平家物語 巻第八
那都羅の事
都では木曾義仲が左馬頭・越後守となり、「朝日の将軍」の院宣を受け、行家も備前守となった。平家一門は官職を解かれ、大宰府に着いた平家のもとには九州の武士もほとんど参らない。八月二十日、四の宮(後鳥羽天皇)が即位し、都と西国に二人の帝が並び立つことになった。話は昔にさかのぼり、文徳天皇の後継を、惟喬親王方の那都羅と惟仁親王方の善雄が相撲で争い、恵亮和尚の祈りで善雄が勝って惟仁親王(清和天皇)が位についたことを語る。
- 1同同おなじきじきじき十十とお日日かののの日日ひ、、、木木き曾曾そ左左さ馬馬まの頭頭かみににになつなつなっててて越越えち後後ごののの國國くにををを賜賜たまははわるるる。。。其其そののの上上うえ、、、朝朝あさ日日ひののの將將しょう軍軍ぐんととといふいふいう院院いん宣宣ぜんをををばばば下下くだささされれれけるけるける。。。十十じゅう郎郎ろう藏藏くら人人んど備備びん後後ごののの守守かみににになつなつなっててて備備びん後後ごののの國國くにををを賜賜たまははわるるる。。。木木き曾曾そ越越えち後後ごををを嫌嫌きらへへえばばば、、、伊伊い豫豫よををを賜賜たぶぶぶ。。。十十じゅう郎郎ろう藏藏くら人人んど備備びん後後ごををを嫌嫌きらへへえばばば、、、備備び前前ぜんををを賜賜たまははわるるる。。。そのそのその外外ほか源源げん氏氏じ十十じゅう餘餘よ人人にん、、、受受じゅ領領りょう、、、檢檢けん非非び違違い使使し、、、靫靫ゆき負負へののの尉尉じょう、、、兵兵ひょう衞衞えののの尉尉じょうにににぞぞぞなさなさなされれれけるけるける。。。同同おなじきじきじき十十じゅう六六ろく日日にち、、、前前さきののの内内ない大大だい臣臣じん宗宗むね盛盛もり公公こう以以い下下げ平平へい家家けののの一一いち族族ぞく百百ひゃく六六ろく十十じゅう人人にんががが官官かん職職しょくををを停停とどめめめててて殿殿てん上上じょうののの御御み簡簡ふだををを削削けずらららるるる。。。そのそのその中中なかににに平平へい大大だい納納な言言ごん時時とき忠忠ただののの卿卿きょう、、、内藏内藏くらののの頭頭かみ信信のぶ基基もと、、、讃讃さぬ岐岐きののの中中ちゅう將將じょう時時とき實實ざね、、、父父ふ子子し三三さん人人にんをををばばば削削けずららられれれずずず。。。そのそのその故故ゆえははは主主しゅ上上しょう、、、竝竝ならびににに三三さん種種しゅののの神神じん器器ぎ、、、ことことことゆゑゆゑゆえなうなうのう都都みやこへへへ返返かえししし入入いれれれ奉奉たてまつれれれととと、、、時時とき忠忠ただののの卿卿きょうのののもともともとへへへ、、、度度たび々々たび仰仰おおせせせ下下くだささされれれけるけるけるににに依依よつつってててなりなりなり。。。
- 2あくるあくるあくる十十じゅう七七しち日日にち、、、平平へい家家けははは筑筑ちく前前ぜんののの國國くに三三み笠笠かさののの郡郡こおり太太だ宰宰ざい府府ふにににこそこそこそ著著つききき給給たまへへえ。。。菊菊きく池池ちののの次次じ郎郎ろう高高たか直直なおははは都都みやこよりよりより平平へい家家けののの御御おん供供ともににに候候さぶらひひいけるけるけるががが、、、大大おお津津ず山山やまののの關關せきあけあけあけててて參參まいらせらせらせんんんとてとてとて、、、肥肥ひ後後ごののの國國くににににうちうちうち越越こえええ、、、おのおのおのががが城城じょうににに引引ひき籠籠こもつつっててて、、、召召めせせせども〳〵ども〳〵どもめせども參參まいらららずずず。。。