平家物語 巻第八
征夷将軍の院宣の事
鎌倉の頼朝は、居ながらにして征夷将軍の院宣を下された。頼朝は鶴岡八幡宮の若宮の拝殿で院宣を受けることにし、三浦介義澄に受け取らせた。院宣の使い中原康定は、砂金百両や衣、馬などの手厚いもてなしを受け、翌日頼朝と対面する。頼朝は背は低いが容貌優美で、言葉もはっきりしていた。頼朝は義仲・行家の振る舞いを非難し、秀衡・佐竹の追討の院宣を求め、康定を帰すときには鎌倉から鏡の宿まで宿ごとに米を置かせた。
- 1さるさるさる程程ほどににに鎌鎌かま倉倉くらののの前前さきののの右右う兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ賴賴より朝朝とも、、、武武ぶ勇勇ようののの名名めい譽譽よ長長ちょうじじじ給給たまへへえるるるににに依依よつつっててて、、、ゐゐいながらながらながら征征せい夷夷い將將しょう軍軍ぐんののの院院いん宣宣ぜんををを下下くださささるるる。。。御御おん使使つかいははは左左さ史史し生生しょう中中なか原原はらののの康康やす定定さだとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。十十じゅう月月がつ四四よっ日日かののの日日ひ關關かん東東とうへへへ下下げ著著ちゃく。。。兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どののたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「抑抑そもそも賴賴より朝朝とも武武ぶ勇勇ようののの名名めい譽譽よ長長ちょうぜるぜるぜるににに依依よつつっててて、、、ゐゐいながらながらながら征征せい夷夷い大大たい將將しょう軍軍ぐんののの院院いん宣宣ぜんををを蒙蒙こうむるるる。。。さればさればされば私私わたくしにてにてにてはははいかでいかでいかでかかか請請うけ取取とりりり奉奉たてまつるるるべきべきべき。。。若若わか宮宮みやののの拜拜はい殿殿でんにににしてしてして請請うけ取取とりりり奉奉たてまつるるるべしべしべし。。。」」」とてとてとて、、、若若わか宮宮みやへへへこそこそこそ參參まいりりり向向むかははわれれれけれけれけれ。。。
- 2八八はち幡幡まんははは鶴鶴つるががが岡岡をかににに立立たたたたせせせ給給たまふふう。。。地地ち形形けい石石いわ淸淸し水水みずににに違違たがははわずずず。。。廻廻かい廊廊ろうありありあり、、、樓樓ろう門門もんありありあり、、、作作つくり道道みち十十じゅう餘餘よ町町ちょうををを見見み下下おろしししたりたりたり。。。そも〳〵そも〳〵そもそも院院いん宣宣ぜんをををばばば、、、誰誰たれしてしてしてかかか請請うけ取取とりりり奉奉たてまつるるるべきべきべきととと評評ひょう定定じょうありありあり。。。三三み浦浦うらののの介介すけ義義よし澄澄ずみしてしてして請請うけ取取とりりり奉奉たてまつるるるべしべしべし。。。そのそのその故故ゆえははは八八はっ箇箇か國國こくににに聞聞きこえええたるたるたる弓弓ゆみ矢矢や取取とりりり三三み浦浦うらののの平平へい太太た郎郎ろう爲爲ため繼繼つぐががが末末ばつ葉葉ようなりなりなり。。。父父ちち大大おお介介すけももも君君きみののの爲爲ためににに命命いのちををを棄棄すてててししし兵兵つわものなれなれなればばば、、、かのかのかの義義よし明明あきががが黄黄こう泉泉せんののの冥冥めい闇闇あんををを照照てらさささんんんがががためためためとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。院院いん宣宣ぜんののの御御おん使使つかい康康やす定定さだははは家家いえののの子子こ二二に人人にん、、、郎郎ろう等等どう十十じゅう人人にん具具ぐしししたりたりたり。。。三三み浦浦うらののの介介すけももも家家いえののの子子こ二二に人人にん、、、郎郎ろう等等どう十十じゅう人人にん具具ぐしししたりたりたりけりけりけり。。。二二に人人にんののの家家いえののの子子こははは和和わ田田だののの三三さぶ郎郎ろう宗宗むね實實ざね、、、比比ひ企企きののの藤藤とう四四し郎郎ろう能能よし員員かずなりなりなり。。。郎郎ろう等等どう十十じゅう人人にんをををばばば、、、大大だい名名みょう十十じゅう人人にんにしてにしてにして一一いち人人にんづゝづゝずつ、、、俄俄にはかににに仕仕し立立たてててられられられたりたりたり。。。