平家物語 巻第九
河原合戦の事
義経は合戦の次第を鎌倉に報じ、宇治川の先陣は佐々木高綱、二陣は梶原景季と記した。宇治・勢多が破れたと聞いた義仲は、法皇に最後の暇乞いをしようとしたが果たせず、見初めた女房のもとで名残を惜しんで出立をためらう。家臣の越後中太家光は腹を切って出陣を促した。義経は法皇の御所六条殿に駆けつけて守護し、法皇は義経らの名のりを聞いて大いに喜んだ。義仲は六条河原から四宮河原へと敵を追い返しながら落ちのび、五万余騎で信濃を出た軍勢は、主従七騎になっていた。
- 1軍軍いくさ破破やぶれれれにににけれけれければばば九九く郎郎ろう御御おん曹曹ぞう司司し義義よし經經つね、、、飛飛ひ腳腳きゃくををを以以もっててて鎌鎌かま倉倉くらへへへ合合かっ戰戰せんののの次次し第第だいををを、、、委委くわしうしうしゅう記記しるいいいててて申申もうささされれれけりけりけり。。。鎌鎌かま倉倉くら殿殿どのまづまづまず御御おん使使つかいににに、、、「「「佐佐さ々々さ木木きはははいかにいかにいかに。。。」」」ととと御御おん尋尋たずねねねありありありけれけれければばば、、、「「「宇宇う治治じ川川がわのののまつまつまっ先先さき候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。さてさてさて日日にっ記記きををを開開ひらいいいててて見見み給給たまへへえばばば、、、「「「宇宇う治治じ川川がわののの先先せん陣陣じん佐佐さ々々さ木木き四四し郎郎ろう高高たか綱綱つな、、、二二に陣陣じん梶梶かじ原原はら源源げん太太た景景かげ季季すえ。。。」」」とととぞぞぞ書書かかかかれれれたるたるたる。。。
- 2宇宇う治治じ、、、勢勢せ多多た破破やぶれれれぬぬぬととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、木木き曾曾そははは最最さい後後ごののの御御おん暇暇いとま申申もうさささんんんとてとてとて、、、院院いんののの御御ご所所しょ六六ろく條條じょう殿殿どのへへへ馳馳はせせせ參參まいるるる。。。木木き曾曾そ門門もん前前ぜんまでまでまで參參まいりりりたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、さしてさしてさして奏奏そうすすすべきべきべき旨旨むねもももなくなくなくしてしてして、、、取取とつつっててて返返かへししし、、、六六ろく條條じょう高高たか倉倉くらなるなるなる所所ところににに、、、始始はじめめめててて見見みそめそめそめたりたりたりけるけるける女女にょう房房ぼうのののありありありけれけれければばば、、、そこそこそこにににうちうちうち寄寄よつつっててて、、、最最さい後後ごののの名名な殘殘ごり惜惜おしましましまんんんとてとてとて、、、とみとみとみににに出出いでででもももやらやらやらざりざりざりけりけりけり。。。こゝこゝここににに新新いま參參まいりりりしししたりたりたりけるけるける越越えち後後ごののの中中ちゅう太太だ家家いえ光光みつととといふいふいう者者ものありありあり。。。「「「御御おん敵敵かたき既既すでににに河河かわ原原らまでまでまで攻攻せめめめ入入いつつっててて候候そうろうににに、、、何何なにとてとてとて左左さ樣樣ようにににうちうちうちとけとけとけてててははは渡渡わたらららせせせ給給たまひひい候候そうろうやややらんらんらん。。。たゞたゞただ今今いま犬犬いぬ死死じにせせせさせさせさせたまひたまひたまい候候そうらひひいなんなんなんずずず。。。