平家物語 巻第八
法住寺合戦の事
義仲は、都を守る者が馬を飼い、兵糧に困って略奪するのは当然だと言い放ち、法皇の御所法住寺殿へ攻め寄せた。鼓判官朝泰が築地の上で鉾と金剛鈴を振って罵ったが、今井兼平の火矢で御所は炎に包まれ、院方二万余人は総崩れとなる。天台座主明雲や円慶法親王まで討たれ、法皇は五条内裏に押しこめられた。義仲は院の御厩別当となって公卿四十九人の官職を止め、松殿基房の子師家を摂政とする。鎌倉の頼朝は範頼・義経に六万余騎をつけて上らせ、都は平家・頼朝・義仲の三者に分かれたまま寿永三年を迎えた。
- 1「「「たとへばたとへばたとえば都都みやこののの守守しゅ護護ごしてしてしてあらあらあらんんんずるずるずる者者ものががが、、、馬馬うま一一いっ匹匹ぴきづゝづゝずつ飼飼こうううててて乘乘のらららざるざるざるべきべきべきかかか。。。いくらいくらいくらもももあるあるある田田たどもどもども刈刈からららぜぜぜててて秣秣まぐさにににせせせんんんををを、、、あながちあながちあながちににに法法ほう皇皇おうののの咎咎とがめめめ給給たまふふうべきべきべきやうやうようやややあるあるある。。。兵兵ひょう糧糧ろう米米まい盡盡つきききぬれぬれぬればばば、、、冠冠かん者者じゃばらばらばらどもどもどもががが西西にし山山やま、、、東東ひがし山山やまののの片片かたほとりほとりほとりににについついついててて、、、時時とき々々どき入入いりりり取取どりりりせせせんんんははは、、、なじかなじかなじかははは苦苦くるしかるしかるしかるべきべきべき。。。大大だい臣臣じん以以い下下げ、、、宮宮みや々々みやののの御御ご所所しょへへへももも參參まいらららばばばこそこそこそひがひがひがことことことならならならめめめ。。。いかさまいかさまいかさまこれこれこれははは鼓鼓つづみ判判ほう官官がんががが凶凶きょう害害がいととと覺覺おぼゆるゆるゆるぞぞぞ。。。そのそのその鼓鼓つづみめめめうちうちうち破破やぶつつっててて捨捨すてててよよよ。。。今今こん度度どははは義義よし仲仲なかががが最最さい後後ごののの軍軍いくさにてにてにてあらあらあらんんんずるずるずるぞぞぞ。。。且且かつははは兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ賴賴より朝朝ともがががかへりかへりかえり聞聞きかかかんんんずるずるずる所所ところもももありありあり、、、軍軍いくさようようようせせせよよよ者者ものどもどもども。。。」」」とてとてとてうちうちうち出出いでででけりけりけり。。。北北ほっ國國こくののの者者ものどもどもども始始はじめめめははは五五ご萬萬まん餘餘よ騎騎きととと聞聞きこえええしがしがしが、、、皆皆みな落落おちちち下下くだつつっててて纔纔わずかかか六六ろく七七しち千千せん騎騎ぎぞぞぞありありありけるけるける。。。義義よし仲仲なかががが軍軍いくさののの吉吉きち例例れいなれなれなればばばとてとてとて七七なな手手てににに分分わかちちち、、、まづまづまず樋樋ひ口口ぐちののの次次じ郎郎ろう兼兼かね光光みつ、、、二二に千千せん餘餘よ騎騎きででで新新いま熊熊くま野野のののの方方かたよりよりより搦搦から手手めにににさしさしさし遣遣つかははわすすす。。。殘殘のこるるる六六む手手てははは各各おのおのがががゐゐいたらたらたらんんんずるずるずる條條じょう里里り、、、小小こう路路じよりよりより皆皆みなうちうちうち立立たつつっててて、、、六六ろく條條じょう河河がわ原原らででで一一ひとつつつににになれなれなれととと、、、合合あい圖圖ずををを定定さだめめめてててうちうちうち立立たちちちけりけりけり。。。御御み方方かたののの笠笠かさ印印じるしにににははは松松まつののの葉葉はをををぞぞぞつけつけつけたりたりたりけるけるける。。。
- 2軍軍いくさははは一一いち月月がつ十十じゅう九九く日日にちののの朝朝あしたなりなりなり。。。院院いんののの御御ご所所しょ法法ほう住住じゅう寺寺じ殿殿どのにににももも、、、軍軍ぐん兵兵びょう二二に萬萬まん餘餘よ人人にん參參まいりりり籠籠こもりりりたるたるたる由由よし聞聞きこえええけりけりけり。。。木木き曾曾そ、、、法法ほう住住じゅう寺寺じ殿殿どのののの西西にしののの門門もんへへへおしおしおし寄寄よせせせててて見見みけれけれければばば、、、鼓鼓つづみ判判ほう官官がん朝朝とも泰泰やすははは軍軍いくさののの行行ぎょう事事じ承承うけたまわつつっててて、、、御御ご所所しょののの西西にしののの築築つい墻墻がきののの上上うえへへへ昇昇あがりりり上上あがつつっててて立立たつつったりたりたりけるけるけるががが、、、赤赤あか地地じののの錦錦にしきののの直直ひた垂垂たれににに兜兜かぶとばかりばかりばかりぞぞぞ著著きたりたりたりけるけるける。。。兜兜かぶとにににははは四四し天天てんををを書書かいいいてててぞぞぞおしおしおしたりたりたりけるけるける。。。片片かた手手てにににははは鉾鉾ほこををを持持もちちち、、、片片かた手手てにににははは金金こん剛剛ごう鈴鈴れいををを持持もつつっててて、、、うちうちうちふりふりふりうちうちうちふりふりふり、、、時時とき々々どきははは舞舞まふふう折折おりもももありありありけりけりけり。。。公公く卿卿ぎょう、、、殿殿てん上上じょう人人びとははは、、、風風ふ情情ぜいなしなしなし、、、朝朝とも泰泰やすにににははは天天てん狗狗ぐついついついたりたりたりとととぞぞぞ笑笑わらははわれれれけるけるける。。。朝朝とも泰泰やす大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「昔昔むかしははは宣宣せん旨旨じををを向向むかつつっててて讀讀よみみみけれけれければばば、、、枯枯かれれれたるたるたる草草くさ木木きももも忽忽たちまちちちににに花花はな咲咲さききき、、、實實みなりなりなり、、、飛飛とぶぶぶ鳥鳥とりももも地地ちににに落落おちちち、、、惡惡あく鬼鬼き惡惡あく神神じんももも從從したがひひいききき。。。末末まつ代代だい澆澆ぎょう季季きなれなれなればばばとてとてとて、、、いかでいかでいかで十十じゅう善善ぜんののの君君きみににに向向むかひひい參參まいらせらせらせててて、、、弓弓ゆみをををひきひきひき、、、矢矢やをををばばば放放はなつつつべきべきべき。。。放放はなたたたんんん矢矢やははは、、、卻卻かえつつっててて汝汝なんじ等等らががが身身みににに立立たつつつべしべしべし。。。拔拔ぬかかかんんん太太た刀刀ちははは、、、卻卻かえつつっててて身身みををを切切きるるるべしべしべし。。。」」」などなどなど罵罵ののしつつったりたりたりけれけれければばば、、、木木き曾曾そ、、、「「「さささななないはいはいわせせせそそそ。。。」」」とてとてとて、、、鬨鬨ときをををどつどつどっとととつくりつくりつくりけるけるける。。。
- 3さるさるさる程程ほどににに樋樋ひ口口ぐちののの次次じ郎郎ろう兼兼かね光光みつ二二に千千せん餘餘よ騎騎き、、、新新いま熊熊くま野野のののの方方かたよりよりより、、、同同おなじうじうじゅう鬨鬨ときののの聲聲こえをををぞぞぞあはせあはせあわせけるけるける。。。今今いま井井いののの四四し郎郎ろう兼兼かね平平ひら、、、鏑鏑かぶらののの中中なかににに火火ひををを入入いれれれててて、、、法法ほう住住じゅう寺寺じ殿殿どのののの御御ご所所しょののの棟棟むねににに射射い立立たてててたりたりたりけれけれければばば、、、折折おりふしふしふし風風かぜははは烈烈はげしししししし、、、猛猛みょう火火かははは天天てんににに燃燃もえええ上上あがつつっててて、、、焰焰ほのおははは虛虛こ空空くうににに充充みちちち滿滿みてててりりり。。。黑黑くろ煙煙けぶりおしおしおしかゝりかゝりかかりけれけれければばば、、、軍軍いくさののの行行ぎょう事事じ朝朝とも泰泰やすははは人人ひとよりよりより先先さきににに落落おちちちにににけりけりけり。。。行行ぎょう事事じががが落落おつるつるつる上上うえはははとてとてとて、、、二二に萬萬まん餘餘よ人人にんののの兵兵つわものどもどもども、、、われわれわれ先先さきにににとととぞぞぞ落落おちちち行行ゆきききけるけるける。。。あまりあまりあまりにににあわてあわてあわて騒騒さわいいいででで、、、弓弓ゆみ取取とるるる者者ものははは矢矢やををを知知しらららずずず、、、矢矢や取取とるるる者者ものははは弓弓ゆみををを知知しらららずずず。。。或或あるいははは長長なぎ刀刀なたさかさまさかさまさかさまににについついついててて、、、わがわがわが足足あしつきつきつき貫貫つらぬくくくものものものもももありありあり、、、或或あるいははは弓弓ゆみののの弭弭はずものものものににに懸懸かけけけててて、、、えええはづさはづさはずさででで、、、捨捨すてててててて逃逃にぐるぐるぐる者者ものもももありありあり。。。
