平家物語 巻第八
緒環の事
豊後国の国司藤原頼資は、子の頼経を通じて、平家に従わず九州から追い出せと命じ、頼経はこれを緒方三郎惟義に伝えた。惟義は恐ろしい者の子孫であった。昔、豊後の片山里の娘のもとに夜ごと通う男があり、娘は母の教えで男の狩衣の襟に糸巻きの糸をつけた針を刺して後を追うと、糸は日向との境の姥が嶽の岩屋へ続いていた。男の正体は大蛇で、娘が生んだ子は大太と名づけられた。惟義はその五代の孫で、国司の命を院宣と称して九州の武士を従えた。
- 1豐豐ぶん後後ごののの國國くにははは、、、刑刑ぎょう部部ぶ卿卿きょう三三さん位位み賴賴より資資すけ卿卿きょうののの國國くになりなりなりけりけりけり。。。子子し息息そく賴賴より經經つねののの朝朝あ臣臣そんををを代代だい官官かんににに置置おかかかれれれたりたりたりけるけるけるががが、、、京京きょうよりよりより賴賴より經經つねののの許許もとへへへ使使し者者しゃををを立立たてててててて、、、平平へい家家けははは既既すでににに神神しん明明めいにににもももはなたはなたはなたれれれ奉奉たてまつりりり、、、君君きみにににももも捨捨すてててられられられ參參まいらせらせらせててて、、、帝帝てい都都とををを出出いでででててて波波なみののの上上うえににに漂漂ただよふふう落落おち人人うどとととなれなれなれりりり。。。然然しかるるるををを九九きゅう州州しゅう二二に島島とうののの者者もの共共どもががが受受うけ取取とつつっててて、、、もてもてもてあつかふあつかふあつかうらんらんらん事事ことこそこそこそ然然しかるるるべからべからべからねねね。。。當當とう國國ごくにににおいおいおいてててははは一一いっ向向こう從從したがふふうべからべからべからずずず。。。東東とう北北ほく國國こくととと一一いち味味み同同どう心心しんしてしてして、、、九九く國國こくののの中中うちををを追追おひひい出出いださささるるるべきべきべき由由よし、、、宣宣のたまひひい遣遣つかははわされされされたりたりたりけれけれければばば、、、これこれこれををを緒緒お方方がたののの三三さぶ郎郎ろう惟惟これ義義よしににに下下げ知知じすすす。。。かのかのかの惟惟これ義義よしととと申申もうすすすははは、、、おそろしきおそろしきおそろしき者者ものののの末末すえにてにてにてぞぞぞ候候さぶらひひいけるけるける。。。
- 2たとへばたとへばたとえば昔昔むかし豐豐ぶん後後ごののの國國くに、、、あるあるある片片かた山山やま里里ざとににに女女おんなありありありききき。。。あるあるある人人ひとのののひとりひとりひとり女女むすめ、、、夫夫おつともももなかりなかりなかりけるけるけるがががもともともとへへへ、、、男男おとこ夜夜よな〳〵な〳〵なよな通通かよふふうほどほどほどににに、、、年年とし月月つきももも隔隔へだたれたれたればばば、、、身身みもももたゞたゞただならならならずずずなりなりなりぬぬぬ。。。母母ははこれこれこれをををあやしみあやしみあやしみててて、、、「「「汝汝なんじがががもともともとへへへ通通かよふふう者者ものはははいかなるいかなるいかなる者者ものぞぞぞ。。。」」」ととと問問とひひいけれけれければばば、、、「「「來來くるるるをををばばば見見みれれれどもどもども、、、歸歸かえるるるををを知知しらららずずず。。。」」」とととぞぞぞいひいひいいけるけるける。。。「「「さらばさらばさらば朝朝あさがへりがへりがえりせせせんんん時時とき、、、しるししるししるしをををつけつけつけててて繋繋つないいいででで見見みよよよ。。。」」」とととぞぞぞ教教をしへへへけるけるける。。。