平家物語 巻第八
山門御幸の事
平家が都を落ちる前夜、後白河法皇はひそかに御所を抜け出して比叡山に入り、公卿たちはこぞって山に参った。法皇は木曾義仲の軍に守られて都へ帰り、義仲と行家に平家追討を命じる。西国へ連れ去られた安徳天皇に代わる帝を立てるため、法皇は高倉院の皇子たちを呼び寄せ、人見知りせずに膝に乗った四の宮(後鳥羽天皇)を位につけることに心を決めた。四の宮を西国へ連れ出されかけたところで引き止めた紀伊守範光は、落書の歌によって正三位に叙せられた。
- 1壽壽じゅ永永えい二二に年年ねん七七しち月月がつ二二に十十じゅう四四よっ日日かののの夜夜や半半はんばかりばかりばかり、、、法法ほう皇皇おうははは按按あ察察ぜ使使ち大大だい納納な言言ごん資資すけ賢賢かたののの卿卿きょうののの子子し息息そく右右う馬馬まののの頭頭かみ資資すけ時時ときばかりばかりばかりををを御御おん供供ともにてにてにて、、、ひそかひそかひそかににに御御ご所所しょををを出出いでででさせさせさせ給給たまひひいててて、、、鞍鞍くら馬馬まののの奧奧おくへへへ御御ご幸幸こうなるなるなる。。。寺寺じ僧僧そうどもどもども、、、「「「これこれこれはははなほなほなお都都みやこ近近ちこうううててて惡惡あしうしうしゅう候候そうらひひいなんなんなん。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、さらばさらばさらばとてとてとて、、、笹笹ささののの峯峯みね、、、藥藥やく王王おう坂坂ざかなどなどなどいふいふいうさかしきさかしきさかしき險險けん難難なんををを凌凌しのがががせせせ給給たまひひいててて、、、横横よ川川かわののの解解げ脫脫だつ谷谷だに寂寂じゃく定定じょう坊坊ぼうへへへ入入いらららせせせおはしますおはしますおわします。。。大大だい衆衆しゅ起起おこつつっててて、、、「「「東東とう塔塔とうへへへこそこそこそ御御ご幸幸こうはははなるなるなるべけれべけれべけれ。。。」」」ととと申申もうしししけれけれければばば、、、東東とう塔塔とうののの南南みなみ谷谷だに圓圓えん融融ゆう坊坊ぼう御御ご所所しょににになるなるなる。。。斯斯かかりかりかりしかしかしかばばば衆衆しゅ徒徒とももも武武ぶ士士しももも、、、みなみなみな圓圓えん融融ゆう坊坊ぼうををを守守しゅ護護ごししし奉奉たてまつるるる。。。法法ほう皇皇おうははは仙仙せん洞洞とうををを出出いでででててて天天てん台台だい山山さんへへへ、、、主主しゅ上上しょうははは鳳鳳ほう闕闕けつををを去去さつつっててて西西さい海海かいへへへ、、、攝攝せつ政政しょう殿殿どのははは吉吉よし野野のののの奧奧おくとととかやかやかや。。。女女にょ院院いん宮宮みや々々みやははは八八や幡幡はた、、、賀賀か茂茂も、、、嵯嵯さ峨峨が、、、太太うず秦秦まさ、、、西西にし山山やま、、、東東ひがし山山やまのののかたかたかたほとりほとりほとりににについついついててて、、、逃逃にけけけ遁遁のがれれれさせさせさせ給給たまひひいけりけりけり。。。平平へい家家けははは落落おちちちぬれぬれぬれどどど、、、源源げん氏氏じははは未未いまだだだ入入いりりり代代かわらららずずず、、、既既すでにににこのこのこの京京きょうははは主主ぬしなきなきなき里里さととととぞぞぞなりなりなりにににけるけるける。。。開開かい闢闢びゃくよりよりよりこのこのこのかたかたかた、、、斯斯かかるかるかる事事ことあるあるあるべしべしべしとととももも覺覺おぼえええずずず。。。聖聖しょう德德とく太太たい子子しののの未未み來來らい記記きにににももも、、、今日今日きょうののの事事ことこそこそこそゆかしけれゆかしけれゆかしけれ。。。
