平家物語 巻第七
忠度の都落ちの事
都落ちの途中、薩摩守忠度は侍五騎と童一人を連れて引き返し、和歌の師である藤原俊成の家を訪れた。忠度は、勅撰集が編まれるときに一首でも入れてもらえれば草葉の陰でも嬉しいと言って、日ごろ詠んだ秀歌百余首を書いた巻物を俊成に託し、西へ去っていった。のちに俊成は『千載集』を撰んだとき、勅勘の身である忠度の名は伏せて、「故郷の花」の題の一首を「よみ人知らず」として入れた。
- 1薩薩さつ摩摩まののの守守かみ忠忠ただ度度のりはははいづくいづくいずくよりよりよりかかか歸歸かえららられれれたりたりたりけんけんけん、、、侍侍さぶらい五五ご騎騎き、、、童童わらわ一一いち人人にん、、、わがわがわが身身み共共ともにににひたひたひた兜兜かぶと七七しち騎騎き取取とつつっててて返返かへししし、、、五五ご條條じょうののの三三さん位位み俊俊しゅん成成ぜいののの卿卿きょうののの許許もとにににおはしおはしおわしててて見見み給給たまへへえばばば、、、門門もん戸戸こををを閉閉とぢぢじててて開開ひらかかかずずず。。。「「「忠忠ただ度度のり。。。」」」ととと名名な乘乘のりりり給給たまへへえばばば、、、落落おち人人うど歸歸かえりりり來來きたれれれりりりとてとてとて、、、そのそのその内内うちさわぎさわぎさわぎあへあへあえりりり。。。薩薩さつ摩摩まののの守守かみ急急いそぎぎぎ馬馬うまよりよりより飛飛とんんんででで下下おりりり、、、みづからみづからみずから高高たからからからかににに申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「これこれこれははは三三さん位位み殿殿どのににに申申もうすすすべきべきべき事事ことあつあつあっててて、、、忠忠ただ度度のりががが參參まいつつっててて候候そうろう。。。たとひたとひたとい門門もんをををばばばあけあけあけられられられずずずともともとも、、、このこのこのきはきはきわまでまでまで立立たち寄寄よりりり給給たまへへえ、、、申申もうすすすべきべきべき事事ことののの候候そうろう。。。」」」ととと申申もうささされれれたりたりたりけれけれければばば、、、俊俊しゅん成成ぜいののの卿卿きょう、、、「「「そのそのその人人ひとならならならばばば苦苦くるしかるしかるしかるまじまじまじ、、、あけあけあけててて入入いれれれ申申もうせせせ。。。」」」とてとてとて、、、門門もんをををあけあけあけててて對對たい面面めんありありありけりけりけり。。。事事ことののの體體てい、、、何何なにとととなうなうのうものものものあはれあはれあわれなりなりなり。。。
- 2薩薩さつ摩摩まの守守かみ申申もうささされれれけるけるけるははは、、、「「「先先せん年年ねん申申もうししし承承うけたまわつつってててよりよりより後後のちははは、、、ゆめ〳〵ゆめ〳〵ゆめゆめ疎疎そ畧畧りやくををを存存ぞんぜぜぜずずずとととははは申申もうしししながらながらながら、、、このこのこの二二に三三さん箇箇か年年ねんははは京京きょう都都とのののさわぎさわぎさわぎ、、、國國くに々々ぐにのののみだれみだれみだれ出出いででで來來き、、、あまつさへあまつさへあまつさえ當當とう家家けののの身身みののの上上うえにににまかりまかりまかりなつなつなっててて候候そうらへへえばばば、、、常常つねににに參參まいりりり寄寄よるるる事事ことももも候候そうらははわずずず。。。君君きみ既既すでににに帝帝てい都都とををを出出いでででさせさせさせ給給たまひひいぬぬぬ。。。一一いち門門もんののの運運うん命命めい今日今日きょうはははややや盡盡つきききはてはてはて候候そうろう。。。