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平家物語 巻第八

鼓判官の事

都には源氏の兵が満ちあふれ、青田を刈り、人の蔵を破り、道行く人の衣まで剝ぎ取ったので、平家のほうがましだったと人々は言い合った。法皇は狼藉を鎮めよと義仲に使いを送ったが、使いの壱岐判官朝泰が鼓の名手で「鼓判官」と呼ばれていると知った義仲は、「人に打たれたのか、張られたのか」とからかう。怒って帰った朝泰の讒言で、法皇は義仲追討を決意し、延暦寺・園城寺の悪僧や辻の若者まで集めた。今井兼平は降参を勧めたが、義仲は一度も敵に後ろを見せたことはないと言い放った。

  1. 1およそおよそおよそ京きやう京きやうきょう中ぢう中ぢうじゅうにににははは源げん源げんげん氏じ氏じじののの勢せい勢せいせいみち〳〵みち〳〵みちみちててて、、、在ざい在ざいざい々ざい々ざいざい所しよ所しよしょ々しよ々しよしょににに入い入いいりりり取ど取どどりりり多おほ多おほおおししし。。。賀か賀かか茂も茂もも、、、八や八やや幡はた幡はたはたののの御ご御ごご領りやう領りやうりょうととともももいはいはいわずずず、、、靑あを靑あをあお田た田たたををを刈か刈かかりりりててて秣まぐさ秣まぐさまぐさにににししし、、、人ひと人ひとひとののの藏くら藏くらくらをををうちうちうちあけあけあけててて物もの物ものものををを取と取ととりりり、、、路ろ路ろろ次じ次じじににに持も持ももつつっててて逢あ逢ああふふう物もの物ものものををを奪うば奪うばうばひひい取と取ととるるる。。。平へい平へいへい家け家けけののの都みやこ都みやこみやこにににおはせおはせおわせししし程ほど程ほどほどははは、、、六ろく六ろくろく波は波はは羅ら羅らら殿どの殿どのどのとてとてとて、、、たゞたゞただ大おほ大おほおお方かた方かたかたおそろしかりおそろしかりおそろしかりしししばかりばかりばかりなりなりなり。。。衣い衣いい裳しやう裳しやうしょうををを剝は剝ははぎぎぎ取と取ととるるるまでまでまではははなかりなかりなかりしししものものものををを、、、平へい平へいへい家け家けけににに源げん源げんげん氏じ氏じじかへかへかえ劣おと劣おとおとりりりしししたりたりたりとととぞぞぞ人ひと人ひとひと申まう申まうもうしししけるけるける。。。
  2. 2法ほふ法ほふほう皇わう皇わうおうよりよりより木き木きき曾そ曾そそののの左さ左ささ馬ま馬ままののの頭かみ頭かみかみのののもともともとへへへ、、、「「「狼らう狼らうろう藉ぜき藉ぜきぜきしづめしづめしずめよよよ。。。」」」ととと仰おほ仰おほおおせせせ下くだ下くだくださささるるる。。。御おん御おんおん使つかひ使つかひつかいははは壹い壹いい岐き岐ききののの守かみ守かみかみ朝とも朝ともとも親ちか親ちかちかががが子こ子ここににに壹い壹いい岐き岐ききののの判はう判はうほう官ぐわん官ぐわんがん朝とも朝ともとも泰やす泰やすやすととといふいふいう者もの者ものものなりなりなり。。。天てん天てんてん下か下かかににに聞きこ聞きこきこえええたるたるたる鼓つゞみ鼓つゞみつづみののの上じやう上じやうじょう手ず手ずずにてにてにてありありありけれけれければばば、、、時とき時ときときののの人ひと人ひとひと鼓つゞみ鼓つゞみつづみ判はう判はうほう官ぐわん官ぐわんがんとととぞぞぞ申まう申まうもうしししけるけるける。。。木き木きき曾そ曾そそ對たい對たいたい面めん面めんめんしてしてして、、、まづまづまず院ゐん院ゐんいんののの御おん御おんおん返へん返へんへん事じ事じじをををばばば申まう申まうもうさささででで、、、「「「そも〳〵そも〳〵そもそもわわわ殿どの殿どのどのををを鼓つゞみ鼓つゞみつづみ判はう判はうほう官ぐわん官ぐわんがんととといふいふいうははは、、、よろづよろづよろずののの人ひと人ひとひとににに打う打ううたたたれれれたうたうとうたたたかかか、、、張は張ははららられれれたうたうとうたたたかかか。。。」」」とととぞぞぞ問と問ととうううたりたりたりけるけるける。。。朝とも朝ともとも泰やす泰やすやす返へん返へんへん事じ事じじににに及およ及およおよばばばずずず、、、急いそ急いそいそぎぎぎ還かへ還かへかえりりり參まゐ參まゐまいつつっててて、、、「「「義よし義よしよし仲なか仲なかなかをこをこおこののの者もの者ものものにてにてにて候さふらふ候さふらふそうろう。。。早はや早はやはやくくく追つゐ追つゐつい討たう討たうとうせせせさせさせさせ給たま給たまたまへへえ。。。只たゞ只たゞただ今いま今いまいま朝てう朝てうちょう敵てき敵てきてきとととなりなりなり候さふら候さふらそうらひひいなんなんなんずずず。。。」」」ととと申まう申まうもうしししけれけれければばば、、、法ほふ法ほふほう皇わう皇わうおうやがてやがてやがておぼしおぼしおぼし召め召めめししし立た立たたたたたせせせ給たま給たまたまひひいけりけりけり。。。