平家物語 巻第八
太宰府落ちの事
平家は小松殿の家人であった緒方惟義を資盛に説かせたが、惟義は従わず、院の命により平家を九州から追い出すと申し送った。時忠は帝の正統を説いて惟義を責めたが、惟義は三万余騎で大宰府に迫り、平家は雨の中を裸足で箱崎の津へ逃れ、山賀の城、豊前の柳が浦へと漂う。重盛の三男清経は月夜に笛を吹き、念仏して入水した。平家は知盛の知行国長門から船を得て四国へ渡り、讃岐の屋島に仮の内裏を造らせ、波の上で心細い日々を送った。
- 1さるさるさる程程ほどににに平平へい家家けははは筑筑つく紫紫しににに都都みやこををを定定さだめめめ、、、内内だい裏裏り造造つくらららるるるべしべしべしととと、、、公公く卿卿ぎょう僉僉せん議議ぎありありありしかしかしかどもどもども、、、惟惟これ義義よしががが謀謀む叛叛ほんににに依依よつつってててそれそれそれもももかなはかなはかなわずずず。。。新新しん中中ちゅう納納な言言ごん知知とも盛盛もり卿卿きょうののの意意い見見けんににに申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「かのかのかの緒緒お方方がたののの三三さぶ郎郎ろうははは小小こ松松まつ殿殿どのののの御御ご家家け人人にんなりなりなり。。。然然しかれれればばば君君きん達達だち御御ご一一いっ所所しょ向向むかははわせせせたまひたまひたまいててて、、、こしらへこしらへこしらえててて御御ご覽覽らんぜぜぜらるらるらるべうべうびょうもももややや候候そうろうらんらんらん。。。」」」ととと申申もうささされれれけれけれければばば、、、このこのこの儀儀ぎ最最もっとももも然然しかるるるべしべしべしとてとてとて、、、新新しん三三さん位位みののの中中ちゅう將將じょう資資すけ盛盛もり、、、そのそのその勢勢せい五五ご百百ひゃく餘餘よ騎騎き、、、豐豐ぶん後後ごののの國國くににににうちうちうち越越こえええ、、、やう〳〵やう〳〵ようようにににこしらへこしらへこしらえ宣宣のたまへへえどもどもども、、、惟惟これ義義よし從從したがひひい奉奉たてまつらららずずず。。。あまつさへあまつさへあまつさえ、、、「「「君君きん達達だちをををもももこれこれこれにてにてにて取取とりりりこめこめこめ參參まいらすらすらすべうべうびょう候候そうらへへえどもどもども、、、大大だい事事じののの中中なかののの小小しょう事事じなしなしなしとてとてとて、、、取取とりりりこめこめこめ參參まいらせらせらせずずずばばば、、、何何なに程程ほどのののことことことかかか候候そうろうべきべきべき。。。たゞたゞただ太太だ宰宰ざい府府ふへへへ歸歸かえらららせせせ給給たまひひいててて、、、御御ご一一いっ所所しょでででいかにいかにいかにもももならならならせせせ給給たまへへえ。。。」」」とてとてとて、、、おつおつおっ返返かへししし奉奉たてまつるるる。。。
- 2そのそのその後後のち、、、惟惟これ義義よしががが次次じ男男なん野野の尻尻じり次次じ郎郎ろう惟惟これ村村むらををを使使し者者しゃにてにてにて、、、太太だ宰宰ざい府府ふへへへ申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「平平へい家家けこそこそこそ重重じゅう恩恩おんののの君君きみにてにてにてまし〳〵まし〳〵ましまし候候そうらへへえばばば、、、兜兜かぶとをををぬぎぬぎぬぎ、、、弓弓ゆみののの弦弦つるをををはづいはづいはずいててて、、、降降こう人人にんににに參參まいるるるべくべくべく候候そうらへへえどもどもども、、、一一いち院院いんののの仰仰おおせせせにににははは、、、速速すみやかかかににに九九く國國こくののの中中うちををを追追おひひい出出いだししし奉奉たてまつるるるべきべきべき由由よし候候そうろう。。。」」」