そのそのその外外ほか九九きゅう州州しゅう二二に島島とうのののものものものどもどもども、、、みなみなみな參參まいるるるべきべきべき由由よしののの御御ご領領りょう承承じょうをををばばば申申もうしししながらながらながら、、、一一いち人人にんももも參參まいらららずずず。。。當當とう時時じははは岩岩いわ戸戸とののの諸諸しょ卿卿きょう大大おお藏藏くら種種たね直直なおばかりばかりばかりぞぞぞ候候さぶらひひいけるけるける。。。同同おなじきじきじき十十じゅう八八はち日日にち、、、平平へい家家け安安あん樂樂らく寺寺じににに參參まいりりり、、、夜夜よもすがらもすがらもすがら歌歌うた詠詠よみみみ、、、連連れん歌歌がしししててて、、、宮宮みや仕仕づかへへえ給給たまひひいしししににに、、、中中なかにににももも本本ほん三三ざん位位みののの中中ちゅう將將じょう重重しげ衡衡ひらののの卿卿きょう、、、
- 3住住すみみみなれなれなれしししふるきふるきふるき都都みやこののの戀戀こいしさしさしさははは神神かみももも昔昔むかしにににおもひおもひおもい知知しるるるらむらむらん
- 4人人ひと々々びとまことまことまことにににあはれあはれあわれににに覺覺おぼえええててて、、、みなみなみな袖袖そでをををぞぞぞぬらさぬらさぬらされれれけるけるける。。。
- 5同同おなじきじきじき二二に十十じゅう日日にちののの日日ひ、、、都都みやこにににははは法法ほう皇皇おうののの宣宣せん命命みょうにてにてにて、、、四四しののの宮宮みや、、、閑閑かん院院いん殿殿どのにてにてにて位位くらいににに即即つかかかせせせ給給たまふふう。。。攝攝せつ政政しょうはははもともともとののの攝攝せつ政政しょう近近こん衞衞え殿殿どのかはらかはらかわらせせせ給給たまははわずずず。。。頭頭とうややや藏藏くら人人んどなしなしなし置置おいいいててて、、、人人ひと々々びとみなみなみな退退たい出出しゅつせせせられられられたりたりたり。。。三三さんののの宮宮みやののの御御おん乳乳めの母母と泣泣なききき悲悲かなしみしみしみ、、、後後こう悔悔かいすれすれすれどもどもどもかひかひかいぞぞぞなきなきなき。。。天天てんににに二二ふたつつつののの日日ひなしなしなし、、、國國くにににに二二ふた人人りののの王王おうなしなしなしとととははは申申もうせせせどもどもども、、、平平へい家家けののの惡惡あく行行ぎょうににに依依よつつってててこそこそこそ、、、京京きょう、、、田田い舎舎なかににに二二ふた人人りののの王王おうはははまし〳〵まし〳〵ましましけれけれけれ。。。
- 6昔昔むかし文文もん德德とく天天てん皇皇おう、、、天天てん安安あん二二に年年ねん八八はち月月がつ二二に十十じゅう三三さん日日にちかくれかくれかくれさせさせさせ給給たまひひいぬぬぬ。。。御御み子子こののの宮宮みやたちたちたちあまたあまたあまた御御み位位くらいににに望望のぞみみみをををかけかけかけてててまし〳〵まし〳〵ましましけれけれければばば、、、内内ない々々ない御御おん祈祈いのりりりどもどもどもありありありけりけりけり。。。一一いちののの皇皇み子子こ惟惟これ喬喬たかののの親親しん王王のうをををばばば木木こ原原はらののの皇皇み子子ことととももも申申もうしししききき。。。王王おう者者じゃののの才才さい量量りょうををを御御おん心心こころにににかけかけかけ、、、四四し海海かいののの安安あん危危きははは掌掌たなごころののの中中なかににに照照てらししし、、、百百はく王王おうののの理理り亂亂らんははは御御おん心心こころにににかけかけかけ給給たまへへえりりり。。。さればさればされば賢賢けん聖聖せいののの名名なをををももも取取とらららせせせまし〳〵まし〳〵ましましぬぬぬべきべきべき君君きみなりなりなりととと見見みえええ給給たまへへえりりり。。。