- 2さるさるさる程程ほどににに法法ほう皇皇おう天天てん台台だい山山さんににに渡渡わたらららせせせ給給たまふふうととと聞聞きこえええしかしかしかばばば、、、御御おん迎迎むかへへえににに馳馳はせせせ參參まいらららせせせ給給たまふふう人人ひと々々びと、、、そのそのその頃頃ころののの入入にゅう道道どう殿殿どのとととははは前前さきののの關關かん白白ぱく松松まつ殿殿どの、、、當當とう殿殿どのとととははは近近こん衞衞え殿殿どの、、、太太だい政政じょう大大だい臣臣じん、、、左左さ右右ゆうののの大大だい臣臣じん、、、内内ない大大だい臣臣じん、、、大大だい納納な言言ごん、、、中中ちゅう納納な言言ごん、、、宰宰さい相相しょう、、、三三さん位位み、、、四四し位位い、、、五五ご位位いののの殿殿てん上上じょう人人びと、、、すべてすべてすべて世世よににに人人ひとととと數數かぞへへへられられられ、、、官官かん加加か階階かいににに望望のぞみみみをををかけかけかけ、、、所所しょ帶帶たい所所しょ職職しょくををを帶帶たいするするする程程ほどののの人人ひとののの、、、一一いち人人にんももも洩洩もるゝるゝるるはははなかりなかりなかりけりけりけり。。。圓圓えん融融ゆう坊坊ぼうにににはははあまりあまりあまりににに人人ひと多多おおくくく參參まいりりりつどひつどひつどいててて、、、堂堂どう上上しょう堂堂どう下下か、、、門門もん外外げ門門もん内内ない、、、ひまひまひまはざまはざまはざまもももなうなうのうぞぞぞ充充みちちち滿滿みちちちたるたるたる。。。山山さん門門もん繁繁はん昌昌じょう、、、門門もん跡跡ぜきののの面面めん目目ぼくとととこそこそこそ見見みえええたりたりたりけれけれけれ。。。
- 3同同おなじきじきじき二二に十十じゅう八八はち日日にち、、、法法ほう皇皇おう都都みやこへへへ還還かん御御ぎょなるなるなる。。。木木き曾曾そ五五ご萬萬まん餘餘よ騎騎きででで守守しゅ護護ごししし奉奉たてまつるるる。。。近近おう江江み源源げん氏氏じ山山やま本本もとののの冠冠かん者者じゃ義義よし高高たか、、、白白しら旗旗はた差差さいいいててて先先せん陣陣じんににに供供ぐ奉奉ぶすすす。。。このこのこの二二に十十じゅう餘餘よ年年ねん見見みざりざりざりつるつるつる白白しら旗旗はたののの、、、今日今日きょう始始はじめめめててて都都みやこへへへ入入いるるる。。。めづらしかりめづらしかりめずらしかりししし見見けん物物ぶつなりなりなり。。。十十じゅう郎郎ろう藏藏くら人人んど行行ゆき家家いえ、、、數數す千千せん騎騎ぎででで宇宇う治治じ橋橋ばしををを渡渡わたつつっててて都都みやこへへへ入入いるるる。。。陸奧陸奧みちのくののの新新しん判判ほう官官がん義義よし康康やすががが子子こ矢矢や田田だののの判判ほう官官がん代代だい義義よし淸淸きよ、、、大大おお江江え山山やまををを經經へててて上上しょう洛洛らくすすす。。。またまたまた攝攝つ津津のののの國國くに、、、河河こう内内ちののの源源げん氏氏じ等等ら同同どう心心しんしししててて、、、同同おなじうじうじゅう都都みやこへへへ亂亂みだれれれ入入いるるる。。。およそおよそおよそ京京きょう中中じゅうにににははは源源げん氏氏じののの勢勢せい充充みちちち滿滿みちちちたりたりたり。。。
- 4勘勘か解解げ由由ゆののの小小こう路路じののの中中ちゅう納納な言言ごん經經つね房房ふさののの卿卿きょう、、、檢檢けん非非び違違い使使しののの別別べつ當當とう左左さ衞衞え門門もんののの督督かみ實實さね家家いえ兩兩りょう人人にん、、、院院いんののの殿殿てん上上じょうののの簀簀す子子のこににに候候さぶらひひいててて、、、義義よし仲仲なか、、、行行ゆき家家いえををを召召めすすす。。。