平家物語 巻第八
室山合戦の事
備中で屋島攻めの準備をしていた義仲は、都の樋口兼光から、行家が院に讒言していると知らされて急ぎ都へ戻った。義仲と仲たがいした行家は播磨へ落ち、義仲と仲直りしようと五百余騎で室山の平家に挑む。平家は陣を五つに張り、わざと中を開けて行家勢を引き入れ、取り囲んだ。行家は紀七衛門らを討ちながら三十騎ほどに討ちへらされて囲みを破り、河内の長野城にこもった。平家は水島・室山の勝利でいよいよ勢いを増した。
- 1さるさるさる程程ほどににに木木き曾曾そははは備備びっ中中ちゅうののの國國くに萬萬まん壽壽じゅののの莊莊しょうにてにてにて勢勢せい揃揃ぞろへへえしてしてして、、、八八や島島しまへへへ既既すでににに寄寄よせせせんんんとととすすす。。。そのそのその間間あいだ、、、都都みやこののの留留る守守すににに置置おかかかれれれたりたりたりけるけるける樋樋ひ口口ぐちののの次次じ郎郎ろう兼兼かね光光みつ、、、西西さい國國こくへへへ使使し者者しゃををを奉奉たてまつつつっててて、、、「「「殿殿とのののの渡渡わたらららせせせ給給たまははわぬぬぬ間間あいだににに、、、十十じゅう郎郎ろう藏藏くら人人んど殿殿どのこそこそこそ院院いんののの切切きり人人びとしてしてして、、、樣樣よう々々ようににに讒讒ざん奏奏そうせせせられられられ候候そうろうなれなれなれ。。。西西さい國國こくののの軍軍いくさをををばばば暫暫しばらくくくさしさしさし置置おかかかせせせ給給たまひひいててて、、、急急いそぎぎぎ上上のぼらららせせせ給給たまへへえ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、木木き曾曾そさらばさらばさらばとてとてとて夜夜よををを日日ひににについついついででで馳馳はせせせ上上のぼるるる。。。十十じゅう郎郎ろう藏藏くら人人んど行行ゆき家家いえははは、、、木木き曾曾そににに中中なか違違たごうううててて惡惡あしかりしかりしかりなんなんなんとととややや思思おもははわれれれけんけんけん、、、そのそのその勢勢せい五五ご萬萬まん餘餘よ騎騎きででで丹丹たん後後ご路路じにににかゝつかゝつかかっててて播播はり磨磨まののの國國くにへへへ落落おちちち下下くだるるる。。。木木き曾曾そははは攝攝つ津津のののの國國くにををを經經へててて都都みやこへへへ入入いるるる。。。
- 2平平へい家家けははは木木き曾曾そ討討うたたたんんんとてとてとて、、、大大たい將將しょう軍軍ぐんにににははは新新しん中中ちゅう納納な言言ごん知知とも盛盛もりののの卿卿きょう、、、本本ほん三三ざん位位みののの中中ちゅう將將じょう重重しげ衡衡ひらののの卿卿きょう、、、侍侍さぶらい大大たい將將しょうにににははは越越えっ中中ちゅうののの次次じ郎郎ろう兵兵びょう衞衞え盛盛もり嗣嗣つぎ、、、上總上總かずさののの五五ご郎郎ろう兵兵びょう衞衞え忠忠ただ光光みつ、、、惡惡あく七七しち兵兵びょう衞衞え景景かげ淸淸きよ、、、伊伊い賀賀がののの平平へい内内ない左左ざ衞衞え門門もん家家いえ長長ながををを先先さきとととしてしてして、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい二二に萬萬まん餘餘よ騎騎き、、、播播はり磨磨まののの國國くににににおしおしおし渡渡わたりりり、、、室室むろ山山やまににに陣陣じんをををぞぞぞ取取とつつったりたりたりけるけるける。。。
- 3十十じゅう郎郎ろう藏藏くら人人んど行行ゆき家家いえははは平平へい家家けととと軍軍いくさしてしてして、、、木木き曾曾そににに中中なか直直なおりりりせせせんんんとととややや思思おもひひいけんけんけん、、、そのそのその勢勢せい五五ご百百ひゃく餘餘よ騎騎き、、、室室むろ山山やまへへへこそこそこそかけかけかけられられられけれけれけれ。。。平平へい家家けははは陣陣じんををを五五いつつつつににに張張はるるる。。。まづまづまず伊伊い賀賀がののの平平へい内内ない左左ざ衞衞え門門もん家家いえ長長なが、、、二二に千千せん餘餘よ騎騎きででで一一いち陣陣じんををを固固かたむむむ。。。越越えっ中中ちゅうののの次次じ郎郎ろう兵兵びょう衞衞え盛盛もり嗣嗣つぎ、、、二二に千千せん餘餘よ騎騎きででで二二に陣陣じんををを固固かたむむむ。。。上總上總かずさののの五五ご郎郎ろう兵兵びょう衞衞え忠忠ただ光光みつ、、、惡惡あく七七しち兵兵びょう衞衞え景景かげ淸淸きよ、、、三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きででで三三さん陣陣じんををを固固かたむむむ。。。本本ほん三三ざん位位みののの中中ちゅう將將じょう重重しげ衡衡ひらののの卿卿きょう、、、三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きででで四四し陣陣じんををを固固かためめめ給給たまふふう。。。