二二にののの宮宮みや惟惟これ仁仁ひと親親しん王王のうははは、、、そのそのその頃頃ころののの執執しっ柄柄ぺい忠忠ちゅう仁仁じん公公こうののの御御おん女女むすめ、、、染染そめ殿殿どのののの后后きさきののの御御おん腹腹はらなりなりなり。。。一一いち門門もんののの公公く卿卿ぎょう列列れつしししてててもてなしもてなしもてなし奉奉たてまつらららせせせ給給たまひひいしかしかしかばばば、、、これこれこれもももまたまたまたさしさしさし置置おきききがたきがたきがたき御御おん事事ことなりなりなり。。。かれかれかれははは守守しゅ文文ぶん繼繼けい體體たいののの器器き量量りょうありありあり、、、これこれこれははは萬萬ばん機機き補補ほ佐佐さののの臣臣しん相相しょうありありあり。。。かれかれかれもももこれこれこれもももいたはしくいたはしくいたわしくててて、、、いづれいづれいずれももも思思おぼし召召めしししわづらはわづらはわずらわれれれききき。。。
- 7一一いちののの皇皇み子子こ惟惟これ喬喬たか親親しん王王のう家家けののの御御おん祈祈いのりりりにににははは、、、柿柿かきののの本本もとののの紀紀き僧僧そう正正じょう眞眞しん濟濟ぜいとてとてとて、、、東東とう寺寺じののの一一いちののの長長ちょう者者じゃ、、、弘弘こう法法ぼう大大だい師師しののの御御おん弟弟で子子しなりなりなり。。。二二にののの宮宮みや惟惟これ仁仁ひと親親しん王王のう家家けののの御御おん祈祈いのりりりにににははは、、、外外がい祖祖そ忠忠ちゅう仁仁じん公公こうののの御御ご持持じ僧僧そう、、、比比ひ叡叡えい山山さんののの惠惠え亮亮りょう和和か尙尙しょうぞぞぞ承承うけたまわららられれれけるけるける。。。何何いずれれれももも劣劣おとらららぬぬぬ高高こう僧僧そうたちたちたちなりなりなり。。。とみとみとみににに事事ことゆきゆきゆき難難がとうううやややあらあらあらんんんずらんずらんずらんととと、、、人人ひと々々びと内内ない々々ないさゝやきさゝやきささやき合合あははわれれれけりけりけり。。。案案あんののの如如ごとくくく帝帝みかどかくれかくれかくれさせさせさせ給給たまひひいしかしかしかばばば、、、公公く卿卿ぎょう僉僉せん議議ぎありありありけりけりけり。。。「「「抑抑そもそも臣臣しん等等らががが慮慮おもんぱかりををを以以もっててて、、、選選えらんんんででで位位くらいににに即即つけけけ奉奉たてまつらららんんん事事こと、、、用用よう捨捨しゃ私私わたくしあるあるあるににに似似にたりたりたり。。。萬萬ばん人人にん脣脣くちびるをををかへすかへすかえすべしべしべし。。。如如しかかかずずず競競けい馬馬ば、、、相相す撲撲もうののの節節せちををを遂遂とげげげ、、、そのそのその運運うんををを知知しりりり、、、雌雌し雄雄ゆうににに依依よつつっててて、、、寶寶ほう祚祚そ授授さずけけけ奉奉たてまつるるるべしべしべし。。。」」」ととと議議ぎ定定じょうをををはんはんはんぬぬぬ。。。
- 8さるさるさる程程ほどににに同同おなじきじきじき九九く月月がつ二二ふつ日日かののの日日ひ、、、二二ふた人人りののの宮宮みやたちたちたち右右う近近こんののの馬馬ば場場ばへへへ行行ぎょう啓啓けいありありありけりけりけり。。。こゝこゝここににに王王おう公公こう卿卿けい相相しょう、、、玉玉たまののの轡轡くつばみををを竝竝ならべべべ、、、花花はなののの袂袂たもとをををよそほひよそほひよそおい、、、雲雲くもののの如如ごとくくくにににかさなりかさなりかさなり、、、星星ほしののの如如ごとくくくににに列列つらなりりり給給たまへへえりりり。。。