それそれそれにににつきつきつき候候そうらひひいてててははは、、、撰撰せん集集じゅうののの御御ご沙沙さ汰汰たあるあるあるべきべきべき由由よし承承うけたまわつつっててて候候そうらひひいししし程程ほどににに、、、生生しょう涯涯がいののの面面めん目目ぼくににに一一いっ首首しゅなりなりなりともともとも御御ご恩恩おんををを蒙蒙こうぶらららうううととと存存ぞんじじじ候候そうらひひいつるつるつるににに、、、斯斯かかるかるかる世世よののの亂亂みだれれれ出出いででで來來きててて、、、そのそのその沙沙さ汰汰たなくなくなく候候そうろう條條じょう、、、たゞたゞただ一一いっ身身しんのののなげきなげきなげきととと存存ぞんずるずるずる候候そうろう。。。このこのこののちのちのち世世よしづまつしづまつしずまっててて、、、撰撰せん集集じゅうののの御御ご沙沙さ汰汰た候候そうらははわばばば、、、これこれこれににに候候そうろう巻巻まき物物ものののの中中うちににに、、、さりさりさりぬぬぬべきべきべき歌歌うた候候そうらははわばばば、、、一一いっ首首しゅなりなりなりともともとも御御ご恩恩おんををを蒙蒙こうぶつつっててて、、、草草くさののの陰陰かげにてにてにてももも嬉嬉うれしししととと存存ぞんじじじ候候そうらははわばばば、、、遠遠とおききき御御おん守守まぶりりりとととこそこそこそなりなりなり參參まいらせらせらせ候候そうらははわんずれんずれんずれ。。。」」」とてとてとて、、、日日ひ頃頃ごろ詠詠よみみみ置置おかかかれれれたるたるたる歌歌うたどもどもどもののの中中なかににに、、、秀秀しゅう歌歌かとととおぼしきおぼしきおぼしきををを百百ひゃく餘餘よ首首しゅ書書かきききあつめあつめあつめられられられたりたりたりけるけるける巻巻まき物物ものををを、、、今今いまはははとてとてとてうちうちうち立立たたたたれれれけるけるける時時とき、、、之之これををを取取とつつっててて持持もたたたれれれたりたりたりけるけるけるををを、、、鎧鎧よろいののの引引ひき合合あわせよりよりより取取とり出出いでででててて、、、俊俊しゅん成成ぜいののの卿卿きょうににに奉奉たてまつらららるるる。。。
- 3三三さん位位みこれこれこれををを開開ひらいいいててて見見み給給たまひひいててて、、、「「「斯斯かかるかるかる忘忘わすれれれがたみがたみがたみどもどもどもををを賜賜たまはりはりわり候候そうろう上上うえははは、、、ゆめ〳〵ゆめ〳〵ゆめゆめ疎疎そ畧畧りやくををを存存ぞんずずずまじうまじうまじゅう候候そうろう。。。さてさてさてもももたゞたゞただ今今いまののの御御おんわたりわたりわたりこそこそこそ、、、情情なさけももも深深ふこううう、、、あはれあはれあわれももも殊殊ことにににすぐれすぐれすぐれててて、、、感感かん涙涙るいおさへおさへおさえ難難がとうううこそこそこそ候候そうらへへえ。。。」」」ととと宣宣のたまへへえばばば、、、薩薩さつ摩摩まの守守かみ、、、「「「屍屍かばねををを山山さん野野やにににさらささらささらさばばばさらせさらせさらせ、、、うきうきうき名名なををを西西さい海海かいののの波波なみににに流流ながさささばばば流流ながせせせ、、、今今いまはははうきうきうき世世よににに思思おもひひい置置おくくく事事ことなしなしなし。。。さらばさらばさらば暇暇いとま申申もうしししててて。。。」」」とてとてとて、、、馬馬うまにににうちうちうち乘乘のりりり、、、兜兜かぶとののの緒緒ををををしめしめしめててて、、、西西にしをををさしさしさしてててぞぞぞ歩歩あゆままませせせ給給たまふふう。。。