とう〳〵とう〳〵とうとう御御おん出出いででで候候そうらへへえ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれけれどもどもども、、、猶猶なお出出いでででもももやらやらやらざりざりざりけれけれければばば、、、「「「さささ候候そうらははわばばば家家いえ光光みつはははまづまづまず先先さき立立だちちち參參まいらせらせらせててて、、、死死し出出でののの山山やまにてにてにてこそこそこそ待待まちちち參參まいらせらせらせ候候そうらははわめめめ。。。」」」とてとてとて、、、腹腹はらかきかきかき切切きつつってててぞぞぞ死死しににににににけるけるける。。。木木き曾曾そ、、、これこれこれはははわれわれわれををを勸勸すすむるむるむる自自じ害害がいにににこそこそこそとてとてとて、、、やがてやがてやがてうちうちうち立立たちちち給給たまひひいけりけりけり。。。こゝこゝここににに上上こう野野ずけののの國國くにののの住住じゅう人人にん那那な波波わののの太太た郎郎ろう廣廣ひろ純純ずみををを先先さきとととしてしてして、、、そのそのその勢勢せい百百ひゃく騎騎きばかりばかりばかりにににははは過過すぎぎぎざりざりざりけりけりけり。。。六六ろく條條じょう河河かわ原原らにににうちうちうち出出いでででててて見見みれれればばば、、、東東とう國國ごくののの勢勢せいとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、まづまづまず三三さん十十じっ騎騎きばかりばかりばかりででで出出いででで來來くるるる。。。そのそのその中中なかよりよりより武武む者者しゃ二二に騎騎き、、、先先さきににに進進すすんんんだりだりだり。。。一一いっ騎騎きははは鹽鹽しお谷谷のやののの五五ご郎郎ろう惟惟これ廣廣ひろ、、、一一いっ騎騎きははは勅勅て使使し河河が原原はらののの五五ご三三さぶ郎郎ろう有有あり直直なおなりなりなり。。。鹽鹽しお谷谷のやががが申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「後後ご陣陣じんののの勢勢せいをををややや待待まつつつべきべきべき。。。」」」またまたまた勅勅て使使し河河が原原はらががが申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「一一いち陣陣じん破破やぶれれれぬれぬれぬればばば殘殘ざん黨黨とう全全まったからからからずずず。。。たゞたゞただかけかけかけよよよややや。。。」」」とてとてとて、、、をめいをめいおめいててて驅驅かくくく。。。木木き曾曾そはははけふけふきょうををを最最さい後後ごととと戰戰たたかへへえばばば、、、東東とう國國ごくののの大大おお勢勢ぜい、、、木木き曾曾そををを中中なかににに取取とり込込こめめめててて、、、われわれわれ討討うちちち取取とらららんんんとととぞぞぞ進進すすみみみけるけるける。。。大大たい將將しょう軍軍ぐん九九く郎郎ろう御御おん曹曹ぞう司司し義義よし經經つね、、、軍軍いくさをををばばば軍軍ぐん兵兵びょうどもどもどもにににせせせさせさせさせ、、、わがわがわが身身みははは院院いんののの御御ご所所しょのののおぼつかなきおぼつかなきおぼつかなきににに、、、守守しゅ護護ごししし奉奉たてまつらららんんんとてとてとて、、、直直ひた兜兜かぶと五五ご六六ろく騎騎き、、、院院いんののの御御ご所所しょ六六ろく條條じょう殿殿どのへへへ馳馳はせせせ參參まいるるる。。。