これこれこれ希希き代代たいののの勝勝しょう事事じ、、、天天てん下下がののの壯壯そう觀觀かん、、、日日ひ頃頃ごろ心心こころををを寄寄よせせせ奉奉たてまつりりりししし月月げつ卿卿けい雲雲うん客客かく、、、兩兩りょう方方ぼうににに引引ひきききわかつわかつわかっててて、、、手手てををを握握にぎりりり心心こころをををくだきくだきくだき給給たまへへえりりり。。。御御おん祈祈いのりりりののの高高こう僧僧そうたちたちたち、、、いづれいづれいずれかかか疎疎そ畧畧りやくあらあらあらんんんややや。。。眞眞しん濟濟ぜい僧僧そう正正じょうははは東東とう寺寺じににに壇壇だんををを立立たててて、、、惠惠え亮亮りょう和和か尙尙しょうははは大大だい内内だいののの眞眞しん言言ごん院院いんににに壇壇だんををを立立たてててててて祈祈いのららられれれけるけるけるががが、、、惠惠え亮亮りょうははは亡亡うせせせたりたりたりととといふいふいう披披ひ露露ろうをををなさなさなさばばば、、、眞眞しん濟濟ぜい僧僧そう正正じょう少少すこしししたゆむたゆむたゆむ心心こころもももやややおはすおはすおわすらんらんらんとてとてとて、、、惠惠え亮亮りょうはははうせうせうせたりたりたりととといふいふいう披披ひ露露ろうをををなしなしなしててて肝肝かん膽膽たんををを碎碎くだいいいててて祈祈いのららられれれけりけりけり。。。
- 9既既すでににに十十じゅう番番ばんののの競競けい馬馬ばはじまるはじまるはじまる。。。はじめはじめはじめ四四し番番ばんははは一一いちののの皇皇み子子こ惟惟これ喬喬たか親親しん王王のう家家け勝勝かたたたせせせ給給たまふふう。。。後後のち六六ろく番番ばんははは二二にののの宮宮みや惟惟これ仁仁ひと親親しん王王のう家家け勝勝かたたたせせせ給給たまふふう。。。やがてやがてやがて相相す撲撲もうののの節節せちあるあるあるべしべしべしとてとてとて、、、一一いちののの皇皇み子子こ惟惟これ喬喬たかののの親親しん王王のう家家けよりよりよりははは那那な都都と羅羅らののの右右う兵兵ひょう衞衞えののの督督かみとてとてとて、、、およそおよそおよそ六六ろく十十じゅう人人にんががが力力ちからあらはしあらはしあらわしたるたるたる、、、ゆゝしきゆゝしきゆゆしき人人ひとををを出出いだささされれれたりたりたり。。。二二にののの宮宮みや惟惟これ仁仁ひとののの親親しん王王のう家家けよりよりよりははは善善よし雄雄おののの少少しょう將將しょうとてとてとて、、、背背せい小小ちいさうさうそう、、、妙妙たえにににしてしてして、、、片片かた手手てににに合合あふふうべしべしべしとととももも見見みえええぬぬぬ人人ひと、、、御御ご夢夢む想想そうののの御御おん告告つげげげありありありとてとてとて、、、申申もうしししうけうけうけてててぞぞぞ出出いでででられられられけるけるける。。。
- 10さるさるさる程程ほどににに那那な都都と羅羅ら、、、善善よし雄雄お寄寄よりりりあひあひあいててて、、、ひし〳〵ひし〳〵ひしひしとととつまつまつまどりどりどりしてしてして退退のきききにににけりけりけり。。。暫暫しばらくくくあつあつあっててて、、、那那な都都と羅羅らつつつととと寄寄よりりり、、、善善よし雄雄おををを取取とつつっててて捧捧ささげげげ、、、二二に丈丈じょうばかりばかりばかりぞぞぞ投投なげげげ上上あげげげたるたるたる。。。たゞたゞただ直直なおつつっててて倒倒たおれれれずずず。。。善善よし雄雄おまたまたまたつつつととと寄寄よりりり、、、那那な都都と羅羅らををを取取とつつっててて伏伏ふせせせんんんとととすすす。。。されどもされどもされども那那な都都と羅羅らははは大大だいののの男男おとこ、、、かさかさかさににに廻廻まわるるる。。。