平家物語 巻第八
瀬尾最後の事
北陸で生け捕られた平家方の瀬尾太郎兼康は、義仲に命を助けられ、倉光三郎成氏に預けられて仕えながら、ひそかに旧主のもとへ戻る機会をうかがっていた。義仲の備中下向の案内に立った兼康は、途中で倉光らを酒に酔わせて討ち、平家方の老兵を集めて福隆寺縄手に城を構える。今井四郎兼平に攻め破られて落ちのびる途中、追ってきた倉光次郎成澄を川の中で討ったが、太って走れない嫡子小太郎を見捨てきれずに引き返し、子を斬って敵中に駆け入り、討ち死にした。
- 1木木き曾曾そののの左左さ馬馬まののの頭頭かみこのこのこの由由よしををを聞聞ききききててて、、、やすからやすからやすからぬぬぬ事事ことなりなりなりとてとてとて、、、そのそのその勢勢せい一一いち萬萬まん餘餘よ騎騎きででで備備びっ中中ちゅうののの國國くにへへへ馳馳はせせせ下下くだるるる。。。こゝこゝここににに平平へい家家けののの御御み方方かたににに候候さぶらひひいけるけるける、、、備備びっ中中ちゅうののの國國くにののの住住じゅう人人にん瀨瀨せの尾尾おののの太太た郎郎ろう兼兼かね康康やすははは、、、聞聞きこゆるゆるゆる兵兵つわものにてにてにてありありありけれけれけれどもどもども、、、去去いんんんぬるぬるぬる五五ご月月がつ北北ほっ國國こくののの戰戰たたかひひいののの時時とき、、、運運うんややや盡盡つきききにににけんけんけん、、、加加か賀賀がののの國國くにののの住住じゅう人人にん倉倉くら光光みつののの次次じ郎郎ろう成成なり澄澄ずみががが手手てにににかゝつかゝつかかっててて、、、生生いけ捕捕どりにににこそこそこそせせせられられられけれけれけれ、、、そのそのその時時とき既既すでににに斬斬きらららるるるべかりべかりべかりしししををを、、、木木き曾曾そ殿殿どの、、、あつたらあつたらあったら男男おとこをををさうなうさうなうそうのう斬斬きるるるべきべきべきにににあらあらあらずずずとてとてとて、、、弟弟おとうと三三さぶ郎郎ろう成成なり氏氏うじににに預預あずけけけられられられてててぞぞぞ候候さぶらひひいけるけるける。。。人人ひとあひあひあい心心こころざまざまざま、、、まことまことまことににに優優ゆうなりなりなりけれけれければばば、、、倉倉くら光光みつももも懇懇ねんごろにににもてなしもてなしもてなしけりけりけり。。。蘇蘇そ子子し卿卿けいががが胡胡こ國國こくににに囚囚とらははわれれれ、、、李李り少少しょう卿卿けいががが漢漢かん朝朝ちょうへへへ歸歸かえらららざりざりざりしししががが如如ごとししし。。。遠遠とおくくく異異い國國こくにににつけつけつけるるる事事ことももも、、、昔昔むかしののの人人ひとののの悲悲かなしめしめしめりりりしししががが所所ところなりなりなりととといへいへいえりりり。。。韋韋おしかわののの鞴鞴たたき、、、毳毳かもののの幕幕はく、、、以以もっててて風風ふう雨雨うををを防防ふせぎぎぎ、、、羶羶なまぐさききき肉肉しし、、、酪酪らくののの漿漿つくりみず、、、以以もっててて饑饑き渴渴かつににに充充あつつつ。。。夜夜よるははは寢寢いぬるぬるぬる事事ことなくなくなく、、、晝晝ひるはははひねもすひねもすひねもすににに仕仕つかへへえててて、、、木木きををを伐伐きりりり、、、草草くさををを刈刈からららずずずととといふいふいう許許ばかりりりににに從從したがひひいつゝつゝつつ、、、いかにいかにいかにもももしてしてして敵敵かたきををを窺窺うかがひひい討討うつつっててて、、、今今いま一一いち度度ど舊舊きゅう主主しゅををを見見みばやばやばやととと思思おもひひい立立たちちちけるけるける、、、兼兼かね康康やすががが心心こころののの中中うちこそこそこそ恐恐おそろしけれろしけれろしけれ。。。
- 2あるあるある時時とき瀨瀨せの尾尾おののの太太た郎郎ろう、、、倉倉くら光光みつののの三三さぶ郎郎ろうにににいひいひいいけるけるけるははは、、、「「「去去いんんんぬるぬるぬる五五ご月月がつよりよりよりかひかひかいなきなきなき命命いのちををを助助たすけけけられられられ參參まいらせらせらせててて候候そうらへへえばばば、、、誰誰たれををを誰誰たれとととかかか思思おもひひいまゐらせまゐらせまいらせ候候そうろうべきべきべき。。。今今こん度度ど御御おん合合かっ戰戰せん候候そうらははわばばば、、、命命いのちをををばばばまづまづまず木木き曾曾そ殿殿どのににに奉奉たてまつらららんんん。。。