- 4七七しち條條じょうががが末末すえをををばばば、、、攝攝つ津津のののの國國くにののの源源げん氏氏じののの固固かためめめたりたりたりけるけるけるががが、、、院院いんののの御御ご所所しょよりよりより、、、落落おち人人うどあらあらあらばばば、、、用用よう意意いしてしてして皆皆みな打打うち殺殺ころせせせととと、、、下下げ知知じせせせられられられたりたりたりけれけれければばば、、、在在ざい地地ちのののものものものどもどもども、、、屋屋や根根ねににに楯楯たてをををつきつきつきならべならべならべ、、、襲襲おそいののの石石いしををを取取とりりり集集あつめめめててて待待まちちちゐゐいたるたるたる所所ところににに、、、攝攝つ津津のののの國國くにののの源源げん氏氏じののの落落おちちちけるけるけるををを、、、あはやあはやあわや落落おち人人うどとてとてとて、、、石石いしををを拾拾ひろひひいかけかけかけ、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに打打うちちちけれけれければばば、、、「「「院院いん方方がたにてにてにてあるあるあるぞぞぞ、、、過過あやまちちちすすすななな。。。」」」ととといひいひいいけれけれけれどもどもども、、、「「「さささななないはいはいわせせせそそそ、、、院院いん宣宣ぜんででであるあるあるにににたゞたゞただうちうちうち殺殺ころせ〳〵せ〳〵せうちころせ。。。」」」とてとてとて打打うつつつ程程ほどににに、、、或或あるいははは頭頭かしらうちうちうち破破やぶららられれれ、、、或或あるいははは腰腰こしうちうちうち折折おららられれれててて、、、馬馬うまよりよりより落落おちちち、、、はふ〳〵はふ〳〵ほうほう逃逃にぐるぐるぐる者者ものもももありありあり、、、或或あるいははは打打うち殺殺ころさささるゝるゝるる者者ものももも多多おおかりかりかりけりけりけり。。。八八はち條條じょうががが末末すえをををばばば山山さん僧僧そう共共どもののの固固かためめめたりたりたりけるけるけるががが、、、恥恥はじあるあるある者者ものははは討討うち死死じにししし、、、つれなきつれなきつれなき者者ものははは落落おちちちててて行行ゆくくく。。。
- 5こゝこゝここににに主主もん水水どののの正正かみ親親ちか業業なりははは薄薄うす靑靑あおののの狩狩かり衣衣ぎぬののの下下したににに、、、萌萌もえ黄黄ぎ縅縅おどしののの腹腹はら巻巻まきををを著著き、、、白白しろ月月つき毛毛げなるなるなる馬馬うまににに乘乘のつつっててて、、、河河かわ原原らををを上上のぼりりりににに落落おちちちけるけるけるををを、、、今今いま井井いののの四四し郎郎ろう兼兼かね平平ひらおつおつおっかゝりかゝりかかり、、、よつよつよっぴいぴいぴいててて、、、しやしやしゃ首首くびののの骨骨ほねをををひようつぱひようつぱひょうっぱととと射射いててて、、、馬馬うまよりよりよりさかさまさかさまさかさまににに射射い落落おとすすす。。。淸淸せい大大だい外外げ記記き賴賴より業業なりががが子子こなりなりなりけりけりけり。。。明明みょう經經ぎょう道道どうののの博博はか士士せ甲甲かっ冑冑ちゅうををを鎧鎧よろふふう事事こと、、、これこれこれ始始はじめめめとととぞぞぞ承承うけたまわるるる。。。近近おう江江みののの中中ちゅう將將じょう爲爲ため淸淸きよ、、、越越えち前前ぜんののの少少しょう將將しょう信信のぶ行行ゆき、、、伯伯ほう耆耆きののの守守かみ光光みつ綱綱つな、、、子子し息息そく伯伯ほう耆耆きののの判判ほう官官がん光光みつ經經つねももも射射い落落おとささされれれててて、、、首首くび取取とららられれれぬぬぬ。。。またまたまた木木き曾曾そををを背背そむいいいててて、、、院院いんへへへ參參まいりりりたるたるたる信信しな濃濃の源源げん氏氏じ村村むら上上かみののの三三さぶ郎郎ろう判判ほう官官がん代代だいももも討討うたたたれれれぬぬぬ。。。按按あ察察ぜ使使ちののの大大だい納納な言言ごん資資すけ方方かたののの卿卿きょうののの孫孫まご、、、右右う少少しょう將將しょう雅雅まさ賢賢かたももも鎧鎧よろい、、、立立たて烏烏え帽帽ぼ子子しででで軍軍いくさののの陣陣じんへへへ出出いでででられられられたりたりたりけるけるけるががが、、、樋樋ひ口口ぐちののの次次じ郎郎ろう兼兼かね光光みつががが手手てにににかゝつかゝつかかっててて、、、生生いけ捕捕どりにににこそこそこそせせせられられられけれけれけれ。。。天天てん台台だい座座ざ主主す明明めい雲雲うん大大だい僧僧そう正正じょう、、、寺寺てらののの長長ちょう吏吏り圓圓えん慶慶けい法法ほっ親親しん王王のうももも御御ご所所しょににに參參まいりりり籠籠こもらららせせせ給給たまひひいたりたりたりけるけるけるががが、、、黑黑くろ煙煙けぶり既既すでにににおしおしおしかゝりかゝりかかりけれけれければばば、、、御御おん馬馬うまににに召召めしししててて、、、急急いそぎぎぎ出出いでででさせさせさせ給給たまひひいけるけるけるををを、、、武武ぶ士士しどもどもどもさん〴〵さん〴〵さんざんににに射射い奉奉たてまつるるる。。。明明めい雲雲うん大大だい僧僧そう正正じょう、、、圓圓えん慶慶けい法法ほっ親親しん王王のうももも御御おん馬馬うまよりよりより射射い落落おとささされれれててて、、、御御おん首首くび取取とららられれれさせさせさせ給給たまひひいけりけりけり。。。
- 6法法ほう皇皇おうははは御御おん輿輿こしににに召召めしししててて、、、他他た所所しょへへへ御御ご幸幸こうなるなるなる。。。武武ぶ士士しどもどもどもさん〴〵さん〴〵さんざんににに射射い奉奉たてまつるるる。。。豐豐ぶん後後ごののの少少しょう將將しょう宗宗むね長長なが、、、木木もく蘭蘭らん地地じののの直直ひた垂垂たれににに折折おり烏烏え帽帽ぼ子子しででで供供ぐ奉奉ぶせせせられられられたりたりたりけるけるけるががが、、、「「「これこれこれははは院院いんにてにてにてわたらわたらわたらせせせ給給たまふふうぞぞぞ、、、あやまちあやまちあやまち仕仕つかまつるるるななな。。。」」」ととと申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、武武ぶ士士し共共ども皆皆みな馬馬うまよりよりより下下おりりりててて畏畏かしこまるまるまる。。。「「「何何なに者者ものぞぞぞ。。。」」」ととと御御おん尋尋たずねねねありありありけれけれければばば、、、「「「信信しな濃濃のののの國國くにののの住住じゅう人人にん矢矢や島島しまののの四四し郎郎ろう行行ゆき重重しげ。。。」」」ととと名名なのりのりのり申申もうすすす。。。軈軈やがててて御御おん輿輿こしににに手手てをををかけかけかけ參參まいらせらせらせててて、、、五五ご條條じょう内内だい裏裏りへへへ入入いれれれ奉奉たてまつつつっててて、、、きびしうきびしうきびしゅう守守しゅ護護ごししし奉奉たてまつるるる。。。
