候そうろう。。。兼兼かね平平ひらももも勢勢せ多多たにてにてにて討討うち死死じに仕仕つかまつるるるべうべうびょう候候そうらひひいしかしかしかどもどもども、、、御御おんゆくへゆくへゆくえのののおぼつかなさおぼつかなさおぼつかなさににに、、、これこれこれまでまでまで遁遁のがれれれ參參まいつつっててて候候そうろう。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、木木き曾曾そ殿殿どの、、、「「「さてさてさてははは契契ちぎりりりははは未未いまだだだ朽朽くちちちざりざりざりけりけりけり。。。義義よし仲仲なかががが勢勢せい山山さん林林りんににに馳馳はせせせ散散ちつつっててて、、、このこのこの邊邊へんにににももも控控ひかへへえたるたるたるらんらんらんぞぞぞ。。。汝汝なんじががが旗旗はた上上あげげげさせさせさせよよよ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、捲捲まいいいててて持持もたたたせせせたるたるたる今今いま井井いががが旗旗はたさしさしさし上上あげげげたりたりたり。。。これこれこれををを見見みつけつけつけててて、、、京京きょうよりよりより落落おつるつるつる勢勢せいととともももなくなくなく、、、またまたまた勢勢せ多多たよりよりより參參まいるるる者者ものととともももなくなくなく馳馳はせせせ集集あつまつまつまっててて、、、程程ほどなくなくなく三三さん百百びゃく騎騎きばかりばかりばかりににになりなりなり給給たまひひいぬぬぬ。。。
- 4木木き曾曾そ殿殿どのなのめなのめなのめならならならずずずににに喜喜よろこびびびててて、、、「「「このこのこの勢勢せいにてにてにてははは最最さい後後ごののの軍軍いくさ、、、一一ひと軍軍いくさなどなどなどかかかせせせざるざるざるべきべきべき。。。あれあれあれにににしぐらうしぐらうしぐろうててて見見みゆるゆるゆるははは誰誰たががが手手てやらんやらんやらん。。。」」」「「「甲甲か斐斐いののの一一いち條條じょうののの次次じ郎郎ろう殿殿どのののの御御おん手手てとととこそこそこそ承承うけたまわつつっててて候候そうらへへえ。。。」」」「「「勢勢せいはははいかいかいかほどほどほどあるあるあるらんらんらん。。。」」」「「「六六ろく千千せん餘餘よ騎騎きととと聞聞きこえええ候候そうろう。。。」」」「「「さてさてさてははは互互たがいににによいよいよい敵敵かたき、、、同同おなじうじうじゅう死死しぬるぬるぬるとととももも、、、大大おお勢勢ぜいののの中中なかへへへかけかけかけ入入いりりり、、、よいよいよい敵敵かたきににに逢逢おうううてててこそこそこそ討討うち死死じにをををもももせせせめめめ。。。」」」とてとてとて、、、まつまつまっ先先さききききにににぞぞぞ進進すすみみみ給給たまふふう。。。
- 5木木き曾曾そ殿殿どのそのそのその日日ひののの裝裝しょう束束ぞくにににははは、、、赤赤あか地地じののの錦錦にしきののの直直ひた垂垂たれににに唐唐から綾綾あや縅縅おどしののの鎧鎧よろい著著きててて、、、いかいかいかものものもの作作ずくりりりののの太太た刀刀ちををを佩佩はききき、、、鍬鍬くわ形形がた打打うつつったるたるたる兜兜かぶとののの緒緒ををををしめしめしめ、、、二二に十十じゅう四四しさいさいさいたるたるたる石石いし打打うちののの矢矢やののの、、、そのそのその日日ひののの軍軍いくさににに射射いててて、、、少少しょう々々しょう殘殘のこつつったるたるたるををを頭頭かしら高高だかににに負負おひひいなしなしなし、、、滋滋しげ籐籐どうののの弓弓ゆみのののまんまんまん中中なか取取とつつっててて、、、聞聞きこゆるゆるゆる木木き曾曾そののの鬼鬼おに葦葦あし毛毛げととといふいふいう馬馬うまににに、、、金金きん覆覆ぷく輪輪りんののの鞍鞍くらををを置置おいいいててて乘乘のつつったりたりたりけるけるけるががが、、、鐙鐙あぶみふんばりふんばりふんばり立立たち上上あがりりり、、、大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「日日ひ頃頃ごろははは聞聞ききききけんけんけんものものものををを、、、木木き曾曾そののの冠冠かん者者じゃ、、、今今いまははは見見みるるるらんらんらん左左さ馬馬まののの頭頭かみ兼兼けん伊伊い豫豫よののの守守かみ、、、朝朝あさ日日ひののの將將しょう軍軍ぐん源源みなもとののの義義よし仲仲なかぞぞぞややや。。。