善善よし雄雄おあぶなうあぶなうあぶのう見見みえええけれけれければばば、、、御御おん母母ぼ儀儀ぎ染染そめ殿殿どのののの后后きさきよりよりより、、、御御おん使使つかい櫛櫛くしののの齒齒はののの如如ごとくくくにににしげうしげうしぎょう走走はしりりり重重かさなつなつなっててて、、、「「「御御み方方かた既既すでににに負負まけけけ色色いろににに見見みゆゆゆ、、、いかゞいかゞいかがせせせんんん。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、惠惠え亮亮りょう和和か尙尙しょうははは大大だい威威い德德とくののの法法ほうををを行行おこなははわれれれけるけるけるががが、、、こここははは心心こころ憂憂うきききことことことなりなりなりとてとてとて、、、獨獨どく鈷鈷こををを以以もっててて頭頭こうべをををつきつきつき破破やぶりりり、、、腦腦なずきをををくだきくだきくだき乳乳にゅうににに和和わしししててて護護ご摩摩まににに燒燒たききき、、、黑黑くろ煙煙けぶりををを立立たてててててて、、、一一ひともみもみもみ揉揉もまままれれれたりたりたりけれけれければばば、、、善善よし雄雄お相相す撲撲もうににに勝勝かちちちにににけりけりけり。。。
- 11二二にののの宮宮みや位位くらいににに即即つかかかせせせ給給たまふふう。。。淸淸せい和和わののの帝帝みかどこれこれこれなりなりなり。。。後後のちにににははは水水みずの尾尾おののの天天てん皇皇おうとととももも申申もうしししききき。。。それそれそれよりよりよりしてしてして山山さん門門もんにににははは聊聊いささかかかのののことことことにてにてにてももも、、、「「「惠惠え亮亮りょう腦腦なずきををを碎碎くだけけけばばば二二じ帝帝てい位位くらいにににつきつきつき、、、尊尊そん意意い智智ち劍劍けんををを振振ふつつっしかしかしかばばば、、、菅菅かん相相しょう納納のう受受じゅししし給給たまふふう。。。」」」とととももも傳傳つたへへえたりたりたり。。。これこれこれのみのみのみややや法法ほう力力りきにてにてにてもももありありありけんけんけん、、、そのそのその外外ほかはははみなみなみな天天てん照照しょう大大だい神神じんののの御御おん計計はからひらひらいなりなりなりとととぞぞぞ見見みえええたりたりたりけるけるける。。。
現代語訳
同月(八月)十日、木曾は左馬頭になって越後国を賜った。そのうえ「朝日の将軍」と称せよという院宣を下された。十郎蔵人行家は備後守になって備後国を賜った。木曾が越後を嫌ったので伊予を賜り、十郎蔵人が備後を嫌ったので備前を賜った。そのほか源氏十余人が、受領・検非違使・靫負尉・兵衛尉に任じられた。同月十六日、前内大臣宗盛公以下、平家の一族百六十人が官職を停止され、殿上の名簿から名を削られた。そのなかで平大納言時忠卿、内蔵頭信基、讃岐中将時実の父子三人は削られなかった。そのわけは、天皇と三種の神器を無事に都へお返し申せと、時忠卿のもとへたびたび仰せ下されていたためである。
あくる十七日、平家は筑前国三笠郡の大宰府にお着きになった。菊池次郎高直は都から平家のお供をしていたが、大津山の関を開けてお通し申しましょうといって肥後国へ越え、自分の城に引きこもって、召しても召しても参らない。そのほか九州・二島(壱岐・対馬)の者たちも、みな参りますとの承諾は申しながら、一人も参らない。今は岩戸の少卿大蔵種直だけが控えていた。同月十八日、平家は安楽寺(太宰府天満宮)に参り、夜通し歌を詠み連歌をして神にお仕えになったが、なかでも本三位中将重衡卿は、