- 7豐豐ぶん後後ごののの國國こく司司し刑刑ぎょう部部ぶ卿卿きょう三三さん位位み賴賴より資資すけののの卿卿きょうももも御御ご所所しょににに參參まいりりり籠籠こもららられれれたりたりたりけるけるけるががが、、、黑黑くろ煙煙けぶり既既すでにににおしおしおしかゝりかゝりかかりけれけれければばば、、、急急いそぎぎぎ河河かわ原原らへへへ逃逃にげげげ出出いでででられられられけるけるけるががが、、、武武ぶ士士しののの下下しも部部べどもどもどもににに衣衣い裳裳しょうみなみなみな剝剝はぎぎぎ取取とららられれれててて、、、まつまつまっぱだかぱだかぱだかにてにてにて立立たたたたれれれたりたりたり。。。頃頃ころははは十十じゅう一一いち月月がつ十十じゅう九九く日日にちののの朝朝あしたなれなれなればばば、、、河河かわ原原らののの風風かぜさこそさこそさこそははは烈烈はげしかりしかりしかりけめけめけめ。。。三三さん位位みののの兄兄しょうと越越えち前前ぜんののの法法ほっ橋橋きょう性性しょう意意いががが中中ちゅう間間げん法法ほう師師しのののありありありけるけるけるががが、、、軍軍いくさ見見みんんんとてとてとて出出いでででたりたりたりけるけるけるががが、、、三三さん位位みののの裸裸はだかにてにてにて立立たたたたれれれたるたるたるををを見見みつけつけつけててて、、、「「「あなあなあな淺淺あさましましまし。。。」」」とてとてとて、、、いそぎいそぎいそぎ走走はしりりり寄寄よるるる。。。このこのこの法法ほう師師しははは白白しろききき小小こ袖袖そで二二ふたつつつににに、、、衣衣ころもをををぞぞぞ著著きたりたりたりけるけるける。。。さらばさらばさらば小小こ袖袖そでをををもももぬいぬいぬいででで著著きせせせ奉奉たてまつれれれかしかしかし。。。衣衣ころもをををぬいぬいぬいででで投投なげげげかけかけかけたりたりたり。。。短短みじかききき衣衣ころもうつぼうつぼうつぼにににかぶつかぶつかぶっててて帶帶おびをををもももせせせずずず、、、後後うしろののの體體ていさこそさこそさこそははは見見み苦苦ぐるしかりしかりしかりけめけめけめ。。。さらばさらばさらば急急いそぎぎぎももも歩歩あゆみみみ給給たまははわででで、、、白白びゃく衣衣えなるなるなる法法ほう師師しををを供供ともににに具具ぐしししててておはしおはしおわしけるけるけるががが、、、あそあそあそこゝこゝここににに立立たちちちやすらひやすらひやすらい、、、「「「あれあれあれなるなるなるははは誰誰たががが家家いえぞぞぞ、、、こゝこゝここなるなるなるははは何何なに者者ものののの宿宿しゅく所所しょ。。。」」」なんどなんどなんど問問とひひい給給たまへへえばばば、、、見見みるるる人人ひと、、、手手てををを叩叩たたいいいててて笑笑わらひひいあへあへあえりりりけりけりけり。。。
- 8主主しゅ上上しょうははは御御み船船ふねににに召召めしししててて、、、池池いけににに浮浮うかばばばせせせ給給たまひひいたりたりたりけるけるけるににに、、、武武ぶ士士しどもどもども頻頻しきりりりににに矢矢や參參まいらせらせらせけれけれければばば、、、七七しち條條じょうののの侍侍じ從從じゅう信信のぶ淸淸きよ、、、紀紀き伊伊いののの守守かみ範範のり光光みつ、、、御御み船船ふねににに候候さぶらははわれれれけるけるけるががが、、、「「「これこれこれははは内内うちにてにてにてわたらわたらわたらせせせ給給たまふふうぞぞぞややや。。。過過あやまちちち仕仕つかまつるるるななな。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、武武ぶ士士しどもどもどもみなみなみな馬馬うまよりよりより下下おりりりててて畏畏かしこまるまるまる。。。やがてやがてやがて閑閑かん院院いん殿殿どのへへへ行行ぎょう幸幸こうなしなしなし奉奉たてまつるるる。。。行行ぎょう幸幸こうののの儀儀ぎのののあさましさあさましさあさましさ、、、申申もうすすすもももなか〳〵なか〳〵なかなかおろかおろかおろかなりなりなり。。。
- 9源源げんののの藏藏くら人人んど仲仲なか兼兼かねはははそのそのその勢勢せい五五ご十十じっ騎騎きばかりばかりばかりででで、、、法法ほう住住じゅう寺寺じ殿殿どのののの西西にしののの門門もんををを固固かためめめててて防防ふせぐぐぐ所所ところににに、、、近近おう江江み源源げん氏氏じ山山やま本本もとののの冠冠かん者者じゃ義義よし高高たか、、、鞭鞭むち鐙鐙あぶみををを合合あははわせせせててて馳馳はせせせ來來きたりりり、、、「「「いかにいかにいかに各各おのおのははは誰誰たれをををかばはかばはかばはんんんとてとてとて、、、軍軍いくさをををばばばししし給給たまふふうぞぞぞ。。。御御ご幸幸こうももも行行ぎょう幸幸こうももも他他た所所しょへへへなりなりなりぬぬぬとととこそこそこそ承承うけたまわれれれ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、さらばさらばさらばとてとてとて大大おお勢勢ぜいののの中中なかににに驅驅かけけけ入入いりりり、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに戰戰たたかへへえばばば、、、主主しゅ從從じゅう八八はち騎騎きににに討討うちちちなさなさなさるるる。。。八八はち騎騎きががが中中なかににに、、、河河こう内内ちののの日日くさ下下か黨黨とうににに加加か賀賀が房房ぼうととといふいふいう法法ほう師師し武武む者者しゃありありあり。。。月月つき毛毛げなるなるなる馬馬うまののの、、、口口くちののの強強つよきききにににぞぞぞ乘乘のつつったりたりたりけるけるける。。。「「「このこのこの馬馬うまはははあまりあまりあまりににに口口くちががが強強つようううててて、、、乘乘のりりりたまるたまるたまるべしべしべしとととももも存存ぞんじじじ候候そうらははわずずず。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、源源げんののの藏藏くら人人んど、、、「「「さらばさらばさらばこのこのこの馬馬うまににに乘乘のりりりかへかへかえよよよ。。。」」」とてとてとて栗栗くり毛毛げなるなるなる馬馬うまののの下下した尾尾お白白じろいいいににに乘乘のりりりかへかへかえててて、、、根根ねののの井井いののの小小こ彌彌や太太たががが二二に百百ひゃく騎騎きばかりばかりばかりででで控控ひかへへえたるたるたる、、、河河かわ原原ら坂坂ざかののの勢勢せいののの中中なかへへへ驅驅かけけけ入入いりりり、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに戰戰たたかひひい、、、そこそこそこにてにてにて八八はち騎騎きががが五五ご騎騎き討討うたたたれれれぬぬぬ。。。加加か賀賀が房房ぼうはははわがわがわが馬馬うまのののひあいひあいひあいなりなりなりとてとてとて、、、主主しゅののの馬馬うまににに乘乘のりりりかへかへかえたりたりたりけれけれけれどもどもども、、、運運うんややや盡盡つきききにににけんけんけん、、、そこそこそこにてにてにて遂遂ついににに討討うたたたれれれにににけりけりけり。。。