甲甲か斐斐いののの一一いち條條じょうののの次次じ郎郎ろうとととこそこそこそ聞聞きけけけ。。。義義よし仲仲なか討討うつつっててて兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけににに見見みせせせよよよややや。。。」」」とてとてとて、、、をめいをめいおめいててて驅驅かくくく。。。
- 6一一いち條條じょうののの次次じ郎郎ろうこれこれこれををを聞聞きいいいててて、、、「「「只只ただ今今いま名名な乘乘のるるるははは大大たい將將しょう軍軍ぐんぞぞぞややや。。。あますあますあますななな者者ものどもどもども、、、もらすもらすもらすななな若若わか黨黨とう、、、討討うてててややや。。。」」」とてとてとて、、、大大おお勢勢ぜいののの中中なかににに取取とりりりこめこめこめててて、、、われわれわれ討討うちちち取取とらららんんんとととぞぞぞ進進すすみみみけるけるける。。。木木き曾曾そ三三さん百百びゃく餘餘よ騎騎き、、、六六ろく千千せん餘餘よ騎騎きががが中中なかへへへかけかけかけ入入いりりり、、、豎豎たてざまざまざま、、、横横よこざまざまざま、、、蜘蜘く蛛蛛も手手で、、、十十じゅう文文もん字字じにににかけかけかけ破破やぶつつっててて、、、後後うしろへへへつつつととと出出いでででたれたれたればばば、、、五五ご十十じっ騎騎きばかりばかりばかりににになりなりなりにににけるけるける。。。そこそこそこををを破破やぶつつっててて行行ゆくくく程程ほどににに、、、土土と肥肥ひののの次次じ郎郎ろう實實さね平平ひら二二に千千せん餘餘よ騎騎きででで支支ささへへえたりたりたり。。。そこそこそこをををももも破破やぶつつっててて行行ゆくくく程程ほどににに、、、あそこあそこあそこにてにてにてははは四四し五五ご百百ひゃく騎騎き、、、こゝこゝここにてにてにてははは二二に三三さん百百びゃく騎騎き、、、百百ひゃく四四し五五ご十十じっ騎騎き、、、百百ひゃく騎騎きばかりばかりばかりががが中中なかをををかけかけかけわり〳〵わり〳〵りかけわり行行ゆくくくほどほどほどににに、、、主主しゅ從從じゅう五五ご騎騎きにににぞぞぞなりなりなりにににけるけるける。。。五五ご騎騎きががが中中なかまでまでまでももも巴巴ともえははは討討うたたたれれれざりざりざりけりけりけり。。。
- 7木木き曾曾そ殿殿どの巴巴ともえををを召召めしししててて、、、「「「おのれおのれおのれははは女女おんななれなれなればばば、、、これこれこれよりよりよりとう〳〵とう〳〵とうとう、、、いづちいづちいずちへへへももも落落おちちち行行ゆけけけ。。。義義よし仲仲なかははは討討うち死死じにをををせせせんんんずるずるずるなりなりなり。。。もしもしもし人人ひと手手でにににかゝらかゝらかからずずずばばば、、、自自じ害害がいをををせせせんんんずれずれずればばば、、、義義よし仲仲なかががが最最さい後後ごののの軍軍いくさににに、、、女女おんなををを具具ぐしししたりたりたりなどなどなどいはいはいわれれれんんんことことこと、、、口口くち惜惜おしかるしかるしかるべしべしべし。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえどもどもども、、、なほなほなお落落おちちちももも行行ゆかかかざりざりざりけるけるけるががが、、、あまりあまりあまりににに強強つよううういはいはいわれれれ奉奉たてまつつつっててて、、、「「「あつぱれあつぱれあっぱれよからよからよからううう敵敵かたきののの出出いででで來來こよよよかしかしかし。。。