それそれそれにににつきつきつき候候そうらひひいてててははは、、、先先せん年年ねん兼兼かね康康やすががが知知ち行行ぎょうししし候候そうらひひいししし備備びっ中中ちゅうののの瀨瀨せの尾尾おととといふいふいう所所ところははは、、、馬馬うまののの草草くさ飼飼かいよきよきよき所所ところにてにてにて候候そうろう。。。御御ご邊邊へん申申もうしししててて賜賜たまははわらららせせせ候候そうらへへえ、、、案案あん内内ない者者しゃせせせんんん。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、倉倉くら光光みつののの三三さぶ郎郎ろう、、、木木き曾曾そ殿殿どのにににこのこのこの由由よしををを申申もうすすす。。。木木き曾曾そ殿殿どの、、、「「「さてさてさてははは不不ふ便便びんののの事事ことをををももも申申もうすすす。。。ござんなれござんなれござんなれ、、、まことまことまことにににははは汝汝なんじ下下くだつつっててて、、、馬馬うまののの草草くさなどなどなどをををももも構構かまへへえさせさせさせよよよ。。。」」」とととぞぞぞのたまひのたまひのたまいけるけるける。。。
- 3倉倉くら光光みつののの三三さぶ郎郎ろう畏畏かしこまりまりまり承承うけたまわつつっててて、、、手手て勢勢ぜい三三さん十十じっ騎騎き許許ばかりりり、、、瀨瀨せの尾尾おののの太太た郎郎ろうををを相相あい具具ぐしししててて、、、備備びっ中中ちゅうののの國國くにへへへ馳馳はせせせ下下くだるるる。。。瀨瀨せの尾尾おががが嫡嫡ちゃく子子し小小こ太太た郎郎ろう宗宗むね康康やすははは平平へい家家けののの御御み方方かたににに候候さぶらひひいけるけるけるががが、、、父父ちちががが木木き曾曾そ殿殿どのよりよりより暇暇いとま賜賜たまははわつつっててて下下くだるるるととと聞聞きいいいててて、、、年年とし頃頃ごろののの郎郎ろう等等どうどもどもども催催もよおししし集集あつめめめててて、、、そのそのその勢勢せい百百ひゃく騎騎き許許ばかりりりででで、、、父父ちちががが迎迎むかひひいににに上上のぼりりりけるけるけるががが、、、播播はり磨磨まののの國國こ府府うででで行行ゆききき逢逢おうううたりたりたり。。。それそれそれよりよりよりうちうちうちつれつれつれててて下下くだるるる程程ほどににに、、、備備び前前ぜんののの國國くに三三みつ石石いしののの宿宿しゅくににに止止とまつまつまったりたりたりけるけるける夜夜よ、、、瀨瀨せの尾尾おががが相相あい知知しつつったるたるたる者者もの共共ども、、、酒酒さけををを持持もたたたせせせ來來きたりりり集集あつまりまりまり、、、夜夜よもすがらもすがらもすがら酒酒さかもりもりもりしししけるけるけるががが、、、倉倉くら光光みつががが勢勢せい三三さん十十じっ騎騎き許許ばかりりりををを強強しひひい臥臥ふせせせててて、、、起起おこしししももも立立たてててずずず、、、倉倉くら光光みつののの三三さぶ郎郎ろうををを始始はじめめめとととしてしてして、、、一一いち々々いちみなみなみな刺刺さししし殺殺ころしししてててけるけるける。。。備備び前前ぜんののの國國くにははは十十じゅう郎郎ろう藏藏くら人人んどののの國國くになりなりなりけりけりけり。。。そのそのその代代だい官官かんののの國國こ府府うにににありありありけるけるけるをををももも、、、やがてやがてやがておしおしおし寄寄よせせせててて討討うつつってててけりけりけり。。。
- 4瀨瀨せの尾尾おののの太太た郎郎ろう申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「兼兼かね康康やすこそこそこそ木木き曾曾そ殿殿どのよりよりより暇暇いとま賜賜たまははわつつっててて、、、これこれこれまでまでまでまかりまかりまかり下下くだつつったれたれたれ。。。平平へい家家けににに御御おん志志こころざし思思おもひひい參參まいらせらせらせんんん人人ひと々々びとははは、、、今今こん度度ど木木き曾曾そ殿殿どのののの下下くだりりり給給たまふふうににに、、、矢矢や一一ひとつつつ射射いかけかけかけ奉奉たてまつれれれややや。。。」」」