木木き曾曾そそのそのその日日ひののの裝裝しょう束束ぞくにににははは、、、赤赤あか地地じののの錦錦にしきののの直直ひた垂垂たれににに、、、唐唐から綾綾あや縅縅おどしののの鎧鎧よろい著著きててて、、、いかいかいか物物ものづくりづくりづくりののの太太た刀刀ちををを佩佩はききき、、、二二に十十じゅう四四しさいさいさいたるたるたる切切きり斑斑ふののの矢矢や負負おひひい、、、滋滋しげ籐籐どうののの弓弓ゆみ脇脇わきににに挾挾はさみみみ、、、兜兜かぶとをををばばばぬいぬいぬいででで高高たか紐紐ひもにににかけかけかけ、、、跪跪ひざまずいいいてててぞぞぞ候候さぶらひひいけるけるける。。。十十じゅう郎郎ろう藏藏くら人人んど行行ゆき家家いえははは、、、紺紺こん地地じののの錦錦にしきののの直直ひた垂垂たれににに黑黑くろ絲絲いと縅縅おどしののの鎧鎧よろい著著きててて、、、黑黑こく漆漆しつののの太太た刀刀ちををを佩佩はききき、、、二二に十十じゅう四四しさいさいさいたるたるたる大大おお中中なか黑黑ぐろののの矢矢や負負おひひい、、、塗塗ぬり籠籠ごめ籐籐どうののの弓弓ゆみ脇脇わきににに挾挾はさみみみ、、、これこれこれももも兜兜かぶとをををぬいぬいぬいででで高高たか紐紐ひもにににかけかけかけ、、、畏畏かしこまつまつまってててぞぞぞ候候さぶらひひいけるけるける。。。前前さきののの内内ない大大だい臣臣じん宗宗むね盛盛もり公公こうををを始始はじめめめとととしてしてして、、、平平へい家家けののの一一いち族族ぞくみなみなみな追追つい討討とうすすすべきべきべき由由よし、、、仰仰おおせせせ下下くださささるるる。。。兩兩りょう人人にん庭庭てい上上しょうににに畏畏かしこまりまりまり承承うけたまわつつってててまかりまかりまかり出出いづづず。。。各各おのおの宿宿しゅく所所しょなきなきなきよしよしよしををを奏奏そう聞聞もんすすす。。。木木き曾曾そははは大大だい膳膳ぜんののの大大だい夫夫ぶ成成なり忠忠ただががが宿宿しゅく所所しょ、、、六六ろく條條じょう西西にしののの洞洞とう院院いんををを下下くださささるるる。。。十十じゅう郎郎ろう藏藏くら人人んど行行ゆき家家いえははは法法ほう住住じゅう寺寺じ殿殿どのののの南南みなみ殿殿どのととと申申もうすすす、、、賀賀か陽陽やののの御御ご所所しょをををぞぞぞ賜賜たまははわりりりけるけるける。。。
- 5主主しゅ上上しょうははは外外がい戚戚せきののの平平へい家家けににに捕捕とらははわれれれさせさせさせ給給たまひひいててて、、、西西さい海海かいののの波波なみののの上上うえににに漂漂ただよははわせせせ給給たまふふう事事ことををを、、、法法ほう皇皇おうなのめなのめなのめならならならずずず御御おん歎歎なげきききあつあつあっててて、、、主主しゅ上上しょう竝竝ならびににに三三さん種種しゅののの神神じん器器ぎ、、、ことことことゆゑゆゑゆえなうなうのう都都みやこへへへ返返かえししし入入いれれれ奉奉たてまつるるるべきべきべき由由よし、、、西西さい國國こくへへへ仰仰おおせせせ下下くだささされれれけれけれけれどもどもども、、、平平へい家家け用用もちゐゐい奉奉たてまつらららずずず。。。高高たか倉倉くら院院いんののの皇皇み子子こははは、、、主主しゅ上上しょうののの外外ほか三三み所所ところおはしましおはしましおわしましききき。。。中中なかにににももも二二にののの宮宮みやをををばばば、、、儲儲もうけの君君きみにににししし奉奉たてまつらららんんんとてとてとて、、、平平へい家家け取取とりりり奉奉たてまつつつっててて西西さい國國こくへへへ落落おちちち下下くだりりりぬぬぬ。。。三三さん四四しははは都都みやこにににまし〳〵まし〳〵ましましけりけりけり。。。八八はち月月がつ五五いつ日日か、、、法法ほう皇皇おうこのこのこの宮宮みやたちたちたち迎迎むかへへえ寄寄よせせせ參參まいらららさせさせさせ給給たまひひいててて、、、まづまづまず三三さんののの宮宮みやののの五五ご歳歳さいにににならならならせせせまし〳〵まし〳〵ましましけるけるけるををを、、、法法ほう皇皇おう、、、「「「あれあれあれはははいかにいかにいかに。