女女おんな母母ははののの教教をしへへへににに從從したがひひいててて、、、朝朝あさがへりがへりがえりしししけるけるける男男おとこののの、、、水水みず色色いろののの狩狩かり衣衣ぎぬををを著著きたりたりたりけるけるける首首くびがみがみがみににに針針はりをををさしさしさし、、、賤賤しずののの緒緒お環環だまきととといふいふいうものものものをををつけつけつけててて、、、經經へててて行行ゆくくく方方かたををを繋繋つないいいででで見見みれれればばば、、、豐豐ぶん後後ごののの國國くにににに取取とつつってててももも日日ひゅう向向がののの境境さかい、、、姥姥うばががが嶽嶽たけととといふいふいう嶽嶽たけのののすそすそすそ大大おおきききなるなるなる岩岩いわ屋屋やののの内内うちへへへぞぞぞ繋繋つなぎぎぎ入入いれれれたるたるたる。。。女女おんな岩岩いわ屋屋やののの口口くちにににたゝずんたゝずんたたずんででで聞聞ききききけれけれければばば、、、大大おおきききなるなるなる聲聲こえしてしてしてよびよびよびにににけりけりけり。。。
- 3女女おんな申申もうしししけるけるけるははは、、、「「「御御おん姿姿すがたををを見見み參參まいらせらせらせんんんががが爲爲ためににに、、、妾妾わらわこそこそこそこれこれこれまでまでまで參參まいつつっててて候候そうらへへえ。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、岩岩いわ屋屋やののの内内うちよりよりより答答こたへへえててていはくいはくいわく、、、「「「われわれわれはははこれこれこれ人人ひとののの姿姿すがたにににあらあらあらずずず。。。汝汝なんじわがわがわが姿姿すがたををを見見みてててははは、、、肝肝きも魂魂たましいももも身身みににに添添そふふうまじきまじきまじきぞぞぞ。。。孕孕はらめるめるめる所所ところののの子子こははは男男なん子子しなるなるなるべしべしべし。。。弓弓ゆみ矢矢や、、、打打うち物物もの取取とつつってててははは、、、九九きゅう州州しゅう二二に島島とうににに肩肩かたををを雙雙ならぶるぶるぶる者者ものあるあるあるまじきまじきまじきぞぞぞ。。。」」」とととぞぞぞ教教をしへへへけるけるける。。。女女おんなかさねかさねかさねててて、、、「「「たとひたとひたといいかなるいかなるいかなる姿姿すがたにてにてにてもももあらあらあらばばばあれあれあれ、、、日日ひ頃頃ごろのののよしみよしみよしみいかでいかでいかでかかか忘忘わするるるべきべきべきなれなれなればばば、、、互互たがいののの姿姿すがたををを今今いま一一いち度度ど、、、見見みもももししし見見みえええられられられんんん。。。」」」ととといひいひいいけれけれければばば、、、さらばさらばさらばとてとてとて岩岩いわ屋屋やののの内内うちよりよりより、、、臥臥ふし長長たけははは五五ご六六ろく尺尺しゃく、、、跡跡あと枕枕まくらべべべははは十十じゅう四四し五五ご丈丈じょうもももあるあるあるらんらんらんととと覺覺おぼゆるゆるゆる大大だい蛇蛇じゃにてにてにて、、、動動どう搖搖ようしてしてしてぞぞぞはひはひはい出出いでででたるたるたる。。。女女おんな肝肝きも魂魂たましいももも身身みににに添添そははわずずず、、、召召めししし具具ぐしししたるたるたる十十じゅう餘餘よ人人にんののの所所しょ從從じゅう共共ども、、、をめきをめきおめき叫叫さけんんんででで逃逃にげげげ去去さりりりぬぬぬ。。。首首くびがみがみがみにににさすさすさすととと思思おもひひいししし針針はりははは、、、大大だい蛇蛇じゃののの咽咽のど笛笛ぶえにににぞぞぞ立立たつつったりたりたりけるけるける。。。
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現代語訳
豊後国は、刑部卿三位頼資卿の知行国であった。子息の頼経朝臣を代官に置いておられたが、京から頼経のもとへ使者を立てて、「平家はすでに神明にも見放され、君にも捨てられて、帝都を出て波の上をさまよう落人となった。それなのに九州・二島の者どもが受け入れて世話をしているのはけしからぬことだ。当国においては一切従ってはならない。東国・北国の源氏と心を一つにして、九国の内から追い出せ」とおっしゃって遣わされたので、頼経はこれを緒方三郎惟義に命じた。この惟義という者は、恐ろしい者の子孫であった。