ととと披披ひ露露ろうしししたりたりたりけれけれければばば、、、備備び前前ぜん、、、備備びっ中中ちゅう、、、備備びん後後ご、、、三三さん箇箇か國國こくののの兵兵つわものどもどもども、、、然然しかかるかるかるべきべきべき馬馬うま、、、物物もの具具のぐ、、、所所しょ從從じゅうなどなどなどをををばばば平平へい家家けののの御御み方方かたへへへ參參まいらせらせらせててて、、、休休やすみみみゐゐいたりたりたりけるけるける老老ろう者者しゃどもどもども、、、瀨瀨せの尾尾おににに催催もよおささされれれててて、、、或或あるいははは柿柿かきののの直直ひた垂垂たれにににつめつめつめ紐紐ひもししし、、、或或あるいははは布布ぬのののの小小こ袖袖そでににに東東あずま折折おりししし、、、破破やぶれれれ腹腹はら巻巻まき綴綴つづりりり著著き、、、山山やま靱靱うつぼ、、、竹竹たけ箙箙えびらににに矢矢や少少しょう々々しょうさしさしさし、、、かきかきかき負負おひ〳〵ひ〳〵いかきおい、、、都都つ合合ごうそのそのその勢勢せい二二に千千せん餘餘よ人人にん、、、瀨瀨せの尾尾おががが館館たちへへへ馳馳はせせせ集集あつまるまるまる。。。備備び前前ぜんののの國國くに福福ふく隆隆りゅう寺寺じ繩繩なわ手手て、、、笹笹ささのののせまりせまりせまりををを城城じょう郭郭かくににに構構かまへへえててて口口くち二二に丈丈じょう、、、深深ふかさささ二二に丈丈じょうににに堀堀ほりををを掘掘ほりりり、、、搔搔かい楯楯だてかきかきかき、、、高高たか櫓櫓やぐらししし、、、逆逆さか木木もぎ引引ひきききててて待待まちちちかけかけかけたりたりたり。。。
- 5十十じゅう郎郎ろう藏藏くら人人んどののの代代だい官官かん、、、瀨瀨せの尾尾おににに討討うたたたれれれててて、、、そのそのその下下げ人人にんののの逃逃にげげげててて京京きょうへへへ上上のぼるるるががが、、、播播はり磨磨まととと備備び前前ぜんののの境境さかいなるなるなる船船ふな坂坂さか山山やまにてにてにて、、、木木き曾曾そ殿殿どのににに行行ゆきききあひあひあい奉奉たてまつりりり、、、このこのこの由由よしかくかくかくととと申申もうしししけれけれければばば、、、木木き曾曾そ殿殿どの、、、「「「にくからにくからにくからんんん瀨瀨せの尾尾おめめめををを斬斬きつつっててて捨捨すつつつべかりべかりべかりつるつるつるものものものををを、、、手手て延延のびにににしてしてしてたばからたばからたばかられれれぬるぬるぬる事事ことこそこそこそやすからやすからやすからねねね。。。」」」ととと後後こう悔悔かいせせせられられられけれけれければばば、、、今今いま井井いののの四四し郎郎ろうががが申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「きやつきやつきゃつががが面面つら魂魂だましい、、、たゞたゞただ者者ものとととははは見見みえええ候候そうらははわずずず。。。千千ち度度たび斬斬きらららんんんととと申申もうししし候候そうらひひいしししももも、、、こゝこゝここ候候そうろうぞぞぞかしかしかし。。。さりさりさりながらながらながら何何なに程程ほどののの事事ことかかか候候そうろうべきべきべき。。。兼兼かね平平ひらまづまづまずまかりまかりまかり向向むかつつっててて見見み候候そうらははわんんん。。。」」」とてとてとて、、、そのそのその勢勢せい三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きででで備備び前前ぜんののの國國くにへへへ馳馳はせせせ下下くだるるる。。。
- 6備備び前前ぜんののの國國くに福福ふく隆隆りゅう寺寺じ繩繩なわ手手てははは、、、はたばりはたばりはたばり弓弓ゆん杖杖づえ一一ひと杖杖つえばかりばかりばかりにてにてにて、、、遠遠とおさささははは西西さい國國こく道道みちののの一一いち里里りなりなりなり。。。左左さ右右ゆうははは深深ふか田田たにてにてにて馬馬うまののの足足あしももも及及およばばばねねねばばば、、、三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きががが心心こころははは前前まえににに進進すすめめめどもどもども、、、力力ちから及及およばばばずずず、、、馬馬うま次次し第第だいにににぞぞぞ歩歩あゆままませせせけるけるける。。。今今いま井井いののの四四し郎郎ろう押押おし寄寄よせせせててて見見みけれけれければばば、、、瀨瀨せの尾尾おののの太太た郎郎ろうははは急急いそぎぎぎ高高たか櫓櫓やぐらににに走走はしりりり上上あがりりり、、、大大だい音音おん聲聲じょうをををあげあげあげててて、、、「「「去去いんんんぬるぬるぬる五五ご月月がつよりよりより、、、かひかひかいなきなきなき命命いのちををを助助たすけけけられられられ參參まいらせらせらせててて候候そうろう、、、各各おのおのののの芳芳ほう志志しにににははは、、、これこれこれをををこそこそこそ用用よう意意い仕仕つかまつつつっててて候候そうらへへえ。。。」」」