木木き曾曾そ殿殿どのににに最最さい後後ごののの軍軍いくさしてしてして見見みせせせ奉奉たてまつらららんんん。。。」」」とてとてとて、、、控控ひかへへえててて敵敵かたきををを待待まつつつ所所ところににに、、、こゝこゝここににに武武む藏藏さしののの國國くにののの住住じゅう人人にん御御おん田田だののの八八はち郎郎ろう師師もろ重重しげととといふいふいう大大だい力力ぢからののの剛剛こうののの者者もの、、、三三さん十十じっ騎騎きばかりばかりばかりででで出出いででで來來くるるる。。。巴巴ともえ、、、そのそのその中中なかへへへわつわつわっててて入入いりりり、、、まづまづまず御御おん田田だののの八八はち郎郎ろうにににおしおしおし雙雙ならべべべ、、、むずむずむずととと組組くんんんででで引引ひき落落おとししし、、、わがわがわが乘乘のつつったりたりたりけるけるける鞍鞍くらののの前前まえ輪輪わにににおしおしおしつけつけつけててて、、、ちつちつちっとととももも働働はたらかかかさささずずず、、、首首くびねぢねぢねじ切切きつつっててて捨捨すててててててんんんげりげりげり。。。そのそのその後後のち物物もの具具のぐ脫脫ぬぎぎぎ捨捨すてててててて、、、東東とう國國ごくののの方方かたへへへぞぞぞ落落おちちち行行ゆきききけるけるける。。。手手て塚塚ずかののの太太た郎郎ろう討討うち死死じにすすす。。。手手て塚塚ずかののの別別べつ當當とう落落おちちちにににけりけりけり。。。
- 8木木き曾曾そ殿殿どの、、、今今いま井井いののの四四し郎郎ろう、、、只只ただ主主しゅ從從じゅう二二に騎騎きににになつなつなってててのたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「日日ひ頃頃ごろははは何何なにとととももも覺覺おぼえええぬぬぬ鎧鎧よろいががが、、、今日今日きょうははは重重おもうううなつなつなったるたるたるぞぞぞややや。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、今今いま井井いののの四四し郎郎ろう申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「御御おん身身みももも未未いまだだだ疲疲つかれれれさせさせさせ給給たまひひい候候そうらははわずずず、、、御御おん馬馬うまももも弱弱よわりりり候候そうらははわずずず、、、何何なにににに依依よつつっててて一一いち領領りょうののの御御おんきせながきせながきせながををを、、、俄俄にはかににに重重おもうううははは思思おぼし召召めささされれれ候候そうろうべきべきべき。。。それそれそれははは御御み方方かたににに續續つづくくく勢勢せいががが候候そうらははわねねねばばば、、、臆臆おく病病びょうでででこそこそこそ、、、さささははは思思おぼし召召めししし候候そうろうらめらめらめ。。。兼兼かね平平ひら一一いっ騎騎きをををばばば餘餘よののの武武む者者しゃ千千せん騎騎きととと思思おぼし召召めししし候候そうろうべしべしべし。。。こゝこゝここににに射射い殘殘のこしししたるたるたる矢矢や七七ななつつつ八八やっつつつ候候そうらへへえばばば、、、暫暫しばらくらくらく防防ふせ矢矢ぎや仕仕つかまつりりり候候そうらははわんんん。。。あれあれあれににに見見みえええ候候そうろうははは粟粟あわ津津ずののの松松まつ原原ばらととと申申もうししし候候そうろう。。。君君きみはははあのあのあの松松まつののの中中なかへへへ入入いらららせせせたまひたまひたまいててて、、、靜靜しずかかかににに御御ご自自じ害害がい候候そうらへへえ。。。」」」とてとてとて、、、打打うつつっててて行行ゆくくく程程ほどににに、、、またまたまた新新あら手手てののの武武む者者しゃ五五ご十十じっ騎騎きばかりばかりばかりででで出出いででで來來くるるる。。。