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おうををを見見み參參まいらせらせらせ給給たまひひいててて、、、大大おおきききにににむつがらむつがらむつがらせせせ給給たまふふう間間あいだ、、、「「「とう〳〵とう〳〵とうとう。。。」」」とてとてとて、、、出出いだししし參參まいらせらせらせ給給たまひひいけりけりけり。。。そのそのその後後のち、、、四四しののの宮宮みやののの四四し歳歳さいにににならならならせせせまし〳〵まし〳〵ましましけるけるけるををを、、、法法ほう皇皇おう、、、「「「あれあれあれはははいかにいかにいかに。。。」」」ととと仰仰おおせせせけれけれければばば、、、やがてやがてやがて法法ほう皇皇おうののの御御おん膝膝ひざののの上上うえににに參參まいらららさせさせさせ給給たまひひいててて、、、なのめなのめなのめならならならずずず、、、なつかしげなつかしげなつかしげにてにてにてぞぞぞまし〳〵まし〳〵ましましけるけるける。。。
- 6法法ほう皇皇おう御御おん涙涙なみだををを流流ながさささせせせ給給たまひひいててて、、、「「「げにげにげにもももすゞろすゞろすずろならならならんんん者者ものののの、、、このこのこの老老おい法法ほう師師しををを見見みててて、、、いかでいかでいかでかかかなつかしげなつかしげなつかしげにににははは思思おもふふうべきべきべき。。。これこれこれぞぞぞまことまことまことのののわがわがわが御御おん孫孫まごにてにてにておはしますおはしますおわします。。。故故こ院院いんののの幼幼おさ生生なひひいににに少少すこしししももも違違たがははわせせせ給給たまははわぬぬぬものものものかなかなかな。。。これこれこれ程程ほどののの忘忘わすれれれがたみがたみがたみををを、、、今今いままでまでまで御御ご覽覽らんぜぜぜられられられざりざりざりつるつるつることことことよよよ。。。」」」とてとてとて、、、御御おん涙涙なみだせきせきせきあへあへあえさせさせさせ給給たまははわずずず。。。
- 7淨淨じょう土土ど寺寺じののの二二に位位い殿殿どの、、、そのそのその時時ときははは未未いまだだだ丹丹たん後後ご殿殿どのとてとてとて、、、御御ご前前ぜんににに候候さぶらははわれれれけるけるけるががが、、、「「「さてさてさて御御おん位位くらいはははこのこのこの宮宮みやにてにてにてこそこそこそわたらわたらわたらせせせ給給たまひひい候候そうらははわめめめなうなうのう。。。」」」ととと申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、法法ほう皇皇おう、、、「「「仔仔し細細さいにににややや。。。」」」とととぞぞぞ仰仰おおせせせけるけるける。。。内内ない々々ない御御み占占うらのののありありありしししにににももも、、、四四しののの宮宮みや位位くらいににに御御おんつかつかつかせせせ給給たまははわばばば、、、百百はく王王おうまでまでまでももも日日にっ本本ぽん國國ごくののの御御おんあるじあるじあるじたるたるたるべしべしべしとととぞぞぞ勘勘かんがへへえ申申もうしししけるけるける。。。御御おん母母ぼ儀儀ぎははは七七しち條條じょうののの修修しゅ理理りののの大大だい夫夫ぶ信信のぶ隆隆たかののの卿卿きょうののの御御おん女女むすめなりなりなり。。。中中ちゅう宮宮ぐうののの御御おん方方かたににに宮宮みや仕仕づかへへえ給給たまひひいしししををを、、、主主しゅ上上しょう常常つねははは召召めささされれれ參參まいらせらせらせけるけるける程程ほどににに、、、宮宮みやあまたあまたあまた出出いででで來來きまゐらせまゐらせまいらせ給給たまひひいけりけりけり。。。