とてとてとて、、、二二に十十じゅう四四しさいさいさいたるたるたる矢矢やををを、、、さしさしさしつめつめつめひきひきひきつめつめつめ、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに射射いるるる。。。今今いま井井いののの四四し郎郎ろう、、、宮宮みや崎崎ざき三三さぶ郎郎ろう、、、海海うん野野の、、、望望もち月月づき、、、諏諏す訪訪わ、、、藤藤ふじ澤澤さわなどなどなどいふいふいう一一いち人人にん當當とう千千ぜんののの兵兵つわものどもどもども、、、これこれこれををを事事ことととともももせせせずずず、、、兜兜かぶとののの錏錏しころををを傾傾かたぶけけけ、、、射射い殺殺ころさささるゝるゝるる人人にん馬馬ばをををばばば、、、取取とり入入いれれれ引引ひき入入いれれれ、、、堀堀ほりををを埋埋うずめめめ、、、或或あるいははは左左そ右右うののの深深ふか田田たにににうちうちうち入入いれれれててて、、、馬馬うまののの草草くさわきわきわき鞅鞅むながいつくしつくしつくし、、、太太ふと腹腹はらににに立立たつつつ所所ところをををももも事事ことととともももせせせずずず、、、簇簇むらめめめかいかいかいててておしおしおし寄寄よせせせ、、、或或あるいははは谷谷たにふけふけふけをををももも嫌嫌きらははわずずず、、、驅驅かけけけ入入いり〳〵り〳〵りかけいり、、、をめきをめきおめき叫叫さけんんんででで攻攻せめめめ入入いりりりけれけれければばば、、、瀨瀨せの尾尾おががが方方かたののの兵兵つわものどもどもども、、、助助たすかるかるかる者者ものははは少少すくなくなくなく、、、討討うたたたるゝるゝるる者者ものぞぞぞ多多おおかりかりかりけるけるける。。。
- 7夜夜よににに入入いつつっててて、、、瀨瀨せの尾尾おががが賴賴たのみみみきつきつきったるたるたる笹笹ささのののせまりせまりせまりののの城城じょう郭郭かくををを破破やぶららられれれててて、、、叶叶かなははわじじじとととややや思思おもひひいけんけんけん、、、引引ひき退退しりぞくくく。。。備備びっ中中ちゅうののの國國くに板板いた倉倉くら川川がわののの端端はたににに、、、搔搔かい楯楯だてかいかいかいててて待待まちちちかけかけかけたりたりたり。。。今今いま井井い四四し郎郎ろうやがてやがてやがてつゞいつゞいつづいててて攻攻せめめめけれけれければばば、、、瀨瀨せの尾尾おががが方方かたののの兵兵つわものどもどもども、、、山山やま靱靱うつぼ、、、竹竹たけ箙箙えびらににに矢矢や種種だねのののあるあるあるほどほどほどこそこそこそ防防ふせぎぎぎけれけれけれ、、、矢矢や種種だねみなみなみな盡盡つきききけれけれければばば、、、力力ちから及及およばばばずずず、、、われわれわれ先先さきにににとととぞぞぞ落落おちちち行行ゆきききけるけるける。。。瀨瀨せの尾尾おののの太太た郎郎ろうたゞたゞただ主主しゅ從從じゅう三三さん騎騎きにににうちうちうちなさなさなされれれ、、、板板いた倉倉くら川川がわののの端端はたににに著著ついいいててて、、、綠綠みどり山山やまののの方方かたへへへ落落おちちちぞぞぞゆくゆくゆく。。。
- 8去去いんんんぬるぬるぬる五五ご月月がつ、、、北北ほっ國國こくにてにてにて瀨瀨せの尾尾おををを生生いけ捕捕どりにににしししたりたりたりけるけるける倉倉くら光光みつののの次次じ郎郎ろう成成なり澄澄ずみははは、、、弟弟おとうとののの三三さぶ郎郎ろう成成なり氏氏うじををを討討うたたたせせせててて、、、やすからやすからやすからずずずややや思思おもひひいけんけんけん、、、今今こん度度どもももまたまたまた瀨瀨せの尾尾おめめめにににおいおいおいてててははは生生いけ捕捕どりにににせせせんんんとてとてとて、、、たゞたゞただ一一いっ騎騎き羣羣ぐんににに拔拔ぬけけけててて追追おつつっててて行行ゆくくく。。。あはひあはひあわい一一いっ町町ちょうばかりばかりばかりににに追追おつつつつきつきっつき、、、「「「あれあれあれはははいかにいかにいかに瀨瀨せの尾尾おとととこそこそこそ見見みれれれ。。。まさなうまさなうまさのうももも敵敵かたきににに後後うしろををを見見みするするするものものものかなかなかな。。。返返かえせせせややや返返かえせせせ。。。」」」ととと詞詞ことばをををかけかけかけけれけれければばば、、、瀨瀨せの尾尾おののの太太た郎郎ろうははは板板いた倉倉くら川川がわををを西西にしへへへ渡渡わたすすすががが、、、川川かわ中中なかににに控控ひかへへえててて待待まちちちかけかけかけたりたりたり。。。