- 9「「「兼兼かね平平ひらはははこのこのこの御御おん敵敵かたき、、、暫暫しばらくらくらく防防ふせぎぎぎ參參まいらせらせらせ候候そうろうべしべしべし。。。君君きみはははあのあのあの松松まつののの中中なかへへへ入入いらららせせせ給給たまへへえ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、「「「義義よし仲仲なか六六ろく條條じょう河河かわ原原らにてにてにて、、、いかにいかにいかにもももなるなるなるべかりべかりべかりしかしかしかどもどもども、、、汝汝なんじととと一一いっ所所しょでででいかにいかにいかにもももなりなりなりなななんんん爲爲ためにににこそこそこそ、、、多多おおくくくののの敵敵かたきににに後後うしろををを見見みせせせててて、、、これこれこれまでまでまで逃逃のがれれれたんたんたんなれなれなれ。。。所所ところ々々どころででで討討うたたたれれれんんんよりよりより、、、一一いっ所所しょでででこそこそこそ討討うち死死じにをををもももせせせめめめ。。。」」」とてとてとて、、、馬馬うまののの鼻鼻はなををを竝竝ならべべべててて、、、既既すでにににかけかけかけんんんとととししし給給たまへへえばばば、、、今今いま井井いののの四四し郎郎ろう、、、急急いそぎぎぎ馬馬うまよりよりより飛飛とんんんででで下下おりりり、、、主主しゅののの馬馬うまののの水水みずづきづきづきににに取取とりりりつきつきつき、、、涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながいいいててて、、、「「「弓弓ゆみ矢矢や取取とりりりははは年年としごろごろごろ日日ひごろごろごろ、、、いかなるいかなるいかなる高高こう名名みょう候候そうらへへえどもどもども、、、最最さい後後ごににに不不ふ覺覺かくしししぬれぬれぬればばば、、、長長ながききき瑕瑕きずにてにてにて候候そうろうなりなりなり。。。御御おん身身みももも勞勞つかれれれさせさせさせ給給たまひひい候候そうらひひいぬぬぬ。。。御御おん馬馬うまももも弱弱よわつつっててて候候そうろう。。。いふいふいうがひがひがいなきなきなき人人ひとののの郎郎ろう等等どうににに組組くみみみ落落おとささされれれててて、、、討討うたたたれれれさせさせさせ給給たまひひい候候そうらひひいなななばばば、、、さしもさしもさしも日日にっ本本ぽん國國ごくににに鬼鬼おに神神がみととと聞聞きこえええさせさせさせ給給たまひひいつるつるつる木木き曾曾そ殿殿どのをををばばば、、、某某なにがしががが郎郎ろう等等どうののの手手てにににかけかけかけててて、、、討討うちちち奉奉たてまつりりりたりたりたりなんどなんどなんど申申もうささされれれんんんことことこと、、、口口くち惜惜おしかるしかるしかるべしべしべし。。。たゞたゞただ理理りをををまげまげまげててて、、、あのあのあの松松まつののの中中なかへへへ入入いらららせせせ給給たまへへえ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、木木き曾曾そさらばさらばさらばとてとてとて、、、たゞたゞただ一一いっ騎騎き粟粟あわ津津ずののの松松まつ原原ばらへへへぞぞぞかけかけかけ給給たまふふう。。。