三三さん位位み後後うしろををを遙遙はるかかかににに見見み送送おくつつっててて立立たたたたれれれたれたれたればばば、、、忠忠ただ度度のりののの聲聲こえとととおぼしくおぼしくおぼしくててて、、、「「「前前ぜん途途とほどほどほど遠遠とおししし、、、思思おもひひいををを鴈鴈がん山山ざんののの夕夕ゆうべののの雲雲くもににに馳馳はすすす。。。」」」ととと高高たからからからかににに口口くちずさみずさみずさみ給給たまへへえばばば、、、俊俊しゅん成成ぜいののの卿卿きょうもももいとゞいとゞいとどあはれあはれあわれににに覺覺おぼえええててて、、、涙涙なみだをををおさへおさへおさえててて入入いりりり給給たまひひいぬぬぬ。。。
- 4そのそのその後後のち世世よしづまつしづまつしずまっててて、、、千千せん載載ざい集集しゅうををを撰撰せんぜぜぜられられられけるけるけるににに、、、忠忠ただ度度のりのののありありありしししありさまありさまありさま、、、いひいひいい置置おきききししし言言ことののの葉葉は、、、今今いま更更さら思思おもひひい出出いでででてててあはれあはれあわれなりなりなりけれけれければばば、、、件件くだんののの巻巻まき物物ものののの中中うちににに、、、さりさりさりぬぬぬべきべきべき歌歌うたいくらいくらいくらもももありありありけれけれけれどもどもども、、、そのそのその身身み敕敕ちょく勘勘かんののの人人ひとなれなれなればばば、、、名名みょう字字じをををばばばあらはさあらはさあらわされれれずずず、、、故故こ郷郷きょうののの花花はなととといふいふいう題題だいにてにてにてよまよまよまれれれたりたりたりけるけるける歌歌うた一一いっ首首しゅぞぞぞ、、、「「「よみよみよみ人人びと知知しらららずずず。。。」」」ととと入入いれれれられられられたるたるたる。。。
- 5さゞなみさゞなみさざなみややや志志し賀賀がののの都都みやこははは荒荒あれれれにににしししをををむかしむかしむかしながらながらながらののの山山やまざくらざくらざくらかなかなかな
- 6そのそのその身身み朝朝ちょう敵敵てきとととなりなりなりぬるぬるぬる上上うえははは、、、仔仔し細細さいににに及及およばばばずずずととといひいひいいながらながらながら、、、うらめしかりうらめしかりうらめしかりししし事事ことどもどもどもなりなりなり。。。
現代語訳
薩摩守忠度は、どこから帰って来られたのであろうか、侍五騎と童一人、自分ともに鎧兜に身を固めた七騎で引き返し、五条三位俊成卿のもとへ行ってご覧になると、門を閉ざして開けない。「忠度」と名のられると、落人が帰って来たといって、邸の中は騒ぎあった。薩摩守は急いで馬から飛び下り、自ら高らかに申されるには、「これは三位殿に申し上げることがあって、忠度が参ったのです。たとえ門を開けてくださらなくても、この門のきわまでお立ち寄りください。申し上げたいことがございます」と申されたので、俊成卿は「その人ならば差し支えあるまい。開けてお入れせよ」といって、門を開けて対面された。そのありさまは何となくもの哀れであった。
薩摩守が申されるには、「先年和歌のご指導をいただいてからは、決しておろそかには思っておりませんでしたが、この二、三年は京都の騒ぎや国々の乱れが起こり、そのうえ平家の身の上のことになりましたので、いつも参上することもできませんでした。天皇はすでに都をお出になりました。一門の運命は今日もう尽き果てました。それにつけましても、勅撰集の編纂があるとうかがっておりましたので、一生の名誉に一首なりともご恩を受けたいと思っておりましたのに、このような世の乱れが起こって、その編纂がなくなりましたことは、ただわが身一つの嘆きと存じます。この後、世が鎮まって勅撰集の編纂がございましたら、ここにございます巻物の中に、ふさわしい歌がございましたら、一首なりともご恩を受けて、草葉の陰でも嬉しく思いましたら、遠いあの世からお守り申し上げましょう」といって、日ごろ詠みためておられた歌の中から秀歌と思われるものを百余首書き集められた巻物を、今はこれまでと出発されたときに持って出られたのを、鎧の引合から取り出して、俊成卿に差し上げられた。
