平家物語 巻第七
福原落ちの事
福原の旧都に着いた宗盛は、侍たちを集めて、帝と三種の神器を奉じてどこまでも供をしてほしいと説き、侍たちは異口同音に、日本の外、雲の果て海の果てまでも御供すると誓った。その夜、清盛の造った福原の御所や館は、わずか三年で荒れ果てていた。翌朝、平家は福原の内裏に火をかけ、帝をはじめ皆が船に乗る。昨日は十万余騎、今日は七千余人となった平家は、波の上の都鳥にも都をしのびながら、西海へ漂っていった。
- 1平平へい家家けははは福福ふく原原はらののの舊舊きゅう里里りににに著著ついいいててて、、、大臣殿大臣殿おおいどの、、、しかるしかるしかるべきべきべき侍侍さぶらい、、、老老ろう少少しょう數數す百百ひゃく人人にん召召めしししててて、、、のたまひのたまひのたまいけるけるけるははは、、、「「「積積しゃく善善ぜんののの餘餘よ慶慶けい家家いえににに盡盡つききき、、、積積しゃく惡惡あくののの餘餘よ殃殃おう身身みににに及及およぶぶぶががが故故ゆえににに、、、神神しん明明めいにににももも放放はなたたたれれれ奉奉たてまつりりり、、、君君きみにににももも捨捨すてててられられられ參參まいらせらせらせててて、、、帝帝てい都都とををを出出いでででててて旅旅りょ泊泊はくににに漂漂ただよふふう上上うえははは、、、何何なにのののたのみたのみたのみかかかあるあるあるべきべきべきなれなれなれどもどもども、、、一一いち樹樹じゅののの陰陰かげににに宿宿やどるるるももも前前ぜん世世せののの契契ちぎりりり淺淺あさからからからずずず。。。同同おなじじじ流流ながれれれををを掬掬むすぶぶぶももも、、、他他た生生しょうののの緣緣えんなほなほなお深深ふかししし。。。況況いわんんんややや汝汝なんじ等等らははは一一いっ旦旦たん從從したがひひいつくつくつく門門もん客客かくにににあらあらあらずずず、、、累累るい祖祖そ相相そう傳傳でんののの家家け人人にんなりなりなり。。。或或あるいははは近近きん親親しんののの好好よしみみみ他他たににに異異ことなるなるなるものものものありありあり。。。或或あるいははは重重じゅう代代だい芳芳ほう恩恩おんこれこれこれ深深ふかきききもももありありあり。。。家家か門門もん繁繁はん昌昌じょうののの古古いにしえははは、、、そのそのその恩恩おん波波ぱににに依依よつつっててて私私わたくしををを顧顧かえりみみみききき、、、何何なんぞぞぞ今今いまそのそのその芳芳ほう恩恩おんははは報報むくははわざらざらざらんんんややや。。。然然しかれれればばば十十じゅう善善ぜん帝帝てい王王おう、、、三三さん種種しゅののの神神じん器器ぎををを帶帶たいしししててて渡渡わたらららせせせ給給たまへへえばばば、、、いかならいかならいかならんんん野野のののの末末すえ、、、山山やまののの奧奧おくまでまでまでももも、、、行行ぎょう幸幸こうののの御御おん供供とも申申もうしししててて、、、いかにいかにいかにもももなりなりなりなななんんんとととははは思思おもははわずずずややや。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、老老ろう少少しょうみなみなみな涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて、、、「「「あやしあやしあやしののの鳥鳥とり獸獸けだものももも恩恩おんををを報報ほうじじじ、、、德德とくををを報報むくふふう心心こころははは候候そうろうなりなりなり。。。況況いわんんんややや人人じん倫倫りんののの身身みとととしてしてしていかでいかでいかでかかかそのそのその理理ことわりををを存存ぞんじじじ仕仕つかまつらららでででははは候候そうろうべきべきべき。。。就就なか中中んずく弓弓きゅう箭箭せん馬馬ば上上しょうにににたづさはるたづさはるたずさわるならひならひならい、、、二二ふた心心ごころあるあるあるををを以以もっててて恥恥はじとととすすす。。。