- 3御御ご所所しょにににははは、、、大大だい膳膳ぜんののの大大だい夫夫ぶ成成なり忠忠ただ、、、御御ご所所しょののの東東ひんがしののの築築つい垣垣がきののの上上うえににに上上のぼりりり上上あがつつっててて、、、わなゝく〳〵わなゝく〳〵わななくわななく見見み渡渡わたせせせばばば、、、武武ぶ士士し五五ご六六ろく騎騎き仰仰のけ兜兜かぶとににに戰戰たたかひひいなつなつなっててて、、、射射い向向むけののの袖袖そで春春はる風風かぜににに吹吹ふききき靡靡なびかかかせせせ、、、白白しら旗旗はたさつさつさっとととさしさしさしあげあげあげ、、、黑黑くろ煙煙けぶり蹴蹴け立立たてててててて馳馳はせせせ參參まいるるる。。。成成なり忠忠ただ、、、「「「あなあなあなあさましあさましあさまし、、、木木き曾曾そがががまたまたまたまゐりまゐりまいり候候そうろう。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、院院いん中中じゅうののの公公く卿卿ぎょう、、、殿殿てん上上じょう人人びと、、、かたへかたへかたえののの女女にょう房房ぼうたちたちたちににに至至いたるるるまでまでまで、、、今今こん度度どぞぞぞ世世よのののうせうせうせはてはてはてとてとてとて、、、手手てををを握握にぎりりり、、、立立たてててぬぬぬ願願がんもももましまさましまさましまさずずず。。。成成なり忠忠ただ重重かさねねねててて奏奏そう聞聞もんしししけるけるけるははは、、、「「「今日今日きょう始始はじめめめててて都都みやこへへへ入入いるるる東東とう國國ごくののの武武ぶ士士しととと覺覺おぼえええ候候そうろう。。。いかさまいかさまいかさまにににもももみなみなみな笠笠かさ印印じるしがががかはつかはつかわっててて候候そうろう。。。」」」ととと申申もうしししもももはてはてはてぬぬぬににに、、、大大たい將將しょう軍軍ぐん九九く郎郎ろう御御おん曹曹ぞう司司し義義よし經經つね、、、門門もん前前ぜんにてにてにて馬馬うまよりよりより下下おりりり、、、門門もんををを叩叩たたかかかせせせ、、、大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「鎌鎌かま倉倉くらののの前前さきののの右右う兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ賴賴より朝朝ともががが弟弟おとと九九く郎郎ろう義義よし經經つねこそこそこそ、、、宇宇う治治じののの手手てををを攻攻せめめめ破破やぶつつっててて、、、このこのこの御御ご所所しょ守守しゅ護護ごののの爲爲ためににに馳馳はせせせ參參まいつつっててて候候そうらへへえ。。。あけあけあけててて入入いれれれさせさせさせ給給たまへへえ。。。」」」ととと申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、成成なり忠忠ただあまりあまりあまりのののうれしさうれしさうれしさににに、、、急急いそぎぎぎ築築つい垣垣がきののの上上うえよりよりより躍躍おどりりり下下おるゝるゝるるとてとてとて、、、腰腰こしをををつきつきつき損損そんじじじたりたりたりけれけれけれどもどもども、、、痛痛いたさささはははうれしさうれしさうれしさにににまぎれまぎれまぎれててて覺覺おぼえええずずず、、、はふ〳〵はふ〳〵ほうほう御御ご所所しょへへへ參參まいつつっててて、、、このこのこの由由よし奏奏そう聞聞もんしししたりたりたりけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おう大大おおきききににに御御ぎょ感感かんあつあつあっててて、、、門門もんをををあけあけあけさせさせさせてててぞぞぞ入入いれれれられられられけるけるける。。。