倉倉くら光光みつののの次次じ郎郎ろう、、、鞭鞭むち鐙鐙あぶみをををあはせあはせあわせててて追追おつつつつきつきっつき、、、おしおしおしならべならべならべてててむずむずむずととと組組くんんんででで、、、どうどうどうととと落落おつつつ。。。互互たがいににに劣劣おとらららぬぬぬ大大だい力力ぢからででではははありありあり、、、上上うえににになりなりなり、、、下下したににになりなりなり、、、轉轉ころびびびあひあひあいけるけるけるががが、、、河河かわ岸岸ぎしににに淵淵ふちのののありありありけるけるけるににに轉轉ころびびび入入いりりりぬぬぬ。。。倉倉くら光光みつははは無無ぶ水水すい練練れん、、、瀨瀨せの尾尾おははは屈屈くっ竟竟きょうののの水水すい練練れんにてにてにてありありありけれけれければばば、、、水水みずののの底底そこにてにてにて倉倉くら光光みつががが腰腰こしののの刀刀かたなをををぬきぬきぬき、、、鎧鎧よろいののの草草くさ摺摺ずり引引ひき上上あげげげててて、、、柄柄つかももも拳拳こぶしももも通通とおれ〳〵れ〳〵れとおれととと、、、三三み刀刀たちさいさいさいててて首首くびををを取取とるるる。。。
- 9瀨瀨せの尾尾おののの太太た郎郎ろうわがわがわが馬馬うまをををばばば乘乘のりりり損損そんじじじたりたりたりけれけれければばば、、、倉倉くら光光みつががが馬馬うまにににうちうちうち乘乘のつつっててて落落おちちちててて行行ゆくくく。。。嫡嫡ちゃく子子し小小こ太太た郎郎ろう宗宗むね康康やすははは年年としははは二十二十はたちににになりなりなりけれけれけれどもどもども、、、あまりあまりあまりににに太太ふとつつっててて、、、一一いっ町町ちょうととともももえええ走走はしらららずずず、、、これこれこれををを見見み捨捨すてててててて、、、瀨瀨せの尾尾おははは二二に十十じゅう餘餘よ町町ちょうぞぞぞ延延のびびびたりたりたりけるけるける。。。瀨瀨せの尾尾おののの太太た郎郎ろう郎郎ろう黨黨どうにににいひいひいいけるけるけるははは、、、「「「日日ひ頃頃ごろははは千千せん萬萬まんののの敵敵かたきににに逢逢おうううててて軍軍いくさするするするにににははは、、、四四し方方ほう晴晴はれれれててて覺覺おぼゆるゆるゆるががが、、、今日今日きょうははは小小こ太太た郎郎ろう宗宗むね康康やすををを棄棄すてててててて行行ゆけけけばばばにににやややあらあらあらんんん、、、一一いっ向向こう先先さきががが闇闇くろうううててて見見みえええぬぬぬなりなりなり。。。今今こん度度どののの軍軍いくさににに命命いのち生生いきききててて、、、二二ふた度度たび平平へい家家けののの御御み方方かたへへへ參參まいりりりたりたりたりとととももも、、、兼兼かね康康やすははは六六ろく十十じゅうにににあまつあまつあまっててて、、、いくいくいくほどほどほど生生いかかかうううととと思思おもうううててて、、、たゞたゞただ一一ひと人人りあるあるある子子こををを棄棄すてててててて、、、これこれこれまでまでまで遁遁のがれれれ參參まいりりりたるたるたるらんらんらんなどなどなど、、、同同どう隷隷れいどもどもどもにににいはいはいわれれれんんん事事ことこそこそこそ口口くち惜惜おしけれしけれしけれ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、郎郎ろう黨黨どう、、、「「「さささ候候そうらへへえばばばこそこそこそ、、、たゞたゞただ御御ご一一いっ所所しょででで、、、いかにいかにいかにもももならならならせせせ給給たまへへえととと申申もうしししつるつるつるははは、、、こゝこゝここ候候そうろうぞぞぞかしかしかし。。。返返かえさささせせせたまへたまへたまえ。。。」」」とてとてとて、、、またまたまた取取とつつっててて返返かえすすす。。。