そのそのその上上うえこのこのこの二二に十十じゅう餘餘よ年年ねんががが閒閒あいだ、、、妻妻さい子子しをををはぐゝみはぐゝみはぐくみ、、、所所しょ從從じゅうををを顧顧かえりみみみ候候そうろう事事ことももも、、、併併しかしながらしながらしながら君君きみののの御御ご恩恩おんならならならずずずととといふいふいうことことことなしなしなし。。。しかれしかれしかればばば日日にっ本本ぽんののの外外ほか、、、新新しん羅羅ら、、、百百はく濟濟さい、、、高高こう麗麗らい、、、契契けい丹丹たん、、、雲雲くものののはてはてはて、、、海海うみのののはてはてはてまでまでまでももも行行ぎょう幸幸こうののの御御おん供供とも仕仕つかまつりりり、、、いかにいかにいかにもももなりなりなり候候そうらははわんんん。。。」」」ととと、、、異異い口口く同同どう音音おんににに申申もうしししたりたりたりけれけれければばば、、、人人ひと々々びとみなみなみなたのもしげたのもしげたのもしげにににぞぞぞ見見み給給たまひひいけるけるける。。。
- 2さるさるさる程程ほどににに平平へい家家けははは福福ふく原原はらののの舊舊きゅう里里りにににしてしてして、、、一一いち夜夜やをををぞぞぞあかさあかさあかされれれけるけるける。。。折折おりふしふしふし秋秋あきののの月月つきははは下下しもののの弦弦ゆみわりなりなりなり。。。深深しん更更こう空空くう夜夜や閑閑しずかにににしてしてして、、、旅旅たび寢寢ねののの床床とこののの草草くさ枕枕まくら、、、露露つゆももも涙涙なみだももも爭爭あらそひひいててて、、、唯唯ただものものもののみのみのみぞぞぞ悲悲かなしきしきしき。。。いついついつ歸歸かえるるるべしべしべしとととももも覺覺おぼえええねねねばばば、、、故故こ入入にゅう道道どう相相しょう國國こくののの造造つくりりり置置おききき給給たまへへえるるる、、、福福ふく原原はらののの所所ところ々々どころををを見見み給給たまふふうににに、、、春春はるははは花花はな見見みののの岡岡をかののの御御ご所所しょ、、、秋秋あきははは月月つき見見みののの濱濱はまののの御御ご所所しょ、、、泉泉いずみ殿殿どの、、、松松まつ陰陰かげ殿殿どの、、、馬馬ば場場ば殿殿どの、、、二二に階階かいののの棧棧さ敷敷じき殿殿どの、、、雪雪ゆき見見みののの御御ご所所しょ、、、萱萱かやののの御御ご所所しょ、、、人人ひと々々びとののの館館たちどもどもども、、、五五ご條條じょうののの大大だい納納な言言ごん國國くに綱綱つなののの卿卿きょうののの承承うけたまわつつっててて造造ぞう進進しんせせせられられられししし里里さと内内だい裏裏り、、、鴛鴛を鴦鴦しののの瓦瓦かわら、、、玉玉たまののの甃甃いしだたみ、、、いづれいづれいずれも〳〵も〳〵もいずれも、、、三三み年年とせががが程程ほどににに荒荒あれれれはてはてはてててて、、、舊舊きゅう苔苔たい道道みちををを塞塞ふさぎぎぎ、、、秋秋あきののの草草くさ門門かどををを閉閉とづづず。。。瓦瓦かわらににに松松まつ生生おひひい、、、垣垣かきににに蔦蔦つた茂茂しげれれれりりり。。。臺臺だい傾傾かたぶいいいててて苦苦こけむせむせむせりりり、、、松松まつ風風かぜのみのみのみややや通通かよふふうらんらんらん。。。簾簾すだれたえたえたえ閨閨ねやあらはあらはあらわなりなりなり、、、月月つき影影かげのみのみのみぞぞぞさしさしさし入入いりりりけるけるける。。。