- 10こゝこゝここににに源源げんののの藏藏くら人人んどののの家家いえののの子子こににに、、、次次じ郎郎ろう藏藏くら人人んど仲仲なか賴賴よりととといふいふいう者者ものありありあり。。。栗栗くり毛毛げなるなるなる馬馬うまののの下下した尾尾お白白じろいいいががが驅驅かけけけ出出いでででたるたるたるををを見見みつけつけつけててて、、、下下げ人人にんををを呼呼よびびび、、、「「「こゝこゝここなるなるなる馬馬うまははは源源げんののの藏藏くら人人んどののの馬馬うまととと見見みるるるはははひがひがひがことことことかかか。。。」」」「「「さんさんさん候候そうろう。。。」」」ととと申申もうすすす。。。「「「さてさてさてどのどのどの陣陣じんへへへややや驅驅かけけけ入入いつつったるたるたるととと見見みつるつるつる。。。」」」「「「河河かわ原原ら坂坂ざかののの勢勢せいののの中中なかへへへこそこそこそ入入いらららせせせ給給たまひひいつるつるつるなれなれなれ。。。御御おん馬馬うまもももやがてやがてやがてあのあのあの勢勢せいののの中中なかよりよりより出出いででで來來きててて候候そうろう。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、次次じ郎郎ろう藏藏くら人人んど涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながいいいててて、、、「「「あなあなあな無無む慙慙ざんややや、、、はやはやはや討討うたたたれれれ給給たまひひいたりたりたり。。。幼幼よう少少しょう竹竹ちく馬馬ばののの昔昔むかしよりよりより、、、死死しなななばばば一一いっ所所しょででで死死しなななんんんとととこそこそこそ契契ちぎりりりしにしにしに、、、今今いまははは所所ところ々々どころににに伏伏ふさささんんん事事ことこそこそこそ悲悲かなしけれしけれしけれ。。。」」」とてとてとて、、、妻妻さい子子しのののもともともとへへへ最最さい後後ごのののありありありさまさまさまいひいひいい遣遣つかははわししし、、、たゞたゞただ一一いっ騎騎き、、、河河かわ原原ら坂坂ざかののの勢勢せいののの中中なかへへへ驅驅かけけけ入入いりりり、、、鐙鐙あぶみふんばりふんばりふんばり立立たち上上あがりりり、、、大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「敦敦あつ躬躬みののの親親しん王王のうににに八八はち代代だいののの後後こう胤胤いん、、、信信しな濃濃のののの守守かみ仲仲なか重重しげががが子子こににに次次じ郎郎ろう藏藏くら人人んど仲仲なか賴賴よりとてとてとて、、、生生しょう年年ねん二二に十十じゅう七七しちににに罷罷まかりりりなるなるなる。。。われわれわれととと思思おもははわんんん人人ひと々々びとははは寄寄よりりりあへあへあえややや、、、見見げん參參ざんせせせんんん。。。」」」とてとてとて、、、豎豎たてざまざまざま、、、横横よこざまざまざま、、、蜘蜘く蛛蛛も手手で、、、十十じゅう文文もん字字じににに驅驅かけけけ破破やぶりりり、、、驅驅かけけけまはりまはりまわり戰戰たたかひひいけるけるけるががが、、、敵敵かたきあまたあまたあまた討討うちちち取取とつつっててて、、、遂遂ついににに討討うち死死じにしてしてしてけりけりけり。。。
- 11源源げんののの藏藏くら人人んどこれこれこれをををばばば知知しりりり給給たまははわずずず、、、兄兄あにののの河河こう内内ちののの守守かみ仲仲なか信信のぶうちうちうち具具ぐしししててて、、、主主しゅ從從じゅう三三さん騎騎き南南みなみをををさしさしさしててて落落おちちち行行ゆきききけるけるけるががが、、、攝攝せつ政政しょう殿殿どのののの都都みやこをををばばば軍軍いくさににに恐恐おそれれれさせさせさせ給給たまひひいててて、、、宇宇う治治じへへへ御御ぎょ出出しゅつありありありけるけるけるににに、、、木木こ幡幡はた山山やまにてにてにて追追おつつつつきつきっつき奉奉たてまつりりり、、、馬馬うまよりよりより下下おりりりててて畏畏かしこまるまるまる。。。「「「何何なに者者ものぞぞぞ。。。」」」ととと御御おん尋尋たずねねねありありありけれけれければばば、、、「「「仲仲なか信信のぶ、、、仲仲なか兼兼かね。。。」」」ととと名名な乘乘のりりり申申もうすすす。。。東東とう國國ごく、、、北北ほっ國國こくののの兇兇きょう徒徒と等等らかかかなんどなんどなんど思思おぼし召召めしししたれたれたればばばとてとてとて御御ぎょ感感かんありありあり。。。「「「軈軈やがててて汝汝なんじ等等らももも御御おん供供ともににに候候そうらへへえ。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、承承うけたまわつつっててて宇宇う治治じののの富富ふ家家け殿殿どのまでまでまで送送おくりりり參參まいらせらせらせててて、、、それそれそれよりよりよりこのこのこの人人ひと々々びとははは河河こう内内ちののの國國くにへへへぞぞぞ落落おちちち行行ゆきききけるけるける。。。
- 12あくるあくるあくる二二に十十じゅう日日にちののの日日ひ、、、木木き曾曾そののの左左さ馬馬まの頭頭かみ義義よし仲仲なか六六ろく條條じょう河河かわ原原らにににうちうちうち立立たつつっててて、、、昨日昨日きのう斬斬きるるる所所ところののの首首くびどもどもども、、、みなみなみなかけかけかけならべならべならべててて記記しるいいいたれたれたればばば、、、六六ろっ百百ぴゃく三三さん十十じゅう餘餘よ人人にんなりなりなり。。。そのそのその中中なかににに天天てん台台だい座座ざ主主す明明めい雲雲うん大大だい僧僧そう正正じょう、、、寺寺てらののの長長ちょう吏吏り圓圓えん慶慶けい法法ほっ親親しん王王のうののの御御おん首首くびもももかゝらかゝらかからせせせ給給たまひひいたりたりたり。。。これこれこれををを見見みるるる人人ひと、、、涙涙なみだををを流流ながさささずずずととといふいふいう事事ことなしなしなし。。。木木き曾曾そののの左左さ馬馬まののの頭頭かみ、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい七七しち千千せん餘餘よ騎騎き、、、馬馬うまののの頭頭かしら一一いち面面めんににに東東ひがし向向むけけけててて、、、天天てんももも響響ひびききき大大だい地地ちももも搖搖ゆるぐぐぐばかりばかりばかりににに、、、鬨鬨ときをををぞぞぞ三三さん箇箇か度度どつくりつくりつくりけるけるける。。。京京きょう中中じゅうまたまたまた騒騒さわぎぎぎあへあへあえりりり。。。但但ただしししこれこれこれはははよろこびよろこびよろこびののの鬨鬨ときとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
- 13さるさるさる程程ほどににに故故こ少少しょう納納な言言ごん入入にゅう道道どう信信しん西西ぜいののの子子し息息そく宰宰さい相相しょう長長なが教教のり、、、法法ほう皇皇おうのののわたらわたらわたらせせせ給給たまふふう五五ご條條じょう内内だい裏裏りへへへ參參まいつつっててて、、、門門もんよりよりより入入いらららんんんとととすれすれすればばば、、、守守しゅ護護ごののの武武ぶ士士しどもどもども許許ゆるさささずずず。。。案案あん内内ないははは知知しつつったりたりたり、、、あるあるある小小こ家家いえににに立立たちちち入入いりりり、、、俄俄にはかににに髪髪かみ剃剃そりりりおろしおろしおろし、、、墨墨すみ染染ぞめののの衣衣ころも袴袴はかま著著きててて、、、「「「このこのこの上上うえははは何何なにかかか苦苦くるしかるしかるしかるべきべきべき、、、あけあけあけててて入入いれれれよよよ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、そのそのその時時とき許許ゆるししし奉奉たてまつるるる。。。泣泣なく〳〵く〳〵くなく御御ご前前ぜんへへへ參參まいつつっててて、、、今今こん度度ど討討うたたたれれれ給給たまふふう人人ひと々々びとののの事事こと、、、一一いち々々いちににに申申もうしししたりたりたりけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おう、、、「「「明明めい雲雲うんははは非非ひ業業ごうののの死死しにににすすすべきべきべき者者ものととと、、、つゆつゆつゆももも思思おぼし召召めしししよらよらよらざりざりざりしししものものものををを、、、今今こん度度どはははたゞたゞただ、、、わがわがわがいかにいかにいかにもももなるなるなるべかりべかりべかりつるつるつる御御おん命命いのちににに代代かわりりりたるたるたるにににこそこそこそ。。。」」」とてとてとて、、、御御おん涙涙なみだせきせきせきあへあへあえさせさせさせ給給たまははわずずず。。。