- 10案案あんののの如如ごとくくくににに小小こ太太た郎郎ろう宗宗むね康康やすははは、、、足足あしかんかんかんばかりばかりばかりににに腫腫はれれれててて、、、伏伏ふせせせりりりたるたるたる所所ところへへへ、、、瀨瀨せの尾尾おののの太太た郎郎ろう取取とつつっててて返返かへししし、、、急急いそぎぎぎ馬馬うまよりよりより飛飛とんんんででで下下おりりり、、、小小こ太太た郎郎ろうががが手手てををを取取とつつっててて、、、「「「汝汝なんじととと一一いっ所所しょでででいかにいかにいかにもももならならならんんんととと思思おもふふう爲爲ためににに、、、これこれこれまでまでまで歸歸かえりりりたるたるたるはははいかにいかにいかに。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、小小こ太太た郎郎ろう涙涙なみだをををはら〳〵はら〳〵はらはらととと流流ながいいいててて、、、「「「たとひたとひたといこのこのこの身身みこそこそこそ不不ぶ器器き量量りょうににに候候そうらへへえばばば、、、こゝこゝここにてにてにて自自じ害害がいををを仕仕つかまつりりり候候そうろうとととももも、、、われわれわれ故故ゆえ御御おん命命いのちをををさへさへさへ失失うしなひひいまゐらせまゐらせまいらせんんん事事こと、、、五五ご逆逆ぎゃく罪罪ざいにににややや候候そうらははわんんんずらんずらんずらん。。。たゞたゞただとう〳〵とう〳〵とうとう延延のびびびさせさせさせ給給たまへへえ。。。」」」ととといひいひいいけれけれけれどもどもども、、、思思おもひひい切切きつつってててんんん上上うえはははとてとてとて、、、休休やすみみみゐゐいたりたりたりけるけるける所所ところににに、、、またまたまた新新あら手手てののの源源げん氏氏じ五五ご十十じっ騎騎き許許ばかりりりででで出出いででで來來くるるる。。。瀨瀨せの尾尾おののの太太た郎郎ろう、、、射射い殘殘のこしししたるたるたる八八や筋筋すじののの矢矢やををを、、、さしさしさしつめつめつめ引引ひきききつめつめつめ、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに射射いるるる。。。生生しょう死死じははは知知しらららずずず、、、矢矢や庭庭にわににに敵敵かたき八八はち騎騎き射射い落落おとししし、、、そのそのその後後のち太太た刀刀ちををを拔拔ぬいいいててて、、、まづまづまず小小こ太太た郎郎ろうががが首首くびふつふつふつととと打打うち落落おとししし、、、敵敵かたきののの中中なかへへへかけかけかけ入入いりりり、、、豎豎たてざまざまざま横横よこざまざまざま、、、蜘蜘く蛛蛛も手手で、、、十十じゅう文文もん字字じににに驅驅かけけけまはりまはりまわり、、、さん〴〵さん〴〵さんざんににに戰戰たたかひひい、、、敵敵かたきあまたあまたあまた討討うちちち取取とつつっててて、、、そこそこそこにてにてにて討討うち死死じにしてしてしてけりけりけり。。。郎郎ろう等等どうももも主主しゅにににちつちつちっとととももも劣劣おとらららずずず戰戰たたかひひいけるけるけるががが、、、痛痛いた手手で負負おうううててて生生いけ捕捕どりにににこそこそこそせせせられられられけれけれけれ。。。中中なか一一いち日日にちあつあつあってててやがてやがてやがて死死しににににににけりけりけり。。。かれかれかれららら主主しゅ從從じゅう三三さん人人にんががが首首くびをををばばば、、、備備びっ中中ちゅうののの國國くに鷺鷺さぎががが森森もりにににぞぞぞかけかけかけたりたりたりけるけるける。。。木木き曾曾そ殿殿どの、、、「「「あはれあはれあわれ剛剛こうののの者者ものややや、、、これこれこれらららががが命命いのちををを助助たすけけけててて見見みててて。。。」」」とととぞぞぞ宣宣のたまひひいけるけるける。。。
現代語訳
木曾左馬頭はこのことを聞いて、けしからぬことだといって、その勢一万余騎で備中国へ馳せ下った。ここに平家の味方をしていた備中国の住人瀬尾太郎兼康は、名高い武士であったが、去る五月の北国の戦いのとき、運が尽きたのであろうか、加賀国の住人倉光次郎成澄の手にかかって生け捕りにされていた。そのときすぐに斬られるはずであったのを、木曾殿が、惜しい男をむざむざと斬るべきではないといって、成澄の弟の三郎成氏に預けておかれていた。人当たりも心ばえもまことに立派だったので、倉光もねんごろにもてなした。蘇子卿(蘇武)が胡国に捕らわれ、李少卿(李陵)が漢の朝廷へ帰らなかったようなものである。遠く異国に身を置くことも、昔の人が悲しんだところであるという。なめし革の小屋、毛織りの幕で風雨を防ぎ、なまぐさい肉や乳の汁で飢えと渇きを満たした。兼康も夜は寝ることなく、昼は一日中仕えて、木を切り草を刈らないばかりに従いながら、なんとかして敵の隙をうかがって討ち、もう一度旧主に会いたいと思い立っていた、その心の中こそ恐ろしい。