- 3あけあけあけぬれぬれぬればばば福福ふく原原はらののの内内だい裏裏りににに火火ひをををかけかけかけててて、、、主主しゅ上上しょうををを始始はじめめめ參參まいらせらせらせててて、、、人人ひと々々びとみなみなみな御御ご船船せんににに召召めすすす。。。都都みやこををを出出いでででししし程程ほどこそこそこそはははなけれなけれなけれどもどもども、、、これこれこれももも名名な殘殘ごりははは惜惜おしかりしかりしかりけりけりけり。。。海海あ士士まののの燒燒たくくく藻藻もののの夕夕ゆう煙煙けぶり、、、尾尾を上上のへののの鹿鹿しかののの曉曉あかつきののの聲聲こえ、、、渚渚なぎさ々々なぎさににに寄寄よするするする波波なみののの音音おと、、、袖袖そでににに宿宿やどかるかるかる月月つきののの影影かげ、、、千千ち草草ぐさにににすだくすだくすだく蟋蟋しつ蟀蟀しゆつのののきり〴〵すきり〴〵すきりぎりす、、、すべてすべてすべて目目めににに見見み、、、耳耳みみににに觸觸ふるゝるゝるる事事ことののの、、、一一ひとつつつとととしてしてして哀哀あわれれれををを催催もよおししし、、、心心こころををを傷傷いたましめましめましめずずずととといふいふいう事事ことなしなしなし。。。昨日昨日きのうははは東東とう關關かんのののふもとふもとふもとににに轡轡くつばみををを竝竝ならべべべててて十十じゅう萬萬まん餘餘よ騎騎き、、、今日今日きょうははは西西さい海海かいののの波波なみののの上上うえににに纜纜ともずなをををといといといててて七七しち千千せん餘餘よ人人にん、、、雲雲うん海海かい沉沉ちん々々ちんとととしてしてして、、、青青せい天天てん既既すでににに暮暮くれれれなななんんんとととすすす。。。孤孤こ島島とうににに夕夕ゆう霧霧ぎり隔隔へだてててててて、、、月月つき海海かい上上じょうににに泛泛うかべべべりりり。。。極極きょく浦浦ほののの波波なみをををわけわけわけ、、、鹽鹽しおににに引引ひかかかれれれててて行行ゆくくく船船ふねははは、、、半半はん天天てんののの雲雲くもににに遡遡さかのぼるるる。。。日日ひ數數かずふれふれふればばば、、、都都みやこははは山山さん川川せんほどほどほどををを隔隔へだてててててて雲雲くも居居いのののよそよそよそにににぞぞぞなりなりなりにににけるけるける。。。はる〴〵はる〴〵はるばる來來きぬぬぬととと思思おもへへえどもどもども、、、たゞたゞただ盡盡つきききせせせぬぬぬものものものははは涙涙なみだなりなりなり。。。波波なみののの上上うえににに白白しろききき鳥鳥とりのののむれむれむれゐるゐるいるををを見見み給給たまひひいてててははは、、、あれあれあれならならならんんん在在あり原原はらののの某某なにがしののの、、、隅隅すみ田田だ川川がわにてにてにてことことこととひとひといけんけんけん、、、名名なもももむつまじきむつまじきむつまじき都都みやこ鳥鳥どりかなかなかなとととあはれあはれあわれなりなりなり。。。壽壽じゅ永永えい二二に年年ねん七七しち月月がつ二二に十十じゅう五五ご日日にちににに平平へい家家け都都みやこををを落落おちちちはてはてはてぬぬぬ。。。
現代語訳
平家は福原の旧都に着いて、大臣殿がしかるべき侍たち、老若数百人を召しておっしゃるには、「善を積んだ報いの余慶は家に尽き、悪を積んだ報いの災いが身に及んだために、神明にも見放され、君(法皇)にも捨てられて、都を出て旅の宿に漂う身となったうえは、何の頼みもあるはずはないが、一本の木の陰に宿るのも前世の因縁が浅くないからであり、同じ流れの水をすくうのも、前世の縁がなお深いからである。ましておまえたちは一時的に従っている門客ではなく、先祖代々の家人である。あるいは近親の好みが他とは異なる者もある。あるいは代々の恩がまことに深い者もある。一門が栄えていた昔は、その恩恵によって自分の家を養ってきた。どうして今その恩に報いないことがあろうか。それゆえ十善の帝王(安徳天皇)が三種の神器を帯びてお渡りになるのだから、どのような野の果て、山の奥までも行幸のお供をして、どうともなろうとは思わないか」とおっしゃると、老いも若きもみな涙を抑えて、「卑しい鳥や獣でも恩を報い、徳に報いる心はございます。まして人間の身として、どうしてその道理をわきまえずにいられましょうか。とりわけ弓矢を取り馬に乗る者のならいとして、二心のあることを恥といたします。そのうえこの二十余年の間、妻子を養い家来を顧みてまいりましたことも、すべて君のご恩でないものはありません。それならば日本の外、新羅・百済・高麗・契丹、雲の果て海の果てまでも、行幸のお供をして、どうともなりましょう」と異口同音に申したので、人々はみな頼もしそうにご覧になった。