(住みなれた古い都の恋しさは、昔都を追われてこの地に来られた神も、身にしみてご存じのことでしょう)
人々はまことに哀れに思って、みな袖を濡らされた。
同月二十日、都では法皇の宣命によって、四の宮が閑院殿で位におつきになった。摂政はもとの摂政近衛殿(基通)が変わらずにお勤めになる。蔵人頭や蔵人を任命して、人々はみな退出された。三の宮の乳母は泣き悲しんで後悔したが、どうにもならない。天に二つの太陽はなく、国に二人の王はないとは申すけれども、平家の悪行によって、京と田舎に二人の帝がおられることになった。
昔、文徳天皇が天安二年八月二十三日に崩御された。御子の宮たちが大勢、御位に望みをかけておられたので、内々にお祈りがいろいろ行われた。第一皇子の惟喬親王を木原の皇子とも申した。王者としての才覚を心にかけ、天下の安危を手のひらの中のように明らかにし、歴代の帝の治乱を心にとめておられた。だから賢王の名をも得られるにちがいない君と見えた。第二皇子の惟仁親王は、当時の摂政忠仁公(藤原良房)の娘、染殿の后(明子)のお生みになった方である。一門の公卿が連なって大切にお世話申していたので、これもまた捨ておきがたい方であった。一方は先帝の文を守り位を継ぐ器量があり、他方は政務を補佐する臣下の後ろ盾がある。どちらもいとおしくて、どちらに決めるか思い悩まれた。
第一皇子惟喬親王の方のお祈りは、柿本の紀僧正真済といって、東寺の一の長者で弘法大師の御弟子である。第二皇子惟仁親王の方のお祈りは、外祖父忠仁公の護持僧、比叡山の恵亮和尚がお引き受けになった。どちらも劣らぬ高僧である。すぐには決着がつかないのではないかと、人々は内々ささやき合った。案の定、帝が崩御されたので、公卿の会議があった。「そもそも臣下の考えで選んで位におつけすることは、えこひいきがあるように見える。人々が非難するだろう。それより競馬と相撲の節会を行い、その運を見て、勝ち負けによって帝位をお授けするのがよい」と決定した。
そうしているうちに、同年九月二日、二人の宮は右近の馬場へお出ましになった。ここに王公・卿相は玉の轡を並べ、花やかな袂をよそおって、雲のように重なり、星のように連なっておられた。これはまれに見る晴れの行事で、天下の壮観であり、日ごろ心を寄せ申していた公卿・殿上人は両方に分かれて、手に汗を握り、心をくだかれた。お祈りの高僧たちも、どうしておろそかにすることがあろうか。真済僧正は東寺に壇を立て、恵亮和尚は大内裏の真言院に壇を立てて祈られたが、恵亮が死んだと言いふらせば、真済僧正が少し気をゆるめることもあろうかといって、恵亮は死んだと言いふらして、肝胆をくだいて祈られた。
いよいよ十番の競馬が始まる。はじめの四番は第一皇子惟喬親王の方がお勝ちになる。後の六番は第二皇子惟仁親王の方がお勝ちになる。続いて相撲の節会があるというので、惟喬親王の方からは那都羅の右兵衛督といって、およそ六十人分の力があるという恐ろしい人を出された。惟仁親王の方からは善雄の少将といって、背が小さく、ほっそりとして、片手で相手になるとも見えない人を、夢のお告げがあったといって、申し受けて出された。
やがて那都羅と善雄が寄り合って、ひしひしと組み合ってはまた離れた。しばらくして那都羅がさっと寄り、善雄をつかんで持ち上げ、二丈ほども投げ上げた。善雄はまっすぐに立ち直って倒れない。善雄がまたさっと寄って、那都羅をつかんで伏せようとする。けれども那都羅は大男で、上からのしかかってくる。善雄が危うく見えたので、御母の染殿の后から、お使いが櫛の歯のように次々と走り重なって、「味方はもう負けそうに見える。どうしたらよいか」とおっしゃったので、恵亮和尚は大威徳の法を行っておられたが、これは情けないことだといって、独鈷で自分の頭を突き破り、脳をくだいて乳に混ぜて護摩に焼き、黒煙を立てて、一心にもみにもんで祈られたところ、善雄は相撲に勝った。