- 14同同おなじきじきじき二二に十十じゅう三三さん日日にち、、、三三さん條條じょうののの中中ちゅう納納な言言ごん朝朝とも方方かたののの卿卿きょう以以い下下げ四四し十十じゅう九九く人人にんががが官官かん職職しょくををを停停とどめめめててて、、、追追おひひいこめこめこめ奉奉たてまつるるる。。。平平へい家家けののの時時ときははは四四し十十じゅう三三さん人人にんをををこそこそこそ停停とどめめめられられられしかしかしか、、、これこれこれははは既既すでににに四四し十十じゅう九九く人人にんなれなれなればばば、、、平平へい家家けののの惡惡あく行行ぎょうにににははは猶猶なお超超ちょう過過かせせせりりり。。。松松まつ殿殿どのののの姫姫ひめ君君ぎみ取取とりりり奉奉たてまつつつっててて、、、關關かん白白ぱく殿殿どのののの聟聟むこにににおしおしおしなるなるなる。。。
- 15そのそのその日日ひ又又また木木き曾曾そののの左左さ馬馬まののの頭頭かみ、、、家家いえののの子子こ郎郎ろう等等どうどもどもども召召めししし集集あつめめめててて評評ひょう定定じょうすすす。。。「「「そも〳〵そも〳〵そもそも義義よし仲仲なか一一いっ天天てんののの君君きみににに向向むかひひい參參まいらせらせらせててて、、、軍軍いくさにににはははうちうちうち勝勝かちちちぬぬぬ。。。主主しゅ上上しょうにににやややならならならましましまし、、、法法ほう皇皇おうにににやややなるなるなるべきべきべき。。。法法ほう皇皇おうにににならならならうううととと思思おもへへえどもどもども、、、法法ほう師師しにににならならならんんんもももをかしかるをかしかるおかしかるべしべしべし。。。主主しゅ上上しょうにににならならならうううととと思思おもへへえどもどもども、、、童童わらわにににならならならんんんももも然然しかるるるべからべからべからずずず。。。よし〳〵よし〳〵よしよしさらばさらばさらば關關かん白白ぱくにににならならならううう。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、手手て書書かきににに具具ぐせせせられられられたりたりたりけるけるける大大たい夫夫ふ房房ぼう覺覺かく明明めい進進すすみみみ出出いでででててて、、、「「「關關かん白白ぱくにににははは大大たい織織しょく冠冠かんののの御御おん末末すえ、、、執執しっ柄柄ぺい家家かののの公公きん達達だちこそこそこそならならならせせせ給給たまへへえ。。。殿殿とのははは源源げん氏氏じにてにてにてわたらわたらわたらせせせ給給たまへへえばばば、、、それそれそれこそこそこそかなひかなひかない候候そうろうまじまじまじ。。。」」」とととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。さらばさらばさらばとてとてとて院院いんののの御御おん廐廐うまやののの別別べつ當當とうにににおしおしおしなつなつなっててて、、、丹丹たん波波ばののの國國くにをををぞぞぞ知知ち行行ぎょうしししけるけるける。。。院院いんののの御御ご出出しゅっ家家けあれあれあればばば法法ほう皇皇おうととと申申もうししし、、、主主しゅ上上しょうののの未未いまだだだ御御ご元元げん服服ぶくなきなきなき程程ほどははは御御ご童童どう形形ぎょうにてにてにてまし〳〵まし〳〵ましましけるけるけるををを、、、知知しらららざりざりざりけるけるけるこそこそこそうたてうたてうたてけれけれけれ。。。
- 16さるさるさる程程ほどににに鎌鎌かま倉倉くらののの前前さきののの右右う兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ賴賴より朝朝とも、、、木木き曾曾そががが狼狼ろう藉藉ぜきしづめしづめしずめんんんとてとてとて、、、範範のり賴賴より、、、義義よし經經つねににに六六ろく萬萬まん餘餘よ騎騎きををを相相あい添添そへへえてててさしさしさし上上のぼせせせられられられけるけるけるががが、、、都都みやこにににははは軍軍いくさ出出いででで來來きててて、、、御御ご所所しょ、、、内内だい裏裏りみなみなみな燒燒やききき拂拂はらひひい、、、天天てん下下か暗暗くら闇闇やみとととなりなりなりたるたるたるよしよしよし聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、さうなうさうなうそうのう上上のぼつつっててて軍軍いくさすすすべきべきべきやうやうようもももなしなしなしとてとてとて、、、尾尾お張張はりののの國國くに熱熱あつ田田たののの邊邊へんなるなるなる所所ところにににぞぞぞまし〳〵まし〳〵ましましけるけるける。。。北北ほく面面めんににに候候さぶらひひいけるけるける宮宮く内内ない判判ほう官官がん公公きん朝朝とも、、、藤藤とう内内ない判判ほう官官がん時時とき成成なり、、、このこのこの事事こと訴訴うつたへへえんんんとてとてとて、、、尾尾お張張はりののの國國くにへへへ馳馳はせせせ下下くだりりり、、、このこのこの由由よしかくかくかくととと申申もうしししけれけれければばば、、、範範のり賴賴より、、、義義よし經經つね、、、「「「これこれこれははは公公きん朝朝ともののの關關かん東東とうへへへ下下くだらららるるるべきべきべきででで候候そうろうぞぞぞ。。。そのそのその故故ゆえははは仔仔し細細さいををを存存ぞんぜぜぜぬぬぬ使使つかいははは、、、返返かへしししててて問問とはははるゝるゝるる時時とき不不ふ審審しんののの殘殘のこるるるににに。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
- 17今今こん度度どののの軍軍いくさににに所所しょ從從じゅうみなみなみな落落おちちちうせうせうせ、、、討討うたたたれれれにににしかしかしかばばば、、、子子し息息そく宮宮く内内ない所所どころ公公きん茂茂もちとてとてとて生生しょう年年ねん十十じゅう五五ご歳歳さいににになるなるなるををを、、、相相あい具具ぐしししてててぞぞぞ下下くだりりりけるけるける。。。夜夜よををを日日ひににについついついででで鎌鎌かま倉倉くらへへへ馳馳はせせせ下下くだりりり、、、このこのこの由由よし訴訴うつたへへえ申申もうささされれれけれけれければばば、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どの、、、「「「これこれこれははは鼓鼓つづみ判判ほう官官がんががが不不ふ思思し議議ぎののの事事こと申申もうししし出出いでででててて、、、君君きみをををももも惱惱なやましましまし奉奉たてまつりりり、、、多多おおくくくののの高高こう僧僧そう、、、貴貴き僧僧そうをををももも失失うしなひひいけるけるける事事ことこそこそこそ、、、かへす〴〵かへす〴〵かえすがえすももも奇奇き怪怪かいなれなれなれ。。。是是これ等等らををを召召めしししつかはつかはつかわせせせ給給たまははわばばば、、、このこのこの後後のちももも天天てん下下かののの騒騒そう動動どう絶絶たゆゆゆまじうまじうまじゅう候候そうろう。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、朝朝とも泰泰やすこのこのこの由由よし陳陳ちんぜぜぜんんんとてとてとて、、、夜夜よををを日日ひににについついついででで鎌鎌かま倉倉くらへへへ馳馳はせせせ下下くだりりり、、、梶梶かじ原原はら平平へい三三ぞう景景かげ時時ときににについついついててて、、、さま〴〵さま〴〵さまざま陳陳ちんじじじ申申もうしししけれけれけれどもどもども、、、鎌鎌かま倉倉くら殿殿どの、、、「「「しやつしやつしゃつににに目目めなななかけかけかけそそそ、、、あひあひあいしらひしらひしらいなななせせせそそそ。。。」」」とととのたまへのたまへのたまえばばば、、、日日ひ毎毎ごとににに兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけののの館館たちへへへ向向むかふふう。。。遂遂ついににに面面めん目目ぼくなくなくなくしてしてして、、、またまたまた都都みやこへへへ返返かえりりり上上のぼりりり、、、からきからきからき命命いのち生生いきききつゝつゝつつ、、、稻稻いな荷荷りののの邊邊へんなるなるなる所所ところににに、、、かすかかすかかすかなるなるなる體體ていにてにてにて住住すまひひいけるけるけるとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