ととと申申もうししし送送おくりりりたりたりたりけれけれければばば、、、平平へい大大だい納納な言言ごん時時とき忠忠ただののの卿卿きょう緋緋ひ緒緒おくゝりくゝりくくりののの袴袴はかま、、、絲絲いと葛葛くずののの直直ひた垂垂たれ、、、立立たて烏烏え帽帽ぼ子子しにてにてにて、、、惟惟これ村村むらににに出出いででで向向むかひひいててて宣宣のたまひひいけるけるけるははは、、、「「「それそれそれわがわがわが君君きみははは天天てん孫孫そん四四し十十じゅう九九く世世せいののの正正しょう統統とう、、、神神じん武武む天天てん皇皇おうよりよりより人人にん皇皇のう八八はち十十じゅう一一いち代代だいににに當當あたらららせせせ給給たまふふう。。。さればさればされば天天てん照照しょう大大だい神神じん、、、正正しょう八八はち幡幡まん宮宮ぐうももも、、、わがわがわが君君きみをををこそこそこそ守守まもりりり參參まいらららさせさせさせ給給たまふふうらめらめらめ。。。なかんづくなかんづくなかんずく當當とう家家けははは、、、保保ほう元元げん、、、平平へい治治じよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、度度ど々々どののの逆逆げき亂亂らんををを鎭鎭しずめめめててて、、、九九きゅう州州しゅうののの者者ものどもどもどもをををばばば、、、みなみなみな内内うちざまざまざまへへへこそこそこそ召召めささされれれしかしかしか。。。然然しかるるるにににそのそのその恩恩おんををを忘忘わすれれれててて、、、東東とう國國ごく、、、北北ほっ國國こくののの兇兇きょう徒徒と等等ら、、、賴賴より朝朝とも、、、義義よし仲仲なか等等らににに語語かたらららはははれれれててて、、、しししおほせおほせおおせたらたらたらばばば國國くにををを預預あずけけけんんん、、、莊莊しょうをををたばたばたばんんんととと申申もうすすすををを、、、まことまことまことととと思思おもひひいててて、、、そのそのその鼻鼻はな豐豐ぶん後後ごががが下下げ知知じににに從從したがふふうらんらんらん事事ことこそこそこそ然然しかるるるべからべからべからねねね。。。」」」とととぞぞぞ宣宣のたまひひいけるけるける。。。豐豐ぶん後後ごののの國國こく司司し刑刑ぎょう部部ぶ卿卿きょう三三さん位位み賴賴より資資すけ卿卿きょうははは極極きわめめめててて鼻鼻はなののの大大おおきききなりなりなりけれけれければばば、、、かやうかやうかようにににははは宣宣のたまひひいけるけるけるなれなれなれ。。。
- 3惟惟これ村村むら歸歸かえつつっててて、、、父父ちちにににこのこのこの由由よしををを告告つげげげたりたりたりけれけれければばば、、、「「「こここはははいかにいかにいかに、、、昔昔むかしははは昔昔むかし、、、今今いまははは今今いま、、、そのそのその儀儀ぎならならならばばば九九く國國こくののの中中うちををを追追おひひい出出いだししし奉奉たてまつれれれややや。。。」」」とてとてとて、、、勢勢せい揃揃そろふるふるうるととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、源源げん大大たい夫夫ふののの判判ほう官官がん季季すえ貞貞さだ、、、攝攝つ津津のののの判判ほう官官がん守守もり澄澄ずみ、、、「「「向向きょう後後ご傍傍ほう輩輩ばいのののためためため奇奇き怪怪かいににに候候そうろう。。。