- 4義義よし經經つねそのそのその日日ひののの裝裝しょう束束ぞくにににははは、、、赤赤あか地地じ錦錦にしきののの直直ひた垂垂たれににに、、、紫紫むらさき裾裾すそ濃濃ごののの鎧鎧よろい著著きててて、、、鍬鍬くわ形形がたうつうつうったるたるたる兜兜かぶとののの緒緒ををををしめしめしめ、、、黄黄こ金金がねづくりづくりづくりののの太太た刀刀ちををを佩佩はききき、、、二二に十十じゅう四四しさいさいさいたるたるたる切切きり斑斑ふののの矢矢や負負おひひい、、、滋滋しげ籐籐どうののの弓弓ゆみののの鳥鳥とり打打うちのののもともともとををを、、、紙紙かみををを廣廣ひろさささ一一いっ寸寸すん許許ばかりりりににに切切きつつっててて、、、左左ひだり卷卷まきににに卷卷まきききたるたるたる。。。是是これぞぞぞ今日今日きょうののの大大たい將將しょう軍軍ぐんののの印印しるしとととははは見見みえええししし。。。法法ほう皇皇おう中中ちゅう門門もんののの櫺櫺れん子子じよりよりより叡叡えい覽覽らんあつあつあっててて、、、「「「ゆゝしげゆゝしげゆゆしげなるなるなる者者ものどもどもどもかなかなかな、、、みなみなみな名名な乘乘のらららせせせよよよ。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、まづまづまず大大たい將將しょう軍軍ぐん九九く郎郎ろう義義よし經經つね、、、次次つぎににに安安やす田田だののの三三さぶ郎郎ろう義義よし定定さだ、、、畠畠はたけ山山やまののの莊莊しょう司司じ次次じ郎郎ろう重重しげ忠忠ただ、、、梶梶かじ原原はら源源げん太太た景景かげ季季すえ、、、佐佐さ々々さ木木き四四し郎郎ろう高高たか綱綱つな、、、澀澀しぶ谷谷やののの右右う馬馬まののの允允じょう重重しげ資資すけとととぞぞぞ名名な乘乘のつつったるたるたる。。。義義よし經經つね具具ぐしししててて武武ぶ士士しははは六六ろく人人にん、、、鎧鎧よろいははは色色いろ々々いろかはつかはつかわったりたりたりけれけれけれどもどもども、、、頰頰つら魂魂だましい、、、事事ことがらがらがら、、、いづれいづれいずれももも劣劣おとらららずずず。。。成成なり忠忠ただ仰仰おおせせせ承承うけたまわつつっててて、、、義義よし經經つねををを大大おお床床ゆかのののきはきはきわへへへ召召めしししててて、、、合合かっ戰戰せんののの次次し第第だいをををくはしうくはしうくわしゅう御御おん尋尋たずねねねありありあり。。。
- 5義義よし經經つね畏畏かしこまつまつまっててて申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「鎌鎌かま倉倉くらののの前前さきののの右右う兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ賴賴より朝朝とも、、、木木き曾曾そががが狼狼ろう藉藉ぜき鎭鎭しずめめめんんんとてとてとて、、、範範のり賴賴より、、、義義よし經經つねををを先先さきとととしてしてして、、、都都つ合合ごう六六ろく萬萬まん餘餘よ騎騎きをををさしさしさし上上のぼせせせ候候そうろうががが、、、範範のり賴賴よりははは勢勢せ多多たよりよりよりまゐりまゐりまいり候候そうらへへえどもどもども、、、未未いまだだだ一一いっ騎騎きももも見見みえええ候候そうらははわずずず。。。義義よし經經つねははは宇宇う治治じののの手手てををを攻攻せめめめ破破やぶつつっててて、、、このこのこの御御ご所所しょ守守しゅ護護ごののの爲爲ためににに馳馳はせせせ參參さんじじじててて候候そうらへへえ。。。木木き曾曾そははは河河かわ原原らををを上上のぼりりりににに落落おちちちつるつるつるををを、、、軍軍ぐん兵兵びょうどもどもどもををを以以もっててて追追おははわせせせ候候そうらひひいつるつるつるががが、、、今今いまははは定定さだめめめててて討討うちちち取取とりりり候候そうらひひいなんなんなんずずず。。。」」」ととと、、、いといといと事事こともももなげなげなげにににぞぞぞ申申もうささされれれけるけるける。。。