三三み浦浦うらののの介介すけそのそのその日日ひははは褐褐かち衣衣んののの直直ひた垂垂たれににに黑黑くろ絲絲いと縅縅おどしののの鎧鎧よろい著著きててて、、、黑黑こく漆漆しつののの太太た刀刀ちをををはきはきはき、、、二二に十十じゅう四四しさいさいさいたるたるたる切切きり斑斑ふののの矢矢やおひおひおい、、、滋滋しげ籐籐どうののの弓弓ゆみ脇脇わきににに挾挾はさみみみ、、、兜兜かぶとをををばばばぬいぬいぬいででで高高たか紐紐ひもにににかけかけかけ、、、腰腰こしををを屈屈かがめめめててて院院いん宣宣ぜんををを請請うけ取取とりりり奉奉たてまつらららんんんとととすすす。。。
- 3左左さ史史し生生しょう申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「たゞたゞただ今今いま院院いん宣宣ぜん請請うけ取取とりりり奉奉たてまつらららんんんとととするするするははは誰誰たれ人人びとぞぞぞ、、、名名な乘乘のりりり給給たまへへえ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけののの字字じにににややや恐恐おそれれれけんけんけん、、、三三み浦浦うらののの介介すけとととははは名名な乘乘のらららずずずしてしてして、、、本本ほん名名みょう三三み浦浦うらののの荒荒あら次次じ郎郎ろう義義よし澄澄ずみとととこそこそこそ名名な乘乘のつつったれたれたれ。。。院院いん宣宣ぜんをををばばば蘭蘭らん箱箱ばこににに入入いれれれられられられたりたりたり。。。兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どのににに奉奉たてまつるるる。。。やゝやゝややあつあつあっててて蘭蘭らん箱箱ばこをををばばば返返かえささされれれけりけりけり。。。重重おもかりかりかりけれけれければばば、、、康康やす定定さだこれこれこれををを開開ひらきききててて見見みるるるににに、、、砂砂しゃ金金きん百百ひゃく兩兩りょう入入いれれれられられられたりたりたり。。。若若わか宮宮みやののの拜拜はい殿殿でんにににしてしてして康康やす定定さだににに酒酒さけををを勸勸すすめめめらるらるらる。。。齋齋さい院院いんののの次次じ官官かん陪陪はい膳膳ぜんすすす。。。五五ご位位い一一いち人人にん役役やく送送そうをををつとむつとむつとむ。。。馬馬うま三三さん匹匹びき引引ひかかかるるる。。。一一いっ匹匹ぴきににに鞍鞍くら置置おいいいたりたりたり。。。宮宮みやののの侍侍さぶらい狩狩か野野のののの工工く藤藤どう一一いち郎郎ろう祐祐すけ經經つねこれこれこれををを引引ひくくく。。。ふるきふるきふるき萱萱かや屋屋やをををしつらひしつらひしつらいててて康康やす定定さだををを入入いれれれらるらるらる。。。厚厚あつ綿綿わたののの衣衣きぬ二二に領領りょう、、、小小こ袖袖そで十十じっかさねかさねかさね、、、長長なが持持もちににに入入いれれれてててまうけまうけもうけたりたりたり。。。紺紺こん藍藍あい摺摺ずり、、、白白しろ布布ぬの千千せん端端たんををを積積つめめめりりり。。。杯杯はい盤盤ばんゆたかゆたかゆたかにににしてしてして美美び麗麗れいなりなりなり。。。
- 4次次つぎののの日日ひ兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけののの館館たちににに向向むかふふう。。。内内うち外外とににに侍侍さぶらいありありあり。。。共共ともににに十十じゅう六六ろく間間ままでまでまでありありありけりけりけり。。。外外と侍侍さぶらいにににははは家家いえののの子子こ、、、郎郎ろう等等どう肩肩かたををを雙雙ならべべべ、、、膝膝ひざををを組組くんんんでででなみなみなみゐゐいたりたりたり。。。内内うち侍侍さぶらいにににははは一一いち門門もんののの源源げん氏氏じ上上じょう座座ざしてしてして、、、末末ばつ座座ざにににははは八八はっ箇箇か國國こくののの大大だい名名みょう、、、小小しょう名名みょう居居いながれながれながれたりたりたり。。。源源げん氏氏じののの上上じょう座座ざにににははは康康やす定定さだをををすゑすゑすえらるらるらる。。。やゝやゝややあつあつあっててて寢寢しん殿殿でんにににむかふむかふむかう。。。