召召めし捕捕とりりり候候そうらははわんんん。。。」」」とてとてとて、、、そのそのその勢勢せい三三さん千千ぜん餘餘よ騎騎きででで筑筑ちく後後ごののの國國くににににうちうちうち越越こえええ、、、高高たか野野のののの本本ほん莊莊じょうににに發發はっ向向こうしてしてして、、、一一いち日日にち一一いち夜夜や攻攻せめめめ戰戰たたかふふう。。。されどもされどもされども惟惟これ義義よしががが方方かたののの勢勢せい、、、雲雲うん霞霞かののの如如ごとくくくににに重重かさなれなれなればばば、、、力力ちから及及およばばばででで引引ひき退退しりぞくくく。。。
- 4平平へい家家けははは緒緒お方方がたののの三三さぶ郎郎ろう惟惟これ義義よしががが三三さん萬萬まん餘餘よ騎騎きののの勢勢せいにてにてにて、、、既既すでににに寄寄よすすすととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、取取とるるる物物ものももも取取とりりりあへあへあえずずず、、、太太だ宰宰ざい府府ふをををこそこそこそ落落おちちち給給たまへへえ。。。さしもさしもさしもたのもしかりたのもしかりたのもしかりつるつるつる天天てん滿滿まん天天てん神神じんののの注注し連連めのののあたりあたりあたりををを、、、心心こころ細細ぼそくくくももも立立たちちちわかれわかれわかれ、、、駕駕が輿輿よ丁丁ちょうもももなけれなけれなければばば、、、葱葱そう花花か鳳鳳ほう輦輦れんはははたゞたゞただ名名なをををのみのみのみ聞聞きこえええててて、、、主主しゅ上上しょう腰腰よう輿輿よににに召召めささされれれけりけりけり。。。國國こく母母もををを始始はじめめめ參參まいらせらせらせててて、、、やんごとなきやんごとなきやんごとなき女女にょう房房ぼうたちたちたちははは袴袴はかまののの裾裾すそををを高高たかくくく取取とりりり、、、大臣殿大臣殿おおいどの以以い下下げののの卿卿けい相相しょう雲雲うん客客かくははは指指さし貫貫ぬきののの側側そばををを高高たかくくく挾挾はさみみみ、、、徒徒かち跣跣はだ足足しででで水水みず城城きののの戸戸とををを出出いでででててて、、、わわわれれれ先先さきに〳〵に〳〵にわれさきにととと、、、箱箱はこ崎崎ざきののの津津つへへへこそこそこそ落落おちちち給給たまへへえ。。。折折おりふしふしふし下下くだるるる雨雨あめ車車しゃ軸軸じくののの如如ごとししし。。。吹吹ふくくく風風かぜ砂砂いさごををを揚揚あぐぐぐとととかやかやかや。。。落落おつるつるつる涙涙なみだ、、、ふるふるふる雨雨あめ、、、わきわきわきててていづれいづれいずれももも見見みえええざりざりざりけりけりけり。。。住住すみ吉吉よし、、、箱箱はこ崎崎ざき、、、香香か椎椎しい、、、宗宗むな像像かた伏伏ふししし拜拜おがみみみ、、、主主しゅ上上しょうたゞたゞただ舊舊きゅう都都とののの還還かん幸幸こうとととのみのみのみぞぞぞ祈祈いのららられれれけるけるける。。。垂垂たる水水み山山やま、、、鶉鶉うずら濱濱はまなどなどなどいふいふいうさかしきさかしきさかしき險險けん難難なんををを凌凌しのがががせせせ給給たまひひいててて、、、渺渺びょう々々びょうたるたるたる平平へい砂砂さへへへぞぞぞ赴赴おもむかかかれれれけるけるける。。。いついついつならはしならはしならわしののの御御おん事事ことなれなれなればばば、、、御御おん足足あしよりよりより出出いづるづるずる血血ちははは砂砂いさごををを染染そめめめ、、、紅紅くれないののの袴袴はかまははは色色いろをををましましまし、、、白白しろききき袴袴はかまははは裾裾すそ紅紅くれないにににぞぞぞなりなりなりにににけるけるける。。。