法法ほう皇皇おう大大おおきききににに御御ぎょ感感かんあつあつあっててて、、、「「「またまたまた木木き曾曾そががが餘餘よ黨黨とうなどなどなど參參まいつつっててて狼狼ろう藉藉ぜきもももぞぞぞ仕仕つかまつるるる。。。汝汝なんじはははこのこのこの御御ご所所しょよく〳〵よく〳〵よくよく守守しゅ護護ご仕仕つかまつれれれ。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、畏畏かしこまりまりまり承承うけたまわつつっててて、、、四四し方方ほうののの門門もんををを固固かためめめててて待待まつつつ程程ほどににに、、、兵兵つわものどもどもども馳馳はせせせ集集あつまつまつまっててて、、、程程ほどなくなくなく一一いち萬萬まん餘餘よ騎騎きばかりばかりばかりににになりなりなりにににけりけりけり。。。
- 6木木き曾曾そははは自自じ然然ねんののの事事ことあらあらあらばばば、、、法法ほう皇皇おうををを取取とりりり奉奉たてまつつつっててて西西さい國國こくへへへ落落おちちち下下くだりりり、、、平平へい家家けととと一一ひとつつつにににならならならんんんとてとてとて、、、力力りき者者しゃ二二に十十じゅう人人にん揃揃そろへへえててて持持もつつったりたりたりけれけれけれどもどもども、、、御御ご所所しょにににはははまたまたまた九九く郎郎ろう義義よし經經つね參參まいつつっててて、、、きびしうきびしうきびしゅう守守しゅ護護ごししし奉奉たてまつるるるととと聞聞きいいいててて、、、今今いまはははかなはかなはかなわじじじとととややや思思おもひひいけんけんけん、、、河河かわ原原らををを上上のぼりりりににに落落おちちちゆきゆきゆきけるけるけるががが、、、六六ろく條條じょう河河かわ原原らととと三三さん條條じょう河河かわ原原らののの間間あいだにてにてにて、、、すでにすでにすでに討討うちちち取取とららられれれんんんとととするするすることことこと度度ど々々どににに及及およぶぶぶ。。。木木き曾曾そ涙涙なみだををを流流ながいいいててて、、、斯斯かくくくあるあるあるべしべしべしとととももも期期ごしししたりたりたりせせせばばば、、、今今いま井井いををを勢勢せ多多たへへへははは遣遣やらららざらざらざらましましまし。。。幼幼よう少少しょう竹竹ちく馬馬ばののの昔昔むかしよりよりより、、、死死しなななばばば一一いっ所所しょででで死死しなななんんんとととこそこそこそ契契ちぎりりりしかしかしか。。。今今いまははは所所ところ々々どころででで討討うたたたれれれんんん事事ことこそこそこそ悲悲かなしけれしけれしけれ。。。さりさりさりながらながらながら今今いま一一いち度度ど、、、今今いま井井いがががゆくへゆくへゆくえををを聞聞きかかかんんんとてとてとて、、、河河かわ原原らををを上上のぼりりりにににかゝるかゝるかかるほどほどほどににに、、、六六ろく條條じょう河河かわ原原らととと三三さん條條じょう河河かわ原原らののの間間あいだにてにてにて、、、敵敵かたき襲襲おそひひいかゝれかゝれかかればばば取取とつつっててて返返かえし〳〵し〳〵しとってかえし、、、木木き曾曾そわづかわづかわずかなるなるなる小小こ勢勢ぜいにてにてにて、、、雲雲うん霞霞かののの如如ごとくくくなるなるなる敵敵かたきののの大大おお勢勢ぜいををを、、、五五ご六六ろく度度どまでまでまで追追おひひい返返かえししし、、、賀賀か茂茂も河河がわさつさつさっととと打打うち渡渡わたりりり、、、粟粟あわ田田た口口ぐち、、、松松まつ坂坂ざかにににもももかゝりかゝりかかりけりけりけり。。。去去こ年年ぞ信信しな濃濃のををを出出いでででしししにににははは、、、五五ご萬萬まん餘餘よ騎騎きととと聞聞きこえええしがしがしが、、、今日今日きょう四四しの宮宮みや河河がわ原原らををを過過すぐるぐるぐるにににははは、、、主主しゅ從從じゅう七七しち騎騎きににになりなりなりにににけりけりけり。。。ましてましてまして中中ちゅう有有うののの旅旅たびののの空空そら、、、思思おもひひいやらやらやられれれてててあはれあはれあわれなりなりなり。。。