- 18木木き曾曾そ西西さい國國こくへへへ使使し者者しゃををを立立たてててててて、、、急急いそぎぎぎ上上のぼらららせせせたまへたまへたまえ、、、一一ひとつつつににになつなつなっててて關關かん東東とうへへへ馳馳はせせせ下下くだりりり、、、兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ討討うつつつべきべきべき由由よし、、、いひいひいい遣遣つかははわしししたりたりたりけれけれければばば、、、大臣殿大臣殿おおいどのををを始始はじめめめ奉奉たてまつつつっててて、、、一一いち門門もんののの人人ひと々々びとははは皆皆みな喜喜よろこばばばれれれけれけれけれどもどもども、、、新新しん中中ちゅう納納な言言ごん知知とも盛盛もりののの卿卿きょうののの意意い見見けんににに申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「たとひたとひたとい世世よ末末すえににになつなつなっててて候候そうらへへえばばばとてとてとて、、、木木き曾曾そなんどなんどなんどににに語語かたらららはははれれれててて、、、いかでいかでいかでかかか都都みやこへへへ上上のぼらららせせせ給給たまふふうべきべきべき。。。十十じゅう善善ぜんののの帝帝てい王王おう、、、三三さん種種しゅののの神神じん器器ぎををを帶帶たいしししててて渡渡わたらららせせせ給給たまへへえばばば、、、兜兜かぶとをををぬぎぬぎぬぎ、、、弓弓ゆみののの弦弦つるをををはづいはづいはずいててて、、、これこれこれへへへ降降こう人人にんににに參參まいれれれととと申申もうさささせせせ給給たまふふうべうべうびょうもももややや候候そうろうらんらんらん。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、大臣殿大臣殿おおいどのそのそのそのやうやうようををを御御おん返返へん事事じありありありしかしかしかどもどもども、、、木木き曾曾そ用用もちゐゐい奉奉たてまつらららずずず。。。
- 19入入にゅう道道どうののの松松まつ殿殿どの殿殿でん下下か、、、木木き曾曾そををを召召めしししててて、、、淸淸きよ盛盛もり公公こう惡惡あく行行ぎょう人人にんたりたりたりしかしかしかどもどもども、、、希希き代代たいののの善善ぜん根根ごんををを置置おきききたれたれたればばばにににややや、、、世世よをををばばばおだしうおだしうおだしゅう、、、二二に十十じゅう餘餘よ年年ねんまでまでまで保保たもちちちたんたんたんなりなりなり。。。惡惡あく行行ぎょうばかりばかりばかりにてにてにて世世よををを治治おさむるむるむる事事ことはははなきなきなきものものものををを、、、させるさせるさせる故故ゆえなうなうのうててておしおしおし籠籠こめめめ奉奉たてまつつつったるたるたる人人ひと々々びとののの官官かん途途とどもどもども、、、みなみなみな赦赦ゆるすすすべきべきべき由由よし仰仰おおせせせけれけれければばば、、、ひたすらひたすらひたすら荒荒あら夷夷えびすのののやうやうようなれなれなれどもどもども、、、隨隨したがひひい奉奉たてまつつつっててて、、、おしおしおし籠籠こめめめ奉奉たてまつつつったるたるたる人人ひと々々びとののの官官かん途途とどもどもども、、、みなみなみな赦赦ゆるししし奉奉たてまつるるる。。。
- 20松松まつ殿殿どのののの御御おん子子こ師師もろ家家いえ公公こう、、、そのそのその時時ときははは未未いまだだだ從從じゅ二二に位位いののの中中ちゅう納納な言言ごんにてにてにてまし〳〵まし〳〵ましましけるけるけるををを、、、木木き曾曾そがががはからひはからひはからいにてにてにて大大だい臣臣じん攝攝せつ政政しょうににになしなしなし奉奉たてまつるるる。。。折折おりふしふしふし大大だい臣臣じんあかあかあかざりざりざりけれけれければばば、、、德德とく大大だい寺寺じ殿殿どの、、、そのそのその頃頃ころははは内内ない大大だい臣臣じんののの左左さ大大だい將將しょうにてにてにてまし〳〵まし〳〵ましましけるけるけるををを借借かりりり奉奉たてまつつつっててて、、、大大だい臣臣じん攝攝せつ政政しょうににになしなしなし奉奉たてまつるるる。。。いつしかいつしかいつしか人人ひとののの口口くちなれなれなればばば、、、新新しん攝攝せつ政政しょう殿殿どのをををばばば借借かる大大だい臣臣じんとととぞぞぞ申申もうしししけるけるける。。。同同おなじきじきじき十十じゅう二二に月月がつ十十とお日日かののの日日ひ、、、法法ほう皇皇おうをををばばば五五ご條條じょう内内だい裏裏りををを出出いだししし奉奉たてまつつつっててて、、、大大だい膳膳ぜんののの大大だい夫夫ぶ成成なり忠忠ただががが宿宿しゅく所所しょ、、、六六ろく條條じょう西西にしののの洞洞とう院院いんへへへ御御ご幸幸こうなしなしなし奉奉たてまつるるる。。。同同おなじきじきじき十十じゅう三三さん日日にち、、、歳歳さい末末まつののの御御み修修しお法法ほう始始はじめめめらるらるらる。。。そのそのその日日ひ除除じ目目もく行行おこなははわれれれててて、、、木木き曾曾そがががはからひはからひはからいにてにてにて、、、人人ひと々々びとののの官官かん加加か階階かい、、、思思おもふふうやうやうようににになしなしなしててておきおきおきてててけりけりけり。。。
- 21平平へい家家けははは西西さい國國こくににに、、、兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけははは東東とう國國ごくににに、、、木木き曾曾そははは都都みやこににに張張はりりり行行おこなふふう。。。前前ぜん漢漢かん後後ご漢漢かんののの間間あいだ、、、王王おう莽莽もうががが世世よをををうちうちうち取取とつつっててて、、、十十じゅう八八はち年年ねん治治おさめめめたりたりたりしししががが如如ごとししし。。。四四し方方ほうののの關關せき々々ぜきみなみなみな閉閉とぢぢじたれたれたればばば、、、公公おおやけののの御御み貢貢つぎ物物ものをををももも奉奉たてまつらららずずず、、、私私わたくしののの年年ねん貢貢ぐももも上上のぼらららねねねばばば、、、京京きょう中中じゅうののの上上じょう下下げ、、、たゞたゞただ少少しょう水水すいののの魚魚うおににに異異ことならならならずずず。。。あぶなあぶなあぶなながらながらながらににに年年とし暮暮くれれれててて、、、壽壽じゅ永永えいももも三三さん年年ねんににになりなりなりにににけりけりけり。。。
現代語訳
「たとえば都を守護しようという者が、馬一頭ずつ飼って乗らずにいられようか。いくらでもある田を刈らせて飼い葉にするのを、法皇がむやみにおとがめになるいわれがあろうか。兵糧米が尽きたので、若い者どもが西山・東山のはずれに出かけて、ときどき略奪するのは、どうしていけないことがあろう。大臣以下の方々や宮々の御所へ押し入るのならともかく。きっとこれは鼓判官の讒言と思われるぞ。その鼓めを打ち破って捨ててしまえ。今度は義仲の最後の戦いになるだろう。一つには兵衛佐頼朝が伝え聞くこともある。よく戦え、者ども」といって出陣した。北国の者たちは、初めは五万余騎と聞こえたが、みな落ちて国へ下ってしまい、わずか六、七千騎になっていた。義仲の戦いの吉例だからといって軍勢を七手に分け、まず樋口次郎兼光に二千余騎をつけて、新熊野の方から搦手に差し向けた。残る六手は、それぞれがいる条里や小路から皆出発して、六条河原で一つになれと合図を決めて出発した。味方の笠印には松の葉をつけた。