- 5かのかのかの玄玄げん弉弉ぞう三三さん藏藏ぞうののの流流りゅう沙沙さ葱葱そう嶺嶺れいををを凌凌しのがががれれれたりたりたりけんけんけん悲悲かなしみしみしみももも、、、これこれこれにににははは爭爭いかでででかかかまさるまさるまさるべきべきべき。。。それそれそれははは求求ぐ法法ほうのののためためためなれなれなればばば、、、自自じ他他たののの利利り益益やくもももありありありけんけんけん、、、これこれこれははは鬪鬪とう戰戰せんののの道道みちなれなれなればばば、、、來來らい世世せののの苦苦くるしみしみしみ、、、かつかつかつ思思おもふふうこそこそこそ悲悲かなしけれしけれしけれ。。。原原はら田田だののの大大たい夫夫ふ種種たね直直なおははは二二に千千せん餘餘よ騎騎きででで、、、京京きょうよりよりより平平へい家家けののの御御おん供供ともににに參參まいるるる。。。山山やま賀賀がののの兵兵ひょう藤藤どう次次じ秀秀ひで遠遠とお數數す千千せん騎騎ぎででで、、、平平へい家家けののの御御おん迎迎むかへへえににに參參まいりりりけるけるけるががが、、、種種たね直直なお、、、秀秀ひで遠遠とお以以もってててののの外外ほかににに不不ふ和和わなりなりなりけれけれければばば、、、種種たね直直なおははは惡惡あしかりしかりしかりなんなんなんとてとてとて、、、路路みちよりよりより引引ひき返返かえすすす。。。それそれそれよりよりより蘆蘆あし屋屋やののの津津つととといふいふいう所所ところををを過過すぎぎぎさせさせさせたまふたまふたまうにににももも、、、これこれこれははは都都みやこよりよりよりわれわれわれらららががが福福ふく原原はらへへへ通通かよひひいししし時時とき、、、朝朝あさ夕夕ゆう見見みなれなれなれししし里里さとののの名名ななれなれなればばばとてとてとて、、、いづれいづれいずれののの里里さとよりよりよりもももなつかしくなつかしくなつかしく、、、今今いま更更さらあはれあはれあわれをををぞぞぞ催催もよおささされれれけるけるける。。。新新しん羅羅ら、、、百百はく濟濟さい、、、高高こう麗麗らい、、、契契けい丹丹たん、、、雲雲くものののはてはてはて、、、海海うみのののはてはてはてまでまでまでももも、、、落落おちちち行行ゆかかかばやばやばやとととももも思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、波波なみ風風かぜ向向むこうううててて叶叶かなははわねねねばばば力力ちから及及およばばばずずず、、、兵兵ひょう藤藤どう次次じ秀秀ひで遠遠とおににに具具ぐせせせられられられててて、、、山山やま賀賀がののの城城じょうにににぞぞぞ籠籠こもりりり給給たまふふう。。。
- 6山山やま賀賀がへへへもももまたまたまた敵敵かたき寄寄よすすすととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、取取とるるる物物ものももも取取とりりりあへあへあえずずず、、、平平へい家家け小小こ船船ぶねどもどもどもににに取取とりりり乘乘のつつっててて、、、夜夜よもすがらもすがらもすがら豐豐ぶ前前ぜんののの國國くに柳柳やなぎががが浦浦うらへへへぞぞぞ渡渡わたららられれれけるけるける。。。こゝこゝここににに都都みやこををを定定さだめめめててて内内だい裏裏り造造つくらららるるるべしべしべしととと、、、公公く卿卿ぎょう僉僉せん議議ぎありありありしかしかしかどもどもども、、、分分ぶん限限げんなけれなけれなければばばそれそれそれもももかなはかなはかなわずずず。。。