- 8このこのこの信信のぶ隆隆たかののの卿卿きょうははは御御おん女女むすめ多多おおくくくおはしましおはしましおわしましけれけれければばば、、、いづれいづれいずれにてにてにてももも女女にょう御御ご、、、后后きさきににに立立たててて參參まいらせらせらせたくたくたく思思おもははわれれれけるけるけるががが、、、人人ひとののの家家いえににに白白しろいいい鷄鷄にわとりををを千千せん飼飼かひひいつれつれつればばば、、、そのそのその家家いえににに必必かならずずず后后きさきののの出出いででで來來くととといふいふいうののの事事ことあれあれあればばばとてとてとて、、、鷄鷄にわとりののの白白しろきききををを千千せん揃揃そろへへえててて飼飼かはははれれれたりたりたりけるけるける故故ゆえにににややや、、、このこのこの御御おん女女むすめ皇皇み子子こあまたあまたあまた產產うみみみ參參まいらせらせらせ給給たまひひいけりけりけり。。。信信のぶ隆隆たかののの卿卿きょうももも内内ない々々ないうれしくうれしくうれしく思思おもははわれれれけれけれけれどもどもども、、、或或あるいははは平平へい家家けにににもももおそれおそれおそれをををなしなしなし、、、或或あるいははは中中ちゅう宮宮ぐうををを憚憚はばかりりり奉奉たてまつつつっててて、、、もてなしもてなしもてなし奉奉たてまつるるる事事こともももなかりなかりなかりしししををを、、、入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの北北きたののの方方かた八八はち條條じょうののの二二に位位い殿殿どの、、、「「「よし〳〵よし〳〵よしよし、、、苦苦くるしかるしかるしかるまじまじまじ。。。われわれわれ育育そだててて參參まいらせらせらせててて、、、儲儲もうけの君君きみにににししし奉奉たてまつらららんんん。。。」」」とてとてとて、、、御御おん乳乳めの母母とあまたあまたあまたつけつけつけててて、、、もてなしもてなしもてなし參參まいらららさせさせさせ給給たまひひいけりけりけり。。。
- 9中中なかにににももも四四しののの宮宮みやははは二二に位位い殿殿どのののの御御おん兄兄しょうと、、、法法ほっ勝勝しょう寺寺じののの執執しゅ行行ぎょう能能のう圓圓えん法法ほう印印いんののの養養やしない君君ぎみにてにてにてぞぞぞまし〳〵まし〳〵ましましけるけるける。。。然然しかるるるををを法法ほう印印いん平平へい家家けににに具具ぐせせせられられられててて、、、宮宮みやをををももも女女にょう房房ぼうをををももも京京きょう都都とににに捨捨すててて置置おききき、、、西西さい海海かいへへへ落落おちちち下下くだららられれれたりたりたりけるけるけるががが、、、法法ほう印印いん西西さい國國こくよりよりより人人ひとををを上上のぼせせせ、、、「「「宮宮みや誘誘いざなひひい參參まいらせらせらせててて、、、急急いそぎぎぎ下下くだりりりたまへたまへたまえ。。。」」」ととと申申もうししし上上あげげげられられられたりたりたりけれけれければばば、、、北北きたののの方方かたなのめなのめなのめならならならずずずににに悅悅よろこびびび、、、宮宮みや誘誘いざなひひい參參まいらせらせらせててて、、、西西にしののの七七しち條條じょうまでまでまで出出いでででられられられたりたりたりけるけるけるををを、、、女女にょう房房ぼうののの兄兄しょうと紀紀き伊伊いののの守守かみ範範のり光光みつ、、、「「「これこれこれはははものものもののののつきつきつきててて狂狂くるひひい給給たまふふうかかか。。。このこのこの宮宮みやののの御御ご運運うんはははたゞたゞただ今今いま開開ひらけけけさせさせさせ給給たまははわんんんずるずるずるものものものををを。。。」」」とてとてとて、、、取取とりりり止止とどめめめ奉奉たてまつつつったりたりたりけるけるける次次つぎののの日日ひぞぞぞ、、、法法ほう皇皇おうよりよりより御御おん迎迎むかへへえののの御御おん車車くるまははは參參まいりりりたりたりたりけるけるけるとととかやかやかや。。。