さらばさらばさらば然しか然しかしかるるるべきべきべき武ぶ武ぶぶ士し士ししにににももも仰おほ仰おほおおせせせつけつけつけられられられずずずしてしてして、、、山やま山やまやまののの座ざ座ざざ主す主すす、、、寺てら寺てらてらののの長ちやう長ちやうちょう吏り吏りりににに仰おほ仰おほおおせせせられられられててて、、、山やま山やまやま、、、三み三みみ井ゐ井ゐい寺でら寺でらでらののの惡あく惡あくあく僧そう僧そうそうどもどもどもをををぞぞぞ召め召めめささされれれけるけるける。。。公く公くく卿ぎやう卿ぎやうぎょう殿てん殿てんてん上じやう上じやうじょう人びと人びとびとののの召め召めめささされれれけるけるける勢せい勢せいせいととといふいふいうははは、、、向むか向むかむかひひいつぶてつぶてつぶて、、、印いん印いんいん地ぢ地ぢじ、、、いひいひいいがひがひがいなきなきなき辻つぢ辻つぢつじ冠くわん冠くわんかん者じや者じやじゃばらばらばら、、、さてさてさてははは乞こつ乞こつこっ食じき食じきじき法ほふ法ほふほう師し師ししばらばらばらなりなりなり。。。またまたまた信しな信しなしな濃の濃のの源げん源げんげん氏じ氏じじ村むら村むらむら上かみ上かみかみののの三さぶ三さぶさぶ郎らう郎らうろう判はう判はうほう官ぐわん官ぐわんがん代だい代だいだい、、、これこれこれももも木き木きき曾そ曾そそ背そむ背そむそむいいいててて法ほふ法ほふほう皇わう皇わうおうへへへぞぞぞ參まゐ參まゐまいりりりけるけるける。。。
  3. 3木き木きき曾そ曾そそののの左さ左ささ馬ま馬ままののの頭かみ頭かみかみ、、、院ゐん院ゐんいんののの御ご御ごご氣き氣きき色しよく色しよくしょくあしうあしうあしゅうなるなるなるととと聞きこ聞きこきこえええしかしかしかばばば、、、始はじ始はじはじめめめははは木き木きき曾そ曾そそににに從したが從したがしたごうううたるたるたる五ご五ごご畿き畿きき内ない内ないないののの者もの者ものもの共ども共どもども、、、皆みな皆みなみな木き木きき曾そ曾そそををを背そむ背そむそむいいいててて院ゐん院ゐんいん方がた方がたがたへへへ參まゐ參まゐまいるるる。。。今いま今いまいま井ゐ井ゐいののの四し四しし郎らう郎らうろう申まう申まうもうしししけるけるけるははは、、、「「「之これ之これこれこそこそこそ以もつ以もつもってててののの外ほか外ほかほかののの御おん御おんおん大だい大だいだい事じ事じじにてにてにて候さふら候さふらそうらへへえ。。。さればとてさればとてさればとて十じふ十じふじゅう善ぜん善ぜんぜんののの君きみ君きみきみににに向むか向むかむかひひい參まゐ參まゐまいらせらせらせててて、、、いかでいかでいかで御おん御おんおん合かつ合かつかっ戰せん戰せんせん候さふらふ候さふらふそうろうべきべきべき。。。只たゞ只たゞただ兜かぶと兜かぶとかぶとをををぬぎぬぎぬぎ、、、弓ゆみ弓ゆみゆみののの弦つる弦つるつるをををはづいはづいはずいててて、、、降かう降かうこう人にん人にんにんににに參まゐ參まゐまいらせらせらせ給たま給たまたまふふうべうべうびょうもももややや候さふらふ候さふらふそうろうらんらんらん。。。」」」ととと申まう申まうもうしししけれけれければばば、、、木き木きき曾そ曾そそ大おほ大おほおおきききににに怒いか怒いかいかつつっててて、、、「「「われわれわれ信しな信しなしな濃の濃ののををを出い出いいでででしししよりよりより、、、小を小をお見み見みみ、、、合あひ合あひあい田だ田だだののの合かつ合かつかっ戰せん戰せんせんよりよりより始はじ始はじはじめめめててて、、、北ほつ北ほつほっ國こく國こくこくにてにてにてははは礪と礪とと竝なみ竝なみなみ、、、黑くろ黑くろくろ坂さか坂さかさか、、、篠しの篠しのしの原はら原はらはら、、、西さい西さいさい國こく國こくこくにてにてにてははは福ふく福ふくふく隆りう隆りうりゅう寺じ寺じじ繩なは繩なはなわ手て手てて、、、笹さゝ笹さゝささのののせまりせまりせまり、、、板いた板いたいた倉くら倉くらくらががが城じやう城じやうじょうををを攻せ攻せせめめめしかしかしかどもどもども、、、一いち一いちいち度ど度どどももも敵かたき敵かたきかたきににに後うしろ後うしろうしろををを見み見みみせせせずずず。。。縱たと縱たとたと令ひ令ひい十じふ十じふじゅう善ぜん善ぜんぜんののの君きみ君きみきみにてにてにて渡わた渡わたわたらららせせせ給たま給たまたまふふうとととももも、、、兜かぶと兜かぶとかぶとをををぬぎぬぎぬぎ、、、弓ゆみ弓ゆみゆみののの弦つる弦つるつるをををはづしはづしはずしててて、、、降かう降かうこう人にん人にんにんにににはははえええこそこそこそ參まゐ參まゐまいるるるまじけれまじけれまじけれ。。。」」」