またまたまた長長なが門門とよりよりより源源げん氏氏じ寄寄よすすすととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、取取とるるる物物ものももも取取とりりりあへあへあえずずず、、、あまあまあま小小お船船ぶねににに召召めしししててて海海うみにににぞぞぞ泛泛うかびびび給給たまひひいけるけるける。。。十十かん月月なづきのののころほひころほひころおい小小こ松松まつ殿殿どのののの三三さん男男なん左左ひだりののの中中ちゅう將將じょう淸淸きよ經經つねははは、、、何何なに事事ごとももも深深ふこううう思思おもひひい入入いりりり給給たまへへえるるる人人ひとにてにてにておはしおはしおわしけるけるけるががが、、、あるあるある月月つきののの夜夜よ、、、船船ふな端端ばたににに立立たちちち出出いでででててて、、、横横よう笛笛じょう音音ね取取とり、、、朗朗ろう詠詠えいしてしてしてあそばあそばあそばれれれけるけるけるががが、、、「「「都都みやこをををばばば源源げん氏氏じののの爲爲ためににに攻攻せめめめ落落おとささされれれ、、、鎭鎭ちん西西ぜいをををばばば惟惟これ義義よしががが爲爲ためににに追追おひひい出出いだささされれれ、、、綱綱つなにににかゝれかゝれかかれるるる魚魚うおののの如如ごとししし。。。いづちいづちいずちへへへ行行ゆかかかばばば遁遁のがるるるべきべきべきかはかはかは。。。ながらへながらへながらえはつはつはつべきべきべき身身みにににもももあらあらあらずずず。。。」」」とてとてとて、、、靜靜しずかかかににに經經きょう讀讀よみみみ念念ねん佛佛ぶつしてしてして、、、海海うみにににぞぞぞ沉沉しずみみみ給給たまひひいけるけるける。。。男男なん女女にょ泣泣なききき悲悲かなしめしめしめどもどもどもかひかひかいぞぞぞなきなきなき。。。
- 7長長なが門門とののの國國くにははは新新しん中中ちゅう納納な言言ごん知知とも盛盛もり卿卿きょうののの國國くになりなりなりけりけりけり。。。目目もく代代だいははは紀紀き伊伊いののの刑刑ぎょう部部ぶののの大大たい夫夫ふ通通みち資資すけととといふいふいう者者ものなりなりなり。。。平平へい家家けあまあまあま小小お船船ぶねににに召召めしししたるたるたる由由よし承承うけたまわつつっててて、、、大大おお船船ぶね百百ひゃく餘餘よ艘艘そう點點てんじじじててて參參まいらせらせらせたりたりたりけれけれければばば、、、平平へい家家けこれこれこれににに乘乘のりりり移移うつりりり、、、四四し國國こくへへへぞぞぞ渡渡わたららられれれけるけるける。。。阿阿あ波波わののの民民みん部部ぶ重重しげ能能よしががが沙沙さ汰汰たとととしてしてして、、、讚讚さぬ岐岐きののの國國くに八八や島島しまののの磯磯いそににに、、、かたかたかたのののやうやうようなるなるなる板板いた屋屋やののの内内だい裏裏りややや御御ご所所しょをををぞぞぞ造造つくらららせせせけるけるける。。。そのそのその程程ほどはははあやしあやしあやしののの民民みん屋屋おくををを皇皇こう居居きょとととするするするににに及及およばばばねねねばばば、、、船船ふねををを御御ご所所しょとととぞぞぞ定定さだめめめけるけるける。。。