何何なに事事ごとももも然然しかるるるべきべきべき事事こととととははは申申もうしししながらながらながら、、、紀紀き伊伊いののの守守かみ範範のり光光みつははは四四しののの宮宮みやののの御御おん爲爲ためにににははは、、、さしもさしもさしも奉奉ほう公公こうののの人人ひととととぞぞぞ見見みえええししし。。。されどもされどもされどもそのそのその忠忠ちゅうをををももも思思おぼし召召めししし寄寄よらららざりざりざりけるけるけるにににややや、、、空空むなしうしうしゅう年年とし月月つきををを送送おくりりりけるけるけるががが、、、あるあるある時時とき範範のり光光みつ、、、もしもしもしやややととと二二に首首しゅののの歌歌うたををを詠詠よみみみててて、、、禁禁きん中中ちゅうににに落落らく書書しょをををぞぞぞしししたりたりたりけるけるける。。。
- 10一一ひと聲聲こえはははおもひおもひおもい出出でててて啼啼なけけけほとゝぎすほとゝぎすほととぎすおいそおいそおいそののの森森もりののの夜夜よ半半はののの昔昔むかしををを
- 11籠籠こののの中中うちもももなほなほなおうらやましうらやましうらやまし山山やまがらがらがらののの身身みのののほどほどほどかくすかくすかくすゆふゆふゆう顏顏がおのののやどやどやど
- 12主主しゅ上上しょうこのこのこのよしよしよし聞聞きこし召召めしししててて、、、これこれこれ程程ほどののの事事ことををを、、、今今いままでまでまで思思おぼし召召めししし寄寄よらららざりざりざりけるけるけるこそこそこそ、、、かへす〴〵かへす〴〵かえすがえすもももおろかおろかおろかなれなれなれとてとてとて、、、やがてやがてやがて朝朝ちょう恩恩おん蒙蒙こうむつつっててて正正じょう三三さん位位みににに敍敍じょせせせられられられけるけるけるとととぞぞぞ聞聞きこえええししし。。。
現代語訳
寿永二年七月二十四日の夜半ごろ、法皇は按察使大納言資賢卿の子息、右馬頭資時だけをお供にして、ひそかに御所をお出になり、鞍馬の奥へ御幸なさった。寺の僧たちが「ここはやはり都に近くて具合が悪うございましょう」と申したので、それならばといって、笹の峰・薬王坂などという険しい難所を越えられて、横川の解脱谷の寂定坊へお入りになる。比叡山の大衆が立ち上がって、「東塔へこそ御幸なさるべきです」と申したので、東塔の南谷の円融坊が御所となった。こういうわけで、衆徒も武士もみな円融坊をお守りした。法皇は仙洞御所を出て天台山(比叡山)へ、天皇は宮城を去って西海へ、摂政殿は吉野の奥とかいうことである。女院や宮々は八幡・賀茂・嵯峨・太秦・西山・東山のはずれに身を寄せて、逃げ隠れなさった。平家は落ちたけれども、源氏はまだ入れ代わっておらず、もはやこの京は主のない里となってしまった。国の開けて以来、このようなことがあろうとは思われない。聖徳太子の未来記にも、今日のことはどう書かれているのか知りたいものである。
そうするうちに、法皇が天台山においでになると聞こえたので、お迎えに馳せ参られた人々は、当時の入道殿という前関白の松殿(基房)、当殿という近衛殿(基通)をはじめ、太政大臣、左右の大臣、内大臣、大納言、中納言、宰相、三位・四位・五位の殿上人と、すべて世間で人並みに数えられ、官位の昇進に望みをかけ、所領や官職を持つほどの人で、一人も漏れる者はなかった。円融坊にはあまりに多くの人が参り集まって、堂の上も堂の下も、門の外も門の内も、すきまもないほどに満ちあふれた。山門の繁栄、門跡の面目と見えた。
同月二十八日、法皇は都へお帰りになった。木曾が五万余騎でお守りした。近江源氏の山本冠者義高が白旗を差して先陣にお供した。この二十余年見ることのなかった源氏の白旗が、今日はじめて都へ入る。珍しい見物であった。十郎蔵人行家は数千騎で宇治橋を渡って都へ入る。陸奥新判官義康の子、矢田判官代義清は大江山を通って上洛する。また摂津国・河内国の源氏たちも同心して、同じく都へなだれこむ。およそ京中には源氏の軍勢が満ちあふれた。