第二皇子が位におつきになる。清和天皇がこの方である。のちには水尾の天皇とも申した。それ以来、山門(延暦寺)では、ちょっとしたことにつけても、「恵亮が脳をくだけば二の宮が帝位につき、尊意が智剣を振るえば菅原道真の霊も聞き入れられた」と伝えている。これだけは法力でもあったろうか、そのほかはみな天照大神のお計らいであると見えた。
意訳
平家が九州に落ちつく一方、都では義仲・行家が国守に任じられ、平家一門は官職を奪われた。四の宮(後鳥羽天皇)の即位によって、安徳天皇と並んで「二人の王」が立つという異常な事態になる。九州の武士も平家に従わず、大宰府での重衡の歌には、都を追われた菅原道真の境遇に自分たちを重ねる思いがこめられている。
後半の那都羅と善雄の相撲は、帝位が人の思惑を超えたもので決まるという例として引かれる。恵亮が自らの頭をくだいて祈った話は比叡山の法力の誇りとして伝えられたが、語り手はそれも含めて、帝位はつまるところ天照大神の計らいによるとまとめ、後鳥羽天皇の即位を正当なものとして位置づけている。
語釈・文法注
文法
- 「朝日の將軍」
- 義仲に与えられた称号。のちの『吾妻鏡』などでは「旭将軍」とも書く。
- 「賜ぶ」
- 「たぶ」。「賜ふ」と同じく、お与えになる意。
- 「靫負の尉」
- 衛門府の尉。靫負は衛門府の別名。
- 「殿上の御簡」
- 殿上の間に掛ける、昇殿を許された者の名を記した札(日給の簡)。名を削ることは昇殿を止めること。
- 「岩戸の諸卿」
- 大宰少弐を務めた大蔵種直を、地名の岩戸と官名の少卿で呼んだもの。「諸卿」は底本の表記。
- 「神も昔におもひ知るらむ」
- 安楽寺に祀られる菅原道真が、昔都を追われて大宰府に流されたことを踏まえる。
- 「守文繼體」
- 先帝の定めた法を守り、皇統を継ぐこと。
- 「萬人脣をかへすべし」
- 人々が口をそろえて非難するであろう。
- 「議定をはんぬ」
- 「をはんぬ」は「をはりぬ」の音便。評定が終わった。
- 「かさに廻る」
- 上からのしかかるように押してくる。
- 「尊意智劍を振つしかば、菅相納受し給ふ」
- 天台座主尊意が法力で菅原道真(菅相)の怨霊を鎮めたという伝え。
和歌
住みなれしふるき都の戀しさは神も昔におもひ知るらむ
- 詠者
- 平重衡
- 状況
- 大宰府に落ちた平家が安楽寺(菅原道真の廟所)に参り、夜通し歌や連歌を奉納したときの歌。
修辞
- 神も昔に
- 安楽寺の祭神菅原道真も、昔、都を追われてこの地に流されたので、都を恋しく思う心を知っておられるだろう、の意。
解説
後鳥羽天皇は寿永二年(1183)八月二十日、神器のないまま践祚した。安徳天皇は退位しておらず、平家が滅ぶ文治元年(1185)まで二人の天皇が並び立った。平家一門の解官は八月六日と伝えられ、本章段の日付とは異なる。
惟喬親王と惟仁親王の皇位争いの話は、『平家物語』のほか『江談抄』『曽我物語』などにも見えるが、史実としては、惟仁親王は生後まもなく立太子しており、相撲で決まったわけではない。惟喬親王はのちに出家して小野に隠棲し、在原業平との交流が『伊勢物語』に描かれている。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、604–608頁(コマ331–333)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日