戦いは十一月十九日の朝である。院の御所法住寺殿にも、軍兵二万余人が参りこもっていると聞こえた。木曾が法住寺殿の西の門へ押し寄せて見ると、鼓判官朝泰は戦いの指揮役を承って、御所の西の築地の上へ登って立っていたが、赤地の錦の直垂に兜だけを着けていた。兜には四天王の絵が描いて貼ってある。片手には鉾を持ち、片手には金剛鈴を持って、振り振りして、ときどきは舞うこともあった。公卿・殿上人は、みっともない、朝泰には天狗がついたと笑われた。朝泰は大音声をあげて、「昔は宣旨に向かって読み上げると、枯れた草木もたちまち花が咲き実がなり、飛ぶ鳥も地に落ち、悪鬼悪神も従った。末の世だからといって、どうして十善の君に向かい申して、弓を引き矢を放つことができよう。放った矢は、かえっておまえたちの身に立つだろう。抜いた太刀は、かえって自分の身を切るだろう」などと罵ったので、木曾は「そんなことを言わせるな」といって、鬨の声をどっとあげた。
そうするうちに、樋口次郎兼光の二千余騎も新熊野の方から同じく鬨の声を合わせた。今井四郎兼平が鏑矢の中に火を入れて、法住寺殿の御所の棟に射立てたところ、折しも風は激しく、猛火は天に燃え上がって、炎は空に満ちあふれた。黒煙が押しかかってきたので、戦いの指揮役の朝泰は人より先に逃げてしまった。指揮役が逃げたからにはといって、二万余人の兵たちも、われ先にと逃げて行った。あまりにあわて騒いで、弓を取る者は矢を忘れ、矢を取る者は弓を忘れた。長刀を逆さまに突いて自分の足を突き通す者もあり、弓の弭を物にひっかけて外せず、捨てて逃げる者もあった。
七条の末は摂津国の源氏が固めていたが、院の御所から、落ちてくる者があれば用意して皆打ち殺せと命じられていたので、その土地の者たちは屋根に楯を並べ、投げつける石を集めて待っていたところに、摂津国の源氏が逃げてきたのを、それ落人だといって石を拾っては投げつけ、さんざんに打ったので、「院方の者だぞ、まちがえるな」と言ったけれども、「そんなことを言わせるな。院宣であるから、ただ打ち殺せ打ち殺せ」といって打つうちに、頭を打ち割られる者、腰を打ち折られて馬から落ち、這う這う逃げる者もあり、打ち殺される者も多かった。八条の末は山の僧たちが固めていたが、恥を知る者は討ち死にし、恥知らずの者は逃げて行った。
ここに主水正親業は、薄青の狩衣の下に萌黄縅の腹巻を着け、白月毛の馬に乗って河原を上流の方へ逃げて行くところを、今井四郎兼平が追いかかり、弓をよく引きしぼって、首の骨をひょうっと射て、馬から真っ逆さまに射落とした。清大外記頼業の子であった。明経道の博士が甲冑を着るのは、これが初めてと承る。近江中将為清、越前少将信行、伯耆守光綱、その子の伯耆判官光経も射落とされて首を取られた。また木曾に背いて院へ参った信濃源氏の村上三郎判官代も討たれた。按察使大納言資方卿の孫の右少将雅賢も、鎧に立烏帽子で戦いの陣に出ておられたが、樋口次郎兼光の手にかかって生け捕りにされた。天台座主明雲大僧正と寺の長吏円慶法親王も御所に参りこもっておられたが、黒煙がもう押しかかってきたので、御馬に乗って急いでお出になったところを、武士どもがさんざんに射申した。明雲大僧正も円慶法親王も御馬から射落とされて、御首を取られなさった。
法皇は御輿に乗って、よそへ御幸なさる。武士どもがさんざんに射申した。豊後少将宗長が木蘭地の直垂に折烏帽子でお供していたが、「これは院でいらっしゃるぞ。まちがえて射るな」と申されたので、武士たちはみな馬から降りてかしこまった。「何者か」とお尋ねになると、「信濃国の住人矢島四郎行重」と名のり申した。すぐに御輿に手をかけ申して、五条内裏へお入れ申し、厳しくお守りした。
豊後の国司刑部卿三位頼資卿も御所に参りこもっておられたが、黒煙がもう押しかかってきたので、急いで河原へ逃げ出られたところ、武士の下部たちに衣装をみな剝ぎ取られて、真っ裸で立っておられた。ころは十一月十九日の朝だったので、河原の風はさぞ激しかったであろう。三位の兄の越前法橋性意の召し使う中間法師がいたが、戦いを見ようと出てきていて、三位が裸で立っておられるのを見つけて、「なんとひどい」といって急いで走り寄る。この法師は白い小袖二枚に衣を着ていた。それなら小袖を脱いで着せ申せばよいものを、衣を脱いで投げかけた。短い衣を頭からすっぽりかぶって帯もせず、後ろ姿はさぞ見苦しかったであろう。それなのに急いで歩きもなさらずに、白衣の法師を供に連れておられたが、あちこちに立ち止まっては、「あれは誰の家か、ここは何者の宿所か」などとお尋ねになるので、見る人は手を叩いて笑い合った。
天皇(後鳥羽天皇)は御船にお乗りになって、池に浮かんでおられたが、武士どもがしきりに矢を射かけ申したので、七条侍従信清と紀伊守範光が御船に控えておられて、「これは帝でいらっしゃるぞ。まちがえて射るな」と申されたので、武士たちはみな馬から降りてかしこまった。すぐに閑院殿へ行幸おさせ申した。行幸のありさまのみじめさは、言葉ではとても言い尽くせない。
源蔵人仲兼はその勢五十騎ほどで法住寺殿の西の門を固めて防いでいたところに、近江源氏の山本冠者義高が鞭と鐙を合わせて馳せ来て、「いったい皆さんは誰をかばおうとして戦っておられるのか。御幸も行幸も他所へお移りになったと承りましたぞ」と言ったので、それならといって大勢の中に駆け入り、さんざんに戦ううちに、主従八騎にまで討ちへらされた。八騎のうちに河内の日下党の加賀房という法師武者がいた。月毛の馬で口の強いのに乗っていた。「この馬はあまりに口が強くて、乗りこなせるとも思えません」と言ったので、源蔵人は「それならこの馬に乗り替えよ」といって、栗毛で尾の下の白い馬に乗り替えさせ、根井小弥太が二百騎ほどで控えていた河原坂の勢の中へ駆け入り、さんざんに戦い、そこで八騎のうち五騎が討たれた。加賀房は自分の馬が扱いにくいといって主人の馬に乗り替えたけれども、運が尽きたのであろうか、そこでとうとう討たれてしまった。
ここに源蔵人の家の子で、次郎蔵人仲頼という者がいた。栗毛で尾の下の白い馬が駆け出てきたのを見つけて、下人を呼んで、「ここにいる馬は源蔵人の馬と見たのはまちがいか」「さようでございます」と申す。「それでどの陣へ駆け入ったと見たか」「河原坂の勢の中へお入りになりました。御馬もすぐにあの勢の中から出てまいりました」と申したので、次郎蔵人は涙をはらはらと流して、「ああ、いたわしい。もう討たれてしまわれた。幼い竹馬の昔から、死ぬなら一緒に死のうと約束したのに、今は別々の所に倒れることが悲しい」といって、妻子のもとへ最後のありさまを言い送り、ただ一騎で河原坂の勢の中へ駆け入り、鐙を踏んばって立ち上がり、大音声をあげて、「敦実親王から八代の子孫、信濃守仲重の子の次郎蔵人仲頼といって、生年二十七になる。われと思わん人々は寄ってこい、お目にかかろう」といって、縦横無尽、四方八方に駆け破り駆けめぐって戦ったが、敵を大勢討ち取って、ついに討ち死にした。
源蔵人はこのことを知らずに、兄の河内守仲信を連れて、主従三騎で南をさして落ちて行ったが、摂政殿(基通)が都の戦いを恐れられて宇治へお出かけになったところに、木幡山で追いつき申し、馬から降りてかしこまった。「何者か」とお尋ねになると、「仲信、仲兼」と名のり申した。東国・北国の凶徒どもかなどとお思いになっていたところだったので、たいそう喜ばれた。「すぐにおまえたちもお供をせよ」と仰せになったので、承って宇治の富家殿(忠実の旧邸)までお送り申し、そこからこの人々は河内国へ落ちて行った。
あくる二十日、木曾左馬頭義仲は六条河原に陣を構えて、昨日斬った首をみな掛け並べて書き記したところ、六百三十余人であった。その中には天台座主明雲大僧正と寺の長吏円慶法親王の御首も掛けられていた。これを見る人で涙を流さない者はなかった。木曾左馬頭は合わせてその勢七千余騎、馬の頭を一面に東へ向けて、天も響き大地も揺らぐほどに、鬨の声を三度あげた。京中はまた騒ぎ合った。ただしこれは勝ち戦の喜びの鬨と聞こえた。