勘解由小路中納言経房卿と、検非違使別当の左衛門督実家の二人が、院の殿上の簀子に控えて、義仲と行家を召した。木曾のその日の装束は、赤地の錦の直垂に唐綾縅の鎧を着て、いかめしい作りの太刀を佩き、二十四本差した切斑の矢を負い、滋籐の弓を脇に挟み、兜を脱いで高紐にかけ、ひざまずいて控えていた。十郎蔵人行家は紺地の錦の直垂に黒糸縅の鎧を着て、黒漆の太刀を佩き、二十四本差した大中黒の矢を負い、塗籠籐の弓を脇に挟み、これも兜を脱いで高紐にかけ、かしこまって控えていた。前内大臣宗盛公をはじめとして、平家の一族をみな追討せよとの仰せが下された。二人は庭上でかしこまって承り、退出した。それぞれ宿所がないことを申し上げると、木曾には大膳大夫成忠の宿所である六条西洞院が下され、十郎蔵人行家には法住寺殿の南殿という賀陽の御所が与えられた。
天皇が外戚の平家に捕らわれなさって、西海の波の上にさまよっておられることを、法皇はひとかたならずお嘆きになって、天皇と三種の神器を無事に都へお返し申せと西国へ仰せ下されたが、平家は従わなかった。高倉院の皇子は、天皇のほかに三人おられた。そのうち二の宮を皇太子にしようといって、平家がお連れして西国へ落ちていった。三の宮と四の宮は都におられた。八月五日、法皇はこの宮たちをお呼び寄せになって、まず五歳になられる三の宮に「あれは誰か」とおっしゃると、宮は法皇をご覧になって、ひどくむずかりなさったので、「早く早く」といって連れ出させなさった。その後、四歳になられる四の宮に「あれは誰か」とおっしゃると、宮はすぐに法皇のお膝の上にお上りになって、たいそうなつかしそうにしておられた。
法皇は涙を流されて、「本当に、縁もゆかりもない者が、この老法師を見て、どうしてなつかしそうに思うだろうか。これこそまことのわが孫でいらっしゃる。故院(高倉院)の幼いころのお姿に少しも違っておられないことよ。これほどの形見を、今まで見ずにいたことよ」といって、涙をおさえきれなかった。
浄土寺の二位殿(丹後局)は、そのころはまだ丹後殿といって御前に控えておられたが、「それでは御位はこの宮にこそお定めになるのでございましょうね」と申されたので、法皇は「言うまでもない」とおっしゃった。内々に占いをさせたときにも、四の宮が位におつきになれば、百代の後までも日本国の主となられるであろうと占い申した。御母は七条修理大夫信隆卿の娘である。中宮(建礼門院)の御方に宮仕えしておられたのを、天皇がいつもお召しになっているうちに、宮が大勢お生まれになった。
この信隆卿は娘が多くおありだったので、どの娘でも女御や后に立てたいと思っておられたが、人の家で白い鶏を千羽飼えば、その家に必ず后が出るということがあるといって、白い鶏を千羽そろえて飼われたためであろうか、この娘は皇子を大勢お生みになった。信隆卿も内心うれしく思われたが、一つには平家にも恐れをなし、一つには中宮に遠慮して、大事にお世話することもなかったのを、入道相国の北の方である八条の二位殿が、「よいよい、かまうまい。私がお育て申して、皇太子にしよう」といって、乳母を大勢つけて大切にお世話なさった。
なかでも四の宮は、二位殿の兄の法勝寺執行能円法印の養君でいらっしゃった。ところが法印は平家に連れられて、宮も妻も京都に残したまま西海へ落ちていったが、法印が西国から使いをよこして、「宮をお連れして急いで下ってきなさい」と申し上げてきたので、北の方はたいそう喜んで、宮をお連れして西の七条まで出られたところを、北の方の兄の紀伊守範光が、「これは物の怪がついて正気を失われたのか。この宮のご運はいまにも開けようとしているのに」といって、お引き止め申したその次の日に、法皇からのお迎えの御車が参ったということである。何事もそうなるべき定めとは申しながら、紀伊守範光は四の宮のためには、たいへんな忠義の人と見えた。けれども天皇はその忠義をお思い出しにならなかったのか、範光はむなしく年月を送っていたが、あるとき範光は、もしやと思って二首の歌を詠んで、宮中に落書をした。