あるとき瀬尾太郎が倉光三郎に言うには、「去る五月から、取るに足らない命を助けられておりますので、あなたがたのほかに誰を主と思いましょうか。今度合戦がありましたら、命はまず木曾殿に差し上げましょう。それにつけましても、先年兼康が知行しておりました備中の瀬尾という所は、馬の飼い葉のよい所でございます。あなたから申し上げていただいてくださいませ。案内をいたしましょう」と言ったので、倉光三郎は木曾殿にこのことを申した。木曾殿は「それは感心なことを申すものだ。そういうことなら、本当におまえが先に下って、馬の飼い葉なども用意させよ」とおっしゃった。
倉光三郎はかしこまって承り、手勢三十騎ほどで瀬尾太郎を連れて、備中国へ馳せ下った。瀬尾の嫡子小太郎宗康は平家の味方をしていたが、父が木曾殿から暇をもらって下ってくると聞いて、長年の郎等たちを呼び集め、その勢百騎ほどで父を迎えに上っていったところ、播磨の国府で行き会った。そこから連れ立って下るうちに、備前国三石の宿に泊まった夜、瀬尾の知り合いの者たちが酒を持たせてやって来て集まり、夜通し酒盛りをしたが、倉光の勢三十騎ほどに無理に酒を勧めて酔いつぶし、起き上がらせもせずに、倉光三郎をはじめとして一人残らず刺し殺してしまった。備前国は十郎蔵人の知行国であった。その代官が国府にいたのも、すぐに押し寄せて討ってしまった。
瀬尾太郎が言いふらすには、「兼康は木曾殿から暇をもらって、ここまで下ってきたのだ。平家に心を寄せ申す人々は、今度木曾殿が下って来られるときに、矢を一本でも射かけ申せ」と触れ回ったので、備前・備中・備後三か国の武士たちのうち、しかるべき馬や武具や従者などは平家の味方に差し出して、家で休んでいた老人たちが、瀬尾に誘われて、柿色の直垂にくくり紐をしめた者もあり、布の小袖を東国風に短く折った者もあり、破れた腹巻をつづり合わせて着て、山靱や竹箙に矢を少しばかり差して背負い背負いして、合わせてその勢二千余人が瀬尾の館へ馳せ集まった。備前国の福隆寺縄手の、笹の生い茂った狭い所を城郭に構えて、口幅二丈、深さ二丈に堀を掘り、楯を並べ、高櫓を組み、逆茂木を引いて待ちかまえた。
十郎蔵人の代官が瀬尾に討たれて、その下人が逃げて京へ上る途中、播磨と備前の境の船坂山で木曾殿に行き会い、このことを申したので、木曾殿は「憎い瀬尾めを斬って捨てるべきだったのに、ぐずぐずしてだまされたのが腹立たしい」と後悔されたので、今井四郎が申すには、「あいつの面構えは、ただ者とは見えませんでした。何度も斬ろうと申しましたのも、そのためでございます。けれども何ほどのことがありましょう。兼平がまず向かってみましょう」といって、その勢三千余騎で備前国へ馳せ下った。
備前国の福隆寺縄手は、道幅が弓一張りほどしかなく、長さは西国道の一里ほどである。左右は深田で馬の足も立たないので、三千余騎の心は前へはやっても、どうにもならず、馬にまかせて歩ませた。今井四郎が押し寄せて見ると、瀬尾太郎は急いで高櫓に駆け上り、大音声をあげて、「去る五月から取るに足らない命を助けていただきましたが、おのおののご厚意には、これをこそ用意しております」といって、二十四本差した矢を次々とつがえて引きしぼり、さんざんに射た。今井四郎・宮崎三郎・海野・望月・諏訪・藤沢などという一騎当千の武士たちは、これをものともせず、兜の錏を傾けて、射殺される人や馬を取り入れ引き入れして堀を埋め、あるいは左右の深田に乗り入れて、馬の胸がいまで沈み、太腹まで浸かるのもものともせず、一団となって押し寄せ、谷間の湿地をも嫌わず駆け入り駆け入り、わめき叫んで攻め入ったので、瀬尾方の兵たちは、助かる者は少なく、討たれる者が多かった。
夜になって、瀬尾が頼みきっていた笹の狭間の城郭を破られて、もうかなわないと思ったのであろうか、引き退いた。備中国板倉川の岸に楯を並べて待ちかまえた。今井四郎がすぐに続いて攻めると、瀬尾方の兵たちは、山靱や竹箙に矢のある間は防いだが、矢がみな尽きてしまうと、力及ばず、われ先にと逃げて行った。瀬尾太郎はただ主従三騎にまで討ちへらされ、板倉川の岸に着いて、緑山の方へ落ちていった。
去る五月、北国で瀬尾を生け捕りにした倉光次郎成澄は、弟の三郎成氏を討たれて、腹立たしく思ったのであろうか、今度もまた瀬尾めは生け捕りにしようといって、ただ一騎群れを抜けて追っていった。一町ほどの間に追いつき、「そこにいるのは瀬尾と見たぞ。みっともなくも敵に後ろを見せるものよ。返せ返せ」と声をかけたので、瀬尾太郎は板倉川を西へ渡りかけたが、川の中で馬を止めて待ちかまえた。倉光次郎は鞭と鐙を合わせて追いつき、馬を並べてむんずと組んで、どうと落ちた。互いに劣らぬ大力ではあり、上になり下になり転がり合ううちに、川岸の淵に転がりこんだ。倉光は泳げず、瀬尾は屈強の泳ぎ手であったので、水の底で倉光の腰の刀を抜き、鎧の草摺を引き上げて、柄も拳も通れとばかりに三刀刺して首を取った。