高高こう麗麗らい緣緣べりののの疊疊たたみををを敷敷しききき、、、廣廣ひろ廂廂びさしにににははは、、、紫紫むらさき緣緣べりののの疊疊たたみををを敷敷しきききててて康康やす定定さだをををすゑすゑすえらるらるらる。。。御御み簾簾す高高たかくくく捲捲まききき上上あげげげさせさせさせててて、、、兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけ殿殿どの出出いでででられられられたりたりたり。。。そのそのその日日ひははは布布ほう衣衣いににに立立たて烏烏え帽帽ぼ子子しなりなりなり。。。顏顏かお大大おおきききにににしてしてして、、、背背せい低低ひきかりかりかりけりけりけり。。。容容よう貌貌ぼう優優ゆう美美びにににしてしてして言言げん語語ご分分ぶん明明みょうなりなりなり。。。
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- 6康康やす定定さだやがてやがてやがて今日今日きょう上上しょう洛洛らくののの由由よしををを申申もうすすす。。。今日今日きょうばかりばかりばかりははは逗逗とう留留りゅうあるあるあるべしべしべしとてとてとて、、、留留とどめめめらるらるらる。。。次次つぎののの日日ひまたまたまた兵兵ひょう衞衞えののの佐佐すけののの館館たちへへへ向向むかふふう。。。萌萌もえ黄黄ぎ絲絲いと縅縅おどしののの腹腹はら巻巻まき一一いち領領りょう、、、白白しろううう作作つくつつったるたるたる太太た刀刀ち一一ひと振振ふり、、、滋滋しげ籐籐どうののの弓弓ゆみににに野野の矢矢や添添そへへえててて賜賜たぶぶぶ。。。馬馬うま十十じゅう三三さん匹匹びき引引ひかかかるるる。。。三三さん匹匹びきににに鞍鞍くら置置おいいいたりたりたり。。。十十じゅう二二に人人にんののの家家いえののの子子こ郎郎ろう等等どう共共どもにににももも直直ひた垂垂たれ、、、小小こ袖袖そで、、、大大おお口口くち、、、馬馬うま、、、物物もの具具のぐににに及及およべべべりりり。。。馬馬うまだにだにだにももも三三さん百百びゃく匹匹ぴきまでまでまでありありありけりけりけり。。。鎌鎌かま倉倉くら出出いでののの宿宿しゅくよりよりよりももも、、、近近おう江江みののの國國くに鏡鏡かがみののの宿宿しゅくににに至至いたるるるまでまでまで、、、宿宿しゅく々々しゅくににに十十じっ石石こくづゝづゝずつののの米米こめををを置置おかかかれれれたりたりたりけれけれければばば、、、澤澤たく山山さんなるなるなるににによつよつよっててて、、、施施せ行行ぎょうににに引引ひきききけるけるけるとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
現代語訳
そうするうちに、鎌倉の前右兵衛佐頼朝は、武勇の名声が高いので、鎌倉に居ながらにして征夷将軍の院宣を下された。御使いは左史生中原康定と聞こえた。十月四日に関東へ下着した。兵衛佐殿がおっしゃるには、「そもそも頼朝は武勇の名声が高いので、居ながらにして征夷大将軍の院宣をこうむった。だから私宅でどうしてお受け取りできようか。若宮の拝殿でお受け取りしよう」といって、若宮へ参り向かわれた。
八幡宮は鶴が岡に鎮座されている。地形は石清水に違わない。回廊があり、楼門があり、作り道が十余町見下ろされる。そもそも院宣を誰に受け取らせようかと評定があった。三浦介義澄に受け取らせよう。そのわけは、八か国に聞こえた弓取りの三浦平太郎為継の子孫である。父の大介(義明)も君のために命を捨てた武士であるから、あの義明の冥途の闇を照らすためと聞こえた。院宣の御使い康定は家の子二人、郎等十人を連れていた。三浦介も家の子二人、郎等十人を連れていた。二人の家の子は和田三郎宗実と比企藤四郎能員である。郎等十人は、大名十人から一人ずつ出させて、急ごしらえで仕立てられた。三浦介はその日、褐衣の直垂に黒糸縅の鎧を着て、黒漆の太刀を佩き、二十四本差した切斑の矢を負い、滋籐の弓を脇に挟み、兜を脱いで高紐にかけ、腰をかがめて院宣を受け取ろうとした。