そうこうするうちに、平家は福原の旧都で一夜を明かされた。折しも秋の月は下弦である。夜は更けて空はひっそりと静まり、旅寝の床の草枕に、露も涙も争うようにこぼれて、ただ何もかもが悲しい。いつ帰れるとも思われないので、故入道相国が造っておかれた福原のあちこちをご覧になると、春は花見の岡の御所、秋は月見の浜の御所、泉殿、松陰殿、馬場殿、二階の桟敷殿、雪見の御所、萱の御所、人々の館、五条大納言邦綱卿が承って造進された里内裏、鴛鴦の瓦、玉の敷石も、どれもこれもわずか三年の間に荒れ果てて、古い苔が道をふさぎ、秋草が門を閉ざしている。瓦には松が生え、垣には蔦が茂っている。高殿は傾いて苔むし、松風だけが通っているのであろうか。簾は破れて寝所もあらわになり、月の光だけが差しこんでいた。
夜が明けると、福原の内裏に火をかけて、天皇をはじめとして人々はみな御船に乗った。都を出たときほどではないが、ここも名残は惜しかった。海人が藻塩を焼く夕べの煙、峰の鹿の明け方の声、渚に寄せる波の音、袖の涙に映る月の影、草むらに鳴くこおろぎの声と、すべて目に見え耳に触れるもので、一つとして哀れを催し、心を傷ませないものはない。昨日は東国の関のふもとに轡を並べて十万余騎、今日は西海の波の上で纜を解いて七千余人。雲のかかる海は深く沈んで、青空はもう暮れようとしている。離れ島には夕霧が立ちこめ、月は海上に浮かんでいる。遠い浦の波を分け、潮に引かれて行く船は、空の半ばの雲の中へさかのぼって行くようである。日数がたつと、都は山や川を隔てて、遠い雲のかなたになってしまった。はるばる来たものだと思うが、ただ尽きないのは涙である。波の上に白い鳥が群れているのをご覧になっては、あれが在原業平が隅田川で問いかけたという、名もなつかしい都鳥であろうかと、しみじみ思われた。寿永二年七月二十五日に、平家は都をすっかり落ちてしまった。
意訳
巻第七を結ぶ章段である。福原で宗盛は侍たちに忠誠を求め、侍たちは雲の果て海の果てまでも供をすると誓った。しかし清盛の造った福原の都は、わずか三年で荒れ果てていた。
福原の内裏にも火をかけて船出する平家の一行は、昨日の十万騎から今日の七千人へと減っていた。波の上の白い鳥に都鳥を思い出す結びは、『伊勢物語』の在原業平の東下りを踏まえ、二度と戻れない都への思いを深い哀感とともに描いている。
語釈・文法注
文法
- 「積善の餘慶家に盡き、積惡の餘殃身に及ぶ」
- 『易経』の「積善の家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず余殃あり」を踏まえる。
- 「一樹の陰に宿るも前世の契り淺からず」
- ことわざ。同じ木の陰に宿り合うのも前世からの縁である。
- 「十善帝王」
- 前世に十善を修めた報いで帝位についた天皇。安徳天皇をいう。
- 「臺傾いて苦むせり」
- 底本は「苦」と刷る。「苔」の誤植と見られる。
- 「名もむつまじき都鳥」
- 『伊勢物語』第九段「名にし負はばいざこととはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」を踏まえる。
解説
平家は寿永二年(1183)七月、都を落ちて福原に立ち寄り、内裏に火を放って船で西国へ向かった。福原は治承四年(1180)に清盛が遷都を試みた地で、わずか半年で還都した後は、荒れるにまかされていた。平家はこの後、九州の大宰府へ向かうことになる(巻第八)。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、597–599頁(コマ327–328)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日