- 10今今いま井井いののの四四し郎郎ろう取取とつつっててて返返かへししし、、、五五ご十十じっ騎騎きばかりばかりばかりががが勢勢せいののの中中なかへへへかけかけかけ入入いりりり、、、鐙鐙あぶみふんばりふんばりふんばり立立たち上上あがりりり、、、大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「遠遠とおからからからんんん者者ものははは音音おとにににももも聞聞きけけけ、、、近近ちかからからからんんん人人ひとははは目目めにににももも見見み給給たまへへえ。。。木木き曾曾そ殿殿どのののの乳乳めの母母と子子ごににに今今いま井井いののの四四し郎郎ろう兼兼かね平平ひらとてとてとて、、、生生しょう年年ねん三三さん十十じゅう三三さんにににまかりまかりまかりなるなるなる、、、さるさるさる者者ものありありありとととははは、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのまでまでまでもももしろしめさしろしめさしろしめされれれたるたるたるらんらんらんぞぞぞ。。。兼兼かね平平ひら討討うつつっててて兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どのののの御御ご見見げん參參ざんににに入入いれれれよよよややや。。。」」」とてとてとて、、、射射い殘殘のこしししたるたるたる八八や筋筋すじののの矢矢やををを、、、さしさしさしつめつめつめ引引ひきききつめつめつめ、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに射射いるるる。。。死死し生生しょうははは知知しらららずずず、、、矢矢や庭庭にわににに敵敵かたき八八はち騎騎き射射い落落おとししし、、、そのそのその後後のち太太た刀刀ちををを拔拔ぬいいいててて切切きつつってててまはるまはるまわるににに、、、面面おもてをををあはするあはするあわする者者ものぞぞぞなきなきなき。。。たゞたゞただ、、、「「「射射い取取とれれれややや射射い取取とれれれ。。。」」」とてとてとて、、、さしさしさしつめつめつめ引引ひきききつめつめつめ、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに射射いけれけれけれどもどもども、、、鎧鎧よろいよけれよけれよければばば、、、裏裏うらかかかかかかずずず、、、明明あき間間まををを射射いねねねばばば手手てももも負負おははわずずず。。。
- 11木木き曾曾そ殿殿どのはははたゞたゞただ一一いっ騎騎き、、、粟粟あわ津津ずののの松松まつ原原ばらへへへかけかけかけ給給たまふふう。。。頃頃ころははは正正しょう月月がつ二二に十十じゅう一一いち日日にち、、、入入いり相相あいばかりばかりばかりののの事事ことなるなるなるににに、、、薄薄うす氷氷ごおりははは張張はつつったりたりたりけりけりけり。。。深深ふか田田だありありありとととももも知知しらららずずずしてしてして、、、馬馬うまをををさつさつさっととと打打うち入入いれれれたれたれたればばば、、、馬馬うまののの頭頭かしらももも見見みえええざりざりざりけりけりけり。。。あふれあふれあおれどもどもどもあふれあふれあおれどもどもども、、、打打うてててどもどもども打打うてててどもどもども働働はたらかかかずずず。。。斯斯かかりかりかりしかしかしかどもどもども今今いま井井いががが行行ゆくくくへへへのののおぼつかなさおぼつかなさおぼつかなさににに、、、ふりふりふり仰仰あおきききたまふたまふたまうところところところををを、、、相相さが摸摸みののの國國くにののの住住じゅう人人にん三三み浦浦うらののの石石いし田田だののの次次じ郎郎ろう爲爲ため久久ひさ追追おつつつかゝりかゝりっかかり、、、よつよつよっぴいぴいぴいててて、、、ひようとひようとひょうと放放はなつつつ。。。木木き曾曾そ殿殿どの内内うち兜兜かぶとををを射射いさせさせさせ、、、いたいたいた手手でなれなれなればばば、、、兜兜かぶとののの眞眞ま甲甲こうををを馬馬うまののの頭頭かしらににに押押おし當當あてててててて、、、うつぶしうつぶしうつぶし給給たまふふう所所ところををを、、、石石いし田田だががが郎郎ろう等等どう二二ふた人人り落落おちちちあひあひあいててて、、、既既すでににに御御おん首首くびをををばばば賜賜たまははわりりりけりけりけり。。。