引用の仕方

レポート・論文で引用する場合の表記例です。行番号を選んでから開くと、その行へのリンクになります。

現代語訳

およそ京中には源氏の軍勢が満ちあふれて、あちこちで略奪が多かった。賀茂や八幡の御領もかまわず、青田を刈って馬の飼い葉にし、人の蔵を打ち破って物を取り、道で持っている物を奪い取った。平家が都におられたときは、六波羅殿といって、ただなんとなく恐ろしかっただけである。衣装を剝ぎ取るまではしなかったのに、平家に代わった源氏はかえって劣っていると、人々は申した。

法皇から木曾左馬頭のもとへ、「狼藉を鎮めよ」と仰せ下された。御使いは壱岐守朝親の子の壱岐判官朝泰という者である。天下に聞こえた鼓の名手であったので、当時の人は鼓判官と呼んでいた。木曾は対面して、まず院へのご返事は申さずに、「そもそもおまえを鼓判官というのは、いろいろな人に打たれたからか、張られたからか」と尋ねた。朝泰は返事もせずに急いで帰って、「義仲はばか者でございます。早く追討なさいませ。今にも朝敵となりましょう」と申したので、法皇はすぐに追討を思い立たれた。それなのにしかるべき武士にも命じられずに、山の座主や寺の長吏に仰せになって、比叡山と三井寺の悪僧たちを召された。公卿・殿上人が召し集めた勢というのは、向かい礫や印地打ちの者、取るに足りない辻の若者ども、さては乞食法師どもであった。また信濃源氏の村上三郎判官代も、木曾に背いて法皇のもとへ参った。

木曾左馬頭は、院のご機嫌が悪くなったと聞こえたので、初めは木曾に従っていた五畿内の者たちも、みな木曾に背いて院方へ参った。今井四郎が申すには、「これはもってのほかの大事でございます。だからといって十善の君(法皇)に向かい申して、どうして合戦などできましょうか。ただ兜を脱ぎ、弓の弦をはずして、降参なさるのがよいのではないでしょうか」と申したので、木曾はひどく怒って、「わしは信濃を出てから、小見・合田の合戦をはじめとして、北国では砺波山・黒坂・篠原、西国では福隆寺縄手・笹の狭間・板倉の城を攻めたが、一度も敵に後ろを見せたことはない。たとえ十善の君であられようとも、兜を脱ぎ弓の弦をはずして、降参などとてもできない」と言った。

意訳

都の治安を保てない義仲と、それに業を煮やす法皇との対立が、ついに戦いへと向かう章段である。「鼓判官」を打たれたのか張られたのかとからかう義仲の冗談は、無邪気でありながら、都の人の心をますます遠ざけてしまう。

降参を勧める今井兼平に対し、一度も敵に後ろを見せたことはないと言い張る義仲の言葉には、武士としての誇りと、都での政治を知らない者の危うさが同時に表れている。

語釈・文法注

文法

「入り取り」
人の家に押し入って物を奪い取ること。
「平家に源氏かへ劣りしたり」
平家に比べて、代わった源氏のほうがかえって劣っている。
「打たれたうたか、張られたうたか」
鼓は打つもの、張るものであることに掛けたからかい。
「をこの者」
愚か者。「をこ」はばかげていること。
「向ひつぶて、印地」
石を投げ合う遊びや合戦(印地打ち)に加わる者たち。

解説

寿永二年(1183)秋以降、義仲の軍勢による略奪は都の人々を苦しめ、後白河法皇との関係は急速に悪化した。法皇は延暦寺・園城寺の僧兵や北面の武士を集めて法住寺殿の守りを固め、同年十一月の法住寺合戦へと至る。

関連

出典

底本
『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、630–631頁(コマ344)。国立国会図書館デジタルコレクション
校訂・訳・注
古典ライブラリー編集部
更新日