三位はこれを開いてご覧になって、「このような忘れ形見をいただいたうえは、決しておろそかにはいたしません。それにしても、ただ今のお越しこそ、情けも深く、哀れもことにまさって、感涙を抑えがたいことでございます」とおっしゃると、薩摩守は「屍を山野にさらすならさらせ、浮き名を西海の波に流すなら流せ。今はこの世に思い残すことはない。それではお別れを申します」といって、馬に乗り、兜の緒をしめて、西をさして進んで行かれた。三位が後ろ姿をはるかに見送って立っておられると、忠度の声と思われて、「前途は遠い。思いを雁山の夕べの雲に馳せる」と高らかに口ずさまれたので、俊成卿もいっそう哀れに思われて、涙をこらえて邸に入られた。
その後、世が鎮まって『千載集』を撰ばれたとき、忠度のありし日の姿や言い残した言葉を今さらのように思い出して哀れであったので、あの巻物の中にふさわしい歌はいくらもあったが、勅勘を受けた身なので名を表さず、「故郷の花」という題で詠まれた歌一首を、「よみ人知らず」として入れられた。
さざ波の寄せる志賀の古い都は荒れ果ててしまったが、長等山の山桜は昔のままに咲いていることよ。
その身が朝敵となってしまったうえは、とやかく言うまでもないとはいいながら、恨めしいことであった。
意訳
『平家物語』の中でも特に名高い章段である。都落ちのさなかにわざわざ引き返して、歌の師俊成に自作の歌集を託す忠度の姿は、武人でありながら歌の道に命をかけた風雅な心を伝えている。
「前途ほど遠し」と吟じて去る忠度の後ろ姿と、名を伏せて「よみ人知らず」として歌を入れた俊成の配慮とが、深い余韻を残す。忠度はのちに一の谷で討死し、その箙からも和歌が見つかったと語られる(巻第九「忠度最後の事」)。
語釈・文法注
文法
- 「ひた兜」
- 全員が兜をかぶり、武装していること。
- 「さりぬべき歌」
- ふさわしい歌。勅撰集に入れるにたる歌。
- 「遠き御守り」
- 死後、あの世から遠くお守りすること。
- 「前途ほど遠し、思ひを鴈山の夕の雲に馳す」
- 『和漢朗詠集』に収める大江朝綱の詩句。
- 「存ずる候」
- 底本のまま。「存じ候」の意。
和歌
さゞなみや志賀の都は荒れにしをむかしながらの山ざくらかな
- 詠者
- 平忠度
- 状況
- 「故郷の花」という題で詠んだ歌。俊成が『千載和歌集』に「よみ人知らず」として入れた。
修辞
- 枕詞
- 「さゞなみや」は「志賀」にかかる。
- 掛詞
- 「ながら」に「昔ながら(昔のまま)」と「長等山」をかける。
解説
平忠度(1144〜1184)は清盛の異母弟で、藤原俊成に和歌を学んだ。『千載和歌集』(1188年成立)に「よみ人知らず」として入れられた「さざなみや」の歌は忠度の作と伝えられる。この話は謡曲「忠度」の題材ともなった。
関連
出典
- 底本
- 『校註日本文学大系』第14巻(平家物語) 国民図書、大正14年(1925)、586–588頁(コマ322–323)。国立国会図書館デジタルコレクション
- 校訂・訳・注
- 古典ライブラリー編集部
- 更新日