新新しん中中ちゅう納納な言言ごん知知とも盛盛もりののの卿卿きょう、、、一一いち萬萬まん餘餘よ騎騎きででで五五ご陣陣じんににに控控ひかへへえたまへたまへたまえりりり。。。まづまづまず一一いち陣陣じん伊伊い賀賀がののの平平へい内内ない左左ざ衞衞え門門もん家家いえ長長なが、、、暫暫しばらくくくあひあひあいしらふしらふしらう體體ていにににもてなしもてなしもてなしててて、、、中中なかをををあけあけあけてててぞぞぞ通通とおしししけるけるける。。。二二に陣陣じん越越えっ中中ちゅうののの次次じ郎郎ろう兵兵びょう衞衞え、、、これこれこれもももあけあけあけてててぞぞぞ通通とおしししけるけるける。。。三三さん陣陣じん上總上總かずさののの五五ご郎郎ろう兵兵びょう衞衞え、、、惡惡あく七七しち兵兵びょう衞衞え、、、共共ともにににあけあけあけてててぞぞぞ通通とおしししけるけるける。。。四四し陣陣じん本本ほん三三ざん位位みののの中中ちゅう將將じょう重重しげ衡衡ひらののの卿卿きょうももも、、、同同おなじうじうじゅうあけあけあけてててぞぞぞ入入いれれれられられられけるけるける。。。先先せん陣陣じんよりよりより五五ご陣陣じんまでまでまで、、、かねかねかねててて約約やく束束そくしししたりたりたりけれけれければばば、、、源源げん氏氏じををを中中なかににに取取とりりり籠籠こめめめててて、、、われわれわれ討討うちちち取取とらららんんんとととぞぞぞ進進すすみみみけるけるける。。。
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現代語訳
そうするうちに、木曾は備中国の万寿荘で軍勢をそろえて、いよいよ屋島へ攻め寄せようとした。その間、都の留守に置かれていた樋口次郎兼光が西国へ使者を出して、「殿がおいでにならない間に、十郎蔵人殿が院のお気に入りとなって、いろいろと讒言をなさっているそうです。西国の戦いはしばらく置いておかれて、急いでお上りください」と言ったので、木曾はそれならといって、夜を日についで馳せ上った。十郎蔵人行家は、木曾と仲たがいしてはまずいと思われたのであろうか、その勢五万余騎で丹後路を通って播磨国へ落ちていった。木曾は摂津国を経て都へ入った。
平家は木曾を討とうとして、大将軍には新中納言知盛卿と本三位中将重衡卿、侍大将には越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清、伊賀平内左衛門家長を先頭として、合わせてその勢二万余騎で播磨国へ渡り、室山に陣を取った。
十郎蔵人行家は平家と戦って木曾と仲直りしようと思ったのであろうか、その勢五百余騎で室山へ攻めかかった。平家は陣を五つに構えた。まず伊賀平内左衛門家長が二千余騎で一陣を固める。越中次郎兵衛盛嗣が二千余騎で二陣を固める。上総五郎兵衛忠光と悪七兵衛景清が三千余騎で三陣を固める。本三位中将重衡卿が三千余騎で四陣を固められる。新中納言知盛卿は一万余騎で五陣に控えておられた。まず一陣の伊賀平内左衛門家長は、しばらく相手をするふりをして、中を開けて通した。二陣の越中次郎兵衛も開けて通した。三陣の上総五郎兵衛と悪七兵衛も、ともに開けて通した。四陣の本三位中将重衡卿も、同じく開けて入れられた。先陣から五陣まで、あらかじめ約束していたので、源氏を中に取りこめて、自分が討ち取ろうと進んだ。
十郎蔵人行家は、さてははかられたかと思われたのであろうか、わき目もふらず、命も惜しまず、ここを最後と攻め戦った。新中納言が頼りにしておられた紀七衛門・紀八衛門・紀九郎などという一騎当千の兵たちも、みなそこで十郎蔵人に討ち取られた。こうして五百余騎の勢も、わずか三十騎ほどに討ちへらされ、雲霞のような敵の中を割って出たが、自分は傷も負わず、二十七騎はほとんどが手負いとなって、播磨国の高砂から船に乗り、和泉国の吹飯の浦へ渡り、そこから河内国の長野城に立てこもった。平家は室山・水島の二度の戦いに勝って、いよいよ勢いがついた。
意訳
義仲と行家の仲たがいが表に出た章段である。院に近づいて義仲を讒言した行家は、義仲の帰京を恐れて西へ逃れ、平家と戦って手柄を立てようとして、かえって罠にかかった。
五つの陣をわざと開けて敵を深く引き入れ、包みこんで討つという平家の戦法は、知盛を中心とした平家の軍略の巧みさを示している。水島に続く勝利で、平家はふたたび勢いを取り戻していく。
語釈・文法注
文法
- 「院の切人して」
- 院のお気に入りとなって。「切人」は時めく人、寵臣。
- 「あひしらふ體にもてなして」
- 相手をするふりをして。
- 「面をふらず」
- わき目もふらず。
解説
室山合戦は寿永二年(1183)十一月、播磨国室山(兵庫県たつの市御津町の室津付近)で行われた。行家は敗れて河内に逃れ、その後も義仲と対立を続けた。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、628–630頁(コマ343–344)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日