- 8大臣殿大臣殿おおいどの以以い下下げののの卿卿けい相相しょう雲雲うん客客かくははは海海あ士士まののの苫苫とま屋屋やににに日日ひををを暮暮くらししし、、、船船ふねののの中中うちにてにてにて夜夜よをををあかすあかすあかす。。。龍龍りゅう頭頭とう鷁鷁げき首首しゅををを海海かい中中ちゅうににに泛泛うかべべべ、、、波波なみののの上上うえののの行行こう宮宮きゅうははは靜靜しずかかかなるなるなる時時ときなしなしなし。。。月月つきをををひたせひたせひたせるるる潮潮うしおののの深深ふかききき愁愁うれへへえににに沉沉しずみみみ、、、霜霜しもををを覆覆おおへへえるるる蘆蘆あしののの葉葉はのののもろきもろきもろき命命いのちををを危危あやぶむむむ。。。洲洲す崎崎さきににに噪噪さわぐぐぐ千千ち鳥鳥どりののの聲聲こえははは、、、曉曉あかつきののの恨恨うらみみみをををましましまし、、、磯磯いそ間間まにににかゝるかゝるかかる楫楫かじののの音音おとははは、、、夜夜よ半半はににに心心こころををを傷傷いたましむましむましむ。。。白白はく鷺鷺ろののの遠遠えん松松しょうにににむれむれむれ居居いるるるををを見見みてててははは、、、源源げん氏氏じののの旗旗はたををを揚揚あぐるぐるぐるかかかととと疑疑うたがははわるるる。。。野野や鴈鴈がんののの遼遼りょう海海かいににに鳴鳴なくくくををを聞聞ききききてててははは、、、兵兵つわものどもどもどもののの夜夜よもすがらもすがらもすがら船船ふねををを漕漕こぐぐぐかかかととと驚驚おどろかかかるるる。。。晴晴せい嵐嵐らん膚膚はだえををを侵侵おかしししてててははは、、、翠翠すい黛黛たい紅紅こう顏顏がんののの色色いろやう〳〵やう〳〵ようよう衰衰おとろへへえ、、、蒼蒼そう波波は眼眼まなこををを穿穿うがちちちててて、、、外外がい土土ど望望ぼう郷郷きょうののの涙涙なみだおさへおさへおさえ難難がたししし。。。翠翠すい帳帳ちょう紅紅こう閨閨けいにににかはれかはれかわれるるるははは、、、埴埴はに生生うののの小小こ屋屋やののの葦葦あしすだれすだれすだれ、、、薰薰くん爐爐ろののの煙煙けぶりににに異異ことなるなるなる、、、海海あ士士まののの藻藻も鹽鹽しお火火びたくたくたく賤賤いやしきしきしきにににつけつけつけてててももも、、、女女にょう房房ぼうたちたちたちははは盡盡つきききせせせぬぬぬものものものおもひおもひおもいににに、、、紅紅くれないののの涙涙なみだせきせきせきあへあへあえ給給たまははわねねねばばば、、、綠綠みどりののの黛黛まゆずみ亂亂みだれれれつゝつゝつつ、、、そのそのその人人ひととととももも見見みえええ給給たまははわずずず。。。
現代語訳
そうしているうちに、平家は筑紫に都を定め、内裏を造ろうと公卿の会議があったが、惟義の謀反によってそれもかなわない。新中納言知盛卿が意見として申されるには、「あの緒方三郎は小松殿(重盛)の御家人です。それなら公達のお一人が向かわれて、なだめてごらんになるのがよいのではないでしょうか」と申されたので、それがもっともだということで、新三位中将資盛がその勢五百余騎で豊後国へ越え、いろいろとなだめてお話しになったが、惟義は従い申さない。そればかりか、「公達をもここでお捕らえ申すべきところですが、大事の前の小事だといって、お捕らえ申さなくても、何ほどのことがありましょう。ただ大宰府へお帰りになって、皆さまご一緒にどうなりともなさいませ」といって、追い返し申した。