(ほととぎすよ、一声だけでも思い出して鳴いておくれ。老蘇の森の、あの夜半の昔のことを)
(籠の中にいてもやはりうらやましい。山雀が身を隠す夕顔の宿のように、身の置き所のあるものは)
天皇はこのことをお聞きになって、これほどのことを今まで思い出さなかったのは、かえすがえすも行き届かないことだといって、すぐに朝廷の恩を受けて正三位に叙せられたと聞こえた。
意訳
巻第八の冒頭の章段である。平家が安徳天皇と三種の神器を奉じて西へ落ちる前夜、後白河法皇は比叡山に逃れて平家と行動を共にすることを避けた。都に残った公卿たちがこぞって山に参ったことは、政治の中心が平家から法皇へ戻ったことを示している。
法皇は、膝に抱かれてなついた四の宮を新しい帝に選ぶ。のちの後鳥羽天皇である。帝の選びが幼い皇子のふるまいと占いで決まったと語るところに、天皇が二人並び立つという異常な事態の始まりが、静かに描かれている。範光の二首は、自分の忠義を忘れないでほしいという訴えを、ほととぎすや山雀に託したものである。
語釈・文法注
文法
- 「逃け遁れさせ給ひけり」
- 底本は「逃け」と濁点なしで刷る。「逃げ」と読む。
- 「聖德太子の未來記」
- 聖徳太子が未来のことを書き記したと伝えられる予言の書。
- 「入道殿とは前の關白松殿、當殿とは近衞殿」
- 松殿は藤原基房、近衛殿は藤原基通。「當殿」は当時の摂政。
- 「二十四さいたる」
- 箙に矢を二十四本差している。
- 「仔細にや」
- 「わけがあろうか、いや言うまでもない」の意。
- 「出で來といふの事」
- 底本どおり。「出で來」は連体形「出で來る」に当たる。
- 「なのめならずに悅び」
- 底本は「なのめならずに」と刷る。
- 「もののつきて」
- 物の怪がとりついて。正気を失ったのかと責める言葉。
和歌
一聲はおもひ出て啼けほとゝぎすおいその森の夜半の昔を
- 詠者
- 紀伊守範光
- 状況
- 四の宮(後鳥羽天皇)を西国へ連れ出されかけたところを引き止めたのに、恩賞の沙汰がなかったので、宮中に落書として書いた歌。
修辞
- おいその森
- 近江国の歌枕「老蘇の森」。「老い」を掛け、老いた自分を思い出してほしいと訴える。
- 夜半の昔
- 宮を引き止めた夜の昔のこと。
籠の中もなほうらやまし山がらの身のほどかくすゆふ顏のやど
- 詠者
- 紀伊守範光
- 状況
- 前の歌と同じときに書いた落書。
修辞
- 山がら
- 山雀。籠で飼われる小鳥。身を寄せる所のある山雀さえうらやましいと、不遇を嘆く。
- ゆふ顏のやど
- 夕顔の実をくりぬいて作った山雀の巣籠。
解説
後白河法皇の比叡山への脱出は寿永二年(1183)七月二十四日夜、平家の都落ちの前夜のことである。法皇が平家とともに西国へ下ることを避けたため、平家は天皇と神器だけを奉じて落ちることになった。法皇は同月二十八日、木曾義仲・源行家に守られて都へ戻り、二人に平家追討を命じた。
安徳天皇が西国にあるまま、法皇は八月二十日、高倉院の第四皇子尊成親王を践祚させた。後鳥羽天皇である。神器のないままの即位であり、以後しばらく、都と西国に二人の天皇が並び立つことになった。母は七条院殖子(坊門信隆の娘)である。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、600–604頁(コマ329–331)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日