現代語訳
戦いに勝ったので、九郎御曹司義経は飛脚を立てて鎌倉へ合戦の次第を詳しく書いて申し送られた。鎌倉殿がまず御使いに「佐々木はどうだった」とお尋ねになると、「宇治川の真っ先でございます」と申した。そこで日記(報告書)を開いてご覧になると、「宇治川の先陣、佐々木四郎高綱。二陣、梶原源太景季」と書かれていた。
宇治・勢多が破れたと聞こえたので、木曾は最後のお暇乞いを申そうとして、院の御所六条殿へ馳せ参った。木曾は門前まで参ったものの、とりたてて申し上げることもなくて引き返し、六条高倉という所に、見初めたばかりの女房がいたので、そこに立ち寄って最後の名残を惜しもうとして、すぐには出てこなかった。そこに新参の越後中太家光という者がいた。「敵はもう河原まで攻め入っていますのに、どうしてそのようにくつろいでいらっしゃるのですか。このままでは犬死になさいましょう。早く早くお出ましください」と申したが、なお出てこなかったので、「それならば家光がまず先立ち申して、死出の山でお待ちいたしましょう」といって、腹をかき切って死んだ。木曾は、これはわしを促すための自害であろうといって、すぐに出立なさった。上野国の住人那波太郎広純を先頭として、その勢は百騎ほどにすぎなかった。六条河原に出て見ると、東国の勢と思われる者が、まず三十騎ほどで出てくる。その中から武者が二騎進み出た。一騎は塩谷五郎惟広、一騎は勅使河原五三郎有直である。塩谷が「後陣の勢を待とうか」と言うと、勅使河原は「一陣が破れれば残る者は無事ではいられない。ただ駆けよ」といって、わめいて駆けた。木曾は今日を最後と戦ったので、東国の大軍は木曾を中に取りこめて、自分が討ち取ろうと進んだ。大将軍の九郎御曹司義経は、戦いは軍兵たちにまかせて、自分は院の御所が心配なので守護しようとして、直甲の五、六騎で院の御所六条殿へ馳せ参った。
御所では、大膳大夫成忠が御所の東の築地の上に登って、ぶるぶる震えながら見渡すと、武士が五、六騎、兜を仰向けにかぶるほど激しく戦ったようすで、射向の袖を春風になびかせ、白旗をさっと差し上げ、黒煙を蹴立てて馳せ参る。成忠が「ああ大変だ。木曾がまた参りました」と申したので、院中の公卿・殿上人から、そばに仕える女房たちに至るまで、今度こそ世の終わりだといって手を握りしめ、立てない願もないほどであった。成忠が重ねて申し上げるには、「今日初めて都へ入る東国の武士と思われます。どうもみな笠印が違っております」と申し終わらないうちに、大将軍の九郎御曹司義経が門前で馬から降り、門を叩かせて、大音声をあげて、「鎌倉の前右兵衛佐頼朝の弟、九郎義経が、宇治の手を攻め破って、この御所を守護するために馳せ参りました。開けてお入れください」と申されたので、成忠はあまりのうれしさに、急いで築地の上から飛び降りようとして腰を打ったが、痛さもうれしさにまぎれて感じず、這うようにして御所へ参り、このことを申し上げたので、法皇はたいそうお喜びになって、門を開けさせて入れられた。
義経のその日の装束は、赤地の錦の直垂に紫裾濃の鎧を着て、鍬形を打った兜の緒をしめ、黄金づくりの太刀を佩き、二十四本差した切斑の矢を負い、滋籐の弓の鳥打のところに、紙を幅一寸ほどに切って左巻きに巻いていた。これが今日の大将軍のしるしと見えた。法皇は中門の連子窓からご覧になって、「頼もしそうな者どもだな。みな名のらせよ」と仰せになったので、まず大将軍九郎義経、次に安田三郎義定、畠山荘司次郎重忠、梶原源太景季、佐々木四郎高綱、渋谷右馬允重資が名のった。義経を含めて武士は六人、鎧の色はそれぞれ違っていたが、面構えも人柄も、いずれも劣らない。成忠が仰せを承って、義経を大床のきわへ召して、合戦の次第を詳しくお尋ねになった。