その後、惟義は次男の野尻次郎惟村を使者にして、大宰府へ申したのは、「平家は重恩の君でいらっしゃいますので、兜を脱ぎ弓の弦をはずして降参に参るべきですが、一院(後白河法皇)の仰せには、速やかに九国の内から追い出し申せということでございます」と申し送ったので、平大納言時忠卿は、緋の緒でくくった袴に糸葛の直垂、立烏帽子の姿で惟村に出て向かっておっしゃるには、「そもそもわが君は天孫四十九世の正統、神武天皇から人皇八十一代に当たられる。だから天照大神も正八幡宮も、わが君をこそお守りになっているであろう。とりわけ当家は、保元・平治の乱以来、たびたびの逆乱を鎮めて、九州の者どもをみな朝廷の近くへ召されたではないか。それなのにその恩を忘れて、東国・北国の凶徒どもの頼朝・義仲らに語らわれ、うまくやりおおせたら国を預けよう、荘園を与えようと言うのを本当と思って、あの鼻豊後の命令に従うとは、けしからぬことだ」とおっしゃった。豊後の国司刑部卿三位頼資卿はとても鼻が大きかったので、このようにおっしゃったのである。
惟村が帰って父にこのことを告げると、「これはどうしたことだ。昔は昔、今は今だ。そういうことなら九国の内から追い出し申せ」といって軍勢をそろえていると聞こえたので、源大夫判官季貞と摂津判官守澄が、「今後の仲間のためにもけしからぬことです。召し捕りましょう」といって、その勢三千余騎で筑後国へ越え、高野の本荘に向かって一日一夜攻め戦った。けれども惟義の方の軍勢は雲霞のように重なっていたので、力及ばず引き退いた。
平家は、緒方三郎惟義が三万余騎の軍勢ですでに寄せてくると聞こえたので、取るものも取りあえず大宰府を落ちられた。あれほど頼もしく思っていた天満天神の注連縄のあたりを、心細くも立ち別れ、輿をかつぐ駕輿丁もいないので、葱花の鳳輦はただ名ばかりで、天皇は腰輿にお乗りになった。国母(建礼門院)をはじめとして、高貴な女房たちは袴の裾を高く取り、大臣殿以下の公卿・殿上人は指貫の側を高く挟み、裸足で水城の門を出て、われ先にと箱崎の津へ落ちて行かれた。折しも降る雨は車軸を流すようで、吹く風は砂を巻き上げるという。落ちる涙と降る雨とは、区別がつかなかった。住吉・箱崎・香椎・宗像の神々を伏し拝み、天皇はただ旧都への還幸だけを祈られた。垂水山・鶉浜などという険しい難所を越えられて、果てしない砂浜へと向かわれた。いつ慣れたことでもないので、御足から出る血は砂を染め、紅の袴はいっそう色を増し、白い袴は裾が紅になってしまった。
あの玄奘三蔵が流沙や葱嶺を越えられたという苦しみも、これにどうしてまさろうか。それは仏法を求めるためであったから、自分にも人にも利益があったろう。これは戦いの道であるから、来世の苦しみまでも思うと悲しい。原田大夫種直は二千余騎で、京から平家のお供をしていた。山賀の兵藤次秀遠が数千騎で平家のお迎えに参ったが、種直と秀遠はひどく仲が悪かったので、種直はまずいことになろうといって、途中から引き返した。そこから芦屋の津という所をお通りになるにつけても、ここは都から自分たちが福原へ通ったときに朝夕見慣れた里の名であるからといって、どの里よりもなつかしく、今さらながら哀れを催された。新羅・百済・高麗・契丹、雲の果て海の果てまでも落ちて行きたいと思われたが、波風が向かい風でかなわないので力及ばず、兵藤次秀遠に連れられて、山賀の城にこもられた。
山賀へもまた敵が寄せてくると聞こえたので、取るものも取りあえず、平家は小船に乗り移って、夜通し豊前国の柳が浦へ渡られた。ここに都を定めて内裏を造ろうと公卿の会議があったが、財力がないのでそれもかなわない。また長門から源氏が寄せてくると聞こえたので、取るものも取りあえず、漁師の小船に乗って海に浮かばれた。十月のころ、小松殿の三男の左中将清経は、何事も深く思いつめる人でいらしたが、ある月の夜、船端に立ち出て横笛を吹き、朗詠してお遊びになっていたが、「都は源氏のために攻め落とされ、九州は惟義のために追い出され、網にかかった魚のようだ。どこへ行けば逃れられようか。生きながらえることのできる身でもない」といって、静かに経を読み念仏して、海に沈まれた。男も女も泣き悲しんだが、どうにもならない。