やがてやがてやがて首首くびをををばばば太太た刀刀ちののの先先さきににに貫貫つらぬききき、、、高高たかくくくさしさしさしあげあげあげ、、、大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「このこのこの日日ひ頃頃ごろ、、、日日にっ本本ぽん國國ごくににに鬼鬼おに神神がみととと聞聞きこえええさせさせさせたまひたまひたまいつるつるつる木木き曾曾そ殿殿どのをををばばば、、、三三み浦浦うらののの石石いし田田だののの次次じ郎郎ろう爲爲ため久久ひさががが討討うちちち奉奉たてまつるるるぞぞぞややや。。。」」」ととと名名な乘乘のりりりけれけれければばば、、、今今いま井井いののの四四し郎郎ろうははは軍軍いくさしししけるけるけるががが、、、これこれこれををを聞聞きいいいててて、、、「「「今今いまははは誰誰たれををを覆覆かばはははんんんとてとてとて、、、軍軍いくさをををばばばすすすべきべきべき。。。これこれこれ見見み給給たまへへえ東東とう國國ごくののの殿殿とのばらばらばら、、、日日にっ本本ぽん一一いちののの剛剛こうののの者者ものののの自自じ害害がいするするする手手て本本ほんよよよ。。。」」」とてとてとて、、、太太た刀刀ちのののきつさききつさききっさきををを口口くちににに含含ふくみみみ、、、馬馬うまよりよりより逆逆さかさまさまさまににに飛飛とびびび落落おちちち、、、貫貫つらぬかかかつつってててぞぞぞ失失うせせせにににけるけるける。。。
現代語訳
木曾は信濃を出てから、巴・山吹という二人の美女を連れておられた。山吹は病気で都にとどまった。なかでも巴は色が白く髪が長く、顔かたちはまことに美しい。屈強の荒馬乗りで、難所を駆け下り、弓矢や太刀を取っては、どんな鬼にも神にも立ち向かうという一騎当千の武者である。だから戦いのときには、札のよい鎧を着せ、強弓や大太刀を持たせて、一方の大将として差し向けられたが、たびたびの手柄は肩を並べる者がない。それで今度も、多くの者が逃げたり討たれたりしたなかで、七騎になるまで巴は討たれなかった。
木曾は長坂を経て丹波路へ向かったとも、龍華越にかかってまた北国へ向かったとも聞こえた。けれども今井の行方が気がかりで、取って返して勢多の方へ落ちて行かれた。今井四郎兼平も八百余騎で勢多を固めていたが、五十騎ほどに討ちへらされ、旗を巻かせて持たせながら、主君の行方が気がかりで都の方へ上るうちに、大津の打出の浜で木曾殿に行き会い申した。一町ほど手前から互いにそれと見知って、主従は駒を早めて寄り合った。
木曾殿が今井の手を取っておっしゃるには、「義仲は六条河原でどうにでもなるはずであったが、おまえの行方が気がかりで、多くの敵に後ろを見せて、ここまで逃れて来たのだ。どうだ」とおっしゃると、今井四郎は「お言葉、まことにかたじけのうございます。兼平も勢多で討ち死にするはずでしたが、お行方が気がかりで、ここまで逃れて参りました」と申したので、木曾殿は「それでは約束はまだ朽ちていなかったのだな。義仲の勢は山林に散らばって、このあたりにも控えているであろう。おまえの旗を上げさせよ」とおっしゃると、巻いて持たせていた今井の旗を差し上げた。これを見つけて、京から落ちてくる勢ともなく、勢多から参る者ともなく馳せ集まって、まもなく三百騎ほどになられた。
木曾殿はたいそう喜んで、「この勢なら最後の戦いを一戦できないことがあろうか。あそこに群がって見えるのは誰の手勢か」「甲斐の一条次郎殿の御手と承っております」「勢はどれほどいるか」「六千余騎と聞こえます」「それでは互いによい敵だ。同じく死ぬにしても、大勢の中に駆け入り、よい敵に会ってこそ討ち死にもしよう」といって、真っ先に進まれた。