たとえば昔、豊後国のある片山里に女がいた。ある人の一人娘で夫もいなかったが、そのもとへ男が夜ごとに通ううちに、年月もたったので、身ごもってしまった。母がこれを不審に思って、「おまえのもとへ通ってくる者は、どういう者か」と尋ねると、「来るのは見ますが、帰るのは知りません」と言った。「それなら朝帰るときに、しるしをつけて、たどってみなさい」と教えた。娘は母の教えに従って、朝帰りする男の、水色の狩衣を着た襟首に針を刺し、賤の緒環という糸巻きの糸をつけて、男の行く方をたどって行くと、豊後国のうちでも日向との境、姥が嶽という山のすその大きな岩屋の中へ、糸は続いて入っていた。娘が岩屋の入り口にたたずんで耳を澄ますと、大きな声でうめいていた。
娘が「お姿を拝見しようと、私はここまで参りました」と言うと、岩屋の中から答えて言うには、「私は人の姿ではない。おまえが私の姿を見たら、肝も魂も身に添わないであろう。身ごもっている子は男の子であろう。弓矢や太刀を取っては、九州・二島に肩を並べる者はあるまい」と教えた。娘は重ねて、「たとえどのようなお姿であっても、日ごろの親しみをどうして忘れられましょう。互いの姿を今一度、見もし見せもしましょう」と言ったので、それならといって、岩屋の中から、伏した丈は五、六尺、頭から尾までは十四、五丈もあろうかと思われる大蛇が、身をくねらせて這い出てきた。娘は肝も魂も身に添わず、連れていた十余人の従者たちは、わめき叫んで逃げ去った。襟首に刺したと思った針は、大蛇の喉笛に刺さっていた。
娘は帰って、まもなく出産したところ、男の子であった。母方の祖父が育ててみようといって育てると、まだ十歳にもならないのに、背が高く顔が長かった。七歳で元服させ、母方の祖父も大太夫といったので、この子を大太と名づけた。夏も冬も手足にすきまなくあかぎれが切れていたので、あかがり大太とも呼ばれた。あの惟義はこの大太の五代の子孫である。このように恐ろしい者の子孫だからであろうか、国司の命令を院宣と称して九州・二島に回状を回したところ、しかるべき者たちもみな惟義に従った。あの大蛇は、日向国で崇められておられる高千穂の明神のご神体であると承る。
意訳
平家を九州から追い出す動きの中心となった緒方惟義の出自を語る章段である。夜ごと通う男の正体を糸をたどって突きとめると蛇であったという話は、『古事記』の三輪山の伝説と同じ型の神婚説話で、「緒環」の名もそこから来ている。
大蛇の子孫という恐ろしい血筋が、惟義の勢いの強さを説明するものとして語られている。平家にとって最後の頼みであった九州が、この惟義によって背くことになり、次の「太宰府落ち」へと話はつながっていく。
語釈・文法注
文法
- 「賤の緒環」
- 紡いだ麻糸を丸く巻いたもの。「しづ」は倭文(しず)で、古い織物。
- 「經て行く方」
- 「經」は糸をたぐり出す意。糸のたどって行く方。
- 「よびにけり」
- うめいていた。大蛇が喉笛に針を刺されて苦しむ声。
- 「跡枕べ」
- 足もとから枕もとまで。体の長さ。
- 「赤がり」
- あかぎれ。
- 「高千尾の明神」
- 日向国の高千穂の神。底本は「高千尾」と刷る。
解説
緒方惟義(維義)は豊後国大野郡緒方荘を本拠とした武士で、大神(おおが)氏の一族である。その祖を蛇神とする伝説は、豊後大神氏の始祖伝説として『源平盛衰記』などにも見え、大和の三輪山の大物主神の神婚説話と同じ型をもつ。豊後国は当時、藤原頼資の知行国であった。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、610–612頁(コマ334–335)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日