長門国は新中納言知盛卿の知行国であった。目代は紀伊刑部大夫通資という者である。平家が漁師の小船に乗っておられると承って、大船百余艘を徴発して差し出したので、平家はこれに乗り移り、四国へ渡られた。阿波民部重能の取りはからいで、讃岐国の屋島の磯に、形ばかりの板屋の内裏や御所を造らせた。それまでは粗末な民家を皇居とするわけにもいかないので、船を御所と定めた。
大臣殿以下の公卿・殿上人は、漁師の苫屋で日を暮らし、船の中で夜を明かす。龍頭鷁首の船を海に浮かべ、波の上の行宮は静まる時がない。月を映す潮のような深い愁いに沈み、霜をかぶった芦の葉のようなもろい命を危ぶむ。洲崎で騒ぐ千鳥の声は明け方の恨みを増し、磯辺にかかる楫の音は夜半に心を痛ませる。白鷺が遠くの松に群がっているのを見ては、源氏が旗を揚げたのかと疑われ、雁が遠い海で鳴くのを聞いては、敵の兵が夜通し船を漕いでくるのかと驚かれる。晴れた日の山風が肌を刺しては、美しい女房たちの容色もしだいに衰え、青い波に目を凝らしては、遠い異郷で故郷をしのぶ涙がこらえきれない。翠の帳、紅の寝所に代わったのは、土の小屋の葦すだれ、香炉の煙とは異なる、漁師の藻塩を焼く賤しい火であるにつけても、女房たちは尽きることのない物思いに、紅の涙をこらえきれず、緑の眉墨も乱れて、もとの人とも見えなかった。
意訳
最後の頼みであった九州からも追われ、平家がさすらいの身となる章段である。帝の血統の正しさを説く時忠の言葉は、九州の武士にもはや通じない。雨の中を裸足で逃れる女房たちの姿は、かつての栄華との落差をあらわに示している。
清経の入水は、平家一門で最初に自ら命を絶った者として語られ、のちの能「清経」の題材ともなった。屋島の仮の内裏での暮らしを描く結びは、対句を重ねた美文で、都の華やかさとの対比のなかに一門の衰えを映し出している。
語釈・文法注
文法
- 「大事の中の小事なし」
- 大事を前にして小事にかかずらわない。公達を捕らえるような小事はしない、の意。
- 「緋緒くゝりの袴」
- 緋色の緒を裾にくくりつけた袴。
- 「その鼻豐後」
- 豊後の国司頼資の鼻が大きいので、あだ名で呼んだもの。
- 「葱花鳳輦」
- 葱花輦(屋根に葱の花の形の飾りのある輿)と鳳輦(鳳凰の飾りのある輿)。天皇の乗り物。
- 「水城」
- 大宰府の北西に築かれた土塁と堀の防衛施設。
- 「いつならはしの御事なれば」
- いつ慣れたことでもないので。「いつ」は反語。
- 「横笛音取」
- 横笛で音取(曲の前に調子を整えるために吹く短い曲)を吹く。
- 「鷁首」
- 鷁(水鳥の名)の首を船首に飾った船。龍頭と対にして貴人の遊覧船をいう。
解説
寿永二年(1183)十月、平家は緒方惟義に攻められて大宰府を捨てた。その後、讃岐の屋島(香川県高松市)に拠点を移し、ここを本拠として勢力を盛り返していく。屋島は当時、陸から離れた島で、海上に拠る平家にとって守りやすい地であった。
平清経は重盛の三男で、豊前国柳が浦(福岡県北九州市門司区)で入水したと伝えられる。妻とのかかわりは巻第八には描かれないが、世阿弥の能「清経」では、形見の髪を返された妻のもとに清経の霊が現れ、入水の様子を語る。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、612–616頁(コマ335–337)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日