木曾殿のその日の装束は、赤地の錦の直垂に唐綾縅の鎧を着て、いかめしい作りの太刀を佩き、鍬形を打った兜の緒をしめ、二十四本差した石打の矢の、その日の戦いで射て少し残っていたのを、頭より高く背負い、滋籐の弓の真ん中を握って、名高い木曾の鬼葦毛という馬に金覆輪の鞍を置いて乗っていたが、鐙を踏んばって立ち上がり、大音声をあげて、「日ごろは噂に聞いていたであろう、木曾の冠者を、今は目で見よ。左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源義仲だぞ。甲斐の一条次郎と聞く。義仲を討って兵衛佐(頼朝)に見せよ」といって、わめいて駆けた。
一条次郎はこれを聞いて、「今名のったのは大将軍だぞ。討ち残すな者ども、漏らすな若党、討て」といって、大勢の中に取りこめて、自分が討ち取ろうと進んだ。木曾の三百余騎は、六千余騎の中に駆け入り、縦横、四方八方に駆け破って、後ろへさっと抜け出ると、五十騎ほどになっていた。そこを破って行くと、土肥次郎実平が二千余騎で立ちはだかった。そこも破って行くと、あちらでは四、五百騎、こちらでは二、三百騎、百四、五十騎、百騎ほどの中を駆け割り駆け割り行くうちに、主従五騎になってしまった。五騎になるまで巴は討たれなかった。
木曾殿は巴を呼んで、「おまえは女だから、ここから早く、どこへでも落ちて行け。義仲は討ち死にをするつもりだ。もし人手にかからなければ自害するつもりだから、義仲が最後の戦いに女を連れていたなどと言われるのは無念だ」とおっしゃったが、それでも落ちて行かなかったが、あまりに強く言われ申して、「ああ、よい敵が出てくればよいのに。木曾殿に最後の戦いをしてお見せ申そう」といって、控えて敵を待っていたところに、武蔵国の住人御田八郎師重という大力の剛の者が、三十騎ほどで現れた。巴はその中へ割って入り、まず御田八郎に馬を並べて、むんずと組んで引き落とし、自分の乗った鞍の前輪に押しつけて少しも動かさず、首をねじ切って捨ててしまった。その後、武具を脱ぎ捨てて、東国の方へ落ちて行った。手塚太郎は討ち死にした。手塚別当は落ちて行った。
木曾殿と今井四郎は、ただ主従二騎になって、木曾殿がおっしゃるには、「ふだんは何とも思わない鎧が、今日は重くなったぞ」とおっしゃると、今井四郎が申すには、「お体もまだお疲れになっておらず、お馬も弱っておりません。どうして一領の御着背長(鎧)を急に重くお思いになるのでしょう。それは味方に続く軍勢がないので、気おくれしてそうお思いになるのでしょう。兼平一騎を、ほかの武者千騎とお思いください。ここに射残した矢が七、八本ありますので、しばらく防ぎ矢をいたしましょう。あそこに見えますのは粟津の松原と申します。君はあの松の中へお入りになって、心静かにご自害なさいませ」といって、馬を進めて行くうちに、また新手の武者が五十騎ほどで現れた。
「兼平はこの敵をしばらく防ぎ申しましょう。君はあの松の中へお入りください」と申したので、木曾殿は「義仲は六条河原でどうにでもなるはずであったが、おまえと一緒にどうにでもなろうとして、多くの敵に後ろを見せて、ここまで逃れて来たのだ。別々の所で討たれるよりも、一緒にこそ討ち死にしよう」といって、馬の鼻を並べて、今にも駆け出そうとなさったので、今井四郎は急いで馬から飛び降り、主君の馬の口に取りついて、涙をはらはらと流して、「弓矢取る身は、日ごろどれほど手柄がありましても、最後に不覚をとれば、長く傷となります。お体もお疲れになっています。お馬も弱っています。取るに足りない者の郎等に組み落とされて討たれなさったら、あれほど日本国に鬼神と聞こえなさった木曾殿を、某の郎等が手にかけて討ち申したなどと言われるのは無念です。ただ道理をまげて、あの松の中へお入りください」と申したので、木曾はそれならといって、ただ一騎で粟津の松原へ駆けて行かれた。