左史生が申すには、「ただ今院宣を受け取ろうとするのは誰か。名のられよ」と言ったので、兵衛佐の「佐(すけ)」の字に遠慮したのであろうか、三浦介とは名のらずに、本名の三浦荒次郎義澄と名のった。院宣は蘭箱(文箱)に入れられていた。兵衛佐殿に奉る。しばらくして蘭箱を返された。重かったので、康定がこれを開けて見ると、砂金百両が入れてあった。若宮の拝殿で康定に酒を勧められた。斎院の次官(親能)が給仕をする。五位の者一人が膳を運ぶ役をつとめた。馬三頭が引き出される。一頭には鞍が置いてあった。宮の侍の狩野工藤一郎祐経がこれを引いた。古い萱葺きの家をしつらえて康定を入れられた。厚綿の衣二領、小袖十重ねを長持に入れて用意してあった。紺藍摺、白布千端を積んである。酒肴はゆたかで美しかった。
次の日、康定は兵衛佐の館に向かう。内と外に侍所がある。どちらも十六間の広さであった。外の侍所には家の子・郎等が肩を並べ、膝を組んで居並んでいる。内の侍所には一門の源氏が上座について、末座には八か国の大名・小名が居並んでいた。源氏の上座に康定をすわらせた。しばらくして寝殿に向かう。高麗縁の畳を敷き、広廂には紫縁の畳を敷いて康定をすわらせた。御簾を高く巻き上げさせて、兵衛佐殿が出てこられた。その日は布衣に立烏帽子である。顔が大きく、背は低かった。容貌は優美で、言葉ははっきりしていた。
まず事情を一通り述べられた。「そもそも平家は頼朝の威勢を恐れて都を落ちた。その後に木曾義仲と十郎蔵人行家が都へ攻め入って、自分の手柄顔に官位を思いのままにし、そのうえ与えられた国を嫌い申すとはけしからぬことだ。また奥州の秀衡が陸奥守になり、佐竹冠者が常陸守になって、これも頼朝の命令に従わない。彼らをも急いで追討せよという院宣をいただきたい」と申された。康定は「すぐにここで名簿(臣従の証の名札)を差し上げたいのですが、今は御使いの身でございますので、都へ上ってから、すぐに書いて差し上げましょう。弟の史大夫重能もそのように申しております」と申したので、兵衛佐殿はあざ笑って、「今の頼朝の身として、おのおのの名簿など思いもよらない。けれどもそうしてくださるなら、そのように心得ておこう」とおっしゃった。
康定はすぐに今日上洛する旨を申した。今日だけは逗留せよといって引きとめられた。次の日また兵衛佐の館へ向かう。萌黄糸縅の腹巻一領、銀で飾った太刀一振、滋籐の弓に野矢を添えて与えられた。馬十三頭が引き出される。三頭には鞍が置いてあった。十二人の家の子・郎等にも、直垂・小袖・大口・馬・武具まで与えられた。馬だけでも三百頭にのぼった。鎌倉を出た最初の宿から近江国の鏡の宿に至るまで、宿ごとに十石ずつの米を置かせておかれたので、たくさんあったため、施しとして人々に分け与えたと聞こえた。
意訳
義仲の粗暴さと対照させて、頼朝の威儀と度量を描く章段である。院宣を若宮の拝殿で受け、使者を手厚くもてなし、帰りの道中の宿々に米を置かせる周到さは、東国の主としての頼朝の器量を示している。
三浦介義澄が「介」の名のりを避けたのは、頼朝の官名「佐(すけ)」と同じ音をはばかったためと語られる。こうした細部が、頼朝のもとで秩序が整いつつある鎌倉の様子を伝え、次の「猫間」で描かれる義仲の無骨さと鮮やかな対比をなしている。
語釈・文法注
文法
- 「ゐながら」
- 鎌倉に居たままで。都へ上らずに院宣を受けたことをいう。
- 「下著」
- 都から地方へ到着すること。
- 「父大介も君の爲に命を棄てし」
- 三浦大介義明は、治承四年(1180)の頼朝挙兵のとき、衣笠城で討ち死にした。
- 「兵衞の佐の字にや恐れけん」
- 頼朝の官名「すけ(佐)」と同じ「すけ(介)」を名のることをはばかった。
- 「蘭箱」
- 文書を入れる箱。
- 「名簿」
- 臣従のしるしに差し出す、自分の官位・姓名を書いた札。
- 「致されば」
- 底本どおり。「致さるれば」の意。
- 「白う作つたる太刀」
- 銀の金具で飾った太刀。
解説
『平家物語』は頼朝が寿永二年(1183)に征夷将軍の院宣を受けたと語るが、史実では頼朝が征夷大将軍に任じられたのは建久三年(1192)で、後白河法皇の没後である。寿永二年十月に頼朝が得たのは、東海・東山両道の支配を認める宣旨(寿永二年十月宣旨)であった。
頼朝の風貌を「顔大きにして、背低かりけり」と記すのは珍しく、実際に頼朝に会った人物の見聞にもとづく描写とも考えられている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、616–619頁(コマ337–338)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日