義経がかしこまって申されるには、「鎌倉の前右兵衛佐頼朝が、木曾の狼藉を鎮めようとして、範頼と義経を先として、合わせて六万余騎を上らせましたが、範頼は勢多から参りましたものの、まだ一騎も見えません。義経は宇治の手を攻め破って、この御所を守護するために馳せ参じました。木曾は河原を上流の方へ落ちていったのを、軍兵たちに追わせましたが、今はきっと討ち取っておりましょう」と、いかにも事もなげに申された。法皇はたいそうお喜びになって、「また木曾の残党などが参って狼藉をはたらくかもしれない。おまえはこの御所をよくよく守護せよ」と仰せになったので、かしこまって承り、四方の門を固めて待つうちに、兵たちが馳せ集まって、まもなく一万余騎ほどになった。
木曾は、いざというときには法皇をお連れして西国へ落ち、平家と一つになろうとして、輿をかつぐ力者を二十人そろえて用意していたが、御所にはもう九郎義経が参って厳しく守護していると聞いて、今はかなうまいと思ったのであろうか、河原を上流の方へ落ちて行ったが、六条河原と三条河原の間で、すでに討ち取られそうになることがたびたびあった。木曾は涙を流して、こうなると分かっていたら、今井を勢多へはやらなかったものを。幼い竹馬の昔から、死ぬなら一緒に死のうと約束したのに、今は別々の所で討たれることが悲しい。それでも今一度、今井の行方を聞こうといって、河原を上流へ向かうと、六条河原と三条河原の間で敵が襲いかかってきたので、取って返し取って返しして、木曾はわずかな小勢で、雲霞のような敵の大軍を五、六度まで追い返し、賀茂川をさっと渡って、粟田口・松坂にさしかかった。去年信濃を出たときは五万余騎と聞こえたが、今日四宮河原を過ぎるときには、主従七騎になってしまった。まして死後の中有の旅の空を思いやると、哀れである。
意訳
義仲の最期へと向かう章段である。女房との別れを惜しんで出立をためらう義仲と、腹を切ってそれを促す家光の姿は、敗れていく者たちの哀れを深く印象づける。
一方、御所に駆けつけた義経は、法皇の前で堂々と名のり、事もなげに戦況を報告する。築地の上で震えていた成忠の滑稽さを交えながら、新しい英雄義経の登場が鮮やかに描かれている。五万余騎が主従七騎となって四宮河原を過ぎる義仲の姿で結ばれ、次の「木曾の最後」へと続く。
語釈・文法注
文法
- 「日記」
- 合戦の次第を記した報告書。
- 「死出の山」
- 死者が冥土へ行く途中に越えるという険しい山。
- 「直兜」
- 兜をかぶった、武装を整えた姿。
- 「仰兜に戰ひなつて」
- 兜を仰向けにかぶるほど、激しく戦ったようすで。
- 「立てぬ願もましまさず」
- 立てない願はないほど、あらゆる神仏に願をかけた。
- 「力者」
- 輿をかつぐ者。法皇を連れ出すために用意していた。
- 「中有」
- 人が死んでから次の生を受けるまでの四十九日の間。
解説
寿永三年(1184)正月二十日、宇治・勢多を破った鎌倉軍は都に入り、義経は後白河法皇の御所を守護した。法皇は幽閉から解放され、義経の名は都で一躍高まった。義仲はわずかな手勢で東へ落ちのび、近江国粟津で最期を遂げる。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、649–652頁(コマ353–355)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日