今井四郎は取って返し、五十騎ほどの勢の中へ駆け入り、鐙を踏んばって立ち上がり、大音声をあげて、「遠い者は音にも聞け、近い人は目にも見よ。木曾殿の乳母子、今井四郎兼平といって、生年三十三になる。そういう者がいることは、鎌倉殿までもご存じであろう。兼平を討って兵衛佐殿のお目にかけよ」といって、射残した八本の矢を次々とつがえて引きしぼり、さんざんに射る。生死はわからないが、たちどころに敵八騎を射落とし、その後太刀を抜いて斬って回ると、正面から立ち向かう者はいない。ただ「射取れ、射取れ」といって、次々と矢をつがえてさんざんに射たが、鎧がよいので裏まで通らず、鎧の隙間を射ないので傷も負わない。
木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆けて行かれる。ころは正月二十一日、日暮れどきのことで、薄氷が張っていた。深田があるとも知らずに、馬をさっと乗り入れたところ、馬の頭も見えなくなった。あおってもあおっても、打っても打っても動かない。それでも今井の行方が気がかりで、振り仰がれたところを、相模国の住人三浦の石田次郎為久が追いかかり、弓をよく引きしぼって、ひょうと放った。木曾殿は内兜を射られ、深手だったので、兜の真っ向を馬の頭に押し当ててうつ伏されたところを、石田の郎等二人が駆け寄って、ついに御首を取った。すぐにその首を太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声をあげて、「この日ごろ、日本国に鬼神と聞こえなさった木曾殿を、三浦の石田次郎為久が討ち申したぞ」と名のったので、今井四郎は戦っていたが、これを聞いて、「今は誰をかばおうとして戦う必要があろう。これを見よ、東国の殿ばら。日本一の剛の者が自害する手本だ」といって、太刀の切っ先を口に含み、馬から逆さまに飛び落ち、刺し貫かれて死んだ。
意訳
『平家物語』の中でも最も名高い章段の一つである。女武者巴の活躍と別れ、今井兼平との再会と、主従二騎になってからのやりとりを経て、粟津の松原で義仲が討たれ、兼平が後を追うまでが、緊密な構成で描かれる。
「日頃は何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなつたるぞや」という義仲の弱音と、それを励ましながら、主君に恥のない最期を遂げさせようとする兼平の言葉には、乳母子として育った二人の深い絆が表れている。死なば一所でと願った二人は、結局別々の所で死ぬことになるが、兼平の壮絶な自害は、その約束を最後に果たそうとするものでもあった。
語釈・文法注
文法
- 「惡所おとし」
- 険しい所を馬で駆け下りること。
- 「札よき鎧」
- 鎧を作る小さな板(札)の質のよい鎧。
- 「しぐらうて」
- 群がり集まって。
- 「日頃は聞きけんものを、木曾の冠者、今は見るらん」
- 日ごろは噂に聞いていたであろうその木曾の冠者を、今は目の前に見よ、の意の名のりの決まり文句。
- 「捨ててんげり」
- 「捨ててけり」の音便。捨ててしまった。
- 「きせなが」
- 着背長。大将の着る大鎧。
- 「水づき」
- 馬の口につける轡の部分。
- 「長き瑕」
- 長く残る恥。
- 「裏かかず」
- 矢が鎧の裏まで通らない。
- 「明間」
- 鎧の隙間。
- 「賜はりけり」
- 底本どおり。首を取った、の意。
解説
源義仲は寿永三年(1184)正月二十日(『平家物語』では二十一日)、近江国粟津(滋賀県大津市)で討ち死にした。三十一歳。今井兼平もそこで自害した。大津市の義仲寺には義仲の墓があり、のちに松尾芭蕉もこの地に葬られた。
巴御前については、『平家物語』の諸本や『源平盛衰記』で後日譚が異なり、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだとする伝えや、越中で尼となったとする伝えがある。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、653–658頁(コマ355–358)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日