そうするうちに、故少納言入道信西の子の宰相長教が、法皇のおられる五条内裏へ参って、門から入ろうとすると、守護の武士たちが許さない。勝手はよく知っていたので、ある小家に立ち入り、急に髪を剃り落として墨染の衣と袴を着て、「これならもう構うまい。開けて入れよ」とおっしゃると、そのときは許し申した。泣く泣く御前へ参って、今度討たれた人々のことを一人一人申し上げると、法皇は「明雲が非業の死を遂げる者とは、少しも思わなかったのに。今度はただ、わしがどうにかなるはずだった命の身代わりになったのだ」といって、涙をこらえきれなかった。
同月二十三日、三条中納言朝方卿以下四十九人の官職を止めて、閉じこめ申した。平家のときは四十三人を止められたが、これは四十九人であるから、平家の悪行よりもさらにひどい。松殿(基房)の姫君をめとって、関白殿の婿になりおおせた。
その日また木曾左馬頭は、家の子・郎等を召し集めて評定した。「そもそも義仲は一天の君に向かい申して、戦いには勝った。帝になろうか、法皇になろうか。法皇になろうと思っても、法師になるのもおかしいだろう。帝になろうと思っても、子どもの姿になるのもよくない。よしよし、それなら関白になろう」と言ったので、書記として連れていた大夫房覚明が進み出て、「関白には大織冠(藤原鎌足)の子孫、摂関家の公達こそおなりになるものです。殿は源氏でいらっしゃるので、それはかないますまい」と申した。それならといって院の御厩の別当になりおおせて、丹波国を知行した。院がご出家なさったので法皇と申し、帝がまだご元服なさらないうちは童形でいらっしゃるのを知らなかったとは、情けないことである。
そうするうちに鎌倉の前右兵衛佐頼朝は、木曾の狼藉を鎮めようとして、範頼と義経に六万余騎をつけて上らせたが、都では戦いが起こって、御所も内裏もみな焼き払われ、天下は真っ暗になったと聞こえたので、うかつに上って戦うわけにもいかないといって、尾張国熱田のあたりに控えていた。北面に仕えていた宮内判官公朝と藤内判官時成が、このことを訴えようとして尾張国へ馳せ下り、このことを申したので、範頼と義経は、「これは公朝が関東へ下られるべきです。そのわけは、事情を知らない使いでは、聞き返されたときに不審が残るからです」とおっしゃった。
公朝は今度の戦いで従者がみな逃げたり討たれたりしてしまったので、子の宮内所公茂といって十五歳になる者を連れて下った。夜を日についで鎌倉へ馳せ下り、このことを訴え申したので、鎌倉殿は「これは鼓判官がとんでもないことを申し出して、君をもお悩ませ申し、多くの高僧・貴僧をも死なせたことこそ、かえすがえすもけしからぬ。このような者を召し使われるなら、この後も天下の騒動は絶えないでしょう」と申されたので、朝泰は申し開きをしようとして、夜を日についで鎌倉へ馳せ下り、梶原平三景時を頼って、いろいろと弁明したが、鎌倉殿は「あいつに目をかけるな。相手にするな」とおっしゃったので、毎日兵衛佐の館へ通ったが、ついに面目を失って、また都へ帰り上り、つらい命を生きながらえて、稲荷のあたりに、ひっそりと住んでいたと聞こえた。
木曾は西国へ使者を立てて、急いで上ってこられよ、一つになって関東へ馳せ下り、兵衛佐を討とうと言い送ったので、大臣殿をはじめとして一門の人々は皆喜ばれたが、新中納言知盛卿が意見として申されるには、「たとえ世が末になっているからといって、木曾などに誘われて、どうして都へお上りになれましょうか。十善の帝王が三種の神器を帯びておられるのですから、兜を脱ぎ弓の弦をはずして、こちらへ降参して参れと申されるのがよいでしょう」と申されたので、大臣殿はそのように御返事をされたが、木曾は承知しなかった。
入道松殿殿下(基房)が木曾を召して、清盛公は悪行の人ではあったが、まれに見る善根を積んでいたからであろうか、世を穏やかに二十余年も保ったのである。悪行ばかりで世を治めることはできないのだから、これといった理由もなく閉じこめた人々の官職は、みな許すべきだと仰せになったので、まったくの荒くれ者であったが、従い申して、閉じこめた人々の官職をみな許し申した。
松殿の子の師家公は、そのときまだ従二位の中納言でいらっしゃったのを、木曾のはからいで大臣・摂政にし申した。折しも大臣の空きがなかったので、徳大寺殿(実定)がそのころ内大臣で左大将であられたのを借り申して、大臣・摂政にし申した。いつの間にか人の口に上って、新摂政殿を「かるの大臣(借りた大臣)」と呼んだ。同年十二月十日、法皇を五条内裏からお出し申して、大膳大夫成忠の宿所である六条西洞院へ御幸させ申した。同月十三日、歳末の御修法が始められた。その日除目が行われて、木曾のはからいで、人々の官位を思いどおりにしておいた。
平家は西国に、兵衛佐は東国に、木曾は都に勢力を張った。前漢と後漢の間に王莽が世を奪い取って十八年治めたようなものである。四方の関所がみな閉じられているので、朝廷への貢物も届かず、私の年貢も上ってこないので、京中の上下の人々は、ただ少ない水の中の魚のようであった。危うい状態のまま年が暮れて、寿永も三年になった。
意訳
義仲が後白河法皇の御所を攻め、法皇を押しこめた法住寺合戦を語る、巻第八の結びの章段である。築地の上で鉾と鈴を振って罵る鼓判官の姿や、裸で河原に立つ三位頼資の姿は滑稽に描かれるが、天台座主明雲や円慶法親王までが討たれ、六百三十余の首が六条河原に並ぶ結果は、都の人々に深い衝撃を与えた。
関白になろうとして覚明にたしなめられ、院の御厩別当におさまる義仲の無知は笑いを誘うが、その一方で、鎌倉の頼朝は範頼・義経を差し向けてじっと時を待つ。平家・頼朝・義仲の三者が並び立つ「少水の魚」のような都のありさまで巻第八は閉じられ、義仲の最期を描く巻第九へと続いていく。
語釈・文法注
文法
- 「刈らぜて」
- 底本は「刈らぜて」と濁点を付けて刷る。「刈らせて」の意。
- 「軍は一月十九日の朝なり」
- 底本は「一月」と刷るが、後に「頃は十一月十九日の朝」とあるように、「十一月」の脱字と見られる。
- 「兜には四天を書いてぞおしたりける」
- 四天王の絵を描いた紙を兜に貼っていた。
- 「金剛鈴」
- 密教の修法で用いる、柄に金剛杵の形をつけた鈴。
- 「末代澆季」
- 末の世で、人情の薄くなった時代。
- 「襲の石」
- 攻め寄せる敵に投げつけるための石。
- 「明經道の博士甲冑を鎧ふ事、これ始め」
- 儒学を家業とする明経道の博士が鎧を着て戦いに出たのは、これが初めてであった。
- 「うつぼにかぶつて」
- 衣を袖を通さずに頭からすっぽりかぶって。
- 「ひあいなり」
- 馬が扱いにくい、乗りにくい。
- 「敦躬の親王」
- 宇多天皇の皇子敦実親王。底本は「敦躬」と刷る。
- 「借大臣」
- 大臣の空きがないので徳大寺実定から一時借りた大臣。「かる(借る)の大臣」と揶揄した。
- 「少水の魚」
- 『往生要集』などに見える、水の少なくなった所の魚のように、命の危ういこと。
解説
法住寺合戦は寿永二年(1183)十一月十九日、義仲が後白河法皇の御所法住寺殿(京都市東山区)を攻めた戦いである。天台座主明雲と後白河法皇の皇子円恵法親王(『平家物語』では円慶)が討たれ、法皇は五条東洞院の摂政基通邸に移されて幽閉された。
義仲はこの後、藤原基房と結び、その子師家を摂政に立てた。翌寿永三年正月、義仲は征夷大将軍に任じられたが、まもなく範頼・義経の軍に攻められて近江国粟津で討ち死にする(巻第九「木曾の最後の事」)。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、631–641頁(コマ344–349)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
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