瀬尾太郎は自分の馬を乗りつぶしていたので、倉光の馬に乗って落ちていった。嫡子の小太郎宗康は二十歳になっていたが、あまりに太っていて一町も走れず、これを見捨てて瀬尾は二十余町も逃げのびた。瀬尾太郎が郎党に言うには、「ふだんは千万の敵と向かい合って戦うときも、あたりが晴れ晴れと見えるのに、今日は小太郎宗康を捨てて行くからであろうか、まったく行く先が暗くて見えない。今度の戦いで命が助かって、また平家の味方に参ったとしても、兼康は六十を過ぎて、あとどれほど生きようと思って、ただ一人の子を捨ててここまで逃げてきたのかなどと、朋輩たちに言われるのは無念だ」と言ったので、郎党は「そうでございますからこそ、ただご一緒にどうなりともなさいませと申したのは、そのためでございます。お引き返しください」といって、また取って返した。
案の定、小太郎宗康は足がひどく腫れて伏していたところへ、瀬尾太郎が取って返し、急いで馬から飛び降りて小太郎の手を取り、「おまえと一緒にどうなりともなろうと思って、ここまで帰ってきたのはどうだ」と言うと、小太郎は涙をはらはらと流して、「たとえこの身が無能でございますので、ここで自害いたしましょうとも、私のために父上のお命まで失わせ申すことは、五逆罪にあたりましょう。どうか早く早く逃げのびてください」と言ったが、思い切った以上はといって、休んでいたところに、また新手の源氏が五十騎ほどで現れた。瀬尾太郎は射残した八本の矢を次々とつがえて引きしぼり、さんざんに射る。生死はわからないが、たちどころに敵八騎を射落とし、その後太刀を抜いて、まず小太郎の首をふっと打ち落とし、敵の中へ駆け入り、縦横、四方八方に駆けめぐり、さんざんに戦い、敵を大勢討ち取って、そこで討ち死にした。郎等も主人に少しも劣らず戦ったが、深手を負って生け捕りにされた。一日おいて、まもなく死んだ。彼ら主従三人の首は、備中国鷺が森にかけられた。木曾殿は「ああ、剛の者よ。これらの命を助けておきたかったものを」とおっしゃった。
意訳
敵に命を助けられながら、ひそかに旧主のもとへ戻る機会を待ち続けた老武者瀬尾兼康の最期を語る章段である。蘇武や李陵の故事を引いて語られる兼康の忍従と、倉光の兄弟を謀って討つ執念は、恩と忠のはざまに生きる武士の恐ろしさを示している。
一度は逃げのびながら、太って走れない息子を見捨てられずに引き返し、自らの手で子の首を打って敵中に駆け入る兼康の姿は、父子の情の深さを強く印象づける。敵の義仲までが「あはれ剛の者や」と惜しんだ結びには、敵味方を超えて武勇と情をたたえる語り手のまなざしがある。
語釈・文法注
文法
- 「蘇子卿が胡國に囚はれ、李少卿が漢朝へ歸らざりしが如し」
- 前漢の蘇武は匈奴に捕らわれて十九年節を守り、李陵は匈奴に降って漢に帰らなかった。
- 「韋の鞴、毳の幕」
- 「韋」はなめし革、「鞴」は革の囲い、「毳」は鳥獣の細い毛で織った布。胡地の暮らしをいう、漢詩文の句。
- 「誰を誰とか思ひまゐらせ候べき」
- あなた方のほかに誰を主と思いましょうか。
- 「ござんなれ」
- 「にこそあるなれ」のつまった形。それならば、の意。
- 「東折し」
- 小袖の裾を東国風に短く折って着ること。
- 「はたばり弓杖一杖」
- 道幅が弓一張りの長さほどしかない。
- 「鞅つくし」
- 馬の胸にかける鞅の位置まで泥に沈むこと。
- 「谷ふけ」
- 谷間の湿地。
- 「無水練」
- 泳ぎができないこと。
- 「五逆罪」
- 父母を殺すなどの五つの重罪。父を自分のために死なせることをいう。
- 「思ひ切つてん上は」
- 覚悟を決めてしまった以上は。
解説
瀬尾太郎兼康は備中国瀬尾(岡山市)の武士で、平家の家人として知られた。寿永二年(1183)十月、義仲の西国下向を前に備前で兵を挙げ、福隆寺縄手(岡山市北区)に城を構えたが、今井兼平に攻められて討ち死にした。
兼康の最期は、能「瀬尾」の題材ともなった。「瀬尾最後」は、平家方の地方武士の忠義と親子の情を描いた章段として、とくに人々の心を打ってきた。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、623–628頁(コマ340–343)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日